平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




木曽義仲が討死して数年後、美しい尼僧がここに庵を結び、
義仲の菩提を弔ったという。里人が名を尋ねると
「われは名もなき女性(にょしょう)」と答えるだけでした。
この尼こそ義仲の側室巴御前でした。




義仲寺山門横の巴地蔵堂は巴御前を追福するためのお堂です。
本尊の石彫地蔵は地元民に古くから信仰され、八月のお地蔵さんを祀る行事、
地蔵盆が町内の人々によって賑やかに行われています。



山門を入って左手、身余堂の前に山吹供養塚、そして
♪かくのごとき をみなのありと かってまたおもひしことは われになかりき と
巴を詠んだ三浦義一の歌碑が巴塚の傍にあり、
巴塚の向こうには、義仲の墓、芭蕉の塚が並んでいます。

 山吹供養塚
「山吹は義仲の妻そして妾とも云う病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと
大津まで来た。
義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも
捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが
大津駅改築のため此の所に移されたものである」

山吹塚

大津市の秋岸寺は山吹御前終焉の地と伝えられ、
かってはその菩提を弔った山吹地蔵と供養塚がありました。
大正10年(1921)8月に大津駅開業に伴い、駅の西側一帯にあった
秋岸寺は廃寺となり、供養塚は、昭和48年に義仲寺の境内に移されましたが、
お地蔵様だけが取り残され、現在、駅の横に「山吹地蔵」という祠があります。
山吹ゆかりの地を下記のサイトでご覧ください。
山吹御前の塚  

 巴塚(供養塚)
木曽義仲の愛妻 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが、義仲が
強いての言葉に最期の戦を行い、敵将恩田八郎を討ち取り涙ながらに
落ち延びた後 鎌倉幕府に捕えられた。
和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは
尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという。
それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。

 義仲・芭蕉塚辺に「朝日将軍木曽源公遺跡之碑」があります。
義仲末裔と称し、晩年侍医として仕えた葦原検校源義長が
天保3年(1832)義仲公六百五十年記念に建てた石碑です。


  碑文は風化されて読めませんが、拓本に取って判読された銘文が
『義仲寺と蝶夢』に載せられているのでご紹介します。
「義仲公に四子あり 長子義隆は右大将に殺され 次子義重先に卒し
三子義基 四子義宗逃れて外戚に依った
 その裔室町将軍に従って信中を受封し代々讃岐守また伊予守を相承し 
或いは織田氏に属して筑摩 安曇二郡を領した者
 伊予松山に在って千石を領した者 或いは剣道を以て尾州藩に仕えた者など
錚々(そうそう)たる人士が綿歴して居り義仲伝研究上に得る処が少なくない
尚筆者男谷思考は通称彦四郎燕斎と号し 
養子に男谷下総守あり 勝海舟の伯父に当たる人である」

この碑の題額は信濃松代藩主で徳川吉宗の曾孫に当たる真田幸貫、
選文(文章)は林羅山から八代目の大学頭林述斎、
それに儒者で表右筆(おもてゆうひつ)、男谷思孝の筆と一流のメンバーです。
なお、義仲の系譜を「西筑摩郡誌」 では初代を木曽義仲として
2代目を二男義重としていますが、江戸時代、木曽代官山村家が編纂した
「木曽考」によると、義仲を初代とし、2代目は三男義基としています。



木曽八幡社

昭和51年無名庵、粟津文庫を拡張新造し史料観を新築。
義仲寺の鎮守として、
古図に見える
木曽八幡社の社殿鳥居を併せて新造、
11月13日夜、遷宮の御儀が行われました。
これらの土木建築及び落慶の一切の費用は、
京都に本社を置く一教育出版社の寄進によるものです

『参考資料』
高木蒼梧「義仲寺と蝶夢」義仲寺史蹟保存会 「木曽義仲のすべて」新人物往来社
「朝日将軍木曽義仲」日義村役場



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義仲寺は荒廃と復興を繰り返してきました。寺伝によれば、室町時代末に
近江国守護・佐々木(六角)氏によって再建され、その後荒廃したところ、
元禄期に芭蕉が度々滞在し、墓所と定めたことで復興し、さらに荒廃したのを、
江戸中期には京都の俳僧、蝶夢(ちょうむ)が復興しました。
そして戦後、荒廃していた寺の復興に尽力したのが保田與重郎と三浦義一です。

 芭蕉没後、丈草が無名庵の庵主となり芭蕉の墓を守りながら毎月、同門の輩を
招いては句会を開いていました。しかし、京都落柿舎の向井去来、続いて丈草が
亡くなると、間もなく蕉門(芭蕉一門)は解体し、檀家のない義仲寺は廃れます。

寛保3年(1743)の芭蕉五十回忌前後から蕉風復興運動が起こり、
安永年間(1772~1781)には、芭蕉へかえれという復古運動が高揚、
芭蕉は俳聖として次第に伝説化されていきます。
こうした流れの中、
蝶夢は宝暦13年(1763)芭蕉七十回忌に義仲寺に参詣したのを契機に
再興を決意し、明和5年(1768)、浄財喜捨(じょうざいきしゃ)を募り、
翌年に翁堂(芭蕉堂)などを再建しました。

寛政3年(1791)には芭蕉の遺品や俳諧の小書籍書画を納める
粟津文庫を創設し、同5年(1793)には、諸国の俳人500人を集めて
芭蕉百回忌を盛大に行いました。
これを記念し制作された『芭蕉翁絵詞伝(三巻)』は、蝶夢が11年の歳月を
かけて芭蕉の伝記をまとめ、狩野正栄の絵をさし入れた絵巻です。
天明2年(1782)には『芭蕉門古人真蹟』を収集し、いずれも粟津文庫に納めています。
この文庫の史料什宝は、史料観にて適時取り替え展示・公開されています。

その後、安政3年の火災、琵琶湖大洪水など、
度々改修が行われましたが、戦後、荒廃、壊滅に瀕していた寺を、
三井寺円満院から買い取り、朝日堂・無名庵、翁堂を修復し、
昭和40年、時雨忌に再建落慶法要が営まれました。
これに要した一切の費用は、東京の三浦義一翁の寄進と
大分の株式会社後藤組会長、後藤肇氏の施工奉仕によるものです。
修復工費は約一千万円。(『義仲寺と蝶夢』)








拝観の際に寺務所で、保田與重郎撰文(文章)による
「昭和再建落慶誌」をいただきました。
そこに昭和再建の模様が具体的に記されているので全文を掲載しておきます。

昭和再建落慶誌

  史蹟義仲寺は近時圓満院の所管となつてより寺庵荒廃壊滅に瀕し
両墳墓の存続さへ危い状態にて県市当局による保存の方策も悉く
失敗に終つた 時に東京都三浦義一翁京都在住の知人によりこれを知るや
巨額の私財を寄進して 義仲寺を圓満院より分離独立させた
 同じ時大分市後藤肇氏これを聞き発奮して 大分より工匠職人を率ゐきて
朽頽の寺庵総てを再建修理し 併て造園の工事を終る
 昭和四十年十月十二日 義仲寺無名庵昭和再建落慶法要を挙行
 石鼎法師の晋山式と芝蘭子宗匠の入庵式行ふ 天高く晴れ大衆境内に満ち
近来の盛儀となる此度義仲寺無名庵昭和再建に当り
東京都大庭勝一氏の奉行の盡力殊に甚大であつた 
昭和四十一年六月四日社団法人義仲寺史蹟保存会発足に当り
義仲寺無名庵昭和再建の由来を誌し 千秋萬歳に史蹟永存を祈願する

     昭和四十一年六月四日     保田與重郎撰文並書

境内の最奥に、この寺の再建を呼びかけた保田與重郎と
巨額の私財を寄進した三浦義一の墓があります。

保田與重郎(よじゅうろう)は、戦前「日本浪漫派」を創刊し、
強烈な近代精神によって日本主義文学を打ち立てたことで知られた評論家。
第二次世界大戦を正当化し一躍時代の寵児となりますが、
戦後は戦意高揚に加担したと批判されて
一時、公職追放を受け、文壇からも放逐されました。
終戦によって自分の思想・信念を曲げなかったきわめて稀な文筆家です。
著書も多くあり、中に『芭蕉』『後鳥羽院』『日本の橋』などがあります。


三浦義一は、昭和時代の政財界のフィクサーで歌人。
中学時代に短歌「維新の会」同人、アララギ派に属し早大予科に進み、
文学の道を志して北原白秋の内弟子となりますが、
血気に逸り門を去り、早稲田大学を中退して大分に帰ると
父三浦数平(大分市長、衆議院議員)のコネで九州電力に入社。
昭和2年、再び上京して政治活動に入り、大亜義盟及び国策社を結成します。
同7年宮内省御用菓子舗虎屋恐喝事件、同9年三井合名会社顧問・益田孝を
不敬罪で恐喝、同14年中島知久平(ちくへい)狙撃事件をおこし、
これら3事件で懲役2年の判決を受けています。
戦後は右翼運動の育成に力を尽し、また政財界の黒幕となり、
東京日本橋室町に事務所を構えたことから室町将軍と異名をとります。
歌集に「当観無常」「玉鉾の道」「悲天」があります。
『参考資料』
「義仲寺と蝶夢」義仲寺史蹟保存会 「義仲寺案内」義仲寺
「芭蕉、蕪村、一茶の世界」美術出版社 現代日本「朝日人物事典」朝日新聞社
「20世紀日本人名事典」日外アソシエーツ 京都・身余堂の四季「保田與重郎のくらし」新学社

 



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松尾芭蕉は湖南をこよなく愛し、たびたびこの地を訪れ義仲寺で過ごしています。
湖南には信頼する多くの門人たちがいて、人々の情は厚く、
芭蕉にとって心休まる故郷のような土地だったようです。
芭蕉が最初に大津を訪れたのは『野ざらし紀行』の旅の途中、
貞享元年(1684)9月、41歳の時のことで、それから51歳で亡くなるまでに、
9回も大津を訪れ、90句ほど作っています。芭蕉が生涯に詠んだ句は
980ほど
といいますから、1割近くが近江で詠んだ句ということになります。

芭蕉にとって近江と近江の人は特別なものでした。
元禄3年(1690)晩春、幻住庵に入る直前、志賀辛崎に舟を浮べて
♪行く春を近江の人とおしみける と詠んでいます。
芭蕉真蹟(直筆)のこの句碑が史料観傍の芭蕉樹の中にあります。
なお桃青(とうせい)は芭蕉の別号です。
芭蕉という俳号は、芭蕉樹からきています。
芭蕉の葉が風雨に破れやすく、破れやすいという点が
自分自身に似ているところからこの号を用いたといわれます。
また江戸の門人、李下(りか)に贈られ、深川の庵の前に植えた
芭蕉の苗が大きく成長し、近所の人が芭蕉翁と呼んだところからとも。
 
芭蕉は「奥の細道」の旅を終えて伊勢まで帰ると
又玄(ゆうげん)宅に宿泊し、伊勢神宮の内宮、外宮を参拝します。
伊勢神宮は20年毎に建て替えられ、芭蕉の訪れた年は
ちょうどこの式年遷宮の年に当たっていました。
又玄(島崎味右衛門)の家は代々、
伊勢神宮の御師(おし)という下級神職を務めていましたが、
この時は父を亡くして貧乏のどん底でした。若い夫婦が苦しい生活の中で、
精一杯のもてなしをしてくれることに芭蕉は深く感謝し、
その妻に句と文章を贈っています。
  ♪月さびよ明智が妻の話せん
寂しい月明りのもとですが、そなたに明智光秀の話をしてあげましょう。

明智光秀は若いころ、仕官先もなく貧乏でした。連歌の会を開く
お金が要るというので、妻は自慢の長い黒髪を切ってお金に換え、
夫に差出したといいます。

元禄4年(1691)9月、又玄は芭蕉が滞在していた義仲寺を訪れて
無名庵に一泊、木曽義仲の墓と背中合わせに寝て寒さを感じ
♪木曽殿と背中合わせの寒さかな の句を作ります。
この句碑が無名庵の傍に建っています。
ちなみに無名庵は義仲の墓
の真後ろ、墓は西向きに位置しています。
 
膳所藩の重臣(商人とも)水野正秀の計らいで境内に無名庵が建てられますが、
元禄4年1月の正秀宛ての書簡の中で、芭蕉は建築中の無名庵について
あまり立派な建物を造らないようにと要請しています。
引き続き旅の生活を続ける覚悟で、ここにも定住するつもりはなかったようです。

境内奥には、膳所藩重臣の菅沼曲水(曲翠・菅沼定常)の墓があります。
曲水は妻や弟で膳所藩の藩士怒誰(どすい)、
伯父の水野正秀とともに芭蕉の弟子となり、正秀同様、
芭蕉を経済的に援助した人として知られ、芭蕉が最も信頼した一人でした。
元禄6年(1693)、江戸にいた芭蕉は余程お金に困っていたのでしょう。
江戸在勤中の曲水にお金の無心をしています。

「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄3年(1690)、
4月から7月にかけて幻住庵で旅の疲れをやすめます。
幻住庵を芭蕉に貸したのは曲水です。幻住庵は伯父の
幻住老人(菅沼定知)が晩年、石山の国分山(大津市国分町)の
近津尾八幡宮の傍に建てた庵で、その没後、手を入れて提供します。
そこからは琵琶湖が一望でき、比良・比叡の峰々、
三上山の美しい姿などが眺められる景勝地です。

この庵で「石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山といふ。
そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。」で始まる『幻住庵記』を綴り、
「北風海を浸して涼し。日枝の山、比良の高根より、
唐崎の松は霞こめて、城あり、橋あり、釣りたるる人あり、
美景、ものとして足らずといふことなし。」と琵琶湖や比叡、
比良の山々などの風景を激賞しています。

芭蕉は初対面の曲水の印象を「ただ者には非ず」と語り、
また『幻住庵記』の中で「勇士菅沼氏曲水子」と記しています。
 芭蕉(1644~94)が亡くなった後の享保2年(1717)7月、
不正の人、膳所藩悪家老曽我権太夫が殿様の供をして
東へ下るといって挨拶に来た際、曲水は曽我権太夫を槍で刺殺します。
自らも責任をとってその場で自害したのは60に近い年齢だったといいます。

曲水は主君に迷惑がかからぬように、原因は私怨にあるとしたので、
江戸にいた息子内記も直ちに切腹させられます。
後に曲水の忠誠心の強い剛胆な人物であった事が主君に知れ、
一家を再び藩に取り立てようとしましたが、家は断絶したあとでした。
このような事情から長い間、曲水の墓はなかったのですが、
昭和48年、義仲寺内に没後257年にして初めて造られました。

藤堂高虎は芭蕉の母方の祖父、藤堂良勝の従兄弟にあたります。(『芭蕉めざめる』)
琵琶湖に突き出た土地に築城された
膳所城は、本丸を湖水に張りだした
水城で、築城の名手藤堂高虎の手になり、
その美しい景観は「瀬田の唐橋
 唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、
水に映るは膳所の城」と里歌にも謡われます。
芭蕉は祖父の従兄弟、藤堂高虎が建てた城が見える木曽塚の地で
波音を聞きながら眠りたいと遺言したことにもなります。

なお膳所城主は三河以来の家康の家臣である戸田一西(かずまさ)から
氏鉄、本田康俊、菅沼定芳(曲水の伯父)、石川忠総と変転を重ね、
伊勢亀山から本田俊次が入封してからは世襲して幕末に至っています。
 義仲寺前の旧東海道を直線距離で1キロほど東南に行った
湖の中にあったのが膳所城で、現在、本丸跡が膳所公園として整備され、
湖に浮かぶ湖城の面影をしのぶことができます。

須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇  
『アクセス』
「義仲寺」大津市馬場1丁目5-12
京阪電車石山坂本線「膳所駅」またはJR「膳所駅」下車徒歩約15分
「膳所城跡公園」京阪電車石山坂本線「膳所本町駅」下車 徒歩約10 分
『参考資料』

山本唯一「京近江の蕉門たち」和泉選書 田中善信「芭蕉」中公新書
光田和伸「芭蕉めざめる」青草書房 魚住孝至「芭蕉 最後の一句」筑摩書房
「松尾芭蕉」桜楓社 高木蒼梧「義仲寺と蝶夢」義仲寺史蹟保存会
「芭蕉翁 大津来遊のしるべ」義仲寺 「日本人名大事典」平凡社

 



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滋賀県大津市の朝日山義仲寺(ぎちゅうじ)は、室町時代末に
近江守護の佐々木六角氏が義仲の菩提を弔う寺を
建立したことに始まると伝えられています。

江戸時代の中頃までは、木曽塚・無名庵(むみょうあん)と呼ばれ、
義仲の墓の傍に柿の木があるだけの小さな寺だったという。
境内には木曽義仲と芭蕉の墓があり、
境内全域が国の史跡に指定されています。

京阪電車膳所駅から琵琶湖岸に向かって約350㍍進みます。
旧東海道との交差点を左折し、約50㍍進むと左手に義仲寺があります。

琵琶湖の西岸、寺の前の道は旧東海道です。
古くはこの辺りを粟津ヶ原と呼んだという。

武家屋敷のような山門の右手の地蔵堂は巴地蔵堂と呼ばれ、
古くから地元の信仰を集めています。



芭蕉がこの寺を初めて訪れたのは、奥の細道の旅から帰った
元禄2年(1689)、ちょうど寺の修理を終えた頃でした。

この年の暮れはこの寺で過ごして新年を迎えました。
その後も粟津の戦いで最期を遂げた義仲の武骨な生き方に共鳴し、
敬愛していた芭蕉はこの寺に
度々滞在しています。
湖南には芭蕉が信頼する膳所藩重臣の本田臥高・菅沼曲水や
曲水の伯父水田正秀などの多くの門人がいました。なかでも曲水は、
石山寺に近い国分山中にあった庵を幻住庵として芭蕉に提供し、
義仲寺境内には水田正秀によって無名庵が建てられます。

山門を入ると境内右手に寺務所、史料観・朝日堂その奥に翁堂が建ち並び、
左手に芭蕉ゆかりの俳書などを納めた粟津文庫・無名庵と続きます。
庭には山吹・巴塚・木曽義仲の宝篋印塔、その右隣には芭蕉の墓が並び、
芭蕉や無名庵主らの20基近い句碑が点在しています。境内奥に義仲寺鎮守の
木曽八幡社や曲水、昭和再建に尽力した保田與重郎などの墓があります。

















芭蕉翁真筆句の版木

朝日将軍にちなむ朝日堂

朝日堂には、本尊の聖観世音菩薩・義仲・義高父子の木造が納められた
厨子や今井兼平、芭蕉と門弟らの位牌が祀られています。




芭蕉像を安置する翁堂には、芭蕉と丈艸・去来の木像、側面に蝶夢の陶像、
壁には三十六俳人の画像が掛けられて弟子たちが今も寄り添っています。

天井は伊藤若冲筆四季花卉(かき)の図です。
尚、『義仲寺案内』には、「翁堂は安政3年(1856)類焼、同年再建、

現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を
制作し奉納したものである」と記されています。



元禄7年(1694)9月、旅先の大阪で病に伏せた芭蕉は、
大坂本町の薬屋だったという弟子の之道(しどう)宅から
近くの南御堂前の花屋仁右衛門の貸座敷に病床を移します。
臨終の床で、大津の乙州(おとくに)に「さて、骸(から)は木曽塚に送るべし。
爰は東西のちまた、さざ波よき渚なれば、生前の契深かりし所也。
懐かしき友達のたづねよからんも、便わずらわしからじ。」
(路通『芭蕉翁行状記』)と語ったといいます。

治承4年(1180)、以仁王の平家追討の令旨を受けて挙兵した義仲は、
倶利伽羅合戦で平家軍に大勝し、北陸道から京へ入り平家を西国に追いやりました。
しかし、朝廷と源平の三つどもえの争いの中、後白河法皇と対立し、
法皇の命を受けた源範頼・義経軍と戦い寿永3年(1184)に粟津で戦死しました。


芭蕉は義仲をこよなく愛し、大坂で逝去の際、
義仲寺の木曽塚の隣に埋葬してほしいと遺言し建てられた墓。


無名庵

木曽塚は義仲寺にある義仲の墓所ですが、芭蕉は「膳所は旧里のごとし」と語り、
湖南蕉門らの集う無名庵を幾度となく訪れ交流を重ねています。
芭蕉の時代、比良・比叡の山なみが連なる琵琶湖に面し、道のすぐそばまで
波が打ち寄せる風光明媚な木曽塚の地は芭蕉が愛したところです。
東海道沿いにあるこの地は、懐かしい人たちが訪ねてくれるのに都合がよく
自分の死後も弟子たちが時折尋ねて来て句会を催すことを望んでいたようです。
ちなみに大津市打出浜・におの浜付近の湖岸は
市街地を広げるため、昭和30年代に埋立てられました。

元禄7年10月、芭蕉の遺骸は遺言通り、門人の手で花屋仁右衛門別宅から
川舟に乗せられ、淀川を遡って琵琶湖畔に到着し、木曽塚の隣に葬られました。
丈艸(じょうそう)筆による「芭蕉翁」の文字が刻まれた
塚の傍には冬枯れの芭蕉が植えられます。
芭蕉は悲劇の武将義仲や義経に心惹かれたといわれています。
ともに源氏再興を願い平家追討に身を捧げながら
やがて頼朝と対立し歴史の舞台から消えてしまったという意味では、
義仲と義経は同じ運命を辿ったということになります。

「おくの細道」の旅で芭蕉は平泉高館に上り
奥州藤原氏三代が滅亡したあとの夏草が生い茂る情景を
♪夏草や兵どもが夢の跡 と詠んでいます。
平泉は奥州藤原三代・清衡、基衡、秀衡が居を構え、
高館には義経の館があったといわれ、
父、秀衡の死後、鎌倉方と組んだ泰衡にこの館を襲われた
義経は妻と娘を殺害したのち自害します。
時に31歳、奇しくも義仲がこの世を去ったのと同じ年令でした。

この旅の途中に多太神社(石川県小松市)に参拝し、
幼い義仲を木曽へ連れてきてくれた斎藤実盛の
遺品の兜を拝見します。実盛は始め源氏の武将でしたが、
平治の乱後、平宗盛に仕えていました。
きりぎりすの鳴き声を聞き
実盛の無残な最期を思い起こし「むざんやな」と嘆き
♪むざんやな甲の下のきりぎりす の句を奉納、
やがて白山が見えなくなる旅の最後には、
湯尾峠を越えて源平古戦場の燧ヶ城(ひうちがじょう)へ。

義仲軍を迎え撃とうと、北陸路を進んだ平家軍はこの城にたてこもる
義仲方の軍勢を破り加賀に攻め入り、その後、
倶利伽羅峠の合戦で平家軍は義仲軍に大敗することになります。
♪義仲の寝覚めの山か月悲し と吟じ、
木曽塚の傍らの無名庵に滞在し、真直ぐで豪胆な義仲の性格を
雪の下でたくましく芽吹く草にたとえて
♪木曽の情雪や生えぬく春の草 の句を作っています。

『姓氏家系大辞典』によると、芭蕉は桓武平氏拓植(つげ)氏族で
平宗清の末裔により、宗房と名乗ったと記されています。
芭蕉が義経・義仲にとりわけ強い思いを寄せていたことについて
『芭蕉 最後の一句』には次のように書かれています。
「伊賀国は室町時代から群小の土豪の力が強く、織田信長の次男
信雄(のぶかつ)の侵攻も撃退していたが、天正九年、信長は
大軍で攻め寄せ、抵抗する伊賀の土豪を殲滅(せんめつ)掃討した。
芭蕉は伊賀の土豪の出身であると思われることから、
源氏の義経や義仲などの敗残者に熱い思いを
寄せることになったのではないかと推測できる。」

「義仲忌」が毎年1月第3日曜日、5月第2土曜日には、
翁堂に鎮座する芭蕉翁の像に白扇を奉納する「奉扇会」、
芭蕉翁の忌日「時雨忌」は、11月の第2土曜日に営まれています。

松尾芭蕉終焉の地 (南御堂) 
義仲寺2(芭蕉) 義仲寺3(芭蕉以後)  義仲寺4(巴塚・山吹供養塚)
                           

『アクセス』
「義仲寺」大津市馬場1丁目5-12

京阪電車石山坂本線「膳所駅」または
JR膳所駅下車徒歩約10
3月から10月:9:00から17:00 11月から2月:9:00から16:00
定休日月曜日(祝日除く) ※4・5・9・10・11月の月曜日は無休

『参考資料』
田中善信「芭蕉」中公新書 「松尾芭蕉」桜楓社 
「おくのほそ道大全」笠間書院 太田亮「姓氏家系大辞典」角川書店
魚住孝至「芭蕉 最後の一句」筑摩書房 「滋賀県の地名」平凡社
「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社 光田和伸「芭蕉めざめる」青草書房 

 高木蒼梧「義仲寺と蝶夢」義仲寺史蹟保存会 「芭蕉翁 大津来遊のしるべ」義仲寺
長谷川櫂「奥の細道をよむ」ちくま新書 「平家物語を歩く」講談社



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