平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




最寄りの南海電車沢ノ町駅

止止呂支比売命(とどろきひめみこと)神社は、
もと住吉大社の摂社として祀られていました。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)とその妃の
稲田姫尊(いなだひめのみこと)を主神とする式内社です。

住吉社神主の津守経国(つねくに)が承久 (じょうきゅう) の乱の
3ヶ月前
承久3年(1221)2月、後鳥羽上皇の熊野御幸の際に、
当社松林の中に若松御所をつくり行宮(あんぐう)としたことから、
若松宮とも若松神社ともよばれています。

境内図は止止呂支比売命神社HPよりお借りし、一部文字入れしました。

あべの筋に面して正面鳥居が建っています。



拝殿内部

拝殿その背後に本殿

南海電車高野線側に後鳥羽天皇行宮址の碑があります。

 

 
境内の北側には、霰松原荒(あられまつばら)神社が鎮座、
式内社の天水分豊浦命(あめのみくまりとようらのみこと)神社です。
明治40年に当社に遷座、境内社となっています。
霰松原の地は、住之江区安立(あんりゅう)町付近であったとされ、
今は埋立てが進み、辺りは住宅地となっていますが、
江戸時代までは松原が広がる海辺でした。

住之江駅東の霰松原公園(安立2丁目)内には、
天武天皇の皇子・長皇子(ながのみこ)の万葉歌碑が建っています。

♪霰打つ 安良禮(あられ)松原 住吉(すみのえ)の
  弟日娘(おとひをとめ)と 見れど飽かぬかも  長皇子 万葉集(卷1-65)

(松原に霰のバシバシと降るありさまを、愛しい住吉の弟日娘と

いくら眺めていても飽きることがない)

黒長社
古くからこのご神木とそこに現れる蛇を信仰する人々が多く、

黒長大神として祀られています。

 平家一門は都落ちする際、安徳天皇を連れ西国へ去ったため都に
天皇が不在という事態となり、朝廷は新天皇を即位させることが急務となり、
高倉天皇の第四皇子の後鳥羽天皇(1180~1239)が4歳で即位しました。

後鳥羽天皇像 水無瀬神宮蔵 『後鳥羽上皇』角川選書より転載

建久9年(1198)、19歳の若さで皇位を4歳の息子土御門天皇に譲り、
文武にわたって多芸多才な後鳥羽上皇は、武芸や和歌
そして政治面でも意欲を見せ始めました。
何かと制約の多い天皇に比べ、自由な立場となった
上皇は先例にとらわれない政治ができたのです

熊野御幸はその最たるもので、譲位したその年にさっそく熊野御幸を行い、
承久3年(1221)の承久の乱に敗れて隠岐に流されるまでの
24年間に28回というハイペースで熊野への旅を行っています。
年2回の年が三度もあり、熱狂的な熊野信仰者で知られる後白河上皇でさえ、
35年間に34回、1年に一度の割合で御幸したのに比べても
かなり多いことになります。
そして熊野は院政と強く結びつくことで
伊勢神宮と肩を並べるほどの聖地となりました。

後鳥羽上皇の熊野御幸は、建仁元年(1201)の熊野御幸に随行した
藤原定家が記した『後鳥羽院熊野御幸記』によって知ることができます。
上皇は公卿以下20名という大勢の供を連れて京都を出発しその夜、
一行は四天王寺に宿泊しました。翌日の明け方に阿倍野王子に参り、
次いで住吉社参拝の後、奉幣、御経供養があり、里神楽・相撲などの
芸能が奉納され、御所となった住吉殿に入り、歌会が行われました。
当時、住吉明神は和歌三神として尊ばれ、
歌道に志す人々が熱烈に崇拝していました。

歴史に当たる住吉の地図より一部お借りしました。

歌会が催された住吉殿(住之江殿)は、住吉社神主津守氏居館内の
正印殿(しょういんでん)とされ、その跡地は南北朝時代の
後村上(ごむらかみ)天皇の行宮(住吉行宮)となりました。
住吉大社の南方に「津守邸址」の碑とともに
「住吉行宮跡(国指定史跡)」(住吉区墨江2丁目)の石碑が建っています。 

あらゆる分野に秀で、弓馬などの武芸を好んだ後鳥羽上皇は、
鎌倉幕府の干渉を嫌い、自らの手で何事も行おうと、
これまでの北面の武士のほかに、新たに西面の武士を置き、
また諸国の武士を招くなどして、
幕府の配下にない軍事力の掌握に務めました。
さらに鳥羽上皇の死後、女院のもとに集積された広大な皇室領を、
すべて自分の手もとに集めさせ、膨大な私領を所有しました。

上皇は和歌を通して、鎌倉幕府三代将軍源実朝とは良好な関係を保ち、
子供に恵まれなかった実朝の後継者として自身の皇子を
将軍として 鎌倉に送ることを了承していました。
しかし実朝が暗殺されると、これを拒否し、
朝廷と鎌倉幕府の関係は悪化、 時の執権義時を中心に
勢力を拡大する北条氏一族と対立を深めていきます。
上皇は皇子を将軍に据えたら、幕府の独立を進め、 公武が
分裂することになってしまうと心配して幕府の要請を断ったという。

承久の乱の引き金となったのは、後鳥羽上皇寵愛の亀菊(伊賀局)が
上皇より与えられた摂津国豊島郡倉橋(大阪府豊中市庄内)、
長江(豊中市)の両荘園の権益が地頭北条義時によって
侵されたとして義時を罷免するよう上皇に頼んだことにあります。
後鳥羽上皇は二度に亘って義時の地頭職解任を要求しましたが、
幕府は守護・地頭は終身制であると、これをはねつけました。
これにより双方の交渉は決裂、それに将軍下向問題が絡み、
承久3年5月、上皇は城南宮の 流鏑馬(やぶさめ)の武者揃えと称して
兵を集め、 北条義時追討を命じる院宣を下しました。承久の乱です。

上皇に討幕の挙兵を勧めたのは熊野のトップ、
三山検校(けんぎょう)の長厳だったといわれ、後鳥羽上皇の
度重なる 熊野御幸の間に討幕の密談をしたと思われます。
熊野の実力者が積極的に乱に加わった結果、 乱後熊野は大打撃を受け、
長厳は討幕計画に協力したとして陸奥へ流されています。

『アクセス』
「後鳥羽天皇行宮跡碑」大阪市住吉区沢ノ町1–10–4
南海高野線「沢ノ町駅」下車徒歩約1分
『参考資料』
「後鳥羽院のすべて」新人物往来社、2009年  
本郷恵子「京・鎌倉ふたつの王権」小学館、2008年
 「新修 大阪市史(第2巻)」大阪市、昭和63年 
梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社、1990年  
「図解聖地伊勢・熊野の謎」宝島社、2014年
「大阪府の地名」平凡社、1986年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年
五味文彦「新古今集はなにを語るか 後鳥羽上皇」角川選書、平成24年
 犬養孝「万葉の旅(中)」社会思想社、昭和48

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 



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若狭街道(国道367号線)を北上すると、大原の入口にあたる
花尻(はなじり)橋の東北隅に花尻の森が広がっています。


花尻橋の手前右手に大原名産の柴漬を売る
土井志ば漬本舗の看板が見えます。

花尻の森は高野川に架かる花尻橋のたもとにあります。

「大原村社 江文神社御旅所」と刻まれています。
 
花尻の森には、猿多彦神を祀った小野源太夫社と称する小社があり、
江文(えふみ)神社の御旅所となっています。
昔からのいい伝えによると、ここは源頼朝が寂光院に隠棲した
建礼門院の動静を見張らせた松田源太夫の屋敷址という。
また一説にむかし大原村井出の大淵(おおぶち)という池に
悪蛇がいて、時々村に現れて人を害するので、村人が退治し、
その蛇の尾を埋めたところといい、頭は寂光院近くの
草生村(草生町)のおつうが森に埋めたといわれています。
(『昭和京都名所図会』)

 現地説明板より「大原の昔ばなし
 むかし昔、大原の里におつうという娘が住んでおりました。
ある日上洛の若狭の殿さまの目にふれ、おつうは玉の輿、
殿さまの国元に召されたのです。それはそれは夢ごこちの
毎日を過ごしていたのですが、やがておつうが病にかかると
殿さまの心も変って、おつうは戻されてしまったのです。
  おつうは悲しみのあまり大原川の女郎淵に身を投じました。
するとたちまち、その美しい姿は大蛇に変わりました。
そしてある日、都入りする殿さまの行列が大原の
花尻橋を通りかかったところを襲ったのです。
あばれ狂う大蛇は家来によって一刀のもとに切り捨てられましたが、
その夜から激しい雷雨や悲鳴に見舞われました。
恐れおののいた里人たちは、大蛇の頭をおつうが森に埋め、
尻尾を花尻の森に埋めて霊を鎮めました。
今でも、大原の里にかかる朝もやは大蛇の姿に棚引いていますし、
花尻の森ではおつうの鎮魂の行事が残っています。」

森には椿が多く植えられており、3月下旬〜4月上旬には
落椿(おちつばき)を愛でる人が訪れます。

 京都から大原へは、高野川を遡って八瀬・大原に出る若狭街道と
賀茂川沿いに北上し、鞍馬の手前、市原で右にまわって
静原・江文峠を通り大原へ入る鞍馬道とふたつのルートがあります。

新潮日本古典集成(巻12)371㌻頭注より
転載し、一部文字入れしました。

壇ノ浦合戦から1年2ヶ月後、建礼門院が寂光院に入って
7ヶ月目の文治2年(1186)4月、
後白河法皇はまだ夜が明けきらぬうちに出発し、
建礼門院の庵をひそかに訪問しています。
『平家物語大原御幸』によると、
御幸の経路は迂回路の鞍馬道となっています。
後白河法皇は頼朝を憚ったのでしょうか。
ちなみに下鴨静原大原線は、
かつては大原御幸の道とよばれていました。
『アクセス』
「花尻の森」京都市左京区大原戸寺町 
京都バス「四条河原町」からバス停「花尻橋」まで約50
 花尻橋のすぐ
『参考資料』
武村俊則「昭和京都名所図会(洛北)」駿々堂、1989
 「京都府の歴史散歩(中)」山川出版社、2003
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下2)」角川書店、昭和52
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15

 



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平家一門の都落ち直前、資盛(重盛の次男)は、
別れを惜しんで建礼門院右京大夫の許をひそかに訪れました。
「万事につけこれからは死んだものとお思いください。
あなたとは長いつきあいなので、後世を弔ってほしい。」と言い残し、
都を捨て西国へと落ちていったのは寿永2年(1183)7月のことです。

それからの右京大夫は、平家の人々の悲報を聞くにつけ
資盛の安否を心配していましたが、資盛から便りが来ないことを、
この世に未練を残さないようにしているのだと思い、
手紙を書き送りたい気持ちをおさえていました。

平家は一旦九州の大宰府へ落ち延び、しばらく状況をうかがっていましたが、
九州の豪族たちが次々と背き、かつて小松家の家人であった
豊後の緒方惟義(これよし)までもが攻め寄せると知り、
資盛は500騎の軍勢を率いて説得にあたりました。
惟義は「昔は昔、今は今」と言い放ち資盛を撃退したので、
平家は大宰府を捨てて山鹿秀遠が籠る遠賀川河口の山鹿城に辿りつきました。
しかしそこにも敵が押し寄せると聞き、豊前柳ヶ浦
(現、大分県宇佐市)から舟に乗り海上に漂いました。

その時、資盛の弟清経(重盛の三男)は行く末を悲観し、
横笛を吹き念仏を唱え海に身を投げ、
翌寿永3年(1184)には、兄の維盛が熊野で入水しています。
これを知った右京大夫は、資盛を心配して手紙を書き、
兄弟の悲報にふれて ♪思ふことを 思ひやるにぞ 思ひ砕く 
思ひに添へて いとど悲しき
(あなたのお気持ちを、想像するにつけ心が砕けるようです。
察すれば察するほどいっそう悲しくなります。)
などの和歌を贈りました。

資盛は手紙を嬉しく受け取ったと礼を述べ、
今はすべてをあきらめ、今日明日の命と覚悟しています。
として次の歌を書き添えました。

♪あるほどが あるにもあらぬ うちになほ 
 かく憂きことを 見るぞ悲しき
(生きていても、生きていなくても同じであるような
たよりない生活であっても、
このような兄弟たちの
情けない事を見るのは本当に悲しいことであるよ。)

資盛からの文を受け取ってほどなく平家は壇ノ浦で滅亡し、
愛する資盛までも失ったことを知った右京大夫は、
呆然としてただ涙にくれるだけでした。
折にふれ資盛のことを思いだしては嘆き悲しみ、
ため息をついては涙し、資盛が右京大夫に託した最後の言葉を守り、
菩提を弔っていました。いつまでも悲しいのは、
住んでいる場所のせいなのかと、都を逃れ琵琶湖の畔の坂本に
隠棲しましたが、ここも良くなかったらしく、やがて戻り
兄の尊円(比叡山延暦寺の僧)の許に身を寄せていました。
建久7年(1196)ごろ、知人の勧めで後鳥羽天皇付きの女房として
再出仕(42歳?)しましたが、高倉天皇の中宮建礼門院に
仕えた頃のような感慨はありませんでした。
初めて宮仕えした頃の平家は栄華を極め、一族で高位高官を独占し、
清盛の娘たちはみな権門勢家に嫁ぎ、
宮中はまぶしいほど美しく、輝くばかりでした。
17、8歳の右京大夫にとって、胸ときめく日々でした。

その後、建礼門院が亡くなり、後鳥羽院は承久の乱に敗れ
隠岐に流されてしまいました。
『新勅撰和歌集』の選者となった藤原定家は
「建礼門院に仕えた時の女房名か、後鳥羽院に仕えてからの名か、
どちらで撰集に載せましょうか。」と右京大夫に尋ねてきました。

♪ことの葉の もし世に散らば しのばしき
 昔の名こそ とめまほしけれ

(私のような者の歌でも、もし世に広がるのでしたら、
忘れがたい昔の名前こそ、それに書き残していただきとう存じます。)
「それなら昔の名を後の世まで残しましょう。」と
定家は答えてくれたという。
この時、彼女は76歳になっていました。
そこで右京大夫は『建礼門院右京大夫集』を終えています。
後年、後鳥羽院の宮中に再度出仕し20年以上使っていた女房名ではなく、
若いころ、数年でしたが用いていた時の忘れがたい名を選びました。

彼女の和歌は定家によって『新勅撰和歌集』に
二首選ばれたのをはじめとして、玉葉に九首、新千載に一首、
新拾遺に一首、新後拾遺に一首、新続古今に二首、
合計二十二首が勅撰集に載せられていますが、
これらの和歌はすべてこの家集から採られています。

境内図は寂光院HPよりお借りしました。
建礼門院に対する鎌倉方の監視の目もまだ厳しく、
大原の入口には監視所が置かれていた頃、
右京大夫は寂光院に女院を見舞っています。
昔の主といっても右京大夫が仕えていたのは僅か5、6年間です。
比叡山の麓にある大原は、今でも京都駅からバスで1時間はかかり、
当時は都からはるかに遠い場所と思われていました。
それを監視の目をくぐりぬけ、訪れる人とてない
奥山里の庵をあえて訪問したというのです。

京都バスの終点大原で下り、西に草生(くさお)川の
上流に向かって進むと寂光院への道です。

本堂

寂光院の傍らに庵を結んだ建礼門院の庵室跡に建つ石碑

汀の池の畔に文化5年(1808)3月建立
「阿波内侍、右京大夫、
大納言佐局、治部卿局古墳、是より三丁ばかり」と彫られた石標があります。
女院に仕えた女官たちの墓への道標です。

寂光院を右手に見て100mほど進むと左側に駒札が建っています。

草生川に架かる橋を渡り石段を上ると、
女官たちの墓が並んでいます。



阿波内侍は、語り物系の『平家物語』が藤原信西の娘としているのに対し
読み物系は信西の孫としています。
治部卿局(じぶきょうのつぼね)は、平知盛の室、
大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね)は、
藤原邦綱の娘で平重衡の室です。
壇ノ浦から都に戻され、
日野にいた姉の許に忍び住んでいましたが、
やがて寂光院の女院に仕えました。
右京大夫(うきょうのだいぶ)は、平資盛の恋人です。
女院を慕う後世の人々がお傍に仕えた
彼女たちを供養したものと思われます。
建礼門院を監視する頼朝 花尻の森  
平資盛と建礼門院右京大夫(資盛の住吉詣) 
『アクセス』
「寂光院」京都市左京区大原草生町676 (午前9時~午後5時)
TEL.075-744-3341
京都駅前から17番(18番) 〔C3のりばから〕
京阪電車「出町柳駅」前から10番・16番・17番
市営地下鉄「国際会館駅」から19番
京都バス「大原」下車 徒歩15分
京都バス「寂光院道」下車 徒歩約20分
『参考資料』
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」新潮社、昭和54年
村井順「建礼門院右京大夫集評解」有精堂、昭和63年
日本古典文学大系「平安鎌倉私家集(建礼門院右京大夫集)」岩波書店、1979年
糸賀きみ江「建礼門院右京大夫集」講談社学術文庫、2016年

富倉徳次郎「平家物語全注釈(下2)」角川書店、昭和52年

 

 

 

 



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林原美術館企画展「源氏物語と平家物語」より転載。
源平合戦が激化するにつれて、都に悲報が次々に届きました。
維盛が熊野で入水したと聞き、建礼門院徳子の女房右京大夫は
言いようもなく悲しく思い、彼の見事な舞姿を回想し
『建礼門院右京大夫集』に記し留めています。
この家集の215と216番の長文の詞書によれば、
安元 2 年(1176)3月4日から6日にかけて、後白河院の
五十歳を祝う(長寿の祝)宴が法住寺殿で催されました。
賀宴の最終日、18歳の維盛が青海波(せいがいは)を舞う姿に
『源氏物語』の紅葉賀(もみじのが)を思い浮かべた人々は、
その姿を称賛しあまりの美しさに光源氏の再来ともいいました。

その頃の平家は栄華を誇り、居並ぶ平家の公達の華やかで
優雅なさまや大がかりな垣代(かいしろ)が
維盛の舞をさらに盛りあげました。
垣代とは、青海波の舞の時、舞人と同じ装束で笛を吹き拍子をとりながら、
垣のように舞人を囲んで庭上に立ち並ぶ40人の楽人のことで、
院政期にはとくに選ばれた公卿の子弟が担当しました。

維盛の晴れ姿は当時の語り草であったようで、
『平家物語・巻10・熊野参詣』に
那智籠りの僧の述懐が記されています。
「屋島の陣をひそかに抜け出し3人の従者とともに高野山に赴き
出家した維盛は、かつて小松家に仕えていた滝口入道(斎藤時頼)に
導かれ、父重盛が崇拝していた熊野に参詣しました。
那智籠りの僧の中に維盛を見知っている者がいて、
後白河院の五十の賀で桜の花を頭に挿し青海波を舞われた時は、
露に濡れてあでやかさを添える花のようなお姿、
風にひるがえる舞の袖、地を照らし、天も輝くばかりで、内裏の女房達に
深山木の中の桜梅(やまもも=楊梅)のようなお方などと
いわれたお方でした。と仲間の僧に語り、
そのやつれ果てた姿に袖を濡らしました。」
維盛は青海波を舞って以来、桜梅の少将とよばれたという。

維盛が右少将成宗(藤原成親の次男)と青海波を舞い、
人々に称賛されたことは藤原隆房の『安元御賀記』にも見え、
九条兼実はその日記『玉葉』に
「相替り出で舞ふ ともにもって優美なり
なかんずく維盛は
容顔美麗、尤も歎美するに足る」と
維盛の舞に深く感動したことを記しています。 

平安時代中期に紫式部によって著された『源氏物語』は、
その後の日本文学に絶大な影響を与え、
この物語に影響を受けた文学作品が次々と生み出されました。
鎌倉時代末期に成立した『平家物語』もその影響を受けた作品です。

『源氏物語』紅葉賀の巻に光源氏が青海波(舞楽の曲名)を舞って
人々が感激の涙を流し、絶賛したという記述があります。
藤壷が光源氏との不義の結果妊娠したことを知らぬ桐壺帝は、
藤壷の懐妊を大層喜び、藤壺が朱雀院の50歳の式典に
参加できないのを残念がり、試楽(リハーサル)を催し、
光源氏は頭(とうの)中将とともに青海波を舞いました。

青海波の舞(伝土佐光則筆『源氏物語色紙貼付(はりつけ)屏風』部分)
世界の文学『源氏物語』より転載。

左端の挿頭(かざし)に菊を挿すのが光源氏で、紅葉の挿頭が頭中将。
青海波は二人舞で、寄せては返す波のさまを、袖の振りで表現する舞で、
舞楽の中で最も優美な装束をつけて舞います。
螺鈿(らでん)の細太刀を帯び、袍(ほう=上着)には千鳥の模様をつけ、
下襲(したがさね=袍の下に着用する衣服)には青海の波の模様をつけます。

12C末の平家の時代になると、『源氏物語』に描かれたいくつかの箇所を、
歴史的事実であると認識し、過去の出来事のように思い起こす場面があります。
維盛の青海波の舞を見た人々は、その光景を以前にも
みたことがあるような錯覚に襲われました。
右京大夫の父世尊寺(藤原)伊行(これゆき)は
『源氏物語』の注釈書『源氏釈(げんじしゃく)』の著者です。
源氏物語の研究者であり『河内本源氏物語』を記した
源光行の娘(建礼門院美濃)も建礼門院に仕えていました。
このようなな環境から中宮
徳子も物語を愛好したと思われ、
その傍には『源氏物語絵巻20巻』があったと伝えられています。
平家の人々にとって『源氏物語』は親しいものでした。

『平家物語』(巻5・月見)によると、
摂津国福原への遷都が強行されましたが、旧都の月を恋う
徳大寺実定(さねさだ)は、福原を離れ妹(姉とも)の
大宮多子(近衛・二条二代の后)の近衛河原の大宮御所を訪れました。
実定は大宮やその侍女の待宵小侍従と一晩中語り明かし
旧都の荒廃ぶりに涙するのでした。
この兄妹の再会は、
『源氏物語』橋姫で語られる男女の出会いを背景にして描かれ
源氏物語の世界、王朝物語的な雰囲気にあふれています。

那智の沖に舟を漕ぎ出し、鐘を鳴らし念仏を勧める滝口入道、
妄念を翻し入水する維盛。
林原美術館蔵『平家物語(巻10)』「平家物語図典」より転載。

平維盛坐像 成覚寺蔵
那智沖で入水した維盛は、死なずに落合の里(三重県安芸郡芸濃町)で
生き永らえたという伝承があります。「源平合戦人物伝」より転載。
平維盛入水(浜の宮王子跡・振分石)  
巻五「月見の事」 (1)  
『参考資料』
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」新潮社、昭和54年
村井順「建礼門院右京大夫集評解」有精堂、昭和63年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
高橋昌明編「別冊太陽 平清盛(源氏物語と平家のひとびと)」平凡社、2011年
冨倉徳治郎「平家物語全注釈(中)(下1)」角川書店、昭和42年
世界の文学24名作への招待「源氏物語」朝日新聞社、1999年
別冊国文学「源氏物語を読むための基礎百科」学燈社、平成15年
「平家物語図典」小学館、2010年
「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

 

 

 



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平重盛の次男資盛(?~1185)の母は、歌人の藤原親盛(下総守)の娘、
二条天皇に仕えていた女官の二条院内侍です。
資盛(すけもり)は建礼門院右京大夫との恋愛で知られ、
少年時代に起こした摂政藤原基房との乱闘に始まる殿下乗合事件を
『平家物語』は平家悪行のはじめとしています。

藤原師長(妙音院)に琵琶・筝(そう)・朗詠などを学び、
筝の名手です。和歌も『新勅撰和歌集』『風雅和歌集』『玉葉集』に
その名を残し、自邸で歌合(うたあわせ)を催すなど当時の歌壇を支えました。
後白河院より『千載集』編纂の院宣が藤原俊成に下った際、
その院宣を俊成に伝えたのは資盛です。

平資盛画像(赤間神宮蔵)
資盛には豪胆な面もあり、治承4年(1180)12月、美濃源氏追討にあたって、
叔父平知盛とともに大将軍として出陣し、新羅三郎(源)義光の子孫、
近江源氏の山本義経を鎮圧するなど軍事面で手腕を発揮していました。
しかし三草山合戦では、7千騎を率いて三草山に陣を取りましたが、
源義経に敗れ、壇ノ浦合戦でもよいところを見せぬまま
弟の有盛とともに入水しました。

建礼門院右京大夫(1157?~?)は、『平家物語』に登場する人たちと
同じように源平動乱の時代を生きた女流歌人です。

「愛する人平資盛を壇ノ浦に失って後、何となく忘れがたいことや
ふと心に感じたことを思い出すまま、その時代を生きた命の証として、
自分一人の記念に書き残した」と彼女の家集『建礼門院右京大夫集』の
序文に記され、資盛への追憶や平家一門の人々との交流、
宮仕えした時の後宮の様子などがこの家集の主要内容となっています。

建礼門院徳子に仕えたことから建礼門院右京大夫(うきょうのだいぶ)と
よばれた彼女の
父は、能書家として三蹟の一人に数えられた
藤原行成の子孫・世尊寺伊行(せそんじこれゆき)です。
伊行も書道に優れ、書道の伝書『夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう)』を
著わし、
また、筝の達人でもありました。

母夕霧は大神(おおみわ)基政の娘で、比べる者なき
箏の名人と讃えられていました。
基政は天才の名をほしいままにした
石清水八幡宮の楽人でしたが、笛の家柄で代々雅楽寮に仕えていた
大神家の養子に迎えられ、宮中の楽人となり、
笛の伝書「竜鳴抄(りゅうめいしょう)」を書いています。
このような両親から、右京大夫は音楽・文芸の才能を受け継いだと思われます。

平家全盛時代の承安3年(1173)頃、右京大夫は16、7歳で
 
高倉天皇の中宮・建礼門院徳子(清盛の娘)に女房として仕えました。
宮仕えはわずか5年ほどの短いものでしたが、その間に
平資盛や歌人であり肖像画の名手でもある藤原隆信という
二人の男性と出会い恋におちいりました。

隆信は藤原定家の異父兄で、傑作と評判の高い後白河法皇像、
平重盛像、源頼朝像の作者と伝えられています。

年下の資盛との恋は身分も年齢にもひけ目があり、
それはひたすら忍ぶ恋でした。
そういう右京大夫に
盛んに言い寄る隆信という男性が現れます。
資盛への愛を貫こうとする右京大夫でしたが、はるか年上で
女性の扱いにも慣れている隆信に言葉巧みに誘われ、
次第に心惹かれるようになっていき、二人の恋の間で
苦悩の日々を過ごすこととなります。しかし芸術の才人で
しかもプレーボーイの評判高い隆信にとって年若い才女への恋は、
一時の気まぐれでだったのか、いったん靡いてしまうと
男はつれなくやがて去っていきました。

資盛が殿上人であったころ(1166~1183)、
父重盛のお供で住吉社に参拝し帰ってきた時のことです。
州浜の台の上にさまざまな貝と忘れ草を置き、それに縹色
(はなだいろ=薄い藍色)の薄紙に書いた文を結び付けて贈ってきました。


海に突き出た洲がある浜辺の形にかたどった州浜の台
(有職造花師大木素十 王朝の美・雅の世界よりお借りしました。)

黒く扁平な石を敷き並べた州浜が池に突き出して先端に灯籠を据え、
岬の灯台に見立てて海の景としています。(桂離宮州浜より転載)

住吉は初夏に咲くわすれ草(萱草の異名)の名所で、
わすれ草を摘むと、恋や憂いを忘れるといわれていました。
ここは秋なので、花でなく葉を置いたのです。
わすれ草の画像は「フリー素材お花の写真集」よりお借りしました。

 ♪浦みても かひしなければ 住の江に おふてふ草を たづねてぞみる(76)
(つれないあなたを恨んだところでどうなるものでもなし せめて忘れようと
住ノ江の岸に生えていると聞いたわすれ草をたずねたことです。)
『古今集』にある紀貫之の ♪道知らば 摘みにも行かむ 
住の江の 岸に生(お)ふてふ 恋忘れ草 (墨滅歌・1111)
(道がわかりさえすれば、摘みにだって行くものを。
     住江の岸に生えているという恋忘れ草を。)をふまえています。

秋のことだったので紅葉の薄紙に書いた右京大夫の返歌です。
紅葉の色目は、表は紅、裏は濃紅または表は紅、裏は青など、
色のちがう二枚の薄様を、かさ
ねのように用いました。

♪住の江の 草をば人の心にて われぞかひなき 身をうらみぬる(77)
(住の江に生えているわすれ草のように忘れるというはあなたの
お心ではありませんか。
私の方こそ、いただいた貝ではございませんが、
思ってもかいないわが身を恨めしく思っております。)


今は埋立てによって海岸線は西に大きく遠のきましたが、
当時、住吉大社は海に面していました。
青い海、白い砂浜と波の音、朱色の反橋(そりばし)の畔に立つ
平家の貴公子資盛、絵のような情景が目に浮かびます。
平資盛の訃報 寂光院建礼門院右京大夫の墓  
『参考資料』
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」新潮社、昭和54年
村井順「建礼門院右京大夫集評解」有精堂、昭和63年
日本古典文学大系「平安鎌倉私家集(建礼門院右京大夫集)」岩波書店、1979年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
冨倉徳治郎「平家物語全注釈(中)」角川書店、昭和42年
龍谷大学生涯学習講座「建礼門院右京大夫集
(右京大夫の出自と生涯、生きた時代)テキスト」平成12年5月13日
「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 
 宮内庁京都事務所監修「桂離宮」財団法人菊葉文化協会

 



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平清盛の嫡男重盛は武人としても優れ、保元の乱や平治の乱では、
見事な若武者ぶりを発揮し一門の人々に頼もしがられましたが
早くに他界してしまいました。
重盛の弟宗盛、知盛、重衡らの母は清盛の後妻時子(二位尼)です。
それに対して重盛だけは母(高階基章の娘)が異なっていましたため、
重盛亡き後、重盛の系列小松家の立場は不安定となりました。

清盛は源頼朝追討軍の総大将に戦いの経験のほとんどない
維盛(重盛の嫡男)を任命しました。手柄を立てさせ、
一門内での立場を確かなものにさせてやりたいと思ったようです。
ところが維盛は水鳥の羽音を源氏の夜襲と勘違いし、
恐れをなして戦いもせず富士川から退散しました。
祖父清盛の激しい怒りはやがて失望へと変わります。
清盛が没すると宗盛が政権を執り、
小松家は一門の主流から傍流へと追いやられます。

木曽で挙兵した義仲追討軍の大将軍として維盛は再び出陣しました。
しかし義仲軍と激突した倶利伽羅峠でまんまと義仲の策にはまって大惨敗し、
この戦いがその後の平氏の命運を決定づけることになりました。

維盛はリーダーとしての能力や政治家としての資質にも欠け、
父重盛より全てにおいて劣っていたとされていますが、若くて経験の少ない
維盛の後ろ盾となり、その不足分を補ってくれる人がいなかったともいえます。
二度の大敗で平家一門の信頼をそこなってしまい、
維盛は肩身の狭い思いをしていたと思われます。

別れを納得できない妻子との引き裂かれんばかりの嘆き、
「平家物語絵巻 巻7」林原美術館蔵 
『平家物語図典』より転載。
平家都落ちの際には、一門の人々が妻子を連れて都落ちする中、
維盛は平家の行く末を予見し、妻子を道連れにするのは不憫と思い、
家族を振り切って都を去っていきます。

妻の父は鹿ヶ谷事件で備前国に流罪・後に謀殺された藤原成親です。
維盛は平家の将来に絶望しただけでなく、
一門内部における自身と妻の立場を心配したのです。

平治の乱後、頼朝は落ち延びる途中に父とはぐれ、青墓宿で
頼盛の郎等弥平兵衛宗清に捕らわれ六波羅に連行されてしまいました。
頼朝が伊豆へ流罪と減刑されたのは、清盛に対して
池禅尼の助命嘆願と重盛の口添えがあったからです。
六代(維盛嫡男)まで都においてきたことで、宗盛や時子らは
不信感をつのらせ、維盛が源氏に通じているのではないかと終始怪しみます。
さらに妻と幼い子の悲痛な叫び声がいつまでも耳に残り、
西海に落ちた維盛を苦しめ続けます。


 
維盛は月日が過ぎるままに、故郷の妻子に一目会いたいと恋しさが募り
戦う気力は失せ屋島の陣を抜け出します。みすぼらしい姿に身を変え
弟の新三位中将(資盛=すけもり)を伴って住吉社に参拝しました。
今一度都に戻り、妻子に会わせて下さいと一晩中住吉明神に祈願します。
翌朝、釣殿でしんみりと詩歌を口ずさみ、昔、住吉の姫君がどうして松風が
絶え間なく吹くのであろうかとて、琴をかきならしているのを思い出し、
形あるものは壊れ、命あるものは滅びるように
あらゆる物はみな変わることを恨みそしっていました。

この住吉明神というのは、高貴徳王菩薩(こうきとくおうぼさつ=大威徳明王)の
変身として名を仏教に顕し、聡明で優れた君主の守護として
その恵を神国(日本)に示されました。
(『源平盛衰記巻36・維盛住吉詣並明神垂迹の事』)

『平家物語』の中には住吉神が度々現れます。
古くから住吉明神は王権の守護神・海路の守護神として、
平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めました。

『住吉大社神代記』によると、住吉神は神功皇后の新羅征討の際に
自ら国家を護る神であると明言して神功皇后に託宣を下し、
その征討を成功に導いたとしています。

鎌倉時代の説話集『古今著聞集巻1・神祇』
(慈覚大師如法経書写の折、住吉神託宣の事)には、
「住吉は四所おはします。一の御所は高貴徳王大菩薩なり。龍に乗る。
御託宣に云はく、「我はこれ兜率天の内なる高貴徳王菩薩なり。
国家を鎮護せんために、当朝墨江の辺に跡を垂。云々」と記されています。
兜率天(とそつてん)には内院と外院があり、内院は将来仏となるべき
菩薩が住む所とされ、現在は弥勒菩薩が内院で説法をしているという。

大威徳明王騎牛像 明円作 木造 平安時代 重文
『週刊古寺をゆく』より転載。

大威徳(だいいとく)明王(高貴徳王菩薩)は、
五大明王のひとつで西方の守護者とされ、
日本では六面六臂(ろっぴ)六足で、神の使いである
水牛に乗っています。悪蛇、悪竜を退散させ怨念を取りのぞく、
死後の世界をつかさどる神の出身です。

高貴徳王菩薩の託宣によって建てられた住吉神宮寺。
境内北方の末社付近に「住吉神宮寺跡」の碑があります。

神仏習合の時代になると、日本にもともとあった神道と外国からやってきた
仏教とが結びつき、神社の境内やその付近に寺(神宮寺)を建て、
神々の本体である仏菩薩を祀るようになります。
神仏習合とは、
仏菩薩が我が国においては神の姿となって現れたという考え方です。
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分
 阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ

開門時間
・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間
・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
新定「源平盛衰記(5)」新人物往来社、1991年 
新潮日本古典集成「古今著聞集(上)」新潮社、昭和58年
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年
佐伯快勝「古寺めぐりの仏教常識」朱鷺書房、2000年
 週刊古寺をゆく「天龍寺 大覚寺」小学館、2001年 
「平家物語図典」小学館、2010年



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