平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



静岡県磐田市に源義朝が尾張国知多郡野間(現、愛知県知多郡美浜町)で殺害された時、
ともに殺されたその家臣、鎌田兵衛政家(正清)の墓があります。





JR磐田駅北口前の観光案内所 ☎0538-133-1222




「いわたふるさと散歩東部編」より一部転載。

御厨交流センター近くの茶畑の一角に供養塔をおさめた祠があります。







中央が鎌田政家の供養塔
 



『平治物語』によると、北国で兵を集めよと命じられた
義平(義朝の長子)は、越前国足羽まで下っていきましたが、
信濃へといわれた朝長は、龍華越で比叡山の僧兵に射られた
太ももの傷が痛んで歩けなくなり青墓に舞い戻ってしまいます。
足手まといになるより父上の手でと願って首を差しのべ念仏を唱える朝長を
義朝は涙ながらに斬りました。そして義朝の噂を聞きつけ、
恩賞目あてに押しよせた土地の者らを、佐渡式部太夫(源)重成が
自ら義朝と名乗り、奮戦自害する間に義朝主従は青墓宿を出ました。

 僅か四人となった義朝一行は、鎌田政家の舅、尾張国野間
(現、愛知県知多郡美浜町)の領主、長田忠致(おさだただむね)の
許に身を寄せるため、その世話を大炊の弟で養老の滝近くの
鷲栖村(現、岐阜県養老郡養老町鷲栖)に住んでいた
鷲栖(わしず)玄光に頼みました。玄光は義朝主従を柴舟に乗せ、
杭瀬(くいせ)川から知多半島の先端野間まで運びました。
義朝と鎌田政家、平賀四郎義宣(よしのぶ)、金王丸の四人です。


青墓の東、かつて杭瀬川の渡し場があった
赤坂宿付近を流れる杭瀬川(岐阜県大垣市)

源氏の家人(けにん)でもある長田忠致・景致(かげむね)父子は、
義朝らをさまざまにもてなしましたが、恩賞目当てに裏切り、
入浴中の義朝を謀殺しました。舅と酒を飲んでいた政家は、
主の一大事を聞き走り出す所を義兄弟の景致に斬られました。
平治2年(1160)正月3日のことです。

慈円の歴史書『愚管抄』には、「義朝は馬にも乗らずかちはだしで
長田忠致の家にたどり着いた。忠致はもてなし入浴をさせた所、
鎌田政家(正清)は忠致の謀略に気づき、
義朝とともに自害して果てた。」と記されています。

源頼朝は父義朝の菩提を弔うため勝長寿院を建立し、
文治元年(1185)9月3日、義朝と鎌田正清(政家)の
遺骨を埋葬しています。(『吾妻鏡』)


『源平盛衰記』によると、鎌田正清の長男藤太盛政と弟の光政は、
佐藤継信(つぐのぶ)・忠信兄弟とともに源義経につかえ、
義経四天王とよばれましたが、
盛政は一ノ谷の戦いで寿永3年2月、次男藤次光政は、
屋島で元暦(げんりゃく)2年2月に討死したという。
ところがこの兄弟の名は、『吾妻鏡』などの
確実な史料にはみえず、その実態は謎に包まれています。

『吾妻鏡』建久5年(1194)10月25日条によると、
政家の娘は頼朝に厚遇され、勝長寿院で
父政家と義朝の追善供養を行っています。
政家に息子がいなかったため、頼朝はこの娘に
尾張国志濃幾(しのぎ・現、愛知県春日井市)・
丹波国田名部(現、京都府舞鶴市)両荘の
地頭職を与えて正家の旧功に報いています。
源義朝の墓(野間大坊大御堂寺)   
鎌田政家夫妻の墓は、義朝とともに愛知県知多郡美浜町の野間大坊にあります。
勝長寿院跡(源義朝を祀った大伽藍の跡)  
『アクセス』
「鎌田政家の墓」JR磐田駅前より遠鉄バス「鎌田」下車
または「東貝塚」下車 徒歩約20分
1時間に1本ほどしかない「鎌田」に停まるバスが
発車したばかりでしたので、次のバスを「東貝塚」で下り、
御厨(みくりや)交流センターへの道を尋ねながら歩きました。
『参考資料』
「静岡県の地名」平凡社、2000年 「国史大辞典」吉川弘文館、昭和58年
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年 
現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文館、2009年
「日本荘園史大辞典」吉川弘文館、2003年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
各地で平氏×源氏の戦いが渦巻いていますねきますね。 (yukariko)
2018-12-03 11:02:54
平氏の勢いが強い時代が続き、血筋、有力なご家人も二十年近く平氏の監視のもとに各地に雌伏し、立ち上る力もないかと思われていたはずが、時代の流れと勢いは不思議なもので、私欲、権力欲も渦巻いて謀略がすごいです。
それにしても乳母、乳母子というのは凄いきずなですね。
源義朝、木曽義仲、義経…頼朝もですが同母といっても別々に育つ兄弟よりもお互いへの愛情と忠誠のあり方は一途で、お話を読むにつけても心打たれます。
 
 
 
そうですね (sakura)
2018-12-05 14:39:14
養君(やしないぎみ)と乳母一家(乳母夫・乳母子)とは、
実の親兄弟よりも強い絆で結ばれていますね。

中世の武家社会において、親族や姻族のつながりとは別に存在したのが、乳母、乳父(めのと)と養君の関係です。
二十年余も流人頼朝を支え見守ってきた比企尼は、歴史にその名を残しています。
中には、以仁王や平重衡の乳母子のように主人を裏切る家臣、
頼朝の乳母山内尼の息子の経俊(つねとし)のように主に
弓引くとんでもない乳母子もいますが、殆どは主に忠実に仕え最期をともにします。
平家物語において乳母子は脇役にしか過ぎませんが、
その姿は物語の魅力の一つになっていますね。
 
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