平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



安濃津(あのうつ・あのつ)は、現在の安濃川河口からその南の
阿漕(あこぎ)浦一帯にあったとされる港で、
白子(しろこ)港とともに伊勢平氏の軍事・交易の要地でした。
安濃川と岩田川が合流した広い河口は安濃の松原を自然の防波堤とする天然の良港で、
京に近く、京の外港としてまた東国への航路として使われていました。

岩田川流域は、古くから開けた地域で、流出砂礫が堆積して
砂嘴(さし)が長くのび「安濃松原」を形成し、
下流部は古くは「安濃津」とよばれた港町として賑わっていました。
砂嘴は、静岡県の三保の松原や日本三景の一つ天橋立、
北海道の野付崎(のつけさき)などにもみられます。

中国明代の歴史書『武備誌(ぶびし)』に博多の津(福岡県)、
坊の津(鹿児島県)とともに「日本三津(しん)のひとつ」と紹介され、
鎌倉時代以降も商港として繁栄していましたが、
戦国時代に入った頃の明応7年(1498
)8月の
大地震・大津波によって壊滅し、港としての機能を失いました。

平成8年(1996)に津実業高校(現、みえ夢学園)敷地内で行われた
「安濃津柳山遺跡」発掘調査で、かつての安濃津を
彷彿とさせる遺構や遺物が発見されました。

JR阿漕(あこぎ)駅からみえ夢学園へ  

三重県立みえ夢学園高等学校
周辺を歩いてみましたが、発掘調査に関する案内板らしいものは何もありませんでした。



津駅に戻り安濃川の畔に着いた時には、日が暮れあたりは薄暗くなってきました。

安濃川沿いに河口へ向います。

河口近くの安濃川に架かる安濃津橋 

 安濃川河口 

養和元年(1181)2月、源行家が尾張に迫まると、平氏は伊勢国司
藤原清経に国内の兵船・水手(かこ)の挑発と墨俣への廻港を命じました。
この命令には、これまで国司の支配が及ばなかった伊勢神宮の神郡や
御厨(みくりや)も許されず、神宮は石田(津市)、焼出(やきで)、
塩浜(津市か)、若松御厨(鈴鹿市)、それと安濃津と推測される
諸御厨船45艘と298人の水手が墨俣へ出航している。(『三重県の歴史』)
この結果、同年3月、尾張・美濃 国境付近の墨俣川(現、
長良川)において
頼朝の叔父源行家軍と平重衡軍との間で合戦が繰り広げられ、
平家軍が行家軍を撃破しています。(墨俣川の戦い)

『平家物語(巻1・鱸)』には、清盛がまだ安芸守だった30代半ばの頃、
伊勢の安濃津から船で熊野詣の道中に珍事が起こったという話が収められています。
大きなスズキが海をゆく船中に飛び込んできました。参詣途中は精進潔斎をして
魚などは口にしませんでしたが、「これこそ熊野権現の利生である」という
先達の言葉に従って、この魚を調理して家の子、郎党に食べさせたところ、
吉事ばかり続いて、清盛は太政大臣にまで昇りつめました。平家がこのように
繁栄したのは、ひとえに熊野権現の御利益であるといわれました。


また『巻5・文覚被流(ながされ)』には、高尾の神護寺を再建するため、
文覚が後白河法皇の御所、法住寺殿へ赴き、法皇に寄付を強要して断られ、
悪態をついたことから伊豆へ流され、安濃津から舟に乗った話が載せられています。
源平墨俣川古戦場跡(義円)


伊勢守に任命され伊勢に赴任してきた維衡(これひら)の子、
正度(まさのり)には、維盛・貞季(さだすえ)・季衡・貞衡・正衡の
5人の子があり、貞衡は安濃津、正衡は北伊賀、季衡は北伊勢、
貞季は中南伊勢とそれぞれに本拠地を築きました。

忠盛塚がある産品の北方、安濃川中流の右岸、長谷山から東へのびる
丘陵の先端付近に殿村があります。
ここは安濃川に沿った地域で、
西方の伊賀上野に通じる伊賀街道にほど近い場所に位置しています。
昭和44年(1969)出版の『布留屋草子』によると、
殿村は平貞衡が屋敷を構えた所という。

長谷山麓の置染神社から殿村に向かう途中、殿村遠望







殿村近くの「下沖バス停」からバスで津駅へ

貞衡は安濃津三郎と称し、その子、貞清も安濃津といっているように
安濃津(現、津市)に本拠があったことを示していますが、貞清はやがて
強大となった正衡系の忠盛に安濃津を譲り、桑名(三重県北部)へ移ったといわれ、
この中には安濃津、桑名(北伊勢)、富津(桑名郡内・とつ)といった
地名を上につけてよばれる者がいました。
『アクセス』
「安濃津橋」津市住吉町15  近鉄・JR津駅から 徒歩約20分
「三重県立みえ夢学園高等学校」津市柳山津興1239
JR阿漕駅から徒歩10分または
近鉄・JR津駅から三交バス(15分)「柳山 学校前」下車(徒歩1分)
『参考資料』
「三重県の地名」平凡社、1990年 県史24「三重県の歴史」山川出版社、2000年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)(中)角川書店、昭和62年・昭和42年
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年 


   



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忠盛塚の北西、長谷山(316㍍)の東麓に鎮座する置染(おきそめ)神社境内には、
平忠盛の父、正盛の墓といわれる宝篋印塔があります。

忠盛塚から農道を西に向かいます。


昭和34年まで正盛の墓が安置されていた旭晶寺(きゅうしょうじ)







長谷山麓の集落奥には置染神社の森があります。

「伊勢平氏一門の墓
桓武天皇の後裔平維衡は伊勢守に任じられその後数代にわたって
伊勢の地に居住して勢力をのばした。
貞衡とその嗣は安津三郎と称し、
正衡の嗣正盛は武勲に輝きその嗣忠盛は昇殿を許され、伊勢平氏の名は
天下に轟き、忠盛の嗣清盛は太政大臣に任じられ平氏の全盛時代を築いた。
産品の里は 貞衡 正衡等の平氏一門の故地と伝え忠盛生誕の地という。
式内置染神社は伊勢平氏一門の産土の社といい、
この墓塔群は、その後裔一門ゆかりのものと伝える。
  昭和五十二年十月  津市史跡名勝保存会」(説明板より)








拝殿 

本殿    例祭4月2日
祭神は天照大神・饒速日命(にぎはやひのみこと)・火産霊命(ほむすびのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)・仁徳天皇      
置染神社はもと二社に分かれていました。一社は天照大神を祀る神明宮です。
もう一社は、長谷連がその祖、饒速日命を祀り産土神としていましたが、
文政の頃(1820)、二社は合祀されました。

鳥居手前の道から墓苑へ上ります

「宝篋印塔(ほうきょういんとう) 平正盛の墓
お経を埋たる供養塔である。旭晶寺堂ヶ谷(西方三〇〇米)に於て
信長の兵火に焼かれる(一五七五年)この墓も境内に在り(二十数基)
法塔忠盛塚に移される。その後旭晶寺再建(一七八五年)境内に移される。
正盛は源氏とならび平氏台頭の基礎をつくる。忠盛それを嗣ぎ益々勢力をありつ、
京都六波羅に移るも忠盛、清盛ら伊勢の国に往来あり
忠盛宮中昇殿の栄達も父の遺徳なりと命日四月二日に供養した
宝篋印塔(ほうきょういんとう)であると云われる。
氏神置染神社に於て四月二日は祖先代々から年中行事として行われる。(宮殿祭)
忠盛の墓は多気町河田に在り
関東から維衡(これひら)―正度(まさのり)―正衡(まさひら)と嗣ぎ正盛の孫
清盛は天下に栄へその孫維盛の時、平氏は壇の浦で亡ぶ(一一八五年一月二十四日)
昭和三十四年八月十五日大豪雨あり旭晶寺全倒し墓荒廃せしをこの墓苑を創り安置す。
東の墓地(東方一〇〇米)十基余 鎌倉時代か?
西の墓地(西方三〇〇米)十基余 平安鎌倉時代か?
三ヶ所四十数基は先祖、平氏にまつわる宝塔であると信じてこそ
心を移し供花をなす。 産品歴史保存会」(説明板より)

昭和34年(1959)集中豪雨で旭晶寺が全壊し、正盛の墓はここに移されました。

受領といってもうま味の少ない隠岐守にすぎず、地味な存在だった正盛ですが、
立身出世の機会を掴み取り、11C末には中央政界に頭角を現します。

平氏一門の墓



桓武平氏の諸流のうち最も栄えたのは、平維衡(これひら) を祖とする伊勢平氏で、
維衡が伊勢守に任命されて以来、現在の津市付近を本拠地として、
伊賀や尾張にまで勢力を拡大していきました。
勢力圏が拡大し、支流や分家が増えると一族同士の対立や争いが生じました。
源氏は一族内の紛争で殺し合いをしていますが、
平氏は内部に亀裂を含みながらも、一族の結束を強める事で繁栄しました。
しかし、平氏も初期には主導権争いがかなりありました。


長徳4年(998)に維衡は、伊勢の所領をめぐって同族の
平致頼(むねより)と争い、朝廷に召喚されました。この時は致頼に
非があるとされ、隠岐へ遠流、維衡は一時、淡路島に身柄を移されています。
この争いは、次の世代にももちこされ、正度(維衡の子)は致頼の子、
致経(むねつね)と伊勢北部の所領をめぐる激しい戦いを展開しました。
父子二代にわたる合戦は、最終的に維衡流の勝利となり、

致経の子孫たちは、その後伊勢から姿を消しています。
ちなみに致経は典型的な荒武者でしたが歌に優れ、
『詞歌和歌集』に一首みえます。(巻9雑上335)

伊勢の拠点を失った致経の良茂流は地方武士に転落し、
新たに本拠としたのが、尾張の野間内海荘(知多半島)です。
この流れをくむ長田忠致(おさだただむね)は、平治の乱に敗れ
を頼って落ちてきた源義朝と忠致の娘婿鎌田正清を謀殺しています。
河内源氏との主従関係が、いつ確立されたのかは不明ですが、
当時、忠致は尾張を勢力下においていた源氏の家人で、
正清は義朝の乳母子です。


維衡の子正度(まさのり)には、維盛(これもり)・貞季(さだすえ)・
季衡(すえひら)・貞衡・正衡の五人の息子があり、それぞれ伊勢に
本拠地を築いていましたが、この中でのちに本流となったのが正衡の流れです。
平正盛京へ凱旋、政界に躍り出る(鳥羽離宮~鳥羽作道~羅城門)  
野間はりつけの松・長田忠致屋敷跡   
 『アクセス』
「置染神社」 三重県津市大字産品484
平氏発祥伝説地忠盛塚より北西へ約700㍍
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年 
高橋昌明「伊勢平氏の興隆 清盛以前」文理閣、2004年
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年

 



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三重県のほぼ中央に位置し、伊勢湾に面する津市の西、
産品(うぶしな)には、平忠盛誕生にまつわる胞衣塚(えなづか)、
産湯池(うぶゆいけ)などの伝承史跡があり、
「平氏発祥伝説地」と刻まれた石碑が建っています。

津の地名は、安濃郡地方の港の意「安濃津(あのうつ)」に始まり、
古くは商船が集まり栄えた港でした。


津駅前



バス停「忠盛塚」で下り、西へ歩くと右手にこんもりとした木立が見えます。



大きな桜の木の下に忠盛の胞衣塚ともいわれる「忠盛塚」があります。



「平氏発祥伝説地」の碑
「平氏発祥伝説地」として、昭和14年(1939)には県史跡に指定されています。

平氏発祥伝説地 (説明板より)
 三重県指定史跡 時代 平安時代 所有者 津市  指定 昭和14年3月25日
一般に「忠盛塚」と呼ばれるこの地は、正式には「平氏発祥伝説地」といいます。
この塚は、平忠盛が産まれたときの胞衣(えな)を埋めた「胞衣塚」ともいわれ、
忠盛が産湯を使ったとされる産湯池も残っています。
桓武天皇の曾孫(そうそん)高望王(たかもちおう)を祖とする平氏は、
初め東国に土着し勢力を張っていました。
しかし、平将門(まさかど)の乱や平忠常(ただつね)の乱以後、
東国は源氏の地盤となり、貞盛の子維衡
(これひら)の時に伊勢・伊賀を
本拠地とするようになり、寛弘3年(1006)維衡は伊勢守に任じられています。
「平家物語」には、眇(すが)め田舎武士の昇進をねたんだ公卿が
「伊勢瓶子(へいし)は素甕(すがめ)なり」とはやし、あざけったとあります。
維衡の曾孫正盛は正四位下但馬守に進み、武士として最初の昇殿を許され、
平氏繁栄の基礎をつくりました。ところで、伊勢平氏とは維衡系のことで、
「尊卑文脈」には維衡の孫貞衡とその子貞清は安濃津三郎、
貞清の子清綱は桑名冨津二郎と傍注され、
北勢から中勢にかけての勢力伸張がうかがわれます。
貞衡の弟正衡の流れの正盛・忠盛は、伊勢平氏の中では傍系にあたりますが、
忠盛の昇殿、清盛の活躍により、伊勢平氏=忠盛と
理解されるようになったと考えられます。
そして、貞衡系の伊勢平氏は、いつしか忠盛・清盛の郎従となり、
歴史の表舞台から姿を消してしまいました。  
津市教育委員会

碑には「平刑部卿忠盛公誕生塚」と刻まれています。
仁平元年(1151)忠盛は、刑部省長官である刑部卿に任じられ、
このままいけば公卿となるのは確実でしたが、その2年後体調を崩して
刑部卿を辞任、それから2日後に58歳の生涯を終えました。




 
忠盛が産湯を使ったという産湯池
「産湯池」の石碑は近くの古墳から出土したものを利用しています。

「平氏発祥伝説地 
  伊勢の国は、武家の棟梁平氏根拠地であった。
 平氏にも数流あるが、最も頭角をあらわしたのは、桓武天皇より出る
”伊勢平氏”で平維衡が伊勢守として在任して以来、
正度、正衡、正盛、忠盛と相ついで伊勢国や伊賀国に勢力を張った。
 中央に進出した正盛、忠盛は海賊追捕などで武功を重ねて
熊野や瀬戸内海の強大な水軍を支配し、院政政権の側近として活躍した。
安濃津は、白子や桑名とともに平氏一門の基地の港として重きをなしたが、
忠盛の子の清盛も熊野参詣に安濃津から船出している。
この産品(うぶしな)附近は忠盛誕生のときの胞衣塚、産湯池や邸宅跡など
数多い伝承に包まれた平氏ゆかりの地である。
三重県教育委員会   津市教育委員会」(説明板より)

ここは西方の伊賀上野に通じる交通の要衝の地にあります。



「伊賀街道は津から伊賀上野に至る約50㎞の道で、
伊賀側からは伊勢街道とも呼ばれ、国道163号線に沿っています。
山間を通る街道らしい美しい山並みと静かな佇まいを残し、
途中奈良街道(旧伊賀道)と合流します。」(説明文を要約しました)

 桓武天皇の曽孫高望(たかもち)王が宇多天皇の時代、
「平」姓を賜り、臣籍降下したのが桓武平氏の始まりです。
その子国香、孫貞盛のころには東国に土着し勢力を張っていましたが、
貞盛の子維衡(これひら)が伊勢守に任命され、伊賀や伊勢に
勢力を広げるようになりました。これが「伊勢平氏」の起こりです。

この時期は、前九年・後三年合戦で名を馳せた
源頼義・義家の陰に隠れて目立たず、栄達には程遠い状態でした。
伊勢平氏が中央政界に躍り出たのは、正盛のときからです。
その子忠盛は白河院・鳥羽院に仕え、各地の受領を歴任して
財をなすとともに、
西国の海賊追討などで武功をあげました。

 平氏系図に見られるように、維衡の流れは、維衡の孫の貞衡(さだひら)が
安濃津(現、津市)に本拠地を置き、安濃津と称し、
その孫清綱は伊勢国(三重県)桑名(北伊勢)を領し、桑名を名乗っています。

近くの置染神社に忠盛の父正盛の墓があります。
平正盛の墓(置染神社)  
『アクセス』
「平氏発祥伝説地」三重県津市産品(うぶしな)1437-1
近鉄・JR津駅より三重交通バス「平木」行、「片田団地」行で約30分、
バス停「忠盛塚」下車 徒歩約3分 
バスは1時間に1~2本

近鉄津新町駅より三重交通バス「平木」行、
「片田団地」行で約10分、バス停「忠盛塚」下車
『参考資料』
「三重県の地名」平凡社、1990年 河合敦「平清盛と平家四代」講談社、2012年 
富倉徳次郎 「平家物語全注釈(上)」 角川書店、昭和62年

 

 

 



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