平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 

ご訪問ありがとうございます。

早速ですが、最近PCの調子が悪く、
度々フリーズを起こすようになりました。

新型コロナウィルス感染状況の中、PCを買い替えて
設定に来てもらうのも何かと心配なので、
しばらく見合わせたいと思っています。

申し訳ございませんが、
ご理解のほどよろしくお願いいたします。
また再開した時には、
どうぞよろしくお願い申しあげます。


どうぞ皆様方もお大切にお過ごしください。

 



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渋谷重国は、桓武平氏の流れをくむ武蔵きっての大豪族秩父氏の一族です。
この秩父平氏からは、河越、畠山、小山田、稲毛、江戸、葛西、豊島など、
鎌倉幕府の下で活躍する豪族を輩出しています。

『畠山系図』などによると、渋谷重国の祖父基家は、多摩川河口の
武蔵国荏原郡(えばらぐん)を領有し、同郡河崎を拠点として
河崎冠者(六位の無冠の者)とよばれました。
多摩川はかつては暴れ多摩川と称され、度々水害を繰り返していたので、
基家は用水土木事業による堤防や土手を構築するなど
よほど大規模な治水工事を行ったものと考えられています。

その孫の重国は武蔵国荏原郡から相模国高座郡渋谷荘
(神奈川県綾瀬市・藤沢市・大和市)までを領して渋谷荘司となり、
「相模国の大名の内」と称される威勢を築きました。

佐々木秀義は源為義(頼朝の祖父)の娘を妻とし、平治の乱では義朝方として戦い
平家全盛の時代になってもそれに従わなかったため、相伝の土地である
佐々木荘(現、滋賀県安土町南部一帯)を没収されてしまいました。
仕方なく子供たちを連れて藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる途中、
相模国まで来たところを重国に引き止められ、
勧められるままそこに身を寄せ20年を過ごしました。
秀衡の妻と秀義の母は姉妹で、彼女たちは安倍宗任(むねとう)の娘だったのです。

重国は平治の乱では、源義朝軍に属して戦いましたが、
平家の世になるとそれに従っていました。(『相模武士団』)
平家の郎党であった重国が佐々木父子を自分の手もとに留めたのは、
秀義の勇敢な行動に感心したためといいます。

20年渋谷荘に滞在する間に秀義は重国の娘を娶って五男義清をもうけました。
息子たち(太郎定綱・次郎経高・三郎盛綱・四郎高綱)も逞しく成長し、
渋谷重国など東国の豪族の娘と結婚し、伊豆で流人生活を
送っている頼朝のもとに出入りしていました。
『吾妻鏡』治承4年8月9日条によると、京都から帰国した
大庭景親(かげちか)は佐々木秀義を招いて頼朝討伐の密事を話し、
秀義の息子たちが頼朝の味方にならないよう説得しました。
秀義の息佐々木五郎義清の妻が景親の娘(『源平盛衰記』では妹)だったので、
景親はこの情報を教えたようです。
驚いた秀義はそれを定綱に伝え伊豆の頼朝に知らせました。
都の状況の第一報を受けて頼朝は挙兵を急ぎ、佐々木兄弟は
伊豆国目代山木兼隆攻めの主力となって戦い、緒戦に勝利しました。

頼朝挙兵当時、相模国において最大の勢力をもっていたのは、
平氏権力と結んだ大庭景親でした。平治の乱後、大庭景義は伊豆の頼朝と通じ、
一方弟の景親は坂東八ヵ国一の名馬を献上するなどして
清盛に積極的に接近し、東国の後見を務めます。
景親だけでなく、保元の乱・平治の乱で源義朝に従った
相模国の武士の多くが、平治の乱後は平家に仕えていました。
大庭兄弟の仲たがいの原因は、長男でありながら
嫡子になれなかった平太景義の恨みや所領をめぐる
争いにあったのではないかと推測されています。(『相模武士団』)

頼朝からの誘いが来た時、大庭一族は集まり、大庭三郎景親と俣野(またの)景久が
平家方につき、平太景義(能)・景俊(かげとし)兄弟が源氏に味方し、
勝負は時の運であるから、どちらが勝利しても勝った方が負けた方を助けて
生きのびようと話し合ったという説話が『源平盛衰記』に記載されています。
(巻20・佐殿・大場勢汰への事)

また『同記』には、景親が平家に従属した理由として、昔囚人として捕えられ
斬刑となるところを平家に助けられ、東国の後見として引きたててもらった
恩義があるから平氏に与したと記されていますが、詳細は不明で
事実かどうかもわからないようです。(『鎌倉武士の実像』)

治承4年(1180)8月、山木兼隆を討ちとり相模国に進んだ頼朝軍は、
大庭景親の率いる平家軍に石橋山合戦で惨敗し、箱根山中を逃げまわりました。
合戦後に景親は渋谷重国のもとを訪れ、「佐々木兄弟を探し出すまでの間、
彼らの妻子を罪人として人質にせよ。」と命じました。
「定綱らは旧恩があるので源氏に味方したが、自分は孫の義清を連れて石橋山に
駆けつけ平家方に味方した。その功を考えてほしい。」ときっぱり断りました。
その夜、箱根山中に潜んでいた定綱・盛綱・高綱は
阿野全成(頼朝の異母弟・今若丸)を連れて重国の館へ帰ってきました。

醍醐寺に預けられ僧になっていた全成は、頼朝の挙兵を伝え聞き、
諸国修行の僧を装って都から駆けつけ箱根山で佐々木兄弟と行き会ったという。
重国は喜んで彼らを倉庫に匿ってもてなしました。
経高の姿が見えないので「経高は討死したのか」と重国が尋ねると、
「思うところがあるといって来ませんでした。」と答えます。
「頼朝側に加わるのを止めたことがあるが、その忠告を振り切って
参戦し敗れたので、恥じて帰ってこれないのではないかと思い、心配して
郎従らにあなたたちの行方を
探しに行かせていたのだ。」と言うと、
重国の情けに皆々が感じ入ったということです。

箱根山から土肥杉山(湯河原町)に逃げ込み洞窟に潜む頼朝主従
(『源頼朝』山川出版社より転載)
平家の総帥大庭景親にしたがっていた梶原景時(景親のいとこ)は、
戦いに敗れ山中の洞窟に身を隠していた頼朝を知りながら見逃しています。

相模国の豪族中村氏の一族で、土肥郷(現、神奈川県湯河原町 )を
本拠としていた「湯河原駅前の土肥実平館跡 」
頼朝はこの地域の地理に明るい実平に助けられ、
平家軍の追及をかわし安房に向かうことができました。


頼朝が安房へ船出した浜 真鶴岩海岸

石橋山で敗れて箱根山中にひそんでいた頼朝は、土肥実平(さねひら)に導かれ
真鶴岬から海上を安房に逃れました。そこで待っていた三浦一族と合流し、
勢力を拡大しながら破竹の勢いで房総半島を北上し鎌倉をめざしました。
頼朝上陸地鋸南町竜島

石橋山合戦の2ヶ月後、富士川の一戦で戦わずに勝利した頼朝は論功行賞を行い、
大庭景親はじめ降伏してきた平氏方の武士らの処分を決定しました。

大庭景親は藤沢市の南東部を流れる固瀬川(現、片瀬川)
あたりで討たれ、首をさらされましたが、
渋谷重国は罪に問われることはありませんでした。
『源平盛衰記』は、頼朝が景義に景親の斬首を命じたと語っています。
(巻23・頼朝鎌倉入り、勧賞附平家方人罪科の事)

その後、重国は頼朝に臣従して所領を安堵され、
息子の高重と共に御家人となっています。

平治の乱後、奥州に落ちのびる佐々木秀義を引き止めて保護し、
石橋山合戦の際も佐々木兄弟や阿野全成を匿うなど、平氏に仕える身の
重国が一貫して
源氏に尽くしたことを頼朝が評価したものと思われます。
石橋山古戦場(1)早川駅から石橋山古戦場を歩く  
『参考資料』  
関幸彦編「相模武士団」吉川弘文館、2017年
湯山学「相模武士(5)糟屋党・渋谷党」戎光祥出版、2012年 
湯山学「相模武士(1)鎌倉党」戎光祥出版、2010年 
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
  新定「源平盛衰記」(3)新人物往来社、1989年
野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館、2007年 
石井進「鎌倉武士の実像」平凡社、2002年
 高橋典幸「源頼朝」山川出版社、2010年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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摂津国一之宮の住吉大社は、全国の住吉神社の総本社です。
摂社として祀られている大海(だいかい)神社は、
(おおわたつみ神社)ともいい、住吉の別宮、
住吉の宗社と
称えられた社で、古代の祭祀においても重要視された社です。

祭神は豊玉彦命(とよたまひこのみこと)とその娘豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。
豊玉彦命は海神(綿津見神=わたつみののかみ)ともいい、
日本神話の海の神で、海幸彦山幸彦の神話に登場する海宮の竜王です。

住吉大社は、大阪市およびその周辺地域で最も神威が高く、
また古事記や日本書紀に鎮座由来の神話を載せる唯一の神社です。
『記紀』には、住吉三神が現れる神話が二度載せられています。
一つはイザナギノミコトが死者の国の黄泉国から現世に戻り、
死の穢れの祓いを行った時、住吉三神は海の神
綿津見(わたつみ)三神と一緒に生まれたとされています。
次に住吉三神が登場するのは神功皇后の新羅遠征伝承に関わるもので、
神功皇后は住吉三神の助けによって新羅を征服したとされています。

三神を奉じて凱旋の帰途、神功皇后への託宣により、田裳見宿禰(タモミノスクネ)が
神の教えのままに三神を現在の住吉大社の地に祀ったと伝えられています。
田裳見宿禰は、住吉大社歴代神主の津守連(津守氏)の祖とされています。

津守連(むらじ)は本来港を守る伴造(とものみやつこ)、
つまり港津の管理に携わり、支配下にある
部民(べみん)を率いてヤマト王権に奉仕する豪族でした。

大海神社は、代々住吉大社の神官を務める津守氏の氏神であるというのが
研究者のほぼ一致した見解ですから、津守氏は住吉大社とは、
直接の関係はなかったことになります。住吉大社の大きな特徴は、
特定の氏族の氏神という性格が全く見られないことです。

住吉大社と王権との結びつきは社殿様式にも見られます。
本殿が大嘗祭(即位儀礼の一環として即位後に行われる新嘗祭)の時に
造営する大嘗宮正殿の様式に類似していることです。
 大嘗宮正殿の様式は、古代中国建築様式の影響を受け、
これが住吉大社本殿の様式に投影したと考えられています。
全国の神社の中でもこのような例は他に全く見られないものです。

本殿の住吉造り   
本を開いて伏せたような形をした屋根の切妻(きりづま)造り、
屋根のない妻側を出入口とした妻入(つまいり)
形式です。
内部は前後二室に分かれています。

海神の代表格ともいえる住吉の神は、航海安全の神、海に生きる人々を守る神でした。
この神は安曇磯良(あずみいそら)の伝承との関りもみえます。
安曇磯良は、神功皇后の三韓征伐の際、龍宮から潮の干満を左右する
干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)の宝をもちかえったという海底の神です。
『記紀』で語られる数多くの神話や伝説は、
今も各地の史跡や祭りなど人々の生活の中に生きています。

海幸山幸の神話は、誰もが一度は聞いたことのある物語です。
「兄の海幸彦は海で漁をし、弟の山幸彦は山で狩猟をして暮らしていました。
ある日、兄弟は釣り針と弓矢を交換して海幸は山へ、
山幸は海へ出かけましたが、弟は魚に釣り針をとられてしまい、
代わりのものを作って返しましたが、兄は許してくれません。

途方にくれ山幸が海辺にたたずんでいると塩椎(しおつち)神が現れ、
山幸を小船に乗せ海神(わたつみのかみ)の宮殿に行かせました。
そこで海神の娘豊玉毘売と出会い結ばれました。
幸せな3年間の生活が過ぎたころ、山幸彦はふと釣り針のことを思い出し、
海神の助けを得て鯛の喉から釣り針を見つけ出し、
ワニの背に乗って地上に帰りました。そして海神に授けられた
潮を操る霊力を持つ塩満(しおみつ)珠と塩乾(しおふる)珠の
呪力によって兄を屈服させました。

異界に出かけてその世界の神の娘を妻とし、異界の呪物を
手に入れて地上に戻り、兄を服属させるという展開は、九州南部に
勢力を張り長く王権に従わなかった隼人(はやと)を海幸彦とし、
それをヤマト朝廷側の山幸彦(=ホホデミノミコト)が屈服させる。
すなわちヤマト朝廷が隼人族を支配することの起源神話となっています。

『古事記』の神話はここで終わり、ホホデミノミコト(山幸彦)の孫、
初代天皇の神武天皇が即位し、物語は神々の時代から
人の時代へと移り、天皇家の歴史物語が始まります。

大海神社は広い境内の北隅、住吉大社の反(そり)橋を渡り、
本殿に向かって左手、末社種貸社のすぐ近くにあります。



種貸社は種を授かり豊穣を祈る信仰でしたが、
時代とともに
商売の元手や子宝祈願の信仰に発展し、
全国各地より多くの参詣者が訪れています。



大海神社社前の井戸は「玉の井」と呼ばれ、 山幸彦が海神(わたつみの神)より
授かった 潮満(しおみつ)玉を沈めたところと伝えられています。


西門

大海神社本殿
本殿その背後の渡殿・幣殿と参道入口の西門は、重要文化財に指定されています。

『玉葉』承安4年(1174)12月6日条によれば、大海神社神殿は
天仁・長承・仁平・承安とおよそ20年ごとに改築が行われたことが記されています。
本殿の神額、住吉鳥居の向こうに扉絵
扉絵は金箔張りで松と住之江
を千石船が走る様子が描かれています。

古来、住吉の神は海の神、和歌の神として広く朝野の信仰を集め、
「住吉の松」は歌枕として都人の憧れの対象となり、
京の貴族がしばしば参詣し和歌を献じています。
住吉社は物語の中にも現れ、『源氏物語』澪標の巻では、
光源氏の住吉詣が華麗なタッチで描かれています。
中世には熊野詣の途上に多くの人々が訪れ、
住吉明神は謡曲『高砂』や『一寸法師』の中にも登場し、
『高砂』では、高砂の松と住吉の松とは相生の松、
離れていても夫婦であるとしています。

『参考資料』
「新修大阪市史(第1巻・第4章・河内政権と難波)」大阪市、昭和63年
「大阪府地名」平凡社、2001年
「歴史と旅(古事記神話の風景)」2001年8月号、秋田書店
佐藤高「古事記を歩く」光文社、2000年 
「古事記と日本書紀」青春出版社、2005年 
「古代の三都を歩く難波京の風景」文栄堂、1995年
新潮日本古典集成「謡曲集(中)」新潮社、昭和61年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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林原美術館企画展「源氏物語と平家物語」より転載。
源平合戦が激化するにつれて、都に悲報が次々に届きました。
維盛が熊野で入水したと聞き、建礼門院徳子の女房右京大夫は
言いようもなく悲しく思い、彼の見事な舞姿を回想し
『建礼門院右京大夫集』に記し留めています。
この家集の215と216番の長文の詞書によれば、
安元 2 年(1176)3月4日から6日にかけて、後白河院の
五十歳を祝う(長寿の祝)宴が法住寺殿で催されました。
賀宴の最終日、18歳の維盛が青海波(せいがいは)を舞う姿に
『源氏物語』の紅葉賀(もみじのが)を思い浮かべた人々は、
その姿を称賛しあまりの美しさに光源氏の再来ともいいました。

その頃の平家は栄華を誇り、居並ぶ平家の公達の華やかで
優雅なさまや大がかりな垣代(かいしろ)が
維盛の舞をさらに盛りあげました。
垣代とは、青海波の舞の時、舞人と同じ装束で笛を吹き拍子をとりながら、
垣のように舞人を囲んで庭上に立ち並ぶ40人の楽人のことで、
院政期にはとくに選ばれた公卿の子弟が担当しました。

維盛の晴れ姿は当時の語り草であったようで、
『平家物語・巻10・熊野参詣』に
那智籠りの僧の述懐が記されています。
「屋島の陣をひそかに抜け出し3人の従者とともに高野山に赴き
出家した維盛は、かつて小松家に仕えていた滝口入道(斎藤時頼)に
導かれ、父重盛が崇拝していた熊野に参詣しました。
那智籠りの僧の中に維盛を見知っている者がいて、
後白河院の五十の賀で桜の花を頭に挿し青海波を舞われた時は、
露に濡れてあでやかさを添える花のようなお姿、
風にひるがえる舞の袖、地を照らし、天も輝くばかりで、内裏の女房達に
深山木の中の桜梅(やまもも=楊梅)のようなお方などと
いわれたお方でした。と仲間の僧に語り、
そのやつれ果てた姿に袖を濡らしました。」
維盛は青海波を舞って以来、桜梅の少将とよばれたという。

維盛が右少将成宗(藤原成親の次男)と青海波を舞い、
人々に称賛されたことは藤原隆房の『安元御賀記』にも見え、
九条兼実はその日記『玉葉』に
「相替り出で舞ふ ともにもって優美なり
なかんずく維盛は
容顔美麗、尤も歎美するに足る」と
維盛の舞に深く感動したことを記しています。 

平安時代中期に紫式部によって著された『源氏物語』は、
その後の日本文学に絶大な影響を与え、
この物語に影響を受けた文学作品が次々と生み出されました。
鎌倉時代末期に成立した『平家物語』もその影響を受けた作品です。

『源氏物語』紅葉賀の巻に光源氏が青海波(舞楽の曲名)を舞って
人々が感激の涙を流し、絶賛したという記述があります。
藤壷が光源氏との不義の結果妊娠したことを知らぬ桐壺帝は、
藤壷の懐妊を大層喜び、藤壺が朱雀院の50歳の式典に
参加できないのを残念がり、試楽(リハーサル)を催し、
光源氏は頭(とうの)中将とともに青海波を舞いました。

青海波の舞(伝土佐光則筆『源氏物語色紙貼付(はりつけ)屏風』部分)
世界の文学『源氏物語』より転載。

左端の挿頭(かざし)に菊を挿すのが光源氏で、紅葉の挿頭が頭中将。
青海波は二人舞で、寄せては返す波のさまを、袖の振りで表現する舞で、
舞楽の中で最も優美な装束をつけて舞います。
螺鈿(らでん)の細太刀を帯び、袍(ほう=上着)には千鳥の模様をつけ、
下襲(したがさね=袍の下に着用する衣服)には青海の波の模様をつけます。

12C末の平家の時代になると、『源氏物語』に描かれたいくつかの箇所を、
歴史的事実であると認識し、過去の出来事のように思い起こす場面があります。
維盛の青海波の舞を見た人々は、その光景を以前にも
みたことがあるような錯覚に襲われました。
右京大夫の父世尊寺(藤原)伊行(これゆき)は
『源氏物語』の注釈書『源氏釈(げんじしゃく)』の著者です。
源氏物語の研究者であり『河内本源氏物語』を記した
源光行の娘(建礼門院美濃)も建礼門院に仕えていました。
このようなな環境から中宮
徳子も物語を愛好したと思われ、
その傍には『源氏物語絵巻20巻』があったと伝えられています。
平家の人々にとって『源氏物語』は親しいものでした。

『平家物語』(巻5・月見)によると、
摂津国福原への遷都が強行されましたが、旧都の月を恋う
徳大寺実定(さねさだ)は、福原を離れ妹(姉とも)の
大宮多子(近衛・二条二代の后)の近衛河原の大宮御所を訪れました。
実定は大宮やその侍女の待宵小侍従と一晩中語り明かし
旧都の荒廃ぶりに涙するのでした。
この兄妹の再会は、
『源氏物語』橋姫で語られる男女の出会いを背景にして描かれ
源氏物語の世界、王朝物語的な雰囲気にあふれています。

那智の沖に舟を漕ぎ出し、鐘を鳴らし念仏を勧める滝口入道、
妄念を翻し入水する維盛。
林原美術館蔵『平家物語(巻10)』「平家物語図典」より転載。

平維盛坐像 成覚寺蔵
那智沖で入水した維盛は、死なずに落合の里(三重県安芸郡芸濃町)で
生き永らえたという伝承があります。「源平合戦人物伝」より転載。
平維盛入水(浜の宮王子跡・振分石)  
巻五「月見の事」 (1)  
『参考資料』
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」新潮社、昭和54年
村井順「建礼門院右京大夫集評解」有精堂、昭和63年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
高橋昌明編「別冊太陽 平清盛(源氏物語と平家のひとびと)」平凡社、2011年
冨倉徳治郎「平家物語全注釈(中)(下1)」角川書店、昭和42年
世界の文学24名作への招待「源氏物語」朝日新聞社、1999年
別冊国文学「源氏物語を読むための基礎百科」学燈社、平成15年
「平家物語図典」小学館、2010年
「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

 

 

 



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平重盛の次男資盛(?~1185)の母は、歌人の藤原親盛(下総守)の娘、
二条天皇に仕えていた女官の二条院内侍です。
資盛(すけもり)は建礼門院右京大夫との恋愛で知られ、
少年時代に起こした摂政藤原基房との乱闘に始まる殿下乗合事件を
『平家物語』は平家悪行のはじめとしています。

藤原師長(妙音院)に琵琶・筝(そう)・朗詠などを学び、
筝の名手です。和歌も『新勅撰和歌集』『風雅和歌集』『玉葉集』に
その名を残し、自邸で歌合(うたあわせ)を催すなど当時の歌壇を支えました。
後白河院より『千載集』編纂の院宣が藤原俊成に下った際、
その院宣を俊成に伝えたのは資盛です。

平資盛画像(赤間神宮蔵)
資盛には豪胆な面もあり、治承4年(1180)12月、美濃源氏追討にあたって、
叔父平知盛とともに大将軍として出陣し、新羅三郎(源)義光の子孫、
近江源氏の山本義経を鎮圧するなど軍事面で手腕を発揮していました。
しかし三草山合戦では、7千騎を率いて三草山に陣を取りましたが、
源義経に敗れ、壇ノ浦合戦でもよいところを見せぬまま
弟の有盛とともに入水しました。

建礼門院右京大夫(1157?~?)は、『平家物語』に登場する人たちと
同じように源平動乱の時代を生きた女流歌人です。

「愛する人平資盛を壇ノ浦に失って後、何となく忘れがたいことや
ふと心に感じたことを思い出すまま、その時代を生きた命の証として、
自分一人の記念に書き残した」と彼女の家集『建礼門院右京大夫集』の
序文に記され、資盛への追憶や平家一門の人々との交流、
宮仕えした時の後宮の様子などがこの家集の主要内容となっています。

建礼門院徳子に仕えたことから建礼門院右京大夫(うきょうのだいぶ)と
よばれた彼女の
父は、能書家として三蹟の一人に数えられた
藤原行成の子孫・世尊寺伊行(せそんじこれゆき)です。
伊行も書道に優れ、書道の伝書『夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう)』を
著わし、
また、筝の達人でもありました。

母夕霧は大神(おおみわ)基政の娘で、比べる者なき
箏の名人と讃えられていました。
基政は天才の名をほしいままにした
石清水八幡宮の楽人でしたが、笛の家柄で代々雅楽寮に仕えていた
大神家の養子に迎えられ、宮中の楽人となり、
笛の伝書「竜鳴抄(りゅうめいしょう)」を書いています。
このような両親から、右京大夫は音楽・文芸の才能を受け継いだと思われます。

平家全盛時代の承安3年(1173)頃、右京大夫は16、7歳で
 
高倉天皇の中宮・建礼門院徳子(清盛の娘)に女房として仕えました。
宮仕えはわずか5年ほどの短いものでしたが、その間に
平資盛や歌人であり肖像画の名手でもある藤原隆信という
二人の男性と出会い恋におちいりました。

隆信は藤原定家の異父兄で、傑作と評判の高い後白河法皇像、
平重盛像、源頼朝像の作者と伝えられています。

年下の資盛との恋は身分も年齢にもひけ目があり、
それはひたすら忍ぶ恋でした。
そういう右京大夫に
盛んに言い寄る隆信という男性が現れます。
資盛への愛を貫こうとする右京大夫でしたが、はるか年上で
女性の扱いにも慣れている隆信に言葉巧みに誘われ、
次第に心惹かれるようになっていき、二人の恋の間で
苦悩の日々を過ごすこととなります。しかし芸術の才人で
しかもプレーボーイの評判高い隆信にとって年若い才女への恋は、
一時の気まぐれでだったのか、いったん靡いてしまうと
男はつれなくやがて去っていきました。

資盛が殿上人であったころ(1166~1183)、
父重盛のお供で住吉社に参拝し帰ってきた時のことです。
州浜の台の上にさまざまな貝と忘れ草を置き、それに縹色
(はなだいろ=薄い藍色)の薄紙に書いた文を結び付けて贈ってきました。


海に突き出た洲がある浜辺の形にかたどった州浜の台
(有職造花師大木素十 王朝の美・雅の世界よりお借りしました。)

黒く扁平な石を敷き並べた州浜が池に突き出して先端に灯籠を据え、
岬の灯台に見立てて海の景としています。(桂離宮州浜より転載)

住吉は初夏に咲くわすれ草(萱草の異名)の名所で、
わすれ草を摘むと、恋や憂いを忘れるといわれていました。
ここは秋なので、花でなく葉を置いたのです。
わすれ草の画像は「フリー素材お花の写真集」よりお借りしました。

 ♪浦みても かひしなければ 住の江に おふてふ草を たづねてぞみる(76)
(つれないあなたを恨んだところでどうなるものでもなし せめて忘れようと
住ノ江の岸に生えていると聞いたわすれ草をたずねたことです。)
『古今集』にある紀貫之の ♪道知らば 摘みにも行かむ 
住の江の 岸に生(お)ふてふ 恋忘れ草 (墨滅歌・1111)
(道がわかりさえすれば、摘みにだって行くものを。
     住江の岸に生えているという恋忘れ草を。)をふまえています。

秋のことだったので紅葉の薄紙に書いた右京大夫の返歌です。
紅葉の色目は、表は紅、裏は濃紅または表は紅、裏は青など、
色のちがう二枚の薄様を、かさ
ねのように用いました。

♪住の江の 草をば人の心にて われぞかひなき 身をうらみぬる(77)
(住の江に生えているわすれ草のように忘れるというはあなたの
お心ではありませんか。
私の方こそ、いただいた貝ではございませんが、
思ってもかいないわが身を恨めしく思っております。)


今は埋立てによって海岸線は西に大きく遠のきましたが、
当時、住吉大社は海に面していました。
青い海、白い砂浜と波の音、朱色の反橋(そりばし)の畔に立つ
平家の貴公子資盛、絵のような情景が目に浮かびます。
平資盛の訃報 寂光院建礼門院右京大夫の墓  
『参考資料』
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」新潮社、昭和54年
村井順「建礼門院右京大夫集評解」有精堂、昭和63年
日本古典文学大系「平安鎌倉私家集(建礼門院右京大夫集)」岩波書店、1979年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
冨倉徳治郎「平家物語全注釈(中)」角川書店、昭和42年
龍谷大学生涯学習講座「建礼門院右京大夫集
(右京大夫の出自と生涯、生きた時代)テキスト」平成12年5月13日
「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 
 宮内庁京都事務所監修「桂離宮」財団法人菊葉文化協会

 



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神崎川と左門殿(さもんど)川の分岐点南方に鎮座する田蓑(たみの)神社は、
江戸時代には佃の産土神で住吉明神・住吉神祠などと称されていましたが、
明治時代に現在の社名に変更されました。
この社と佃のある中洲は、かつて難波八十(やそ)島を構成していた
島のひとつで、
田蓑島とよばれ、平安時代、天皇の即位儀礼の
一環として行われていた
八十島祭の祭場と推定されています。

『神社と祭祀』の著者田中卓氏は、「住吉大神は海の神であり、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらえ)際に
生まれた神である。伊弉諾尊は伊弉冊尊(いざなみのみこと)と共に
国生みの神であることは明白である。
八十島祭は、その起源において国生みの故事を踏まえ
伊弉諾尊の禊祓に始まり、住吉大神と結びついた。この神事にあずかる
大依羅(おおよさみ)の神・海(わだつみ)の神などは、住吉大神に
属する神々であり、祭儀においては主に住吉社神主が執り行い、
その祭場である熊河尻は住吉神領の難波津の田蓑嶋である。

また大八洲(日本国)の神霊は、もともと宮中において
生島巫(いくしまのみかんなぎ)の奉斎する神であるから、
宮中で執り行えばいいので、それをわざわざ難波津へ出向いて
行うというのは、伊弉諾尊の禊祓いの故事により、住吉大神が
鎮座する地を選んだのだと思われる。」と述べておられます。

『古事記』や『日本書紀』には、「伊弉諾尊が妻の伊弉冊尊の
亡くなったあとを追って黄泉(よみ)の国へ行き死の穢れを受けたので、
穢れを清めようと現世に戻り、筑紫の日向(現、宮崎県)の
小戸(おど)の橘の檍原(あはきはら)で禊をした。
するとこの時身に着けていた杖や帯などから十二神が生まれた。
さらに海の中に入って洗い落とすと、海神の
綿津見(わたつみ)三神、住吉三神など十一の神々が生まれた。
次に左目を洗い清めた時に生まれたのが太陽の神である
天照大御神(あまてらすおおみかみ)、右目を洗うと夜を支配する
月読命(つきよみのみこと)、鼻を洗うと荒ぶる神の建速須佐之男命
(たけはやすさのおのみこと)が現われた。」と記されています。
清盛の財力奉仕で行われた二条天皇の八十島祭  
八十島祭(熊河尻)  

最寄り駅 阪神電車千船駅

田蓑神社では、古くより神輿が練り歩き、この付近にあった御旅所で
神輿洗の神事が行われていました。しかし
慶応元年(1865)の水害で
神具一式を流失してしまい、翌年より中止となりました。
それを偲んで「田蓑神社御旅所跡碑」が阪神電鉄千船駅に
隣接する
千船病院前の植込みの中に建立されています。

「此の地(佃三丁目十三番地附近)は、昔清き波に洗われる
難波八十島の一つであり、
氏神 田簔神社の渡御の
神事が伝えられる旧跡である。
渡御の神事とは、
  慶応元年まで永年田簔神社の重要神事として
 近辺住民の尊崇を集めてきたもので、
  神社本宮から此の地御旅所との間約八百米を、報知太鼓を
先導に
神官、巫女、氏子連に護られた神輿が練り
 この御旅所で御休息と神輿洗の神事を営み
 夕刻に還幸される儀式であった。この神事は
 慶応二年の水害により中止となり今日に至った。
  今此の地は清き水は変り町のあり様も移って
 昔を偲ぶ面影もないが 変らぬ情に篤い人々の平和と健康を願い
 新しい町の発展を言祝ぎここに碑を建立するものである。
  昭和六十一年四月吉日 建立 奉納 医療法人愛仁会千船病院」

田蓑神社(たみのじんじゃ)は、清和天皇の貞観11年(869)9月、
住吉三神を勧請したと社伝にあります。



古風を残す正面の鳥居は、桃山時代作とされています。







田蓑神社(たみのじんじゃ)
貞観十一年(西暦869年)九月十五日鎮座

御祭神(住吉の四柱) 表筒之男命(うわづつのおのみこと)
中筒之男命(なかづつのおのみこと)底筒之男命(そこづつのおのみこと)
 神功皇后(じんぐうこうごう)
例祭日 秋季例祭 十月十六日 十月十七日
 夏季例祭 七月三十一日 八月一日

住吉大神は昔、日向の橘の小門の憶原というところに、
お出ましになりました大神で、伊邪那岐大神のお子様の
表筒之男命・底筒之男命・中筒之男命の三柱でございます。
伊勢神宮の天照皇大神の御兄弟神に当れる神様です。
三韓征討の時に 神功皇后みずから、住吉三神を守り神と奉り、
遂に三韓の王等を降伏、国におもどりに成る途中、
この田蓑嶋に立ち寄られ勝ち戦を祝われ三神を奉られました。
時の御船の鬼板を神宝として今も奉祀する。後に神功皇后も加わり
四柱となり、これを住吉四柱の大神という。(説明板より)


「紀貫之歌碑
土佐日記などで著名な平安時代前期の歌人で、
この歌は『古今和歌集』に収録され、旅の途中

田蓑嶋(現在の佃)に立ちよられ歌を詠まれました。
♪雨により 田蓑の嶋を けふゆけば
     なにわかくれぬ ものにぞありける(説明板より)」
 (雨にふられ今日田蓑の島に行ったのだが、
蓑というのは名だけで雨を防いではくれなかったよ)

昔、佃周辺の岸辺には、芦が群生していたことから、
謡曲『芦刈』の舞台として、
謡曲芦刈ゆかりの地の碑が建立されています。

謡曲「芦刈」と田蓑神社
昔、難波に仲の良い夫婦がいました。生活苦のため
相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。
夫は芦を売り妻は都へ奉公に出てやがて妻は優雅に暮らす
身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちにはからずも
路上で巡り会いますが、夫はみすぼらしい身を恥じて隠れます。
妻は夫婦の縁は貧富などによって遮られるものではないという
意味の和歌を詠み交わすうちに心も通い合い、目出度く元通り
夫婦仲良く末永く暮らしたいという「大和物語」の話より作られた
謡曲が『芦刈』です。
その昔、淀川支流の佃周辺は川岸に沿って
芦が群生していた所で、謡曲『芦刈』の舞台とした面影はないが
田蓑神社はその史跡として今に伝えられています。
謡曲史跡保存会(説明板より)

佃漁民ゆかりの地(説明板より)
 天正十四年、徳川家康公が大阪住吉大社、摂津多田神社に参詣の折、
神崎川の渡船を勤めた縁より、後に漁業権の特権を与えられ、
献魚の役目を命じられ、佃の人等三十三名と
田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次が移住した。
当初住居が与えられた安藤対馬守、石川大隅守の邸内に
住吉四神の分神霊を奉祭した。後に寛永年間に幕府より
鉄炮洲(てっぽうず)の地をいただき埋め立て造成し、天保元年、
故郷の佃村にちなみ「佃島」と命名し移住(現、東京都中央区佃島)
また、正保三年六月二十九日住吉大神の社地を定め、住吉四柱の大神と
徳川家康公の御霊を奉られた。(現、東京佃島の住吉神社)
昭和四十年、佃小学校と東京の佃島小学校とが姉妹校となり、
以降毎年交互に訪問、交歓会を開催される。
平成十八年
「佃漁民ゆかりの地」碑が、『未来に残したい
漁業漁村の歴史文化財産百選』に大阪府で只一つ認定される。
『アクセス』
「田蓑神社」大阪府大阪市西淀川区西淀川区佃1丁目18−14
阪神本線「千船」駅下車徒歩約15分
『参考資料』
田中卓「神社と祭祀 (八十島祭の祭場と祭神)」国書刊行会、平成6年
「歴史と旅」2001年8月号(『古事記』神話の風景)秋田書店
「大阪府の地名」平凡社、1988年

 



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平安時代、天皇即位の後、大嘗会翌年に吉日を選び、
難波の津で国家の繁栄を祈った八十(やそ)島祭が行われました。
当初、その祭場となった熊河尻(くまかわしり)は、
『栄華物語』長元4年9月25日の上東門院石清水住吉御参詣の条や
藤原頼通の『宇治関白高野山御参詣記』永承3年(1048)10月の条によって、
淀川の下流、江口を過ぎ、長柄橋(ながらばし)を過ぎた
河尻の辺りと推定されています。

古代、大阪湾に淀川、旧大和川などが運んできた土砂が河口に
堆積して洲をつくり、次第に幾つもの島となり難波八十島が生まれました。
八十島は淀川河口に浮かぶ沢山の島々をいい、現在、西淀川区に
佃島・出来島・姫島・御幣(みて)島・歌島・柴(くに)島・中島・
百島(ひゃくしま)・西島などといった島のつく地名が多いのはその名残です。

ところで八十島祭の行われた熊河尻は、大阪湾に注ぐ淀川の
川尻一帯を指しているとされていますが、鎌倉時代の後堀川天皇の
元仁元年(1224)12月を最後にこの神事は断絶し、
再興されなかったため、確かな場所は定かではありません。

生国魂(いくくにたま)神社(天王寺区生玉町)は、かつて
玉造にありましたが、秀吉が大阪城築城の際現在地に移しました。
生島神・足島(たるしま)神を主神とし神武天皇の頃、
国の鎮魂八柱神と一緒に島を護る神を祀っているので
熊河尻はここではないかと推察されています。


『摂津名所図会大成』には、八十島祭の祭場は
御幣嶋村(現、御幣島)と思われるとし、産土神に住吉大神を祀っている。
また近所の佃島にも住吉大神が祀られていることから、
この一帯が八十島の神の祭場だったのだろう。と記されています。
ちなみに佃の地は古くは田蓑(たみの)島とよんでいました


平安時代後期の有職故実書大江匡房(おおえのまさふさ)の
『江家次第(ごうけしだい)』にも、
八十島祭は難波の津で、宮中の神事をつかさどった職員である
宮主(みやじ)が壇を築き、幣帛(へいはく)を揃え、
住吉の神や大依羅(おおよさみ)の神、海(わだつみ)の神等を勧請し、
祓いをしたのち祭物を海に投げ込むとあり、八十島祭に用いる
幣(ぬさ)の名をとどめた御幣島(みてじま)辺りであろうとしています。

また熊河を現在の木津川(大阪市内を流れる淀川分流の一つ)
別名とみて、その下流にある田蓑島付近とみる説もあります。


田中卓氏は、「各説とも住吉大社と密接な関係をもつ地である。
御幣島(幣帛浜)には、住吉の姫神が祀られもともと住吉社の
神領であったらしいこと。
次の生国魂神社の旧社地であったという玉造説は、
古くより生国魂神社は住吉神社の末社であり、
室町時代の末になっても同様であった。

また『住吉大神宮年中行事』に見える記事から、昔、
難波津の島々はすべて住吉の神領であるか、
住吉の統治下にある
地域であった。」と述べておられます。(『神社と祭祀』) 

八十島祭が田蓑嶋で行われたと思われる和歌が
『新後撰和歌集』 に載せられています。

後鳥羽院御時八十島祭によみ侍ける津守経国 
 ♪天の下のどけかるべし 難波潟 田蓑(たみの)の島に 御祓しつれば
(これからは国家安泰に違いないぞ。
難波潟にある田蓑の島でみそぎをしたのだから)

詞書にある「後鳥羽院御時」というのは、建久2年(1191)11月の
八十島祭と思われますが、津守経国は『津守氏古系図』によると
文治元年(1185)出生、建久2年当時にはわずか7歳です。
神主となったのは承久2年(1220)のことですから、
「後鳥羽院御時」というのは、後鳥羽天皇のことか上皇としての
御代のことか明らかではありませんが、いずれにしても
八十島祭にしたがった津守経国が「田蓑の嶋にみそぎしつれば」と
詠んでいるので祭場は田蓑の嶋、御幣島の南、
田蓑神社付近と見るのが妥当だと思われます。

長暦元年(1037)以後、八十島祭の祭場は熊河尻から
住吉代家浜に移っていますから、
この時はたまたま
熊河尻で行われたようですが、それ以外はおおむね
住吉社(現、住吉大社)近くの浜が祭場だったと考えられています。
田蓑神社(八十島祭の祭場)  清盛の財力奉仕で行われた二条天皇の八十島祭   
『参考資料』
田中卓「神社と祭祀 (八十島祭の祭場と祭神)」国書刊行会、平成6年
三善貞司編「大阪史蹟辞典(八十島祭)」清文堂、昭和61年
奥田尚・加地宏江他「関西の文化と歴史(動乱期の津守氏)」松籟社、1987年
大阪市西淀川区HP(地名の由来)大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年

 



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住吉大社前に広がる住吉(すみのえ)の津は、古くから外交や
交易の港として栄えましたが、江戸時代の半ばより
大和川の付替えなどがあり、大量の土砂が流入して堆積し、
その後、埋立開発が急速に進み、海岸線は西に遠ざかってしまいました。

住吉公園は住吉大社の旧境内で、公園を東西に走る
「潮掛け道」は大社の表参道でした。

住吉公園

汐掛道東から

鎌倉時代の元寇の時は、西大寺の叡尊が再三当大社に参詣して
異敵降伏の祈祷を行い、また
住吉公園の前に広がっていた
住吉の浜では、住吉大社による住吉大明神への
大規模な「蒙古調伏の祈祷」が修せられました。



汐掛道の記
ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所で、
社前から松原が続き、
すぐに出見(いでみ)の浜に出る名勝の地であった。
 松原を東西に貫く道は大社の参道で、浜で浄めた神輿が通るため、
「汐掛道」と称され、沿道の燈籠は代々住友家当主の寄進になり、
遠近の参詣や行楽の人々で賑わった。
 古くから白砂青松の
歌枕の地として知られ、近世には多くの文人・俳人がここを往来し、
大阪文芸の拠点の一つとなっていた。 財団法人 住吉名勝保存会

汐掛道西から

江戸時代には、徳川将軍家はじめ各大名の尊崇も篤く、西国諸大名は
参勤交代ごとに住吉大社で参拝するのが慣例となっていました。
また文人墨客の参詣も多く、芭蕉は当社の「宝の市」に詣でて
この祭の名物である「升」を購入し、
♪升買うて 分別かはる 月見かな と詠んでいます。





元禄7年(1694)9月、芭蕉は大坂で派閥争いをしていた門人、
酒堂(しゅどう)と之堂(しどう)の仲を仲裁するために
故郷の伊賀上野から奈良を経て大阪に入り、同月13日、住吉近くの
長谷川畦止(けいし)亭で月見の句会を予定していました。
その日は住吉大社で宝の市(升の市)が立って賑わう日でしたから、
この市に出かけ名物の升を買っています。去る9日来阪以来
何となく気分のすぐれなかった芭蕉は、その夜急に悪寒を覚え、
句会をすっぽかして早々に帰ってしまいました。
翌日にはすっかり快復して、芭蕉の不参加で延期されていた
会に出かけて詠んだ挨拶の発句です。
参加者一同が不参加の理由(気が変わったのではない)を
知っていることを承知の上で正面切って謝らず、
それを風流に詠んだのがこの句であると云われています。
芭蕉はその後間もなく病に伏し、大阪市内南御堂付近で亡くなったのでした。

 毎年10月17日に行われる宝之市神事(たからのいちしんじ)は
御神田で育った稲穂を刈り取り、五穀と共に神様にお供えする行事です。
昔は9月13日に行われ、黄金の桝(ます)を作り新穀を奉り、
農家で使用する升を売っていたので升の市ともよばれ、
相撲十番の神事が盛大に行われたので相撲会(すもうえ)ともいいました。
松尾芭蕉終焉の地(南御堂) 



古くは住吉津の河口部の入江に細井(細江)川が注ぎ、
入江は住吉(すみのえ)の細江とよばれ、住吉社の高燈籠が立ち、
風光明媚な海岸として知られていました。入江付近の浜を
出見(いでみ)の浜といい、『万葉集』にも詠まれています。
今、昔の名残を感じさせるものはありませんが、住吉大社参道と
国道が交差する角に立つ高灯籠がわずかに往時の港を偲ばせます。

国道26号に面して立つ住吉高燈籠は、住吉大社の灯篭で、
鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされています。
現在の高灯篭は1974年に場所を移して復元されたものであり、
元は現在の位置より200mほど西側にありました。
その後埋め立てが進み高燈篭も海から遠ざかり、昭和49年に
現在地に石垣積みを移してコンクリート造で再建されました。

内部は資料館になっています。 開館時間 第1・3日曜日 10:00~16:00

高燈籠復元の記
昔このあたりが美しい白砂青松の海浜であったころ 海上守護の神
 住吉の御社にいつの頃にか献燈のため建てられた高燈篭は
 数ある燈篭の中で最高最大のものであり その光は海路を遥かに照らし
 船人の目当てとなって燈台の役割を果たし 長峡の浦の景観を添えていた
寛永年年間の摂津名所図会に「高燈篭出見の浜にあり 
夜行の船の極とす 闇夜に方向失ふ時
◆中略◆
この燈篭の灯殊に煌々と光鮮也とぞ」と見えるが 
往時の面影が偲ばれる 旧高燈篭はここより二百メートル西にあって
 明治の末年迄度々大修理が行われた
戦後台風のため
木造の上部は解体され 更に昭和四十七年道路拡張のため
 基壇石積も全部撤去されたが住吉の名勝として永く府民に親しまれた
この文化遺産を後世に伝えるため 住吉名勝保存会を結成し
 その復元再建を計り 財団法人日本船舶振興会 
その他地元会社有志の寄附を仰ぎ 大阪府 市の援助を得て
 このゆかり深き住吉公園の地に建設されたのである
昭和四十九年十月吉日  財団法人 住吉名勝保存会



 高燈篭より二百メートルほど西の民家前(
住之江区浜口西1)に
「住吉高灯籠跡」の碑が立っています。



「住吉高灯籠跡」碑のすぐ近くに「従是北四十五間」の碑があります。
側面には「剣先船濱口村 立葭場請所」
「天保三年辰十一月」と彫られています。
濱口村の名の由来はかつて海浜に近かったことによるといわれています。

剣先船は、江戸時代の大阪の川船のひとつで、荷物運搬船として活躍した。
宝暦二年(1752年)の調べでは、三百隻ほど運航していたと伝えられている。
住之江でも大和川や十三間川の開削と同時に運航がはじめられた。
船首が刀のようにとがっていたことから剣先船と呼ばれたという。
剣先船の説明は、大阪市HPより転載しました。)
大阪市住之江区浜口西1-7
市バス「住吉公園」下車西約300m・南海本線「住吉大社」下車西600m


住友灯籠は江戸時代から昭和初期にかけて、
住友家の歴代当主によって奉献された灯籠です。
この灯籠は海辺に続く道「汐掛の道」に建てられ、海上安全と
家業の繁栄を願って寄進されたといわれています。

住友燈籠の記
古くからこの地を長狭(ながさ)と称し、海辺へ続くこの道は
汐掛道と呼ばれていた
 ここに並ぶ十四基の燈籠を始め、
公園内の住友家の燈籠は、江戸時代から昭和初年にかけ、
 住吉大社正面参道である汐掛道に添って
代々奉献されてきたものである。
 江戸時代の
大阪は日本における銅精錬・銅貿易の中心地であり、
その中核をなしたのが住友家であった。
 銅は主に伊予(愛媛県)の別子銅山から海路運ばれ、
大阪で精錬され、日本の経済を支えていた。
この燈籠も海上安全と家業の繁栄を願って寄進されたが、
長い年月を経て、一部は移築され、また周辺の
道路事情も変わったため、地元住民の意向を受け、
新たな考証に基づきここに年代順に移転再配置した
天下の台所「大坂」を偲ぶ貴重な歴史遺産として、
今後とも長く守り伝えて行かなければならない。
  平成六年六月  財団法人 住吉名勝保存会

『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年
「平成22年 住吉暦」住吉大社、平成21年
大谷篤蔵「芭蕉晩年の孤愁」角川学芸出版、平成21年
『アクセス』
「住吉高燈籠」 大阪府大阪市住之江区浜口西1丁目1
南海本線「住吉大社駅」下車徒歩約4分
住友燈籠」 大阪府大阪市住之江区浜口西1丁目1
南海本線「住吉大社駅」下車すぐ



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比企局(出家後は比企尼、生没年・出自不詳)は、武蔵国比企郡の郡司であった
比企掃部允(かもんじょう)遠宗(とおむね)の妻です。
比企氏は藤原秀郷の末裔と称し、相模国(現、神奈川県秦野市)に居住していましたが、
康和年間(1099~1104)に一族の波多野遠光が郡司として比企郡に移り住み、
比企氏を名のったとしていますが、正確な系図が残ってなく、
遠宗の父祖については明らかではありません。

源義朝が鎌倉にあって関東の勢力拡張に努め、次第に権勢を高めていった頃、
遠宗はその家人となり、義朝が関東を長子、悪源太義平に任せ
都で活躍しはじめると、義朝に従って都に上ります。
早い時期から遠宗が都に住み、そこで掃部允に任じられていることから、
比企局の実家が京都の下級官人であったとも考えられます。

ちなみに頼山陽『日本外史』の現代語訳(巻之二 頼朝、死を免る)には、
「中宮属(さかん)三善康信は、その故人なり」とあり、その
下の注釈欄には、
中宮属は皇后づきの役所の属、康信は比企の禅尼の妹の子と書かれています。
三善康信は月に三度は京都の情勢を頼朝の配所に文を書き送っていた
朝廷に仕える下級官人です。

久安3年(1147)に頼朝が生まれると、
比企局は選ばれて乳母の一人となります。
平治の乱で義朝は清盛に惨敗し、頼朝は敗走のさなか青墓で捕われ、
14歳で伊豆へ配流の身となりました。この時、比企局は夫と共に京を離れ
本拠地に戻り、頼朝が平家打倒の兵を挙げるまで物心両面でこれを援助しました。
平家を憚り顧みる者が少なかった時期、ましてや
頼朝が世に出ることなど考えられもしなかった平家全盛時代、
比企局は不遇時代の頼朝を支えた最大の功労者でした。
北条政子の父時政でさえ娘と頼朝の結婚を事後承諾するまでは、
頼朝とは距離を置いていました。

これについて『吾妻鏡』には、「頼朝が伊豆に流された時、
武蔵国比企郡を請所として、夫掃部允に連れ添って下向し、治承四年の
秋に至るまで二十年の間、何かと頼朝のお世話を申し上げた。」と
記されています。(寿永元年(1182)10月17日条)

この記事から平家は敵方であり、しかも頼朝の乳父(めのと)であった
遠宗に対して、比企郡を請所として与えたことになります。
「比企郡を請所として」の意味ですが、中世において請所というのは、荘園・公領の
現地支配を任されるかわりに一定額の年貢の納入を請け負うことをいいます。
その間に夫の掃部允が病死し、比企局は髪をおろし比企尼とよばれ、
おいの比企能員(よしかず)を猶子(養子にほぼ同じ)とし、
比企氏の家督を継がせています。

このような縁で、寿永元年(1182)8月に北条政子が頼家を生むと、
能員はその乳父(めのと)
に任じられ、比企尼の二女(河越重頼の妻)は
乳母となり、その産所は鎌倉比企ヶ谷(ひきがやつ)の尼の邸でした。
その後、頼家が成長すると平賀義信とその妻(比企尼の三女)を
乳母夫婦としてその側におきます。

比企尼に推挙され有力御家人の列に加わった能員は、
合戦で多くの功績を挙げ、幕府創立期の中心的存在となります。
娘の若狭局が頼家(二代将軍)の側室となって一幡(いちまん)と
竹御所を生むと、自らは外戚として権勢を振るい、北条氏を凌ぐようになります。
その繁栄の原点は、養母比企尼の引き立てにあったのです。しかし、頼朝の死後、
しだいに北条氏との対立が激化し、北条氏の謀略で比企一族は滅亡しましたが、
同族の比企朝宗(ともむね)の娘姫の前が北条義時の妻となっていたため、
その尽力などで一族に生き残った者がいたのです。

比企尼は男子には恵まれませんでしたが、娘が三人おり長女は丹後内侍と称し、
二条天皇に女房として仕え、優れた歌人であったという。
惟宗広言(これむねのひろこと)に嫁ぎ島津氏の祖・島津忠久を生み、
その後、離縁し関東へ下って安達盛長に再嫁したとしています。
盛長は頼朝の流人時代からの側近であり、妻の縁で頼朝に仕えたと見られ、
娘の一人が頼朝の異母弟・源範頼に嫁いでいます。

『吾妻鏡』によると、文治2年(1186)6月10日、丹後内侍が
甘縄の家(現、鎌倉市長谷付近)で病気になったので、頼朝は供の小山朝光・
千葉(東)胤頼2人だけを伴い、盛長の屋敷を密かに訪れて見舞っています。
頼朝は彼女のために願掛けをし、同月14日には丹後内侍の病気が
治ったというので、少し安心したという。
頼朝が密かに病気見舞いに訪れたり、願掛けをしたりと、両者の親密な関係が
うかがわれますが、大恩ある尼の娘であれば当然のことだったのでしょう。

この長女は流人時代の頼朝に仕えるなど、頼朝に近い女性であったことから、
島津家に伝わる史料では、祖の島津忠久を彼女と頼朝の子であるとする
頼朝落胤説がありますが、『吾妻鏡』をはじめとする
当時の史料に丹後内侍が頼朝の子を生んだとする記録はなく、
島津家が有力大名になるとともに関係づけられた伝説のようです。

二女は武蔵国の豪族河越重頼の妻となり、その娘は頼朝の計らいで
源義経の室に迎えられています。三女は伊豆国の豪族
伊東祐清に嫁ぎましたが、祐清が戦死したため、のち平賀義信と再婚します。
祐清(すけきよ)は妻の母が頼朝の乳母であった関係から
頼朝との縁が深く、親しい間柄であったようです。

父伊東祐親(すけちか)は、娘の八重姫が頼朝の子を生んだことに腹を立て、
頼朝殺害を図った時、祐清はいち早くこれを知らせ、頼朝の窮地を救っています。
頼朝は挙兵後、祐清を家人にしようとしましたが、
祐清は頼朝に敵対した父の立場をはばかり、平家方に参じる
道を選ぶことになりました。
その後、寿永2年(1183)5月、
平家軍に加わった祐清は北陸道の合戦で討ち死にしたと伝えられています。
平賀義信は源氏の一族で平治の乱に源義朝に従って出陣し、
敗戦後、義朝の東国敗走に尾張国野間まで付き従った人物です。

ところで、比企掃部允と比企尼が平治の乱後に戻った館はどこにあったのでしょうか。

①   比企遠宗のご子孫斎藤喜久江氏は、三門(みかど)館は埼玉県比企郡滑川町
和泉三門にあります。比企遠宗は源義朝の命で比企郡和泉の三門に館を建てました。
その館を三門館と呼ぶようになったのは、三門という小字にあるからです。
この地から比企の尼は伊豆の頼朝の元へ米を送り続けましたと述べられ、
『比企年鑑』(比企文化社発行 昭和27年編纂)の記事から抜粋し、
「比企遠宗館址(和泉)字三門にあり、平坦低窪の地で前後は梢々高く、
馬場、陣屋跡及び門柱石、池の痕跡等がある。廓外の柳町、八反町、
六反町等の地名も当時の名残である。」
この描写はご自身の生家周辺の景色と一致するとされています。

その後、比企氏は徳川幕府の政策で家取り潰しにあい、改名を余儀なくされ、
氏を斎藤と変え、また菩提寺の天台宗の寺だった泉福寺は
江戸時代に一度、廃寺にされました。

家に伝わっていた系図と古文書類は昭和6年の火災で焼失し、
菩提寺にあった過去帳も寺の火災で焼失してしまい、家の伝承以外、
残っている記録は殆んどないが、斎藤家では、先祖は比企遠宗であると
代々言い伝えられ、先祖が残してくれた土地や家を守り、
その後八百年もの間住み続けてきたと仰っています。(『比企遠宗の館跡』)

②   『吾妻鏡』には、毛呂季綱は伊豆の流人であった頃の頼朝を助け、
その賞として建久4年(1193)2月10日に武蔵国泉・勝田を賜った。と
書かれていることから、鎌倉時代初期には、現在の比企郡滑川町和泉付近・
比企郡嵐山町勝田付近は毛呂季綱の所領であったと考えられます。

毎月一度、頼朝のもとに比企遠宗から食料が送られてきましたが、
米の到着が遅れた時、その調達を方々で断られる中で、
武蔵国毛呂郷(現、埼玉県毛呂山町)の領主毛呂季綱だけは、
米を分け与えました。頼朝はこの時の恩を忘れなかったのです。

『埼玉県の地名』には、比企郡滑川町和泉字三門には、
三門(みかど)館があるが詳細は不明としています。

斎藤家の菩提寺泉福寺は後に真言宗から派遣された
僧によって再建されました。(『比企遠宗の館跡』)
町の北西端、滑川東岸沿いの田園地帯を前にした高台にある
八幡山泉福寺は、真言宗の寺で、開基の年代や沿革は明らかではないが、
収蔵庫に安置する本尊木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)は、
平安時代末期の作といわれ、定朝様の特色をよく伝えている。(『郷土資料事典』)

 ③   安田元久氏は、鎌倉時代前期までの比企郡はかなり狭い地域で、
現在の比企郡川島町と東松山市の区域だったとし、比企掃部允や比企尼が帰住したと
伝えられる中山郷については、現在も川島町西部の越辺川の左岸地区に中山の
地名が残るので、その地域であったと推定されると述べておられます。(『武蔵の武士団』)


成迫政則氏は、「比企氏系図」「慈光寺実録」によると、比企尼は頼朝が伊豆に流された時、
遠宗とともに関東へ下向し、比企郡(比企郡川島町中山)に住みながら、
娘婿安達藤九郎盛長、河越重頼、伊東祐清を遣わし、二十有余年頼朝に
兵糧を送るなどの援助をしたと記され、(『武蔵武士(下)』)
比企夫妻の館は、同じく川島町中山という見解を述べておられます。

慈光寺は建久4年(1193)、範頼が頼朝に謀反の疑いをかけられ殺害された時、
比企尼は範頼の遺児2人(尼の曾孫)の命乞いをし、2人を出家させ入れた寺です。
なお、川島町大字中山にある金剛寺は、比企能員(よしかず)から
十数代を経て、当地一帯に館を構えた比企一族の菩提寺です。

以上、比企宗遠館跡について書かれた資料から列記しました。
 今後の研究のさらなる進展が待たれます。
比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡・比企能員一族の墓  
金剛寺(比企氏一族の菩提寺)  宗悟寺(比企尼・若狭局伝承地)  
比企尼の娘、丹後局が生んだという島津忠久誕生石が住吉大社にあります。
住吉大社(万葉歌碑 島津忠久誕生石)  
『アクセス』
「三門館跡」東武東上線「森林公園」下車 徒歩約1時間
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年 
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年

斎藤喜久江・斎藤和江「比企遠宗の館跡」まつやま書房、2010年
 田端泰子「歴史文化ライブラリー 乳母の力」吉川弘文館、2005年
 福島正義「武蔵武士」さきたま出版会、平成15年
頼成一・頼惟勤訳「日本外史(上)」岩波書店、1990年
奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年
「埼玉県の地名」平凡社、1993年
 「埼玉県大百科事典」埼玉新聞社、昭和56年 
「郷土資料事典11 埼玉県」ゼンリン、1997年
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館、2008年

 



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頼朝の乳母は、4人まで明らかとなっています。
摩々尼(ままのあま)、寒川尼(さむかわのあま)、比企尼(ひきのあま)
そして山内尼(やまうちのあま)です。
摩々尼は頼朝の父義朝の乳母摩々局の娘と推定されています。(『乳母の力』)
いずれも東国にゆかりの深い女性です。

三善(みよし)康信のおばも乳母であったと思われます。その縁故から
康信は、朝廷の下級官人でしたが、 早くから伊豆の流人頼朝に連絡を取り、
月に三度も京都の情勢を送り続けました。
三善氏は都の
下級貴族出身ですから、乳母の中では唯一貴族の娘ということになります。
しかしこの乳母についてこれ以上伝える史料がなく、
あるいは4人の乳母の誰かと同一人物だとも考えられています。

義朝は京都の地で、朝廷に仕えるために必要な貴族的教養を頼朝に
身につけさせようとする一方、武家の棟梁として東国を支配していくために
必要な教養を東国武士出身の女性から学ばせようとしたと思われます。

母親の代わりに貴人の子を養育する女性を乳母といい、
武家の場合、譜代の郎等の同一の家系から出される場合が多く、
女性だけではなく夫婦で養育にあたる例が多く見られます。
乳母の夫は乳父(めのと)、乳母の子は乳母子(めのとご)、
乳兄弟(ちきょうだい)などと呼ばれ、強い絆で結ばれる事が多く、
主従関係としても互いに信頼し合える相手でした。

山内氏は相模国鎌倉郡山内荘を領したとされ、祖先の藤原資清(すけきよ)が
主馬首(しゅめのかみ)であったことから首藤氏と称しました。
山内は現在の鎌倉市と横浜市に跨る広い荘園で、ここに移った首藤家の者が
山内首藤(すどう)と名のるようになったとされています。

山内尼の夫、山内首藤俊通(としみち)は、相模国の武士で源氏譜代の家人として
義朝に仕え、平治の乱では義朝に従い、子の滝口俊綱とともに討死しています。


治承4年(1180)8月、頼朝は源氏累代の御家人に呼びかけて挙兵しましたが、
山内尼の子の経俊(つねとし)は、頼朝と乳兄弟の関係にあるにも関わらず
これに応じなかったばかりか、挙兵への参加を促す
頼朝の密使安達盛長に暴言を吐きました。

その頼朝の軍勢を大庭(おおば)景親が大将となって石橋山で迎え撃った時、
こともあろうに経俊は景親(かげちか)に従い、頼朝に矢を射かけ、その矢が
頼朝の鎧の袖に刺さるという大失態を起こしてしまいました。

なお、経俊は平治の乱には、病気のため参加していません。
経俊の弟の刑部坊(ぎょうぶぼう)俊秀は父亡き後、三井寺(園城寺)の
乗円坊の阿闍梨慶秀(きょうしゅう)に引き取られました。

頼朝挙兵に先立って平家打倒の兵を挙げた高倉宮以仁王ですが、
早々に平家方に知られ三井寺に逃れました。しかし、以仁王が身をよせた
三井寺は必ずしも一枚岩でなく、また頼みとした比叡山延暦寺は
清盛の賄賂工作によって動かず、以仁王と源頼政は、
南都勢力を最後の頼みとして奈良に向かいます。
その時、慶秀は以仁王の御前に参って「俊秀の父山内首藤刑部俊通が
平治の乱で討死したため、幼い俊秀(しゅんしゅう)を引きとり、
懐に抱くようにして育てた」と涙ながらに申しあげ、俊秀を御供につけ、
自らは80歳という年齢を考えて三井寺に残るのでした。
俊秀は南都を目ざす途中で討死しています。

石橋山で惨敗した頼朝は、真鶴岬から安房に脱出し再起をはかると、
治承4年(1180)10月7日、鎌倉に入り、同月23日に論功行賞を行いました。
山内首藤経俊(1137~1225)は、山内庄を取り上げられて頼朝の信頼厚い
土肥実平(遠平の父)に預けられ、断罪に処せられることになりました。
山内尼はこれを聞き、同年11月26日、
息子の命を救うため、頼朝に泣きついてきました。

「山内資通(すけみち)入道が八幡殿(源義家)に仕えて以来、代々源家に
尽してきました。特に夫の山内俊通は平治の乱で屍を六条河原にさらしました。
石橋山合戦で経俊は平家に味方し、その罪は逃れがたいのですが、
これは一旦平家の後聞をはばかるためです。」と経俊の助命を嘆願すると、
頼朝は黙って矢の刺さった鎧を取り出し、尼の前におきました。
その矢には「滝口三郎藤原経俊」と記されていることを読み聞かせると、
尼は涙ながらに退室しました。しかし、尼の悲歎に免じ、
また先祖の功績を考え、経俊を助命することにしました。

山内俊通の戦死の地は、『平治物語』では三条河原、
『山内首藤氏系図』には、四条河原と記され、
死去した場所が尼の発言と少し異なりますが、田端泰子氏は
「死骸が六条河原で晒されたということかも知れない。」と説明されています。

山内氏は平安後期に資清の娘が八幡太郎義家の妻の一人となって以来、
源氏との関係を密にしてきました。
資通は11、2歳で後三年合戦に参陣し、
義家の養子となった為義(義親の子)の乳父にもなっています。

系図に見える「正清」は、義朝の乳母の子鎌田正清のことです。
平治の乱後に東国へ敗走の途中、正清は岳父尾張国野間内海荘の領主
長田忠致(おさだただむね)邸に立ち寄り、
忠致の裏切りにあって義朝とともに殺害されています。
尼が頼朝に先祖の功績と述べたのは、このようなことを指していると思われます。

その後、経俊は乳母の子であることから次第に信用を回復し、
義経追討・奥州征伐などに出陣し、忠義をつくして勤めたことが認められ、
元暦元年(1184)頃には、伊勢国の守護に抜擢され、その上
伊賀国の守護も兼ねました。これといった戦功もない経俊に
このような重責が課されたのは、ひとえに頼朝の乳母子だからです。
経俊の嫡子重俊は土肥氏に接近し、遠平(とおひら)の娘との
婚姻が成立し、さらに山内氏の窮地を救うことになりました。

『参考資料』
田端泰子「乳母の力」吉川弘文館、2005年
 角田文衛「平家後抄 落日後の平家(下)」講談社学術文庫、2001年
 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館、2007年 
現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館、2007年 
 新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年 
「姓氏家系大辞典」角川書店、昭和49年
 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年 
「源頼朝七つの謎」新人物往来社、1990年

 

 

 



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児玉党は平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で誕生した武蔵七党の一つ、
その中で最も規模の大きい党でした。
主に武蔵国最北端地域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡一帯)を中心に入間・秩父郡
さらに上野国(群馬県)にまで広がった党で、本宗家は児玉、庄などと称し、
児玉経行の娘は秩父重綱の妻となり、悪源太義平の乳母でもあったという。

当時の東国には、千葉氏・小山氏・畠山氏などの大武士団があり、
それに比べれば武蔵七党は、手勢も少ない小さな存在でしたが、
一の谷合戦で、平家方の名のある武将を討ち取り活躍したのがこの武士団でした。

西ノ手の大将軍薩摩守忠度が敗戦となって落ち延びようとしているところを、
猪俣党の岡部六弥太が討取り、猪俣小平六は山ノ手の侍大将平盛俊に
一旦押さえ込まれましたが、隙をみて首をとりました。
敦盛は沖合の助け船に乗ろうとしているところを、私市党の熊谷直実に
呼び止められ引き返したところを、首をとられ人々の涙をさそいました。
父平知盛の窮地を救った知章とその家来の
監物(けんもつ)太郎頼賢(方)を児玉党が討ち取っています。

平安時代頃には、さまざまな理由で敵を助けた例があります。
宇都宮朝綱(ともつな)は姻戚関係にある平貞能(さだよし)が平家一門を離れ、
朝綱を頼って来たとき、頼朝に貞能の助命を申し出で許されています。

一の谷合戦で私市党の熊谷直実と先陣争いをした西党の平山季重は、
源平合戦での功で、降人となった原田種直から没収した
土地の地頭職を賜り、その身柄を預かりました。
九州における平家重臣の筆頭、種直の罪は重く、当然処刑されるはずでしたが、
季重は頼朝に種直の助命嘆願をし、赦免されることになりました。
季重は若いころから源氏方の勇猛果敢な人物として活躍し、
実朝が生まれる時には、鳴弦の役を仰せつかるなど頼朝に重用されています。

奥州合戦で頼朝軍と戦い捕虜となった藤原泰衡の郎党由利八郎は、
尋問にたいして堂々たる態度で答え、許されて本領を安堵されました。

児玉党の庄三郎忠家は義経に仕え、弟の庄四郎高家は木曾義仲に仕えました。
元歴元年(1184)正月、義仲は頼朝が送った範頼・義経軍に攻められ、
粟津の戦いで討死しましたが、高家は生き残りなおも激しく戦っていました。
兄の忠家は使いを遣わして木曽殿はすでに戦死なさった。
忠家がよきに計らうので義経殿のところへ参上するよう申し伝えましたが、
「命を助かりたいと敵に従うことは、武士の面目にかかわることである。」と
二度までも辞退したので、忠家は弟を捕えて義経にお目にかけようと、
名馬に跨り真っ先に進み来る弟を待ち受け馬を馳せ寄せむづと組み、
郎党の手を借り高家を虜にして義経の前に引き立てていきました。
義経は忠家の弟を思う心に動かされ、高家の命を助けました。

高家はその後の一の谷合戦では、義経に従い命をなげうって戦い、
逃れる平経正(敦盛の兄)を明石の大蔵谷で追い詰め自害させ(『源平盛衰記』)、
高家の馬上から射った矢が西を指して落ちていく生田森の副将軍平重衡の
馬に命中して生け捕りにしています。(『百二十句本』)

木曽義仲の四天王のひとり、樋口兼光と児玉党との間には姻戚関係があったため、
義仲戦死後、児玉党の人々は自分達の手柄と引き換えに兼光の命を助けようと奔走し、
朝廷に助命を乞いましたが、その罪科は軽くないとして許されませんでした。

「巻9・樋口被斬」によると、樋口兼光は義仲を裏切った源行家を討とうと、
紀伊国名草(現、和歌山市)に向かっていましたが、都に戦ありと聞き、
急ぎ引き返したところ、淀の大渡の橋
(現、桂川・宇治川・木津川合流点よりやや下流付近)の辺りで
今井兼平の家来とばったり会い、義仲と兼平の最期を知りました。
樋口は涙を流し、「もはやこれまでである。お前たちは生きて
いづこへでも落ち行き、出家して義仲殿の後世を弔え。兼光は都へ上り討死して、
あの世で主君にお目にかかる。」と言ったので、500余騎の兵は
落ち行く先々で隊を離れて行き、
とうとう20騎ばかりになってしまいました。

かねて縁戚関係のある児玉党の人々が寄り合い、「弓矢とる者同士が広く
人とつきあうのは、万一合戦の時にも、敵方に知人がいれば、ひとまず身の
安全がはかれるし、命を助けてもらえるかも知れないと思ってのことである。
我らの今度の手柄とひきかえに、命だけは助かるようとりなしてやろう。」と考え、
兼光に降人になるよう言い送りました。

兼光は日ごろは武勇の聞こえ高い武士でしたが、運の尽きであったのか、
児玉党の説得に応じ捕虜となりました。児玉党は自分たちの勲功の賞として、
兼光の命を賜りたいと朝廷に申し出で、これを義経が後白河院に伺いをたてたところ、
一度はお許しがでましたが、公卿、殿上人、局の女房、女童までも
「木曾が法住寺を焼き滅ぼし、多くの人々が亡くなったのは今井と
樋口によるものであり、これを助けることは口惜しい」と口々に申したため、
死罪と定められました。法住寺合戦で兼光が御所の身分ある女房たちを
捕えて加えた乱行が、今は捕虜となった兼光の命とりとなったようです。

兼光は義仲、並びに残党5人の首が大路を渡される際、供をつとめることを
頻りに申し出たので許され、
藍摺(藍で模様を染めたもの)の水干、
立烏帽子の姿で一緒に引き廻され、それを一目見ようと、群衆が市をなしたという。
その次の日、兼光は渋谷次郎高重(渋谷重国の子)に斬られました。

樋口次郎兼光は木曽義仲を養育した中原兼遠の次男で、信濃国西筑摩郡樋口谷
(現、長野県木曽町日義)に領地をもっていたため、樋口と称しました。
児玉党の婿となって往復の途中、斎藤別当実盛とたびたび会っていたため、
白髪を黒く染めた実盛が篠原合戦で義仲軍に討ち取られた時、
首実検に呼ばれその首級を一目見るなり、「あなむざんや、斎藤別当にてそうろう。」と
そのまま涙にくれたと「巻7・実盛」に記されています。

武蔵生まれの義仲(駒王丸)は誕生の翌年、父の義賢(よしかた)が勢力争いから
義朝(義賢の兄)の長子、悪源太義平に討たれたため、
斎藤実盛に送られ、木曽の豪族中原兼遠を頼って逃れてきたのです。
それで兼遠と実盛は旧知の間柄だったのです。

兼光は弟の今井四郎兼平、根井行親、その六男盾親忠(たてちかただ)とともに
木曽義仲四天王と呼ばれました。四天王の名前は諸本によって異同があり、
読み本系の『平家物語』には、四人のきり者として、
樋口兼光、今井兼平、根井行親、高梨忠直を記しています。

兼光と兼平は義仲と幼いころから木曽で一緒に育ち、共に側近として仕えました。
義仲の強みは木曽勢との団結と固い絆です。
兼光は恥辱を受けても義仲の首の供をし、木曽四天王と呼ばれた人たちは
義仲と最期まで運命を共にしました。

木曽義仲四天王(日義村義仲館にて)


根井大弥太行親は現在の長野県佐久地方に勢力を誇った豪族です。
中原兼遠の菩提寺林昌寺の記録によると、
行親は兼遠の兄兼保が養子となった佐久の豪族滋野氏で、
根井滋野行親とも称し、義仲の後見役のような存在でした。

若いころ、保元の乱に後白河天皇方の義朝勢として参戦し、
崇徳上皇方が籠る白河殿を襲撃しましたが、大鎧の胸板を射られて重症を負い、
戦線を離脱したことが『保元物語』に見えます。

治承4年(1180)頼朝の挙兵に続いて木曽義仲が平家打倒の旗を揚げると、
根井行親は息子の盾親忠ら一族を率いて真っ先に義仲のもとに駆けつけ、
倶利伽峠で平家の大軍を破り、義仲とともに京へ入りましたが、
攻め上ってきた義経勢との宇治川の戦いで奮戦の末、戦死しました。

信濃で挙兵した義仲に対して、越後の平氏方の雄、城一族が大軍を率いて、
信濃に攻め込み、横田河原(長野県篠井村千曲川畔)に陣を布いて合戦となりましたが、
義仲軍は奇襲攻撃で敵を越後国へ退け、横田河原合戦は実質義仲のデビュー戦となりました。
勝因のひとつは、敵状の視察をして城一族の行軍による疲労などを見抜いた
根井行親の嫡男・楯六郎親忠によるところが大きいとされています。
その最期は宇治川合戦に参戦し、六条河原で討ち取られたという。
木曽義仲の里 (徳音寺・南宮神社・旗挙八幡宮)  
『参考資料』
水原一「新定源平盛衰記(3)(5)」新人物往来社、1989年 1991年
「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
   冨倉徳次郎「平家物語全注釈(中巻)(下巻)」角川書店、昭和42年 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 
「木曽義仲のすべて」新人物往来社、2008年 
武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社、2012年 
佐伯真一「戦場の精神史」NHKブックス 、平成16年  
田屋久男「木曽義仲」アルファゼネレーション、平成4年
  成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士 事績と地頭の赴任地を訪ねて」
まつやま書房、(上)第3版2007年 (下)2005年




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平家物語では、平重盛は横暴傲慢な父清盛と対比して
誠実温厚な人物として好意的に描かれています。
しかし物語は重盛を理想的人物として描き、聖人像を強調するために
思い切った虚構も加えています。その事例としてあげられるのが
「巻1・殿下乗合(てんがのりあい)」での重盛です。

「乗合」とは乗り物に乗ったままで出会うこと、
特に貴人の行列に乗り物に乗ったまま出会うことをいう。

平資盛画像(赤間神宮蔵)
藤原基房画像(徳川美術館蔵)

九条兼実(基房の異母弟)の日記『玉葉』によると、
事件は嘉応2年(1170)7月3日に平重盛の次男資盛と摂政基房の間で起きました。


法勝寺の法華八講よりの帰り道、基房の車が資盛の女車と鉢合わせをしました。
基房の従者は下車の礼をとるよういいましたが、それを聞かずに駆け抜けようと
したため、基房の従者達が無礼を咎め、車を壊すという乱暴狼藉を働きました。
後に車の主が今をときめく平家の御曹司であることを知った基房は慌てて
実行犯を重盛に引き渡しましたが、重盛は彼らを返して訴えたので、
基房は検非違使にその身柄を引き渡し勘当しました。

それでも重盛は怒りを鎮めず兵を集めて報復の準備をします。
この噂を耳にした基房は邸に籠り外出をしなくなりました。そして事件から
3ヶ月以上もたった10月21日、高倉天皇の元服についての儀定が内裏で
開かれることになり、摂政基房の行列が参内の途上、重盛配下の武士たちに襲われ、
5人が馬から引き落とされ、そのうち4人が髻(もとどり)を切られたという。
基房は驚いて引き返したので、この日の儀定は延期ということになりました。

当時の人々にとっても重盛のこの行動は
奇妙に映ったらしく、天台座主慈円も(兼実の弟)その史論書『愚管抄』で、
「重盛がしたことが、理解しがたい不可思議な事をした。」と記すほどです。

平家物語絵巻より殿下の乗合(林原美術館蔵)

ところが『平家物語』では、報復を命じたのは重盛ではなく、
清盛だとして次のように語っています。

資盛は鷹狩の帰り、摂政基房の車に行きあい、基房の従者は馬からおりろと要求しました。
しかし当時資盛は13歳で、お供の者たちもみな若侍だったので礼儀作法を
心得ている者は一人もなく、平家の威勢を嵩にきて駆け抜けようとしたので、
怒った従者らは資盛主従を馬から引き落とすという狼藉を働きました。

資盛からこの件を聞いた清盛は激怒しますが、重盛は息子の非礼が悪いのだからと
清盛を宥めます。怒りがおさまらない清盛は重盛に内緒で報復の機会をうかがい、
宮中に向かう途中の基房の行列を待ち受け、六波羅の兵三百余騎に
お供の者の髻(もとどり)を切るなど散々に乱暴を働かせました。

これを知った重盛は大いに驚き、摂政に無礼を働いた資盛を伊勢に追放した上、
事件に関わった侍たちを勘当したとしています。重盛の立派な振る舞いに
世間の人々は感心し、臣下の中では最高位にある
摂政に恥をかかせた
清盛の行為を『平家物語』は「平家悪行のはじめ」としています。

実際は、仁安3年(1168)2月に清盛は病のため出家し、
出家後は福原に隠棲していたのでこの事件とは無関係でした。
物語には清盛の暴走が過度に強調され、優れた面を隠蔽するため多くの創作が含まれ、
平氏一門滅亡という悲劇は、清盛の悪行によって導びかれたとしています。

 清盛の孫、資盛に乱暴した摂政基房の行列を報復のため襲い、
見せしめのため基房の従者たちの髻を切る清盛の家来たち。

事件の背景
この事件の背景には、摂政藤原基実の死後、その莫大な所領の大部分を
後家の盛子(清盛の娘)が相続したことからくる
平氏と松殿基房(基実の弟)の根強い反目があったと考えられます。
基房邸は中御門東洞院にあり、松殿と呼ばれ、この家系を松殿家と呼びました。

平安時代、藤原氏は天皇の外戚という立場を背景に摂政・関白となり、
娘3人を妃に立てた道長の代に最盛期を迎え、
多くの荘園を集積するなど、経済的な支配力も強めていきました。
道長の子の頼通(よりみち)はあまり娘に恵まれず、天皇のもとに皇后として
納れた娘も皇子を生むことなく摂関政治はこの代で終焉を迎えましたが、
道長の子孫がそのまま摂政・関白を独占しました。
摂関政治に代わって藤原氏から政権を奪い、実権を握った上皇(退位した天皇)たちの
院政という専制政治がスタートし、白河・鳥羽・後白河院政と続きました。

摂関家は身内同士の内紛も一因となって起こった保元の乱で打撃を蒙り、
その権勢には衰えが見えはじめましたが、最大権門勢力であることに変わりはなく、
清盛は娘盛子を基実(忠実の孫で忠通の子)に嫁がせました。
摂関家との接近を図り、清盛が政権を握ろうとする政略結婚ですが、まだ24歳の
若者である基実にとっても強大な軍事力をもつ清盛は頼りになる存在でした。

清盛は盛子を通じて摂関家を掌握し、摂政基実を補佐しましたが、
基実は病に倒れあっけなく亡くなりました。清盛の大きな誤算です。
11歳で後家となった盛子に子供はいませんでしたが、
のちに清盛は基通(基実の子)に期待し、盛子の妹完子(さだこ)との
婚姻を成立させ摂関家との関係をさらに深めていきます。

摂関家の側近、藤原邦綱のアドバイスで、清盛は基実死後、
摂関家の財産の大半を盛子に相続させ、平氏の管理下に置きました。
悪く言えば平氏が摂関家領を横領したことになります。

そして基実の遺児基通がまだ7歳だったため、基房(基実の弟)を摂政に立てました。
清盛にしてみれば、それは基通が成長するまでの一時的な措置のつもりですから、
基房は平家一門に対して、相当遠慮すべきであると思っていました。
一方、基房は基実の遺領をわずかしか相続できなかったことから、
平氏に大きな不満を抱き、鹿ケ谷事件で清盛によって、
近臣たちに過酷な処分を下され内心憤っていた後白河院に近づきます。
天皇家と摂関家が結び、反平氏政策を取り清盛と対立します。

重盛の死後、後白河院と清盛との関係が一気に崩れ、治承3年(1179)の
清盛クーデターで、院は鳥羽殿に幽閉となり院政は停止され、
兄基実の死後、摂政のち関白となり、13年余、
摂関の地位にあった基房も職を罷免され備前に流されました。

清盛に提言をした藤原邦綱は低い身分の家柄でしたが、清盛に生涯にわたって尽し、
その才覚で権大納言にまで出世し、娘の大納言佐(すけ)は
重衡(清盛の5男)の正室で、安徳天皇の乳母となります。

重盛の行動を好意的に解釈すれば、この当時、清盛は福原の別邸に常住していたので、
父に代わって一門を統率していた重盛の気負いからきたものともいえます。

また基房襲撃の時、重盛(33歳)は病気で一時休職していたのを復任した時期です。
この年の暮には再び病のため職を辞しています。
健康への不安や体調不良が続き、こうした行動をとったとも考えられます。
重盛は殿下乗合で見せたような武断的な面も持ち合わせていますが、
『愚管抄』に「この小松内府はいみじく心うるはしくて」と記されるように、
どちらかといえば、貴族的で温厚な人柄だと評価されています。
『参考資料』
河合康「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(上)」塙新書、1994年 
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書、平成13年 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年
倉富徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年 大津透「日本の歴史(6)道長と宮廷社会」講談社、2001年
 安田元彦「平家の群像」塙新書、1982年 上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」吉川弘文館、2012年
「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 林原美術館編「平家物語絵巻」クレオ、1998年

 

 

 

 



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平貞能(生没年不詳)は父家貞の代から続く有力な平氏家人で、
清盛の一の腹心といわれるとともに重盛が家督を継ぐと重盛に従い、
維盛
の乳人(めのと)藤原忠清と並んで小松家にとって重要な侍でした。

半ば死を覚悟していた重盛の熊野詣にも同行し、
特に重盛に心服していた人物として平家物語に描かれています。
貞能(さだよし)の父貞家は、桓武平氏の血を引く郎党で、
忠盛(清盛の父)が『巻1・殿上の闇討の事』で闇討に遇いかけた時、
主人につき従っていた平家の大番頭です。

維盛が富士川の戦いで敗走し、この合戦の侍大将藤原忠清が
評判をおとすと、次に頼みにされたのが貞能でした。
清盛が亡くなり謀反が全国に拡大すると、貞能は肥後守に任じられ
九州の謀反鎮圧にあたりました。
謀反の首謀者菊池隆直らを降伏させ、一応の成功をおさめたものの、
追討は困難を極め、数万の軍勢を率いてくると噂されていましたが、
都落ち直前に帰還した時には、期待に反し千余騎しか連れていませんでした。

平家一門都落ちの日、源行綱が叛乱を起こしているとの
知らせを受け、貞能は河尻(淀川河口)に鎮圧
に向かいましたが、
河尻の動きが誤報とわかって都に戻る途中、
一門の都落ちに行きあいました。
貞能は大将の宗盛に向かって、引き返して都で
決戦するように進言しますが、容れられなかったため、
重盛の次男資盛(すけもり)とともに一門と別れ、
法住寺殿内の蓮華王院に入りました。

そこで一門の中でも後白河院の覚えのよかった資盛は、
平氏の都落ちを察し、比叡山に逃れていた院の指示を
仰ごうとしましたが、連絡がうまく取れず、やむなく重盛
の墓に詣で遺骨を掘り起こして高野山に送り、
翌朝、資盛と貞能は遅れて一門に合流します。
このことからも、この時期の平氏軍は、一門と行動を同じにせず
後白河院の指示を仰ぐ資盛らと宗盛指令下の平家主流派の
人々とで成り立っていたことがうかがえます。

これより先に貞能は肥後守に任じられ、菊池隆直らの謀反平定に赴き、
鎮西やその経路の西海道の情勢をよく知っていたことから、
宗盛とは別の西国での勢力回復が難しいという
情勢判断をしていたものと思われます。

こうして木曽義仲が京都に入る直前に都落ちした平家は、
九州の原田種直らに迎えられ、ひとまず平家の荘園があった
太宰府に落ち着き、体制を立て直そうとしました。

しかし九州の有力武士たちの中には、豊後国(大分県)の豪族
緒方惟栄(これよし)のように平家に帰服しない者がいました。
当時豊後国は鼻が大きいことから鼻豊後とよばれた
藤原頼輔(よりすけ)の知行国であり、代官として現地にいた
息子の頼経(よりつね)が、後白河法皇の意を受け、
平家を追討するよう惟栄に指示し、
惟栄は九州の武士たちにこれを院宣と称して伝えたという。

ちなみに藤原師実(もろざね)の曾孫にあたる頼経は、
名門出身でありながら、のち義経に心酔してその腹心となり、
そのため二度も配流の憂き目にあっています。

惟栄はもと重盛の家人であったという縁から、資盛は補佐役として
貞能を伴い五百余騎を引き連れ、惟栄の許に和平交渉に赴きましたが、
交渉は不首尾に終わり、平家は太宰府を追われました。

さいわい長門国の目代が大船を献上してくれたので、
一門は屋島に向かいましたが、途中、清経は柳ヶ浦で入水し、
清経の兄の維盛は屋島には行ったものの、
こっそり島を抜け出し熊野の那智沖で入水しています。
この頃の小松家の人々の心情が推察できる出来事です。

忠房も屋島の戦場を逃れ、紀伊の湯浅宗重を頼り、
源氏方の熊野別当湛増と戦いましたが、合戦は長引き
頼朝が文覚を使者として巧みに宗重を説き伏せたため、
忠房の身柄は頼朝方に引き渡され、やがて殺害されました。
小松殿の公達は、一の谷合戦で戦死した師盛(もろもり)、
壇ノ浦に沈んだ資盛・有盛以外は、
すべて主流派戦線離脱者だったのです。

貞能も清経の入水と相前後し、主流派から離脱して
九州に留まり出家したという。
平家の前途に見切りをつけたのでしょうか、
それとも緒方惟栄の説得工作に失敗して責められ、
その立場がさらに辛いものとなったのでしょうか。

『平家物語』では、重盛の息子たち、維盛・資盛・清経・有盛・師盛・忠房は
「小松殿の公達」とよばれます。清盛の死後、重盛の継母である
平時子の生んだ宗盛が平氏一門の棟梁となったことで、
小松殿の公達は一門の中で微妙な立場に置かれていました。
小松家の有力家人の藤原忠清や平貞頼(貞能の息子)らも、
出家して都落ちには同行しませんでした。

頼朝が平治の乱後捕われ、頼朝の助命を清盛に嘆願したのは、
頼盛の母池の禅尼でその時、清盛を説得したのは重盛でした。
その結果頼朝は死罪を免れ伊豆へ配流されています。

頼盛は都落ちの際、京都に残る道を選び、頼朝に手厚く保護されています。
同様のことが、小松殿の公達にも期待できたはずです。
主流派と小松家の人々との気持ちのずれの理由はこんなところにもあり、
それが九州における情勢によってさらに表面化したとも考えられます。

その後、貞能の消息はようとして知れませんでしたが、
平氏一門が滅亡した3ヶ月ほど後、鎌倉の御家人
宇都宮朝綱(ともつな)のもとに突然姿を現し、
姻戚関係にある朝綱に頼朝へのとりなしを懇願しました。

『吾妻鏡』文治元年(1185)7月7日の条によると、
宇都宮朝綱は平貞能が降人となって自分のもとにやってきた事情を
頼朝に説明しましたが、頼朝は難色を示します。
それで朝綱は一家の命運をかけて頼朝に貞能の助命を強く訴えます。


「上(頼朝)が挙兵した時、大番役として都にいた畠山重能(しげよし)、
小山田有重、宇都宮朝綱は、頼朝に縁のある者として都に留め置かれ、
平家一門都落ちの際、三人は処刑されるところでしたが、
貞能が宗盛を説得したので味方のもとに参ることができ、
平氏追討に参加することができました。
貞能は上にとってもまた功のある者ではないでしょうか。」
この朝綱の主張は認められ、貞能の身柄は朝綱預りとなりました。
宇都宮氏ゆかりの地域に平貞能と平重盛にまつわる
伝承をもつ寺院があるのはそのためです。

畠山重能(重忠の父)、その弟の小山田有重、宇都宮朝綱は
大番上京中に、頼朝が挙兵したため彼らは身柄を拘束され、
そのまま平家の家人として北陸道で木曽義仲軍と戦うことになりました。
京都大番役は、諸国の武士が三年交代で京都に滞在し、宮廷、
京都警固の役に
あたったものをいいいますが、
危急の時には人質にもなります。

角田文衛氏は「妙雲寺を初めとして、その縁起が平貞能と結びついた
小松寺は諸方に見受けられる。これらを歴史的に解明するためには、
余りに史料が不足しているけれども、
貞能が宇都宮朝綱の援助を得て仏堂を建立し、
重盛はじめ平家一門の後世を弔いながら晩年を過ごしたと
みなすことは単なる推測にとどまらぬであろう。」と述べておられます。
(『平家後抄(上)』)
妙雲寺(平貞能、東国落ち)  

 都落ちの一行、平貞能と出会う(鵜殿)   平忠房の最期(湯浅城跡)  
平維盛供養塔(補陀洛山寺)  
平清経の墓(福岡県京都郡苅田町)  
緒方三郎惟栄館跡  
『参考資料』
角田文衛「平家後抄(上)」講談社学術文庫、2001年 
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年
新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社、昭和60年 
河合康編「平家物語を読む」吉川弘文館、2009年
河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年 
安田元久「平家の群像」塙新書、1982年

 

 

 

 



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『平家物語』は、平重盛(清盛の嫡男)の嫡孫である六代御前が斬られる
巻12の「断絶平家」
で終わりますが、諸本の中で一般に流布している系統には、
壇ノ浦での平家滅亡後の建礼門院の帰京から往生までを振り返って
語る箇所を一巻にまとめ『灌頂の巻』とし、物語の最後を飾っています。

謡曲大原御幸(おはらごこう)は、この『灌頂巻』に題材をとり、
大原に隠棲している建礼門院を訪ねた後白河法皇に女院が語る
「六道語り」の物語で作者は不明です。

まず登場人物のご紹介をします。
建礼門院(平徳子)は清盛の次女に生まれ、母は二位の尼とよばれた平時子、
高倉天皇に入内して皇子を生み、その皇子は僅か3歳で安徳天皇となりました。
平家一門が壇ノ浦で全滅の際、安徳帝を抱いて入水した二位の尼の後を追いましたが、
心ならずも海中から救いあげられて京へ送られ、大原の寂光院でわが子や
母をはじめ一門の菩提を弔いながらひっそりと余生を送っています。
当時右大臣だった九条兼実の日記『玉葉』には、
高倉上皇の命が今日明日に迫っていたころ、清盛夫妻は上皇崩御の際には、
建礼門院を法皇の後宮に入れようにとひそかに計画していました。
しかし普段おとなしい女院がいつになく強く拒絶したため、
沙汰闇となったことが記されています。

後白河法皇
は建礼門院にとって舅である一方、次々と平家つぶしを画策し
その追討を命じた当人、親兄弟の敵ともいえます。
法皇との対面にあたって女院の実際の心情はどのようなものだったのでしょう。
なんとも複雑な思いがあったと思われます。
大納言局
は五条大納言藤原邦綱の娘、南都焼き討ちの責任者として
斬首された
平重衡(清盛の五男)の北の方です。安徳天皇の乳母として出仕し、
父の官位、大納言佐(だいなごんのすけ)の女房名でよばれました。
壇ノ浦では二位の尼、女院に続いて神鏡をいれた唐櫃(からびつ)を抱え
海に飛び込もうとしましたが、袴の裾を敵の矢が射ぬいて生け捕りにされた後、
都に帰り夫重衡の供養を行うと、尼となり女院に仕えていました。
父邦綱はなかなかのやり手で財をなし、大福長者といわれていました。
清盛と仲が良く、清盛が死ぬと後を追うように邦綱も亡くなっています。

阿波の内侍の母は後白河法皇の乳母紀伊二位朝子、父信西(朝子の夫)は、
保元の乱後に政界を牛耳り、法皇の近臣らの反発を招き平治の乱で殺害されました。
萬里小路中納言は平家物語には登場しない謡曲作者の創作による人物です。

<あらすじ>壇ノ浦合戦の一年後の晩春のある日、後白河法皇が
萬里小路(までのこうじ)中納言を供に輿に乗って山深い大原に訪ねてきました。
その時、女院は大納言局と樒(しきみ)や花を摘みに山に入っていました。
供が荒れ果てた庵の中に声をかけると、年老いた尼が出てきて女院はお留守ですと答えます。
法皇は尼を見て「誰であるか」と尋ねると「お忘れになるのは当然です。
法皇様に可愛がっていただいた信西の娘阿波内侍です。
こんな情けない姿になりました。」と涙ながらに答えます。
しばらくすると、女院と大納言局が山から下りてきました。女院は尼になった
自身のこんな姿を見られるのも恥ずかしいとためらいながらも法皇と対面します。
法皇に「噂では六道の有様をご覧になったと聞くが、
このようなことは仏や菩薩の位に達した者でないと叶わぬはずなのに、
不審に思う」と尋ねられ、女院は自分のたどってきた生涯を天上道、
人間道、餓鬼道、修羅道、畜生道、地獄道に例えて語ります。

高倉天皇の后となり安徳天皇を生み、すべて思いのままの天上界のような
日々は長くは続きませんでした。木曽義仲に追われ、都落ちした心細さは
「人間道」の苦しみ、次いで、西海の波に漂い水に囲まれながら、
真水が飲めなくて苦しんだ生活は「餓鬼道」さながら、目の前で繰り広げられる
合戦は「修羅道」の姿そのまま。駒のひずめの音聞けば「畜生道」の
浅ましさを連想させ、壇ノ浦の合戦はまるで「地獄道」のようでした。
私は生きながら六道を見てきたのですと自らの体験を「六道」になぞらえて語り、
その苦しみよりはるかに辛いわが子安徳帝入水の悲しみを述べました。
華やかな宮中生活から凋落していった建礼門院の人生は、平家一門の運命そのものでした。
やがて時は過ぎ、夕暮れになり名残も尽きぬまま法皇は都へ帰る輿に乗り、
女院はその後を静かに見送り庵に入りました。









画像は、すべて「大原御幸(小原御幸)」より転載。
『参考資料』
能の友シリーズ11「大原御幸(小原御幸)」白竜社、2002年
白洲正子「謡曲 平家物語」講談社文芸文庫、1998年 
細川涼一「平家物語の女たち」講談社現代新書、1998年
 永井路子「平家物語の女性たち」文春文庫、2011年 
倉富徳次郎「平家物語 変革期の人間群像」NHKブックス、昭和51年



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手もとに一枚の新聞の切り抜きがあります。(日本経済新聞朝刊)
そこには緒方三郎惟栄(これよし)のご子孫、緒方容造氏の記事が掲載されています。
 
2008年4月、前年に63歳でリタイアしていた私は、思い立って謡曲を習い始めた。
やがて平家物語に材を取った「大原御幸」を手にしたとき「あっ」と声をあげそうになった。

ルーツは豊後国緒方郷
壇ノ浦で安徳帝とともに海に身を投げた建礼門院が緒方三郎惟栄(これよし)への
恨みを語る段がある。その緒方惟栄こそ、幼いときから大人たちに聞かされていた
我が緒方家の祖先なのだ。祖先が平家物語に登場しているとは考えてもいなかった。
しかし思えば亡父の名は惟吉(これよし)、大伯父は三郎だ。
それから時間を見つけては祖先の足跡を捜し始めた。
手掛かりは伝来の「大神姓 緒方代々系図」。仏壇の引き出しに放り込まれていた
古い書き付けの束。家宝の太刀。我が家のルーツは豊後郡緒方郷、
三重郷一帯、合併で大分県豊後大野市となった地域だ。
地元の歴史民俗資料館に資料を送ってもらったところ、惟栄は郷土の
英雄として扱われ、館の跡は観光スポットになっていることがわかって驚いた。

豊後武士団の統領として12世紀後半を生きた惟栄はもともと平家方であったが、
源氏に通じるようになり、九州に落ち延びてきた平氏一族を瀬戸内に押し戻して
壇ノ浦での滅亡に導いた。鎌倉幕府の事績を記録した「吾妻鏡」の
文治元年(1185年)正月26日の項に「平家を追って赤間関(下関)に至った
源範頼の軍勢が兵糧と船がなくて往生していたとき、
豊後の臼杵二郎惟隆と弟の緒方三郎惟栄が兵船82艘を献じた」とある。
しかしその後、源義経を助けた惟栄は頼朝の怒りを買って上野国沼田荘に流された。
系図は大神大太惟基(だいたこれもと)から始まる。


平家物語巻第八「緒環(おだまき)」に大蛇と豊後の国の片山里に住まう
女の間に生まれたと書かれ、旧緒方町にもその伝承が残っている。
なぜ大蛇なのか。最近になって古代朝鮮に大蛇とミミズが違うだけで、
あとは全く同じ将軍誕生説話があることを知った。
すると我が祖先は渡来系なのかもしれない。この大太から惟栄と続いた一族は
豊後を足場に大きな勢力を保ち、南北朝時代に京に移り住んだ。
系図にはこう書いてある。

建武3年(1336年)後醍醐天皇に京を追われた足利尊氏と直義兄弟が
九州に下って菊池武敏率いる大軍と筑前・多々良浜で合戦したおり、
緒方朝定(ともさだ)は劣勢の足利軍にあって奮戦した。
その戦功で山城国横大路村に所領をもらった。


京都に石塔切の記述
詳しい事情はわからないが、いつのころからか緒方一族から
藤林姓を名乗る流れが生まれる。その中の一人に藤林光政がいた。
光政の妻は明智光秀の妻と姉妹で、本能寺の変の後、
山崎の合戦で秀吉方と戦い討ち死にしたという。系図の簡潔な記述から、
戦乱の世を生き抜いてきた祖先の生々しい姿が浮かび上ってきた。
しかし残された問題は太刀だった。刀身の根本「中子(なかご)」には
「伴清定石塔切(ばんきよさだせきとうきり)時定所持」と刻まれているが、
時代も場所もわからない。手掛かりは探し物のために押入れを整理していて偶然に見つかった。
洋服をしまう紙の箱を開けたら、無造作に放り込まれた古文書の中に、
このことに関する書き付けがあったのだ。
「文明3年(1471年)2月下旬、横大路村に夜な夜なもののけが出た。
ある夜、時定が大きな古入道を切りつけ調べてみると、伴清定を祭る石塔で、
血のような赤い筋があった。」そこには詳細なスケッチも添えられていた。

京都市歴史資料館に問い合わせ、史料集「京都叢書(そうしょ)」などを当たったところ、
昨年秋になって「伏見区横大路」「伴清定の墓」「石塔アリ」といった記述を見つけた。
先祖のスケッチに出てくる浄貞院にあるらしい。そして同年師走、
系図の片隅に16世紀初めの人、藤林宗政が浄貞院を建立したという記述を発見した。
建立に際してそこに石塔を移したと考えられる。
それを知るとどうしても現地に行ってみたくなった。

500
年の歳月を超えて
今年1月7日、京都市伏見区の浄貞院を訪ね、住職の案内で裏に回った。
石塔は今も当時の姿をとどめているのか。石塔はあった。
しかも江戸期に描かれたらしいスケッチと赤筋の位置まで寸分違わない。
500年の歳月を超えて先祖と向き合った私は、震えるような思いで石塔をカメラに収めた。
(緒方容造=無職)   
(日本経済新聞朝刊 2011年3月9日 文化面より転載)

緒方容造氏がご祖先をお探しになるきっかけとなった建礼門院が
緒方三郎惟栄への恨みを語る一節を『謡曲大原御幸』からご紹介します。

平家一門が壇ノ浦に滅んだ後、生き残った建礼門院は、
尼僧となり大原の寂光院でひっそりと暮らしていました。
そこへ後白河法皇が訪れ、女院は問われるままに涙ながらに辛い体験を語ります。
ついで女院にとってさらに残酷な安徳天皇の最期の様子を知りたいといわれ、
涙をとめ意を決っして話し始めました。

「その時の有様を申すにつけて、まず恨めしい思いが先たちます。
長門の壇ノ浦でひとまず九州へ落ちのびようと一門で相談していましたのに
緒方三郎が心変わりしましたので、薩摩へ落ちようと
しましたが、
運悪く上げ潮になりそれも難しく、もはやこれまでとなりました。

それで、能登の守教経が海中に飛び込み続いて新中納言知盛が
壮絶な
最期を遂げました。その時二位殿は袴の裾を高くからげて、
『わが身は女の身であるが、敵の手にはかかるまい。』と安徳天皇の
手を取り船端に立ち『この国には逆臣が多く、浅ましいところです。
波の下には極楽世界があるので、そこへお供しましょう』と
東を向いて天照大神にお暇乞いをし、西に向かって念仏を唱え、
海の底深く沈んでしまいました。
謡曲大原御幸  緒方三郎惟栄館跡     
『参考資料』
「日本経済新聞朝刊」
能の友シリーズ11「大原御幸(小原御幸)」白竜社、2002年
画像は「大原御幸(小原御幸)」より引用




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