![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/4a/82ac90e0fc8846c775d72408d083cea5.jpg)
三重県のほぼ中央に位置し、伊勢湾に面する津市の西、
産品(うぶしな)には、平忠盛誕生にまつわる胞衣塚(えなづか)、
産湯池(うぶゆいけ)などの伝承史跡があり、
「平氏発祥伝説地」と刻まれた石碑が建っています。
津の地名は、安濃郡地方の港の意「安濃津(あのうつ)」に始まり、
古くは商船が集まり栄えた港でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/e6/1d68d03618698da8833eb9ec1647c470.jpg)
津駅前
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/a7/cd00b183619d51d2dbe5506260cccdd2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/0a/394a28e075e28328511e039245d44c28.jpg)
バス停「忠盛塚」で下り、西へ歩くと右手にこんもりとした木立が見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/02/781e1e0be1ea2c5677e44a949011ce97.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/fa/aa78bdfba6439af220d04c3408246f3c.jpg)
大きな桜の木の下に忠盛の胞衣塚ともいわれる「忠盛塚」があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/e1/9a485782e87aa67f19fa5cf1d78b0a76.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/15/0685271c86d4042a4d61894ae64f65ea.jpg)
「平氏発祥伝説地」の碑
「平氏発祥伝説地」として、昭和14年(1939)には県史跡に指定されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/70/760bc0644de3edc82fa101bcfe764a12.jpg)
平氏発祥伝説地 (説明板より)
三重県指定史跡 時代 平安時代 所有者 津市 指定 昭和14年3月25日
一般に「忠盛塚」と呼ばれるこの地は、正式には「平氏発祥伝説地」といいます。
この塚は、平忠盛が産まれたときの胞衣(えな)を埋めた「胞衣塚」ともいわれ、
忠盛が産湯を使ったとされる産湯池も残っています。
桓武天皇の曾孫(そうそん)高望王(たかもちおう)を祖とする平氏は、
初め東国に土着し勢力を張っていました。
しかし、平将門(まさかど)の乱や平忠常(ただつね)の乱以後、
東国は源氏の地盤となり、貞盛の子維衡(これひら)の時に伊勢・伊賀を
本拠地とするようになり、寛弘3年(1006)維衡は伊勢守に任じられています。
「平家物語」には、眇(すが)め田舎武士の昇進をねたんだ公卿が
「伊勢瓶子(へいし)は素甕(すがめ)なり」とはやし、あざけったとあります。
維衡の曾孫正盛は正四位下但馬守に進み、武士として最初の昇殿を許され、
平氏繁栄の基礎をつくりました。ところで、伊勢平氏とは維衡系のことで、
「尊卑文脈」には維衡の孫貞衡とその子貞清は安濃津三郎、
貞清の子清綱は桑名冨津二郎と傍注され、
北勢から中勢にかけての勢力伸張がうかがわれます。
貞衡の弟正衡の流れの正盛・忠盛は、伊勢平氏の中では傍系にあたりますが、
忠盛の昇殿、清盛の活躍により、伊勢平氏=忠盛と
理解されるようになったと考えられます。
そして、貞衡系の伊勢平氏は、いつしか忠盛・清盛の郎従となり、
歴史の表舞台から姿を消してしまいました。 津市教育委員会
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/b1/030e401a91c80c7e87adb9788f1113d8.jpg)
石碑には「平刑部卿忠盛公誕生塚」と刻まれています。
仁平元年(1151)忠盛は、刑部省長官である刑部卿に任じられ、
このままいけば公卿となるのは確実でしたが、その2年後体調を崩して
刑部卿を辞任、それから2日後に58歳の生涯を終えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/6d/739d5f6775a90a907be3f4d54e4d5feb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/eb/9696aa18d544c4537b5e5d74d140160a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/49/6119635f553f1b873fa79957075a7f57.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/0e/7c13144bc524c053e06c2f9eef81e498.jpg)
忠盛が産湯を使ったという産湯池
「産湯池」の石碑は近くの古墳から出土したものを利用しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/74/64fc55535c0b9f999bfb8fcf1d678a95.jpg)
「平氏発祥伝説地
伊勢の国は、武家の棟梁平氏根拠地であった。
平氏にも数流あるが、最も頭角をあらわしたのは、桓武天皇より出る
”伊勢平氏”で平維衡が伊勢守として在任して以来、
正度、正衡、正盛、忠盛と相ついで伊勢国や伊賀国に勢力を張った。
中央に進出した正盛、忠盛は海賊追捕などで武功を重ねて
熊野や瀬戸内海の強大な水軍を支配し、院政政権の側近として活躍した。
安濃津は、白子や桑名とともに平氏一門の基地の港として重きをなしたが、
忠盛の子の清盛も熊野参詣に安濃津から船出している。
この産品(うぶしな)附近は忠盛誕生のときの胞衣塚、産湯池や邸宅跡など
数多い伝承に包まれた平氏ゆかりの地である。
三重県教育委員会 津市教育委員会」(説明板より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/c6/ee87184eeb5dd56a8b31db39ee42e3d3.jpg)
ここは西方の伊賀上野に通じる交通の要衝の地にあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/9e/535a6b4370de6f994a557d9d8ef0bce5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/f7/1b43fd06eae4bcac85688a395230b98f.jpg)
「伊賀街道は津から伊賀上野に至る約50㎞の道で、
伊賀側からは伊勢街道とも呼ばれ、国道163号線に沿っています。
山間を通る街道らしい美しい山並みと静かな佇まいを残し、
途中奈良街道(旧伊賀道)と合流します。」(説明文を要約しました)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/52/967db00a9053f923e35a9782707b2daa.jpg)
桓武天皇の曽孫高望(たかもち)王が宇多天皇の時代、
「平」姓を賜り、臣籍降下したのが桓武平氏の始まりです。
その子国香、孫貞盛のころには東国に土着し勢力を張っていましたが、
貞盛の子維衡(これひら)が伊勢守に任命され、伊賀や伊勢に
勢力を広げるようになりました。これが「伊勢平氏」の起こりです。
この時期は、前九年・後三年合戦で名を馳せた
源頼義・義家の陰に隠れて目立たず、栄達には程遠い状態でした。
伊勢平氏が中央政界に躍り出たのは、正盛のときからです。
その子忠盛は白河院・鳥羽院に仕え、各地の受領を歴任して
財をなすとともに、西国の海賊追討などで武功をあげました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/eb/57aa98ebee844ac0c1eb3ad629688bd8.jpg)
平氏系図に見られるように、維衡の流れは、維衡の孫の貞衡(さだひら)が
安濃津(現、津市)に本拠地を置き、安濃津と称し、
その孫清綱は伊勢国(三重県)桑名(北伊勢)を領し、桑名を名乗っています。
近くの置染神社に忠盛の父正盛の墓があります。
平正盛の墓(置染神社)
『アクセス』
「平氏発祥伝説地」三重県津市産品(うぶしな)1437-1
近鉄・JR津駅より三重交通バス「平木」行、「片田団地」行で約30分、
バス停「忠盛塚」下車 徒歩約3分 バスは1時間に1~2本
近鉄津新町駅より三重交通バス「平木」行、
「片田団地」行で約10分、バス停「忠盛塚」下車
『参考資料』
「三重県の地名」平凡社、1990年 河合敦「平清盛と平家四代」講談社、2012年
富倉徳次郎 「平家物語全注釈(上)」 角川書店、昭和62年