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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




源平藤戸合戦で主役を演じた佐々木三郎盛綱は、
近江の宇多源氏の後裔・佐々木秀義の三男として生まれました。
母は源為義(頼朝の祖父)の娘で、太郎定綱・次郎経高の弟、四郎高綱の兄にあたります。
父の秀義は平治の乱では、源義朝(頼朝の父)に属して戦い、敗戦後、
本拠地(近江国佐々木荘)を追われ、子らとともに奥州へ下る途中、
相模国渋谷重国に呼びとめられ重国のもとに身を寄せました。

奥州に向かったのは、秀義の伯母の夫である藤原秀衡がいたからです。

盛綱も相模国に留まることになり、伊豆にいる流人頼朝に仕え、
治承4年(1180)、頼朝が挙兵した時には、兄弟とともに相模から頼朝のもとに駆けつけました。
まず伊豆国の代官山木兼隆の後見で勇士とされた堤信遠邸を定綱・経高・高綱が
襲撃して信遠を討ち取り、次いで盛綱と加藤景廉が山木舘を攻めて兼隆の首を取り、
頼朝は緒戦を勝利で飾りました。

「馬の腹帯が伸びている。」と梶原源太景季を巧みに騙して、宇治川先陣を遂げた高綱、
浅瀬を教えた漁夫を刺殺した盛綱、佐々木流先陣譚ともいえます。
戦乱が続く中、戦場では冷酷非情な騙し討や謀略が広く行われ、
『平家物語』は、これについてほとんど批判をしていません。しかし佐々木兄弟は
各地で戦功を挙げともに武名が高く、何かと話題の多い一家だけに
倫理観の欠如が取りざたされ、昔から批判や弁護の論議が繰り返されてきました。

藤戸寺の眼下を流れる藤戸川(倉敷川)の辺は、藤戸海峡の最深部でした。
太古から児島は一つの島でしたが、次第に藤戸付近で土砂の堆積が進んで江戸時代初期に
本土と陸続きになると、児島湾の干拓事業が本格的に始まり干拓地が拡大していきました。

藤戸川に架かる朱塗りの盛綱橋の上には、海を渡る盛綱の騎馬像があります。

佐々木盛綱像と経ヶ島の森

盛綱橋北詰には、藤戸周辺案内板がたっています。



 盛綱橋の歴史 
今見る藤戸・天城の山丘はかつては藤戸海峡に浮かぶ島であった。
その後、次第に開発されかつての海の姿は消え、僅かに南北に流れる
倉敷川が藤戸海峡のなごりをとどめているのみである。

この橋の上流一帯が『平家物語』」や謡曲『藤戸』で知られている
源氏の武将「佐々木盛綱」が渡海先陣で功名を挙げた源平藤戸合戦の古戦場跡で
多くの伝説・史跡を今に伝えている。江戸時代、寛永十六年(1639)岡山藩家老
「池田由成」が天城に居館を築き、士屋敷を中心に町づくりを行い、
「かち渡り」や「渡し」であった藤戸・天城の間に、
正保四年(1647)に藤戸大橋・小橋を架け交通の便をはかった。
以後、岡山城下栄町を起点として妹尾・早島・林・児島・下津井に至る
「四国街道」の往来を容易にし、江戸時代後半には、金毘羅参詣の信仰の高まりと共に
参詣の人々がこの橋を往来した。また、倉敷川にかかる藤戸大橋の周辺は、
川湊として近隣農村部の物資の集散地となり、おおいににぎわった。
交通機関の発達と道路網の整備に伴い、藤戸大橋の架け替えが必要となり、
大正十四年架橋工事を始め、同十五年四月にトラス橋が完成した。
多くの橋名の案が出されたが、「佐々木盛綱」藤戸渡海先陣のいわれにちなみ、
時の県知事によって、「盛綱橋」と命名された。
多くの人々になじみ、親しまれ、風雪に耐えた「盛綱橋」も老朽化し、
昭和の時代が終わると共にその役割を終えたのである。

平成元年総工費1億円を懸け二代目「盛綱橋」の誕生を見たのである。
歴史の流れを伝えんとして、橋上に八百年の昔、馬上姿で藤戸海峡を波きって渡る
「佐々木信綱」の銅像を造り架橋記念とした。平成四年七月(現地説明板) 

盛綱橋北詰から東へ50mほど行くと、天城小学校の校庭に隣接して小さな丘があります。
ここはかつて藤戸寺が管理していた海に浮かぶ島でした。
盛綱は漁夫の供養のため藤戸寺で法華経の写経会を行い、
寺前の小島に供養石塔を建立したと伝えています。

丘の頂上には、盛綱が経筒を埋めた経塚と漁夫の供養塔があります。



藤戸寺鎮守の弁財天社

源平藤戸合戦八百年忌と刻まれています。

経塚と小さい方が漁夫の供養塔

  経ケ島
    経ケ島  秋の下闇  深かりし    高濱年尾 
寿永三年(西暦一一八四年)冬十二月、
源平両軍はこの藤戸海峡をはさみ布陣した。

  源氏の将佐々木三郎盛綱は漁夫に浅瀬を教えられ、馬を躍らせて一番に海を渡り、
味方を
勝利に導いた。この時盛綱は浅瀬の秘密をまもるためこの漁夫を亡きものにしたという。

  次の年、児島郡の領主となった盛綱は、哀れな漁夫の追福のため、
大供養を藤戸寺で行い
  写経をこの島に埋めたので経ケ島と呼ばれるようになった。
  頂上に石灰岩で造られた二基の宝篋印塔があるが、
小さい方が漁夫の供養塔と伝えられて
いる。麓の弁財天社は藤戸寺の鎮守で、
寛永九年( 西暦一六三二年)、岡山藩家老池田氏が天城に陣
屋を設けた際、
祀られたものである。(現地説明碑)  
俳人高浜年尾は高浜虚子の息子です。

藤戸合戦の史跡には、漁夫の母が盛綱を怨み佐々木の「ササ」と聞くだけでも
憎らしいと島の笹をむしりとり、笹が生えなくなった島という笹無山、
山陽ハイツの北に位置する法輪寺(倉敷市羽島)には、源範頼の本陣跡の石碑、
このほか鞭木跡、御崎神社、蘇良井戸などもありますが、
時間がなく周れませんでした。
藤戸合戦古戦場1(乗出岩・山陽ハイツ・先陣庵) 
 藤戸合戦古戦場2(藤戸寺・浮須岩跡)  
『アクセス』
「盛綱橋」JR倉敷駅から下電バス20分「藤戸寺下」下車
(バス1時間に2、3本)
『参考資料』

現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館、2007年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
佐伯真一「戦場の精神史・武士道という幻影」NHKブックス、2004年 「岡山県風土記」旺文社、1996年 
「岡山県の地名」平凡社

 



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藤戸寺はかつて藤戸海峡に突出した岬であった丘の上にあり、境内からは
藤戸・天城の街が一望できます。寺の起源は古く天平年間(729~749)に行基が
開いたとされる名刹で、本堂をはじめ多くの堂塔伽藍が建ち並び、隆盛を極めていました。
源平合戦後、佐々木盛綱は合戦で荒廃した堂宇を修復し、
己の功名のために命を奪った漁夫の霊を弔うため大法会を催しました。
この時以来、寺紋に佐々木源氏の四ツ目紋を用いているという。
盛綱の一族はこの地に土着し、加地・田井・飽浦(あくら)の3氏に分かれて
繁栄したといいます。 
盛綱は後に越後国加地荘を領して加地とも称していました。

その後、戦国の争乱の中で寺は灰燼に帰しましたが、
岡山藩主池田氏が再興し、代々藩主の尊崇を受けて栄えました。

藤戸寺は県道22号線(倉敷玉野線)沿いの高台にあります。


藤戸寺の近くには、源平藤戸合戦八百年記念碑がたっています。

源平藤戸合戦略記
寿永3年(1184)旧暦12月(東鑑)源頼朝の命により、
平氏討伐の為西下した範頼の率いる源氏は、日間山一帯に布陣し、
海を隔てて約二千米対岸の藤戸のあたりに陣を構えた平行盛を主将とする
平氏と対峙したが、源氏には水軍が無かったので渡海出来ず、
平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対してもたゞ切歯扼腕悔しがるだけであった。
時に源氏の武将、佐々木盛綱かねてより「先陣の功名」を念がけており、
苦心の末、一人の浦男より対岸に通ずる浅瀬の在りかを聞き出し
、夜半、男を伴って厳寒の海に入って瀬踏みをし、目印に笹を立てさせたが
他言を封じるため、その場で浦男を殺し海に流した。
翌朝盛綱は、家の子・郎黨を従え乗出し岩の処より海へ馬を乗り入れ、
驚く味方将兵の騒ぎを尻目に、大将範頼の制止にも耳を藉さず、
目印の笹をたよりに、まっしぐらに海峡を乗り渡り、先陣庵のあたりに上陸し
大音声に先陣の名乗りをあげるや、敵陣目指して突入し、源氏大勝の端を開いた。
盛綱は此の戦功により、頼朝より絶賛の感状と児島を領地として賜った。
海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に之を敢行した盛綱の壮挙は
一世を驚嘆させ、永く後世に名声を伝えられる事となった。(現地説明碑)

藤戸寺が広く知られるようになったのは、源平藤戸合戦と謡曲『藤戸』によります。
盛綱の武勇と漁夫の悲話は、謡曲『藤戸』の成立によって全国に流布し、
藤戸寺は亡霊鎮魂の寺として一躍有名になりました。

謡曲『藤戸』は藤戸合戦の後日譚です。先陣の功で備前児島に新領主としてやってきた
佐々木盛綱が揚々と藤戸の渡しに到着し、「春の湊の行く末や、春の湊の行く末や、
藤戸の渡りなるらん。」と、穏やかな春景色を謡うところから始まります。

やがて盛綱が訴訟のある者は出るようにと触れさせると、漁夫の母親が登場し、
わが子を殺された悔しさを泣きながら切々と訴えます。盛綱は一旦否定しますが、
母親の歎きを見てさすがに哀れに思い、
隠しきれずその時の有様を語り、
漁夫を殺めたことを心から後悔し、供養のために法要を行うことを約束します。
盛綱が昼となく夜となく『大般若経』を読んでいると、漁夫の亡霊が現れ、
浮き島に連れて行かれて何度も刺され、海に沈められたが引潮に押し流され、
岩のはざまに流れついたと恨み言を言いながら、理不尽な死を嘆いて盛綱を責めます。
しかし、盛綱の丁重な弔いによってやがて亡霊は成仏し波間に消えていきます。



    ♪いま刈田にて海渡る兵馬見ゆ  誓子
藤戸海峡はいま干拓され田畑となって広がっています。見渡すと源平合戦がほうふつされ、
俳人山口誓子の目には、対岸から攻め寄せる源氏の兵馬が映ったに違いありません。

本堂

現在の本尊は元禄年間 (1688~1704)に彫像された作品です。
賽銭箱に佐々木源氏の四ツ目紋が見えます。

本堂前のパネル

本堂その向うに弘法大師堂

五重塔婆は藤戸寺本堂の背後にあります。

五重塔婆と源平藤戸合戦八百年忌供養塔

鐘楼

平家物語の冒頭部分にその名が見える沙羅双樹の花。
藤戸寺では毎年6月の4日間「沙羅の花を観る会」が催されます。
沙羅双樹が花をつける時期にあわせて客殿を開放して行われ、
『源平藤戸合戦大絵図』も公開されます。お問合せ「藤戸寺」℡086-428-1129

沙羅双樹の花は京都市妙心寺塔頭の一、東林院の「沙羅の花を愛でる会」で撮影


藤戸寺から西へ約600m、のどかな田園の中に浮洲岩の碑があります。
ここは佐々木盛綱が郎党を率いて渡った藤戸海峡です。

円形の窪地に「浮須岩」と刻んだ石碑がたち、碑名は熊沢蕃山の書と伝えられています。

藤戸海峡には長さ9m、幅3・6mほどの浮き島があり、潮の満ち干にかかわらず
海面に浮き出ていました。そこに浮洲岩(うきすいわ)という名石があり、
京都に運ばれて「藤戸石」とよばれるようになります。室町幕府3代将軍
足利義満が金閣寺に運び、細川邸、畠山邸そして織田信長…、
ときの権力者がこの石を受けついでいきます。豊臣秀吉はこの石を聚楽第に移し、
のちに醍醐寺三宝院の庭園を築いた際に寺へ寄進し、
主人石として庭園の中心に据えられました。
左右には低い景石を置き、阿弥陀三尊を表す「三尊組」となっています。

画像は醍醐寺の塔頭のひとつ三宝院の拝観パンフレットより引用させていただきました。

三宝院は撮影禁止となっています。

浮州岩
ここは浮州岩とよぶ岩礁の跡である。藤戸海峡が東西に通じていた頃、海の難所として
知られ、寿永三年(1184)十二月七日源平両軍が戦った古戦場として有名である。
また織田信長が錦に包んで二条御所に運んだ藤戸石、
豊臣秀吉はこの石を醍醐三宝院の庭に移して主人石に立てた
天下の名石の出たところでもある。歳月は流れて藤戸海峡は平野と化し、
この辺りも備前藩が干拓したが、浮州岩の沼澤はそのまま残して
海峡の昔を伝える史跡とした。標石には正保二年(1645)の造立銘がある。

     昭和五十九年拾月吉日    巌津政右衛門撰(現地説明石碑)

説明石碑に彫られた藤戸石
藤戸合戦古戦場1(乗出岩・山陽ハイツ・先陣庵)  
藤戸合戦古戦場3(経ヶ島・盛綱橋)  
『アクセス』
「藤戸寺」倉敷市藤戸町藤戸 JR倉敷駅から下電バス約20分、「藤戸寺下」下車2分。
『参考資料』
「岡山県の地名」平凡社 「岡山県の歴史散歩」山川出版社
 「倉敷の源平古戦場めぐり」倉敷観光コンベンションビューロー、2012年
 日本古典文学全集「謡曲集」(2)小学館、昭和54年



  



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倉敷市藤戸町の藤戸寺付近は、源平藤戸合戦の古戦場です。
寿永3年(1184)2月の一の谷合戦で惨敗した平家一門は、
四国の屋島に落ちのび、形勢逆転の機会を窺っていました。
その間、寿永の年号が元歴と改まり、後鳥羽天皇が即位し、範頼は三河守に、
義経は左衛門尉(じょう)に任命されます。その後すぐに義経は
検非違使尉の宣旨を受けて、九郎判官義経と呼ばれるようになります。
源範頼率いる3万余騎が、日の出の勢いで平家追討のため西国へ出陣しました。
平行盛(清盛の次男基盛の子)が屋島から500余騎を率いて備前児島に
城郭を構えたとの知らせを受け、源氏軍は備前に迫りました。
児島は今は陸地でつながっていますが、当時は本土と海峡を隔てた島でした。

元歴元年(1184)12月、合戦は高梁川・旭川・吉井川が運ぶ土砂の堆積によって海峡が狭まり、
所々に浅瀬がある25町(約2,7㎞)ほどの藤戸海峡を挟んで行われました。
本土側に源氏軍が陣を張り、児島に陣を置く平家軍と対峙しましたが、
水軍をもたない源氏勢は攻めることもできず、手をこまねいているしかありません。
源氏方の武将・佐々木三郎盛綱は宇治川の先陣で名を馳せた佐々木四郎高綱の兄です。
弟に勝る功名をと機会を狙っていた盛綱は、様々な物を贈り地元の漁師から
浅瀬のありかを聞きだして案内させ、無惨にも口封じのために漁師を殺めました。

翌朝、盛綱はわずかな手勢を率いてためらう味方をしり目に馬を泳がせます。
油断していた平家方はあわてて矢を射かけますが、盛綱主従はこれを
ものともせず向う岸に上陸し先陣の名乗りを上げました。盛綱が海を渡りきると、
浅瀬と知って源氏の3万余騎もそのあとに続き、敵陣目指して突入し、
激しく攻め戦います。そして、一日戦っただけで平家勢は屋島に退いてしまいました。

頼朝から盛綱は「昔から馬に乗りながら川を渡る武者はいたが、
海を渡った武者など聞いたことがない。」と称賛され、
のちに児島を領地として与えられました。


元歴元年12月7日の早朝、平家は舟をこぎ出して
扇で「ここまでおいで」と手招きすると、源氏軍は歯ぎしりをして悔しがります。
その中から佐々木盛綱が郎党を従えて馬を海に出します。
盛綱の無謀な行動を制止しようと、後方から土肥次郎実平も海に馬をいれます。

海峡の名残の藤戸川(倉敷川)の両岸には、乗出岩や藤戸寺、
浮洲岩跡、経ヶ島など藤戸合戦ゆかりの史跡が散在しています。

乗出岩
対岸の平家方目ざして盛綱が馬で第一歩を踏み出した岩

バス停「山陽ハイツ下」から北(JR倉敷)方面に進むと、乗出岩案内板がたっています。






先陣庵
藤戸合戦の際、佐々木盛綱は先陣を切ってこの付近に上陸しました。
合戦後、盛綱は源平両軍の戦死者を慰霊するためこの地に寺を建て、
天暦山先陣寺と名づけました。今は小さな庵があるだけですが、
当時は大きな寺院だったようです。

バス停「藤戸寺下」から西方に進むと西明院の駐車場があり、
山の中腹に白塀に囲まれた西明院が見えてきます。



先陣庵を預かる西明院



先陣庵は西明院の境内にあります。

西明院の裏山に上ると、山陽ハイツの小高い丘が遠望できます。

西明院本堂と金比羅宮を結ぶ回廊が、山に向かって伸びています。

藤戸海峡の海底は、いま広大な田園となって眼下に広がっています。
♪いま刈田にて海渡る兵馬見ゆ 誓子

佐々木盛綱が陣を構えた高坪山(有城)に建つ山陽ハイツのロビーには、
藤戸合戦のパネルが展示されています。

係りの方から「藤戸周辺の史跡めぐり案内図」をいただきました。
藤戸合戦古戦場2(藤戸寺・浮須岩跡)  
藤戸合戦古戦場3(経ヶ島・盛綱橋)  
『アクセス』
「山陽ハイツ」岡山県倉敷市 有城1265 
JR倉敷駅から下電バス「山陽ハイツ入口」下車 17、8分坂道を上ります。

「乗出岩」下電バス「山陽ハイツ入口」下車 倉敷方面へ徒歩約7分
「西明院」岡山県倉敷市粒江1214 下電バス20分「藤戸寺下」下車 西方面へ徒歩約30分
(バス1時間に2、3本)
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年 「岡山県の地名」平凡社
「検証日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「平家物語絵巻」林原美術館、1998年
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「日本古典文学全集「謡曲集」(2)小学館、昭和54年



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地御前神社は厳島の対岸、明神山の社叢を背にして鎮座しています。
かつて厳島神社も伊勢神宮同様、内宮と外宮から成り、
明治維新までは厳島神社を内宮、当社を外宮(現在は摂社)としていました。
厳島が聖地と見なされた時代、島には社殿を造ることが許されなかったため、
対岸に神社を造って神を祀り、外宮はその島を遥拝する社でした。
その後、次第に島を禁足地とする意識は薄れ、島内に社殿が建てられるようになると、
祭祀の中心は外宮から内宮に移っていきました。

現在の地御前神社は、拝殿一宇・本殿二宇・幣殿一宇からなっていますが、
仁安3年(1169)に厳島神社神主佐伯景弘が書き残した文書によると、
十九宇の社殿があったとされ、当時の規模の大きさを物語っています。
この頃、清盛は私財をつぎこみ厳島神社の社殿を寝殿造りに作り替え、廻廊をめぐらし、
大鳥居を建て替えているので、外宮の修造も清盛の援助によるものとされます。

社伝によると、創建は厳島神社と同じ推古天皇元年(593)頃と伝えられています。
祭神も厳島神社と同じで、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を主祭神として、
田心姫命(タゴリヒメノミコト)、湍津姫命タギツヒメノミコト)のいわゆる宗像三女神を祀っています。



国道2号線、広島電鉄宮島線とJR山陽本線に挟まれて建っています。

拝殿、その背後に本殿。

社殿は国道2号線そばにありますが、車の往来が激しいこの国道はかつて海でした。

画像は早稲田大学古典籍総合データーベース「厳島図会」よりお借りしました。
江戸時代に発行された「厳島図絵」を見ると、地御前神社のすぐ前には海が広がり、
鳥居は海中にたっています。

平安朝ころ、都で盛んに行われていた管絃の風習を平清盛は厳島神社に移しました。
都で行われていたのは、河川や貴族の邸宅内で苑池に船を浮かべる「管絃の遊び」でしたが、
清盛はこれを神事として瀬戸内海で催すようになりました。
楽器も多く、
人数も多いことから大型の船でないと間に合わず、貿易船を用いたものと思われます。
現在、旧歴の6月17日の夜に催される管絃祭は、午後4時厳島神社の本殿で
発輦祭(はつれんさい)が行われ、次いで本殿から出た
鳳輦(ほうれん)を管絃船に移し、3艘の漕ぎ船にひかれ大鳥居沖に進みます。
船内で管絃を合奏しながら対岸の地御前神社の入江に入り、
管弦3曲を奉納して厳島神社に還ります。

また、陰暦の5月5日には、御陵衣祭が催され雅楽舞や流鏑馬神事が奉納されます。
『アクセス』
「地御前神社」 広島県廿日市市地御前5丁目
広島電鉄宮島線「地御前駅」から徒歩約10分。

『参考資料』
「広島県の地名」平凡社 「伊都岐島」厳島神社社務所 日下力「厳島神社と平家納経」青春出版社



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源氏軍が布陣した玉島乙島の常照院境内にも
「源平水島合戦城趾」の碑があります。



玉島大橋(全長460m)の西側にある
源平合戦水島古戦場の碑から、
東側の乙島へ渡ります。
かなり車の往来があり、
大きな車が通るたびに橋はゆれます。

玉島大橋別名源平大橋



ここから眼下に平家が北陸道の倶利伽羅合戦の屈辱を
ようやく晴らすことができた水島合戦の舞台、玉島港を一望できます。
スカイブルーに輝く海は、かって源平両軍が
死闘を繰り広げたとは思えないほど穏やかです。





常照院は丘の上にあります。






乙島へ入ると周辺の道巾は狭く、
車が一台やっと通れる程の細い道が続き、
地図を片手に高台にある常照院に上ると、
平家軍が陣を張った柏島一帯が遠望できます。
倉敷市域の海岸線は中世末期以降の干拓によって変化し海域は陸地化し、
戦後になると干拓地・埋立地は次第に南方にも拡大し、
水島コンビナートが形成されました。
玉島大橋から南方の海を見やればコンビナートに出入りする
タンカーが遠くに見えます。
源平水島古戦場(1)柏島 
『アクセス』
「常照院」倉敷市玉島乙島257
JR「新倉敷駅」前から両備バス「玉島中央町」下車 徒歩約40分
『参考資料』「検証・日本史の舞台」東京堂出版

 



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水島合戦は都落ち後の平家と木曽義仲の戦いです。
義仲に都を追われ西に落ちた平家は、
九州から屋島に戻り
陣を構えるや着々と体勢をたて直し、都をもうかがう勢いです。

木曽義仲はこれを聞いてすぐさま源義清を大将軍、
海野(うんの)行広を侍大将として7千余騎を遣わします。
ちなみに『滋野系図』では、海野幸氏(ゆきうじ)は行広の子とされます。
幸氏は義仲の嫡男義高が頼朝の元に送られた時、一緒に鎌倉に行き、
義高が殺害された後は御家人として頼朝に仕え、弓の名手として重用されます。
後世、六連(文)銭を家紋とする「真田氏」は、
この系譜に連なると自称しています。

水島古戦場は現在の玉島大橋(倉敷市玉島)が架かる辺の
海域であったと推測されています。
玉島大橋を挟んで西の柏島は平家、東の乙島は源氏方が陣を置き、
すざましい戦いが繰り広げられました。
現在はどちらも陸地化していますが、当時は二つの島であり、
昭和52年に架けられた柏島と乙島を結ぶ玉島大橋は源平大橋とも呼ばれています。

この橋は歩いて渡ることができるので平家側の柏島から
源氏が陣を布いた乙島までの古戦場めぐりを楽しみました。


JR新倉敷駅





「玉島中央町」でバスを下り、玉島大橋まで進みます。





玉島大橋西側の「源平合戦水島古戦場」の石碑には、
皆既日食をイメージする黒い円が描かれています。これについて
『倉敷の源平合戦古戦場めぐり』には次のように書かれています。
「水島合戦が行われた日は皆既日食にあたっていたことが
裏付けられています。平家は海戦に慣れているだけでなく、
あらかじめそうした天文知識も持ち合わせていたことから、
沈着冷静に戦うことができたのでした。」

『源平盛衰記・源平水島軍の事』には、
「天俄に曇りて日の光も見えず、闇の夜の如くなりたれば、
源氏の軍兵共、日食とは知らず、いとど東西を失ひて、舟を退けて、
いずちともなく風に随って逃れ行く。」と記されています。


源平合戦水島古戦場の碑

寿永2年(1183)閏10月1日、源義清は5百余艘の船を用意し、
備中水島(倉敷市)から対岸の屋島を攻め寄せる準備をしていました。
そこへ突如、先手を打った平家軍が千余艘の船を従えて海上に現われます。
大将軍は沈着冷静な新中納言知盛(清盛の四男)、
副将軍は平家最強の公達・能登守教経(清盛の甥)
平家軍は教経の指示で船を縦横に並べて綱で結びつけ、
上に板を渡して平坦な陸地のようにしました。
平家軍は、その上を自由に走り回ります。

互いに鬨をつくり、矢合わせをして船を寄せあって攻め戦いますが、
巧妙な戦法で臨む平家軍に対して、源氏軍は数の上でも劣勢の上、
船戦に不慣れなため、たちまち大将軍と侍大将が討取られて総崩れとなりました。
平家はこの水島合戦に勝利し、倶利伽羅合戦の雪辱を果たしたのでした。
源平水島古戦場(2)常照院  
『アクセス』
「源平合戦水島古戦場の碑」岡山県倉敷市玉島柏島
新倉敷駅より両備バス玉島中央町行「玉島中央町」下車徒歩5、6分
バスは平日1日16便、日・祝日1日11便
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社

「検証・日本史の舞台」東京堂出版 武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」 世界思想社
「倉敷の源平合戦古戦場めぐり」倉敷観光コンベンションビューロー
水原一考定「新定源平盛衰記」(4)新人物往来社

 

 



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音戸瀬戸は呉市警護屋(けごや)と対岸の倉橋島(呉市音戸町)の間にある海峡で、
長さはおよそ800m、幅はわずか80m、
潮の流れの速さと行き交う船の多さで知
られています。
この瀬戸を開削したのが平清盛と伝えられています。

伝説によれば、西に沈みかけた太陽を清盛が扇で招き返し、
一日で開削工事を終わらせることができたという。



JR呉駅からバスで「音戸渡船口」へ

清盛塚  
音戸瀬戸渡し舟で倉橋島へ渡ると音戸大橋のすぐ下の海岸にあります。
清盛が音戸瀬戸開削の際、人命を尊んで、人柱の代わりに
一字一石の経石を海底に沈めて難工事を完成させたと伝えられ、
清盛の功績と供養のために宝筐印塔が建立されました。



橋の下を大型船が絶え間なく行き交っています。

清盛が厳島神社に参詣する航路にするために切り開いたという伝説は、
地形学上否定されていますが、江戸時代から、
ここを通る旅人たちは音戸の瀬戸と清盛の関係を見聞きし、
それを広めていったと考えられています。

休山(500㍍)の丘陵一帯は音戸瀬戸公園とよばれています。
吉川英治文学碑
  吉川英治が「新平家物語」の史跡取材のため、
音戸瀬戸を訪れたのを記念し、音戸瀬戸公園に建立されました。
三角石の吉川英治が瀬戸の絶景を見下ろしながら丸石の清盛に
「君よ 今昔の感 如何(いかが)」と問いかけています。

三角の石には「君よ 今昔の感 如何」と吉川英治の筆で刻まれています。
日招き像  
音戸瀬戸公園の高烏台(展望台)には、
清盛が沈む太陽を扇で招き返し、工事を急がせたという伝説により、
昭和42年(1967)に日招き像が建てられました。
日没の方向に扇を向けて立ち、太陽までも意のままに
操ったとされる往年の清盛をほうふつさせます。

日招岩 
日招像から200m程、山道を下ると清盛の足跡と杖の跡が残る岩があります。







音戸瀬戸渡し舟
音戸の瀬戸を片道3分で結ぶ定期航路です。
時刻表はなく、午前5時半から午後9時まで運航しています。
一人でもお客が乗ればすぐ出港し、対岸で手を挙げれば迎えに来てくれます。

『万葉集』巻十五には、天平八年(736)、遣新羅使人が
安芸国長門島に停泊した時の歌が五首詠まれています。

♪わが命を長門の島の小松原 幾夜を経てか神さびわたる (3621)

江戸時代後期、広島藩の儒者香川南浜(なんぴん)考証『秋長夜話』以来、
長門の島は倉橋島のことと考えられ、倉橋島にはいくつかの万葉歌碑が建っています。

長門の島が倉橋島であれば、奈良時代すでに音戸瀬戸は海峡であって
清盛が開削したのではなかったことになります。
瀬戸の水深が浅かったため大型船が航行できるよう清盛が
開削したという説話も、地質学・地形学上否定されています。

康応元年(1389)、足利義満の厳島参詣にお供して音戸瀬戸を通った
今川了俊は、『鹿苑院殿厳島詣記』に「音戸の瀬戸といふは
滝のごとくに潮はやく、せばき処なり。」と記していますが、
清盛の音戸瀬戸開削については一言もふれていません。

厳島神社神官棚守房顕が天正8年(1580)に書いた『房顕覚書』に
「清盛福原より月詣て在、音渡瀬戸其砌(みぎり)被掘」とあり、
戦国時代にはすでに清盛開削伝説があったことがみえます。

天正十六年(1588)、毛利輝元が豊臣秀吉の下へ上洛した際に書いた
『輝元公卿上洛日記』にも
「午の刻に瀬戸を御舟被出、此戸中に清盛の石塔有之」とあります。

毛利輝元が見たという清盛塚は室町時代の宝筐印塔といわれることから、
この伝説は遅くとも室町時代には成立していたと考えられています。

 清盛が日宋貿易の海路また厳島神社に参詣する航路を
整備したことは明らかであり、
平氏が航路整備上なんらかの手を加えた可能性は否定できませんが、
清盛が音戸瀬戸を開削したという確証はありません。

急流と渦潮で名高いこの瀬戸を、櫓をこいで行き来する船が
難儀した様子を民謡『音戸の舟歌』に
「ヤーレー船頭かわいや 音戸の瀬戸でヨー
一丈五尺のヤーレノー  櫓がしわるヨー」と謡われ、
北広島の『壬生の花田植え歌』の歌詞には
「清盛公は 日の丸の扇で 御日を招き戻した」とあり、
この伝説は地元だけでなく中国山地にまで知られていました。

江戸時代、寄港地として瀬戸町(呉市音戸町)が形成され、
音戸瀬戸と清盛の開削伝説を見聞きして帰った旅人によって、
伝説がしだいに広まり定着していったものと思われます。

なお、「警護屋」は清盛音戸瀬戸を開削中、
警護の武士が駐屯したからついた地名だと語り継がれていますが、
『武士の成長と院政』には、「警護屋という地名は瀬戸内西部各地にみられ、
清盛は厳島参詣ルート・瀬戸内航路掌握のための
海域監視所として警護屋を置いたのではないだろうか。」とあります。
『アクセス』
「音戸の渡し船」
 JR呉駅からバス約20分(1時間に2、3本あり)「音戸渡船口」下車すぐ
(つつじのシーズンは道路が渋滞し、バスが延着します。ご注意ください)
「吉川英治文学碑」
音戸瀬戸公園 バス停音戸渡船口から徒歩15分
「日招き像」
音戸瀬戸公園高烏台  バス停音戸渡船口から徒歩約1時間
バス停音戸渡船口からタクシー12、3分
平成25年1月14日までの土・日・祝日限定無料シャトルバスがあります。
お問合せ 「平清盛音戸瀬戸ドラマ館」(☎0823-50-0041)
『参考資料』

 「広島県の地名」平凡社 「広島県の歴史散歩」山川出版社 
下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社 犬養孝「万葉の旅」(下)教養文庫  

 

 



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吉備津神社近にある鯉山(りざん)小学校の東隣に
瀬尾太郎兼康の墓と伝える宝筐印塔があります。

瀬尾(せのお)兼康(?~1183)は、現在の岡山市と倉敷との中間辺の
妹尾(現、瀬尾町)を本拠地とする豪族で、剛勇の名をとどろかせた
平家譜代の家臣です。
保元・平治の乱にも平家方として戦い、
鹿ケ谷事件では藤原成親(なりちか)の拷問役も務めています。


古代、岡山・倉敷辺りは海で、児島半島は内海の一つの島であり、
源平時代には、この辺の大半は海で北の山際まで海が入り込み、
一面に湿地帯が広がっていました。
その湿地帯を開拓した兼康は領地を守るため、備前の難波経遠らとともに
平氏の家人となり、その繁栄を支えたのです。





中世中頃の宝篋印塔です










寿永2年(1183)4月、倶利伽羅合戦に出陣した瀬尾兼康は、木曽義仲配下の
倉光成澄(なりずみ)に生捕られましたが、義仲は名高い勇士を
討つのを惜しんで命を助け、成澄の弟倉光成氏にねんごろに世話をさせます。

『平家物語(巻8)瀬尾最期の事』の章段には、
同年10月、都落ち後に勢力を盛り返した平家追討に山陽道へ向う
木曽軍の道案内を申し出た兼康の最期を描いています。

 平家が都落ちすると倶利伽羅峠で大勝利した義仲が北陸路から
京都へ入ってきましたが、義仲の都での評判は田舎育ちの
乱暴者ということで、決して芳しいものではありませんでした。

一方都落ちした平家は屋島を拠点として体制をたて直し、
水島合戦(倉敷市玉島)で木曽軍に勝利し、屈辱を晴らしました。
この知らせを聞き、義仲は西国へ馳せ下り平家を討とうとしていました。

「瀬尾兼康は倉光成氏に『私は倶利伽羅合戦で命を助けていただいた身、
今度の合戦では、この命を木曽殿に捧げます。ところで私の領地妹尾は
牧草の豊富な所です。これをお世話になった貴方様に献上します。』と
故郷の妹尾をへ案内すると言って、倉光成氏を誘いだし
山陽道を下り妹尾に着くやたちまち反旗を翻し成氏を殺害しました。

兼康の裏切りに激怒した義仲は、今井四郎3千余騎に兼康討伐を命じます。
一方の兼康は地元の兵2千余人を集めて備前国福隆寺縄手に城郭を構えて
義仲軍を迎え撃った。と言っても、若い武者や武具・馬は平家根拠地の屋島に
差出し、集まって来たのは、即席に造った武器を手にした老兵ばかりでした。

にわか造りの城郭はしだいに攻め落とされ、ついに主従三騎となり、
馬も射られて徒歩で西へと逃れて行きますが、息子の宗康は
若いのに太っていたので、疲れてもう走ることも動くこともできません。
このままでは敵に追いつかれると、兼康は息子を見捨てて10町ほど
逃れて行きましたが、やはりわが子を捨てきることができずに引き返してきます。

宗康は「こんな身体なのでここで自害するつもりでした。私のために
父上の命まで失わせることはできません。どうか早くお逃げください。」と言うが
兼康は「もう覚悟はできている。お前と運命を共にしようと戻ってきた。」と
言って聞き入れない、そこへ今井四郎兼平の大軍が襲いかかりました。
兼康は敵5、6騎を射落とし、矢がつきると太刀を抜いて息子の首を落とし、
敵の中に斬りこみ奮戦の末についに討死しました。」

瀬尾兼康は屋島にいる平家と合流するため、無謀を承知で恩ある
義仲軍相手に合戦を繰り広げ、最期まで平家に忠誠を尽した武将でした。
兼康の首を見た義仲は「あっぱれ、剛の者かな。
もう一度助けておきたかった。」とその死を惜しみました。

2歳で父を失い、木曽の中原兼遠のもとに預けられた義仲には、
譜代の家臣とよべる者はなく、義仲が旗挙の際に集まった
人々の多くは義仲の誠実で純朴な人柄や中原兼遠一族の
努力によるものが大きかったと思われます。
義仲はこれまで知らなかった譜代という主従の縁に殉じる
武士魂に相対し深く感動しています。またわが子を見殺しにできなかった
兼康の心情にも共感したのではないでしょうか。
 『アクセス』
「妹尾兼康供養塔」岡山市北区吉備津 
JR「吉備津駅」より徒歩10分
 『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
水原一「平家物語の世界」日本放送出版協会 佐伯真一「戦場の精神史」NHKブックス
「岡山県の地名」平凡社 「岡山県大百科事典」(上)山陽新聞社

 

 

 



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JR吉備津駅を降り立つと前方に吉備の中山が姿を現し、
その山裾に向って東へ少し歩くとやがて長床の堂舎が見えてきます。
明治中頃、天台系修験の寺として開かれた宗教法人福田海(ふくでんかい)です。
この裏山に藤原成親の墓(県史跡)があります。
境内に入り、細谷川に沿って山道を上ると、成親が幽閉された山寺という
高麗寺(こうらいじ)の山門跡に至ります。

そこからさらに上った頂に石垣が築かれ、中央に玉垣に囲まれた
藤原成親の墓といわれる五輪塔の一部がひっそりと据えられ、
傍らには明治末、福田海によって建立された九重の供養塔があります。
 


岡山県・広島県東部は、古く吉備とよばれ、吉備津彦神社・
吉備津神社の中間辺、備前・備中の境にある丘陵を吉備の中山といい、
古くから歌枕の地として知られていました。
有木の別所は吉備の中山の山塊の一つ有木山にありました。


←吉備津神社  吉備津彦神社→

福田海本部 長床の堂舎






藤原成親遺跡の碑









「史跡 高麗寺仁王門跡」の碑



成親遺跡まで徒歩10分













治承元年(1177)、東山鹿ヶ谷の山荘において、平家討伐を企てた罪で
後白河法皇の近臣が配流処刑されるという事件が起こりました。
歴史上有名な鹿ケ谷事件です。この事件の首謀者藤原成親は、
平治の乱でも平清盛に敵対して敗れ、妹婿平重盛に助けられています。

この度も重盛の嘆願によって、死刑を免れ備前児島に流罪となり、
次いで備前・備中の境にある「有木の別所」という山寺に移されました。
それから僅か二ヶ月後、結局そこで殺害されました。
『平家物語』によると、
はじめ酒に毒を入れて殺そうとしましたが
飲まないので、崖の下に鋭い刃物を埋め立て、上から突き落としたという。
清盛の深い憎しみが伝わってくる残忍な殺害方法です。

清盛は国家の刑罰ではなく、自分の一存で現職の正二位権大納言である
藤原成親を正式の解官の手続きを行なわないまま、
配流し殺害するという信じがたい事態を引き起こしました。

鹿ケ谷事件で成親を折檻したのは、吉備豪族の難波経遠・妹尾兼康です。
成親を預かり自分の領内で惨殺したのは難波経遠とされています。

なお、成親の殺害方法は『愚管抄』(巻5)には「7日ばかり物を食わせで後、
さうなきよき酒を飲ませなどしてやがて死亡してけり」とあり、
『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』には「難波次郎之を承り、
二三日食事を断ち、酒に毒を入れて殺し奉るとぞ聞こえし。
又谷底に菱を殖えて、高きところより突き懸けて
失い奉るとも云ひ伝へり。又船に乗せ奉り、燠(おき)に漕ぎ出でて
ふしづけに為したりとも云へり。」とあります。

京の北山雲林院辺に隠れ棲んでいた成親の妻は、夫の死を伝え聞くと、
出家して菩提樹院(京・左京区吉田神楽岡町にあった寺)に籠り
成親の後世を弔いました。
「彼女は山城守敦方の娘で、ならぶものもない美人。
もとは後白河院の愛人で
あったのを、院が成親に与えた。」と
『平家物語』は記しています。

成親の息子丹波少将成経(なりつね)は、
謀議に加わっていませんでしたが、
当時の掟で父に連座して瀬
尾(せのお)兼康に護送され、
その本拠地、備中国妹尾に流罪となりました。
父のいる有木の別所との距離は、僅か50町 (1町は109m)足らずでしたが、
会わせてもらえず、
やがて成経は俊寛・平康頼とともに
鬼界が島へ流されていきました。
石清水八幡宮高良神社( 藤原成親謀反)  
  
瀬尾(妹尾)太郎兼康の墓  
 『アクセス』
「藤原成親遺跡」岡山市吉備津有木谷 JR吉備津駅下車 徒歩約35分。
『参考資料』
「岡山県の地名」平凡社 薬師寺慎一「考えながら歩く吉備路」(上)吉備人出版
「岡山県の歴史散歩」山川出版社 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書 元木泰雄「平清盛」角川ソフィア文庫
高橋昌明「「平清盛 福原の夢」講談社



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徳大寺実定(1139~1191)は藤原北家閑院流、右大臣
公能(きみよし)の長男で、二代の后といわれた多子の同母兄です。
 当代きっての文化人で、今様朗詠の名手・詩・和歌に優れ、
勅撰集に73首選ばれています。
現在の竜安寺辺にあった山荘や徳大寺を公成・公実を経て、
祖父実能が引き継いだため、
 実能の家系は徳大寺家とよばれるようになりました。
 


閑院流藤原氏は、
 閑院太政大臣・公季(きみすえ)から出た公家の家です。
 公季の孫公成の娘茂子が白河天皇の母、公実の妹苡子(しげこ)が
鳥羽天皇の母となり
外戚として摂関家に迫る勢いとなり、
公実の息子たちはそれぞれ一家をたてました。

公実の娘璋子(待賢門院)が鳥羽天皇の後宮に入り
崇徳・後白河両天皇を生み
 その後も近衛、二条両天皇の皇后多子、
後白河天皇の后・成子、皇后・忻子、女御・琮子のような
歴代天皇の妻や天皇の母を輩出した家柄です。

後白河院の皇子以仁王は多子のまたいとこにあたり、多子の近衛河原の
大宮御所で密かに元服したことが、
『巻4・源氏揃』に見え、
その謀反の背後には、
徳大寺家の力もあったと考えられています。





『巻2・徳大寺厳島詣での事』は、徳大寺実定(さねさだ)が主人公です。

1177年、左大将人事の候補に実定の名が挙がり、
新大納言藤原成親もそれを望みますが
結局、
清盛の長男重盛が左大将、次男宗盛が右大将と
清盛の子息たちが左右大将を占めました。

大将を望んでいた実定は、落胆のあまり大納言を辞して
籠居することになりますが、
そこへ訪ねてきた
家来藤蔵人(とうのくろうど)重兼の
勧めに従い、
清盛が崇拝する厳島に7日参籠し、
 帰りには内侍たちを都まで連れてきて歓待しました。

 大将祈願のために実定が厳島に参詣したことを聞いた清盛は、
 感激し早速重盛に左大将を辞めさせ実定を左大将にしました。
 「あはれ、めでたかりけるはかりごとかな。新大納言成親は
 このような賢明なはかりごとがおありにならず、
鹿ケ谷で平家打倒の談合をして
殺害されたのは
情けないことであった。」と作者は結んでいます。
『参考資料』
「平安時代史事典」角川書店  「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 
新潮日本古典集成 「平家物語」(上)新潮社 
日下力・鈴木彰・出口久徳「平家物語を知る事典」東京堂出版

 

 

 

 
 




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高倉上皇の厳島御幸が行われたのは、ちょうど清盛が
鳥羽殿に後白河法皇を幽閉している時でした。
何かと横暴な振舞いの多い清盛を諌め、法皇と清盛を結びつける
役だった重盛(清盛の嫡男)が病死、
しかし法皇は重盛の死を悲しむ様子も見せず、
重盛の知行国・越前を取り上げて清盛を挑発します。これに激怒した
清盛は、治承3年(1179)の政変(クーデター)を起こし、
後白河法皇を鳥羽殿(京都市伏見区)に幽閉しました。

高倉天皇の母は清盛の妻時子の妹の建春門院、父は後白河法皇です。
清盛の娘徳子を后とし、二人の間には皇子(安徳天皇)が
誕生しています。治承4年2月清盛の意向により、高倉天皇は
退位して上皇となり、僅か三歳の安徳天皇が皇位を継ぎました。
天皇が譲位してはじめての諸社への御幸は八幡、賀茂、春日などが
習わしですが、
高倉上皇は二人の対立に心を痛め清盛の心を
和らげようと、同年3月清盛が信仰する厳島神社に出発しました。

途中、鳥羽殿に幽閉されている父を見舞い、鳥羽の草津から川船で
淀川を下る途中、石清水八幡宮へ船中から御幣を奉り、藤原邦綱の
寺江亭に到着すると、福原の清盛から唐船が廻されていました。
その船で入江を巡航、翌朝、悪天候のために陸路をとり
上皇は輿、貴族たちは馬に乗り、福原の清盛邸に着きました。

清盛の山荘には、木立庭の有様、絵に描きとめたいと思うほどの
美しい庭があり、そこに厳島内侍(巫女)がやって来て、
ある者は唐風の装いをして舞を舞い、
ある者は殿上で神楽を歌ったりして一行をもてなしました。

福原からは清盛も唐船に乗り、一行を厳島まで先導しました。

厳島では写経が奉納され、舞楽が演じられるなど
平家一門の歓迎を受けた後、神社の社・末社などを巡拝し、
夕刻に瀧宮神社を参拝しました。
21日間のこの旅で高倉上皇は疲労困憊し、
その後も以仁王の挙兵や福原遷都などの心労が重なり、
治承5年(1181)正月、21歳の若さで崩御しました。
今回は高倉上皇が厳島御幸の際に参拝した厳島神社背後の霊山、
弥山(500m余)中腹にある瀧宮神社をご紹介します。

廻廊

本殿・幣殿・拝殿

廻廊から望む大鳥居

西の松原先端近くに祀られている清盛神社

承安4年(1174)後白河法皇が参詣された折の御幸松の遺木です。


厳島神社H・Pよりお借りした絵図に一部文字入れさせていただきました。

弥山登山口、石造四脚鳥居から白糸川の渓谷沿いに道は上りになります。

滝宮神社に上る石段の左側にある巨大な石は「御幸石」です。
高倉上皇が厳島御幸の時、この石の上に輿を据えて白糸の滝をご覧になったという。


瀧宮神社の背後に流れる白糸の滝

導師となった三井寺の公顕僧正が読んだという一首
♪雲井より落ちくる滝の白糸に 契を結ぶことぞうれしき  

(空から落ちてくる白糸のような滝、
その滝宮と縁を結ぶことができるのはまことに嬉しいことよ)
<

瀧宮神社
「瀧宮神社(現地駒札)
御祭神 湍津姫命(たぎつひめのみこと)
相殿神 大歳神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)
例祭日 二月一日
御由緒 御鎮座の年月不詳
治承四年(1180)高倉上皇が平清盛らと厳島参詣した折、三月二十七日夕刻に
この瀧宮神社を参詣したと「高倉院厳島御幸記」に記されている。
平成十七年九月六日台風十四号の土石流により本殿が流失し、
現在の本殿は平成二十四年四月に再建されたものである。」

平成24年7月、再度厳島神社を訪ね瀧宮神社を参拝しました。
『参考資料』 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
 新日本古典文学大系「中世日記紀行集」岩波書店
 「伊都岐島」厳島神社社務所


 

 

 

 

 

 

 

 

 



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鹿ヶ谷事件発覚後、この事件に加担した平判官康頼は
丹波少将成経・俊寛僧都とともに鬼界ヶ島へ流され、この
島から
康頼が流した千本の卒塔婆のうち
1本が厳島神社の卒塔婆石に流れ着き
これが赦免のきっかけとなりました。


厳島神社参拝入口から東廻廊を進み、朝座屋(あさざや)で
右折すると左側に鏡池があります。


満潮時にはここまで海水が入ってくるので、池の中の卒塔婆石は水面下です。


潮が引くと卒塔婆石が現れます。
池の背後には、厳島神社で一番古い康頼燈籠があります。
この燈籠は赦されて帰洛後、康頼が奉納したと伝えられています

三人が流された島の住人は、都の言葉を理解できないため、
意思の疎通ができず、農業が難しい土地で漁や狩をして暮らしていました。
熊野信仰に篤い康頼は島の中に熊野の地形によく似た所を見つけ、
熊野三所権現を勧請し、成経(なりつね)とともに
毎日自分たちの帰京を熱心に祈りましたが、

俊寛は熊野権現を信じることもなくこれに加わりませんでした。
成経の舅平教盛(清盛の弟)が所領の肥前国嘉瀬庄
(かせのしょう・現、佐賀市嘉瀬町)から衣食を送ってくれたので、
三人は何とか生き延びていましたが、
抑えがたい望郷の念に
康頼は千本の卒堵婆を作っては
年月日、名前、自分の心境を二首の和歌にして

♪薩摩潟沖の小島に我ありと 親には告げよ八重の潮風
(薩摩の沖の小島に私がいると母親に知らせておくれ。
八重の潮風よ)

♪思ひやれしばしと思ふ旅だにも なほ故郷は恋しきものを
(ほんのちょっとの旅に出ても故郷は恋しいものであるのに、
こうして島流しにされていつ帰れるか分からない私の気持ちを
思いやって下さい。)と書きつけ海に流しました。

やがてそのうちの1本が平家の崇拝する安芸国厳島の
社殿に流れ着き、
康頼ゆかりの僧がこれを偶然に見つけました。
卒堵婆は都に運ばれて紫野(京都市北区大徳寺辺)に暮らす
康頼の家族に渡り、後白河法皇の目に触れることとなりました。

「ああ!この者どもはまだ生き長らえておったのか。」と
想像だにできない
遠い島に暮らす近臣達の無念さを思って涙を流し、
卒堵婆は法皇から重盛に送られ、重盛が父清盛に見せると、
さすがに清盛も哀れに思いました。

はるか京の北、紫野に届いた1本の卒堵婆の話はたちまち都中の
噂となり、卒塔婆に記された和歌は鬼ヶ島流人の歌として
誰もが口ずさむようになったという。


折しも高倉天皇の中宮徳子(清盛の娘)が懐妊しましたが、
容体が思わしくありません。
陰陽師に占わせると、さまざまな
死霊や生霊が取りついて中宮を苦しめているとのことです。
そこで清盛は鬼界ヶ島の流人を呼び戻すことにしました。
流罪から一年後、都からの使者が鬼界ヶ島に着いたといいます。
しかし赦免状には
俊寛の名前がなく、
俊寛は1人島に取り残されました。


康頼には後白河法皇が丹波少将成経には舅の平教盛がいましたが、

俊寛には赦免に奔走してくれる有力な人がいなかったためとも
清盛の取り立てで出世した身、その恩を忘れ密議の場所を
提供したため
俊寛の裏切りだけは許さなかったともいいます。
また赦免状が下された時には、
すでに俊寛は亡くなっていたともいわれています。

ちなみに康頼らが流された鬼界ヶ島は、
読み本系諸本では「硫黄島」と記してあり、
この鬼界ヶ島は鹿児島県南方沖合にある
硫黄島をさすといわれています。
平康頼出家の地(光市普賢寺)  
 『参考資料』
「伊都岐島」 厳島神社社務所 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
 
「平家物語を知る事典」 日下力 「日本古典文学大辞典」第4巻 岩波書店
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社  「日本奇談逸話伝説大事典」勉誠堂新編
日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館



 
 

 

 

 

 



 

 


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舞楽蘭陵王(らんりょうおう)の像が、宮島行フェリー乗り場ロータリーに建っています。
 


厳島神社で挙式した新郎新婦・参列者のために舞楽が舞われました。
たまたま近くに居合わせ、高舞台から聴こえる
雅楽の調べに駆け寄り舞台に見入りました。

廻廊と釣り灯篭



国宝高舞台

平清盛が厳島神社に伝えた舞楽がこの舞台で舞われます。

厳島神社の朱塗りの欄干に囲まれた高舞台で舞われる舞楽、
テレビ、写真等でよく見る独舞の「蘭陵王」が目の前で舞われました。
空の青、群青の海、波間に浮かぶ大鳥居、朱色の衣装、潮の香り
この間僅か七~八分だったように思います。













厳島神社の舞楽
 舞楽は雅楽ともいい、宮廷や寺社の儀式で演じられてきた古代の音楽舞踊です。

 久米舞、倭舞等国風歌舞も含めますが、普通は外来の楽舞のことです。
 舞楽は唐楽とうがく(中国、インド、ベトナム、中央アジアから伝わったもの)と
 高麗楽こまがく(高句麗・百済・新羅 及び渤海より伝えられたもの)に大別されます。

 『日本書紀』によると、天武天皇12年(684)正月高麗楽が行われていた記事があり、
 この頃には機会あるごとに舞楽が舞われていたようです。
厳島神社の舞楽は、古くから「都に恥じず」との
名声がとどろいていた四天王寺から平清盛によって移され、
神社には平家一門が納めた舞楽面九面が伝えられています。
ちなみに我国に初めて舞楽が伝えられたのも四天王寺です。
清盛が宮廷の舞楽を移さなかったのは、藤原氏に対する対抗意識によるものです。

 高倉上皇が厳島御幸の際にも、雅楽に合わせて舞楽が舞われ、
神楽が奉奏され、
上皇自筆の金泥の法華経が奉納されました。

舞楽面「陵王」
 「陵王」は眉目秀麗な中国の王、蘭陵王長恭(らんりょうおうちょうきょう)が、
 味方の士気を鼓舞するため勇猛な面をつけて戦いに臨んだとの故事にちなみます。
 深く刻まれたしわ反り返った鼻、むき出しの前歯は醜悪ともいえ、
 動眼とよばれる別材製の眼球が、鋭い視線をむけます。
 またつり顎の仕掛けは、舞に合わせて揺れ動きます。いずれも、
猛獣に似た激しい息づかいが聞こえてくるような緊迫感があります。
 舞楽面陵王の記事および舞楽面の画像は、
古寺をゆく「四天王寺」より引用させていただきました。

 『参考資料』 
「伊都岐島」厳島神社社務所 古寺をゆく「四天王寺」小学館 
 「日本の伝統芸能」(第16巻) 錦正社
 「日本庶民文化史料集成」(神楽・舞楽) 三一書房



 







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