平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



玉龍山泉橋寺(せんきょうじ)は山城町の南端、泉大橋の北詰、
木津川の堤防下にある浄土宗の寺で俗に橋寺とよんでいます。

天平13年(741)に行基が泉川(木津川)に橋を架けた時、
供養のために建立した橋寺で、これに因んで寺名を泉橋寺としました。
以後、行基が建てた五畿内四十九院の一つとして長く橋の管理にあたりました。
往時は寺域も広く、本堂以下五重塔・鐘楼・経蔵・鎮守社
・方丈など多くの建物がありましたが、
治承4年(1180)平重衡の南都攻めの時に焼失しました。
その後金堂・講堂などが再建され、東・北・西の3方に堀をめぐらし
堀の外北東には五重の塔があったという。
しかし、寺は中世の兵火で次第に衰微していきました。

大正7年(1918)の発掘調査で寺より東北100mの畑の中に
創建当時の塔心礎が発見されています。

京都と大阪を結ぶ国道24号線の木津川に架けられた泉大橋。
行基によって泉橋寺の門前に架けられた橋は、川の流れが早いため、
洪水の際、たびたび流されるので、貞観18年(1893)朝廷は
船三艘を購入して泉橋寺に施入し、人馬の渡しに備えていました。

桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川になる三川合流地
右岸側を大山崎という。三川合流地点から25㎞。


表門

日文研HP 『拾遺名所都図会』巻四 画像66より転載。

江戸後期の『拾遺名所都図会』の挿絵で見る寺は地蔵堂を主とし、
表門・庫裡および地蔵石仏からなっていますが、
現在は地蔵堂は観音堂となり、新たに本堂兼庫裡が建っています。
本堂には、鎌倉時代作の本尊地蔵菩薩立像を安置しています。
この像は上半身は裸形で、下半身に
裳(も=腰部につけるスカート状の衣服)をまとっている珍しいものです。

観音堂

本堂兼庫裡

『拾遺名所都図会』の挿絵に「神功皇后塔」としるした石塔、
かつて光明皇后の遺髪塔といわれた五輪石塔は、境内の東南隅にあります。

南都焼討の犠牲者を供養した五輪塔(重要文化財、鎌倉時代、高さ 2・4m)

基壇の側面を二区に分かち、格狭間を入れ、四方とも束・羽目・地覆を
一石で組み立てているのを特色とする。古来光明皇后の
遺髪塔といわれてきたが、先年移転に際して多くの遺骨が発掘され、
治承四年(1180)平重衡の南都攻めの折の犠牲者の
供養塔であることが分かった。(『新撰京都名所圖會 巻6・洛南2』)

「格狭間(こうざま)」須弥壇 (しゅみだん) や仏壇などの
基壇部の側面を装飾するために施された刳 (く) り物。

「壇上積」直角に加工した石材を規則的に積み上げた基壇です。
積み上げる石は、もっとも下層が「地覆石(じふくいし)」、
次に「羽目石(はめいし)」「束石(つかいし)」、
そしてその上に「葛石(かつらいし)」と積層構造になっています。
「反花(かえりばな)座」 仏像の蓮華座で上向きについた蓮弁。


寺の入口西側(左手)の山城大仏と称される地蔵石仏は
鎌倉時代作の花崗岩の巨大な丈六(458Cm)座像です。兵火を浴びて
仏身は焼けただれていますが、なお鎌倉時代の様式をとどめています。



泉橋寺
泉橋寺は、奈良時代の高僧・行基によって、木津川に架けられた
泉大橋を守護・管理するために建立された寺院である。
その門前にある地蔵石仏は、永仁三年(1295)に石材が切り始められて、
その十三年後の徳治三年(1308)に地蔵堂が上棟・供養されたもので、
またその願主は般若寺の真円上人であった。その時、
地蔵石仏の本体は ほぼ完成していたとみられるが、台座と光背は、
その後に完成が目指されたもので、この地蔵石仏の造立が
いかに大がかりなものであったかが偲ばれる。
一四七0年頃から応仁の乱の影響が南山城地域にも及び、
文明三年(1471)に大内政弘の軍勢が木津や上狛を攻めて
焼き払った際に、泉橋寺地蔵堂も焼かれて石仏も焼損、それ以来
地蔵石仏は露座のままとなっている。現在みる地蔵石仏の頭部と両腕は、
元禄三年(1690)に補われたものである。(説明板より)

平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)  
『アクセス』
「泉橋寺」 京都府木津川市山城町上狛西下55
JR上狛(かみこま)駅より徒歩約17分。
または、コミュニティーバスで山城線(木津駅行きのみ停車)泉大橋下車、徒歩約3分。

『参考資料』
竹村俊則「新撰京都名所圖會 巻6・洛南2」白川書院、昭和40年
竹村俊則「今昔都名所図会(洛南)」京都書院、1992年
「京都府の歴史散歩(下)」山川出版社、1999年

 

 

 



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JR木津駅の東北に心道山安福寺(あんぷくじ=浄土宗西山派)があります。

最寄りの木津駅

安福寺は木津河原で処刑された平重衡の菩提を弔うために建立されたと伝え、
これにちなんで哀堂(あわれんどう)とも呼び、
山門前には「平重衡卿之墓」と標した石碑が建っています。



山門を入って左手に建つ十三重の石塔(重要美術品・鎌倉時代作)は、
重衡の供養塔と伝えられ高さは4・5mあります。
小ぶりで細身の石塔は花崗岩製で、十三重目と相輪は
当初のものではありませんが、各層の屋根の勾配はゆるく、
軒反りもおだやかで、鎌倉時代中期の様式をよくあらわしています。

平重衡卿之墓と刻まれています。

本堂に安置する本尊阿弥陀如来像(非公開)は、平重衡の引導仏といわれています。

寺宝に狩衣姿で合掌する紙本淡彩(しほんたんさい)
「平重衡像」(江戸時代作)を蔵し、重衡との関係を示しています。

また、江戸時代の紙本著色仏涅槃図が残っています。

『山州名跡誌』は、この寺の北に重衡の首を洗ったという首洗池、
重衡が斬首される前、勧められて柿を食べ、後世その地に柿を植えたが
実がならないという不成柿(ならずのかき)などを記しています。

不成柿・首洗い池へは、安福寺からJR奈良線をくぐって1筋目、
47号線沿いにある吉川医院の角を北へ進みます。

土堤の下、民家の庭先の脇にある柿の木は、もとの木の何代目かにあたります。
傍には、池というより水たまりのようなくぼみがあるだけです。
地元の人のお話によると、昔、池はこの場所から少し離れたところにあったそうです。



平重衡首洗い池は、生垣で囲んであります。



「平重衡首洗池・不成柿(ならずかき) 平清盛の五男、平重衡は、
治承四年(1180年)十二月二十八日、源氏に味方する
東大寺・興福寺を焼き打ちしました。 その後、一ノ谷の戦いで
源氏に敗れた重衡は、虜囚となって鎌倉の源頼朝の
もとへ送られましたが、南都の衆徒の強い引き渡し要求に頼朝も折れ、
元暦二年(1185年)六月二十三日、木津の地まで送られてきました。
南都の衆徒は、木津川の河原で、念仏を唱える重衡の首をはね、
奈良の般若寺にさらしました。 その際、
この池で首を洗い持参したと伝えられています。
その後、重衡を哀れんだ土地の人々は柿の木を植えましたが
一向に実のらず、このことから不成柿と称せられています。
 国鉄奈良線の東側にある安福寺には、重衡の引導仏という
いわれをもつ阿弥陀如来を納めた哀堂と十三重の供養塔があります。
昭和五十三年三月 木津川町教育委員会」(説明板より)

十二(上)重衡被斬 元暦二年(1185)六月
『平家物語絵巻』より転載。

木津川は南山城盆地を流れる淀川の支流をいい、
京都府・大阪府の境付近で宇治川・桂川と合流し淀川にそそぎます。



平氏滅亡後、南都大衆の要求にとうとう屈した頼朝は、
重衡の身柄を引き渡すことにしました。鎌倉から日野まで戻ってきた重衡は、
北の方大納言典侍(だいなごんのてんじ)と今生の別れをします。
重衡が長年召し使っていた木工右馬允知時(もくうまのじょうともとき)という
侍がいました。今は八条の女院(鳥羽天皇皇女)に仕えていますが、
かつての主が木津川の畔で処刑されると聞き、
急いで都から駆けつけると、重衡は喜んで「仏を拝んで死にたいと思うが、
何とかならぬか。」と頼みます。知時は警護の武士に相談をして、
付近から阿弥陀仏(来世の救済を約束する)を捜し出し、河原の砂の上に据えました。
知時は自身の狩衣の袖口に通したくくり紐を引き抜いて仏の手にかけ、
重衡にその紐を持たせると、重衡は仏に向かってやむなく犯した
自分の罪の大きさを申し述べ、仏縁によって極楽浄土に導かれますようにと
高らかに念仏を唱えながら首を差しのべて斬られたという。

この様子に警護の武士、見物の群衆、南都の僧侶らまでもが
涙を流しその死を悼みました。
『愚管抄』は、頼朝が南都の要求に屈し、重衡を南都に引き渡したことの非情さを、
人々は忌々しく思いながら重衡が通り過ぎるのを見送ったと記しています。

首は重衡が南都攻めの時、戦いの指揮をとった般若寺の大鳥居の前に
釘付けにされましたが、重衡の北の方はせめて骸だけでも
とりよせて供養しようと思い、輿をむかえにやって日野に連れてこさせました。
「生きておられた昨日までは、立派であったけれども
暑いさなかのこととて(現在の暦で7月28日)、

もう目もあてられぬ姿になっておられた。」と遺骸が
腐敗していく様を平家物語は生々しく語っています。

『延慶本』によると、八条院は石金丸に重衡の最後の
有様を見てくるよう鎌倉に護送される重衡の供をさせています。
石金丸ももとは重衡に仕えていた舎人(使用人)でした。
莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王は、以仁王(もちひとおう)の後ろ盾となり、
その遺児(北陸宮)に心を寄せ、重衡の運命にも深い同情を寄せ動いたようです。
人々は彼の罪を憎んでも、その明るい思いやりのある
人柄のよさは愛したのだと思われます。

『高野春秋』元暦元年七月には、「法然上人を介して重衡の首をもらい受けて

日野に送ったこと、木工右馬允知時が 重衡の髑髏を高野山の奥の院におさめ、
往生院(蓮華谷)三宝院に宿泊した。」ことが記載されているが、
法然上人でなく、東大寺大勧進の任に当たった重源が衆徒を説得して、
重衡の首を
奈良から日野に渡されたというのが実伝であろう。
(『平家物語(下2)』P30)
平重衡の供養を行った法界寺(重衡の妻と重源)  
『アクセス』
「安福寺」
 京都府木津川市木津宮ノ裏274 JR関西本線・奈良線・学研都市線木津駅から
400mほど北に行き、右折してJR奈良線をくぐるとあります。(約10分)
「不成柿・首洗池」 木津川市木津宮ノ裏 安福寺から約5分
『参考資料』
角田文衞「平家後抄 落日後の平家(上)」講談社学術文庫、平成12年
富倉徳次郎「平家物語(下巻2)」角川書店、昭和52年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
斎藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ選書6、1993年
武村俊則「昭和京都名所図会(南山城)」駿々堂、1989年
武村俊則・加登藤信「京の石造美術品めぐり」京都新聞社、1990年
林原美術館「平家物語絵巻」㈱クレオ、1998年
「図説 源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 



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JR山陰線亀岡駅の二つ北にある千代川駅から800㍍ほどのところに
金華山小松寺(浄土宗)があります。

この駅の東側を流れる大堰川は、亀岡盆地のほぼ中央を貫流したのち、
嵐山まで保津川となって流れ、京都盆地では保津川から桂川となり淀川に合流します。

千代川駅から国道9号線に出て、千原交差点で左折し山側へ向かいます。

千原交差点



小松寺は千原山の山麓、道沿いに水路が流れる集落のはずれにあります。





長い石段の先に表門がたっています。

本尊は阿弥陀如来、観音堂に懸仏(かけぼとけ)形式の十一面観音石像が祀られています。

鐘楼の傍から亀岡盆地が一望できます。

 

寺伝によれば、小松内大臣と称せられた平重盛(1138~1179)は、
仏の信仰厚く中国宋の育王山に祠堂金を納めた際、その返礼として
育王山青龍寺(せいりゅうじ)より三寸五分の十一面観音石像を贈られ、
守本尊としていましたが、寵臣(俗名不詳)にこの石像を与えました。

重盛死後、寵臣は形見の石仏を持って故郷の千原村に帰り、
出家して妙善と名を改め養和元年(1181)この地に観音堂を建て
この石像を安置し、金華山小松寺と称しました。

『桑下漫録』に引用されている「盥魚(かんぎょ)」に、
昔、瀬尾(せのお)太郎が千原村を領地としていたので、
寺院を構えて重盛の菩提を弔ったと記されています。

瀬尾太郎兼康は『巻4・無文』で、平家一門の未来について
悲壮な夢を見た人物として描かれています。

重盛はある夜、悪行が過ぎた罪で春日明神が清盛入道の首を
太刀の先に貫いて高々と掲げる夢を見ました。
その時、夜の明けるのを
待ちかねて兼康が参上し、重盛と同じ不吉な夢を語りました。

境内には近くの丹後街道沿いから移された法華経の経塚があります。

最明寺入道北条時頼(1227~1263)は諸国行脚の時、
観音堂へ参拝してこの村に逗留し、一個の石に一文字の法華経を書写し、
街道筋に埋め塚とし、その上に卒塔婆をたてたと伝えています。
江戸期の地図などにも「たかそとば村」(千原村のこと)とあり、
その下で市が開かれていたとの記録も見られます。

当初、高さが12間余(約22㍍弱)もあり、12面の銅鏡を掛け
高卒塔婆とよばれていましたが、倒れたり朽ち損じたりする度に
建て直され、銅鏡は5面に減り高さも随分低くなったという。

『平家物語』で、平重盛と宋との交渉を伝えているのは「巻3・医師問答」と
「巻3・金渡し(こがねわたし)」です。このうち「金渡し」によると、
重盛は自身の後世安堵のため、九州から妙典という船頭を呼び、
三千五百両を渡して「五百両はそちにとらせよう。三千両は宋に運び、
千両は育王山(浙江省寧波にある阿育王寺)の僧へ贈り、
二千両は帝へ献上し、それを田地に替えて育王山に寄進して
わが後世をとむらってほしいと伝えよ」といいつけました。


妙典は宋国へ渡り、育王山の高僧徳光禅師に会い、この由を一部始終申し上げると
禅師は重盛の心に感じ入り願いは叶えられ、今でも育王山では
重盛の菩提を弔う祈りが続けられているという。

妙典について『平家物語全注釈』の解説に、宗像氏国の家人、
許斐(このみの)忠太妙典入道という中国渡海の熟練者がいたと書かれています。
当時、宋との交通や貿易に九州の宗像氏が大きな役割を担っていたと考えられ、
許斐家は重盛に仕え水軍を司っていたと思われます。

宗像大社は中世のはじめには九州各地に40ヵ所余りの荘園を持ち、瀬戸内海や
北九州で高麗や宋と密貿易を行っていましたが、清盛の日宋貿易を重視する
対外政策が展開されると宗像氏は平氏の統制下に入りました。

現在宗像大社には、高さ1・5㍍、幅1㍍の阿弥陀経石(重要文化財)が安置されています。
それは重盛が育王山へ贈った寄付へのお返しとして、建久九年(1198)秋に
重盛追善のために宗像大社に送ってきましたが、すでに平家が
滅亡した後だったので都へは運ばれなかったと伝えられています。


また「妙典とは貴い経典の意味で、特に法華経をいう語でもある。
『延慶本』には重盛が宋に贈ったのは、金の他に持仏の霊仏と、
「一部十巻法花(ほっけ)妙典」を書写したものに
書面を添え、金を贈る旨を記している。
単に金だけを船頭の口頭で伝えて届けるより現実味がある。」
(『新潮日本古典集成』水原一氏頭注)

瀬尾太郎兼康は平氏の有力家人として、
生涯忠義を尽した武将として知られています。
瀬尾(妹尾)太郎兼康の墓  
『アクセス』
「小松寺」京都府亀岡市千代川町千原東斉の本23
JR山陰線千代川駅下車徒歩約13分

『参考資料』
「京都府の地名」平凡社、1991年 新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
倉富徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年 県史40「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年



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JR奈良線の玉水駅で下り南へ進むと、東に高倉神社があります。
社にはこの地で戦死した以仁王を祀っています。その社のJR奈良線を挟んだ西側には、
以仁王の仏事を営むために開かれたという高倉山阿弥陀寺があり、境内には
光明山寺が焼けた時、運び出されたといわれる阿弥陀石仏(鎌倉時代)があります。

20年近く前のお正月に高倉神社を訪れると、村の人たちが
羽織袴の正装で迎えてくれました。お神酒を勧めて下さって、
話をして行くようにいわれましたが、その日は玉水駅から
近鉄電車山田川近くにある藤原百川夫妻の墓まで、史跡をたずねながら
歩く予定だったので、丁寧にお断りして社をあとにしました。
いつもはシーンと静まり返ったお社ですが、お正月には村の人たちが集まり
お酒を飲みながら、以仁王や筒井浄妙の話に花が咲いているようです。

その時にいただいた資料によると、
「阿弥陀寺は僧円輪の開基と伝え、もと阿弥陀堂三艸庵(さんそうあん)と
称したという。以仁王落命の折、仏事を営み、建久3年(1192)、
これに因んで山号も高倉山としたと伝える。なお、境内には厚肉彫の石仏
(阿弥陀如来坐像)があり、鎌倉時代の優品である。」と書かれています。










以仁王(もちひとおう)は後白河院の第三皇子ですが、兄の守覚法親王(仁和寺門跡)が
幼い頃に出家したので第二皇子とされています。同母兄の二条天皇が若くして
死去したとき、本来ならば弟の以仁王が皇位に就くはずですが、
清盛の妻時子の妹建春門院滋子が生んだ高倉天皇が天皇の座に就きました。
さらに建礼門院徳子が
高倉天皇の皇子言仁親王(安徳天皇)を生み、
治承4年(1180)2月には高倉帝が譲位し、3歳の安徳天皇が位を継ぐと、
以仁王の皇位継承の可能性は完全に消えてしまいました。

同年4月、以仁王は諸国の源氏や大寺社に宛てて平家追討の令旨を発しましたが、
すぐに謀反は発覚し、源頼政の指示で以仁王は高倉宮御所から
源氏とつながりが深い三井寺に逃げ込みました。南都の寺院はすぐこれに呼応しましたが、
延暦寺の協力が得られず、以仁王は頼政とともに三井寺を脱出し南都をめざしました。

『平家物語』は、以仁王と頼政軍を1千人、鳥羽作道から南都に向かって南下してきた
追手の平家軍を2万8千余騎と伝えています。一方、九条兼実は平時忠から聞いた話として、
その日記『玉葉』に頼政軍50騎ほど、平家300余騎と記しています。
「騎」は馬に乗った武者の数なので、徒歩(かち)の家来は数えません。
軍記物語では、
合戦の兵数は誇張されますが、実数はこんなものだったのかも知れません。


途中、一行は平等院に入って以仁王を休ませ、宇治橋の橋板を外して、
敵がきても橋を渡れないようにしておきましたが、頼政は馬筏で次々と川を渡ってくる
平家の大軍を見て、以仁王を南都へ先立たせましたが、もう少しのところで
南都に逃げ込めず、光明山寺の鳥居前で流れ矢に当たり戦死しました。
この時、南都の僧兵の先頭は木津に着いており、あとわずか5キロほどで
合流できたはずなのにと『平家物語』は、以仁王の不運を嘆き残念がっています。

このように以仁王はあっけなく敗死しましたが、その令旨は生き続け、
頼朝も義仲も平家打倒の挙兵は正義であるという大義名分を掲げ、
相次いで旗揚げし源平の争乱の導火線となっていきました。

世間から遠ざけられていたこともあって、以仁王の顔を知る者は少なく、
その首級の確定ができず、実はこの時王は東国へ逃れて源氏を指揮しているのだ
という以仁王生存説が広まり、平家を脅かしたことが当時の史料から知れます。
高倉神社・以仁王の墓・筒井浄妙の塚  
 『アクセス』
「阿弥陀寺」京都府山城町縛田神ノ木
JR奈良線玉水駅下車南へ徒歩15分
『参考資料』
永井晋「源頼政と木曽義仲 勝者になれなかった源氏」中公新書、2015年 
上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」吉川弘文館、2012年
斉藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ出版、1993年 
「平家物語」(上)角川ソファ文庫、平成18年 
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂、1989



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亀岡市南部の矢田地区、法楽寺山の麓に那須与市堂があります。
縁起によれば、平安時代の一条天皇の御代に安倍晴明が法楽寺山に法楽寺を建立し、
恵心僧都(源信)作の阿弥陀如来像を本尊として深く信仰したとしています。
源平合戦の時、源義経に従って一の谷に向かう那須与一が
途中の丹波で病にかかりましたが、法楽寺の阿弥陀如来に病気回復を祈願すると
たちまち回復し、翌年の屋島合戦で扇の的を射とめ名声をあげました。
与一はその功で武蔵国太田庄(埼玉県行田市・羽生市)・丹波国五賀庄
(京都府船井郡日吉町)など五ヶ所に領地を賜り、
法楽寺を再興したと伝えられています。
江戸時代の享保元年(1716)、法楽寺は火災に遭い、本尊阿弥陀如来だけが
焦げ残りました。残った阿弥陀如来は村人達によって守られ、
明治26年(1893)、現在の場所に安置され、お堂は那須与市堂と名付けられました。

都落ちした平氏一門は、
その後屋島に本拠をおいて次第に勢力を挽回し、
福原に戻り、一ノ谷に陣を構えて京都回復をねらいます。
これに対して頼朝の命を受けた範頼(のりより)軍は山陽道(西国街道)を進み、
義経軍は丹波路を進み、平氏の背後に回る作戦を採りました。

丹波路は、山陰道とも篠山街道ともいい、
老ノ坂峠から亀岡市、篠山町を経て兵庫県に入る道です。
亀岡市は丹波路(山陰道)と京街道(丹後道)が交差する交通の要衝で、
周辺には義経の進軍にまつわる
義経腰掛岩や
義経が必勝祈願をしたという若宮神社が残っています。


府道6号線(高槻・茨木―亀岡線)沿いに那須公園があります。

公園の前を車で通りかかると、数台の車が停まり、
なにやら与市堂の方が賑やかな様子です。丘を上るとちょうど
座談会が開かれていたので、途中からでしたが参加させていただきました。









奉賛会員たちが、堂守をしながら与一が的を射った2月18日にちなみ
毎月8日・18日、28日、火災で黒く焼けた如来像に向かい、
お経をあげていました。しかし多い時は25人ほど集まっていたメンバーも
高齢化で徐々に減り、現在、90歳の会長ら2人だけになってしまい、
何とか市民の関心を高め、お堂を次の世代に引き継ぎたいという趣旨の会でした。





江戸時代の火災で焼け焦げた阿弥陀如来像。

翌日(2016・4・10)の京都新聞の記事です。
高松市出身の男性から与一の名を広めてほしいと贈られた絵。
この絵はこのあと亀岡市市役所の玄関に架けられるそうです。

那須与一供養塔

那須与一にまつわる伝承は全国各地に40余あります。
那須地方の伝承は、幼少期のエピソードや源平合戦出陣の際、寺社に戦勝祈願をして
扇の的を見事一矢で射たとか、凱旋後の寺社再建などの話題が中心です。
その他、北は青森から南は宮崎におよぶ伝承地には、与一の病気や出家、
死に関するものが大半をしめています。『那須系図』では、建久元年(1190)に
源頼朝の上洛に供奉した与一は山城国で没し、伏見の即成院に葬られたとありますが、
真偽のほどは定かではありません。屋島合戦での華々しい活躍にも関わらず、
その後の活動が一次資料にまったく見えない上に、
若くして逝った与一の姿が数多くの伝承を生んだと思われます。


与一は後世の説話や芸能に取り上げられ、
また明治時代の文部省唱歌「那須与一」にも登場し、

「一、源平勝負の晴の場所、武運はこの矢に定まると、
    那須の与一は一心不乱、ねらひ定めてひようと射る。

二、扇は夕日にきらめきて ひらひら落ちゆく波の上、

    那須与一の譽(ほまれ)は今も、屋島の浦に鳴りひびく。」と
歌われ
広く知られることになりました。



与一の扇の的の話は、湯浅常山の『常山紀談』にも出てきます。
江戸時代中期、常山は岡山藩主池田氏に仕え、戦国武将の逸話を収めた
『常山紀談』を著しています。その中から、小田原北条氏の家臣、
下野国佐野天徳寺という勇将の話をご紹介させていただきます。
ある時、琵琶法師に平家物語を語らせ、「特にあわれな話が聞きたい。
そのように心得よ」と注文をつけると、法師は「承知しました」と、
佐々木高綱の宇治川先陣争いの一節を語り始めました。
天徳寺は涙を流しながら聞いていましたが、終わると
「もう一曲、今のようなあわれな話を聞きたい」というので、
法師は那須与一の扇の的の段を語りはじめました。
するとその半ばで天徳寺は、また涙をはらはらと落としたのです。

後日、側近の者たちが「先日の『平家』は、二曲とも勇ましい手柄話だと
思っていましたのに、殿は感涙されて声を詰まらせておられました。
皆でそれはどうしてなのだろう、と話し合っています」というと天徳寺は驚いて、
「たった今までお前たちを頼もしく思っていたが、今のひと言で
がっくりしたではないか。まず佐々木高綱のことを思い浮かべてみろ。
弟の範頼にも寵臣の梶原景季(かげすえ)にも頼朝が与えなかった名馬、
生食(いけずき・池月)を特別に賜った以上、
宇治川で先陣を遂げられなかったら、生きて帰るわけにはいかぬ。と
死を覚悟して出陣した高綱の志こそがあはれというものではないか」と
涙をぬぐいながら言い、さらに続けて
「また那須与一も大勢の中から選びだされ、源平両軍が鳴りをしずめて見守る中、
ただ一騎、海に馬を乗りいれ的に向かう。もし射損じれば味方の名折れ、
馬上にて腹かき切って死のうと決意したその心中を察して見よ。
弓矢とる者ものほどあわれなことはない。
自分はいつも戦場に赴く時は、
佐々木高綱や那須与一と同じ気持ちで槍を取るから、『平家』を聞くときも
彼らの心情が察せられ、泣けてきてしまうのだ。」と語ったということです。
源義経一ノ谷へ出陣(七条口・老ノ坂峠・那須与市堂・義経腰掛岩)  
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)  
『アクセス』
「那須与市堂」亀岡市下矢田町東法楽寺2 JR亀岡駅からバス矢田口下車徒歩約13分
(バスの時刻にご注意ください。)
JR亀岡駅から府道6号線(高槻・茨木―亀岡線)を南下し、
下矢田の交差点からさらに進むと、右手に法楽寺山という小高い丘があります。
『参考資料』
「京都府の地名」平凡社、1991年 「京都府の歴史散歩」(下)山川出版社、1999年
「栃木県歴史人物事典」下野新聞社、1995年 梶原正昭「古典講読平家物語」岩波書店、2014年 
「平家物語がわかる」朝日新聞社、1997年







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寿永2年(1183)7月、都落ちした平氏一門は、
一旦九州まで逃れますが、
その後屋島(香川県高松市)に本拠をおいて
次第に勢力を挽回し、
水島合戦(岡山県倉敷市)では、木曽軍を破り
摂津国福原に進出して
東は生田森、西は一ノ谷に陣を構えて都を窺います。
一方、木曽義仲を討った源氏軍は、休む間もなく大手(正面)・搦手(背後)の
二軍に分かれて、翌年2月4日の早朝、都を出発します。
範頼は大手軍を率いて山陽道(西国街道)を生田の森を目指し、
搦手義経軍は山陰道(丹波路)を辿り、平家の背後へと軍を進めます。

山陰道は、丹波路、篠山街道ともいい、
老ノ坂(おいのさか)峠から亀岡市、福知山市を経て兵庫県に入る道です。
亀岡市は山陰道(篠山街道)と京街道(丹後道)が交差する交通の要衝で、
周辺には義経の進軍にまつわる那須与市堂や義経腰掛岩の伝承が残されています。

七条口(丹波口)
義経が平家追討のため京を出るにあたり、
多田源氏に関する文例を集めた『雑筆(ざっぴつ)要集』に
「一谷発向なり。当国の御家人等、惣追捕使の催に随て、
一人も漏らさず、七条口に参洛せしめ、而して見参に入るべし」と
あることから、義経が出陣に際し、摂津国の軍勢を
ここに集結させたことがわかります。

この時、源頼朝から惣追捕使(そうついぶし)に任命されたのは、
摂津国中央部の水陸交通の要衝をおさえていた多田行綱と推測される。
(『源平の内乱と公武政権』)





京と山陽・山陰道方面への出入り口に当たる七条口は、丹波口とも呼ばれ
現在の七条千本付近にあり、旅籠や茶店などが並び賑わっていました。
今も千本から西の七条通りに面した辺りには、中央卸売市場や商店街が連なり、
賑やかだった七条口の往時の姿をとどめています。
老ノ坂峠
山陰道の老ノ坂峠は山城と丹波との国境、都の西境です。
この峠には源頼光が酒呑童子を退治し
鬼の首を埋めたという首塚大明神があります。
国境碑の脇の枯草に覆われて見えにくい道が
義経率いる騎馬武者が一ノ谷へと駆け抜けた山陰道です。



首塚大明神

ちなみに鎌倉幕府に叛旗をひるがえした足利尊氏が老ノ坂峠まで来た時、
一対の山鳩が白旗の上に飛来したのも、
明智光秀の軍勢が三手に分かれて夜陰亀山城(亀岡市)を出陣、
本能寺に向かった本隊が越えたのもこの峠であったと伝えられています。
那須与市堂 京都府亀岡市下矢田町東法楽寺


京都方面から国道9号線を亀岡に向かい「頼政塚」の信号を過ぎ、
さらに西に進むと府道6号線(高槻・茨木―亀岡と交差します。
この交差点を左折すると、右手に「那須与市堂」という案内板がたっています。

府道沿いに那須公園、そこからあぜ道を通り、
細い参道が続く法楽寺山の山麓に那須与市堂があります。


義経に従って一の谷に向かう那須与一は急病にかかり、この地にあった
法楽寺の本尊に病気回復を祈願すると たちまち回復したという。

屋島合戦で扇の的を射とめた功で与一は、武蔵国太田庄
(埼玉県行田市・羽生市)・丹波国五賀庄 (京都府船井郡日吉町)など
五ヶ所に領地を賜り、法楽寺を再興したと伝えられています。



那須与一供養塔









若宮神社 京都府亀岡市稗田野町佐伯出山地

那須与市堂から国道9号線に戻って西へ進み
途中、国道372号線(篠山方面に向かう)に入ります。
亀岡運動公園を過ぎて「稗田野神社」が見える交差点を左折します。
そこから細い道をまっすぐに進み、案内に従って右折すると、
義経が戦勝を祈願したという「若宮神社」の標識が見えてきます。









義経腰掛岩
若宮神社の鳥居からロープが張られた篠山街道(旧山陰道・丹波路)を
しばらく歩くと、
義経が腰をかけたといわれる「義経腰掛岩」があります。





三草山合戦(平家本陣跡)  
『アクセス』

「首塚大明神」老の坂トンネルの京都側入口横から左へ旧道を上ります。
T字路を左へ行き通行止め右手山側にあります。
国境の石碑はその手前右手にあります。
『参考資料』
「京都府の歴史散歩」(下)山川出版社 「京都府の地名」平凡社
 増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院 「京から丹波へ山陰古道」文理閣
川合康「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」吉川弘文館
 元木泰雄「源義経」吉川弘文館 別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社



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宇治川の中州の橘島に「宇治川先陣之碑」が建っています。


『平家物語』が語る宇治川合戦は二つあります。
一つは治承4年(1180)5月三井寺から南都へ向かう途中、平等院へ入った
以仁王・頼政を追ってきた平氏軍が宇治川を挟んで対峙した橋合戦です。
橋合戦(宇治橋・平等院)筒井浄妙・一来法師  
もう一つは、平家都落ち後、京都に入った木曽義仲の傍若無人の
振る舞いを嫌った後白河法皇が源頼朝に軍派遣を要請しての
関東軍と義仲軍、源氏同士の間で展開された合戦です。
先陣争いは、義経勢の中の梶原源太景季と佐々木四郎高綱の争いでした。

頼朝の命で大軍を率いて木曽義仲追討に攻め上った鎌倉勢は
尾張国(愛知県)から二手に分かれ、大手(正面)は
頼朝の弟範頼を大将とし、総勢三万五千余騎が瀬田に到着しました。
搦手(背後)は義経を大将として、
畠山庄司重忠・梶原源太景季・佐々木四郎高綱らその勢二万五千余騎が
伊賀国(三重県)を超え、宇治橋の袂に押寄せました。

時は寿永3年(1184)1月も下旬、比良の高嶺・志賀の山・長良山、
山々の雪も消え、雪解けで増水した宇治川の水面には白波が立ち、
波が逆巻き、川霧が深く立ち込める夜明けのことです。

守る義仲勢は信濃の豪族仁科・高梨ら五百余騎が宇治橋の橋板を外し、
川底には乱杭を立て、その杭に太い網を張り、
綱には逆茂木(棘のある木の枝を逆さにして並べる)を
結びつけて待ち構えていました。

義経は激流を見つめこの水量では危険と淀・一口(いもあらい)へ
迂回しようか、それとも流れが収まるのを待とうかと思案していました。
すると弱冠二十一歳の畠山重忠が進み出て
瀬踏み(どこが浅いか深いか調べて先導する)をかってでます。
畠山一党500余騎くつばみを揃えて川に飛込もうとしたその時、
橘の小島より武者二騎が争うように駆け出てきました。

梶原源太景季は磨墨(するすみ)に、佐々木四郎高綱は
生食(いけずき・池月)に乗り、激しい先陣争いの始まりです。
出陣の際に頼朝から賜ったいずれ劣らぬ名馬です。

当時の馬の丈は前脚の先から垂直に肩の高さまでを測り、
四尺を標準とし
、それより一寸大きい馬を一寸(ひとき)といい、
生食は八寸(やき)とよばれた黒栗毛の並外れた大馬で、
人にも馬にも見境なく噛みつくことから生食となづけられたという。
景季の磨墨は太く逞しい黒馬でした。

梶原景季は佐々木高綱の一段(約11m)ばかり先を駆けて行きますが、
「腹帯(馬の腹にまわし掛け鞍を安定させる帯)が緩んでいるぞ。」という
高綱の言葉に騙され、あわてて腹帯を締める間に高綱はさっと宇治川の急流に
馬を乗り入れます。景季は騙されたとばかりすぐさま川に馬を乗り入れ
「佐々木殿、川底には大網が張ってあるから気をつけられよ。」と
勢い込んでいる高綱に注意します。
高綱は馬の足に引っかかった大網を重代の太刀で
切りさばきながら進み、一直線に流れを渡りきります。
こうして頼朝との約束を果たし「宇多天皇の九代の後胤、
佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱。宇治川の先陣ぞや。」と
大音声をあげて名乗り敵陣に突撃しました。

『平家物語』は高綱の本拠地は近江国の佐々木荘で、
琵琶湖から流れ出る瀬田川の下流の宇治川については詳しい上、
生食という天下一の名馬に乗っていたので
少しも流されることがなかったと語っています。

高綱が水中の大綱を切った太刀は、八幡太郎義家が用いていた名刀面影です。
源為義(頼朝の祖父)がこの太刀を佐々木秀義(高綱の父)に与え、
佐々木家代々に伝えられ高綱が先陣を遂げたので、
これを境に綱切と改名されました。
一方、梶原景季の乗った磨墨は川の中ほどから押流され、
はるか川下の岸に着いたのでした。

続いて畠山重忠は川を渡るうち、馬の額を深く射られ、途中から急流の中を
泳いで対岸に上ろうとした時、後ろから腰にすがりつく者がいます。
あまりに流れが速いので馬を流された烏帽子子(えぼしご)の大串重親です。
「いつもお前達は重忠を頼るのだから。怪我をするではないぞ。」と
岸に放り投げました。重親はすぐに起き上がると恥じ入る風もなく、
「武蔵国大串次郎重親、宇治川の徒歩(かち)立ちの先陣ぞや。」と
名乗ったので、敵も味方もこれを聞いてどっと笑ったということです。
もう一つの宇治川の先陣です。

武士が元服の時、烏帽子をかぶせて名を与える者を烏帽子親、
元服した若者をその烏帽子親からは烏帽子子という。
烏帽子親には一族や主人筋の有力者に頼みます。武蔵七党の一つ、
横山党に属する大串重親は重忠直属の部下ではありませんが、
親分と仰ぐ関係にあったと思われ、奥州合戦にも重忠に従って出陣しています

畠山重忠といえば思いやりが深く、怪力勇猛で知られています。
一の谷合戦の際、義経配下に加わっていた重忠は、平家背後の急峻な崖から
平家の陣を目指して急襲。この時、愛馬が可哀想だと、持ち前の大力を発揮して
馬を担いで下りたという逸話が『源平盛衰記』に残っています。

渡河に成功した義経軍は一挙に京都に入り、
瀬田を突破した範頼軍も京都に迫りました。

宇治川先陣之碑
平等院から橘橋を渡ると中州があり、宇治公園になっています。
公園は橘島ともいわれ、大きな桜の木の下に
「宇治川先陣之碑」と刻んだ自然石の碑がたっています。

先陣争いの場面で佐々木高綱と梶原景季が躍り出たという
橘の小島は、
当時と地形が変わっているためその位置は明らかではありませんが、

現在の宇治橋西岸の下流にあったと推察されています。
また当時の宇治橋は、
今より200m程上流の
位置にあったと考えられています。






宇治橋は大和、近江、京都を結ぶ要衝の地にあり、
幾度も合戦の舞台となりました。
『平家物語』には義経軍と義仲軍の合戦だけでなく、
源頼政の橋合戦のことも描かれています。
宇治川は上流の天ヶ瀬ダムができて水量を調節しているので、
流れは緩やかになりましたが、かつては急流で知られ、
水害や戦乱によって宇治橋はしばしば破損、流失しました。


南側の欄干上流に面して「三の間」といわれる張出は、のちの信長や秀吉時代、
ここから宇治川の水を汲みあげ茶をたてたといわれています。

頼朝から名馬を賜る佐々木高綱・梶原景季と
宇治川に到着するまでの両者の逸話をご覧ください。
宇治川の先陣争い(佐々木高綱・梶原景季)  
佐々木氏発祥の地に建つ 沙沙貴神社(近江源氏佐々木氏) 
『アクセス』 
「宇治橋」京阪宇治線宇治駅下車徒歩1分(宇治駅で下りると右手にあります。)
JR奈良線宇治駅下車徒歩約10分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
水原一「新定源平盛衰記」(5)新人物往来社 斉藤幸雄「宇治川歴史散歩」勉誠出版

竹村俊則「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂 別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社
「検証・日本史の舞台」東京堂出版 「京都府の地名」平凡社

 

 

 



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佐々木高綱は近江国(現、滋賀県)佐々木一族のひとりです。
治承四年(1180)頼朝が平家打倒の挙兵をした時、三人の兄たちとともに
参加し忠誠を尽しました。一方の梶原景季(かげすえ)は石橋山合戦の際、
平家軍として参加しながら、逃走中の頼朝の危機を救い、
その後、頼朝の腹心となった梶原景時の嫡男です。

寿永三年(1184)正月十三日ごろ、頼朝の命を受けた木曽義仲追討軍が
六万余騎で京へ攻め寄せます。義仲はこれを東の瀬田川、南の宇治川で
防ぎとめようと、瀬田大橋には乳母子の今井四郎兼平八百余騎、宇治橋には
五百余騎、一口(いもあらい・京都府久御山町)には、叔父志田義広三百余騎を
向かわせます。この時、宇治川を名馬で渡河した佐々木四郎高綱と
梶原源太景季の先陣争いは名場面として知られています。

その頃、頼朝は生食(いけずき)、磨墨(するすみ)という二頭の名馬を
秘蔵していました。鎌倉を出陣する時、梶原景季は頼朝の所へ参上して
「生食(池月)を賜って宇治川を渡らせて頂きたい。」としきりにねだりますが、
頼朝はいざという場合に自分が乗る馬だからと断り、
「生食に劣らぬ名馬だぞ。」と磨墨を与えます。

次いで佐々木高綱が暇乞いに参上すると、頼朝は「そなたの父秀義は
保元・平治の乱に父義朝殿に従いよく奉公してくれた。生食をそなたに与えよう。
この馬を所望する者も沢山いたが誰にもやらなかった馬であるぞ。
その旨承知せよ。」と生食を引き出物にしました。
これに感激した佐々木高綱は「きっとこの馬で宇治川の先陣を遂げます。
そうでない時は自害する覚悟です。」と誓って出陣しました。
佐々木四郎が賜った馬は黒栗毛の大馬で、
人にも馬にも見境なく噛みつくことから生食と名付けられたという。

先陣を遂げるとは、味方の先頭に立って敵陣へ突き進むことをいいます。
武士にとって戦場での功名が出世を約束する時代、恩賞の対象となるのは
先陣を勤めるか、名ある敵将の首を取って手柄を立てることでした。
主人の側からいうと家臣の功名心をあおりたて、
互いに競わせるように仕向けるのが勝利のための策です。

こうしてそれぞれの軍勢が思い思いに出発し西へと進みます。
景季は、駿河国まで来ると丘に上り街道を進みくる軍勢の馬を眺めながら、
我が磨墨に勝る馬はないと得意になっていました。
そこに生食とおぼしい馬が現れます。景季が近寄り「馬の主は誰だ。」と問うと
「佐々木四郎高綱殿の馬です。」と聞き、磨墨を賜り喜んでいた景季は、
「高綱と刺し違えて二人の武将を失わせ、鎌倉殿に損をさせてやろう」と
待ち構えて高綱を問いただすと、「それなのですよ。梶原殿のようなお方でも
お許しがなかった生食を自分がもらえるはずがありません。
お咎めを覚悟で実は出発の前夜盗み出したのです。」とかわすと、
景季はこれにすっかり騙され「そんなことなら景季も盗むのであった。」と
大笑いしながら去って行きました。
続きは次の記事でご覧ください。宇治川の先陣争い(宇治川先陣之碑)  
沙沙貴神社(近江源氏佐々木氏)  
『参考資料』
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫

 



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文覚寺(臨済宗天龍寺派)は、幼年期を文覚上人が過ごしたと伝えられ、
寺には上人の守り本尊という十一面観音像を安置しています。
亀岡市内には文覚寺のほかにも文覚ゆかりの伝説をもつ寺があります。

平治の乱後、源義朝の所領であった吉富荘(京都府京北町・八木町)内の
宇都郷は
没官されて平氏の所領となり、藤原成親が伝領しました。成親は宇都郷に
神吉・八代
熊田・志摩・刑部郷を加えて吉富荘として後白河院の法華堂に寄進し、
その後、吉富荘は後白河院から神護寺に寄進されています。
文覚寺には
後村上天皇の綸旨(りんし)一通、正親町天皇の綸旨二通を所蔵していますが、

いずれも高雄神護寺宛のもので神護寺との何らかの関係が考えられます。
亀岡市に文覚の伝承が生まれたのは、後白河院によって神護寺に寄進された吉富荘が
隣接していることや神護寺に近いということ、『源平盛衰記』の記事からと察せられます。



文覚寺を訪ねたのは夏の盛りのこと、境内には見事な蓮の花が咲いていました。

文覚は出家前の名を遠藤盛遠といい、大阪難波の水軍「渡辺党」出身で
上西門院に仕える武士でした。『源平盛衰記』によると「長谷観音への祈願によって
父遠藤左近監茂遠が61歳、母43歳の時に誕生したが、母は文覚を生むと
すぐに亡くなり、父も3歳の時に先立ったため、丹波国保津庄の下司(げし)
春木二郎入道道善に養われて13歳で元服した。幼い頃は養父が持て余すような
悪童であったが、やがて武芸に優れた武士となった。」とあります。
文覚出家への動機は、渡辺渡(わたる)の妻袈裟(けさ)御前に横恋慕し、
誤って袈裟を殺害したためと『源平盛衰記』は語っています。

18、9歳で出家した文覚は熊野・大峰・葛城高野・粉河・金峯山・白山・立山・富士・
伊豆・箱根・信濃の戸隠・出羽の羽黒などあまねく日本国中の修験霊場を訪ね、1
3年にわたって苦行修練を続けました。厳寒の那智では滝に打たれ、流れに流されて
浮いたり沈んだりしてしながら5、6町流れたところを不動明王の使いの
童子に助けられました。しかし「修行の邪魔をしたのは誰だ」と怒鳴る始末。
再び滝壷に戻って荒行を続けますが、ついに息絶えてしまいました。
これを見た不動明王の使い、矜羯羅(こんがら)・制多迦(せいたか)童子が滝の上から
下ってきて文覚をなでさすると生き返ったという。那智山中には48滝があるといいますが、
その中に文覚修行の滝といわれる「文覚滝」があります。
その後、文覚は都に戻り高雄の山奥で修行していました。ある時、高雄の神護寺を訪ね
その荒廃ぶりをみて、何とかして寺を再興しようと決意して勧進して歩きます。
しかし思うようには進みません。ある日、後白河院の法住殿に押しかけますが、
あいにく宴の最中、相手にされなかったため、乱暴を働き伊豆に流罪となります。
頼朝の流罪地蛭ヶ小島に近い韮山東北山中の奈古屋に多聞堂を建てて住みました。
こうして頼朝と運命的な出合いをした文覚はこういって謀反を勧めたという。

「平家には小松殿(重盛)が思慮深くて優れたお方であったが、去年八月、
お亡くなりになった。いずれ平家の世は終る。源平両氏の中で将軍の相をもつた人は
貴方以外いない。早く兵を挙げて天下を取りなさい。」というと頼朝は
「平治の乱で捕われたとき、助命嘆願してくれた池禅尼の菩提を弔い毎日法華経を
読むことしか考えていない。」と答えると「チャンスをものにしないのは天罰をこうむる」
と言って懐から白布に包んだ髑髏を取り出し、「これは貴方の父左馬頭殿(義朝)の
ものです。平治の乱後、獄舎の苔の下に埋もれて弔う人もないのを頼んでもらいうけ、
首にかけて今日まで供養してきたのだと語ります。文覚が見せる髑髏に
頼朝は半信半疑でしたが、非業に倒れた父の無念を偲び涙します。
頼朝は「自分は流人の身、これではどうにもならない。」というと文覚は「そのことなら
簡単なことです。すぐにも都に上りお許しを頂いてまいりましょう。」という。
「そう申す貴方も流人の身、他人の赦免を願うなんて信用できません。」と
答えると「我身の赦免を願い出るなら間違っていましょうが、貴方のことを
お願いするのが何故いけないのか。7、8日もあれば新都福原へ上って
後白河院の院宣をいただいてきます。」といって出て行ってしまいました。

福原に着いた文覚は後白河院の近臣である藤原光能(みつよし)を通して、
この事を後白河院に伝えると早速、平家追討の院宣を下さった。
治承4年6月、当時、後白河院は福原に幽閉中の境遇であり、清盛によって光能も
3つの官職、参議・右兵衛督・皇太后権太夫を全て、治承三年11月に解官されていました。
用事をすませた文覚は院宣を首にかけて、僅か三日で伊豆国へ帰りつきます。
頼朝は手を洗い、口をすすぎ新しい白い狩衣を着て三度拝してそれを開き、
ついに挙兵を決意する。とあり、
一般的には、頼朝が以仁王の令旨で決意し、挙兵したと考えられていますが、
『平家物語』では後白河院の院宣にあったように書かれています。

『源平争乱と平家物語』によると「承安三年(1173)に伊豆に流された文覚は
治承二年(1178)には許されて都に帰っている。平家物語では、治承三年に文覚が
流されたことになっているが事実に反する。後白河法皇の院宣を手に入れ
頼朝にもたらしたとする説については『愚管抄』は否定している。
後白河法皇によって伊豆に流された文覚だが、法皇は崇仏の念がきわめてあつく、
文覚は法皇を敬愛して流罪を許されてのちも、院御所に出入りしていた。
しかし清盛と法皇の対立は激化し、治承三年(1179)十一月清盛は法皇を幽閉した。
仏教の保護者である法皇を幽閉した清盛は文覚にとって仏敵である。
文覚は平家打倒を企て、頼朝に働きかけるために治承4年(1180)ごろ再び伊豆に下り、
後白河院と頼朝の橋渡しをしたとみられる。」とあり、
後白河院の院宣についての具体的な裏づけはないものの、文覚が何か頼朝の心を
動かすような強い働きかけをして、挙兵の決意をうながしたと考えられます。

頼朝は平家討伐後、終世、文覚を敬い一目おいています。
鎌倉には文覚邸跡があり、文覚の恩に報いるために、頼朝は鎌倉材木座に
補陀落寺(文覚開山)を建て、文覚は頼朝の助力で江ノ島に弁財天を勧請し、
頼朝、後白河院の援助を得て、念願の神護寺を再興しています。
文覚と源頼朝、後白河院、藤原光能らとの結びつきは、
文覚が上西門院に仕える武士であったためと思われます。

上西門院は父鳥羽天皇・母待賢門院の皇女として生まれ、母待賢門院の死後、
同母弟後白河天皇の准母(母に准ずる人)として皇后の位を賜り、翌年、院号を
宣下されています。母の遺領を受け継ぎ、そのゆかりの女房や侍との関わりも深く、
頼朝の母の実家である熱田大宮司家の人々が鳥羽法皇、待賢門院、上西門院に仕え、
母も上西門院の女官であったと思われることから、頼朝は女院に仕えて蔵人となりました。
頼朝が佐殿(すけどの)とよばれるのは、官職がもと
右兵衛佐(うひょうえのすけ)であったことに由来します。

院宣をとりもったという藤原光能は安達盛長の甥安達遠元の娘を妻とし、
のちに鎌倉幕府の重職につく大江広元、中原親能(ちかよし)をもうけ、
光能の妹は以仁王の妻となり、真性(四天王寺別当)を生んでいます。
安達盛長は頼朝の乳母比企尼の娘婿であり、流人時代の頼朝の側近として仕え、
在京中、頼朝に都の情報を伝え、有能な人物を紹介しています。山木兼隆襲撃前、
僅かなきっかけをつくって兼隆邸に数日間滞在し、要害の地にあった兼隆邸周囲の
地形の絵図を描いて持ち帰った藤原邦通も安達盛長の推薦を受けて頼朝に仕えていました。
頼朝は北条時政とその絵図を見ながら作戦を練ったという。
鎌倉幕府成立に際し、頼朝は京都から文人を呼び寄せ、彼らの代表として大江広元を
幕府初代政所別当に任命、幕府成立に関わる政治的決定には、広元の助言を聞いて
幕府政権を確立している。大江広元はもと朝廷に仕える官人であり、
五位に叙せられていた。兄弟にあたる中原親能が早くから頼朝に仕えていたこともあり、
招かれて頼朝の重臣となり卓越した政治手腕をふるい幕府創設に貢献しました。

頼朝の挙兵成功のために尽力した下総の豪族千葉常胤の子胤頼が
遠藤左近監持遠に紹介されて上西門院に仕えていたことや胤頼が文覚の
弟子であったこと、文覚が頼朝に挙兵を勧めたことなどが
『吾妻鏡』文治2年(1186)正月3日条にあります。
「千葉胤頼は平家が政権を握っていたとき、京都に大番役として伺候していたが、
平家にへつらうことがなかった。遠藤左近監持遠の推挙で上西門院に仕え、
従五位下に叙せられた。また持遠の仲介で神護寺の文覚上人を師とした。
文覚が伊豆にいたときに頼朝に平家討伐を勧めたことから、平家討伐の兵を挙げられ、
千葉頼胤は父常胤に勧めて頼朝の味方に参上させた。」

文覚の父については、『源平盛衰記』には遠藤左近監茂遠とあり、
『吾妻鏡』には父であるとは明記されていませんが、「胤頼を上西門院に紹介した」と
記されている遠藤左近監持遠が父とも伝えられています。
『吾妻鏡』の遠藤左近監持遠を父とすると、父は文覚3歳の時に先立った。という
『源平盛衰記』の記事は虚構ということになります。
文覚が摂津渡辺党に所属する遠藤盛遠、上西門院の北面の武士であるという点は
一致していますが、父の名は諸本によって茂遠、持遠、為長、或は盛光と異なります。
父の名のことは別にしても、出家以前のことは不明な点が多い。
文覚が頼朝に見せた髑髏は実は偽物でした。

『平家物語・巻12・時忠能登下り』によると、「文治元年(1185)8月22日頼朝は文覚を
片瀬川まで迎えに出た。父義朝殿の首、獄門にかかり後世弔う人もないのを、
義朝に目をかけられていた紺染め職人が、当時の検非違使別当に願って貰いうけ、
「頼朝殿が将来、出世して父上の首を捜されることもあるに違いない。」と東山円覚寺に
納めたおいたものを文覚が聞きだして、義朝の遺骨を首にかけて、
義朝の乳母子鎌田正清の遺骨は弟子の首にかけさせて紺染め職人とともに鎌倉に下った。
頼朝は父や鎌田正清の供養をし、鎌倉勝長寿院に葬った。」と記されています。
紺(こん)染め職人は武具に紺染めが多く用いられたところから、
義朝に召し使われていたと思われます。また紺染め職人は刑場の仕事も請け負っていました。

「円覚寺」は京都市粟田口にかつてあった寺で、清和天皇がここで出家したことから
清和源氏ゆかりの寺となり、保元の乱で処刑された
源為義やその幼子、殉死した妻が葬られていました。
文覚の滝 (飛瀧神社)  

『アクセス』
「文覚寺」京都府亀岡市保津町山ノ坊88 JR亀岡駅下車徒歩20分位
『参考資料』
加治宏江・中原俊章「中世の大阪」松籟社 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書
 佐藤和夫「水と水軍の日本史」原書房 新潮日本古典集成「平家物語」(中)(下)新潮社
 新定「源平盛衰記」(2)新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(1)(3)吉川弘文館 
「国史大辞典」吉川弘文館  「亀岡市史」(本文第一巻)亀岡市史編纂委員会 
「京都府の地名」平凡社

 



 

 

 

 



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天王山の中腹にある宝積寺(ほうしゃくじ)は、
竜神から授けられたという「打出」と「小槌」が祀られていることから
宝寺とも呼ばれています。
寺伝によると、724年に行基が開いた山崎橋の橋寺として
開いた山崎院を継いだものといわれています。
真言宗の寺で、本尊は聖武天皇が行基とともに彫刻したという十一面観音です。

仁王門をくぐって左手に室町時代の1519年、大山崎・松田宗誠寄進の
石清水八幡宮別当清水光清の娘、待宵小侍従ゆかりの「待宵の鐘」があります。
歌人待宵小侍従は
♪待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは

と詠んだことから、待宵小侍従と呼ばれるようになりました。
小侍従の旧蹟が近くにあることに因んでの名でしょうが、
恋人が通ってくるのを待ちわびる恋心をお寺の鐘名にするとは粋ですね。

この鐘がある宝積寺に毎年中旬に厄除け追儺式が行われます。
この祭礼は「鬼くすべ」とも呼ばれ、閉め切った本堂内で加持祈祷を行い、
煙の中、桃の弓と蓮の矢で悪魔を退散させ、
大護摩に檜葉をくすべて厄を追い払います。

悪鬼は呉竹に挟んで鴨居に掛けてある5個の餅に写る自身の姿に驚き、
退散するという特異な儀式です。(鏡餅の起源)
行基が始めたとも、朝廷の「おにやらい」を継承したものともいう。















檜葉にいぶされ悪鬼が退散していきます

厄が堂内から出ていったことを知らせる法螺が吹かれます

福餅と散華の花がまかれます



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※宝積寺追儺式・鬼くすべ 例年4月18日 14時より

大山崎町は大阪府に接した町で、天王山と淀川に挟まれた国道R171号、
名神高速道路、西国街道(さかのぼれば古代の山陽道)が通り抜けています。
古くは山城・摂津両国にまたがっている境界の町であり、
都への出入口にあたり交通の要衝でした。

かねて他国から都に通じる山崎・逢坂・和迩(滋賀県志賀町)
大江(老の坂峠)では、陰陽師によって外部から侵入する悪霊・疫病を祓う
四角(隅)四堺(境)祭が行われ、大山崎でもさまざまな祭が行われていました。

10C以降都に疫病が流行る時、山城国の四つの境で疫神(えきじん)を
撃退する祭が行われた。(四堺祭)
「鬼くすべ」は祭文の中に疫神祓がうたわれ、
毘沙門天の代わりに大黒天が出るなど多少形は変わってきていますが、
四堺祭を今日まで受けついだ祭礼のようです。

「近世中期に行事の再編成がすすみ現在見る形になっていったのであろう」と
『歴史ものがたり街道』の中で、高橋昌明氏は述べておられます。

山崎院跡の碑

JR山崎駅から、天王山登山道方面へ歩き、踏切を越えたら
登山道に入らずに右折し、そのままJRの線路沿いに5分ほど進むと、
イチョウの木の下に山崎院跡の石碑が立っています。
『アクセス』
「宝積寺」 京都府大山崎町大山崎銭原1
JR京都線 山崎駅 徒歩約15分  阪急京都線 大山崎駅 徒歩約16分
『参考資料』
「西国街道」向陽書房  1996大山崎町「歴史ガイドブック」大山崎町歴史資料館
「京都学への招待」角川書店 「京都大事典」(府域編)淡交社 「山崎・水無瀬」大山崎町教育委員会
いばらきからみやこへ「歴史ものがたり街道」阪急電鉄株式会社
「京都府の歴史散歩」(下)山川出版社
 







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治承四年(1180)五月、以仁王が諸国の源氏に平氏追討の令旨を
発し蜂起を促していたことが、平清盛に察知されました。
以仁王は平氏政権の専横に反感する園城寺(三井寺)に入り、
源頼政も近衛河原にあった自邸に火をかけ、
以仁王に合流するため園城寺に入りました。
しかし、協力を仰いだ延暦寺が動かず、危険を感じた
以仁王・頼政の軍勢は南都に向かって出発しました。

この時、園城寺から奈良に急ぐ途中に通過したと伝えられる道を
頼政道といい、逢坂関と宇治を最短距離で結ぶ古道と伝えられています。
『源平盛衰記・巻15』は、その逃走経路を次のように記しています。
「関寺・関山打ち続き行くも帰るも逢坂や。一叢(むら)杉の木の下より
筧(かけい)のしみず絶え絶えなり。くぐ井坂・神無の森・醍醐寺に懸りて、
木幡の里を伝いつつ宇治へぞ入らせ給ひける。」
これによるとそのルートは、逢坂から逢坂山の西側、神無の森(追分)、
醍醐、木幡から宇治となります。
やはり『源平盛衰記』巻10第5(宇治合戦附頼政最期の事)に
「宇治と寺との間、行程わずかに三里ばかりなり」と記され、
宇治と園城寺との間が約12キロメートルであることがわかります。

逢坂山は逢坂の関が設けられたため、関山ともよばれました。

関寺は謡曲『関寺小町』で知られ、逢坂越え沿いにあった寺院ですが、早くに衰微し、
長安寺(大津市逢坂2丁目)が昔あった関寺境内にあると云われています。





長安寺より逢坂山を望む

醍醐から山科日野、木幡山の中腹を経て万福寺東方より
宇治平等院への道は
現在、山中いたる所宅地開発が進み、
頼政が通ったという道は分かりにくくなっていますが、醍醐路から
木幡にかけての間に断続的に「頼政道」の名が市道名として残っています。



醍醐寺裏手の長尾天満宮参道傍にある「頼政道跡」の碑

長尾天満宮(醍醐寺金堂東北、長尾丘陵の上)

長尾天満宮本殿(旧醍醐村の産土神)

醍醐山西麓にある一言寺には参道階段の中ほどを
横切る小道があり、
地元の人はこの道を「頼政道」と呼んでいます。醍醐山山麓づたいに
南へ進むと、日野の集落に入ります。法界寺から日野誕生院の前の道を
さらに南下すると、頼政が髭を洗ったところと伝える「髭の辻」に出ます。
この辻を過ぎると山手にかかり、住宅が山の頂まで建ち並んでいます。
宇治市木幡の平尾山の西麓を進むと、市道頼政道沿いに
「頼政道」の碑が据えられています。


バス停頼政道(東宇治高校東)

平尾山(木幡山)丘陵に残る自然石に刻まれた「頼政道」

頼政道(裏面の碑文)
この道は遠い昔から人々の生活を支えてきた。
治承四年(1180)五月二十六日の払暁、老将源頼政はこの道を奈良に
向かったという。以来この道はその名とともに生きてきた。
新しい街づくりのため、この道は生まれかわった。
わたしたちはこのゆかりの地点に口碑を刻み、
その名を永くとどめる。平成元年十二月吉日

この道をさらに南へ行くと南山団地入口の弥陀次郎川には
「頼政橋」が架かり、頼政が通過したことを伝えています。

頼政が平等院へと急いだ道筋は、醍醐から日野の法界寺を経て、平尾山と
御蔵山の間を抜け、五ヶ庄広岡谷から芝の東へ至る道ということになります。
以仁王謀反(三井寺への逃走経路)  

『アクセス』
「長尾天満宮」京都市伏見区醍醐北伽藍町 地下鉄「醍醐駅」下車徒歩20分位 

「頼政道の碑」宇治市平尾台一丁目 
 京阪宇治線・「六地蔵駅」下車、京阪バス「頼政道」バス停徒歩2分

『参考資料』
水原一「新定源平盛衰記」(2)新人物往来社 増田潔「京の古道を歩く」光村推古院
 「三井寺」三井寺発行 「三井寺と近江の名刹」小学館 「滋賀県の地名」平凡社
「日本名所風俗図会」(8)角川書店「 日本名所風俗図会」(11)角川書店
斉藤幸雄「宇治川歴史散歩」勉誠出版 「京都府の地名」平凡社 
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)(南山城)駿々堂   

 
 

 

 

 

 

 

 

 



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JR奈良線長池駅から東へ旧陸軍長池練習場に至る道の途中に
旦椋神社
(あさくらじんじゃ)があります。
旧観音堂村産土神で、祭神は高倉宮以仁王です。
以仁王は治承4年(1180)平家追討の令旨を出して挙兵しましたが、
奈良に向かう途中、光明山の鳥居前で戦死しました。
その遺骸を都に送る途中、以仁王の冑が落ちたのを村人がひそかにしまっておいたところ
奇怪なことがしばしば起こるので、以仁王を祭神として冑を祀り冑神社と称しました。

理由は分かりませんが、明治になって社名を旦椋神社と改めました。
旦椋神社は宇治市にもありますが、「旦椋」とは穀物を貯蔵する校倉のことです。










 





旦椋神社と刻まれています。

以仁王と神功皇后を祭神としています。


境内は府の文化財環境保全地区となっています。

本殿は境内中央にあり桃山風の豪華な作りです。

『昭和京都名所図会』、『京都府の地名』には、「当社背後の丘陵地に
「宮山古墳」という小円墳が群集し、これらを遥拝する位置にあるので、

この古墳への信仰が神社成立の原因とも思われる。」と記されています。
なお、毎年10月3日に例祭が行われています。
『アクセス』
「旦椋神社」城陽市大字観音堂小字田畑 JR奈良線・長池駅下車約30分
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂 「京都府の地名」平凡社
「京都府の歴史散歩」山川出版社 斉藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ出版
 

 

 

 

 

 

 

 



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JR玉水駅から線路沿いに南へ20分ほど進むと、
高倉宮以仁王(もちひとおう)を祀る高倉神社があります。
かつては春日神社といい、明治18年(1885)に現在の社名に改められました。

治承4年(1180)平家打倒の兵を挙げた後白河天皇の第2皇子以仁王(高倉宮)は、
宇治川合戦に敗れ、南都に逃れる途中、流れ矢にあたって戦死し、
近くにあったこの社に葬られました。
社の南の水田の中には、宇治橋で奮戦した三井寺の僧兵浄妙坊の塚もあります。

以仁王の謀反の動きは、早々に平家に知られ、宮は高倉宮の御所を抜けて
三井寺に逃げ込みました。そこから頼政とともに援軍のいる奈良に向かいましたが、
以仁王が疲れて度々落馬するので、宇治の平等院で休憩をとることにしました。

しかし、源頼政は宇治川を次々と渡ってくる平家の大軍を見て、宮を先に
奈良に落ちのびさせました。
頼政の手勢や園城寺の僧らが奮戦する間に宮は
わずかの供を連れて奈良へと急ぎますが、平家軍の老練な飛騨守景家という
武将が戦場を抜け、五百余騎を引きつれただちに後を追います。
そして光明山の鳥居前で追いつき、雨のように射かけた
矢の一本が宮の脇腹に当たり、落馬しその場で頸を取られました。

これを見た三井寺の
鬼佐渡、荒土佐、荒大夫・刑部俊秀といった荒法師らは、
今さら命を惜しんで何になろうかと、散々に戦い次々と壮絶な最期を遂げました。
その中で以仁王の乳母子宗信は逃げるに逃げられず、近くの池に飛び込んで身を隠し、
敵が過ぎるのを待っていると、王の遺体が運ばれていきました。
その腰には、「万が一の時には、棺桶に入れてくれ」と宗信にいった小枝の笛が
差さっていましたが、恐ろしいので出ていくこともできず、泣く泣く京へ戻っていきました。

この時、奈良の僧兵は宇治に向かっていましたが、
あと五キロというところで間に合わなかった。と
『平家物語』は以仁王の不運を嘆いています。

左手民家の向こうに見えるのが高倉神社の森です。

高倉神社鳥居

 宮の仏事を営むために建てられた阿弥陀寺 
以仁王(阿弥陀寺)  

高倉神社拝殿、右手は以仁王の御陵








当時は荒墳でしたが、現在は宮内庁管理の陵墓となっています。

高倉神社の南、約100mの水田の中に、
三井寺の僧兵・筒井浄妙塚と伝える小円墳があります。
筒井浄妙は宇治川合戦に参加し、「平家物語」の名場面のひとつ橋合戦で
大活躍しましたが、
矢傷を負い奈良の方へ念仏を唱えながら向かいました。
途中この地で倒れたのでしょうか。
現在、この塚は以仁王の陪冢として宮内庁管理となっています。

陪冢(ばいちょう)とは、大きな古墳の近くに添えられた小さな古墳のことです。

「治承役筒井浄妙塚」と刻まれています。
橋合戦(宇治橋・平等院)筒井浄妙・一来法師  
筒井浄妙の坊跡(三井寺)  

綺原(かんばら、かにはら)神社鳥居の前の道。
綺原神社背後の光明山は光明寺の旧跡地です。
綺原神社より天神川に沿って東の山中を上ること約2キロ、光明寺址に至ります。


以仁王は、光明山の鳥居の前で追いつかれ、
流矢に当たって落命したと伝えられています。

当時、光明山寺は東大寺の別所として栄え、
綺田一帯に広大な
寺領がありました。中世の兵乱で寺運は衰微し
今は標識一つありませんが、付近に地名が残っています。

旦椋神社 (以仁王)  
『アクセス』
「高倉神社」京都府木津川市山城町大字綺田小字神ノ木
JR奈良線「玉水駅」下車徒歩約20分
「綺原神社」京都府木津川市山城町大字綺田小字山際
JR奈良線「玉水駅」下車徒歩約35分
『参考資料』
竹村俊則 「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂
 竹村俊則「
今昔都名所図会」(洛南)京都書院
「京都府の地名」平凡社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
「京都府の歴史散歩(下)」山川出版社「歴史人No・21」KKベストセラーズ

 

 



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源頼政の守本尊と伝えられる「矢の根地蔵」が亀岡市横町にあります。
矢の根地蔵縁起によれば、地蔵は運慶作と伝え、頼政の家に伝わり深く信仰したという。
近衛天皇の頃、宮中に怪獣鵺が出て天皇を悩ました時、
頼政が弓矢をもって退治し、剣と丹波の国に領地を賜りました。
この領地をを矢代(やだい)の庄と称し、矢田の一帯という。
頼政は地蔵尊のたまものとさらに深く信仰し、
手の杖を山鳥の羽をつけた矢にかえたという。

治承4年(1180)頼政は、宇治の平等院で自害し、
首は宇治川に沈められましたが、地蔵尊と旗を家臣の猪早太が
当地へ持ち来り、頼政の菩提を弔うため堂を建て地蔵尊を安置したという。
世人はこの像のことを鵺の地蔵とも、矢代の地蔵とも称したと伝える。
現在も錫杖の代わりに矢を持っています。
「矢の根地蔵」は横町西堅町集会所に併設されたお堂に安置され
地域の人に大切にされています。(矢ノ根地蔵は非公開です。)



『アクセス』
「矢ノ根地蔵」(横町西堅町集会所)亀岡市横町 京阪京都バス西堅町下車徒歩7、8分

『参考資料』
新修「亀岡市史」第1巻 亀岡市史編纂委員会 「京都府の地名」平凡社 「日本歴史地名大系」平凡社



 

 

 


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亀岡市の東部に源頼政ゆかりの朝日山神蔵寺(臨済宗)があります。
寺伝によると、最澄開基とし本尊の薬師如来坐像も最澄作と伝えています。
正暦年間(990~995)に伽藍が造営され、天台宗寺院として一大勢力を誇り
26もの塔頭を抱えて源頼光はじめ源氏一門の崇拝篤く大いに栄えていました。

治承4年(1180年)以仁王・頼政が平家打倒の兵を挙げた際、
頼政から挙兵を促す知らせが届き、この寺の僧兵は大津の三井寺と呼応して
宇治川に馳せ参じました。敗れた頼政は宇治の平等院で自害し、
僧兵は敗走し、平家に寺領を没収され衰微していきました。

  嘉祥年間(1235~38)僧達源(たつげん)が再建しましたが、明智光秀の
丹波攻略の兵火で焼失し、その後、江戸時代に願西が本堂・阿弥陀堂・鐘楼を
再建し、天台宗から浄土宗に改めた後、亀山城主松平忠昭が帰依し、
妙心寺の高隠玄厚(こういんげんこう)を招いて中興開山とし臨済宗としたという。


 「 西国薬師霊場第四十三番札所」 になっています。

寺谷川に架かる「みかえりばし」



現在、神蔵寺は亀岡屈指の紅葉の名所として知られ、ライトアップなども行われ ます。
紅葉シーズン  拝観料300円



本堂瑠璃殿





本堂の裏手に薬師堂(収蔵庫)があり、
平安時代作の本尊木造薬師如来坐像(国重文)が保管されています。

明智光秀の兵火の際、本尊と脇侍の日光・月光菩薩を運び出し近くの岩山に隠しました。
こうして難を逃れた薬師如来は1653年に寺が再興された時に本尊として祀られました。
『アクセス』
「神蔵寺」亀岡市稗田野町佐伯岩谷ノ院ノ芝60

℡0771-23-5537 拝観時間 通常9~17時 無休 

JR亀岡駅から、京阪京都交通バス40系統園部駅西口行きに乗車し、
「運動公園ターミナル」でふるさとバスF31、F32、F33、F34系統
「畑野コース」に乗り換え「グリーンハイツ口」で下車、徒歩約20分
バスの運行本数が少ないのでご注意ください
京都縦貫道 亀岡ICから国道372号を湯の花温泉方面に約10分
『参考資料』
「京都府の歴史散歩」(下)山川出版社 「角川日本地名辞典」角川書店 
「京都府の地名」平凡社

 

 

 
 

 

 





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