平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



由比ヶ浜通りから鎌倉消防署長谷出張所横の道を進むと、
甘縄(あまなお)神明宮があります。

もとは甘縄神明宮あるいは甘縄神明社と称しましたが、
昭和7年(1932)に甘縄神明神社に改められました。
ただ、いまだに甘縄神明宮と呼ぶ人が多くいます。

左手が鎌倉消防署長谷出張所。



当社は鎌倉時代以前からある古い神社の一つで、
頼朝・北条政子・実朝など源氏将軍家の尊崇が篤い社でした。
長谷の鎮守であり、鎌倉大仏の鎮守でもあるという。

鳥居傍に甘縄神明宮の石標が建っています。
甘縄神明宮の裏山が御輿嶽(見越岳=みこしがだけ)と
呼ばれたことから石標右上にも「見越嶽」と刻まれています。


甘縄神明宮の鳥居を入ったあたり一帯は、
安達藤九郎盛長の館跡です。

安達盛長(1135~1200)は『吾妻鏡』や物語類には、
藤九郎盛長の名で登場していますが、奥州合戦の後、
陸奥国安達荘を領して安達氏を名のります。

頼朝の乳母比企尼の長女・丹後内侍の
婿であったことから、頼朝の配所蛭が島に
生活物資を運び、身辺の世話を受け持ったのが盛長です。

比企尼は平治の乱で義朝が敗れ、頼朝の伊豆配流が決まると、
夫の比企掃部允(かもんじょう)とともに京から
所領のある武蔵国比企郡に帰り、以後、
旗揚げまで頼朝の生活を支え続けた功労者です。

『吾妻鏡』には、頼朝が盛長の館を
しばしば訪れたことが記されています。
文治2年(1186)6月、病気の丹後内侍を
頼朝はひそかに見舞い、その回復を祈願したという。

治承4年(1180)8月の挙兵の際に頼朝は、盛長を
関東武士たちのもとに遣わし挙兵への参加を勧誘させました。

重要な任を負った盛長は、河内源氏と深いつながりのある
波多野氏(神奈川県秦野市)、山内首藤氏(鎌倉市山ノ内)らを
勧誘に回りましたが、色よい返事は得られませんでした。

頼朝の兄の朝長(ともなが)は、波多野遠義(とおよし)の
娘を母に持ち、波多野氏のもとで養育されました。
頼朝の乳母であった山内尼の夫、
山内首藤(やまのうちすどう)俊通(としみち)は、
平治の乱で子の滝口俊綱とともに討死しています。
源頼朝の乳母山内尼  

波多野氏・山内首藤氏ともに源氏譜代の家人でしたが、
山内首藤経俊(つねとし)は、頼朝の乳母子でありながら
石橋山合戦では頼朝に弓を引いたため、山内尼は頼朝に
敵対した我が子経俊の命乞いを行っています。
朝長の伯父の波多野義常も頼朝に協力せず後に滅んでいます。

盛長は石橋山敗戦後、頼朝とともに小船で安房国に逃れ、
下総国(千葉県北部・茨城県西部)の大豪族である
千葉常胤への使者に立ち、常胤を説得して味方につけました。

安房国を出て、房総半島を北に鎌倉を目指して進む頼朝は、
大武士団で在庁官人の地位にあった上総国(千葉県)の
上総広常に和田義盛を、やはり在庁官人の
千葉常胤(つねたね)には盛長を密使として送り、
軍勢への参加を呼びかけたのです。

『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』は、安達盛長の出自を
藤原北家魚名流の小野田三郎兼盛(広)の子としていますが、
『保暦間記(ほうりゃくかんき)』は、
盛長を先祖知れずと記すなど明らかではありません。

拝殿



石段を上りつめて振り返ると、由比ヶ浜が眺望できます。

拝殿の背後に本殿があります。

石段の左手前には、「北条時宗公産湯の井」があります。

建長3年(1251)に生まれた時宗の産所は、
安達邸内の一角にあった松下禅尼の甘縄の第でした。
松下禅尼は安達景盛の娘で時宗の祖母です。
こんなところから安達邸にごく近くゆかりの深い
当社境内の湧き水に「産湯の井」の伝承が生まれたようです。

松下禅尼や北条時宗・貞時・高時らの夫人たちは、
安達氏の出であり、鎌倉幕府の重臣安達氏と
北条氏との関係が親密であったことがうかがわれます。
北条氏と婚姻関係を結んだ安達氏は、関東武士団の有力者が
次々と倒れた後も最後まで生き残りますが、
鎌倉末期に霜月騒動で滅ぼされました。


甘縄神明宮の境内に入ってすぐ右側に鎌倉町青年団によって
建てられた
足達盛長邸址の碑があります。

足達(安達の誤り)盛長邸址 碑文
盛長は藤九郎と称す 初め頼朝の蛭が島に在るや 
克く力を勠(合)せて其の謀を資(たす)く 石橋山の一戦 
源家がト運の骰子(さい)は全く暗澹(あんたん)たる前途を示しぬ 
盛長 頼朝に尾し扁舟(小船)涛(波)を凌(しの)いで安房に逃れ 
此処に散兵を萃(集)めて挽回を策す 

白旗鎌倉に還り天下を風靡するに及び 
其の旧勲に依って頗(すこぶ)る重要せらる 
子 弥九郎盛景(景盛の誤り) 孫 秋田城介義景 邸を襲ぐ
  頼朝以来将軍の来臨屡々(しばしば)あり 此の地即ち其の邸址なり
 大正十四年三月建  鎌倉町青年団

大意
盛長は藤九郎と称します。源頼朝が伊豆の蛭が島にいる時、
頼朝の計画が成功するように助けました。石橋山の戦で敗れ、
源家の前途が真っ暗になったときも、盛長は頼朝と共に
小船で安房に逃れ、そこで軍勢を建直して策を練りました。
白旗が鎌倉にはためく時がくると、 その功績により、
重要な地位に就きました。盛長の子の景盛(かげもり)、
孫の秋田城介義景(よしかげ)が家を継ぎました。

(実朝の代になって出羽介となり秋田城を掌握して
武門の栄誉とされた秋田城介と称し、
秋田城介は、安達氏の世襲の職となりました。)
頼朝やその後の将軍がしばしば訪れました。
この場所がその屋敷のあった場所です。

甘縄神明神社略誌
御祭神 
天照大神 伊邪那岐尊(白山)倉稲魂命(稲荷)
 武甕槌命(春日) 菅原道真(天神)

御由緒
和銅三己酉(約1250年西紀710年)染屋太郎大夫時忠の創建です。
永保元年酉年(約880年前西紀1081年)源義家公が社殿を再建せらる。

源頼朝公政子の方實朝公など武家の崇敬が篤く古来
伊勢別家と尊称せられている鎌倉で最も古い神社です。
 社殿の裏山は 御輿ケ嶽(見越ケ嶽とも書く)と云い
古くから歌によまれています。

源頼義は相模守として下向の節当宮に祈願し
一子八幡太郎義家が生れたと伝えられています。
都にははや吹くぬらし  鎌倉の御輿ケ崎秋の初風
(当神社略誌より)

この和歌は宗尊(むねたか)親王が詠んだもので、
親王の瓊玉(けいぎょく)和歌集に収められています。
御興ケ崎(みこしがさき)
社殿の裏山は神輿ヶ岳(見越ヶ嶽とも)と言い、
古くから歌に詠まれています。

宗尊親王(1242~74)は、後嵯峨天皇の皇子です。
九条家出身の第5代将軍頼嗣に代わって第6代将軍となり、
皇族出身で初めて鎌倉幕府の征夷大将軍となった人物です。

鎌倉太刀洗の水(頼朝はなぜ上総介広常を殺害したのか) 
平治の乱で敗走の途中に負傷した朝長は、美濃国青墓で
自害したとも
父の手にかかったとも伝えられています。
青墓(源朝長の墓・元円興寺)  

『アクセス』

「安達盛長館跡」神奈川県鎌倉市長谷1-12-1 江ノ電長谷駅より徒歩約5

『参考資料』

「神奈川県歴史散歩(下)」山川出版社、2005
神谷道倫「鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24

現代語訳「吾妻鏡・頼朝の挙兵」吉川弘文館、2007年 
元木泰雄「源頼朝 武家政治の創始者」中公新書、2019年 
水原一「新定源平盛衰記(2)文覚頼朝に謀叛を勧むる事」新人物往来社、1993

本郷和人「人物を読む日本中世史」講談社、2006

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




鎌倉市雪ノ下の小町大路沿いの民家の間に
土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)邸跡の石碑が建っています。

土佐坊昌俊は源頼朝の命を受け、京の義経を襲い敗れて殺された人物ですが、
その素性にはさまざまな説があります。



『延慶本』・『長門本』によると、土佐坊昌俊(昌春・正俊とも)は、
もと興福寺の西金堂の堂衆の観音房で、『平家物語・巻1・額打論』に
登場する乱暴者で有名な僧兵です。

当時、天皇の葬儀の際には、京都と奈良の寺の僧侶がお供をして、
それぞれが自分の寺の名を記した額を墓所に掛けるという決まりがありました。
その順番は東大寺次に興福寺、その向かいに延暦寺、
次に園城寺(三井寺)とされていました

二条天皇葬送の時、墓所に額を掛ける順を争って
興福寺と延暦寺の間で衝突が起こりました。延暦寺の僧が
先例を無視して、興福寺より先に延暦寺の額を掛けたのです。
これを見て、興福寺の観音房、勢至坊(せいしぼう)という2人の僧兵が
延暦寺の額を切り落とし、打ち壊したという。(『巻1・額打論』)

『平家物語』増補系の弘本・延慶本・長門本では、
この悪僧観音房は、平家滅亡後、頼朝の密命を受け都の義経を
襲い敗れて殺された土佐坊昌俊がその後身だとしています。

さらに弘本系・延慶本・長門本、四部本、『源平盛衰記』は、
土佐坊昌俊が頼朝に仕えるきっかけとなったいきさつを語っています。
大和国の針の庄は、興福寺西金堂の御油料所
(西金堂の灯油をまかなうための領地)でしたが、代官小河遠忠は、
興福寺の上位の僧官快尊を味方にして、年貢を停止しました。
西金堂の堂衆らは、土佐坊と改名した観音房を仲間に引き入れ
代官を夜討にしたため、昌俊は大番役として上洛していた
土肥実平(さねひら)に預けられました。
月日が経つうちに実平と親しくなった昌俊は、
今更興福寺には帰れないので伊豆北条に下り、頼朝に
仕える身となり、
悪僧上がりの剛の者だったので、
頼朝の側近くに召し使われました。 

『玉葉』文治元年10月17日に、堀川夜討ちに該当する記事があります。
武蔵国在住の児玉党が院御所に近い義経館を襲い
敗北したとしていますが、昌俊の名は見えません。
『四部本』に土佐坊は実は児玉党であるとわざわざ記されていることから、
『玉葉』が記した児玉党とは、土佐坊の一行をいったものと考えられます。
『四部本』は、土佐坊が語らった在京大番中の武士が
児玉党だったことを『玉葉』をもとに付記したものと思われます。

平家物語諸本の中には、平治の乱の際、都に戻り常盤御前に義朝の死を
急報した義朝の童金王丸と昌俊を結びつけるものもありますが、
史料的には確認されません。これは如白本・南部本などが伝えるもので、
土佐坊は敵役(かたきやく)的悪僧ですが、その小気味よい生き方が
人気を博し数々の伝説が生まれていったようです。

平家追討に数々の功のあった義経ですが、頼朝の許可なく任官したため
頼朝の不興を買い、また義経と対立し遺恨を抱く梶原景時の讒言もあって
ますます頼朝から不信の念をもたれることになりました。
義経は鎌倉入りを拒否され、再び宗盛父子を伴い京へ向かい、
途中の近江国(滋賀県)篠原で宗盛、野路宿で子の宗清を処刑しました。

都ではいつしか頼朝・義経の不和が露わとなり、頼朝の命で
義経に従っていた者たちは、次々と鎌倉へ帰って行きました。
頼朝は梶原景季(かげすえ=景時の嫡男)を上洛させ、
早く源行家を探しだして追討するよう義経に命じました。
行家は源義朝の弟で頼朝・義経の叔父にあたり、以仁王の
平家討伐の令旨を諸国の源氏に伝え歩いた人物です。

行家は頼朝と義経の不和を知り、チャンスとばかり義経と手を組み、
後白河法皇に「頼朝追討」の院宣を要求しましたが、
鎌倉と対立するのを恐れる九条兼実らの反対もあって、
法皇はなかなか院宣を下そうとしませんでした。
土佐坊が上洛したのはちょうどそのころです。
京における義経の動向を探らせた梶原景季が鎌倉に戻り、
報告を受けて頼朝は、義経追討を決意しました。

頼朝は御家人を集め、討手を募りましたが、多くの者が辞退し、
梶原景時さえしり込みし退室しました。(『源平盛衰記』)
進んで引き受けたのが土佐坊昌俊でした。頼朝は
土佐坊が年老いた母や幼い子供たちが下野国(栃木県)にいるので
心残りと申し出たので、ただちに下野国の中泉庄を与えたという。
そして、昌俊を物詣でと称させて上洛させました。
中泉庄は、現栃木県大平町を中心に、
東西約6㌔、南北約8㌔ほどのかなり広い荘園です。

昌俊(?~1185)は弟の三上弥六家季ら83騎の軍勢を引連れ、
鎌倉を出発し都に到着しました。すぐ義経に会いに行きませんでしたが、
街中で義経配下の武将に出会い翌日、使いの弁慶が宿舎に
やってきて呼び出され、頼朝からの刺客と疑われます。
昌俊は熊野詣の途中と弁解し、7枚もの起請文(誓いの文書)を書いて
その場を取り繕い、在京大番中の武士を語らって
その夜のうちに義経を襲撃する準備を始めました。

街の様子が騒がしいので、義経の愛妾静が童を偵察に出しましたが、
帰って来ないので下女に見に行かせると、「童は土佐坊の宿の前で
斬捨てられていて、武士たちが出陣の準備をしています。」というので、
義経はすぐに武装し敵を待ち構えていました。
この時、義経の郎党はそれぞれの宿に帰り留守でしたが、まもなく弁慶を
始めとする味方の軍勢も駆けつけ、土佐坊はさんざんに駆け散らされ、
やっとのことで鞍馬山の奥に逃げ込んだのが運のつきでした。
鞍馬は義経が幼年時代を過ごした地なので、そこの法師に捕えられ
義経の前に引き出されます。義経は土佐坊の頼朝への
忠誠心に感心して命を助け鎌倉に帰そうとしましたが、
「命はすでに鎌倉殿に差し上げた。早く首を刎ねてくれ。」というので
六条河原で処刑されたのでした。
土佐房昌俊のその潔い態度を褒めない者はいなかったという。

『百錬抄』文治元年10月17日の項によると、義経の堀川館を襲撃した土佐坊軍に、
児玉党30騎も加わって相当手痛い攻撃を加えましたが、これを聞いた
行家も駆けつけ、義経勢は敵を追い散らし勝利を得ました。
(『平家物語・巻12・土佐房誅』)(『吾妻鏡』文治元年10月9日条、10月17日条)

観世弥次郎長俊作の謡曲『正尊(しょうぞん)』は、
土佐坊昌俊が主人公で、起請文を読む場面が中心となっています。
起請文とは、
神仏への誓いの言葉を書いた文書のことですが、『平家物語』には、
起請文の文面はないので、作者が書き加えたと思われます。

土佐坊昌俊の夜襲をいち早く気づいた静御前が、
寝ている義経に鎧を投げて窮地を知らせるところを描いたものです。
 堀川御所夜襲之図 歌川年英作 高津市三氏蔵

平家物語絵巻・巻・12・土佐坊被斬(きられ)より転載。
右上の場面は静御前に武装を手伝わせる義経です。
義経は武装し、敵が押し寄せるのを待ち受けています。

以下の画像は、国立国会図書館デジタルコレクション
「土佐坊昌俊義経が宿所に夜討の図」より転載。

源義経

武蔵坊弁慶

静御前


(碑文) 土佐坊昌俊邸址
堀川館に義経を夜襲し利あらずして死せし者 是土佐坊昌俊なり 
東鑑文治元年十月の条に 此の追討の事人々に多く以て
辞退の気あるの処 昌俊進んで領状申すの間 殊に御感を蒙る
 巳に進発の期に及んで御前に参り  老母並に嬰児等
下野の国に有り憐憫を加えしめ給ふべきの由之を申す云々 とあり
 其の一度去って又還らざる悲壮の覚悟を以て門出なしけん
此の壮士が邸は 即ち此の地に在りたるなり
大正十四年三月建 鎌倉町青年団

(大意)土佐坊昌俊は、堀川の館にいる源義経を夜襲し
逆に殺されてしまいました。吾妻鑑文治元年(1185)10月の条によると、
義経を討つ者を募っているとき、みんな辞退したい気持ちであったところに、
昌俊が進んで引き受ける旨申し上げると、頼朝は大層喜びました。
そして、出発の間際に頼朝の御前に参り、自分には年老いた母や
幼い子供たちが下野国にいるので、もしもの事があれば
情けを掛けてやって欲しい旨申しあげた、などと書かれています。
一度行けば、もう帰ってこないという悲壮な覚悟で
門出した土佐坊の屋敷が在ったのはこの場所です

土佐坊昌俊(冠者殿社)  
土佐坊が急襲した義経の館
源氏堀川館・左女牛井之跡・若宮八幡宮  
金王八幡宮(源義朝の童渋谷金王丸)  
『アクセス』
「土佐坊昌俊邸址」神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目14−23
JR鎌倉駅下車、徒歩約15分
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)(下2)角川書店、昭和62年、昭和52年
新潮日本古典集成「平家物語」(上)(下)新潮社、昭和60年、平成15年
「国史大辞典」吉川弘文館、平成元年 
「完訳 源平盛衰記」(8)勉誠出版、2005年
栃木孝惟・谷口耕一編「校訂延慶本平家物語(1)」汲古書院、平成12年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫、2005年 
林原美術館編「平家物語絵巻」クレオ、1998年
「歴史人 源平合戦と源義経伝説」KKベストセラーズ、2012年6月号
奥富敬之監修「源義経の時代」日本放送出版協会、2004年
「栃木県の地名」平凡社、1988年
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(上)」かまくら春秋社、平成19年
白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




鶴ヶ岡八幡宮から金沢街道(県道204)に沿って、
東へ進んだ十二所に大江広元邸跡があります。



明石橋交差点を滑川沿いに70mほど行くと、
住宅(十二所921)の角に「大江広元邸址」の石碑が建っています。





富士川合戦に続く金砂城(かなさじょう=現、茨城県常陸太田市)の戦いで、
常陸の佐竹氏などの反対勢力を破った源頼朝は、治承4年(1180)12月、
大倉郷に建設した大倉御所(現、大蔵幕府跡の碑が建つ清泉小学校辺)に移りました。

佐竹氏は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光嫡流で、
常陸国北部を中心に強大な勢力を誇り、頼朝の背後を脅かす存在でした。

元暦元年(1184)8月から公文所(くもんじょ)の建設がはじまり、
10月には完工してその別当(長官)に大江広元が起用されました。

公文所と同時期に裁判実務を扱う問注所(もんちゅうしょ)も新設され、
執事(長官)には三善康信が任じられました。
和田義盛を別当としてすでに設置されていた侍所とともに
幕府の三大機関である三つの組織が整いました。
侍所は御家人の統制などを担当し、その所司(副長官)には、
梶原景時を任命しました。

別当和田義盛は、畠山重忠の攻撃を受け
衣笠城からほうほうのていで安房に逃亡する途中、
石橋山合戦で敗れ真鶴から船出した頼朝と海上で出会い、
早々と恩賞を願いでて勝利の暁には
「侍所別当」に任命するという約束をとりつけたという。

現在公文所の位置は、はっきりとはしていませんが、公文所に門を建てているので、
大蔵幕府と同じ敷地内にあったとは考えにくく、鶴岡八幡宮の東隣、
筋替橋を東北隅とする位置に建てられていたと思われます。

筋替橋は西御門川に架かっていましたが、現在は暗渠(あんきょ)となっています。

公文所はもとは公卿の政所(まんどころ)や国衙(こくが)・荘園などに設置された
公文書を管理する機関ですが、頼朝の財政基盤が成立したので、
それを管理する家政機関としての公文所を置きました。
建久元年(1190)に頼朝が従二位に任じられ公卿に叙せられると、
政所設置の資格を得たため、これを設置し公文所の組織を統合して、
東国で得た関東知行国や関東御領と称する将軍直轄領、
朝廷から与えられた平氏没官(もっかん)領などの経営を行いました。

大江広元の出自については諸説ありますが、大江維光(これみつ)を
父として生まれ、中原広季の養子となって、中原姓を名のっていました。
大江姓に復したのは、陸奥守に任官した以後の
建保4年(1216)、朝廷に願いを出して改姓しました。

広元は朝廷に仕える下級貴族でしたが、太政官の事務部局である
外記(げき)の官人を務めた後、兄弟の中原親能(ちかよし)が
頼朝と親しかったため、頼朝に事務能力を買われ鎌倉に下りました。

頼朝にかわって度々都に上り、朝廷との交渉で
大きな役割を果たしています。


中原親能の父は、明法(みょうぼう)博士中原広季で、
親能は都で斎院次官に任じられていましたが、幼い頃、相模国の武士
波多野経家(つねいえ)に養育され、その娘を妻としていました。
頼朝とは古くからの知り合いで、頼朝が挙兵するとすぐに鎌倉に下り、
公事奉行人(公文所や問注所の別当・執事を兼務)として活躍する一方、
平家追討軍として範頼に従ったり、京都守護などを務めました。

また経家の兄波多野義通(よしみち)の妹は、
源義朝の妻となり朝長(ともなが)を生んでいます。
頼朝は平治の乱で父義朝と異母兄の義平、
中宮少進(しょうじん)朝長を失いました。

問注所執事の三善康信は、太政官の書記官役を世襲する
家柄に生まれた下級貴族です。おばが頼朝の乳母であった縁で、
都で下級官僚として仕えるかたわらこまめに伊豆配流の頼朝に
都の情勢を知らせ続け、挙兵を内側から大きく助けました。

頼朝は武士たちとは軍議を凝らし、主に文書を通じて行う朝廷との
交渉や連絡は、京都で下級官人であった側近たちが、
その実務経験を生かして草創期の鎌倉幕府を支え続けました。

『吾妻鏡』文治元年(1185)11月12日の条には、大江広元は諸国に
命令が行き渡るよう守護・地頭を置くよう早く朝廷に申請すべきであると提言し、
頼朝は大いに感心しこの提案通りにすることにしたと記されています。

碑文 「大江廣元邸址
大江氏奕世學匠トシテ顯ル嘗テ匡房兵法ヲ以テ
義家ニ授ク
廣元ハ其ノ匡房ノ曽孫ナリ
頼朝ニ招カレテ鎌倉ニ来リ常ニ帷幄ニ待シ機密ニ参書ス
幕制創定ノ功廣元ノ力興リテ多キニ居リ相模毛利荘ヲ
食ム子孫依リテ毛利ヲ氏トス
而シテ因縁竒シクモ此ノ幕府創業ノ元勲ガ七百年後ノ末裔ハ
王政復古ニ倡首タリ
此ノ地即チ其ノ毛利ノ鼻祖大膳大夫ノ邸址ナリ
大正十四年三月建 鎌倉町青年團」

碑文に「毛利ノ鼻祖(びそ)」とあるのは、広元の
4男季光(すえみつ)が相模国毛利荘(現、厚木市)を賜って
毛利氏初代となり、以後、毛利氏を名のったと言っています。

大意「大江氏は代々学問の家として知られていました。
広元は、かつて源義家に兵法を教えた大江匡房のひ孫です。
頼朝に招かれ、鎌倉に来てからは常に幕府の中枢にあり、
機密な事柄に参画していました。幕府の創設の功績は、
広元の力によるものが大きく、相模の国の毛利庄を賜って
子孫は毛利氏を名乗りました。しかし、因縁奇しくもこの幕府創業の元勲の
七百年後の末裔が、王政復古の主導をしました。
この地がその毛利氏の始祖、大膳大夫(広元)の邸宅の跡です。」

『アクセス』
「大江広元邸址」鎌倉市十二所921番地
JR鎌倉駅東口からバス停「ハイランド入口」下車
『参考資料』
元木泰雄「武家政治の創始者 源頼朝」中公新書、2019年
本郷恵子「京・鎌倉ふたつの王権」小学館、2008年
高橋典幸「源頼朝」山川出版社、2010年
湯山学「波多野氏と波多野庄」夢工房、2008年
関幸彦編「相模武士団」吉川弘文館、2017年
奥富敬之「もっと行きたい鎌倉歴史散歩」新人物往来社、2010年
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
日本の歴史と文化を訪ねる会「武家の古都鎌倉を歩く」祥伝社新書、2013年
高橋慎一郎「武家の古都、鎌倉」山川出版社、2008年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年





コメント ( 2 ) | Trackback (  )




義経は平家一門の総帥平宗盛を捕虜として鎌倉に下りましたが、
金洗沢(かねあらいざわ)に関がつくられ、宗盛を受けとりにきた北条時政は、
義経を遮り鎌倉の入口である腰越で沙汰を待つようにと命じました。
仕方なく義経は、腰越の満福寺に入り鎌倉入りの
許可を待ちましたが、頼朝からの連絡はいくら待ってもありません。
もはやこれまでと意を決した義経は、元暦2年(1185)5月24日、
鎌倉幕府の公文所(くもんじょ)別当(
長官)
大江広元に充てて長文の弁明書を書きました。腰越状です。

満福寺のすぐ目の前には、江ノ電の踏切があり、
鎌倉・藤沢間をつなぐレトロな電車が行き交っています。





腰越状は「左衛門少尉義経恐れながら申し上げる主旨は、」で始まり、
「兄の代官のひとりに選ばれ、勅命によって朝敵を滅ぼし、
父祖の会稽の恥をそそぎました。その自分がなぜ咎をこうむり、
勘気をこうむるのか。」そして讒言によって自分の功績が無視され、
兄と対面できないので申し開きもできないと嘆いています。

そして「生まれてまもなく父が非業の死を遂げてから後、
母の懐に抱かれ、大和国宇陀郡(こおり)竜門に逃れて以来、
片時も安堵の日はなく、都を流浪したが、うまくゆかず、
諸国を放浪し土民百姓らに召し使われていた不遇な
青春時代
を送ったことを語り、次いで時期が到来し、
木曽義仲を追討してからこのかた、ある時は、聳え立つ
岩山を駿馬に鞭打って駆け下り(一ノ谷合戦義経の逆落し)、

またある時は、吹き荒れる強風の中、危険を顧みず
果てしない大海に船を漕ぎだす(屋島合戦での渡海)など
平氏滅亡のために命を惜しまず戦い、朝廷より五位尉を賜ったのは
源家にとってこれ以上の名誉はないはずですが、
今の義経はせつなる嘆きにとざされております。」と記しています。

「五位尉」は、五位で左衛門尉ということで、
かつて祖父源為義が務めた官職でした。
その職に自分がついたのは、源家再興という
長年の望みにもかなうことではないか。と言っているのです。
義経は頼朝に無断で任官したことを謝罪せず、
むしろ「五位尉」という重職についたことを
光栄に思っているような書き方です。

頼朝は自分を頂点とする武家社会を作ろうとしていたため、
許可無く官位を受けることを禁止していたのですが、
義経はそれを理解できず、兄の壮大な展望を見通せなかったようです。

最後に「何ら野心をいだかぬ旨を数通の起請文にしたため
差し上げたものの、未だにお許しは頂けていません。
この想いを何とかして兄上に伝えられるよう広大な貴殿の
ご慈悲を賜りたい。」と大江広元に精一杯訴えています。
この手紙を清書したのは武蔵坊弁慶だといわれ、
その下書きが満福寺に残っています。
江戸期の腰越状の版木もあり、江戸時代に刷り物が
参詣者に配られたと考えられます。

『平家物語』『吾妻鏡』元暦2年(1185)5月24日条、
『義経記』にも、ほぼ同文のものが載っていますが、
「腰越状」の語句に後世の書簡文体が見えることなどから、
真偽を疑問視され、後世の偽作かともいわれています。

腰越状によると、義経の伝記上よく知られた鞍馬入りや
若き日、平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せたことは記されず、
土民・百姓に使われた苦労が語られていることなど、
注目すべきことではなかろうか。
義経伝の一消息を見せているかも知れず、
一概に後の捏造と極めつけられない面もある。
(新潮社『平家物語(下)』第百十四句腰越、頭注)

また富倉徳次郎氏のご考察に依ると、
義経が嘆願書を提出したことは事実であり、その内容も
この腰越状に近いものだったが、現存のものは
後の創作とするのが事実に近いであろうとされています。

伊藤一美氏は「大江広元が義経の嘆願書を
同氏の文倉に残していた可能性は高く、『吾妻鏡』編纂時に
それを史料として提供したのではないか」と推測されています。
(『義経とその時代』2章「腰越状が語る義経」


山門傍の文学案内板   源義経と腰越
 鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官称した。
父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。
治承4年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)兄源範頼とともに
源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。
帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、
頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、
平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、
讃岐屋島、長門壇の浦に平氏を壊滅させた。 
しかし、頼朝との不和が深まり、補虜の平宗盛父子を伴って
鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。
この時、頼朝の勘気を晴らすため、大江広元に
とりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。

 「平家物語」(巻第十二 腰越)には次のように記されている。
 さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあひ具して、
関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、
鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、
「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、
参らせられけれども、用ゐられざれば、判官力におよばず。 

その申し状に日く、
 源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、
御代官のそのひとつに選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、
累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略)
(引用文献 新潮日本古典集成 昭和五十六年)
 しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。
義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。
「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などや
作品にもなり、現在でも「判官もの」 として親しまれている。

 「中世には鎌倉と京を結ぶ街道筋のうち、
腰越は鎌倉~大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。
義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。」

詳細は鎌倉文学館(長谷1-5-3・電話23-3911)にお尋ねください。
平成八年二月 鎌倉教育委員会 鎌倉文学館


 山門を入るとすぐ右手に「義経宿陣之趾」の碑が建っています。

碑文  「文治元年(皇紀一八四五)五月
源義経朝敵ヲ平ラゲ降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ
頼朝ノ不審ヲ蒙リ鎌倉ニ入ルコトヲ許サレズ腰越ノ驛ニ滞在シ
欝憤ノ餘因幡前司大江廣元ニ付シテ一通ノ款状ヲ呈セシコト 
東鏡ニ見テ世ニ言フ腰越状ハ即チコレニシテ
其ノ下書ト傳ヘラルルモノ満福寺ニ存ス
昭和十六年三月建 鎌倉市青年團」

大意「文治元年(1185)5月
源義経は朝敵だった平家を滅ぼし、降伏した前内大臣の
平宗盛を捕虜として引き連れ鎌倉に凱旋したが、頼朝の不審を蒙り、
鎌倉に入ることを許されなかったため、腰越駅に滞在し、
その鬱憤のあまり、因幡前司大江広元に一通の嘆願状として差し出した。
そのことが吾妻鏡に書いてあり、世にいう腰越状はこのことである。
その下書きと伝えられるものが満福寺に存在する。
昭和16年3月建 鎌倉市青年団」
腰越状ゆかりの満福寺(1)義経の生涯を描いた襖絵  
『アクセス』
「満福寺」神奈川県鎌倉市腰越2丁目4-8
江ノ電「腰越駅」から徒歩約5分 無料駐車場があります。
拝観時間9時00分~17時00分
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
 前川佳代「源義経と壇ノ浦」吉川弘文館、2015年
大三輪龍彦・関幸彦他
義経とその時代」山川出版社、2005年

 

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback (  )




壇ノ浦合戦後、義経は兄頼朝との和解のため、
捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下りました。しかし、
捕虜を受け取りに来た北条時政は義経の鎌倉入りを許さず、
「腰越にて沙汰を待つべし」と述べ、頼朝との対面を許しませんでした。
悲嘆にくれた義経は、思いあまってその心情を
満福寺で書状に書き頼朝の側近大江広元に送りました。腰越状です。

腰越は、中世には鎌倉と大磯(神奈川県)の間に設けられた宿駅(腰越駅)でした。
宿駅とは、街道の要所で旅人を泊めたり、荷物を運ぶための
人や馬を集めておいた宿場のことです。
満福寺は駅家(うまや)の跡ともいわれています。

最寄りの江ノ電腰越駅から駅前通りを海岸方面に進み、
「義経腰越状旧跡 真言宗満福寺」の標識を左折して小道に入り
江ノ電の踏切を渡った所に満福寺があります。





源義経の名を書いたのぼり旗が翻っています。(2006年9月撮影)

石段の先に山門が建っています。2015年4月、腰越近辺の
小坪合戦ゆかりの地を巡っている際に再度参拝しました。
そのため、写真はない混ぜのご紹介となっています。

山門をくぐると本堂(昭和6年再建)があります。
龍護山医王院満福寺(真言宗)は、寺伝では、
行基創建と伝えていますが定かではありません。
中興開山は平安時代末期の高範(こうはん)という。
本尊は木造薬師如来(室町時代作)です。

腰越状を代筆する弁慶と義経の新しい像が本堂左手前に建ち、
弁慶の手玉石が本堂の左手から
右手前に移されていました。



屋根瓦紋は笹りんどう、欄干には弁慶と義経が彫られています。
本堂には、鎌倉彫の技法を取り入れた漆画による32面の襖絵があります。
物語などで知られた義経・静御前・弁慶にまつわる名場面を描いたものです。

雪の中、都を逃れる常盤に抱かれた牛若丸。

腰越状を書く義経。

吉野での静との別れ。

静御前の舞。

義経の子を生んだ静は、その子が男の子だったため
取りあげられました。

弁慶と共に雪の中を平泉の藤原氏のもとに向かう義経。

弁慶の立往生。

境内には、弁慶の腰掛石、弁慶が墨の水をくんだといわれる硯池、
弁慶の手玉石、義経手洗い井戸などが伝説とともに残されています。





同寺には、弁慶筆と伝える腰越状の下書きがあり、展示されています。
江戸時代の腰越状の版木、弁慶が用いたとされる
椀・錫杖(しゃくじょう)なども所蔵しています。

「腰越状草案のいわれ」
腰越状を草庵するとき弁慶が墨をすっていると、
草むらでこおろぎがしきりに鳴いていた。
そこで弁慶がやめろと叫ぶと、こおろぎはぴたりと鳴きやみ、
境内は静かになったという。
今でもこの境内ではこおろぎが鳴かないと伝えられる。

「源義経公慰霊碑」昭和54年(1979)建立。
文治5年(1189)6月、藤原秀衡の使者がもたらした美酒に浸され
黒漆塗りの櫃(ひつ)に収められた義経の首級を
腰越の浦で首実検したことにちなんで建てられた碑です。

本堂傍に立つ「しらす丼」ののぼり旗に従って進むと

裏山へ続く道があり、腰越の海が見渡せる高台に
「茶房・宿坊 義経庵」と書いた看板が見えてきます。

遅めの昼食をとろうと「生しらす丼」を注文すると売り切れ、
生しらすと釜揚げしらすのハーフ丼でしたが、
春の海の香に舌鼓をうちました。

江ノ島遠望
腰越状ゆかりの満福寺(2)腰越状・義経宿陣之趾の碑  
源義経、平宗盛父子を護送して鎌倉へ下向(金洗沢・腰越) 
『アクセス』
「満福寺」神奈川県鎌倉市腰越2丁目4-8
江ノ電「腰越駅」から徒歩約5分 無料駐車場があります。
拝観時間9時00分~17時00分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
 「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社、2005年

 

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback (  )




軍(いくさ)奉行として派遣した梶原景時の飛脚が
元暦2年(1185)4月21日、鎮西から鎌倉に到着しました。
「壇ノ浦の戦いでは、吉事の前兆が多くあったとか大勢の協力で
勝利した等と述べ、さらに義経の自分勝手なふるまいを訴え、
その専横ぶりに諸将の憤懣が鬱積しているので、
再三にわたって諫めましたが、かえって罰を受けそうです。
このうえは、許しを得て早く鎌倉に帰りたい。」とのことでした。

4月29日、頼朝は京都の田代信綱(頼朝挙兵時の武士の1人)に
「義経はもはや勘当の身、その命に従ってはならない。
このこと内々に触れ申すべきこと。」と書いた書状を送りました。
義経の頼朝の代官という地位を奪い、
その指揮権を取りあげたのです。

これを知って驚いた義経は、近臣の亀井六郎を使者として鎌倉に使わし、
頼朝に対して異心のないことを誓う起請文を提出しました。
ところが、これまで範頼は西海から度々詳細を伝えてきているのに、
義経は勝手な振る舞いばかりしてきて、今になって頼朝の怒りを聞き、
このような使者を送って来たものとして許されず、
却って逆効果となりました。(『吾妻鏡』文治元年(1185)5月7日条)
この時、義経が左衛門尉(じょう)・検非違使を辞任してから、亀井六郎を
使わしていたら、少しは事態は好転していたかも知れません。

一ノ谷合戦後、義経は頼朝に無断で左衛門尉・検非違使に
任官したことが兄の怒りを招いたことは承知していましたが、
それも兄弟なので壇ノ浦合戦での功績で
許してもらえるだろうという認識しかありませんでした。

同年5月7日、義経は頼朝に対面して自ら釈明しようと、
宗盛父子を連れて京都を出発しました。
鎌倉へ護送されていく道々、宗盛は義経に、「どうか命だけは
助けてもらえるようとりなしをしてくれないか」とたびたび命乞いをしたとして
『平家物語』の作者は、「返す返すも残念だ」と語っています。

「万一の場合は、義経が今度の勲功の賞に替えて助命を
お願いしましょう。だが遠い国か遠い島に流されるかも知れません。」と
言うと「たとえ蝦夷か千島に流されようとも命さえあれば。」と
情けないことを言うのでした。
日数も重なり、いよいよ鎌倉に到着することになりました。

梶原景時は義経よりも一足先に鎌倉に着いて、頼朝に義経の
独断専行を報告していたのです。頼朝は景時の報告に頷き、
「今日は義経が鎌倉に入る日である。早速支度をせよ。」と軍勢を招集し、
金洗沢(かねあらいざわ)に関を設け、義経から
宗盛父子を受け取るとそのまま腰越に追い返してしまいました。

いぶかしがる義経(右)をおいて、宗盛父子を乗せた板輿は中に入り
締め出された義経は追い返されました。

宗盛は輿に清宗は馬に乗って鎌倉に入りました。
若宮大路を通り、三の鳥居前の横大路(東西に通じる道)に至ると、
しばらく輿が止められ、次いで大蔵(倉)幕府に入りました。
(『吾妻鏡』文治元年5月16日条)
清泉小学校傍に建つ「大蔵幕府跡」の碑

平重衡が鎌倉に下向した時には、対面したので頼朝は、
宗盛に対面すべきかどうかを中原(大江)広元に相談しました。
「今度は以前の例とは異なります。君は国内の反乱を鎮めて
二位に叙せられています。宗盛は朝敵であって今や無位の囚人です。
対面されることはかえって軽率の謗りを招くでしょう。」というので、
庭を隔てた向こうの棟に宗盛の座所を設けて控えさせ、
頼朝は簾越しに対面し、直接言葉を交わすのではなく、武蔵国の豪族
比企能員(よしかず=比企尼の甥で、のち養子となる)を通して言わせました。

「そもそも平家を敵とは思っていません。それは故入道相国殿(清盛)の
お許しがなかったなら、頼朝は助かりませんでした。
しかし、平家が朝敵となり、追討の院宣が下ったので、
それに従って平家を討ったまでです。仕方がないことです。」
能員がこのことを伝えようと宗盛の前にくると、宗盛は居ずまいを正し、
畏まって聞こうとしました。そして「ただ命を助けていただければ、
出家して仏道に専念したい。」と小さな声で言うのでした。

その場には、源氏の諸将が居並んでいました。
その中には、同情する者もいましたが、武門の家に生まれながら、
この期に及んでなお命乞いする宗盛に「どうして能員などに
対して礼を尽くすことがあろうか。姿勢を正して畏まったら
命が助かるとでも思っているのか。あんな腰抜けだから、
こんなことになるのだ。」と物笑いの種となりました。

ところが、宗盛は義経からの助命嘆願が聞き入れられて、
遠国送りになるかもしれないと内心思っています。その頼みの義経は、
中原(大江)広元に充てて頼朝に腰越状を提出し釈明しましたが、
頼朝は許さず宗盛父子を連れてすぐに京へ戻るよう命じました。

鎌倉の西に位置する金洗沢(かねあらいざわ)は、
かつては処刑の地でした。
稲村ケ崎から小動(こゆるぎ)岬までの長い砂浜を
七里ヶ浜といい、その行合川(ゆきあいがわ)の
西方の地を金洗沢と称しました。

江ノ電鎌倉高校前駅からバス停峰ヶ原の先で湘南道路と
旧道の分岐点に着きます。左の旧道を進みます。
江ノ電七里ヶ浜駅の先に行合川が流れ、行合橋が架かっています。

七里ヶ浜の西端、腰越は往時は鎌倉~大磯間に設けられた宿駅で
鎌倉の門戸にあたり、処刑が多く行われました。
義経が腰越に留め置かれ鎌倉入りを許されないのは、
すでに
鎌倉幕府から罪人として扱われたことになります。
のちに平泉で討たれた義経の首は、腰越の海岸で首実検を受けています。

七里ヶ浜の海岸線に沿うように江ノ島電鉄や国道134号が走っています。

稲村ヶ崎  新田義貞のエピソードが「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎 
名将の剣投ぜし古戦場」と歌われています。(文部省唱歌「鎌倉」)
腰越状ゆかりの満福寺(1)義経の生涯を描いた襖絵  
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
 渡辺保「人物叢書・源義経」吉川弘文館、2000年
奥富敬之「義経の悲劇」角川選書、平成16年
 神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
林原美術館編「平家物語絵巻」クレオ、1998年

 

 

 

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback (  )





鶴岡八幡宮の東鳥居を出て東に向かうと、清泉(せいせん)小学校が見えてきます。
この辺一帯は、治承4年(1180)頼朝が鎌倉に入って建てた邸跡で、
最初の幕府が置かれた大蔵幕府の跡です。
頼朝の墓はその一番奥まった一角、小高い丘の上にあります。
この丘の上は法華堂の跡地として知られ、
頼朝が邸内に持仏堂をたて、法華経講読をした場所です。
(清泉小学校角に建つ大蔵幕府跡の碑の所に頼朝の墓への道標が出ています。)




頼朝こそわが先祖と称する薩摩藩主
島津重豪(しげひで)が江戸時代に
改修整備した墓。

十数年前にはじめて頼朝の墓を参拝した時、
頼朝に同母弟がいたということを知りました。

平治元年(1159)に起こった平治の乱で、平清盛に源義朝は敗れて
一族は離散、義朝は東国へ敗走の途上に尾張国(現、愛知県)で
家人に裏切られ 謀殺されました。
父義朝に連座して頼朝は伊豆国蛭ヶ小島(現、静岡県伊豆の国市)に、
頼朝の同母弟希義(まれよし)は、土佐国(現、高知県)に流罪となりました。

源希義(土佐冠者とも)の母は、
熱田大宮司藤原季範(のすえのり)の娘由良御前です。

平治の乱後、希義は乳人に連れられ義朝の本拠地、東国めざし落ちていく途中、
駿河国香貫(現、静岡県沼津市香貫町)で追手に捕らえられ、
土佐国介良(けら)庄(現、高知市介良)に流されて
そこで成人しました。
治承4年(1180)伊豆で、
頼朝が平氏追討の挙兵をすると、希義もこれに応じて立ち上がりました。
土佐国の土豪夜須行宗(行家)との以前からの約諾により、希義は行宗を頼って
夜須荘(現、香南市夜須町)へ向いましたが、平家方の追撃を受け、
年越(としごえ)山(現、高知県南国市)で最期を遂げたという。

頼朝の弟源希義の墓 源希義神社  
『アクセス』
「頼朝の墓」(法華堂跡)神奈川県鎌倉市西御門2丁目5番地
案内板があるので迷うことはありません。「鎌倉駅東口」下車徒歩約20分
『参考資料』
「平安時代史事典」角川書店、平成6年 「図説高知県の歴史」河出書房、1991年
「郷土資料事典(高知県)」ゼンリン、1998年 「源希義の墓の現地説明板」
「武家の古都鎌倉を歩く」祥伝社新書、2013年


コメント ( 2 ) | Trackback (  )




鶴岡八幡宮の本宮へ上る石段下に本宮の神様を遥拝する下(しも)拝殿があります。
吉野で捕えられた静御前が舞を披露したと伝わることから、
舞殿(まいでん)と呼ばれて親しまれています。



当初の八幡宮の社殿は現在の若宮(下宮)の位置にあり、まだ舞殿はなく、
静御前が舞ったのは若宮にめぐらされていた広い回廊であったとされています。
建久2年(1191)町屋から出火した火災は、若宮の社殿や回廊までも焼き尽くし、
建久4年(1193)2月、回廊があった場所に舞殿が造られたといわれています。



今も4月の第2日曜日には鎌倉まつりの主要行事として、
鎌倉芸能連盟に所属する各流派の輪番制で、舞殿に於いて
静御前が義経をしのんで舞ったという故事にちなんだ舞が奉納されます。





静の舞に使われる雅楽器      箏(そう)と楽太鼓(がくだいこ)





毎年4月の第2日曜日から第3日曜日にかけて催される
鎌倉まつりの初日に静の舞が披露されます。
演者は西川流師範の西川翠菜さんです。





舞殿は挙式の舞台にもなります。

雅楽の調べが流れる中、厳かに神前式が執り行われていました。(2007年3月撮影)

ところで、義経と静の出会いは定かではありませんが、
義経が木曽義仲を破って入京し、後白河法皇に院の昇殿を許された
元暦元年(1184)10月11日以降と考えられています。
『吾妻鏡』に静が初めて登場するのは、
文治元年(1185)10月17日の土佐坊昌俊(しょうしゅん)が
六条堀川の義経邸に夜討ちをかけた時、義経の愛妾(あいしょう)静の機転で
義経は危うく難を逃れることができました。そして背後に迫る頼朝軍に
西国へ落ちようと摂津の大物浦(だいもつのうら)から船出しましたが、
暴風雨のため船が難破し、わずか4人になった時も、静は傍にいました。
次いで吉野から大峰山に逃げ込みますが、この山は女人禁制のため、
これ以上、連れていくことはできず、都に帰すことになりました。
これが義経と静との永遠の別れとなりました。

雪の吉野山中で義経と別れた後、捕えられた静御前は母磯禅師とともに
文治2年(1186)3月1日、鎌倉に護送されました。そこで義経の行方を
厳しく詮議されましたが、もとより静が知るはずがありません。
その時、静は義経の子を身ごもっていたため、男児を生んだら
後々禍根を残すと、出産まで鎌倉に留め置かれ、
安達新三郎清経(清恒・常清とも)宅で過ごすことになりました。
清経は頼朝が派遣していた間者で、
静が義経と一緒に住んでいた京都の義経邸にいた雑色でしたが、
土佐坊昌俊(しょうしゅん)がこの邸を襲撃した時、
土佐坊が討ち取られたことを頼朝へ知らせるために鎌倉に戻っていました。

頼朝と北条政子は、静が帰洛する前に天下の名人として
名高い舞いを是非とも見たいと、鶴岡八幡宮で舞いを舞うよう命じます。
静はとてもそんな気にはならず、病気を理由に頑なに断りましたが、
政子に説得され若宮の回廊の舞台に立ちました。
須藤祐経(すけつね)が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を鳴らしたという。

京都一の白拍子の芸に頼朝・政子以下、多数の御家人が固唾をのんで見守る中、
まず歌い出していいました。

♪吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の あとぞ恋しき
(吉野山で峰の白雪を踏み分けながら、山中深く入ってしまわれた
あの人の跡が恋しく思われます。)

この歌の本歌は『古今和歌集』第6巻の壬生忠岑(ただみね)による
「み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづれもせぬ」とされています。

次いで♪しづやしづしづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(静よ静よと繰り返し私の名を呼んでくださった昔のように、
どうか義経さまが栄えていた世に今一度したいものよ。)

この歌も『伊勢物語』の32段にある「古(いにしえ)の しづのをだまきくり返し
 昔を今になすよしもがな」に基づいているとされています。
これらの歌を即興で詠えるには、彼女が古典の教養を身につけていたからでしょう。

見事な歌舞に一同感動しましたが、頼朝だけは
「八幡宮の神前で芸を披露するときは、鎌倉の平安長久を祝うべきなのに、
謀反人義経を慕う歌を歌うとは何事か」と激怒しました。
政子はこれを聞いて、「君(頼朝)が流人として伊豆にいらっしゃった頃、
父時政は時の権力を恐れて私たちを引き離そうとしました。
それでも私は深夜豪雨の中、君のもとに走りました。また、石橋山敗戦後、
君の生死がわからず一人伊豆山に留まり涙にくれておりました。
静とて同じことでしょう。」と女心はひとつだと静をかばい、
なだめたので頼朝も機嫌を直し、褒美として絹ひと重ねを贈りました。

文治2年(1186)7月に静が生んだ男児を安達新三郎は、頼朝の命で
静の懐からもぎとり、稲瀬川の河口の由比ヶ浜の海に沈めてしまいました。
静はわが子を衣に包んで抱き伏して泣き叫びましたが、
母の磯禅師が後難を恐れて赤子を引き渡したのです。
磯禅師は水際からその亡骸を探し出し、頼朝の側近堀藤次親家(ちかいえ)が
自分の一存で野辺送りをし、頼朝が父義朝のために建立した
勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の後ろに葬りました。
(『義経記・巻6・静の鎌倉くだり』)
政子は頼朝が静が生んだ子を殺そうとしていると知って、
なんとか赤子の命を助けてくれるよう頼朝にとりなしましたが、
こればかりは聞きいれられませんでした。

鎌倉時代には、稲瀬川は鎌倉の西境でした。
由比ヶ浜はそれだけでなく、処刑の場や戦場、葬送の場だったのです。

静御前は鶴岡八幡宮若宮の回廊で白拍子の舞を舞った後、
文治2年(1186)5月27日夜、
勝長寿院でも頼朝の長女大姫が静の舞を見ています。
大姫は許嫁の清水冠者義高(木曽義仲の嫡男)が父の命で
堀藤次親家の郎従に殺害されて以来、体調が優れず、
病気回復を祈願して勝長寿院に参籠していました。
病身の大姫を心配して母の政子が静を召したものと思われます。
同年9月16日、静とその母が京へ帰る時、政子と大姫は憐み、
多くの宝物を持たせて旅出させています。

それ以後静の消息は途絶えてしまいます。

鶴岡八幡宮の東の鳥居付近の流鏑馬馬場には、
平成17年(2005)、
福島県郡山市の静御前堂奉賛会によってから移植された「静桜」があります。
ちらほら咲きの静桜

静御前の墓は日本各地にありますが、奥州街道沿いには、静が奥州平泉にいる
義経の跡を追っていき、途中で亡くなったという伝説地が点在しています。
そのひとつが静御前堂です。

「静御前堂(しずかごぜんどう)郡山市静町37 桜見頃 4月中旬
源義経を慕って奥州へ下り、悲しみのあまり池に身を投じた
静御前の御霊を祀ったお堂。
 現在のお堂は、クギを一本も使わずに、天明年間に改装されたもの。
 毎年3月28日には「静香御前堂例大祭」が開催。」
(郡山市観光協会HPより転載させていただきました。)
静御前の舞(神泉苑)  
稲瀬川(頼朝が範頼を見送り文覚を出迎えた川辺)  
源氏堀川館・左女牛井跡・若宮八幡宮  
鶴岡八幡宮写真紀行  
『アクセス』
「鶴岡八幡宮」鎌倉市雪ノ下2-1-31 JR鎌倉駅東口より約10分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年 
現代語訳「義経記」河出書房、2004年
 五味文彦「物語の舞台を歩く義経記」山川出版社、2005年 
渡辺保「人物叢書 北条政子」吉川弘文館、昭和60年 
別冊歴史読本「源氏武門の覇者」新人物往来社、2007年
神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年 
清水真澄「源氏将軍神話の誕生 襲う義経、奪う頼朝」NHKブックス、2009年
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )




治承4年(1180)10月6日、頼朝は畠山重忠を先陣に、
千葉常胤(つねたね)を後陣にして鎌倉に入りました。
翌7日、源氏の氏神である由比(ゆい)若宮(鎌倉市材木座)を遥拝し、
同月12日、
大臣山(鶴岡八幡宮の裏山)の麓、現在の若宮辺に
由比若宮(元八幡)を遷したのが鶴岡八幡宮の始まりです。

建久2年(1191)大火によって焼失しましたが、改めてご神体を
石清水八幡宮から勧請し、現在のような石段の上に本宮(上宮)が造設され、
従来の社殿は若宮(下宮)と称されるようになりました。

若宮大路の二ノ鳥居から段葛を歩き、三ノ鳥居をくぐると、
鶴岡八幡宮の境内に入ります。この鳥居は江戸時代徳川家綱が
一ノ鳥居・二ノ鳥居とともに寄進した花崗岩製の大鳥居を
鉄筋コンクリート製に復興し、朱塗りにしたものです。
なお海岸側の一ノ鳥居は花崗岩製のまま復元されています。

若宮大路

二ノ鳥居から三の鳥居まで、若宮大路の中央には
段葛とよばれる一段高い歩道が続いています。

三ノ鳥居


三ノ鳥居をくぐると正面に石の太鼓橋が架かっています。
かつては朱塗りの板橋であったので、赤橋と呼ばれ
将軍下乗の場所でもありました。
橋の東西には二つの池があります。これは水田だったところを若宮大路造営に続いて
造成したもので、東池には旗揚(はたあげ)弁財天社が祀られています。

「政子は平家滅亡の悲願止み難く寿永元年(1182)大庭景義に命じ
境内の東西に池を掘らしめ
東の池(源氏池)には三嶋を配し
三は産なりと祝い西の池(平家池)には四島を造り
四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。」
(旗揚弁天社御由緒記より抜粋しました。)


源氏池を覆う桜





源平池を眺めながら参道を進むと、舞殿の手前で東西方向の土道と交差します。
これが毎年9月16日に流鏑馬神事が行われる流鏑馬の馬場です。
馬に乗り東の鳥居から西の鳥居へ駆け抜け弓矢で的を射る神事です。
舞殿では、4月第2日曜日の午後に静の舞が披露されます。
この舞は次の記事でご案内させていただきます。
静御前と鎌倉(静の舞・静桜)  

本宮へ上る大石段の左手に、樹齢千年というイチョウの大木が聳えています。
この木陰に潜んでいた公暁(くぎょう)が源実朝を暗殺したという
伝説が残っていますが、この話は江戸時代になってからの創作という。
『吾妻鏡』には「公暁は実朝が石階の際(きわ)に来るを窺い、
剣を取り『親の敵(かたき)はかく討つぞ!』と叫んで襲いかかる」と記され、
石段の近くに隙を見て近寄り、実朝を襲ったとしているだけです。

隠れイチョウの名で知られるこのイチョウは
平成22年(2010)3月10日の強風に煽られ倒れました。

倒壊したイチョウの幹は高さ4メートルに切断され、
もとの場所近くに移植されました。下の画像は大イチョウの根の部分です。

承久元年(1219)1月27日、この八幡宮を舞台に幕府を震撼させた
大事件が起こりました。60㎝ほどの雪が降り積もる中、夕刻から夜にかけて、
八幡宮にて三代将軍実朝の右大臣拝賀式が行われました。
その直後、
鶴岡八幡宮別当公暁(くぎょう)は叔父実朝と将軍剣持役(けんもちやく)の
源仲章(なかあきら)に襲いかかり二人を殺害しました。
この事件の寸前、執権北条義時は体の不調を理由に
剣持役を仲章に交代し、行列から抜け出ていました。

慈円の『愚管抄』は、公暁は剣持役が代わったことを知らずに
源仲章を害したと記しています。義時は命拾いをしたことになります。

実朝の首を手にした公暁(頼家の遺児)は雪下北谷(きたがのやつ)にある
後見人の備中阿闍梨宅へ逃げ込み、食事をかきこむ間も首を離さなかったという。
そして乳母夫(めのとふ)の三浦義村を頼って使いを出し次の将軍になろうと
しましたが、執権北条義時を討ち漏らしたと知り、形勢不利になったことを
悟った義村は、計画を変更して義時にこのことを通報し、
勇猛な公暁を討つため、武勇に優れた長尾定景を遣わしました。

公暁は来るはずのない義村の使者を待ちましたが、
とうとう鶴岡八幡宮の裏山に上り、そこから西御門の義村邸に辿りつき
屋敷の塀によじ上っているところを定景に討たれたとされています。
長尾定景は石橋山の合戦で平家方の武将として戦い、
三浦一族の佐奈田与一を討ち取っています。その後、降伏した定景は
三浦義澄(義村の父)に預けられ、その家人となっていました。
三浦家には恩義があり、公暁殺害役を断れなかった理由がここにあります。
公暁は父頼家が追放され、 伊豆修善寺に幽閉されたのち、暗殺されたことで、
父に代わって将軍職についた実朝に恨みを抱いたと思われます。
こうして鎌倉幕府の源氏将軍は三代で断絶しました。


背後で公暁を操っていたのは、三浦義村、執権北条義時、
さらに義時・義村の共謀説までありますが、真偽のほどは定かではありません。
実朝の遺骸は母の政子が勝長寿院の傍(境内)に葬り、実朝の追福のために、
傍らに五仏堂を建て、運慶作の五大尊像を安置しました。
首は公暁が持ち去ったまま見つからなかったので、
残っていた頭髪で代用し埋葬されました。『愚管抄』によると、
首はのちに鎌倉八幡宮寺(鶴岡八幡宮)の裏山の雪中にあったという。


石段を上ると楼門があり、その左右には随身像を安置しています。



現在の社殿は徳川十一代将軍家斉(いえなり)が寄進し、
文政11年(1828)9月に完成したものです。楼門の上に架かる
「八幡宮」の扁額の「八」の字は、八幡様の使いとされる鳩をかたどっています。
楼門と回廊の中が本宮(国重文)です。
祭神は応神天皇、神宮皇后、比売(ひめ)神の三神で、
社殿は拝殿・幣殿・本殿と連なる壮麗な権現造りです。
建久3年(1192)頼朝の征夷大将軍任官の伝達はこの宮で行われています。

楼門の前で振り返るとまっすぐ海岸まで続く若宮通りが一望できます。



舞殿の東側奥には、頼朝が由比郷から、
八幡神を遷座したもとの社である若宮(国重文)があります。
若宮の祭神は、仁徳天皇、履中(りちゅう)天皇(仁徳天皇の第1皇子)、
履中天皇の母である仲媛命(なかつひめのみこと)の四柱です。
社殿は権現造りで、拝殿、幣殿、本殿の順で建物が連なっています。

鎌倉入りした頼朝は、現在の若宮がある辺りに由比若宮を遷座し、
取り急ぎ松の柱と茅葺の屋根という
簡素な社殿を建て、
翌年の養和元年(1181)7月、、本格的な社殿の造営に取りかかりました。
その頃の鎌倉には宮大工がいませんでしたから、
武蔵国浅草寺(せんそうじ)から宮大工を召し上げました。
鶴岡若宮の上棟式(棟上げ)があり、
工匠(たくみ)たちに馬を与えることになりました。
義経は大工(工匠の棟梁)に馬を引く役を命じられましたが、
この役を辞退し頼朝に厳しく叱られる場面がありました。


これは2人1組となり馬を引くため、自分は鎌倉殿の弟であるから
他の御家人とは立場が違うと考えた義経と弟といえども畠山重忠や
土肥実平(どひさねひら)らと対等であると叱りつけたのでした。
源氏嫡流のトップである自身と義経とは異なるということを
御家人に認識させようという頼朝の厳しい態度がよく表れている話です。

若宮から東へ進むと、木々の中に白旗(しらはた)神社が建っています。
祭神は源頼朝と実朝父子です。
黒塗りの唐破風(からはふう)の拝殿が落ち着いた佇まいを見せています。
ここまで来ると人影もまばらになり静かな雰囲気になります。

今の場所に鎮座する白旗神社でのことではありませんが、
(以前は山上の八幡宮本宮の西側にありました)
秀吉と頼朝がこの社で対面したというエピソードがあります。
天正18年(1590)7月、小田原を平定した秀吉は、奥州へ赴く途中、
鶴岡八幡宮に参拝し、白旗神社の扉を開かせ、社壇に上がり込んで
頼朝の木像に語りかけました。「我と御身は共に微小の身から天下に
号令するまでになった。しかし御身は源満仲の後胤という名門の出身で、
頼義・義家は東国に名を馳せ、為義・義朝も関東に勢力を張った。
たとえ流人となっても、挙兵すると多く者が従い、天下を統一しやすかった。
だが、氏も系図もない我は違う。だから自分の方が出世頭である。
しかし、御身と我は天下の友達だ。」と言い終えると、
笑いながら頼朝像の背中をポンポンと叩きました。
現在、この木像は東京国立博物館に収蔵されています。
なお、西御門にも頼朝を祭神とする白旗神社があります。

画像は季節がない混ぜのご紹介となっています。
段葛(鶴岡八幡宮の参詣道)  
由比若宮・元八幡(元鶴岡八幡宮)  
石橋山古戦場(2)佐奈田霊社・文三堂  
『アクセス』
「鶴岡八幡宮」鎌倉市雪ノ下2-1-31 JR鎌倉駅東口より約10分
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社、1990年 神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年
「鎌倉の寺社122を歩く」PHP新書、2013年 松尾剛次「中世都市鎌倉を歩く」中公新書、2004年
高橋慎一郎「武家の古都鎌倉」山川出版社、2008年 近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年 
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年
 現代語訳「吾妻鏡(1)」吉川弘文館、2007年 現代語訳「吾妻鏡(8)」吉川弘文館、2010年
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2006年 
 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )





鎌倉駅東口から広場を抜け東へ行くと、若宮大路に出ます。
左手を見ると朱塗りの鳥居が建ち、その下には段葛(だんかずら)が見えます。





二ノ鳥居から三ノ鳥居まで続く段葛 
 
源頼朝は政子の懐妊を機に安産を祈願して、由比ヶ浜から鶴岡八幡宮に至る
従来の曲がりくねった道を直線に改修した参詣道を造成しました。
当時、この辺りは湿地帯だったので土盛りをして若宮大路の中央部分に
葛石(縁石)を積み上げ、一段高く築かれたのが段葛で、
将軍の参詣などの儀礼的通路として使用していたと考えられています。

時に置道(おきみち)・作道(つくりみち)などともよばれ、
段葛と称されるになったのは、江戸時代からといわれています。
近年の発掘調査によると、若宮大路は当時の道幅は33㍍余、
その東西両側には幅3㍍、深さ1,5㍍の側溝があったことが確認されています。

 現在の段葛の道幅は、社前に進むにしたがって狭くしてあり、
遠近法を使用しているといわれています。


段葛は一ノ鳥居から三ノ鳥居までありましたが、
明治時代に一部が横須賀線の鉄道工事によって失われ、
現存するのは二ノ鳥居から三ノ鳥居までの約500㍍だけです。
両側面に玉石が積まれ、桜やツツジが植えられたのも明治以降のことです。

見事な桜並木に整備され春には多くの花見客で賑わいます。

寿永元年(1182) 3月9日に 政子の着帯の儀式が執り行われ、
同月15日、
段葛の工事が始まりました。
頼朝が鎌倉入りした2年後のことです。頼朝が自ら指示し、
北条時政はじめ、御家人総出で土石を運んで造成しました。

長女大姫が誕生した時の政子は一介の流人の妻に過ぎませんでしたが、
今度は数多くの武士団を率いる鎌倉殿の正室としてのことでした。
頼朝はじめ源家の武将一同は跡継ぎとなる男子誕生を祈ったことでしょう。
同年8月には、願いがかなって頼家が生まれています。

三の鳥居は、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊するまでは、
一の鳥居、二の鳥居とともに徳川四代将軍家綱によって
寛文8年(1668)に寄進された花崗岩製の鳥居でした。
現在の鳥居は鉄筋コンクリート造です。

文治元年(1185)5月、壇ノ浦で捕えられた平宗盛父子が
鎌倉に護送された際、若宮大路を通り、
三の鳥居前の横大路(東西に通じる道)に至り、
しばらく輿が止められ、次いで大蔵(倉)幕府に入りました。
(『吾妻鏡』文治元年5月16日条)

(碑文) 段葛だんかずら 
一に置石と称す 寿永元年三月 頼朝その夫人政子の平産祈祷の為め
 鶴丘社頭より由比海浜大鳥居辺に亘りて之を築く
 其の土石は北条時政を始め源家の諸将の是が運搬に従へる所のものなり
 明治の初年に至り二の鳥居以南其の形失へり
  大正七年三月建之 鎌倉町青年会

(大意)
 段葛は、置石(おきいし)ともいいます。寿永元年(1182)3月に、
頼朝は妻の政子の安産の願いを込めて、鶴丘八幡宮の前より
由比ヶ浜の大鳥居辺まで、この参道を築きました。
その土石を北条時政以下、源家の多くの武将たちが運びました。
明治はじめ、二の鳥居以南の段葛は失われました。



一ノ鳥居と若宮大路 
海岸側から一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居と並んでいます。

鎌倉のメインストリートの若宮大路は、南北に約1,8kmあります。

若宮大路に架かる由比ヶ浜歩道橋より鶴岡八幡宮を望む
鶴岡八幡宮写真紀行  
『アクセス』
「段葛」JR鎌倉駅東口下車徒歩約10分
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社、1990年 現代語訳「吾妻鏡(1)」吉川弘文館、2007年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 松尾剛次「中世都市鎌倉を歩く」中公新書、2004年 
神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年 
高橋慎一郎「武家の古都鎌倉」山川出版社、2008年

 

 

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )




稲瀬川(いなせがわ)は鎌倉大仏高徳院北方の大谷(おおやと)を源流とし、
鎌倉大仏の東方を過ぎ、江ノ電長谷駅の東傍から由比ヶ浜に注いでいます。
全長約2400㍍あり、承久の乱の頃までは、この川が鎌倉の西の境でした。

稲瀬とは水無瀬(みなのせ)がなまったものともいわれ、古くは水無瀬川、
美奈能瀬川とも称し、順徳天皇が著した歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)』に
相模の名所として「みなのせ河」があげられています。



江ノ電長谷駅





稲瀬川の石碑は稲瀬川が由比ヶ浜に流れ込む辺の国道134号線に建っています。

かつては相応の広さの
川であったため、時には大雨による洪水の被害も受けましたが、
現在、一部を除いてほぼ全域が暗渠となっています。






(碑文)「稲瀬川
 万葉ニ鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ此ノ河ナリ 治承四年十月政子鎌倉ニ入ラントシテ来リ
日並ノ都合ニヨリ数日ノ間此ノ河辺ノ民家ニ逗留セル事アリ
頼朝ガ元暦九年範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ正治元年義朝ノ遺骨ヲ出迎ヘタルモ
共ニ此ノ川辺ナリ元弘三年義貞ガ当手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ川辺ニ於テ
討死セルモ人ノ知ル所細キ流ニモ之ニ結バル物語少ナカラザルナリ
大正十二年三月建 鎌倉町青年團建」
 (大意) 
「万葉集に鎌倉の美奈能瀬河とあるのは、この河のことです。
   治承四年十月、北条政子が鎌倉に入ろうととしてここまで来ましたが、
   日柄が悪く数日間、河辺の民家に宿泊したことがあります。
    源頼朝が元暦元年「碑文の元暦九年は誤記」に範頼の出陣を見送ったのも、
    文治元年「碑文の正治元年は誤記」に義朝の遺骨を出迎えたのも、
    共に此の河辺です。
   元弘三年(1333)、新田義貞が鎌倉に攻め入った時、この川の東西が兵火に包まれ、
極楽寺切通しの攻め口の大将大館宗氏(おおたちむねうじ)が
鎌倉幕府軍に包囲されこの川の辺りで討死し
新田軍が一旦退却したことは、人々のよく知るところです。
    こんな小さな流れにもこれにまつわる物語は沢山あります。

万葉集に歌われた美奈能瀬河(みなのせ河)も小川と化し昔の面影はありません。
稲瀬川河口の風景

頼朝と北条政子の結婚は治承元年(1177)前後でした。
頼朝が31歳、政子が21歳、同じころ長女の大姫をもうけています。
治承4年(1180)、頼朝は山木兼隆を討って反平氏の兵を挙げると、
政子は頼朝と別れ、伊豆山に匿われました。同年8月28日、石橋山の合戦で
惨敗した頼朝は真鶴から小舟に乗って安房へと落ち延びていき、
政子は伊豆山から伊豆秋戸(あきど)郷(現、熱海付近か)に
隠れ家を移していました。
同年10月、頼朝が大軍を率いて鎌倉に入部したと知ると、政子は鎌倉近くまで
来ましたが、日柄が悪いため稲瀬川西岸の民家に宿泊して鎌倉に入りました。
(『吾妻鏡』治承4年10月11日条)

また、元暦元年(1184)源範頼が平家追討使として西海に赴いた時、
頼朝は稲瀬川川辺に桟敷を構えこれを見送りました。
(『吾妻鏡』元暦元年8月8日条)

頼朝は尾張国野間で殺害された父義朝と鎌田正清(政家)の首を返すよう
後白河院に要求していました。
院は京の東獄(左獄)に掛けられた
義朝の首を検非違使に命じて探しださせると、鎌田正清の首も添えて
鎌倉に送りました。その際、頼朝は遺骨を門弟の僧たちの首に掛けさせて
鎌倉にやってきた文覚をこの川辺で迎えています。
(吉川本『吾妻鏡』文治元年(1185)8月30日条)

十数部以上書写されていたであろう『吾妻鏡』は、
南北朝・室町時代の戦乱の中で散り散りになっていました。
吉川本(きっかわぼん)は、戦国時代後期大内氏の重臣
右田弘詮(みぎたひろあき)が収集整理し、
主家の吉川家の蔵本となった『吾妻鏡』の伝本の一つです。
稲瀬川の碑文はこの本の記述を受けて、この辺で
頼朝は義朝の遺骨を受け取ったと刻まれています。

なお、筆者がテキストに使用しています一般に流布している
『吾妻鏡』(新訂増補国史大系に収められている)には、
「頼朝は勅使大江公朝を迎えるため固瀬(かたせ)川辺りに行き、文覚の
門弟たちが首に懸けていた遺骨を自ら受け取った。」と記されています。
これは中世都市鎌倉を広域に捉えた場合には、
西の境界は「固(片)瀬川」となるためと思われます。

承久3年(1221)5月、承久の変で上洛戦を敢行しようと鎌倉を出た
北条泰時はいったん稲瀬川川辺の藤沢左衛門尉清近宅に一泊して
翌日の早朝、先発隊として僅か18騎を従えて上洛していきました。
 『アクセス』
江ノ電長谷駅下車 由比ヶ浜に向かって徒歩約8分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(1)」吉川弘文館、2007年 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 
渡辺保「人物叢書北条政子」吉川弘文館、昭和60年 奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年
 奥富敬之「歴史文化ライブラリー 吾妻鏡の謎」吉川弘文館、2009年
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年 「武家の古都鎌倉を歩く」祥伝社新書、2013年
五味文彦「平家物語、史と説話」平凡社、2011年 「鎌倉事典」東京堂出版、平成4年
 神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年

 

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )





大御堂の信号を右折、滑川に架かる大御堂橋を渡り左へ、さらに右手の小道を上ると、
勝長寿院(しょうちょうじゅいん)跡の碑があります。平治の乱に敗れ、
東国へ敗走中、長田忠致(おさだただむね)によって鎌田正清(政家)とともに
殺害された父義朝の菩提を弔うために源頼朝が建立した寺院です。

頼朝自身が土地を選定し、元暦元年(1184)11月に着手、工事中にも
度々足を運び、文治元年(1185)10月24日に落慶法要が行われました。


後白河院に依頼していた義朝の首級が見つかると、門弟の首に
義朝と鎌田正清の遺骨を掛けさせて鎌倉にやってきた文覚を
頼朝は稲瀬川の川辺に出迎えて自ら受け取り、
完成前の同年9月3日勝長寿院に埋葬し、
その後宅間為久が描いた堂の壁画が完成しています。
文覚は頼朝が建てた勝長寿院のため、京において頼朝と院を結ぶ
役割を果たし義朝の首を鎌倉に下そうと奔走していたのです。

文治元年10月24日に行われた落慶法要の2日前、義経と叔父行家が頼朝追討の
院宣を受けたという知らせが入りましたが、追討を受けるのに馴れていた頼朝は
少しも動揺することなく法要の準備を行ったという。そして落慶法要終了後、
陣営に帰ると直ちに義経追討出陣令を出しました。


大御堂橋を渡った右手には文覚上人屋敷趾の碑が建っています。

勝長寿院跡は静かな住宅街の中にあります。

勝長寿院は極めて壮大であったので大御堂とも呼ばれ、
また大蔵(倉)御所の南に位置していたので南御堂とも称されました。
鶴岡八幡宮寺(神仏分離以前は鶴岡山八幡宮寺)、
永福寺(ようふくじ)と並び源頼朝が鎌倉に建立した三大寺院のひとつに
数えられましたが、江戸初期には廃絶し、現在では勝長寿院旧跡の碑と
源義朝とその腹心鎌田政家(正清)の供養塔があるだけです。

『吾妻鏡』建久5年(1194)10月25日条によると、
政家の娘が勝長寿院で父政家と義朝の追善供養を行っています。
政家の2人の息子は源平合戦で戦死し、男子がいなかったため、
頼朝はこの娘に恩賞として尾張国志濃幾(しのぎ)、
丹波国田名部(たなべ)両庄の地頭職を与えています。


文治2年(1186)4月、静御前は鶴岡八幡宮若宮の回廊で
白拍子の舞を披露した後、同年5月27日夜、
勝長寿院でも
頼朝の長女大姫が静を召して舞を見ています。

大姫は許嫁の清水冠者義高が殺されて以来、体調が優れず、
勝長寿院に籠って病気回復祈願を行っていました。
病身の大姫を心配して母政子が配慮したものと思われます。
生まれたばかりのわが子を殺された静御前には、義高を失った大姫の気持ちが
大姫には静の気持ちが痛いほどわかったのでしょう。
同年9月16日、静の母子が京へ帰る時には、
政子と大姫は憐み、多くの宝物を土産物として持たせています。

ところで木曽義仲の嫡男義高は、頼朝と義仲が対立した時、
同盟の証として鎌倉に人質として送られました。

名目は大姫の許嫁ということですが、その時義高は11歳、
大姫はまだ5、6歳という幼さでした。

その後、義仲は平家軍を討ち破り北陸道を快進撃して京に入りましたが、
軍紀が守られず、後白河法皇の信頼も失って元暦元年(1184)
頼朝の派遣した義仲追討軍のため義仲が粟津で敗死すると、
頼朝はためらわずに人質の義高を殺害しました。
日頃から義高を慕っていた大姫は哀しみ嘆き病床に伏してしまいました。

建久元年(1190)7月15日、盂蘭盆なので頼朝は勝長寿院に参り、
滅亡した平家の菩提を弔うために万灯会を行っています。


 承久元年(1219)1月27日、公暁に殺害された実朝の遺骸を
母の政子は勝長寿院の境内に葬り、実朝の追福のために
この寺の傍らに五仏堂を建て、運慶作の五大尊像を安置しました。
また、勝長寿院の奥に新御堂(奥御堂)と御所(勝長寿院奥殿)を建立し、
晩年はそこで暮らしました。御所には持仏堂が建てられ
運慶作の実朝の持仏が安置されたという。

嘉禄元年(1225)7月に政子が亡くなると、遺骸はやはり
境内に葬られましたが、現在ではその痕跡すらありません。
ちなみに寿福寺(じゅふくじ)裏手のやぐら内の政子の墓・
実朝の墓といわれる五輪塔は供養塔と考えられています。

源義朝公之墓  鎌田政家之墓

勝長寿院と源義朝主従の供養塔 
文治元年(1185)、源頼朝は父義朝の菩提を弔うため、この地に
勝長寿院を建立し、同年九月三日、義朝と郎等・鎌田正清(政家)の頚を埋葬した。
 石碑の背後の五輪塔は、主従の供養のため源義朝公主従供養塔再建委員会
(代表・鎌田丙午氏)の方々の御厚意により建てられたものです。
勝長寿寿院には、定朝作の本尊・金色阿弥陀仏像を始め、
運慶作の五大尊像などが安置され、壁画に彩られた阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、
三重の宝塔などの荘厳な伽藍が立ち並んでいました。
鎌倉幕府滅亡後も
足利氏によって護持されましたが、十六世紀頃に廃絶したと思われます。
ここに集められた礎石は工事等で出土したものですが、柱を据えるための整形跡や
火災で焼けた痕跡が認められ、勝長寿院の歴史を語る貴重な遺物です。
 平成八年三月六日 鎌倉市教育委員会
源義朝公主従供養塔再建委員会の協力により之れを建てる。



源義朝公主従供養塔再建由来の記

この辺りは大御堂の谷戸といい文治元年(一一八五)源頼朝
父左馬頭義朝の菩提を弔うため建立した勝長寿院の
旧蹟であります 今から十数年前まではこの流れの上手
雪ノ
下四丁目十三番地十五号の地に源義朝とその郎等鎌田政家
首塚といわれる五輪の供養塔が二基残っていましたが
宅地開発でその敷地の所有者が変わり供養もその姿を消しました
谷戸の住民はこれを深く残念に思い再建を
計るべく
関係筋と協議を重ねた結果有志の浄財とこの
土地の所有者の
意によりこの度由緒ある供養塔を再
建することができました 
ここに由来を誌し感謝の意を
表します 
末永く鎌倉歴史探訪の一助となることを
願ってやみません 
  昭和五十九年四月吉日  
 源義朝公主従供養塔再建委員会



(碑文)
 院は文治元年源頼朝の先考(亡父)義朝を祀らんが為に草創する所 
一に南御堂又大御堂と言う
 此の地を大御堂が谷と言うは是が為なり  実朝及び政子も亦
此の地に葬られたりと伝へらるれども 其墓今は扇が谷寿福寺にあり
大正六年三月建之  鎌倉町青年会

(大意)
 勝長寿院は1185年に、頼朝が父義朝を祀るために建てた寺です。
南御堂とも、大御堂ともいい、この辺りを
大御堂が谷(おおみどうがやつ)と呼ぶのはこのためです。
頼朝の子の実朝と妻の政子はこの地に埋葬されたと伝えられていますが、
今それらの墓は、扇が谷(おおぎがやつ)の寿福(じゅふく)寺にあります。
稲瀬川(頼朝が範頼を見送り文覚を出迎えた川辺)  
源義朝最期の地(湯殿跡・法山寺・乱橋跡)  
アクセス』勝長寿院跡
神奈川県鎌倉市雪ノ下4  鎌倉駅東口徒歩約32分
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社、1990年 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年 現代語訳「吾妻鏡(5)」吉川弘文館、2009年 
 現代語訳「吾妻鏡(6)」吉川弘文館、2009年 
松尾剛次「鎌倉古寺を歩く宗教都市の風景」吉川弘文館、2005年
 奥富敬之「鎌倉歴史散歩」新人物往来社、2010年
「武家の古都鎌倉を歩く」祥伝社新書、2013年 五味文彦「平家物語、史と説話」平凡社、2011年
神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年
 「検証日本史の舞台」東京堂出版、2010年

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




横浜国大前バス停から金沢街道を東へ少し歩き、大御堂橋の信号を右折、
滑川に架かる大御堂橋を渡ったすぐ右手に文覚屋敷址の石碑がたっています。

鎌倉駅東口

金沢街道は横浜市金沢区に至る道



大御堂橋

文覚上人は、もとは摂津の武士団渡辺党に属し、
俗名を遠藤盛遠(もりとお)といい、上西門院(後白河院の同母姉)に
仕えていましたが、源渡(わたる)の妻袈裟御前(けさごぜん)に横恋慕し、
源渡を殺そうとして、誤って袈裟御前を殺した罪を償うため出家したという。
それより熊野の山中で苦行を積みました。
 

その後、神護寺(京都市右京区高雄)復興に奔走し、
寄付を後白河院に強要して乱暴を働き、院の怒りをかい
伊豆配流となりました。
配流地で源頼朝と出会い、京の情勢を伝え、偽の義朝(頼朝の父)の
髑髏を見せて平氏打倒の挙兵を促したといわれ、
『平家物語』では、頼朝に謀反を勧めた人物として重要な働きをしています。
平家滅亡後、頼朝だけでなく後白河院の帰依を受け、
空海にかかわる神護寺・東寺など諸寺の修復に身を挺しました。



(碑文)
 文覚俗称を遠藤盛遠と言ひ もと院の武者所たりしが 年十八 
想を左衛門尉源渡の妻袈裟御前に懸け 郤て誤って之を殺し 
愴恨の余り 僧と為る 其の練行甚だ勇猛に邪寒盛暑林叢に露臥し 
飛瀑に凝立し屡々死に瀕す 養和二年(1182)四月 
頼朝の本願として弁財天を江ノ島に勧請し 
之に参籠する事三十七箇日 食を断って祈願を凝らせりと 
此の地即ち其の当時文覚が居住の旧迹なり
大正十一年三月建 鎌倉町青年団 
大意)
 文覚の俗名は遠藤盛遠といい、もとは院(上西門院)の警備をしていましたが、
18歳の時に、源渡の妻袈裟御前に懸想し、源渡を殺そうとして、
誤って袈裟御前を殺してしまい出家しました。
その修行の仕方は凄まじいもので、酷暑もものともせず
蚊・あぶに体中たかられながら草藪で寝、厳寒の中、
凍りつく那智の滝に打たれ度々死にそうになったという。
養和2年(1182)4月、源頼朝の御願として江ノ島に弁財天を勧請し、
37日間、断食をして祈りつづけたといわれています。
この地はその当時文覚が住んでいた屋敷の跡です。
文覚上人の墓 (神護寺) 
 文覚の滝 (飛瀧神社)    文覚寺   萱の御所(文覚と頼朝)  
恋塚寺(文覚と袈裟御前)    恋塚浄禅寺(文覚と袈裟御前)  
文覚牢跡(文覚町・高雄町・紅葉町)  
『アクセス』
「文覚上人屋敷趾」鎌倉市雪ノ下4丁目
JR鎌倉駅東口より徒歩約30分 鶴岡八幡宮から金沢街道(204号線)を東へ、
街道沿いの横浜国大前バス停を通り、大御堂信号を右折
『参考資料』
山田昭全「文覚」吉川弘文館、2010年
奥富高之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年



コメント ( 6 ) | Trackback (  )





鶴岡八幡宮の東側、清泉小学校の角に大蔵幕府跡の石碑が建っています。
この小学校辺が、治承4年(1180)頼朝が鎌倉に入って建てた邸跡で、
最初の幕府がおかれた大蔵(倉)幕府の跡です。

大蔵御所の東西南北には門が設けられ、有力御家人の屋敷畠山重忠邸、八田知家邸が南御門に、
比企能員(よしかず)その子息宗員邸が東御門に、
三浦邸が西御門というように、御所の各門を守るかたちで建っていました。

現在、西御門(にしみかど)、東御門(ひがしみかど)という地名も残り、
由緒を記した碑がそれぞれの所にあります。

御所の周辺には御家人たちの屋敷が密集し、
門前には武士の生活を支える商工業者の家や住宅が建ち始め、
中世鎌倉は御所の門前都市として発展していきました。

西行は重源に頼まれて東大寺の再建費用の砂金を勧進するため、
奥州に赴く途中、鶴岡八幡宮に参詣をしますが、
頼朝に見つけられ御所に招かれます。夜通し頼朝は
歌道や弓馬のことについて質問し、別れ際に銀製の猫を贈りますが、
西行はこの猫を門前で遊ぶ子供に与えたというエピソードが
『吾妻鏡』に見え、長閑な門前の風景がうかがえます。
(文治2年(1186)8月16日条)



西御門を守護する位置にあった三浦邸は、
横浜国立大学附属鎌倉小中学校(鎌倉市雪ノ下3丁目5)
正門敷地の北寄りと考えられています。

横浜国立大学附属小中敷地の垣根の前に西御門の石碑がたっています。
この背後一帯の地は、三浦義澄以下代々の三浦氏一族の邸跡に比定されています。

(大意)西御門は法華堂の西方の地をいう。
   大蔵幕府の西門に面していることにより此の名称がつけられました。
   此の地には、報恩寺・保寿院・高松寺・来迎寺等がありましたが、
今は
高松寺と来迎寺の二寺だけが存在します。 
         大正十五年三月 建  鎌倉町青年団

「西御門跡の石碑」鎌倉市雪ノ下3丁目5付近

「東御門跡の碑」鎌倉市西御門2丁目8付近

『吾妻鏡』文治元年(1185)9月1日条によると、廷尉(ていい)大江公朝が
勅使として御所に参り、東御門の比企能員の屋敷が公朝の宿所とされました。




東御門近くの小さな流れに架かる東御門橋

(大意)
大蔵幕府には、四つの門がありました。門の名は、
その門が位置する方角によって名づけられていました。
   大蔵幕府の東にある門を東御門とよび、今、地名となっています。
    法華堂の東方にあたるこの一帯を、この門の名称にちなんで 東御門といいます。
大正十五年三月建 鎌倉町青年団

鶴岡八幡宮の東の鳥居を出るとすぐ右手の角に、
南御門(みなみみかど)に邸宅を与えられた畠山重忠邸址の石碑があります。
源頼朝の大蔵幕府の南門前にあたり、昭和55年(1980)の発掘調査の際、
「東御門」「西御門」などの現存する地名に対応させて遺跡名としました。

大蔵幕府跡 頼朝館跡 
『アクセス』
「大蔵幕府跡碑」鎌倉市雪ノ下三丁目 JR横須賀線鎌倉駅東口徒歩15分
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年 
神谷道倫「鎌倉史跡散歩(上)」鎌倉春秋社、平成19年
松尾剛次「中世都市鎌倉を歩く」中公新書、2004年
「神奈川県の地名」平凡社、1990年
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年
現代語訳「吾妻鏡(2)(3)」吉川弘文館、2008年
 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )







比企一族の館があった谷戸(やと)を
比企ヶ谷(ひきがやつ)とよびます。
丘陵地の谷状の地形のことを谷戸といい、
比企ヶ谷一帯は、古くから四季折々の風情が楽しめる山水納涼の地とされ、
頼朝はこの山紫水明の地に比企尼を呼び寄せたのです。
比企尼は将来の展望が全く見えない流人頼朝に20年もの間、
援助し続けた頼朝の乳母です。


妙本寺の総門を入ると、左側に蛇苦止(じゃくし)堂へと続く上り道があります。
比企一族を徹底的に抹殺した北条氏は、その怨霊に悩まされることになりました。
比企能員(よしかず)の娘讃岐局は、比企の乱で命を失ったと思われ、
その60年ほど後の文応元年(1260)、北条義時(政子弟)の孫娘(政村の娘)が
俄かに物に憑(つ)かれ、狂乱するという事件が起こりました。
北条政村の娘に讃岐局の怨霊が乗り移り、その口を借りて讃岐局の霊が
語るところによると、讃岐局は死後、大きな角の生えた大蛇となって、
今も比企ヶ谷の土中で火炎の苦しみを受けているというのです。
その場にいた者たちは身の毛もよだつおもいで恐れおののいたといいます。

政村が経典を書写して讃岐局の霊を供養し、鶴岡八幡宮の別当僧正隆弁が
加持祈祷を行ったところ、政村の娘は快復したという。
その後、政村が蛇苦止堂を建立したと伝えています。
比企の乱の経過を見ると、讃岐局と若狭局は同一人物とも思われます。
『新編相模風土記稿』には、「比企能員の娘讃岐局は、最初若狭局という」とあり、
その記事に従って伝承も発展しています。

蛇苦止堂は讃岐局を妙本寺の鎮守として祀っています。



蛇形の井(じゃぎょうのい)
  蛇苦止堂の手前右側に比企氏一族滅亡の時、若狭局が家宝を抱いて
身を投げたと云われる井戸があり、今も蛇に化身して
家宝を守っているといい伝えられています。



「比企能員公一族之墓」と彫られています。

 比企一族墓の右手にある苔むした石段を上ると、
大きないちょうの木の根元に讃岐局の供養塔があります。





墓標には「讃岐局蛇苦止霊之墓」とあり、比企氏一族滅亡の年月
「建仁三癸亥(みずのとい)九月」と刻まれています。
この供養塔は、千代保の五輪塔や一幡の袖塚を見下ろす位置にあります。

祖師堂左側の石段上り口傍に「万葉集研究遺蹟」の碑が建っています。 
この地にはかつて新釈迦堂がありました。そこの供僧(ぐそう)の
仙覚(せんがく)は、新釈迦堂とその僧坊で寺務のかたわら万葉集の研究をしたとされ、
その生い立ちは不詳ですが、比企氏出身という説が有力視されています。

「万葉集研究遺跡
此地ハ比企谷新釋迦堂即将軍源頼家ノ女ニテ将軍藤原頼経ノ室ナル
竹御所夫人ノ廟ノアリシ處ニテ當堂ノ供僧ナル権律師仙覚ガ萬葉集研究ノ
偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ
適ニ堂ノ須彌壇ノ直下ニ當レリ堂ハ恐ラクハ南面シ僧坊ハ疑ハクハ西面シ
タリケム西方崖下ノ窟ハ仙覚等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ悉シクハ
萬葉集新考附録萬葉雑攷ニ言ヘリ   昭和五年二月
       宮中顧問官 井上通泰撰  菅 虎雄書  鎌倉町青年團建碑」

大意「この地は、比企谷(ひきがやつ)の新釈迦堂があった所で、将軍頼家の娘であり、
また将軍頼経(よりつね)の妻でもあった竹御所夫人の墓のあった場所です。
供僧の僧権律師仙覚が万葉集の研究の偉業を遂げたのは、その僧坊においてです。
現在の夫人の墓として、大石が置いてあるところは、ちょうど堂の仏壇の
直下にあたります。堂は多分南に面し、僧坊は西に面していたと思われ、
西の方の崖下の岩屋は、仙覚など代々の僧侶の骨を埋めた所と推定されます。
詳しいことは、『万葉集新考 附録 万葉集雑考』に記されています。

信仰する釈迦如来像(宋の陳和郷作といわれる)を祀る堂を建て、
墓所にするようにとの竹の御所の遺言によって、新釈迦堂は建立されました。

石段を上ると、途中、右手に祇園山ハイキングコースへ至る登山道があります。
上りきると、妙本寺の墓地が広がっています。
その奥一段高い所に自然石の竹の御所の墓があります。



説明の碑には、源媄子(よしこ)と刻まれています。
竹の御所は源頼家の娘で、母は木曽義仲の娘という説もありますが、
比企能員一族の館跡に住んでいることから若狭局とされています。
比企一族滅亡の時、生まれたばかりであったであろう竹の御所は難を逃れ、
比企ヶ谷に住んでいたようです。その後、邸内に竹が生い茂り、
竹の御所と呼ばれるようになったという。
竹の御所の旧跡の正確な場所は不明ですが、『新編鎌倉誌』に
「本堂に上る道の左にあり」と記されているので、
現在の本堂の左側にある寺務所の辺にあったと思われます。
  
健保4年(1216)、14歳になったとき3代将軍実朝の養女となりました。
 その実朝が公暁(くぎょう)に暗殺されると、北条時政は京の摂関家から
幼い九条頼経(よりつね)を迎え、将軍としました。
頼経は、頼朝の同母妹(姉とも)坊門姫(一条能保の妻)の曾孫にあたります。

 竹の御所が28歳、頼経が13歳になった時、2人は結婚させられ、その4年後の
文暦元年(1234)に竹の御所は男児を死産、自身も亡くなりました。


方丈門の石段は、本堂、寺務所書院へと向かう道です。

本堂



竹の御所の邸があった辺に建つ寺務所・書院

鐘楼を左に見ながら下ります。
比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡・比企能員一族の墓  
『アクセス』「妙本寺」鎌倉市大町1-15-1 
JR横須賀線鎌倉駅東口より徒歩約9分
『参考資料』
松尾剛次「鎌倉古寺を歩く宗教都市の風景」吉川弘文館、2005年
永井晋「鎌倉源氏三代記」吉川弘文館、2010年 
神谷道倫「鎌倉史跡散歩(上)」鎌倉春秋社、平成19年
田端泰子「乳母の力」吉川弘文館、2005年 
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年 
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年 

 

 

 

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback (  )


« 前ページ