平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



息障院(そくしょういん)は、源範頼の居館跡に指定(県史跡)されています。
最寄りの東松山駅。

範頼(源義朝の6男)の母は、遠江国池田宿の遊女(『尊卑分脈』)。
遠江国蒲御厨(かばのみくりや=浜松市)に生まれたため、
蒲冠者(かばのかじゃ) とも呼ばれています。

藤原兼実の日記『玉葉』元暦元年9月3日条によると、
「くだんの男(範頼)、幼稚の時、範季の子として養育」とあり、
いかなる縁かは定かではありませんが、
藤原範季(のりすえ)の養子となっていたという。
「範」という字は元服の際、範季からもらったものと思われます。

範季は藤原氏では傍流の南家貞嗣流に属し、
藤原兼実の家司(けいし)であり、平清盛の弟教盛の娘を妻として
嫡男範茂を儲け、その妻に平知盛の娘を迎えています。
源氏の御曹司の範頼を養子にする一方、
平氏とも親しい関係にありました。

平氏没落後、養育した尊成(たかなり)親王(安徳天皇の異母弟)が
後鳥羽天皇として即位したことから権力を握り、
後に娘範子(はんし)を後鳥羽天皇に入内させています。

平治元年(1159)の平治の乱に敗れ、殺害された
義朝の子たちは、それぞれに源氏再興の機会を待ちました。

範頼は頼朝の乳母比企尼に救われ、息障院から
500mほどのところにある吉見観音として知られる
坂東札所11番の安楽寺(真言宗)の稚児僧に
身をやつして潜みました。(『吉見町町勢要覧』)

後に領主となってから高さ33mの三重の塔や
大御堂を寄進したといわれています。
これらの建物は戦国時代の兵火にかかって焼失し、
現在の本堂や三重の塔は、江戸時代に再建されたもので、
安楽寺と敷地続きで一体化していた息障院は、
寛永年間(1624~44)に現在地に移りました。

一説には、範頼ののち5代の子孫が吉見氏を名のって居館を構えていたため、
息障院を御所と呼ぶようになったと言われています。



真言宗智山派岩殿山息障院。





正面の白塀の外側には、豪族の屋敷跡にふさわしい空濠があります。


息障院(そくしょういん) 所在地 比企郡吉見町大字御所
当山は、真言宗智山派に属し、岩殿山(いわどのさん)息障院光明寺と称する。
開創は古く、天平年中(730年ごろ)行基菩薩によるといわれている。
また、大同年中(806年ごろ)坂上田村麻呂将軍の開基によるとも伝えられている。
古くは吉見護摩堂と称し、天慶の乱の折、平将門調伏の護摩を修し、
その功により息障院の号を下賜されている。

現在の境内地は源範頼の館跡といわれ、県の指定旧跡となっている。
本尊は不動明王であり、平安時代末~鎌倉初期のもので
定朝様式を伝える傑作といわれ、県指定の有形文化財である。
当山の全盛期は、戦国時代末期から江戸時代で、
その当時は末寺百二十余が寺を数え、隆盛を極めたものである。
平成十三年三月  吉見町・埼玉県(現地説明板より)



本堂  本尊不動明王坐像(県指定重要文化財)
 
源範頼の墓(浜松市龍泉寺) 
『アクセス』
「息障院」埼玉県比企郡吉見町御所 
東武東上本線東松山駅からタクシーで約25

『参考資料』

新版「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1991年 
菱沼一憲編著「中世関東武士の研究 源範頼」戒光祥出版、2015
元木康雄「歴史文化ライブラリー 源義経」吉川弘文館、2007

 



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左手に見えるのは、JR熊谷駅北口ロータリー広場に建つ熊谷次郎直実のブロンズ像。
北口から朝日バス「太田駅行・西小泉駅行」または「妻沼(めぬま)行」に乗車。

「井殿橋」停下車 西へ約400m(福川沿いに進みます)



埼玉県大里郡妻沼町西野村(現、熊谷市西野)は、利根川右岸の氾濫原
(河川の氾濫によって形成)に位置し、北部を福川が東流しています。
この地は斎藤実盛のゆかりの地で、福川右岸の古くから堀の内と称され
実盛館跡と伝えられる地に実盛塚があります。



 
熊谷市指定文化財
 一、種別 史跡
 一、名称 斎藤氏館跡実盛塚
 一、指定年月日 昭和五十二年九月十三日

 福川の河川改修等により形状が変わっているが古代長井庄の
中心的な位置にあたり水堀の跡や出土品のほか、古くから
「この辺、堀内という所は長井庄の首邑にて実盛の邸跡なり」との伝承や、
長昌寺の椎樹にまつわる口碑その他史実などからして大正15年3月
埼玉県指定史蹟「斎藤実盛館跡実盛塚」として指定されたが、
何時の日か誤って「史蹟実盛碑」となったため
昭和38年に県指定史蹟を解除された。 中央に残る板碑は、
実盛の孫である長井馬入道実家が死去しその子某が
建てた供養塔である。  熊谷市教育委員会  実盛館跡史跡保存会

実盛塚には板碑が建っています。
板碑とは、中世に多く使われていた板状の石で造った卒塔婆です。
13C前半(鎌倉時代)に発生し17C(江戸時代)に入ると消滅します。

正嘉(しょうか)元年(1257)

「長井庄斎藤別当実盛館阯」側面には「大正十五年十月十五日建之」と彫られています。

斎藤 実盛(?~1183)は斎藤実直(さねなお)の子で、
祖父実遠(さねとお)の猶子となりました。越前国の出身で、
後に武蔵国長井庄(埼玉県熊谷市)に移住し源為義・義朝父子に仕え、
久寿2年(1155)の大蔵合戦で悪源太義平(義朝の長子)が
おじの源義賢(よしかた=義朝の弟)を討った際、義平から義賢の遺児
駒王丸(義仲)の殺害を命じられますが、幼子を殺すに忍びず、
木曽の豪族中原兼遠にその身柄を預けました。

平治の乱(1160)では、義朝軍に加わり、待賢門の戦いで
義平麾下(きか)十七騎の一として奮戦しました。
東国に敗走する途中、義朝は琵琶湖畔の瀬田で郎党らに暇を出し、
実盛は長井庄へ帰り、義朝の没後は平宗盛に仕えることになりました。
やがて源頼朝が挙兵し、武蔵武士の多くが頼朝に帰属しましたが、
一旦の恩義を思って態度を変えず平家に属しました。その後、
木曽義仲追討軍に参加、越前篠原の戦いで死を覚悟していた実盛は、
錦の直垂を着け髪を黒く染めて一人踏みとどまり、壮烈な最期を遂げました。
実盛は荘園を管理し武蔵国に住むとはいえ、もとは越前国の生まれ、
「故郷には錦を着て帰れ」ということわざ通リ、平宗盛から錦の着用を特別に許され、
大将軍かと見まがうばかりの赤い錦の直垂を着て戦場に現れたのでした。

『平家物語絵巻 実盛最期の事』より転載。
床几に座る義仲に手塚太郎光盛(首の右)が首を差し出し、
実盛と旧知の樋口兼光(首の左)が、その首を実盛と確認した場面です。


かつて実盛が一命を助けた義仲(駒王丸)が挙兵し、
実盛は義仲と敵味方に別れて戦うことになりました。

駒王丸を助けて28年後のことです。
倶利伽羅峠で大勝利した義仲は加賀篠原で再び平家軍と戦い、
平家はここでも惨敗を喫しました。平家一門みな敗走する中を
とっては返して戦う武者がいました。
義仲勢の中から手塚太郎が進み出て奮戦の末、
その首を討ち取り、義仲の陣中に運びました。
むざんやな甲の下のきりぎりす(小松市多太神社)  
木曾義仲が奉納した斉藤別当実盛の兜が残る多太神社。
篠原古戦場(首洗池・実盛塚)  
『アクセス』
「斎藤実盛館跡実盛塚」埼玉県熊谷市西野
『参考資料』
「埼玉県の地名」平凡社、1993年 「埼玉大百科事典」埼玉新聞社、昭和50年 
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年
林原美術館「平家物語絵巻」クレオ、1998年 
日下力「いくさ物語の世界 中世軍記文学を読む」岩波新書、2008年 
関幸彦編「武蔵武士団」吉川弘文館、2014年 「平家物語を知る事典」東京堂出版、2006年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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渋谷駅近くの金王八幡宮には、金王丸を祀る金王丸御影堂があります。
金王丸(こんのうまる)は源義朝の童(貴人に仕える元服前の子供)として、
義朝のそば近くに仕え、義朝の死後は出家し、
諸国を行脚し主の菩提を弔ったとも、土佐坊昌俊(しょうしゅん)と
名を変え頼朝に仕えたともいいますが定かではありません。

土佐坊昌俊は頼朝と弟の義経が対立した時、頼朝の命を受け
御家人の誰もが嫌った義経暗殺の刺客となって京都に上り、
義経の堀川館を夜討ちにしましたが、返り討ちにあい逃げ込んだ
鞍馬山で、義経の郎党に捕らえられ六条河原で処刑されました。
これは後に幸若舞曲『堀河夜討』の題材となり、長谷川等伯は70歳の時、
北野天満宮奉掛の『弁慶昌俊相騎図(そうきず)絵馬』
(土佐坊昌俊を引き立てる弁慶)を描いています。

東国へ落ちのびる義朝主従(大和文華館蔵)
 『平治物語絵詞』より転載。  一行のしんがりをつとめる金王丸

義朝は平治の乱で敗走の途中、尾張国野間の重代の家人
長田忠致(ただむね)を頼りますが、長田父子の裏切りにあい
湯殿で討たれました。金王丸は預かっていた主君の太刀で下手人の
郎党二人を切殺し、忠致を追いましたが逃げられ、庭の馬を奪って
上洛し、常盤御前に義朝の最期を事細かに報告しています。
その後、悪源太義平が生け捕られて処刑され、頼朝は敗走途中、
義朝一行から落伍した後、美濃国青墓宿で頼盛の郎党、
弥平(やへい)兵衛宗清に捕えられ都に連行されます。

こうした状況を受け、常盤御前は三人の子供たちを連れて
身をかくそうと都を落ちていきます。

社殿の右手にある社務所で金王丸の絵馬をお願いすると、
「ちょっと年をとっているのですが」と
申し訳なさそうに言いながら出してくだったものです。
土佐坊昌俊(土佐坊昌俊邸址)  

平安時代末期から鎌倉期にかけて、渋谷の地を支配したのは、
相模渋谷荘(現、神奈川県綾瀬市付近)を本拠とした渋谷氏です。
寛治6年(1092)、渋谷氏の祖河崎基家(渋谷重家の父)が
後三年の役の功により、谷盛(やもり)庄(現、渋谷付近)を
賜った折り、現在の金王八幡宮付近に渋谷城を築き、
重国(重家の子)の次男高重が宇佐八幡を勧請し、
城内に渋谷八幡宮を創建しました。(『金王八幡神社略記』)
のち金王丸の名声により
金王八幡宮と称するようになったという。

金王丸は『金王八幡宮社記』によると、重家の子とされていますが、
相模国渋谷氏の系図は、金王丸を重家とするもの、
重家の子の重国とするもの、重国の弟や重国の子とするものなど
数多くあり、金王丸が実在の人物であったのかどうかも
明らかではありません。

江戸時代になると、金王丸を題材にした謡曲、浄瑠璃、
歌舞伎、義太夫などの芸能・文芸作品が流行し、
金王八幡宮は江戸庶民の遊興地として賑わいました。

斎藤実盛の本拠地長井庄(現、埼玉県熊谷市妻沼町)の帰り、
2018年11月3日、金王八幡宮に参拝しました。
11月に入り、日が落ちるのが早くなり、さらに渋谷駅に着く頃には、
雨が降り始めてうす暗くなってきました。

江戸名所図会 金王八幡社(第31図)   『江戸切絵図と東京名所絵』より転載

「金王神社前」交差点の先に表参道の大鳥居が立っています。



石段を上った鳥居の先が神門です。

祭神は、応神天皇 (品陀和気命=ほんだわけのみこと)、
創建は平安時代中期の寛治6年(1092)です。
現在の社殿と神門は、徳川家光が世継に決定した時、
家光の乳母春日局と養育役であった青山忠俊が報恩のため造営しました。
ともに渋谷区有形文化財の指定を受けています。


社殿の右手にある金王桜は長州緋桜という種類で、
一枝に一重と八重が混ざって咲く珍しい桜です。


当八幡宮の『社傳記』によれば、文治5年7月7日(1189)源頼朝が
藤原泰衡退治の凱陣の折り、渋谷高重(重国の次男)の館に立ち寄り
当八幡宮に太刀を奉納された。その際金王丸御影堂に親しく参られ、
父義朝に仕えた金王丸の誠忠を偲び、その名を後世に残すべしと厳命、
鎌倉亀ケ谷の館にあった憂忘桜(うきわすれさくら)をこの地に移植させ
金王桜と
名付けられたとされる。また、江戸時代盛んに作られた地誌にも紹介され、
江戸三名桜の一つと数えられた。金王桜は、現在に至るまで実生により
育て植え継がれている。  (渋谷区指定天然記念物


金王桜の傍には、弟子たちに建立された芭蕉の句碑があります。
♪しばらくは 花のうえなる 月夜かな 
(満開の桜の上に月が上った。しばらくは月下の花見ができそうだ。)



金王丸御影堂  祭神:渋谷金王丸常光 
金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し
母に形見として残した木像が納められています。



金王丸の木像 金王八幡宮HPより転載
3月最終土曜日に催される金王丸御影堂例祭(金王桜祭)で開帳されます

境内の西側にも参道と鳥居があり、その脇に案内板がたっています。







社殿横の神楽殿 神楽殿手前にある玉造稲荷神社

渋谷金王丸の墓(神奈川県綾瀬市長泉寺)  
『アクセス』
「金王八幡宮社務所」 Tel.03-3407-1811 Fax.03-3409-1043
東京都渋谷区渋谷3-5-12 
例祭 9月14日

JR・東京メトロ・東急東横線・田園都市線・京王井の頭線
「渋谷駅」16C出口より徒歩5分
『参考資料』
「郷土資料事典」ゼンリン、1997年 「東京都の地名」平凡社、2002年 
 「平治物語絵詞」中央公論社、1994年 
日下力「古典講読シリーズ 平治物語」岩波書店、1992年
 日下力「平治物語の成立と展開」汲古書院、1997年 
 「江戸切絵図と東京名所絵(金王八幡社・第31図)」小学館、1993年
「金王八幡宮参拝の栞」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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比企一族の墓は鎌倉の妙本寺にありますが、比企郡川島町の金剛寺にも後世の一族の墓があります。

比企尼は頼朝が伊豆に流罪となり、孤立無援の少年を二十年もの長い間、
陰になり日向になり、援助の手を差しのべた頼朝の乳母です。比企尼の甥で、
家督を継いだ能員((よしかず)も、頼朝の鎌倉幕府成立に功績を挙げ、
娘の若狭局を二代将軍頼家の側室にするなど、一族は頼家の後ろ盾となりましたが、
頼家が重病に陥るとその弟の実朝を担ごうとした北条氏との対立が深まり、
建仁2年(1203)の比企の乱で能員は殺され、能員の嫡男余一兵衛尉は
女人姿で逃れる途中討たれ、四郎宗員は自害し、一族は滅ぼされました。
しかし、その後の一族の弾圧にもかかわらず生き残る者がいました。

能員の末息で鎌倉妙本寺を開いた比企大学三郎能本(よしもと)と
将軍頼経の妻竹之御所(能員の孫)それに四郎宗員の息の員茂(寺泊兵衛)です。
岩殿観音(東松山市大字岩殿)に逃げのびた母親が民家において
員茂(かずしげ)を生み、岩殿山観音別当が養育しました。
16歳の時に伯父の東寺の円顕を頼って上洛し、能本の尽力により、
後鳥羽天皇の第三皇子順徳天皇を警護する北面武士となりました。

順徳天皇が父の鎌倉幕府打倒計画 (承久の乱)に参画し
佐渡に流されると、それに従って越後国寺泊に居住し、天皇崩御の後、
息子の比企員長(寺泊小太郎)を連れて比企郡に戻ったとされています。
当時、鎌倉四代将軍は頼経でした。その妻竹之御所の母は、能員の娘
若狭局でしたから、比企、高麗、吉見の三郡は竹之御所の領地となり、
員長は中山村に居住したという。

安田元久氏は、「13C始めの頃までの比企郡はかなり狭い地域であり、
現在の比企郡川島町と東松山市の区域だったとし、比企掃部允や
比企尼が帰住したと
伝えられる中山郷については、現在も
川島町西部の越辺川の左岸地区に中山の
地名が残るので、
その地域であったと推定されると述べておられます。」(『武蔵の武士団』)
ということは、平治の乱後、比企尼は比企郡川島町中山に戻り、
ここから伊豆の頼朝に食料や衣料などを届けたということになります。

JR川越駅前からバスで金剛寺へ



上中山バス停







比企一族は金剛寺の付近一帯に館を構えていたと考えられています。
『金剛寺略縁起』によると、金剛寺は天正年間(1573~1593)に
比企左馬介則員(のりかず)が中興したと伝えています。

本堂 
本尊の
阿弥陀如来像は鎌倉時代の作(町指定有形文化財)
「願主比企左馬助藤宗則」の銘があります。

金剛寺本堂新築記念碑



大日堂・比企氏墓地・鐘楼堂への案内



大日堂には、比企一族の位牌が納められ、その裏には江戸時代の
比企家二十代目則員(のりかず)の墓から現代に続く一族の墓所があります。
大日堂は則員の子で徳川家の家臣となっていた義久が建てたとされ、
一族の位牌が納められています。

則員は槍の名手として知られ、武蔵杉山城主上田上野介に仕えますが、
杉山城落城後、比企郡に蟄居したいましたが、
その名が徳川家康の次男結城秀康の耳に達して召しだされました。













比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡  

『アクセス』

「金剛寺」埼玉県比企郡川島町中山1198番
JR川越駅前から八幡団地行きまたは東松山駅行きバスに乗車約40分
「上中山」バス停下車北東600m
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年 
「姓氏家系大辞典」角川書店、昭和38年








 



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東松山市の北部、滑川町にある武藏丘陵森林公園の東方に比企氏の史跡があります。





バス停森林公園南口

森林公園南口から東へ徒歩約55分、「比丘尼(びくに)山」とよばれる美しい丘があります。
比企遠宗の妻比企局が夫の死後、尼となってここに庵を結び
大谷山寿昌寺(じゅしょうじ)を創立し、
源頼家の死後、比企能員(よしかず)の娘若狭局(頼家の側室)が、
この地に移り住み草庵を結んだとされています。


その途中に「上郷集会所前」のバス停があります。

ここから3分ほど歩くと、扇谷山宗悟寺(曹洞宗)の山門が見えてきます。





寺伝によると、天正20年(1592)に鎌倉二代将軍源頼家の菩提を弔うため、
森川金右衛門氏俊が宗悟寺の西にある寿昌寺を当地に移して
自身の法名宗悟居士からとって宗悟寺(そうごじ)
と改め、
代々の菩提寺としたとされています。
なお、寺には若狭局が持参したと伝えられる頼家の位牌が残されています。

江戸時代の旗本森川氏俊は岡崎で徳川家康に仕え、文禄1年(1592)に
この地を領地として治め、寺の裏には森川氏の立派な墓が並んでいます。

山門を潜ると左手に比企一族顕彰碑が建っています。
「平安時代末期から鎌倉時代初期に亘る約百年の間郡司として
比企地方一帯を支配し、一族を挙げて源頼朝公を援け
鎌倉武家政権創立の原動力として大きな役割を果たした比企氏の足跡は、
その広さと歴史的意義において正に私たちの郷土の歴史の原点であります。(以下略)

平成六年十一月吉日 比企一族顕彰碑建設委員会 清水清撰文 吉田鷹村書」

本堂



宗悟寺の東の谷、城ヶ谷(じょうがやつ)の丘陵上に比企能員の館があったと
いわれていますが、現在遺構は残っていません。ただこの近くには、
修善寺谷、梅ヶ谷、扇ヶ谷、比丘尼山などの地名が残っています。

宗悟寺西方、比丘尼山の麓には、若狭局が頼家の命日に
形見の櫛を沈めたという串引沼があります。
 









伊豆修善寺町の篤志家より贈られた頼家桜



比丘尼山





金剛寺(比企氏一族の菩提寺)  
比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡  
『アクセス』
「宗悟寺」埼玉県東松山市大字大谷400
東武東上線「森林公園駅」前から川越観光バスに乗り、森林公園南口下車徒歩約45分
運行は土日のみ、1時間に2~4本
「比丘尼山」宗悟寺から西へ700㍍
『参考資料』
「埼玉県大百科事典」埼玉新聞社、昭和56年 
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
 「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年





 



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以仁(もちひと)王の令旨が諸国の源氏蜂起の引き金となり、治承4年(1180)8月、
頼朝が伊豆で挙兵すると、ほどなく木曽義仲も立ち上がりました。
義仲が北陸道に進軍する前、頼朝軍が上野(群馬県)と信濃(長野県)境の
峠を越え、信濃国で両者は一触即発の事態となりましたが、
義仲が嫡男清水冠者義高を頼朝の許に遣わすことで和解が図られました。

寿永2年(1183)7月、義仲は源氏勢の中で最初に都に入りましたが、
やがて後白河院と対立して義仲追討の院宣が出され、
鎌倉勢に攻撃され生涯を終えました。
義高は頼朝の娘大姫の許嫁として迎えられていましたが、
父が頼朝に討たれると、鎌倉を逃亡し頼朝の放った追手堀親家の郎従藤内光澄に
入間河原で追いつかれ悲運の生涯を終えたと『吾妻鏡』に記されています。

鎌倉から北上し、鎌倉街道を町田、府中、所沢を経て
ここまで逃れてきた義高の心情が哀れです。

昔、「八丁の渡し」と呼ばれる浅瀬があり、この渡しは鎌倉街道が
入間川を渡るところにあったといわれています。
渡しといっても渡し舟ではなく、浅瀬を徒歩で渡ったのです。
義高は「八丁の渡し」にさしかかったところで討たれ、
「八丁の渡し」が義高終焉の地と推定されています。

『新編武蔵国風土記稿』によると、入間川右岸の入間川村(現、狭山市入間川1~4、
富士見1~2など)は、中世、鎌倉街道上道(かみつみち)が通り、
子(ね)ノ神で入間川を渡河していたという。


また『広報さやま』によると、「八丁の渡し」は、
市内に二ヵ所あるとされ、一つは、子(ね)ノ神を下り、
本富士見橋周辺の中島辺、もう一つは下流の奥富の前田、
入間川堤防に建つ九頭龍大権現の石仏辺から柏原へ渡る浅瀬です。

そこで子之神社前の坂から入間川へ下ります。






 
入間川右岸  手前の道は、入間川に沿って走るサイクリングロードです。

近くの歩道橋から眺めた「八丁の渡し」があった辺り



国道16号線から新富士見橋を渡って1㎞ほど行くと奥州道という交差点に出ます。



新富士見橋側道橋
晴れた冬の寒い日には、この橋から富士山がよく見えるそうです。

八丁の渡りがあった辺の河川敷の風景を眺めながら橋を渡ります。





奥州道交差点の坂を少し上った傍らにある影隠(かげかくし)地蔵は、
頼朝の追手に追われた義高が、道端の地蔵尊の背後に身を潜め、
難を逃れようとしたといわれています。

ゆるやかな坂を上っていくと、木陰の中に赤い帽子とよだれかけが見えてきます。

『新編武蔵国風土記稿』によると、この石の地蔵は、
現在地より入間川よりの上広瀬側の地蔵堂に木像の地蔵としてあったという。

「影隠地蔵 市指定文化財 史跡
 所在地 狭山市柏原二0四-一 指定年月日 昭和五十二年九月一日
 この地蔵尊が影隠地蔵と呼ばれるのは、清水冠者義高が追手(おって)に
追われる身となったとき、難を避ける目的で、
一時的にその姿を隠したためといわれています。
義高は源義仲(木曽義仲)の嫡男で、義仲が源頼朝と対立していた際、
和睦のために人質として差し出され、頼朝の娘である大姫と結婚しました。
政略結婚とはいえ二人は幼いながらも大変仲がよかったと伝えられています。
その後、義仲と頼朝は再び対立し、後白河法皇の命を受けた頼朝は、
弟範頼・義経の軍に義仲の討伐を命じ、義仲は敗れて討たれました。
義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで鎌倉からのがれ、
父義仲の出生地でもあり関係の深かかった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町か、
生まれ故郷である信濃国(長野県)へ向いました。
しかし、頼朝は将来の禍根(かこん)を恐れ、娘婿の義高に追手を放ちました。
命を狙われた義高は元暦(げんりゃく)元年(一一八四)四月、
この入間川の地まできたときに、追手の堀藤次親家らに追いつかれ、
一度はこの地蔵尊の陰で難をのがれたものの、ついには捕えられ、
藤内光澄に斬られたといわれています。地蔵尊はかつて木像で地蔵堂があり、
その中に安置されていました。道路の拡張により現在の場所へ
移動していますが、過去にも入間川の氾濫で幾度か場所が移動していると思われます。
また、石の地蔵尊になったのは明治七年(一八七四)のことで、
明治政府がとった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により
木像の地蔵が処分されたためと考えられています。不明な部分もありますが、
義高の悲劇をあわれんだ村人が建てたともいわれているなど、
変わり行く時代の中でも影隠地蔵はその歴史を後世に伝えています。
 (清和源氏略系図・桓武平氏略系図は省略しました)
 平成二十四年三月 狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会」(現地説明板より)

影隠地蔵前に建つ石橋供養塔には、
四面に「南江戸、東川越、北小川、西八王子」と刻まれ道標となっています。

「歴史の道  鎌倉街道(かまくらかいどう)
 鎌倉幕府の成立とともに整備されたといわれる中世の道「鎌倉街道」は、
武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ新田義貞等多くの武将たちが、
その栄枯盛衰の物語を踏みつけた道として、また、さまざまな文化の
交流の場として利用され、狭山市の歴史の展開に大きな役割を果たした道です。
 狭山市内を通過する鎌倉街道の伝承路は、児玉方面(群馬県藤岡方面)に向かう
通称「上道」があり、上道の本道(入間川道)と分かれた鎌倉街道には、
堀兼神社前を通る道があります。このほか、「秩父道」などと
呼ばれる間道や脇道もあります。
また、逆に「信濃街道」 「奥州道」といった
鎌倉から他国への行き先を示した呼び方もあります。
 狭山市」

鎌倉を脱出した義高はいったい何処へ逃げるつもりだったのでしょう。
鎌倉街道をこのまま進めば、武蔵嵐山までは30㎞ほどの距離です。

埼玉県比企郡嵐山町では、義高の母は山吹とし、同町の班渓寺(はんけいじ)は、
山吹がわが子義高の菩提を弔うために建立したとしています。
境内には山吹姫の墓もありますが、同寺に残る山吹の位牌やその戒名
「威徳院殿班渓妙虎大姉」の形式が江戸期のものであることから、
山吹がこの地で亡くなったという伝承は、近世以降に創造されたものと思われます。

頼朝と義仲は従兄弟にあたります。
義仲の父義賢(よしかた)は義平(義朝の子)と勢力争いの末、
武蔵大蔵館で合戦に敗れて討死し、
2歳の駒王丸(義仲)は、畠山重能や斎藤実盛に助けられ、
中原兼遠を頼って木曽に逃れ、そこで養育されます。

嵐山町に縁があるのは、義高の父木曽義仲や祖父の源義賢です。

義高が鎌倉街道上道を北上したのは、入間川の先には、義仲と最後まで
行動をともにした多胡家兼の本拠地上野国(群馬県)多胡庄があるので、
そこまで逃げれば義仲の旧臣がかくまってくれると考えたのであろう。
(『源頼政と木曽義仲』)
ちなみに義仲の父義賢(よしかた)は、一時多胡館に住み、
義仲は挙兵後、父の旧領である多胡郡を訪れています。

義高と大姫の悲話は、御伽草子『清水冠者物語』の
題材となり、広く知られるようになりました。
この物語では、義高は奥州藤原氏を頼って落ちる途中、那須野ヶ原で
追手に捕えられ、鎌倉の小坪の浜で処刑されたことになっています。

清水冠者の「清水」の由来は、義高の乳母の出身地と伝わる
善光寺近くの箱清水、それに義高生誕地とも伝えられる
松本市丸子町の「正海清水」などと推測されています。

「歴史の道」の説明板横には、信濃坂と記された木標がたち、
この坂が義高の故郷信濃に続く道であることを物語っています。

義仲の残党が甲斐・信濃等に隠れ、謀反を企てているとの情報があり
頼朝は甲斐、信濃国に大規模な軍兵の派遣を命じ、残る残党を一掃しました。
清水冠者義高の悲劇を伝える清水八幡宮  
『アクセス』
「影隠地蔵」埼玉県狭山市柏原69付近
狭山市駅西口から西武バス「奥州道」下車徒歩1分
「子(ね)之神社」狭山市入間川3丁目24番付近
『参考資料』
「埼玉県の地名」平凡社、1993年 「木曽義仲のすべて」新人物往来社、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年
伊藤悦子「木曽義仲に出会う旅」新典社、2012年  
永井晋「源頼政と木曽義仲」中公新書、2015年





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埼玉県狭山市の国道16号線沿いの「本富士見橋」近くに、
「清水冠者源義高終焉の地」の案内板がたっています。

西武新宿線狭山市駅



国道16号線

清水八幡宮の傍を流れる入間川






狭山ロータリークラブによる案内板



清水八幡は市指定文化財で、毎年5月の第3土曜日に大祭が行われます。

拝殿、本殿、下諏訪自治会館

祭神 木曽清水冠者義高
本殿には、永享2年(1430)の石祠が安置されています。

『清水八幡宮由来記』によると、
治承4年(1180)源義仲は以仁王の令旨を掲げて挙兵し、北陸道を
京へ攻め上る直前、対立状態にあった頼朝との戦争を避けるため、
嫡男の清水冠者義高を人質として鎌倉に差しだし、両者は和解しました。
義高は頼朝の娘大姫の許嫁となり、同じ御殿に仲睦まじく暮らしていました。

その後、義仲は北陸道で平家に大勝し、京都に入りましたが、
義仲の粗野で傍若無人の振る舞いが都人に嫌われ、後白河法皇は
政治的パートナーとして義仲を見限り、源頼朝に義仲追討の宣旨を出しました。
これを受けて義仲を討伐した頼朝は、その息子義高を放置することもできず、
「娘をくれてやるのも無駄なこと、折をみて小冠者を片付けろ」と命じました。
侍女がこの密談を聞き、大姫の御殿に駆けつけ政子や大姫らに告げました。
政子は義高を助けようと、義高に大姫の衣装を着せて女装させ、
夜に紛れて従者6名をつけてこっそり逃がしました。

元暦元年(1184)4月、鎌倉を脱出した義高は、武蔵嵐山を目ざし
鎌倉街道に沿って府中・所沢を過ぎ、入間川の八丁の渡しに出た時、
頼朝が追手として送った堀親家の郎党藤内光澄に討たれました。
それを哀れに思った村人が亡骸を埋めて塚を築き、ケヤキの木を植えたという。
その後、北条政子の庇護により、社殿が築かれ清水八幡宮と崇め、
自ら入間川の地に来て供養をし、神田を寄進しました。
社殿は朱の玉垣を巡らせた壮麗なものでしたが、
応永9年(1402)8月の入間川の大洪水で社殿と社地を失いました。
元の場所は不明ですが、
昭和34年(1959)10月、現在の地に社殿が再建されました。

頼朝はかつて父義朝が起こした平治の乱に敗走中、
雪道に迷い父とはぐれてしまい、辿りついた青墓で平宗清に捕われました。
死罪になるはずのところを清盛の継母池禅尼の命乞いによって
危うく命を助けられた頼朝は、伊豆に配流となり、挙兵するまでの
二十年もの間、北条氏などに監視される流人生活を送りました。
自らの事を振り返り、成長してからの義高の復讐を恐れ、
生かしておけなくなりました。
影隠地蔵(清水冠者義高)  
 鎌倉市常楽寺に義高の墓と伝わる塚があります。
清水冠者義高の墓(常楽寺) 
 大姫を野辺送りした地に建つ岩船地蔵堂  
『アクセス』
「清水八幡宮」埼玉県狭山市入間川3丁目35番付近
西武新宿線「狭山市駅」より徒歩約20分

 

 



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石橋山合戦で敗れた頼朝は、真鶴から小舟で海上を安房に逃れて態勢をたて直し、
房総半島を北上しながら次第に軍勢の数を増やし、
上総(千葉県中部)・下総(千葉県北部と茨城県南部)の武士を束ねて武蔵へ入りました。

畠山重忠はじめ河越重頼・江戸重長らの秩父一族は、当初、源氏に反旗を翻したので、
頼朝が再起して武蔵国に入ったときは苦境に陥りましたが、頼朝の勢威を見て、
そろって長井の渡(現、東京都荒川・台東区付近)に出かけ頼朝に服従を誓いました。

小坪合戦、続く衣笠合戦で三浦一族と戦った秩父一族を、源氏勢は到底
受け容れることができませんが、平維盛が東国に出陣するという情勢下、
このような大武士団を敵にまわしては、
折角回復してきた勢力が頓挫してしまうと、
頼朝は畠山重忠らに遺恨のある三浦一族に言い聞かせ勢に加えました。

『源平盛衰記』によると、この時、重忠は「平氏は一旦の恩、佐殿(頼朝)は
重代相伝の君なり。」三浦氏との合戦は、私の望みではなく、
平氏の恩を返すためのもので、その恩は果たした。今は佐殿(すけどの)に
忠誠を誓うと述べ、先祖伝来の白旗を持って帰順しました。
この白旗は後三年合戦の時、
先祖の秩父(平)武綱が八幡太郎義家より賜って先陣を務めたもので、
大蔵合戦では、父重能(しげよし)がこれを掲げ、勝ち運を招いた
縁起のよい旗であると云って頼朝を喜ばせました。

重忠を先陣として、頼朝が大軍を率いて鎌倉入りしたのは、
治承4年(1180)10月、石橋山敗戦の僅か40日あまり後のことです。
重忠に先陣させることで、平家方であった武蔵の大武士団
秩父一族を組み入れたことを広くアピールする意味もありました。
名誉の先陣を務めた重忠は、その後、北条時政の娘を妻に迎え、
名実ともに鎌倉幕府の有力御家人となっていきます。

重忠は清廉実直、知性と武勇を兼ね備えた武将と評価されていますが、
そんな性格の彼にも思わぬ嫌疑をかけられることがありました。

重忠は戦功の恩賞として各地に多くの所領を与えられました。
その一つとして伊勢国(
三重県)の沼田御厨(みくりや)の地頭職があります。
この御厨で重忠が派遣した代官が詐欺・横領を起こしました。

事件は代官が起こしたもので重忠は直接関係していませんでしたが、
沼田御厨は伊勢の外宮(げぐう)領であり、この事件は、鎌倉と
外宮との対立に発展する恐れがあったので、頼朝は大いに怒り、
文治3年(1187)9月、重忠を囚人として千葉胤正(たねまさ)に預け、
所領四か所を没収しました。
誠実で実直な性格の重忠は、深く恐縮して
一週間も睡眠をとらず絶食をして謹慎したので、身柄を預かっていた胤正は、
見かねてその様子を頼朝に報告し、寛大な処置を願い出ました。

頼朝もその態度に感動してすぐに許しましたが、重忠は一旦出仕したものの
この事件が落ち着くと、罰を受けたことを恥としてすぐに本拠地の
菅谷(すがや)の館に帰り引き籠ったことから疑われ、
同年10月14日、梶原景時が「重忠謀反」と頼朝へ讒言しました。


それは、「畠山重忠は、さしたる重罪も犯してないのに処罰されたということは、
今まで自分がたてた手柄を無視されたのも同じである。」として、
菅谷の館にこもり謀反を企てているという噂があります。一族の者が皆、
武蔵国にいるということですから、この風聞は間違いないと思われます。
すぐに対策をとるように。というものでした。もともと猜疑心の強い頼朝は、
この言葉に惑わされ、小山朝政・下河辺行平・結城朝光(ともみつ)・
三浦義澄・和田義盛らの有力御家人らを集め、この件について相談しました。

結城朝光は「畠山重忠は、清廉潔白な性格で、道理をわきまえており、
謀反の気持ちがあるなど考えられません。重忠のところに使者を送って
お確かめになったらいかがでしょうか。」と重忠を弁護しました。
ほかの御家人らもこの意見に賛成したので、重忠の幼なじみの
下河辺(しもこうべ)行平がその使者となり、鎌倉のよからぬ風聞を聞かせると、
重忠は激怒し、腰の刀を抜いて自害しようとしました。

驚いた行平は重忠を宥め、鎌倉に戻って弁明することを承諾させ、
一緒に帰ってきました。そして梶原景時が重忠を尋問すると、
重忠は謀反の気持ちなどないことを申し述べたので、
「異心がないなら起請文(神仏に誓いを立てて書く文書)を
提出するように。」というと、重忠は「武力を使って他人の財産を
横領したといわれるより、謀反を企てていると噂を立てられる方が、
武士にとってよほど名誉なことである。ただ頼朝殿をご主人と
仰ぐようになってからは、二心を持つようなことは絶対にない。
起請文(きしょうもん)を取るというのは、悪しき者に対して
することである。」といい、起請文の提出を拒否しました。

景時は重忠の答弁を頼朝に報告したところ、
頼朝はすっかり疑念が晴れ、この件について何も語りませんでした。
これがきっかけとなり、重忠はいっそう頼朝の信頼を得たという。

坂東八平氏の流れを汲む梶原景時は、石橋山合戦の際、平家軍に属していながら、
洞穴に隠れ潜む頼朝をあえて見逃し、その危機を救いました。
その後、景時は政治的な才能もあったので、御家人を組織し統制する
侍所の所司という要職に就き、頼朝の気持ちをよく理解して、
邪魔な存在は素早く排除する役目を担い、「一之郎党」と見なされます。

かつて徳大寺家に仕えたことがあり、文化的素養が高く弁舌も巧みでしたが、
有能で冷徹な人柄は、他の御家人から嫌われる存在となっていました。
義経をそしり、義経と頼朝の不和の原因を作った人物とされています。

畠山重忠が厚く尊崇した東京都青梅市の御嶽(みたけ)神社には、
重忠が奉納したと伝えられる国宝の赤糸威鎧(おどしよろい)や
宝寿の銘がある黒漆太刀があり、境内には重忠の騎馬像が建っています。

畠山重忠館跡(菅谷館跡)  
『参考資料』
福島正義「武蔵武士」さきたま出版会、平成15年
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年
上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」吉川弘文館、2012年
梶原等「梶原景時 知られざる鎌倉本體の武士」新人物往来社、2000年
「新定源平盛衰記(3)」新人物往来社、1989年
 「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 
「東京都の地名」平凡社、2002年「郷土資料事典(御嶽神社)」ゼンリン、1997年





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埼玉県比企郡嵐山町には、畠山重忠や木曽義仲、
その父源義賢(よしかた)などの史跡が点在しています。

嵐山(らんざん)という地名は、槻(つき)川の美しい渓谷が
京都嵐山に似ているとして名づけられました。



武蔵嵐山駅から小さな商店街を歩いて行くと、国道254号線に突き当たります。
菅谷(すがや)館跡(国史跡)は、そのバイパスに面しています。
 
菅谷館跡は都幾(とき)川と槻川の合流する地点の北の台地上に位置しています。



バイパスに面した搦手門跡から入ると、すぐに「嵐山史跡の博物館」があります。

搦手門跡







博物館は三ノ郭の一角に建っています

菅谷館は本郭、南に南郭、二ノ郭、北に三ノ郭、西に西ノ郭があり、
空堀と土塁などの遺構が残っています。面積は11万平方メートルもあり、現在、
館跡の三方の堀は、池や水田などとなっていますが、館は堀と土塁をめぐらし、
南には都幾(とき)川が流れる天然の要害の地にありました。

これは戦国時代に使われた時のもので、菅谷館は扇谷(おうぎがやつ)
上杉氏の重臣太田資康(道灌の子)によって城塞化され、
重忠の時代の遺構はその一部に残るだけです。

畠山重忠が本領の畠山から東南約10㎞の菅谷に移った時期は
明らかではありませんが、
文治3年(1187)には、
菅谷館を本拠地としていたことが『吾妻鏡』にみえます。

「畠山重忠と菅谷館跡(説明板より)
畠山重忠は長寛二年(一一六四)、畠山庄司重能(しげよし)を父とし、
相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に
生まれました。治承四年(一一八〇)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、
父の重能が平家に仕えていたため、弱冠(じゃっかん)十七歳の重忠も
平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。その後間もなく頼朝に仕え、
鎌倉入りや富士川の戦いには先陣をつとめ、宇治川や一の谷合戦では、
かずかずの手柄をたてました。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、
武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。
頼朝死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、
北条氏に謀殺されました。四十二歳でした。
鎌倉時代の史書『吾妻鏡』によると、元久二年(一二〇五)六月十九日、
「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか百三十四騎の部下を率い
「小(男)衾郡(おぶすまぐん)菅谷館」を出発し、同月二十二日、
二俣(ふたまた)川(現横浜市)で雲霞(うんか)のごとき北条勢に囲まれ、
部下とともに討たれたとあります。嵐山町菅谷にあるこの城郭が、
その「菅谷館」ではないかと古くから言われてきました。
城郭の西には鎌倉へ通じる街道筋が残されており、この城郭のどこかに
重忠の館があったことも充分考えられます。現在この城郭は、
縄張りや土塁・空堀(からぼり)の構造から推定して、
戦国時代末頃に最終的に改築されたものと考えられています。 埼玉県」

二ノ郭の土塁の上に、木々に囲まれた畠山重忠の像が建っています。
平服で鎌倉を臨む姿を造形したものですが、勇壮な騎馬像が多い中、
直垂(ひたたれ)姿の石像は、非常に印象的でした。

歴史資料館の建設にともなって発掘調査が実施され、発見された建物跡、
溝跡、井戸跡のうち、
2か所の建物跡と1か所の井戸跡を保存し、
本館前の三ノ郭に丸太を建ててその位置が示されています。この建物跡は、
柱と柱の間隔の長さや出土した遺物から江戸時代のものと推察されています。

本郭へ



重忠の館があったとされる本郭



出桝形土塁
本郭は空堀と高い土塁によって守られています。
さらに土塁にはこのような出桝形(凸状に突き出た箇所)がつくられていて
敵軍の侵入が効果的に防げるようになっています。

二ノ郭

館跡の西側近くを鎌倉街道が南北に走り、
搦手門跡傍に「鎌倉街道跡」の道標が建っています。
ここから重忠は鎌倉を目ざし、郎党を率いて笛吹峠を駆け抜けました。

畠山氏は坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一つ秩父一族の嫡流で、
重忠の父重能(しげよし)の時、畠山(現、深谷市畠山)に移住し、
地名を苗字として畠山氏を名のりました。

桓武天皇の曾孫の高望(たかもち)王は、平姓を賜って臣籍降下し、
上総介(千葉県中部)に任じられ、5人の息子を伴って下向しました。
高望王の五男村岡(平)良文は下総国相馬郡村岡を本拠とし、
その子孫が下総の千葉氏、上総の上総氏、相模の三浦氏、相模の土肥氏や
畠山氏を筆頭とする秩父氏、相模の大庭氏、相模の梶原氏、
相模の長尾氏などの武家平氏となり、
坂東八平氏と呼ばれ関東各地に勢力を拡大していきました。

八平氏は地域によって、中村氏、鎌倉氏、佐奈田氏などをいう場合もあり、
必ずしも一定していませんが、この良文を祖とする氏族をそう呼びます。

一方、良文の兄である国香(くにか)の孫、惟衡(これひら)の時代に
伊勢に進出したのが、平清盛に代表される伊勢平氏です。


東国というとすぐ源氏を思い出しますが、清和源氏の祖
清和天皇が即位したのは、桓武天皇の即位の77年後のことで、
東国の荒地を開拓して開発領主となり、早くに勢力を築いたのは、
こうした桓武平氏の子孫たちでした。

後に彼らが源氏再興の中核となって鎌倉幕府創設に尽力します。
  
深谷市畠山の重忠館跡 畠山重忠公史跡公園(畠山重能)  
畠山重忠邸跡(鎌倉)  
アクセス』
「菅谷館跡」埼玉県比企郡嵐山町菅谷字城757
東武東上線「武蔵嵐山」駅西口下車 徒歩約15分
「県立嵐山史跡の博物館」0493(62)5896
9時~午後4時30分 月曜日休館 
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年

 

 

 



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畠山重忠(1164~1205)
の館は、秩父氏一族の畠山重能(しげよし)が
武蔵国男衾(おぶすま)郡畠山郷(現、埼玉県深谷市畠山)を本拠とし、
居館を構えたのが始まりとされています。

現在、その付近一帯が「畠山重忠公史跡公園」として整備され、
重忠の銅像や重忠とその家臣の五輪塔、重忠産湯の井戸などがあります。

荒川に架かる長い重忠橋を渡ると
あたり一面、長閑な田園風景が広がっています。





公園を入った所には、昭和63年に建てられた重忠の銅像があります。
愛馬「三日月」をいたわろうと鵯越の崖を背負って下りたという
『源平盛衰記』の話を描いた重忠の勇姿です。
重忠の豪力と優しい人柄からこのような話が創作されたと思われます。



畠山重忠公の墓  所在地 大里郡川本町大字畠山
鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、
長寛2年(1164年)秩父庄司重能(しげよし)の二男として、
現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、
後に畠山庄司(しょうじ)次郎重忠となった。
剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く
県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)
奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として
尊敬されてきたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、
元久2年(1205年)6月22日に二俣川にて一族とともに討たれた。
時に重忠42歳、子重秀は23歳であった。この畠山館跡には、
重忠公主従の墓として6基の五輪塔がある。

また、館跡には嘉元2年(1304年)の紀年号がある
百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による
重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠産湯の井戸などもあって、
通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在はこの地一帯が
重忠公史跡公園として整備されている。 平成11年9月 埼玉県

重忠の墓は高さ約2㍍の五輪石塔で、重忠が北条時政父子の謀略により、
二俣川(横浜市)で討たれた時につけていた八幡座(兜の頂上にある穴を飾る金物)を
埋めて造られたものという。(県指定史跡)

木曽義仲が多太神社に奉納した斎藤実盛の遺品と伝えられている兜
八幡座は矢印のところです



 江戸中期の『新編武蔵風土記稿』によると、宝暦13年(1763)に
満福寺の僧が重忠の墓を満福寺に移したと記されていますが、
明治17年に現在地に戻されています。



右側の板石塔婆(いたいしとうば)は、板碑ともいい中世に建てられた供養塔の一種で、
仏教の諸尊を梵字(ぼんじ)一文字で表した種子 (しゅじ) 、
キリークなどと呼ばれる古代インドのサンスクリット語の文字や
供養者、造立年月日、趣旨などが彫ってあります。




 椎の木の根元に重能の墓という自然石があります。



畠山重忠顕彰碑

畠山氏が秩父にいた頃、先祖の墓地にあった伽羅の木です。



碑に刻まれた文字は摩滅し読み取れません。

「畠山重忠公産湯ノ井戸 
 秩父より進出してきた、秩父荘司重能は
武蔵国男衾郡畠山村(現、大里郡川本町畠山)に館を構えました。
のちの長寛二(西暦一一六四)年、秩父荘司重能と相模の豪族・
三浦大介義明の娘眞鶴姫との間に二男として重忠が誕生し、
その際用いた井戸として【重忠公産湯ノ井戸】と称され伝えられております。
又、この井戸は、江戸時代の記録に残された、
古井戸二ヶ所のうちの一つでもあります。
 平成十六(西暦二00四)年十一月吉日建立
 畠山重忠公史跡保存会」説明碑より

重忠は平治の乱の5年後、平家全盛時代の長寛2年(1164)に
この畠山に生まれ、後に菅谷(すがや)館に移っています。

清盛が三十三間堂を建立し、平家納経を厳島神社に寄進したのも
重忠が生まれた年の事です。

畠山重能
桓武平氏の流れをくむ秩父氏は平安時代中期頃から
現在の秩父市一帯を本拠として秩父盆地を開いた豪族です。
重能は秩父重弘の長男で畠山を氏とし畠山庄司と称し、妻は相模の豪族三浦介義明、
姉妹の夫が下総(千葉県)の豪族千葉介常胤と、ともに源義朝の家人でした。
両者が名のる介(すけ)は、朝廷が任命する国司の二等官の「介」ではなく、
在庁官人の地位を示しています。

重能の叔父の秩父重隆は、婿の源義賢(義朝の弟)と組み
さらなる勢力拡大を図りましたが、義平(義朝の長子)が大蔵館を急襲した
大蔵合戦で敗れ、義賢とともに戦死しました。
重能はこの時、義平率いる軍勢に属していました。これは当時、秩父一族の
庶流である秩父重隆が家督を継ぎ、武蔵国総検校職(そうけんぎょうしょく)を
掌握していることに嫡流である重能が不満を持っていたためと見られています。
こうして義朝は、秩父一族はじめ武蔵の武士団をその配下に入れることに成功しました。

『源平盛衰記』によると、義平は後難を恐れ、重能に義賢の子の駒王丸(義仲)を
探し出し殺害するよう命じましたが、重能は2歳の幼子を殺すのは不憫だと、
斎藤実盛に密かに託し、実盛が母に抱かれた駒王丸を木曾へ連れていったという。


平治の乱後、武蔵国が平家の知行国となると、重能はその家人となり20年余が過ぎました。

治承4年(1180)頼朝が挙兵した時、重能は弟の小山田有重や宇都宮朝綱とともに
大番役のために在京中でしたが、頼朝に縁のある者として
帰国を許されず、平家の北陸遠征軍に従い戦っています。

大番役とは諸国の武士が京都に滞在し、三年間宮廷警護などの役にあたったものを
いいますが、地方分離を防ぐ懐柔策のひとつで危急の時には人質にもなります。

次いで平家都落ちの時、東国では畠山重能、小山田有重、宇都宮朝綱の一族が
源氏に寝返ったため、一門の中に三人を斬捨てるべしという声がありましたが、
知盛(清盛の4男)は彼らを故郷に帰すよう宗盛を説得したという。
『吾妻鏡』文治元年(118577日の条によると、
宇都宮朝綱と姻戚関係にあった平貞能(さだよし)が
宗盛に口添えをして、この三人を助けたとしています。


『源平盛衰記』によると、平家一門の都落ち際、畠山重能・小山田有重・
宇都宮朝綱は淀までお供して下りました。宗盛は三人を近くに召し寄せ、
「何処までも伴いたいけれども、汝らの子息・家人は皆東国に在って頼朝に従っている。
ぬけがらだけを供に連れていくこともあるまい。早く故郷へ帰れ。」といわれ、
「長い間御恩を賜って妻子を養ってきました。今更妻子が恋しいと
帰るわけにはいきません。落ち着かれる所までお供します。」というと
「親の子を思う心は、身分の上下に関係なく皆同じである。
子は東国にいて源氏に従い、親は西海に下って身を滅ぼすことは不憫である。
すぐに帰って頼朝に従うがよい。」と暇をとらせました。
三人にとって平家は長年の主であるので名残を惜しみつつ、
涙ながらに別れを告げました。
これ以後、重能は歴史の表舞台から姿を消しています。
重忠に家督を譲って隠居し、頼朝には仕えなかったものと思われます。
畠山重忠の菩提寺(満福寺)  
畠山重忠館跡(菅谷館跡)  
『アクセス』
「畠山重忠公史跡公園」深谷市畠山510-2
秩父鉄道「永田駅」下車 南東方面に進み、重忠橋を渡り徒歩約20分。
駐車場は、公園北側入り口付近にあります。
毎年4月には、重忠まつりが開催されます。
『参考資料』
「新定源平盛衰記(4)(5)」新人物往来社、1994年 1991年 
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年

新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社、昭和60年 
「郷土資料事典 埼玉県」ゼンリン、1997年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年 
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年
成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年 
上杉和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年

 



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畠山重忠(1164~1205)は畠山重能(しげよし)の嫡子、
母は相模の豪族三浦大介義明の娘です。
その上、重能の伯母が義明の妻という重縁にありました。

武蔵国男衾郡(おぶすまごおり)畠山荘(現、埼玉県深谷市畠山)に生まれ、
幼名を氏王丸(うじおうまる)といいました。

畠山氏は桓武平氏の流れをくむ秩父氏の嫡流で、秩父武綱の時に八幡太郎義家の
後三年合戦の先陣を務め、その子、秩父権守重綱以来、重忠に至るまで、
代々武蔵国の総検校職(そうけんぎょうしょく)などをつとめました。

畠山と称したのは重能からで、畠山庄司と称し、重忠は畠山庄司次郎と呼ばれました。
当時中央の貴族たちは、国司に任命されても遥任(ようにん)といって現地に赴任せず、
目代を派遣して租税を徴収し、在庁官人が国守の実務を代行していました。
そのトップが総検校職と考えられ、在庁官人として武蔵国における棟梁の地位にありました。

多くの武蔵武士と同様に源義朝に従っていましたが、平治の乱で義朝が敗死すると、
武蔵国は平知盛が武蔵守となり、総検校職の地位にある重能は当然平家に仕えます。
この頃になると、武蔵武士も次々平家の家人となっていきます。


畠山は熊谷市の西方約10㎞、奥秩父山地から流れ出た荒川の南岸にあたり、
昔は一面の桑畑で、今でも水田の少ない殆んどが畑地帯です。
この地には、重忠が再興したという白田山満福寺があり、
その近くに畠山館跡と伝えられる地域が公園として整備されています。



荒川に架かる重忠橋  重忠が愛馬三日月を背負う姿が彫られています。
橋の右手に見えるのは、川をせき止め用水路に取り入れる
施設の頭首工(とうしゅこう)です。





満福寺(まんぷくじ) 所在地 大里郡川本町大字畠田
白田山観音院満福寺は、真言宗豊山派の寺院で鳥羽天皇(1110年頃)の
御代に弘誓房(ぐせつぼう)深海上人が草創した。
後に畠山重忠公が寿永年間に再興し、菩提寺としたものである。
本尊は不動明王、制吒迦(せいたいか)、矜羯羅(こんがら)両脇侍の
三尊立像で彩色の宮殿に安置され、須弥檀、
前机とともに町指定文化財になっている。
現本堂は、以前は講堂で間口十間、奥行七間あり、
寛政4年(1792)建立のものである。
重忠公の菩提寺として
実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、
長刀、大般若経、御朱印状等が伝えられている。
別棟の観音閣には、重忠公の守本尊(等身大)である六尺三寸の
千手観音像が安置され、秩父坂東西国百番観音像、算額絵馬
(和算家が自己の発見した数学の問題や解法を書いて奉納した絵馬)等がある。
また、当寺の裏には、彰義隊士水橋右京之亮の墓、重忠廟の碑もある。
平成11年9月 埼玉県



 本堂には、重忠の位牌「実山宗真大居士(じつざんそうしんだいこじ)」があります。


本堂西に観音堂があり、重忠の守り本尊だったという
等身大の十一面観音像が安置されています。

畠山重忠は知性と武勇を兼ね備え、鎌倉武士の鑑と讃えられました。
しかも桁外れの豪力の持ち主で、
それを物語る逸話も数多く残っています。
一の谷合戦で義経軍に属した重忠は、ここは難所であるから怪我させてはいけないと
鎧の上に七寸の愛馬を背負い、平家一の谷の陣背後の崖を椎の木を杖にして
下っていきました。「重忠は東国一の大力といわれているが、
これは人間わざではない、鬼神のしわざである」と人々が舌を巻き、そして
馬をいたわる重忠のやさしさに感心したという話が『源平盛衰記』にみえます。

当時の馬の丈は前脚の先から垂直に肩の高さまでを測り、
四尺を標準とし、それより1寸大きい馬を1寸(ひとき)、2寸大きい馬を
2寸(ふたき)、7寸大きい馬を「七寸(ななき)」といいます。
近藤好和氏は「当時の馬の体重は300キロ前後と考えられ、
どんな怪力でも300キロを担いで前に歩くことは至難の業であり、
あり得ない話である。」とされています。(『源義経』)
重忠は義経別動隊ではなく、安田義定が率いる本隊に属していたとあり、
このような話は創作以外の何ものでもない。(『武蔵の武士団』)


ただ重忠が大力であったことは事実だったようで、
鎌倉軍と義仲軍の宇治川合戦で、
重忠は川を渡るうち、敵に馬を射られ急流の中を泳いで対岸に上ろうとした時、
後ろから腰にすがりつく者がいます。あまりに流れが速いので馬を流された
横山党の大串重親です。「いつもお前達は重忠を頼るのだから。
怪我をするではないぞ。」と重親を鷲づかみにすると岸に放り投げました。
重親はすぐに起き上がり、あつかましくも「武蔵国大串次郎重親、宇治川の
徒歩(かち)立ちの先陣ぞや。」と名乗ったので敵も味方もどっと笑ったという。

永福寺(ようふくじ)庭園造営の際、誰も動かすことのできない
庭の巨石を重忠が一人で持ち上げ池の中に指図通りにおき、
見るものを感心させたという話もあります。
永福寺(廃寺)は頼朝が文治5年(1189)12月から5年の歳月をかけて
奥州合戦の戦没者の菩提を弔うため、今の鎌倉宮の裏手の谷に
建立した大寺院で、この工事には御家人たちも多く手伝いました。
これは平泉中尊寺の大長寿院(二階大堂)を模したもので、
二階堂と呼ばれ鎌倉宮付近の地名にもなっています。

また重忠が長居という相撲取りを打ち負かした話も
『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』(巻10・相撲強力)にあります。
あるとき、長居が頼朝の前に現れ、自分は東国一の大力であると自慢しました。
ちょうどそこへ重忠が出仕してきたので、2人に相撲を取らせると、
長居は重忠にあっさり肩をつかまれ、肩の骨をくじかれて
尻もちをついて気絶したので、居並ぶ御家人達は皆目を丸くしたという話です。

芭蕉が ♪昔聞け 秩父殿さえ 相撲取り
(昔はかの有名な秩父殿さえ ただの相撲取りだったのだ)と詠んでいます。
秩父殿とは畠山重忠のことです。

重忠は武勇だけでなく歌舞音曲の才にも秀で、鎌倉へ護送された
静御前の舞にあわせて銅拍子をうったのが重忠でした。
天下の名人と謳われた静御前の舞の伴奏を巧みにつとめるなど、
音感に優れていたことがうかがわれます。

『吾妻鏡』によると、鶴岡八幡宮で神楽が催され、頼朝は参詣した後に
八幡宮別当の坊に招かれ酒宴が開かれました。
その席で京都から来た今様達者の稚児の吹く横笛に合わせて
重忠が今様歌を披露すると、頼朝はさかんに面白がって
暗くなるまで楽しんだという話もあります。

重忠は少年の頃、大番役の父重能に従って京都に滞在した時に
都の文化を身につけたと推測されています。
『アクセス』
「満福寺」埼玉県深谷市川本町畠田  秩父鉄道永田駅下車 徒歩約17分
『参考資料』
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年 
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年 
 福島正義「武蔵武士 そのロマンと栄光」さいたま出版会、平成15年
 成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年 「新定源平盛衰記(5)」新人物往来社、1991年
近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年

 

 

 



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猪俣小平六範綱(?~1192)は武蔵七党の一つ、猪俣党宗家の家筋で、
武蔵国猪俣(現、荒川上流域の埼玉県児玉郡美里町)を本拠に活躍した武士です。

武蔵国多摩郡(現、東京都八王子市)横山荘を本拠とした横山党と同族で、
小野篁の末裔であるとも、武蔵国造の子孫であるともいわれていますが、
史料が少なく明らかではありません。

ほぼ10世紀末の時資(ときすけ)の頃に猪俣村に住み猪俣氏と称し、
その孫忠兼が猪俣党の棟梁として北武蔵一帯に勢力を広げました。
党の同族は非常に多く猪俣・岡部・人見以下数十氏が知られています。
棟梁は一応一族の代表となりますが、
統率支配者となるわけではなく、互いに対等の寄合組織です。

美里町は埼玉県の北西部に位置し、東部は平忠度や岡部忠澄の墓がある深谷市、
北部・西部は本庄市、南部は寄居町及び長瀞町にそれぞれ隣接しています。

猪俣範綱(則綱とも)は保元の乱では、源義朝に従い武勇の名を挙げました。
義朝が保元の乱での清盛との恩賞の格差にこの行賞の決定権を握る信西に
不満をもったことが平治の乱を引き起こす要因の一つとなりました。

一方、信西に敵対する藤原信頼(後白河院の腹心)が打倒信西の武力として
頼みにしたのが義朝でした。両者は結び清盛の熊野参詣中に挙兵しました。
平治の乱で範綱は悪源太義平十七騎の一人として奮戦しましたが、
都の事件を知り急いで戻った清盛に義朝は敗れ去りました。その結果、
武蔵国の国司は平知盛が任じられ、その支配を受けることになりました。


源頼朝挙兵後は頼朝に仕え、一の谷合戦で平家の勇将盛俊を討つなど、
戦場においてしばしば功績をあげ、文治元年(1185)勝長寿院の堂供養に従った
随兵の中に小平六の名が見え、また建久元年(1190)11月の頼朝の上洛、
石清水八幡宮参詣、奈良東大寺供養の際にも頼朝に供奉しています。

勝長寿院は頼朝が父源義朝の菩提を弔うために
現在の鎌倉市雪ノ下に建立した寺院です。

子孫は承久の乱にも幕府方として戦功を挙げ、その活躍ぶりが『吾妻鏡』
『承久記』『太平記』に伝えられています。戦国期には、猪俣範直が
後北条氏第3代目当主北条氏康の子、鉢形城城主北条氏邦に仕えました。


豊臣秀吉の天下統一事業が進み、九州の島津氏を討ち西日本を支配下に治めた後、
秀吉は関東平定を企て小田原の北条氏と調停し、真田昌幸の沼田城を
北条氏に渡すことを条件に北条氏政、氏直父子のどちらかの上洛を約束させ、
北条氏は家臣猪俣範直を城代に任じて沼田城を預けました。
ところが範直は協定に違反して、勝手に真田昌幸の名胡桃(なぐるみ)城
(現、群馬県月夜野町)を攻撃して奪ったため、
秀吉に小田原城攻めの口実を与え北条氏は滅亡しました。
荒川右岸の埼玉県大里郡寄居町には、鉢形城跡(国史跡)が残っています。



猪俣橋は正円寺川に架っている小さな橋です。

正円寺川


猪俣氏館(美里町猪俣字蔵屋敷)は(用土駅からだと)旧道を右折してそのまま進み、
正円寺川を越えた先を右折した周辺であり、「小平六範綱館趾」の碑が立てられている。
現在館跡は宅地や畑となり、わずかに水堀の一部が残るだけである。
猪俣党の首領猪俣小平六の居館であったとされ、平安末期に築造され、
戦国時代まで続いたとされています。東西200㍍、南北164㍍の長方形で、
二重の堀に囲まれていたようです。(『埼玉県の歴史散歩』『埼玉大百科事典』)


正円寺川の畔で通りがかりの人に「猪俣範綱館跡」を尋ねましたが、

そんな石碑は知らないという返事ばかりです。
辺りに小平六の館があったことなど、
いつのまにか忘れられているようです。

高台院の裏手、標高約300㍍の城山と呼ばれる急峻な山の頂には、
戦国時代の猪俣城跡があり、本廓・二の郭・三の郭、石垣、空堀跡が確認できます。



高野山真言宗高台院(本尊十一面観音像)は町の南東部、
猪俣集落から少し上ったところにある猪俣氏の菩提寺です。
猪俣氏が創建したとされていますが、その時期などについては不明です。



猪俣小平六範綱の墓(県旧跡)は高台院の境内にあり、
寺の左手下の藪の中に一族の墓とともに祀られています。






五輪塔はどれもかなり劣化しています

猪俣では小平六の霊を供養する猪俣の百八燈(国指定重要無形民俗文化財)が
受け継がれています。この行事は高台院と墓所、その前方650㍍にある堂前山で行われ、
この山の尾根筋にはかがり火を灯す土の塔が108基築かれています。

墓所から前方の堂前山
を望む

猪俣の百八燈(ひゃくはっとう)塚への道しるべ



  眼下に広がる猪俣の集落 





猪俣小平六範綱の碑が神戸市にあります
源平合戦勇士の碑  
小平六が討ち取った平盛俊の塚
平盛俊塚(越中前司盛俊の最期)  
『アクセス』
「高台院」 埼玉県児玉郡美里町大字猪俣1579 八高線(はちこうせん)用土駅下車
無人駅です

『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
 福島正義「武蔵武士 そのロマンと栄光」さいたま出版会、平成15年
  冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
 「郷土資料事典 埼玉県」ゼンリン、1997年 「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年
「埼玉大百科事典」埼玉新聞社、昭和56年 「埼玉県の地名」平凡社、1993年
 「国史大辞典」吉川弘文館、昭和58年

 





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平忠度の墓がある清心寺から高崎線の踏切を渡り、
国道17号線(旧中山道)を西へはいると、右手方向に岡部神社があります。
清心寺を後にして岡部神社へ向かいます。

岡部神社

岡部六弥太忠澄の祈願所といわれ、寿永年間(1182~1183)、
忠澄は一の谷の戦功を感謝し、記念に杉を植えたと伝えられています。
再び国道に出て西へ進むと、普済寺の入口があります。

「曹洞宗普済寺入口」の案内板が見えます。





普済寺は建久2年(1191)に六弥太が栄朝禅師を招いて創建した寺で、
その時、六弥太が植栽したカヤの木が門の左右にあります。

忠澄は十一面観音を護持仏として尊崇し、兜の裡(うち)に
その御影をはって戦陣に臨んだという。
その十一面観音像が本尊です。
忠澄の妻は畠山重忠の妹といわれ、御影堂には忠澄夫妻の木像が安置されています。
本堂正面に「丸にはね十字」の岡部氏の家紋が付してあります。

 本堂内部



境内には平忠度の歌碑がたっています。

岡部六弥太忠澄(?~1197年)は『武蔵七党系図』によれば、
武蔵七党の一つ猪俣党の猪俣忠兼の子、忠綱が武蔵国榛沢(はんざわ)郡岡部
(現、埼玉県深谷市岡部)の地を領して岡部六大夫と称したのに始まるとしています。
忠綱のあとその嫡流は、六郎行忠が継ぎその嫡子が六弥太忠澄です。

忠澄は源義朝の家人として仕え、『保元物語』に「武蔵国には長井斎藤別当実盛、
岡部六弥太(猪俣党)、猪俣小平六範綱(猪俣党)、平山季重(西党)、
金子十郎(村山党)云々」とあるように、保元の乱で義朝に従う
武蔵武士20騎の1人としてその名が見えます。

その三年後の平治の乱にも参加し「長井斎藤別当実盛、岡部六弥太、猪俣小平六、
熊谷次郎直実、平山季重等々」とあり、義朝に従軍して勇戦し武蔵武士の名声を高めました。
ことに一の谷合戦では、平家西ノ手の将軍薩摩守忠度を討取り、
奥州征伐にも出陣して軍功をたて、子孫は豊後、長門の豪族となっています。

普済寺の北にある岡部氏の墓地(県史跡)には、忠澄のほか
夫人の玉ノ井、父行忠(ゆきただ)の五輪塔があります。



最も大きい五輪塔が忠澄、その右が父行忠

左が夫人玉ノ井と忠澄の墓  五輪塔はかなり風化が進んでいます。

「岡部六弥太忠澄の墓  (現地説明板)
岡部六弥太忠澄の墓岡部六弥太忠澄は、武蔵七党の一つ猪俣党の出身で、
猪俣野兵衛時範(いのまたやへえときのり)の孫、六太夫忠綱(ろくたゆうただつな)が
榛沢郡岡部に居住し岡部氏を称した。忠澄は忠綱の孫にあたる。
源義朝の家人として保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、
保元・平治物語 源平盛衰記に書かれており、特に待賢門(たいけんもん)の戦いでは、
熊谷次郎直実、斉藤別当実盛、猪俣小平六など源氏十七騎の一人として勇名をはせた。
その後、源氏の没落により岡部にいたが、治承四(一一八〇)年、頼朝の挙兵とともに出陣し、
はじめ木曾義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では、平氏の名将
平忠度(ただのり)を討ち一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヵ所及び
伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の譜代の家人
三一三人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけでなく、
情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。
現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、
北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ一・八メートル)、
向かって右側が父行忠(ゆきただ)の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。
忠澄の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は
乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在、
六弥太の五輪塔は削られ変形している。平成三年三月 埼玉県 岡部町」

普済寺の境内から北にかけて忠澄の館があったと伝えられ、
それらしい土塁が残っています。
「昭和47年に農業改善事業によって、岡部館の南側が堀とともに削り取られ、
翌年東と西の堀が埋められ農道となり、今は北側のみが水田として残っている。」
(『埼玉大百科事典』)


普済寺北側の土塁の上に現在、稲荷神社が祀られています。

JR岡部駅

武蔵国は西方に秩父山系があり、東南部には広々とした原野が開け、西から東へは
幾重にも丘陵の稜線が伸び、その間を縫って荒川、利根川など多くの河川が流れ、
あちこちに狭くて封鎖的な地域を作り出していました。平安時代後期、
この荒野に雑草のように逞しい武士団が次々と誕生しました。武蔵七党です。

武蔵七党といっても、その数は必ずしも七つではなく、いくつかを指す呼び名です。
『武蔵七党系図』によると、野与 (のよ) 党、村山党 、横山党、猪俣党、児玉党、
丹党、西党としていますが、その他に野与党の代りに私市党を入れる説や
村山党を除いて綴(しころ)党を加える数え方もあります。

七党は同族と称していますが、血縁以外のものもあったようです。
彼らはいずれも僅かな郎党を率いるだけの小規模な武士団にすぎませんでした。
『武蔵七党系図』によると、児玉経行の娘は源義平の乳母となり、
「乳母御所」と称したと記され、児玉党は義朝と密接な関係が生まれていきました。

前九年合戦や後三年合戦を通じて、多くの武蔵武士は源頼義・義家に従ってきました。
その後、上野国(群馬県)多胡郡に居住していた源為義の次男義賢(よしかた)が
大蔵(現、埼玉県比企郡嵐山町)に武蔵大蔵館を構え、武蔵国から南へ勢力を
広げようとしていました。
それに対して、義朝の地盤を受継いだ
義平(義朝の長子)は15歳の時、対抗勢力である叔父の義賢(木曽義仲の父)を
大蔵館で殺害し、悪源太義平とよばれました。(大蔵合戦)

武蔵武士の多くが義朝の指揮下に入り、保元・平治の乱でその主戦力となって
活躍しましたが、平治の乱で義朝が清盛に敗れると郷里に帰り、
一応平氏に従い源家再興を待ちました。
この小武士団は源平動乱の時代を経て、それぞれ大きく飛躍しました。
平忠度の墓(清心寺)   
大蔵合戦(大蔵館跡・義賢の墓・義仲生誕地)   
『アクセス』
「普済寺」埼玉県深谷市普済寺973
JR高崎線 岡部駅下車約25分
「岡部神社」埼玉県深谷市岡部705-1 
 JR高崎線「岡部」駅下車徒歩約30分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
「埼玉大百科事典」埼玉新聞社、昭和56年 「国史大辞典」吉川弘文館、昭和57年
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店、昭和48年
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
 福島正義「武蔵武士 そのロマンと栄光」さいたま出版会、平成15年
 成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士 事績と地頭の赴任地を訪ねて」まつやま書房、2007年
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年

 

 



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一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄(ただずみ)は故郷岡部に凱旋し、
忠度の死を悼み五輪塔を建て供養したという。
これが埼玉県深谷市の清心寺(浄土宗)にある忠度の墓と伝えられています。

岡部氏の本拠地岡部村は、昔「岡部」と「普済寺」とで一つの村で、
2006年の市町村合併により、深谷市の一部に組み込まれるまでは大里郡岡部町でした。

深谷市は埼玉県の北部に位置し、東流する利根川が県境で川の向こうは群馬県です。
隣市の熊谷市は、平敦盛を討った熊谷次郎直実の本拠地です。

JR深谷駅南口から岡部駅方向に線路沿いに歩いて行くと、
春には唐沢堤の桜並木を楽しむことが
出来ます。



「史蹟 平忠度之墓」と彫られています。

山門を入るとすぐ左手に土壁に囲まれた廟所があり、
傍には由緒を記した説明板がたっています。

説明板によると、忠澄が忠度の墓を建てて約350年もの後に
清心寺は建立されたことになります。

墓には忠度の毛髪が埋められているという。(『平家物語ハンドブック』)

築地塀に囲まれた中に、五輪塔と上部が欠けた板碑が並んでいます。

板碑には忠度最期の時、極楽往生を願い、
西に向かって唱えた『感無量寿経』による
「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨(せっしゅふしゃ)」
が刻まれています。
(阿弥陀如来の光明は世界の隅々まで照らし、阿弥陀仏を信じ、
念仏を唱える衆生を必ず極楽浄土に迎えて下さり、決してお捨てになることはない。)

廟所の横に忠度桜の孫桜



伝説では、菊の前は忠度の遺跡があると伝え聞き、東国に下り
杖にしてきた一枝の桜を墓前に献じて冥福を祈りました。
その桜を挿すと不思議やその桜は根つき、花芯から二葉を出し
紅白の二花が咲き、契り深い夫婦の花「忠度桜」となったとされています。

歌舞伎『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の中で、
菊の前は俊成の娘、忠度の恋人として登場します。

本堂

JR岡部駅前にたつ案内板

清盛の末弟にあたる忠度(1144~84)は、歌人僧正遍照の子孫にあたる高成(たかなし)の
娘を母とし、父忠盛は武勇だけでなく優れた歌人として知られています。
その間に生まれた忠度も俊成に師事し、歌道にも武芸にも秀でた大将軍でした。


六弥太は忠度の箙(えびら)に結びつけられた文に
♪行き暮れて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの 主ならまし 忠度
 とあるのを見つけ、一の谷の西ノ手の大将軍平忠度であることを知りました。
(旅に行き暮れて、桜の木の下を宿としたなら、
桜の花が今宵の宿の主となってもてなしてくれるだろう。)

いかに武士の習いとはいえ忠度をあやめた忠澄は、
死の直前まで風雅な武者であった名将の死を心から惜しんだという。

岡部六弥太忠澄は武蔵七党のひとつ猪俣党に属し、源家譜代の家臣です。
保元・平治の乱で源義朝に従って活躍し、平治の乱では、大内裏の紫宸殿前の
大庭で繰り広げられた平重盛と悪源太義平(義朝の長子)との待賢門合戦で、
鎌田兵衛正清(義朝の乳母子)、猪俣小平六、熊谷次郎直実、斉藤別当実盛らとともに
悪源太義平麾下17騎の1人として重盛を追い回して奮戦しました。

平治の乱で清盛に義朝が敗れ源氏が没落した結果、忠澄は故郷に帰り、
20年もの間逼塞(ひっそく)していました。源頼朝が伊豆で挙兵し、
安房国で再起した時、他の多くの武蔵武士とともに頼朝に従い、
宇治川合戦、一の谷合戦など、各地の戦いに参加し武功を立てました。
これらの戦功により、頼朝から忠度が知行していた荘園5ヵ所の地頭職を賜り、
さらに伊勢国粥安(かいやす)富名を所領として与えられました。
薩摩守忠度の最期(腕塚堂)  
平忠度が六弥太と馬を並べて戦ったと伝えられる両馬川
明石市源平合戦の史跡1(両馬川旧跡) 
岡部六弥太忠澄の墓・普済寺・岡部神社  
アクセス』
「清心寺」埼玉県深谷市萱場441 JR深谷駅より徒歩約20分
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
 福島正義「武蔵武士 そのロマンと栄光」さいたま出版会、平成15年
 成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士 事績と地頭の赴任地を訪ねて」まつやま書房、2007年
 冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
小林保治編「平家物語ハンドブック」三省堂、2007

 「郷土資料事典 埼玉県」ゼンリン、1997年 「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年



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小松寺門前左手の道は本堂近くにある駐車場へと続いています。



本堂前の桜は、元禄6年(1693)67歳当時の光圀手植の桜の実生と伝えられ、
3月下旬から4月上旬にかけて見ごろを迎えます。


本堂前の大きく枝を広げたしだれ桜の下にたつ「徳川光圀公お手植桜跡」の塔







寺宝の浮彫如意輪観音像は、平安時代、貴人の念持仏として
尊ばれた白檀(びゃくだん)を材とし、その板に観音を浮彫にし、
表面は木肌のままでなく、一面に漆様のものをひいています。 

制作年代については、平安時代後期説と中国唐時代の遺品とする説がありますが、
像の精巧な技法、厳しい表情、その周辺の文様および材質などから
中国晩唐時代の作で、日宋貿易による渡来品との説が有力視されています。
保存状態は良いのですが、数珠を持つ指先や数珠、
如意宝珠(にょいほうじゅ)を持つ手の指先などが失われています。

平重盛の念持仏といい、いかにもそれにふさわしい風格を表し、
掌にすっぽり収まる大きさです。
裏面には貞享4年(1687)の徳川光圀と陰刻した修理銘があります。 

浮彫如意輪観音像開帳 1月1日 
詳細は城里町産業振興課にお問い合わせください。029-288-3111 (内線381)

もと白雲山頂にあった観音堂は、水戸光圀によって現在地に移されました。
観音堂の壁画には唐獅子が描かれ、内陣の来迎柱には、登龍の彫刻が施されています。

説明板にある「柿葺き(こけらぶき)」は、木材の薄板を積み重ねて施工する葺き方です。

観音堂は本堂からこの渡り廊下を使って行き来できます。

『平家物語』(巻7)によると、平貞能は平家一門都落ちの際、重盛の墓に詣で
「源氏の駒のひずめにかけさせまい」と墓を掘り起こし、あたりの土は鴨川に流し、
遺骨は高野山に納めさせ、東国へ落ちていったとのことです。
ところが重盛の遺骨は早くから高野山に納められ、供養したと記す史料
(高野山文書、養和元年4月25日付『僧某申状案』)があり、また実際は
貞能は都での決戦を宗盛に進言するもいれられず、一旦は都に戻りましたが、
すぐに一門を追って西国に下ったので、この記述には虚構があります。

貞能が掘り起こした重盛の墓は、広本系によれば九条河原の
法性寺(ほうしょうじ)にあったということです。法性寺は九条大路より
南の地(現、本町通りから東福寺境内、伏見区稲荷山)といわれ、
西は鴨川、東は東山山麓という広大な地域と推測されています。

この寺は左大臣藤原忠平が建立したもので、毘盧遮那仏を安置した本堂はじめ
多くの堂宇が建てられ、代々藤原氏の氏寺として栄えました。
その広大な寺域には、関白忠通も別邸を構え、清盛も父の供養の一寺を造営していたという。
(『新潮日本古典集成』水原一氏頭注「法性寺の平家の墓」)

忠通の死後、その跡を継いで関白・氏の長者となり、その遺領を継承したのが
盛子(清盛の娘)の夫藤原基実(もとざね)です。
しかし基実は盛子との間に子を儲ける前に24歳で亡くなり、
摂政の地位は基実の弟松殿基房が継ぎ、盛子が摂関家領の大部分を相続しました。

これは基実の遺児基通(もとみち)が幼かったため、この子が成人するまで
預かるという名目で盛子に相続させ、清盛がこれを支配・管理しました。
さらに清盛は摂関家との血縁関係を重視し、基通が成長すると
娘完子(さだこ)を正妻に据えました。こうして清盛は盛子を介して
摂関家を取り込むことに成功し、平家一門がその強力な後ろ盾となりました。

盛子は憲仁親王(高倉天皇)の養母にもなり、仁安2年(1167)に憲仁が即位し、
高倉天皇となるとその准母となります。ところが清盛に思わぬ不幸が襲いかかります。
娘の盛子が闘病のすえ治承3年(1179)6月に24歳の若さで他界し、
次いで同年8月には、嫡男の重盛までもが42歳で没しました。

清盛は盛子の死後、彼女が伝領していた摂関家領を高倉天皇領とすることで、
所領の支配を継続しようとします。これに対して松殿基房は不満を持ち、
鹿ケ谷事件以来、平家に反感を抱いていた後白河院もこれに介入し阻止しようとします。
盛子が相続していた摂関家領のすべてを取り上げただけでなく、
重盛没後、維盛が受け継いでいた越前の知行国を清盛に断ることもなく
没収してしまったのです。このような動きが治承3年(1179)11月の
清盛が院を鳥羽殿(鳥羽離宮)に幽閉するという暴挙につながっていきます。
(治承3年の清盛クーデター)
平重盛の墓(小松寺1)  
重盛創建の法楽寺  大阪市の法楽寺(1)源平両氏の菩提を弔った寺  
平重盛・清盛の墓(磐田市の連城寺)  
『参考資料』
角田文衛「平家後抄(上)」講談社学術文庫、2001年
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年
「京都市の地名」平凡社、1987年 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年
「茨城県大百科事典」茨城新聞社、1981年 元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書、平成24年
高橋昌明編「平清盛 王朝への挑戦」平凡社、2011年 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館、昭和63年

 



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