平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




名古屋市には、源頼朝の産湯井と伝えられている所が二ヶ所あります。
一つは熱田神宮西門前の誓願寺、もう一つは瑞穂区龍泉寺門前の
「亀井水」にも、頼朝産湯井という伝承があります。

熱田神宮西門前の誓願寺





境内には頼朝公産湯の井戸があります。



頼朝(1147~99)は義朝の三男、熱田神宮の宮司(藤原季範)の娘
由良御前を母として
生まれました。
義朝の長男悪源太とも呼ばれた義平が、三浦義明(橋本の遊女とも)の

娘を母とし、次男朝長の母が波多野義通の妹と、
共に相模の豪族武士の出で
あったのに対して
頼朝の母の実家は、中流貴族の熱田大宮司家です。

母の実家の身分が高かったことにより、
頼朝は早くから源家の嫡子として育てられます。


当時、大宮司家の人々や親族は、鳥羽法皇、待賢門院璋子、

鳥羽法皇と待賢門院との間に生まれた上西門院統子、後白河天皇に
仕える者が多く、なかでも由良御前の二人の兄は後白河の北面などに、
姉二人は待賢門院、上西門院の女房として、それぞれお傍近くに仕えていました。
このような事から推測すると、頼朝の母も姉たちのように
宮仕えするうち義朝の目にとまったのでしょうか。

保元の乱に義朝が後白河天皇方についたのはこのような事情もありました。
平治元年(1159)2月、上西門院の蔵人になった直後
頼朝は13歳で母を亡くします。

熱田神宮は、日本武尊の妻となった尾張氏の娘、宮簀媛(みやずひめ)命を
祭神としています。社職は大宮司を筆頭に権宮司・神官・
中朧禰宜(ちゅうろうねぎ)・祝(はふり)・神楽座などからなっていました。

大宮司職は古くから宮簀媛の一族の尾張氏が代々世襲していましたが、
平安時代後期、尾張員職(かずもと)は、娘と尾張国司・藤原季兼との間に
生まれた季範(すえのり)に大宮司職を譲り、
以後、季範の子孫が大宮司職を継いでいきます。
季範の娘由良御前は、義朝との間に頼朝、希義と娘(後の藤原能保の妻)を儲けています。
なお、白鳥公園に隣接している白鳥古墳は、日本武尊の御陵という説があります。

熱田神宮西門向い側の誓願寺付近一帯は、平安時代末から鎌倉時代まで
熱田大宮司家の下屋敷があり、邸内にあった池の水を汲んで
頼朝の産湯に用いたと伝えられています。
その跡地に、信濃善光寺で剃髪した日秀妙光尼が亨禄2年(1529)に
誓願寺を建て、この寺に参詣した豊臣秀吉の母大政所が関白秀次に
境内地を寄進させます。その後代々尾張藩主から保護を受けます。
昭和20年(1945)まわりの町並みとともに誓願寺は戦火で
炎上してしまいましたが、戦後同寺が再建された時、頼朝誕生の伝承を
惜しむ人々によって池跡に源頼朝公産湯ノ井戸が設けられたものです。

当時大宮司家の人々は、実務を権宮司家の尾張氏に任せ
都に住んで官人として生活していましたから
源頼朝の出生地については京都と考える方が自然のようですが、
熱田説、京都説どちらとも断定はできないようです。

龍泉寺の門前に源頼朝公産湯の井といわれる亀井水があります。



「源頼朝公産湯の井と伝ふ」と彫られています。
龍泉寺の西側付近には、義経の郎党亀井六郎重清の邸があったとされています。
『吾妻鏡』文治元年(1185)五月七日条によると、
兄頼朝の怒りを買った義経は、重清を使者として
異心のない証として
鎌倉の頼朝のもとに起請文を届けています。

重清の兄、鈴木三郎重家は紀伊國藤白浦(和歌山県海南市)出身で、
義経最後の衣川合戦に援軍として都から七十五日もかけて駆けつけ、
義経の最期に殉じました。
「和殿は鎌倉殿より御恩を賜る身、ひとまず落ちよ。」という義経の言葉に、
「鎌倉殿より所領は賜っているが、判官殿のことは一日も忘れたことがない。
妻子は熊野に送ったので今は思い残すことはない。」と答えたという。

 ここで『義経記・巻8・鈴木三郎重家が高館へ来る』の一節をご紹介します。
「鎌倉殿から恩賞の領地(紀伊国とも甲斐国ともに一ヶ所)をもらいながら、
旧臣鈴木三郎重家がおちぶれた義経のもとへ、
衣川の戦いの直前、
重代の腹巻(鎧の一種)だけ持ってはるばる奥州の平泉に着いた。 
義経は
立派な鎧を馬と共に重家に贈り、
重家は惣領の家に伝わる自分の腹巻を
弟の亀井六郎重清に与えた。」
その後、衣川の合戦では、兄弟とも
ぞんぶんに戦ったところで自害します。
頼朝の弟源希義の墓 源希義神社  
『アクセス』
「誓願寺」愛知県名古屋市熱田区旗屋町243 熱田神宮西門前
 JR「熱田」駅徒歩7、8分 
「熱田神宮」  名鉄「神宮前」駅下車徒歩3分
「白鳥公園」名古屋市熱田区熱田西町
亀井山「龍泉寺」名古屋市瑞穂区井戸田4-90 地下鉄「妙音通」下車徒歩5分
『参考資料』
奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館
 五味文彦 「義経記」山川出版社 「熱田神宮の歴史」熱田神宮宝物館
 「愛知百科事典」中日新聞社  角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫 
「日本名所図会」(東海の巻)角川書店 「平安時代史事典」角川書店 
高木卓訳「義経記」河出書房新社 「国史大辞典」吉川弘文館

 

 



 

 

 

 



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藤原師長(もろなが)の謫居趾の碑が嶋川稲荷の境内に建っています。
謫居(たっきょ)趾は妙音通と呼ばれ、近くを流れる山崎川に架かる橋は
「師長小橋」と名づけられています。

師長がしばしば訪れた妙音通の北にある
「龍泉寺」には、
師長公画像・師長公記(二巻)が所蔵されています。




平清盛の嫡男・重盛が亡くなると、後白河法皇は重盛が知行していた
越前国を傷心の清盛からとり上げました。
この仕打ちに怒った清盛は、治承三年(1179)11月、クーデターを決行し
法皇を鳥羽殿に幽閉、側近を流罪にしました。太政大臣藤原師長も職を解かれ
尾張国井戸田(名古屋市瑞穂区)に流され、一年余をこの地で過ごしました。


師長小橋

藤原師長は左大臣藤原頼長の息子で、父が起こした保元の乱に連座し、
兄弟四人は配流となり、三人は都に戻ることなく失意のうちに没しましたが、

師長だけは九年後に都に帰り本位に復し、次々と昇進して
太政大臣まで上りつめました。そして再び井戸田に流されたというわけです。


 
師長は学問・芸能ともに優れ、琵琶と筝の奥義を極めて「妙音院」と称し、
今様は後白河法皇より伝授され、法皇のお気に入りでした。

「罪なくして配所の月見む」(無罪の身で流刑地の月を見たいものだ)
ということは、風流な人なら一度は願うことなので
この度の流罪を少しも苦にせず、師長は元気に配所へと赴きました。

白楽天も潯陽(じんよう)江のほとりに配流の日々を
送ったことに思いを馳せながら、
鳴海潟の潮路を遥かに眺め、
名月を眺めては、浦風の中で詩歌を吟じ、琵琶を弾き、和歌を詠んで、

のんびりと月日を送っていました。
ある時、当地の熱田神宮に参詣し、神に捧げるために得意の琵琶を弾き、
朗詠したところ、その音色に
神も感応し宝殿が大きく揺れ、
一座の者は、皆異様な感動に身の毛がよだったといいます。
「平家の悪行でこの地に流されなかったら、このような神のめでたい印を

拝むことはできなかったであろう」といって師長は感激の涙を流しました。
やがて清盛が死去したため、師長は帰京を赦されました。

師長はこの里の長横江氏の娘に形見として守本尊薬師如来と
白菊の琵琶を残しますが、現在の枇杷島まで師長を見送った娘は、
悲しみのあまり近くの川に身を投じます。
以後その地を枇杷島と名づけたといいます。(現在の名古屋市西区東枇杷町)

名古屋市西区東枇杷町26の「清音寺」は、娘の菩提を弔うために
建てられたと
伝えられ、寺号は娘の法名清音院からとられ、
寺宝に白菊の琵琶図を所蔵しています。
誓願寺・龍泉寺亀井水(源頼朝誕生地・亀井六郎重清邸)  
『アクセス』
「嶋川稲荷」地下鉄「妙音通」下車すぐ
亀井(きせい)山「龍泉寺」名古屋市瑞穂区井戸田町4-90
地下鉄「妙音通」下車 北へ5、6分

『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
「愛知百科事典」中日新聞社 
「日本名所風俗図会」(東海の巻)角川書店
「平安時代史事典」角川書店 「源平合戦事典」吉川弘文館

 

 

 




 
 
 
 
 
 
 

 



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元歴元年(1184)、朝廷は讃岐で亡くなった崇徳院の冥福を祈り怨霊をなだめるため、
保元の乱の戦場となった白河北殿の旧地に粟田宮を建立し、
院遺愛の八角の大鏡をご神体にして、
崇徳院とともに藤原頼長・源為義の霊を祀りました。

粟田宮は春日河原に祀られた御廟で、賀茂川の水害を避けるため、
東方の地に移されました。現在京都大学医学部付属病院の敷地となっている
聖護院河原町をその址と伝えています。
度々災害にあい再建をくりかえしましたが、応仁の乱の兵火により荒廃しました。
その後、洛東粟田神社、東山安井の蓮華光院に
移したともいわれますが、明らかではありません。

御廟が粟田宮とよばれるのは、粟田郷にあったことによるものです。

◆崇徳天皇御廟
祇園甲部歌舞練場の裏側に崇徳天皇の廟所があります。
『愚管抄』によると、保元の乱で敗れ、讃岐に配流された天皇の崩御後、
天皇の寵妃烏丸殿が綾小路河原(祇園町南側)の自邸内に
天皇の御影堂を建て菩提を弔ったという。
また『山州名跡誌』によれば、天皇の寵妃の一人阿波内侍
が天皇の崩御後、
その霊が夜毎、光ものとなって現れるので出家し、自邸内に
仏堂を建てて天皇の
菩提を弔ったのが始まりといわれ、
人々はこれを光堂と呼んだとしています。明治維新で仏寺は廃寺となり、
御廟だけが残ったとしています。

『昭和京都名所図会』によると、
阿波内侍は知足院公種(きんたね)の娘で、
天皇の崩御後、仏門に入り仏種尼と称しました。
烏丸殿と阿波内侍は同一人物とも思われますが、
知足院公種という人物については不詳。

治承元年(1177)、後白河院は崇徳院の霊を慰めるため、
崇徳院の御願寺である
成勝寺で、法華法要を行ないました。
崇徳天皇廟・阿波内侍の塔  
◆崇徳地蔵・人喰い地蔵
 「崇徳天皇廟」の旧地に一体の地蔵尊がありました。
崇徳院御影堂の遺物と伝わるこの石仏は明治時代、京都大学医学部
付属病院の建設にともなって聖護院の積善院準堤堂に移されました。
「人喰い」は崇徳(すとく)がなまったものといわれています。


聖護院
 聖護院積善院準堤堂の崇徳地蔵

藤原頼長桜塚址
白河北殿の東部にあたる地に(現・京大熊野寮の東南隅)むかし、
左府(左大臣)藤原頼長の塚があって左府(さふ)塚がなまって
桜塚と呼ばれていたという。
明治になって絹糸紡績会社の工場拡張により塚は破壊され、
石塔とともに相国寺内の総墓地に移されました。
(石塔の横の副碑は移転の由来を記しています。)
頼長は若いころから、学問に優れ生真面目で厳しい性格で
「悪左府」とよばれました。
悪左府とは、恐ろしいくらい頭の切れる左大臣くらいの意味です。

副碑に刻まれた碑文の大意は、
「KA130 藤原頼長墓副碑 碑文の大意 京都市」より転載。
「藤原頼長(1120~56)は,崇徳上皇・源為義らと結び保元の乱を起し敗死した。
相国寺総墓地にある頼長の墓あるいは首塚と伝える五輪塔は,
もともと左京区東竹屋町(丸太町東大路西入)の現京都大学熊野寮の地にあり
『拾遺都名所図会』巻二には「桜塚」と呼び,宇治悪左府頼長の社の旧地とする。
明治21(1888)年,第一絹糸紡績会社が創設され東竹屋町の地に工場を建て,
塚は同工場内に取り込まれた。同社は明治35年に同業会社と合同して
絹糸紡績会社となり,同44年に鐘淵紡績に合併された。
明治40年に工場増築のため塚を発掘し,五輪塔を相国寺墓地に移し,
経緯を記した碑を建てたものである。 
碓井小三郎著『京都坊目誌』(上京第二十七学区)には「(絹糸紡績会社が)
敷地狭隘に名を籍り,無情にも之を発き,地を夷ぐ。
塚の下に石棺の如きものを発見す。
会社は之を相国寺境内に移す。古蹟保存は終に金力の為に犯さる。
事業の発達は慶すべきも,史蹟を失ふは亦歎ずべき也」と嘆いている。」


相国寺の墓地は本坊より西、奥まったところに広大な地を占めています。
頼長の墓は入口を入って左、墓地中央よりやや東寄りにあります。
その傍には、伊藤若冲・足利義政・藤原定家など
歴史的著名人の墓が並んでいます。


藤原頼長の墓(右)と副碑
般若寺の平重衡供養塔・藤原頼長供養塔  
白峯神宮
讃岐に流された崇徳院は、恨みと憤りの日々を送り配所で崩御しました。
遺骸は白峰陵(香川県坂出市)に葬られ、院の木造を祀った白峰寺が建てられます。
後世の人々は異変、事件のたびに崇徳新院の祟りと恐れ、
幕末の孝明天皇は都に帰ることなく讃岐の土となった新院の霊を慰めることを
考えていましたが急逝、その遺志を継いだ明治天皇によって明治元年(1868

神霊とともに、讃岐白峰寺の院の木像が白峯神宮に祀られました。
 後に淡路島の配所で崩御した淳仁天皇も合祀されました。
神社の敷地は、もと飛鳥井氏(和歌・蹴鞠の宗家)の別邸でしたが、
白峯神宮造営に際し、同家の寄付によると伝えられています。


白峯神宮伴緒社
本殿東側の伴緒社には、保元の乱に崇徳新院のもとに馳せ参じた
源為義・為朝が祀ってあります。

保元の乱その後
讃岐白峯に流された崇徳院は、五部大乗経を筆写し都近くの寺に納めたいと
願い届けますが、許されず送り返されてきました。怨念に燃えた院は「大魔王となり
子々孫々まで皇室に祟りをなさん」と言って爪も切らず髪も剃らず、やつれた姿で
生きながら天狗の姿となり、46歳で配所において崩御されたと伝えられています。

♪うたたねは荻吹く風におどろけど 長き夢路ぞさむる時なき
                          崇徳院(新古今和歌集1804)
(うたたねは荻を吹く風の音に目覚めたけれども、
長い迷いの夢路からはまだ覚める時もないよ)

平清盛は叔父の忠正、忠正の子長盛、忠綱、正綱を
六条河原(六波羅とも)で斬り、この戦いで一番の功労者源義朝は、
その功績に引き換えて父為義の助名を願いますが、
赦されず父を船岡山(七条朱雀とも)で弟たちを船岡山で処刑します。

源為朝(1138~70?)
為義の八男で母は江口の遊女の鎮西八郎為朝は、幼い頃より武勇に優れ、
特に弓の技術は抜群だったと伝えられています。
13歳の時、鎮西(九州)に渡って豊後国に居住し、肥後国の阿蘇氏
(薩摩国阿多氏とも)の婿となり、周辺の武士を傘下に入れようと
奔走して騒ぎを起こしますが、父為義はこれを制止できず解官されました。
保元の乱では為義とともに、崇徳新院方につき奮戦しますが敗れ、
死罪になるところを武芸に長けていたため、
伊豆大島への流罪に減刑されますがここでも暴れ、
伊豆在庁狩野茂光の軍勢に攻められて自害しました。
『アクセス』
「聖護院」左京区聖護院中町15 市バス「熊野神社前」下車徒歩5分
「崇徳天皇廟」東山区祇園町南側(祇園歌舞連場裏) 市バス「祇園」下車徒歩5分位
「相国寺」上京区今出川通烏丸東入る 市バス「同志社前」下車すぐ
「白峯神宮」上京区今出川通堀川東入飛鳥井町 市バス「今出川堀川」下車すぐ
『参考資料』
白洲正子「西行」新潮文庫 小松和彦「日本の呪い」知恵の森文庫 
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)(洛東下)駿々堂
竹村俊則 「京の墓碑めぐり」京都新聞社
村井康彦「京都事典」東京堂出版 「平安時代史事典」角川書店

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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白河北殿は平安時代末、白河法皇によって造営された院御所で、
鴨川東の白河南殿に対して北隣の御所を指し、その跡地は熊野神社より西、
川端通(鴨川畔)に至る丸太町通を挟んだ南北一帯の地です。
(左京区聖護院川原町・東丸太町・東竹屋町・聖護院東寺領町)
白河法皇の崩御後は、鳥羽院の御所、
その後は上西門院統子(崇徳院の同母妹)の御所、
保元の乱では崇徳院方の本拠地となり、
後白河天皇方による夜襲で全焼しました。この時、統子は
父鳥羽院の死去に際し、鳥羽殿に移りこの御所を留守にしていました。


『保元物語』によれば、保元元年(1156)7月2日、鳥羽院が
鳥羽殿で崩御すると、
崇徳新院は同月10日に鳥羽田中殿より
この御所に移り、藤原頼長とはかって
軍勢を集めました。
しかし院の崩御前から準備を進めていた後白河天皇方に比べ

だいぶ出遅れた上、その軍勢は崇徳新院や摂関家に仕えていた
武士ばかりで、
源義朝・平清盛らの有力武士に加え
検非違使や衛府にも動員をかけた
後白河天皇方に比べ
明らかに見劣りのする部隊でした。

大炊御門面の東門には平忠正・多田頼兼、西門には鎮西八郎為朝が守り、
西河原面の門には六条判官為義、北の春日面の門には平家弘が固め、
軍勢は一千騎に
達しましたが、御所が広くて
どこに人がいるのか分からない位だったと記しています。


「此附近 白河北殿址」と刻まれた石碑が、
京都大学熊野寮敷地の北西角の茂みの中に見えます。

石碑の側面には、「昭和十四年三月建之 
京都市教育会」とあります。

この付近には白河上皇の院の御所「白河北殿」がありました。

保元の乱以前◆天皇家
白河法皇が崩御すると鳥羽上皇は祖父白河との関係を噂されていた待賢門院璋子を
遠ざけて「叔父子」と噂のあった上皇の第一皇子・崇徳天皇を退位させます。

代わって美福門院得子が生んだ体仁親王(近衛天皇)を即位させますが、
病弱な近衛天皇は十七歳で亡くなります。天皇に嗣子なく鳥羽上皇は崇徳新院の
皇子重仁親王ではなく、新院の弟雅仁親王(後白河天皇)を即位させます。
わが子の即位を強く望む新院は後白河天皇に反発します。
◆摂関家
藤原忠実は康和元年(1099)父の急死により22歳で氏長者(藤原氏トップ)
の座に就きます。藤原氏は代々外戚となって政界を支配してきましたが、
当時は白河法皇の院政最盛期にあり、摂関家の勢力回復に努めた忠実は
保安2年(1121)法皇に罷免され、長男忠通が関白・氏長者となります。
白河法皇が崩御し鳥羽上皇が政務をとりはじめると、法皇から疎まれていた
前関白忠実・次男頼長を上皇は政界に復帰させます。
忠実は摂政の座を次男の頼長に譲るよう忠通に頼みますが断られ、
忠通から氏長者を強引に取り返し頼長に与えます。
摂政職をめぐって父子関係は悪化し忠実は長男忠通を義絶します。
近衛天皇の崩御は崇徳新院の呪詛だとか忠実・頼長が呪詛していたという
噂が乱れとび、忠実父子は鳥羽上皇の信頼を完全に失い再び失脚します。

「保元の乱」
保元元年(1156)鳥羽法皇の死(7月2日)を機に皇位継承に不満を抱いていた
崇徳新院と弟の後白河天皇が対立し、摂関家内部でも藤原忠通、頼長兄弟との
亀裂が絡み合って起こった戦いです。
崇徳新院方の白河北殿では新院と頼長に源為義・鎮西八郎為朝父子、
平忠正(清盛の叔父)らの武士がつき作戦会議が開かれていました。
鎮西で武勇を誇った為朝は「勝利するには夜討ちに及ぶものはない。」と主張しますが、
頼長は「それはあまりにも荒っぽい。朝になると、父忠実が手配してくれた興福寺の

僧兵千騎余がこちらに着くだろうから正々堂々と戦いをすればよい。」と主張するので、
奈良からの援軍を待って出撃ということになりました。これが大きな失敗でした。

一方の後白河天皇、関白忠通側では、手狭な高松殿から東三条殿に移り
信西、忠通の子14歳の基実、平清盛、源義朝らが軍儀を開きます。
義朝が「まず夜討ち!」を称えると、これに信西(しんぜい)が賛同し、
7月11日未明義朝、清盛、源義康の兵600騎が三手に分かれ新院方のたて籠もる
白河北殿に先制攻撃をかけ、源頼政らの200騎の軍勢がこれに続きました。
白河北殿を必死で守る為朝の奮戦も及ばず4時間半程の戦いの後、
朝廷側が勝利します。千余騎で固めていた白河北殿は炎上し、
崇徳上皇は北殿を出て三井寺に逃れようと東山の如意ヶ嶽に上りますが、
山は険しく夜に紛れて下り、紫野の知足院近くの僧坊で出家し、
弟覚性法親王のいる仁和寺に入りました。(『保元物語』)
しかし、すぐ内裏に知らされ、寵妃兵衛佐局(重仁親王の母)らとともに讃岐に流されます。
兵衛佐局は、法勝寺執行信縁の娘で、大蔵卿源行宗の養女です。
頼長は流れ矢を頸にうけ奈良への途中、氏寺興福寺に逃れた父忠実に
使者を送り面会を求めますが、忠実は会おうとはしません。
絶望した頼長は舌を噛み切り最期を遂げます。
負けた側の武士は捕らえられ処刑されることになりました。
源為義を子の義朝が、平忠正を甥の清盛がなどそれぞれ一族の手で、
斬首させるという厳しい措置がとられました。
「保元の乱ゆかりの地」(2)高松神明神社・東三条殿址 
保元の乱ゆかりの地(3)崇徳地蔵・崇徳天皇廟・藤原頼長桜塚・白峯神宮 
『アクセス』
「白河北殿の碑」京都市左京区丸太町通東大路西入南側 京都大学熊野寮内
市バス「熊野神社」下車徒歩5分
『参考資料』
橋本治「権力の日本人」(双調平家物語ノート)中央公論新社 
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店

 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)(洛東下)駿々堂 「歴史のかたち」読売新聞大阪本社
 






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高松神明(しんめい)神社は、高松殿(たかまつでん)の
鎮守の社として祀られていました。
この社は白河法皇の頃には、美福門院の祖父藤原顕季(あきすえ)の
邸宅となっていましたが、鳥羽上皇はこの邸宅を買い上げて
院宮を造り、ここを御所としました。
邸宅の名は池の中島に生えていた高い松の木に由来するという。

久寿2年(1155)に後白河天皇は、高松殿で即位して
ここを里内裏とし、政務を執ったので高松内裏ともいわれました。
保元元年(1156)の
保元の乱では、 崇徳上皇方の白河北殿に対して
後白河天皇方の本拠地となり、源義朝や平清盛の軍勢が
高松殿にぞくぞくと集結しました。
これは1町(121㍍)四方の邸宅で、
手狭なため軍勢が白河の地に出発した後、高松殿を離れた天皇は、
北隣にある左大臣藤原頼長の東三条院を接収し、そこに本陣を移しました。
平治元年1159)の平治の乱で、御所は焼失しますが、
高松明神は、現在も高松神明社として残っています。

なお、保元の乱で源義朝の夜襲策を取り入れ、天皇方を勝利に導いた信西の邸は、
『平治物語』によると、
姉小路西洞院(高松殿の南西あたり)に
あったと記されています。 
三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  

室町時代には、神明寺宝性院という神仏習合の寺院でしたが、
明治の神仏分離によって高松神明神社と名を改めました。
鳥居の傍にたつ「此附近高松殿址」の碑

高松神明神社


東三条殿は仁安元年(1166)に焼失し、
釜座通り押小路の角に「此附近東三條殿址」の碑がたっています。



東三条殿は二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130m、

南北約280mに及ぶ細長い地域をいい、はじめ醍醐天皇の皇子重明親王の
邸でしたが、平安時代初期に藤原良房が譲り受けた後は、藤原氏出身の
女子で皇妃母后となった人が居住する慣わしとなっていた所です。
その後、邸は道長に引き継がれ、頼通の頃から藤原氏の
重要な儀式はここで
行われるようになります。
師実、師通、忠実、忠通と代々藤原氏の氏長者の
伝領でした。

忠実(ただざね)は東三条殿を一時、長男忠通に伝えますが、
久安6年(1150)、忠通を義絶して次男の頼長に与えました。
しかし、保元の乱で頼長は朝敵として滅びたので没収されています。

東三条殿想像復元図 『日本歴史館』より引用させていただきました。
『アクセス』
「東三条殿址の碑」京都市中京区押小路通釜座上松屋町 市バス「新町御池」下車2分
又は市バス「二条城前」下車5分
「高松神明神社」京都市中京区姉小路釜座東入北側 市バス「新町御池」下車2、3分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂 角田文衛「平安京散策」京都新聞社
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
「日本歴史館」(株)小学館、1993年

 

 

 
 

 

 

 

 


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