平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




熊野は時宗の開祖一遍がさとりを開いた地です。鎌倉時代中期の僧一遍は、
延応元年(1239)伊予国(愛媛県)の豪族・河野通広の子として生まれました。
河野氏は大三島の大山祇(おおやまづみ)神社を守る越智氏の分流として栄え、
源平合戦では、源氏勝利の立役者となりました。屋島・壇ノ浦合戦で河野水軍を率いて
手柄を立てた通信は、一遍の祖父にあたります。通信の活躍により河野氏一族は、
鎌倉幕府の実力者となりますが、承久3年(1221)承久の乱で大きな打撃を受けます。

一族の大部分が味方した後鳥羽上皇方が鎌倉幕府に敗れ、通信は捕えられて
陸奥国に流され、2年後にそこで亡くなりました。こうして一遍が生まれた頃には、
一族はかつての勢いを失っていましたが、一遍の父は戦いには参加せず
所領を安堵されました。母の死をきっかけに10歳で出家した一遍は、
13歳の時に九州大宰府で浄土宗に入門し修行を重ねます。
父の死を機に帰郷し一旦還俗しますが、数年後には再び出家します。
その後伊予を離れ、念仏札を道行く人に配りながら四天王寺から
念仏の教えが盛んであった高野山を経て、熊野本宮に向かう途中、
一人の僧が信心が起こらないからと札を受け取るのを拒否したことから、
一遍はこのまま札を配り続けていいのだろうかと疑問を持ち、本宮大社
証誠殿(しょうじょうでん)の神前にひざまずき念仏勧進のあり方を問いました。
すると「全ての衆生は、阿弥陀仏の大きな力によって、極楽往生できるように
定められている。信不信、浄不浄の人間を問わず、
一切の衆生は極楽往生できる。札を配るべし」との神託を得ました。

つまり相手の信仰の有無にかかわらず「南無阿弥陀仏」という名号そのものに
絶対的な力があるので、念仏札さえ受け取れば、阿弥陀仏が必ず救ってくださる。
だから迷わずに札を配って衆生の救済に励め。ということです。
こうして本宮大社で霊験を得た一遍は、「南無阿弥陀仏」と書いた小さな札を配る
「賦算(ふさん)」という独自の布教方法で再び遊行の旅にでます。その足跡は、
祖父通信の墓のある奥州江刺から南は九州の南端大隅にまで及んでいます。
全国を遊行するうちに、慕う人々(時衆)があとに続くようになり、名号を唱えながら踊る
「踊念仏」がプラスされ、娯楽的要素をも備えた踊りの効果も大きく、
時衆(時宗)は瞬く間に日本中に広まっていきました


熊野本宮大社の旧社地、大斎原の様子を伝える最古の絵図『一遍上人絵伝』
鎌倉時代に描かれた国宝『一遍上人絵伝』は、弟子の聖戒(しょうかい)が編纂し、
九州への旅立ちから往生までを十二巻の絵巻物に仕立てたものです。
一遍上人の行状やゆかりの地の風景・社寺・風俗などが取入れられ、
かつての熊野本宮大社の姿を今に伝える貴重な資料です。

大斎原には5
12社の社殿があり、回廊に囲まれた社殿は、
渡廊によって東西に区切られ、回廊の東面に楼門・渡り廊下に八脚門、
西面に四脚門がそびえていました。中央二社殿のうち左方が阿弥陀如来の垂迹として
信仰を集めた主神の家津御子大神(けつみこのおおかみ)の証誠殿。

一遍が証誠殿の神前で通夜した際、山伏姿で長頭巾をかけた熊野権現が現れ、
一遍に神勅をあたえる場面。(部分拡大)

社殿廊外の西方には、鐘楼と仏殿三棟が並んでいます。

 時宗寺院の手によって昭和46年に建てられた大斎原の一角に建つ
一遍上人神勅名号碑」
独特な筆づかいで「南無阿弥陀仏」と刻まれています。


 正応2年(1289823日、摂津国兵庫(兵庫県)で亡くなった上人を偲んで、
毎月23日に
遍上人碑の前で月例祭が執り行なわれています。

 
一遍上人神勅名号碑
一遍上人は伊予国の豪族河野通広の第二子として、延応元年紀元一八九九年
道後に誕生し、童にして仏門に入り幼名松寿丸ついて随緑のち智真と改名
苦修練行すること多年学解進み浄教の奥旨を極めたが、猶意満たざるものあり
諸国の名社聖佛に巡礼して祈誓し、最後に文永十一年(紀元一九三四年)
熊野本宮証誠殿に祈念し、百日の参籠の誠を捧げ大神の霊告を感得して
その證成を受け、遂に獨一念佛を開顕し熊野の本地は弥陀の信仰より
之を弥陀直授の神勅相承と呼ばれる。
之上人成道の聖節にして名を改めて一遍と称し遊行賦算を本宮より始め、
南は鹿児島北は陸中岩手まで四十ヶ国に及ひ、悩める者を助け
病める者を救ひ、民衆に和と慈愛の心を説き、社会福祉社会教化につとめ、
神勅遊行賦算の途、正応二年(紀元一九四九年)齢五十一才にして、神戸兵庫に於て
身に唯衣一つにて往生せらる。「わが化導は一期はかりそ」と言はれ 
自坊もなく宗派を形成することもなく遷化され、後世時宗の開祖とならる。
時宗獨一念仏開顕の源泉たる熊野本宮の聖地に一遍上人の聖徳を偲ひ
今日上人真筆の名号碑を建立熊野大神の御神意を敬仰し念佛の衆徒を初め
信不信を問はす謹みて神勅獨一念佛の功徳を念願するものなり 敬白 
 昭和四拾六年四月拾四日  熊野別当三十四代 九鬼宗隆撰 永田鱗谷書
(現地碑文)
一遍と高野聖   大斎原  
『アクセス』
「大斎原」
和歌山県田辺市本宮町本宮1110 
熊野交通バス「大斎原前」下車すぐ
「一遍上人神勅名号碑」本宮大社から徒歩約10分
『参考資料』
  五来重「熊野詣」講談社学術文庫 梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社
 別冊太陽「熊野異界への旅」平凡社 「検証・日本史の舞台」東京堂出版
 高野澄「歴史を変えた水軍の謎」祥伝社

 

 

 

 



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熊野本宮大社は、熊野川・音無川・岩田川が合流する広大な中洲
「大斎原(おおゆのはら)」の森にありましたが、明治22年8月の
大洪水のため大部分が流失し、同24年にかろうじて水害を免れた
社殿が近くの高台に移築されました。

本宮前から河原に下り、あぜ道を進むと旧社地大斎原、そこには
平成12年、熊野の山々を借景に建てられた高さ33、9mの
大鳥居が建っています。

本宮の縁起は今から約2千年も昔の崇神天皇の時代に遡るといわれています。
古くは熊野坐(います)神社とよばれ、祀られているのは
熊野の大自然を支配する無名の神さまでした。
中国から朝鮮半島をへて伝来した仏教は、日本の神々の姿を借りて
次第に民衆の間に浸透していきました。平安時代中期になると、
その傾向はさらに強まり、神の本体は仏で、仏が人々を救うために神の姿となって
現れたのだとする本地垂迹説(
ほんじすいじゃくせつ)が唱えられます。
やがて熊野三山にも仏教が大きな影響を与えるようになり、
神と仏が具体的に結びつけられて信仰されるようになります。

平安時代に書かれた『熊野権現御垂迹縁起』が語るところによると、
熊野の神は、唐の天台山から九州の彦山・伊予の石槌峰・淡路島を経て、
熊野新宮の神倉峰(神倉山)に降臨し、その後、大斎原のイチイの樹の梢に
3枚の月形となって再び天降り、3枚のうち1つは「証誠大菩薩」、
あとの2つは「両所権現」として姿を現しました。

両所権現は、那智の夫須美大神、新宮の速玉大神で、
証誠大菩薩は、本宮の家津御子大神(けつみこのおおかみ)のことです。
大猪を追っていた猟師の千代定が、それを見つけ樹の下に
三つの宝殿を造って祀ったと伝えています。熊野三山の神々の誕生です。
この神話は熊野の神々の起源を唐とし、大菩薩や権現という称号を
用いている点など、仏教影響のもとで作られた神仏習合の話となっています。
ちなみに外来宗教の仏教と日本古来の神道とを融和させて、
人々が信仰したことを神仏習合といいます。

そして本宮の家津御子大神(けつみこのおおかみ)は阿弥陀如来、新宮の速玉大神は
薬師如来、那智の夫須美大神(ふすみのおおかみ)は千手観音であるとされました。
阿弥陀如来が本宮の証誠殿に安置され、熊野の地が阿弥陀浄土となると、
上皇や貴族たちは極楽浄土を求めて、競って熊野詣を行うようになります。
さらに仏が衆生を救うために、仮(権)に神として姿を現したということから
「権現」という神号が誕生し、本宮大社・速玉大社・那智大社の熊野三山は
「熊野三所権現」と総称されるようになります。

熊野本宮大社に残されている古地図には、当時の大斎原が詳しく描かれています。

熊野本宮大社旧社地大斎原
約1万1千坪の敷地には、楼門がそびえ、5棟12社の社殿とともに鐘楼・仏殿・
神楽殿・管弦所が建ち並び、さらに修験者の庵が2、3百も軒を連ね、
現在の本宮大社の何倍もの規模を誇っていました。

今は上流にダムができて音無川は涸れてしまいましたが、もとは水量が豊かで、

この川で身を浄めれば煩悩や罪業が消えると信じられ、熊野御幸の上皇や貴族たちは、
ずぶ濡れになって歩いて川を渡り神域に入りました。これを「ぬれ草履の入堂」といい、
水垢離のひとつです。参拝者は本宮を詣でた後、大斎原にあった船着き場から
小舟に乗って熊野川を下り、新宮の速玉大社に向かいました。


「大斎原前」次のバス停は「本宮大社前」

鳥居の左手にたつ「熊野本宮大社旧地」の石碑

鳥居をくぐると熊野本宮大社まで800mの道しるべがあります。

川辺に下りて中洲へ渡ります。

往時の姿を伝えるように壮大な切石積基壇が残っています。





流失した中四社・下四社の神々を祀った石祠(せきし)二基が
大斎原に建てられ、今も祭祀が継続して行われています。
大斎原(一遍上人)  
『アクセス』
「大斎原」和歌山県田辺市本宮町本宮1110 
JRきのくに線「新宮駅」から本宮方面行バス「大斎原前」下車すぐ(約1時間20分)
本宮大社からは、国道を横断し河原へ下り、大鳥居を目ざしてください。
『参考資料』
「和歌山県の地名」平凡社 五来重「熊野詣」講談社学術文庫 
  井上宏生「暮しを彩る日本の神さま」実業之日本社 加藤隆久「熊野大神」戒光祥出版



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熊野本宮大社鳥居の前に翻る神旗の紋章は、
熊野三山の神の使いとされる八咫烏(やたがらす)です。

末法思想が広がる平安時代末期、本宮・新宮・那智大社の
熊野三社への参詣がブームとなり、特に院政期の白河上皇から
後鳥羽上皇までの百年間に百回近い熊野御幸が行われ、
鎌倉時代も中期になると庶民による熊野詣も増えてきました。


平清盛の嫡男重盛は、六波羅近くの小松谷に邸を構えたので
小松殿ともよばれ、
その一族は小松家といわれています。
母は早くに亡くなり、同母弟の基盛も
若くして死去しています。
母は高階基章(たかしなもとあき)の娘で、
基章は藤原忠実に仕えた
右近将監(しょうげん)という下級貴族です。


重盛の異母弟、宗盛・知盛・重衡らの母は清盛の後妻時子です。
時子の父は
公家平氏とよばれ、官僚貴族として仕えた平時信で、
重盛の母の実家と時子の
実家とでは、格段の差がありました。

時子の妹(建春門院)が後白河法皇の
寵愛を受け
高倉天皇を生み、さらに娘の徳子(建礼門院)が
高倉天皇のもとに入内して皇子(安徳天皇)を生むなど
平家一門における
時子やその子供たちの
権勢が高まると、重盛は微妙な立場に置かれたようです。


その上、重盛の妻は平家打倒を企てた藤原成親(なりちか)の妹、
嫡男維盛の妻は
成親の娘でした。
謀反が発覚すると小松家の立場はさらに悪くなり、

重盛は政治的発言権を弱めていったと思われます。

『平家物語』では、 重盛は横暴で傲慢な父清盛とは対照的に、
温和で文武に優れ、
その上、冷静沈着、
時には父を諫める理想的な人物として描かれています。
温厚な人柄もあって
後白河法皇や貴族からも信頼され、
対立する法皇と父との板挟みで苦悩する重盛の姿が描かれています。

平家打倒の鹿ケ谷の謀議が発覚し、清盛の娘徳子が皇子を生んだ
翌年の
治承3年(1179)5月、都に激しいつむじ風が吹き荒れ、
建物が倒れ、多くの人が命を失いました。
(実際につむじ風が起きたのは、1年後のことですが、
物語は1年早めて重盛死去の
予兆としています。)
大変な被害がでたので、早速神祇官に占わせたところ

「この100日のうちに、高い位の大臣に不吉なことが起こる。
そして一大事が起こり、戦乱が
続くことになる。」と出ました。

またこれに先立つ4月には、重盛は不吉な夢を見ました。
春日明神の大鳥居に大勢の人が集まり、悪行が過ぎた罪で春日明神が
清盛の首を太刀の先に貫いて高々と差し上げています。
その時、妻戸をたたく音がして家臣の瀬尾(妹尾)兼康が
飛んできました。兼康は重盛と同じ夢を見て不安になり、
夜明けを待てないで参上したのでした。
神祇官の結果やこの夢に平家一門の前途を案じた重盛は、
体調がすぐれない中、
嫡男維盛らとともに紀州熊野へ向かいました。

重盛が夜すがら祈りを捧げた証誠殿
熊野本宮の証誠殿(しょうじょうでん)の神前で一晩中、
祈り続けました。
「父清盛の悪行を止めてください。
父が
悪逆無道を行うので、何度も諌めるのですが、
父は心に留めてくれません。
それを見るにつけ父一代の栄華さえも危うく思われます。
その報いが子孫末代におよぶようなことがあるならば、
重盛の命を縮め、
来世の苦しみからお救い下さい。」
その時のことです。重盛の体から、
燈籠の火のようなものが
体からパッと光って消えました。

熊野からの帰り道、岩田川(白浜町富田川)を渡った時、
息子の維盛らが水遊びをすると、維盛が着ていた白い浄衣が濡れて
下の薄紫の衣が透け、さながら
喪服の薄墨色のように見えました。

家臣の筑後守貞能(さだよし)が
「不吉なのでお召替えを」と
言いますが、重盛は自分の死の願いかなったことを知り

これをおしとどめ、そこから熊野の神にお礼の使いを差し向けました。
息子たちがまもなく本当の喪服を着ることになったのは、
実に不思議なことでした。
現在の富田川はかつて岩田川とよび、
熊野本宮参詣の際、人々が水垢離をした川でした。


重盛が病の床についたのは、熊野から帰ってまもなくのことです。。
清盛はちょうど宋から来ていた名医の治療を勧めますが、
重盛は人間の寿命は
天命によるものであるからといい、
かりに中国の医術によって回復すれば
我国の医術を
はずかしめることになると断ります。

そして熊野権現が自分の願いを聞き入れてくれて
病にしてくれたものと
悟った重盛は、出家して法名を浄蓮とつけ、
一心に念仏を唱えながら臨終の時を迎えました。
治承3年(1179)、まだ42歳の若さでした。病名は胃癌とも胃潰瘍とも、
また一説には、頸部の悪瘡とも背中の悪瘡ともいわれています。
翌年の治承4年には、伊豆にいた源頼朝が挙兵し、
次いで木曽で兵を挙げた木曽義仲が
倶利伽羅合戦で平家軍に大勝し、大軍を率いて
上洛するのは、寿永2年(1183)のことです。
それを重盛は知らないで死んだことになります。

「重盛殿が清盛入道の横暴を諌めたしなめたので、
なんとか平和が保たれたが、
これからは
天下が乱れるであろう。」と人々は悲しみました。
しかし宗盛の周囲の者だけは、
宗盛の時代がくると
ひそかに喜んだというのです。
(「巻3・無文の沙汰の事・つじかぜの事・医師問答の事」)

 『巻1・鱸の事では、清盛が伊勢から海路で熊野参詣の途中、
突如大きな鱸(すずき)が
船の中に飛びこむという吉兆が現れ、
この後、清盛はとんとん拍子に出世し、
熊野権現が平家一門の繁栄を約束したことが語られました。
かつて清盛の
栄華を予告した熊野の神が、
今度は重盛の死への願望を叶えたのでした。



「熊野本宮大社前」でバスを下り、鳥居をくぐると杉木立の中に急な石段が続きます。

社はもと熊野川の中州にありましたが、明治22年の大洪水で多くの建物が流失し、
残った社殿がその北西方の高台に遷されました。

奉納のぼり旗に記されている「熊野大権現」の権は仮の姿という意味です。
権現(ごんげん)という神様はもとは仏で、
その仏が神の姿になって現れたという考え方です。
神と仏とは元々は別のものですが、
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の登場によって結びつけられました。

参道石段の途中、左手に祀られている祓戸大神



手水舎・社務所の奥に巨大な注連縄のかかる神門があり、
神門を入ると荘厳な檜皮葺の社殿が現れます。






向かって左手の社殿には、那智(夫須美大神・ふすみおおかみ)と
新宮(速玉大神)が合祀され、
中央は主神の
家津御子大神(けつみこのおおかみ)、重盛が願をかけた証誠殿です。
そして右手には、若宮(天照大神)が祀られています。
この四体の木像神像は、平安時代の作といわれ、
いずれも国重文に指定されています。


重盛が小松谷に建てた燈籠堂にはじまる浄教寺、
宋から重盛に送られてきた阿弥陀経石の摸刻を安置する小松谷正林寺、
熊野参詣の途上落慶法要を行った法楽寺。

浄教寺 平重盛(1)  
小松谷正林寺の阿弥陀経石 平重盛(2)  
平重盛の墓(小松寺1)  大阪市の法楽寺(1)源平両氏の菩提を弔った寺  
『アクセス』
「熊野本宮大社」和歌山県田辺市本宮町本宮
JRきのくに線「新宮駅」から本宮方面行バス「本宮大社前」下車すぐ(約1時間20分)
JRきのくに線「紀伊田辺駅」から龍神バス「本宮大社前」下車すぐ(約2時間)
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 「平家物語を知る事典」東京堂出版
 「和歌山県の地名」平凡社
 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社


 





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