平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




維盛が訪ねた高野山は、人里から遠く離れたところにあり、
内外八葉とよばれる転軸山・弁天岳などの八つの峰に囲まれ、
その有様はまるで巨大な八枚の蓮の花弁のようです。
高野山の歴史はこうした地形に注目した
弘法大師が嵯峨天皇に願い出て寺院を開いたのが始まりです。

『平家物語・巻10』によれば、清浄心院は嵯峨往生院(滝口寺)に
出家遁世していた滝口入道が、
横笛への思いを断ち切るために入った寺で、
高野山東部、奥の院の近くにある宿坊寺院です。
開基は弘法大師で、本尊の二十日大師は、入定前日の
承和二年(835)三月二十日の姿を刻んだ像といわれ、
その後、清盛の三男の平宗盛が堂宇を再建したと伝えられています。

ある日、重景、石童丸、武里を供に屋島から抜け出た維盛が、
むかし父重盛に仕えた斎藤滝口時頼(滝口入道)を頼って訪ねてきました。

時頼は十三の年から滝口の詰所に出仕して宮中警護にあたっていましたが、

横笛との恋に破れ、蓮華谷にある清浄心院(しょうじょうしんいん)で
仏堂修行に励んでいました。滝口というのは、
清涼殿の軒下を流れる御溝(みかわ)水の落ち口のことですが、
この詰所に出仕する武士のことも「滝口」とよびました。

境内にあったという滝口入道の草庵は、大正十二年暮れに火災で焼失、
庵の前にあったという井戸は、大円院に移されました。(『カメラ散歩平家物語』)

大円院第8代の住職は滝口入道で、江戸時代まで当院は奥の院近くの
蓮華谷にありましたが、明治21年の大火後、小田原谷の現在地に移転しました。
この井戸には、次のような伝承があります・
横笛が女人禁制の山に鶯となって飛来し、梅の木にとまって思いを囀りましたが、
ついに井戸に落ちて死んでしまいました。入道はその菩提を弔うため
阿弥陀如来を刻んだといい、現在も鶯井・鴬梅を残しています。


寺は秀吉が花見の宴を催したという傘桜で知られています。





沙羅双樹下の平家物語冒頭の一節を記した駒札が
平家ゆかりの寺であることを伝えています。


再会した滝口入道はまだ30歳にもならないのにまるで老僧のようにやせ衰え
都にいたころの華やかさはすっかりなくなっていました。
「これは夢とも、うつつとも覚えませぬ。屋島をどうして
逃れてこられたのでございますか。」と尋ねられ、

維盛は入道にこれまでの悩みを打ち明けます。妻子に会いたいが、
敵に捕らわれて捕虜になることを思うとそれもできないこと、
宗盛殿や二位殿(時子)から「この人は二心ある。池大納言(頼盛)のように、
頼朝と心を通わせている。」などと疎んじられて孤立したこと、
高野で出家して命を絶ちたいと思うことなどを語ります。

頼盛は池禅尼の子で清盛の異母弟にあたり、

六波羅池殿に住み池殿・池大納言とよばれました。
都落ちに際して一門を見限り、頼朝を頼って
都に留まりまもなく鎌倉に下向します。


維盛主従は入道に案内されて高野のさまざまな堂塔・奥の院を巡礼し、
翌日、東禅院の智覚上人を招いて出家します。
ちなみに東禅院は高野山南谷にあった寺院ですが、今は廃寺となっています。
その前に維盛は、自分の死後は都へ帰るよう重景と石童丸に諭しますが、
二人は聞き入れません。しばらくして重景が「わが父与三左衛門景康は、
平治の乱の時、故重盛殿のお供をして悪源太義平(頼朝の兄)に討たれました。
その時、まだ二歳になったばかりの重景を重盛殿が情けをかけて下さり、
この子はわしの命に代わってくれた景康の子であるからと、
大切に育てていただきました。重盛殿ご臨終の時には、それがしを召されて、
「維盛の意に背くことないように仕えよ」と仰せられました。
日頃、君の御大事の場合には、まっ先に命を捧げようと思っていましたのに、
今さら見捨てて去れとは、あんまりなお言葉。ご主君を見捨てるような男と
思っておられたのが悔しいと言いつつ、自ら髪を切り落とすと石童丸も髪を切ります。
維盛は妻子に今一度変わらぬ姿を見せたかったと未練を残しますが、
そうもしていられないので、入道は維盛の髪を剃りおろします。
維盛と与三郎重景とは同い年で、二十七歳、
八歳の年から維盛について可愛がられた石童丸は十八歳でした。

しばらくして、
維盛は武里を呼び、屋島に行き一門の人々にこのように申してくれ、
「維盛は世を厭うて出家した。平将軍貞盛から九代の間伝えられた唐皮の鎧、
ならびに小鴉の太刀を、形見に残すので、今後平家の運が開け、
ふたたび都へ帰るようなことがあれば、嫡子六代に渡してほしい。」
武里は涙をおし拭いながら、同じ道にと言いますが、維盛はこれを許しません。
「それでは殿の最期の御ありさまを見届けた後、屋島にまいりましょう。」と言うので、
滝口入道を引導の師とし、一行は高野山を出て熊野に向かいました。
滝口入道と横笛(高野山大円院)  
平維盛入水(浜の宮王子跡・振分石)  
平維盛供養塔(補陀洛山寺)  
『アクセス』
「清浄心院」高野町高野山566 ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「一の橋」下車すぐ
『参考資料』

「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「高野山」小学館
 「和歌山県の地名」平凡社 五来重「高野聖」角川選書 「カメラ散歩平家物語」朝日新聞社

 

 



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金堂の東北にある大塔は、弘法大師が真言密教の
根本道場として建立したことから根本大塔ともよびます。

清盛の破格の出世の背後には、熊野権現や厳島の神の加護があると
『平家物語』は、くり返し述べています。清盛が保元・平治の乱に勲功を立て、
安芸守を務めていた頃、伊勢湾の安濃津(津市)から海路をとり
熊野参詣の途中、鱸が清盛の船の中に飛び込むという珍事がありました。
先達の修験者が「昔、周の武王の船にもやはり白魚が躍りこみました。
これは熊野権現の示現に間違いありません。お召し上がり下さい。」というので、
精進潔斎しての道すがらですが、その魚を調理させ一族で食べたところ、
以後、平家では吉事が続き、清盛は太政大臣にまで出世、
一族の人々も瞬く間に高い官職に就いていきました。
一門の繁栄は熊野権現のご利益であると「巻1・鱸の事」は伝えています。。

 清盛と安芸の厳島神社を結びつけたのが高野山の大塔でした。
清盛が同じく安芸守であった時、鳥羽院から高野山の大塔を修理せよと命じられ、
6年がかりで修築を終えた後、高野山に登り大塔を拝み、奥の院に参詣すると、
どこからともなく白髪の老僧が現れ、「大塔の修築が終わったことはめでたい。
だが安芸の厳島神社は荒れ果てている。このついでに厳島を修理すれば
汝に高い官位を保障する。」と告げるとかき消すように見えなくなり、
その老僧の立っていたところからは、良いお香の薫りがただよいました。


再建中の中門前の駒札

これは弘法大師に違いないと思われ、ますます尊く思い、
清盛は高野の金堂に曼荼羅を奉納し、西の曼荼羅は絵師常明法印に描かせ、
東の胎蔵界曼荼羅の中央部、大日如来の宝冠には、
清盛自身の頭の血を混ぜて描いたということです。
清盛は都に帰り、さっそく院の御所に参上し、このことを申しあげると、
院も非常に感動され、厳島を修理するよう命じられました。
厳島神社の鳥居を建て替え、社殿を造り替え、
百八十間の廻廊を造り、修理を終えその後、厳島に参詣すると、
角髪(びんずら)を結った天童が現れ、
「私は厳島大明神の使いである。汝この剣で天下を鎮め、
朝廷の守りとなれ。」といって銀の蛭巻をした
小長刀(1m程のそりのない刀)を授けられる夢を見ます。目覚めると、
この夢の通りに枕元に小長刀(こなぎなた)がありました。
そればかりか、大明神が現れ、「高野山で老僧が言った
一門繁栄のことであるが覚えておるか。悪行を行えば子孫までの
繁栄は続かないぞ。」と言って立ち去りました。(巻3・大塔建立の事)

史実における清盛と高野山とのかかわりは、
弘仁十年(819)に弘法大師が建立した大塔は、
久安五年(1149)雷火により焼失、当初、播磨守平忠盛が
再建奉行を務め、清盛はその代官として高野山を訪れました。
父忠盛の死後、清盛がこの事業を引き継ぎ、
保元元年(1156)伽藍再建供養に際し、両界曼荼羅を奉納しました。
この曼荼羅は、「血曼荼羅」と呼ばれて今に伝わっています。

血曼荼羅の画像は霊宝館よりお借りしました。

高野山のシンボル大塔は、昭和12年(1937)再建の鉄筋コンクリート製です。

 高野山は西の大門から東の奥の院に至る東西6㎞の境内地に
123宇の堂塔伽藍や商店が軒を連ねています。
その中心となるのが奥の院と壇上伽藍です。

大門通りの北側の一段高い地域にある壇上伽藍には、
大塔・西塔・金堂・御影堂・不動堂などの主要な建築物が建ち並び、
この一帯は金剛界曼荼羅の中核をなすところといわれています。



東側(右手前)から東塔・三昧堂・大会堂・愛染堂・大塔

壇上伽藍のほぼ中央に位置する金堂

金堂の東、大塔の正面に建つ大塔の鐘

昔、大塔の前にあった桜の木の前で清盛と弘法大師が対面したという
伝説にちなんでこの木を対面桜とよんでいましたが、
今はなく中門の桜の木の前に対面桜の駒札があります。
金堂南の中門は、天保14年(1843)に焼失し、現在再建中です。


弘法大師の持仏堂として建立された御影堂(大塔の手前左)

金堂の西に建つ鳥羽天皇の皇后・美福門院寄進の六角経蔵
『アクセス』
「高野山」和歌山県高野町高野山132
大阪難波駅から南海電鉄高野線で極楽橋駅下車。ケーブルに乗り継いで高野山駅へ

 ケーブル高野山駅から南海りんかんバス11分 金剛峯寺前下車すぐ
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
「日本史の舞台」東京堂出版 「高野山」小学館 「和歌山県の地名」平凡社
別冊太陽「平清盛」平凡社




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大阪市難波から南海電車高野線に乗り、
終点の極楽駅でケーブルに乗り換えます。


山上の高野山駅から南海りんかんバスに乗ります。

千手院橋の交差点、千手院橋でバスを下りました。

この奥に高野山の壇上伽藍があります。

前回まで清盛の五男重衡の物語を読んできました。
もう一人敗者の道をたどる人物がいます。
重盛(清盛の嫡男)の長男維盛です。
『平家物語』では、維盛を平家一門の嫡流として描いていますが、
重盛、清盛が亡くなるとその立場は大きく変化します。
一門の実権は、時子の生んだ子供達に移り、
宗盛が平家の総帥として采配を振るうことになりました。

重盛の母は高階(たかしな)基章の娘とされ、
重盛の弟、宗盛、知盛、重衡らの母は清盛の後妻時子です。
時子は妹の建春門院(平滋子)が後白河法皇の寵愛を受け、
高倉天皇を生んだことや、娘徳子(建礼門院)
が高倉天皇に入内し、
皇子を出産したことなどから、彼女に連なる人々が発言力を強めていきます。
一方、重盛は平家打倒を企てた藤原成親の妹を妻にし、成親の娘を維盛の
妻とするなど成親と深い姻戚関係で結ばれていたため、
陰謀が発覚すると小松家(重盛一族)の立場は非常に悪くなり、
政治的な発言権が弱まったと思われます。

後白河法皇と清盛との間をとりもっていた建春門院が亡くなり、
一門の中で最も法皇に近い立場にあった重盛が病没すると、かろうじて
保たれていたバランスが崩れ、後白河法皇と清盛の対立が深まります。
そして諸国の源氏が蜂起し、諸国に内乱状態が広がると伊豆の頼朝も挙兵、
朝廷はこの反乱を鎮圧しようと、維盛を追討軍の大将軍に任命します。
出陣する維盛の武者姿は、絵にも描けぬ美しさだったと平家物語は伝えています。
頼朝追討軍は東国に向かい、富士川で源氏の数万の大軍と対陣しましたが、
水鳥の羽音に驚きほとんど戦わずして逃げ帰ります。その翌年には
清盛が亡くなり、
次いで北陸から迫る木曽義仲を討つべく追討軍を率いる
大将軍も維盛でしたが、倶利伽羅峠の戦いで義仲の策略にまんまとはまり、
大敗北し大打撃を平氏側に与えました。
二度までの惨敗を喫したことが、彼の立場を一層苦しくしたに違いありません。
そればかりでなく重盛が平治の乱の時、頼朝に情をかけたということがあって、
一門の人々から頼朝に心を通わせているのではないかと不信の目で見られ、
一門の中で維盛の存在はあやういものになっていきました。

都落ちの際、ほとんどが妻子を連れて逃れましたが、維盛は家族を
伴いませんでした。妻が平家に叛旗を翻し清盛に殺された成親の娘ということで、
辛い思いをすることになるのではないかと、すがる妻子をなだめ、
自身は平家の将来に絶望しながらも一門に従い九州へと落ちていきます。
しかし、都に妻子を残したことが宗盛らの不信感を一層つのらせることになります。
九州にも安住の地がなく、大宰府から屋島に向かう豊前柳ヶ浦の船上で、
弟の清経が海に身を投げ、維盛が体調を悪くし参戦しなかった
一の谷合戦では、やはり弟の師盛が戦死しました。
6人の兄弟(資盛・清経・有盛・忠房・師盛)のうち2人を相次いで失い、
維盛の衝撃は大きかったと思われます。

そしてある日の明け方、維盛は屋島の陣を抜け出ます。
都に残した妻や幼い子供達に
もう一度会いたいという切なる思いからでした。
一門における小松家の微妙な立場に加え、弟たちの死、
大将軍として出陣した富士川合戦、倶利伽羅合戦と重要な戦いに負け続け、
平家は都落ちしなければならなくなりました。
一ノ谷合戦にも加わらず、一門からますます孤立したことでしょう。
それらがないまぜになって維盛を一門から離脱させる要因となったと考えられます。

乳母子の与三兵衛重景と童の石童丸、それに舟を漕ぐ心得のある 武里を供に
阿波国結城の浦から船出し、鳴門海峡を渡り紀伊の港(和歌山市)に着きました。
そこからすぐにも都に向かいたいのですが、「重衡が生捕りにされて
都に生き恥をさらしたばかりなのに、自分まで敵に捕えられて
汚名を重ねるのも心苦しい」と思い直し高野山に登りました。
そこで昔、父の重盛に仕えていた斎藤滝口入道時頼に会いました。
維盛の脱走は、当然裏切り行為として怪しまれ、昔、池禅尼と共に
重盛がとりなして頼朝を助けたという縁で、維盛は一門を裏切り
頼朝を頼るのではないかと疑われます。

与三兵衛重景(しげかげ)は父の景康も重盛の乳母子で、親子二代乳母子という
固い絆で結ばれていました。平治の乱で重盛が悪源太義平と戦った際、
景康が重盛をかばって討死し、その時、まだ2才であった重景を重盛が育て
その子に自分の名の一字をつけて「重景」と名乗らせました。

高野山清浄心院(滝口入道・維盛出家)  
平維盛入水(浜の宮王子跡・振分石)  
平維盛那智沖で入水(山成島)  
平維盛供養塔(補陀洛山寺)  
『アクセス』
「高野山」
和歌山県高野町高野山132
開門時間 8時半~17時 
大阪難波駅から南海電鉄高野線で極楽橋駅下車。ケーブルに乗り継いで高野山駅へ。
高野山駅から南海りんかんバス11分 金剛峯寺前下車徒歩すぐ
『参考資料』

「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 安田元久「平家の群像」塙新書
高橋昌明「平家の群像」岩波新書 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会
 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 

 

 



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千手の前は手越(現、静岡市)の長者が千手寺に祀られている
千手観音に祈願して生まれ、千手と名付けられたと
伝えています。

一の谷合戦で捕虜となった平重衡が鎌倉へ護送されてくると、
頼朝は重衡の堂々とした態度が気に入り、囚人ながら手厚くもてなします。
頼朝だけでなく鎌倉幕府の人々が重衡を好感をもって迎えたことが
『吾妻鏡』からも窺えます。重衡の世話を命じられた千手の前は、
「眉目容姿(みめかたち)・心様、優にわりなき者」と平家物語にあるように、
聡明で容姿気質ともに優れた女性でした。
刻々と死が迫る重衡を包み込むようにやさしく接する千手は、
重衡にとってかけがえのない存在になっていったと思われます。

平家が壇ノ浦で全滅すると、南都の衆徒たちから、重衡の身柄引渡しを求める
強い要請があり、頼朝はそれを抗しきれず、重衡の処分を南都の僧に任せます。
重衡は東海道を西へ、大津から東海道をはずれ奈良に送られました。

南都が重衡を要求したのは、重衡が南都に焼き討ちをかけて東大寺大仏殿、
興福寺などの伽藍を全焼させたことによるもので、平氏に衰運の
きざしが見えはじめた頃、反平氏の拠点となった南都を抑えるために
清盛が本三位中将重衡を大将軍として攻めさせたのでした。

その後の千手について『吾妻鏡』は、重衡が処刑された3年後、
政子に仕える千手前が重衡への思いのためか御前で気を失い、間もなく息を
吹き返しましたが、3日後に24歳で死去したという記事を載せています。
(文治4年4月22日、同月25日条)
ところが『平家物語』によると、重衡の死を聞いた千手前は髪をおろし、
墨染の衣に身をやつし信濃の善光寺で修業し重衡の後世を弔い自らも
極楽往生の願いを遂げたと伝え、『吾妻鏡』とかなり違います。
『平家物語』は、合戦の敗者重衡に好意的で、重衡の罪は罪として認めながらも、
何とか重衡を救済させたいと「戒文の事」の章段に法然を登場させ
説法を受けさせています。
次いで重衡を浄土に救済する役割を千手に与え、
「千手前の事」の末尾に出家して重衡の菩提を祈る
千手の姿を書き加えたと考えられます。

重衡が法然の教義を聞くさまは、後世の『法然上人行状絵図』には見えますが、
古い系統のものにはなく、実際に重衡が法然によって受戒したかどうかは
明らかでなく、『平家物語』の創作かも知れないとも言われています。
物語は鎌倉新仏教の開祖の中でも最も民衆的で、
その教えに多くの人々が耳を傾けた法然を
重罪に苦しむ重衡の戒師として登場させたのかも知れません。

なぜ千手は善光寺で出家したのでしょうか。
これについて『新潮日本古典集成』の頭注には、「善光寺は平安時代末期より
中世以降に全国的に信仰が広まった。千手の入寺もこの宗教的機運と関連して
語られたものであろう。」と記され、千手と善光寺信仰とを結びつけた伝承のようです。

静岡県磐田市残る伝説によると、平重衡が処刑されてのち、
千手の前は髪をおろして尼となり、熊野(ゆや)御前を頼って
白拍子村に庵を結び、24歳で亡くなるまで重衡の菩提を弔ったという事です。
千手の前と熊野御前の間をとりもったのは、謡曲『熊野』の中で
熊野を京都に迎えに行ったという侍女の朝顔です。
前野の松尾八王子神社東側には、朝顔の塚がありこの物語を伝えています。

江戸時代の遠江国中泉村(磐田市)の医師山下熈庵(きあん)が著した
『古老物語』には、「豊田郡池田庄野箱村に白拍子千寿の前の廟所あり。
千寿の前は駿州手越の長者が娘なり。平重衡刑死後は尼となり当国に
蟄居の故此処を白拍子村と呼ぶ。葬る所の墓印に松を植え、
世人傾城の松と言へり。」とし、
野箱村の傾城塚が千手の前の墓と伝えています。
『磐田市誌』には、「この塚は寛文4年(1664)雷火のため焼失し、
その8年後白拍子の供養のため戒名と「白拍子之古廟」を意味する碑文を
刻んだ石碑が建立された。」とあります。




千手堂バス停の西方に建つ案内板







野箱の傾城塚

『静岡県の地名』によると、「千手寺の本尊十一面観音は千手前の念持仏と
伝えているが、後世、千手と千手観音の両者が結びつけられたらしい。」とあり、
地元に伝わる話がどこまでが本当なのかわかりませんが、
歴史的な事柄が脚色され、
能や郷土芸能(浪曲・千寿の詩・千寿てまり歌)などに
語り継がれて広まり、
伝説化していったのではないでしょうか。
なお、この地方ではいつからか千手を千寿と呼ぶようになったといいます。
平重衡と千手の前1(少将井神社)  
平重衡と千手の前2  
熊野御前と平重衡 (行興寺・池田の渡し)  
『アクセス』
「千手堂」静岡県磐田市千手堂637 
JR磐田駅よりバス掛塚線「千手堂」下車徒歩約10分
バス停北の道を西へ進み案内板から南へ
バスの本数は、日中は2時間に1本、ラッシュ時は1時間に1本程度です。

「傾城塚(千手の墓)」磐田市野箱 「朝顔の塚」磐田市前野
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
「静岡県の地名」平凡社 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書
 安田元久「平家の群像」塙新書 現代語訳「吾妻鏡」(奥州合戦)吉川弘文館
梅原猛「法然の哀しみ」(上)小学館文庫



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伊豆の狩野介宗茂に預けられた平重衡は、まもなく伊豆から鎌倉に移されます。
重衡の器量に感心した頼朝は、丁重にもてなし御所内の建物一軒に招き入れました。
速やかに首をはねられよ。と即刻断罪を願った重衡ですが、
これから鎌倉で一年余も過ごすことになります。


ある雨のそぼ降るものさびしい夜、頼朝は重衡の徒然を慰めようと
藤原邦綱、工藤祐経、官女の千手を遣しました。
祐経が鼓を打って今様を謡い、千手前が琵琶を弾き、重衡は横笛を吹いて
時を過ごします。祐経は以前、
平重衡に仕えていたことがあり、歌舞音曲に通じ、
頼朝の側近の中では、最も趣味の広い文化人でした。


千手前は面白くなさそうな重衡の様子を見てとり、『和漢朗詠集』から
重衡の心を汲んだ内容の「十悪といへどもなお引摂す」という朗詠を歌い
「極楽往生を願う人はみな、弥陀の称号を唱うべし。」という
弥陀の慈悲を讃える今様を4、5遍くり返すと、
重衡の気持ちが少しほぐれてきたのか、ようやく杯を傾けました。
それから琴で「五常楽」を弾くと、重衡はふざけて「この楽は五常楽であるな。
いまの自分には後生楽(後生安楽)と聞こえる。
それではすぐ往生するよう往生の急でも弾こうか」と琵琶を手にとって、
「皇じょう」の終曲にあたる急を弾きました。「五常」を「後生」にかけ、
「往生の急」を雅楽の「皇じょうの急」にしゃれて言い換えたのです。
雅楽では、楽曲を構成する三つの楽章、序・破・急(テンポが速い)があり、
重衡は皇じょうの「急」の部分を弾き、往生を急ごうという気持ちを表しました。
この逸話から重衡が清盛と時子との間の末の息子で、
両親からも大変に可愛がられて育ち
陽気で、冗談が好きな性格であったことを思い出させてくれます。

「ああ思ってもいなかった。あづまにもこのように雅びな女性がいるとは。
何かもう一曲」と重衡が所望すると、千手の前は「一樹の陰に宿りあひ、
同じ流れを結ぶも、みな是前世のちぎり」という白拍子舞につけて歌う歌を
心をこめて歌います。するとあまりの面白さに重衡も『和漢朗詠集』の中に収める
「灯闇うしては数行虞氏が涙 夜ふけて四面楚歌の声」という朗詠を歌います。

この朗詠の意味を少し説明しましょう。
昔中国で、漢の高祖(劉邦)と楚の項羽が位を争って合戦すること七十余度、
戦いごとに項羽が勝利しますが、最後には敗れ、項羽の垓下(がいか)城は
敵の大軍に包囲されます。夜が更けるにつれて包囲する四方の漢軍の中から
項羽の故郷の楚の歌が聞こえ、項羽はもはや楚の民がみな漢に降ったかと
驚き嘆き、最愛の妃虞美人と別れを惜しみ涙を流した。と『史記』にあります。

橘広相(ひろみ)が項羽の心を歌ったこの朗詠を重衡は思い出し、
項羽を自らに重ね合せ、自分が四面楚歌の状況
に置かれている事を実感し
また琴や歌でなぐさめる千手の心遣いに触れて心を開き、二人の間に流れる
時間を項羽と虞美人との最後の夜になぞらえて、歌ったのでしょうか。
『平家物語』は、「いとやさしうぞ聞こえし。」と語っています。
重衡の朗詠が優雅であっただけでなく、
二人の歌の応酬がまことに優美に聞こえた。といっているのです。


外で立ち聞きをしていた頼朝は、翌朝千手に向かい、世間体を憚って、宴に
同席しなかったのが悔やまれる。と言い重衡の芸のすばらしさを称賛すると、
その場に居合わせた斎院次官中原親義がやはり残念がり、
「そうでしたか。平家一門には、代々歌人や才人が揃っていますが、
重衡殿は歌舞音曲の名手であられますか。
いつぞやこれらの人たちを花にたとえたことがございましたが、この時、
重衡殿の
華やかさを牡丹の花にたとえられました。」と語りました。
こうして重衡の撥音や朗詠の歌いぶりは後々の語り草となりました。
そしてほんの一晩ですが、
千手前と重衡は朗詠や楽曲を通して互いに心を通わせました。
これは『吾妻鏡』、『平家物語』の中の
重衡の風流な一面が印象深く語られた一節です。
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館 新潮日本古典集成「和漢朗詠集」新潮社



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