平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




小倉山の山裾にある滝口寺は、滝口入道と横笛ゆかりの寺院です。
周辺一帯は法然上人の弟子・念仏房良鎮(りょうちん)創建の
念仏道場の往生院があった所で、多くの坊があったと伝えられます。

滝口寺はその一坊の三宝院といい、古くは往生院三宝寺といいました。
その後、往生院の一坊の祇王寺とともに浄土宗の寺として残り、
『平家物語』ゆかりの地として、
江戸時代から知られていましたが、
明治維新で廃寺となり、三宝院跡に昭和初めに長唄の杵屋佐吉が再建し、
歌人で国文学者の故佐々木信綱が滝口寺と命名しました。

滝口入道はもとは平重盛に仕えた斎藤時頼という若者で、13の時から
宮中警護にあたる滝口の武士となりました。
滝口というのは、清涼殿の軒下を
流れる御溝(みかわ)水の落ち口のことで、
この詰所に控える武士のことを
「滝口」とよび、若く美しい武者が出仕していました。
横笛は江口の長者(摂津国淀川の河口にある遊女宿の女主人)の娘で、
平清盛が福原下向の時、宴席に出た横笛を気に入り、建礼門院の
雑仕女として召しかかえました。雑仕女というのは下働きの女官のことで、
源義朝の側室の常盤も近衛天皇の中宮に仕える雑仕女でした。
『平家物語』には、斎藤時頼と横笛の恋のいきさつは記されていませんが、時頼が
勤務する宮中で横笛を見初め、二人はいつしか愛しあう仲となったと思われます。

ところが時頼の父は息子を有力者の娘婿にして、出世させたいと願っていたので、
横笛ごときが相手では栄達は望めないと強く反対しました。時頼は「短い人生、
気に染まぬ者を妻にして何になろう。そうかといって親に背くこともできない。」と
横笛に何もつげず嵯峨の往生院で出家し、滝口入道と名乗りました。19歳のことです。

それを伝え聞いた横笛は、嵯峨の寺を訪ね歩き、時頼の念誦の声が
聞こえる坊を探しあて案内を乞いますが、滝口入道は道心が揺らぐのを恐れ、
会おうともしません。しかし一度は追いかえしたものの、
また横笛がやってきたら追いかえす自信がないと、嵯峨を出て
女人禁制の高野山清浄心院に移り、いっそうの仏道修行に励みました。

その後、横笛が出家し仏道に入ったと聞いて一首の歌を送ります。

♪剃るまではうらみしかどもあづさ弓 まことの道に入るぞうれしき 
(あなたが出家するまでは憂き世を恨んでいました私ですが、
あなたも尼となってまことの道に入ったと聞いて、大変うれしく思っています。)
横笛の返事には
♪剃るとてもなにかうらみんあづさ弓 ひきとどむべき心ならねば

(あなたが髪を剃って出家したとて、何であなたをお恨みしましょうか。とても
引きとめることのできないあなたのお気持ちなのですから。)と書かれていました。
奈良の法華寺にいた横笛は、滝口入道への思いが募ったためか、
ほどなくこの世を去ってしまいました。

この二人の話は、明治になって高山樗牛が読売新聞の懸賞小説に
『滝口入道』として応募し新聞に連載されると、多くの読者の心を捉え、
二人の悲恋物語はさらに有名になりました。
この小説によると滝口入道と横笛の恋の出会いは、西八条の花見の宴で
春鶯囀(しゅんのうでん)を舞う横笛のあでやかな舞姿に
時頼が一目ぼれした。とあります。


祇王寺奥の階段を上った所が滝口寺です

山門を入ったところにあるのが太平記に登場する
新田義貞と勾当内侍の供養塔


新田義貞は元弘の乱(後醍醐天皇が企てた倒幕運動)に
鎌倉幕府の命令で千早城攻めに加わりましたが、まもなく
本国の上野に帰って挙兵し、幕府を攻撃して北条一族を滅亡させました。
しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕貢献者の一人である同族の
足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すとこれに対抗しました。
箱根・竹ノ下、兵庫で敗れ、後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて
越前に下り、延元三年(1338)藤島で斯波高経に敗れて戦死しました。

戦死した新田義貞の首は、ここに埋葬されましたが、
その後荒廃し、明治27年(1894)富岡鉄斎がこの碑を建てたという。
「贈正一位新田公首塚碑」と刻んだ大きな石碑
右側は新田義貞公650年忌(昭和63年)の石碑

義貞の戦死後、妻の一人である勾当内侍(こうとうのないし)は、
尼となって往生院付近に住み、その菩提を弔ったといわれています。
それに基づいて昭和7年(1932)にこの三重石塔がつくられました。


参道の中途にある横笛歌石(滝口と横笛歌問答乃旧跡) 
滝口入道に会えなかった横笛は、自分の気持ちを伝えたく、
♪山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け 
と指を切って血で歌を書き記したという石。


滝口入道と横笛の木像が安置されている藁屋根の本堂



滝口入道と横笛の木像
鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)往生院の遺物です


深くおい茂った竹藪の中にある平重盛を祀る小松堂

一の谷敗戦後、重盛の嫡男維盛は屋島を離れ、かつて父に仕えていた
斎藤時頼(滝口入道)を頼り高野山に上って剃髪しました。
そして滝口入道は熊野の那智沖で入水した維盛の最期を見送り、
お経を唱え成仏を祈りました。


滝口入道と平家一門の供養塔
高野山清浄心院(滝口入道・維盛出家)  
滝口入道と横笛(大円院) 
『アクセス』
「滝口寺」京都市右京区嵯峨亀山町10-4
  市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩約15分
京福電鉄嵐山駅より徒歩約30分

JR嵯峨野線嵯峨嵐山駅より徒歩約40分

「阪急嵐山レンタサイクル」阪急嵐山駅すぐ075-882-1112
 嵯峨野・太秦近辺が効率よく周れます。
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 高山樗牛「滝口入道」岩波文庫 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂
 「京都市の地名」平凡社 
徳永真一郎「物語と史跡をたずねて 太平記物語」成美堂出版

 

 



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高野山奥の院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師御廟がある聖地です。
一の橋から御廟まで約2キロの参道両側には、20万基ともいわれる墓碑や
供養塔が杉木立の間に並び、厳かな雰囲気に包まれています。

参拝者や観光客で賑わう一の橋口から奥の院へ

奥の院の入口にあたる一の橋

11C始ごろ、弘法大師は死んだのではなく入定(にゅうじょう)したのだという
信仰が起こり、高野山は現世の浄土として時代と宗派を超えた信仰を集めてきました。

その陰には高野聖の活躍があります。彼らは、高野山は弘法大師が住む浄土であり、
大師が生きながら仏となりあらゆる人を救い続けていると説いて日本各地を廻りました。
それによって朝野の広い信仰を集め、人々は浄土への往生を願い、
高野山納骨の風習が鎌倉時代に全国的に普及しました。
高野聖は高野山への納骨参詣を勧誘したり、委託された遺骨や野辺の
白骨を拾い集め、笈(おい)に入れて高野山に運びました。


一の橋を渡ると右側に熊谷蓮生坊(直実)と平敦盛の墓所があります。

左側には敵討ちで知られる曽我兄弟の供養塔があります。
建久4年(1193)5月、頼朝が御家人を率いて行った富士裾野での巻狩りに乗じ、
曽我十郎・五郎は父(河津祐通)の仇・工藤祐経(すけつね)を討って
永年の恨みを晴らした後、命を落とします。史上名高い曽我の仇討です。

彼らの祖父伊東祐親は、工藤祐経が宮中警護のため都に出ている最中、

祐経の所領を横領したため、怒った工藤祐経は訴訟を起こしますが、
うまくいかず狩りに出た伊東祐親を郎党に狙わせます。しかし祐親は逃れ、
彼の息子・河津祐通が殺されたもので、これを題材にした『曽我物語』は、
鎌倉末期に原型が成立し、次第に加筆訂正され南北朝期になると
流布本(仮名本)が出版され、さらに江戸期には曽我兄弟は、孝行息子の
手本として歌舞伎はじめ様々な芸能で演じられるようになりました。

工藤祐経は都での生活が長かったこともあって歌舞音曲に優れ、
平重衡が東国に送られてきた時、鼓を打ってその接待役にあたり、
静御前が頼朝の御前で舞を舞ったとき、伴奏の小鼔を担当しています。

多田源氏の祖で、摂津国多田に荘園を営み強力な地盤を築いた多田満仲の墓。
奥の院で最古の長徳3年(997)の銘があります。

 風林火山で有名な甲斐源氏の武田信玄(左側)とその子勝頼(右側)の墓所です。
血で血を洗う争いを繰り広げ、常に死と向き合っている戦国武将たちは、
高野山を菩提所とする傾向が強く、信玄は高野山に信仰を寄せ、
弘法大師のもとでの成仏を願い、その墓所を奥の院の一隅に求めました。

佐竹氏は河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。
武田氏に代表される甲斐源氏と同族です。正面には
俗界と霊界をわける鳥居がたっています。古い時代、とくに修験道の道場や
密教の寺院において、入口に鳥居を用いることがあったようです。
奥の院に眠る諸大名の墓の多くが、やはり正面に鳥居を備えています。

佐竹義重の霊屋(国重文)は、慶長4年(1599)年につくられたものです。
家屋の中に五輪塔、周りを47本の塔婆形の角材で囲んだ珍しい霊屋(たまや)です。

法然上人円光大師墓所

御廟橋の架かる玉川は、流れ灌頂が行われるところです。
水辺に六道卒塔婆をたて、樒(しきみ)を流れにひたし死者生前の滅罪を祈ります。

水向地蔵 

灯籠堂の前を流れる玉川を背に地蔵菩薩像などが並び、
奥の院に参拝する人はここで水を手向け冥福を祈ります。

御廟橋から先は高野山の中でも最も神聖な聖地とされている弘法大師御廟があり、
その前に僧侶たちが毎日、食事や茶を供えています。
ここから先は撮影禁止です。

弘法大師御廟前にたつ灯籠堂
 ズームを使って撮影しました。
灯籠堂は空海の弟子真然が創建したものを、藤原道長の
寄進によって規模を大きくしたことに始まります。
堂の正面には
祈親が献じた「祈親燈」と白河上皇が献じた「白河燈」が
千年近く燃え続け、内部には信者が供えた無数の灯籠があります。

奥の院を散策する際には、観光案内所に置いてある高野山観光協会発行
「高野山奥の院の墓碑をたずねて」(100円)を参考にするとわかりやすくて便利です。
また歴史上の著名人の墓碑には、標識がつけられています。
『アクセス』
「奥之院」高野山駅前から山内バス「奥の院口」下車、御廟まで徒歩約40分。
高野山駅前バス乗り場で販売の安くて便利な
「高野山内1日フリー乗車券」(800円)を利用しました。
『参考資料』

山田耕二「日本の古寺美術・高野山」保育社 現代語訳「吾妻鏡」(富士の巻狩)吉川弘文館
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 「和歌山県の地名」平凡社
 百瀬明治「高野山超人・空海の謎」祥伝社黄金文庫 



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高野山の西室院には、頼朝の三男貞暁が建てた源家三代の墓塔といわれる
三基の五輪塔があります。
この寺はもと谷上院谷にありましたが、その後、南谷に移り、
明治時代に一心院谷の現在地(旧金光院の敷地)に移ってきました。

高野山駅から山内に向かうバスに乗って女人堂を過ぎ、そこから坂を下った辺りが
一心院谷で一心院谷聖のあとです。この谷の名は、行勝上人によって創建された
一心院という寺院に由来するものですが、寺は江戸時代に衰退して今はなく、
一心口・一心院谷という地名だけが残っています。
明治になって高野山は寺領の返還と大火で困窮し、
明治初年に680ヵ寺あった寺院は130ヵ寺だけ残しあとは廃寺となりました。
一心院谷には、いま巴陵院・蓮華定院・西室院があるだけです。

 江戸時代の『高野全山絵図』には、一心院谷の阿光院西南の丘、金光院の西北の山手に
四基の五輪塔が描かれ、「頼朝公」「頼家公」「実朝公」「二位殿」と注記されています。
二位殿は北条政子です。この五輪塔の経歴について
『紀伊考古学研究』に
次のように記されています。
「大正五年に行われた道路改修の際、この五輪塔は移動させられた可能性が高い。
絵図には四基の五輪塔が描かれているが、現在は三基しかなく移設の時に破損、
または破損の激しかったものを廃棄したか、組み替えたかの何れかと考えられる。」

西室院は宿坊寺院です。

裏山には貞暁の師・行勝上人の廟があります。

近年まで西室院の門前にあった五輪塔は庭園多聞苑に移されました。



五輪塔には三基とも銘がありません。

 文治2年(1186)2月、貞暁(じょうぎょう)は源頼朝の庶子として生まれました。
母は常陸介藤原時長の娘で、大倉御所に女房として仕えていた大進局です。
大進局が頼朝の子を懐妊したということが政子に知れると、頼朝は大進局を
遠ざけ出産の儀式はすべて省略されました。政子を恐れ乳母のなり手がなく、
貞暁は長門江太景国の浜の宅に引取られましたが、政子に呼び出され激しく
罵倒された景国は、貞暁とともに深沢に逃れます。それでも政子の怒りはおさまらず、
頼朝自身も強く責められ、貞暁は人目を憚るようにして育てられます。
頼朝は大進局に危険を避けるため逃れるよう説得し、生活の糧として伊勢国
三箇山を与え京都に追いやります。その翌年、7歳になった貞暁も仁和寺の
隆暁に弟子入りすることになり、頼朝は密かに貞暁をたずねて剣を餞別に贈ります。

上洛した貞暁は一条能保に伴われ隆暁法印の仁和寺の坊に入り、隆暁が亡くなると
仁和寺の勝宝院を継承し、更に修行を重ねて鎌倉とは距離を置きます。
隆暁(りゅうぎょう)は頼朝の妹(姉とも)婿にあたる一条能保の養子で、
治承・養和の飢饉の時、多数の餓死者が出たことを哀しみ、行き交うごとに倒れた人の
額に「阿」の字を書いて冥福を祈ったと『方丈記』に記された徳のある人です。
承元2年(1208)3月、貞暁は仁和寺を出て高野山に登り高野聖・行勝上人に師事し、
さらに俗界から遠ざかります。高野山の編年史『高野春秋』は、貞暁に
北条義時の手が迫り、貞暁は自らの身を守るため高野山に移ったと語り、同年10月、
熊野参詣の途次に政子が高野山麓の天野社で貞暁に会ったと記しています。
その時のことを、真言宗高僧の伝記をまとめた『伝燈広録』は、
承元2年(1208)10月、北条政子が弟時房を従えて高野山の貞暁を訪ね、還俗して
将軍になる意志の有無を確かめると、貞暁は片目を潰して固辞したと書いています。
これは実朝が将軍に就任してから五年目のことです。
さらに建保6年(1218)政子は熊野詣の途次、貞暁に会ったとは記してませんが、
天野社に立ち寄ったと『高野春秋』は語っています。
それから承久元年(1219)将軍実朝が子供のないまま頼家の子・公暁に暗殺され、
その翌年、公暁に与したという嫌疑で、仁和寺に入っていた頼家の遺児
禅暁が北条義時に京都の東山で誅殺されました。

貞暁は師の行勝が亡くなると一心院を譲り受け、貞応2年(1223)北条政子の援助で
高野山内に寂静院(じゃくじょういん)を建て、三代将軍の追善のため阿弥陀堂と
三基の五輪塔を建立しています。同じ頃、やはり高野山に政子が建立した
金剛三昧院の堂宇が完成しています。この頃になると九条道家の子の頼経を
将軍として迎えた北条政子・義時姉弟の政権は安定し、政子は貞暁を
頼朝の血をひく高僧として敬うゆとりが生まれたと思われます。
以後も幕府は寂静院を手厚く保護しています。
こうして京の貴族たちにも「鎌倉法印」としてその名を広く知られた貞暁は、
46歳で亡くなるまで鎌倉幕府内の激しい権力闘争に翻弄されることもなく、
源家三代の鎮魂のため生涯を捧げました。
『アクセス』
「西室院」和歌山県伊都郡高野町大字高野山697
南海高野山ケーブル「高野山駅」下車、「一心口」バス停下車1分
『参考資料』
野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」新人物往来社 
永井晋「鎌倉源氏三代記」吉川弘文館  渡辺保「北条政子」吉川弘文館
 
「紀伊考古学研究・第13号」2010紀伊考古学研究会
 奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 
五来重「増補=高野聖」角川選書「和歌山県の地名」平凡社



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円通律寺は熊谷寺円光堂の右手の坂道を上り、小さな峠を越えた所にあります。

境内には山門・本堂・坊舎・鐘楼・宝庫・鎮守社などの建物があり、

本尊は木造釈迦如来坐像(国重文)で、宝庫には紙本著色十巻抄(国重文)など
多くの経典などを所蔵しています。開基は空海十大弟子の一人智泉と伝えられ、
その没後荒廃していたのを俊乗坊重源が再興し、専修往生院という
新別所を建て、
本堂・三重塔・食堂(じきどう)・湯屋などの
堂宇や数多くの仏像・
経典類があったことが知られます。

その後、再び荒廃を極め、
江戸時代初期、山口修理亮重政が堂宇を
修理して釈迦堂を安置、
密教と律宗の兼学道場となりました。
現在は真言宗の僧侶を目指す人々の
修行寺院で、
女人禁制・立ち入り禁止という厳格な規律を守っています。


観光客・参拝客で賑う小田原通、南無阿弥陀仏の赤い旗が翻る熊谷寺

円光堂右手の坂を上ります

円通寺は修行道場につき拝観できません。円通寺 事相講伝所(現地駒札)

坂道を上ると人家は途切れ風景は一変します。

高野山女人道㉓ポイント大峰口女人堂跡ここから下り坂です。

明治5年に女人禁制が解かれるまで山内に入ることが許されなかった女人は、
奥の院の御廟を拝みながら八葉蓮華の峰々をめぐる女人道を辿りました。
高野山へ入るには古来七口
あり、それぞれに女人堂が置かれていました
今は不動坂口女人堂が残っているだけで他は案内板があるだけです。

高野山女人道㉒ポイント奥の院と円通律寺の分岐点

橋を渡り右へ曲がった先にまっすぐな道がのび、遠くに山門が見えます。



『不許葷酒入山門』の石碑がたち、山門から中へは入れません。
山門前の杉林一帯は、重源が活躍した時代には高野聖が無数に庵を構え、
念仏を唱える声が周囲の山々にこだましたという。

静寂そのもの、辺りにはいたるところに立入禁止の注意書き

これ以上は近寄りがたい雰囲気が感じられズームを使って山門を撮影

下級貴族の紀季重の子として京で生まれた重源は、13歳で醍醐寺に入り、
醍醐寺の中でもとくに密教修行の聖地、上醍醐を拠点として修行に励み、
後に法然に浄土宗を学びます。
大峰・熊野・葛城などで厳しい修験道の
修行を積み、次いで東大寺造営勧進の宣旨を賜るまでほぼ10年余にわたって
高野山で修行しました。重源が安元2年(1177)に高野山延寿院に
施入した梵鐘の銘に「勧進入唐三度聖人重源」と刻まれ、
重源が三度入宋していたことが窺われます。

重源は聖にありがちな謎めいた人物で、人を信用させるため法螺もあったようで、
入宋三度というのも疑問とする意見もありますが、東大寺再興のような大事業には、
ある程度の宣伝活動も必要だったに違いありません。重源はこの入宋で
天台山や阿育王山などの仏教聖地をまわるとともに、宋朝建築様式や
仏教美術を学び、阿育王山では舎利殿建立に関わり、土木技術を習得しました。
大仏鋳造に活躍した宋の鋳物師・陳和卿(ちんなけい)の起用や宋朝建築様式の
採用なども複数回に及ぶ入宋体験を通してはじめて可能になったと思われます。

治承4年(1180)平重衡の南都焼討によって、東大寺・興福寺の伽藍が焼失すると
再建は焼亡の翌年、後白河院の宣旨で復興事業は、
東大寺大勧進上人重源に一切が委ねられました。時すでに61歳での勧進職就任。
山林修行で鍛えられた体力と強い精神力で厳しい復興事業を見事完成させました。

 この人選には自薦、他薦の諸説があり、重源を勧進職に推挙したのは、法然とも
明遍ともいわれています。重源は高野聖としては明遍の蓮華谷系の聖であり、
明遍はもと東大寺の学匠であったことなどから、
五来重氏は『高野聖』の中で次のように述べられています。
「重源は東大寺に対して自薦運動を展開するとともに、
明遍に推薦を頼んだのであろう。」
どちらにしても建築や土木技術に関する知識、技術者などの人脈、
念仏集団の組織力をかわれ任命されたものと推測できます。

勧進帳を手にした重源率いる聖集団が洛中の有力貴族や源頼朝、
実力ある鎌倉武士などに広く寄進を募って全国を走りました。重源自身も
後白河法皇や皇嘉門院(崇徳天皇の中宮)その他諸家を勧進に廻っています。
歌舞伎の『勧進帳』は、頼朝に追われ山伏を装って奥州へ落ちる義経一行が、
安宅の関で関守の富樫左衛門に見とがめられ、弁慶が東大寺再建の
勧進帳を読み上げて難をきりぬけるという歌舞伎十八番の一つです。

大仏の金メッキが足らず、西行が重源の依頼を受けて
陸奥へ旅立ったのも奥州の藤原秀衡からの砂金調達のためでした。
それは西行と重源が高野山にいた時期が重なるので、西行が高野山蓮華乗院の
建立の際に見せた勧進能力を重源が高く評価したものと考えられています。
『アクセス』
「円通律寺」和歌山県伊都郡高野町高野山 熊谷寺より徒歩約30分
「熊谷寺」和歌山県伊都郡高野町高野山501
ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「かるかや堂前」下車徒歩約2分
又は「一の橋」下車徒歩6、7分
『参考資料』

中尾堯「旅の勧進聖・重源」吉川弘文館 五来重「増補=高野聖」角川選書 
五味文彦「西行と清盛」新潮社 梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館文庫
「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
 



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