平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




JR篠原駅の南方の八号線沿い、道の駅の向い側に義経ゆかりの鏡神社があります。

鞍馬寺を抜け出した遮那王(義経)は、奥州へ向かう途中の「鏡の宿」で、
手ずから髻(もとどり)を結い、烏帽子を着けて元服し、
「源九郎義経」と名のりました。元服には烏帽子親が必要ですが、
遮那王は鏡池の水で前髪を落とし、元服の儀式を1人で行ったという。

お供をしていたのは、『義経記』では吉次ですが、『平治物語』では、
下総国深栖の三郎光重の子、陵(みささぎ)の源重頼となっています。




今もこの地には池の水を用いて前髪を落とした鏡池や
鏡神社の参道には烏帽子を掛けたとされる烏帽子掛松などが残っています。


かつて京をたった旅人の最初の宿泊地として栄えた鏡宿、その鎮守である鏡神社。
拝殿

本殿(国重文)祭神・天日槍(あめのひぼこ)
三間社流造・杮(こけら)葺きで室町時代中期の建造とされています。

社殿の背後に祀られている八幡神社。 
祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)・
源九郎義経

烏帽子掛けの松

鏡神社から50mほど西、八号線沿いにある鏡池(源義経元服之池)

ところが『義経記・遮那王の元服』では、元服は義朝(義経の父)の舅の熱田大宮司家です。
稚児姿のままではこの先具合が悪いという事から、熱田大明神の神前で、
大宮司を烏帽子親として源九郎義経と名乗ったと記されています。
元服は武士にとって重要な儀式であるので、烏帽子親のいない元服は
正式なものとして認められないことから、元服の場が熱田に移されたと思われます。

『平治物語』では、義経元服の場であった鏡の宿は、
『義経記』では、鏡の宿に泊まった時、義経が宿に押し入った
強盗を退治する場として描かれています。

鏡神社の東にたつ源義経宿泊の館跡の碑。(白木屋跡)
 絵図は竜王町HPよりお借りしたものに一部文字入れしました。
首途(かどで)八幡宮(義経奥州旅立ちの地)  
『参考資料』
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 現代語訳「義経記」河出文庫
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」(古活字本平治物語・牛若奥州下りの事)岩波書店 
「滋賀県の歴史散歩」(下)山川出版社 五味文彦「物語の舞台を歩く義経記」山川出版社

『アクセス』
「鏡神社」蒲生郡竜王町鏡 JR近江八幡駅西口からバスで30分 鏡バス停下車5分
    又はJR篠原駅下車 南へ徒歩30分






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京都市東山区の平家ゆかりの三嶋神社には、牛若丸の揺向石があります。
寺伝によると、この社に牛若丸が参籠し源氏再興を祈願中、
奥州に下るべしとの神託を受け、この石の前から奥州へ旅立ったと伝えます。





揺向石(ようこうせき)は高さ2m余、赤みをおびた岩石で、祭神の一人
コノハヤサクヤ姫が影向(ようごう)した石とつたえ、
古くは安産石とも誕生石ともよばれ、安産を祈る信仰がありました。


江戸後期に編纂された『花洛名所図会』にも、三嶋神社の「遥向石」が描かれていて、
当時から信仰の対象として祀られていたことが伺えます。
赤線部分が遥向石です。当時は「相生の松」とよばれる樹木の間に祀られていました。

義経(牛若丸)は平泉の藤原秀衡のもとに旅立つ16歳まで鞍馬寺で過ごしました。
源氏再興の宿願のため、夜な夜な山中で剣術の稽古に励み、
森を駆け巡って早業を身につけました。
天狗が相手になったともいい、鬼一法眼から兵法を学んだとも伝えられます。

しかし剣術や早業だけでは真の武将にはなれません。弓と馬、馬の上から弓を射る
騎射の技術が必要ですが、鞍馬ではその訓練はできそうにありません。


鞍馬山毘沙門天の信者で参詣に訪れる金売り吉次から広大な牧野を駆けめぐる
駿馬の話を聞いた牛若丸は馬も弓も思い切り稽古できると迷わず平泉をめざしました。

奥州は名馬の産地です。特に岩手県北から青森県にかけての
糠部産の駿馬の名声は鳴り響いていました。

『アクセス』
「三嶋神社」 京都市東山区渋谷通東大路東入上馬町
市バス 東山線「馬町」下車、東へ200m 京都女子大の近くです。
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年
05年4月号「くらま」 (平泉郷土館館長大矢邦宣・平泉なぜ) 鞍馬寺発行






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京都市山科区御陵血洗町には、「義経の腰掛石」があります。
今は埋め立てられ住宅地や公園になってしまいましたが、
付近には「血洗池」、「義経刀洗池」、
「与市首洗い池」と呼ばれた池もあったそうです。

義経(牛若丸・遮那王)が奥州に向かう途中、この付近で
強盗に襲われ、血洗池で強盗を斬った刀を洗った後、
この石に腰かけてしばし休んだという伝承があります。
また、蹴上(けあげ)で平家の侍、
関原与市一党を斬り倒した刀を洗ったという説もあります。

京都薬科大学のグラウンド南端にある「義経の腰掛石」

グラウンドを出た所に公園があり、その傍に地蔵尊が祀られています。
昔、地蔵尊の背後には池があったそうです



鏡山小学校前

中世の東海道は江戸時代よりも南寄りで
腰掛石付近を通っていたという説もあり、
竹村俊則氏は「昔、東海道を往来した旅人が、牛若丸を偲んで
話し合ったことから生まれた伝説であろう。」とされています。
『アクセス』
「京都薬科大学グラウンド」地下鉄東西線御陵駅下車徒歩約12分。
グラウンドへは、駐車場から入らせていただきました。
『参考資料』
竹村俊則「京都伝説の旅」駿々堂 「義経ハンドブック」京都新聞出版センター








 


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金売吉次とともに奥州へ下る義経(牛若丸・遮那王)一行は、
日ノ岡峠を越えて山科に向かいました。
当時、粟田口から山科へ抜ける日ノ岡峠の西の街道沿いは、
松並木になっていたため松坂と呼ばれていました。
現在の
ウエスティン都ホテルから蹴上浄水場かけての三条通辺りです。

遮那王(義経)が松坂にさしかかった時、この坂を下りてきた
平家の侍、関原与市重治はじめ一党九人がすれ違いざま、
水たまりの泥水を蹴りあげ義経の衣装を汚してしまったという。
怒った義経は金売吉次が止めるのも聞かず、九人を斬り殺しました。
蹴上という地名は、この故事に由来するという伝承があります。

日ノ岡峠の東の山科寄り(現・左京区蹴上の一部)は、
もと九体(くたい)町と呼ばれていました。
斬り殺された与市ら9人の菩提を弔うために村人が九体石仏を
安置したのが町名の由来といわれています。

九体の石仏のうち六体はなくなりましたが、三体は街道付近に残っています。

地下鉄東西線「蹴上」から三条通り沿いに東へ行くと、
日向(ひむかい)大神宮の鳥居が建っています。
鳥居をくぐり参道を上ると、左手にインクライン疎水公園が見えます。
①公園内の祠には、大きな地蔵尊が祀られています。

花入れには「義経大日如来」と刻まれた文字が読みとれます。

②日向大神宮の鳥居から山科方向へ4、5分進むと
(2007年現在クリーニング店の東隣)
「天道大日如来」と書いた提灯を架けたお堂があり、
地蔵尊と小石仏が安置されています。

③残る一体は、国道沿いの九条山バス停付近の地蔵堂に安置されています。
足元にはやはり沢山の小石仏が置かれています。



錫杖を持つ地蔵尊

かつて日ノ岡峠付近には粟田口刑場があったので、
これらの石仏は実際には、
処刑された人の菩提を弔うために
作られたものではないかともいわれています。
また、
遮那王が奥州下向の際、源家再興と旅の安全を祈願したという
出世恵比寿神社が粟田神社境内にあります。

この社はもとは三条蹴上の粟田山夷谷にありましたが、
明治2年に移されました。
粟田神社出世恵比寿神社(義経が旅の無事を祈願した社)   
義経の腰掛石・血洗池(義経強盗に襲われる)  
『アクセス』
「日向大神宮 」京都市 山科区日ノ岡一切経谷町29
地下鉄東西線「蹴上」下車徒歩12分
『参考資料』

竹村俊則「京都伝説の旅」駿々堂 「京都市の地名」平凡社 
京都新聞社編「京都伝説の旅」河出書房
 
 


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奥州に下る決心をし、鞍馬山を出た遮那王(義経)は、
金売吉次と粟田口の
十禅師社の前で会う約束をしました。
ここが待ち合わせの場所とされたのは、
京の出入口としてよく知られていたからです。

(街道と京の七口の図は街道・道 HPよりお借りしました。)
粟田口は京の七口のひとつで、東海道・東山道・北陸道と京の都をつなぐ街道でした。
京の七口は時代によって多少変化していますが、
粟田口、鳥羽口、丹波口、長坂口、伏見口、大原口、荒神口です。

粟田口には遮那王ゆかりの出世恵美須神社を祀る粟田神社があります。
この社は古くから旅立ち守護の神として崇敬を集め、
奥州へ向かう途上、
義経が当社境内にある出世恵比寿神社に
旅の無事と源氏再興を祈願したと伝えています。

三条通りに面した一の鳥居




一の鳥居をくぐってすぐ右手にあるのが粟田焼き発祥地の碑です。
粟田焼は洛東粟田地域で生産された陶器の総称で京焼の一つです。

左手には、出世恵比寿神社参道の碑がたっています。

二の鳥居からは緩やかな階段の参道を上ります。

鳥居に掛けられている扁額は、旧社名の感神院新宮(カンジインシングウ)となっています。
明治になり粟田神社と改められました。




右手に見えるのは社務所です。

拝殿は元禄16年(1703)に建てられ、細部様式もその頃のものと伝えています。

この辺りからは、平安神宮の朱の鳥居や美術館・岡崎一帯が見渡せ、
船形・左大文字・鳥居・右大文字の送り火も見ることができます。


粟田神社本殿その背後に幣殿

出世恵美須神社は本殿左手奥にあります。
ご神像は最澄作の日本最古の恵比寿像と伝わっています。
例年1月のえびすさんの日に開帳されます。

遮那王が源家再興と旅の安全を祈願したという出世恵比寿神社は、
もとは三条蹴上の粟田山夷谷にありましたが、明治になって粟田神社に移されました。

義経金売吉次の待ち合せ場所(粟田口十禅師社)  
『アクセス』
「粟田神社」京都市東山区粟田口鍛冶町1 地下鉄東西線東山駅下車東へ6、7分
『参考資料』
五味文彦「義経記」山川出版社、2005年 「義経ハンドブック」京都新聞出版センター、2005年
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂、1981年

 

 






 

  


 

 



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首途( かどで )八幡宮は古くは内野 八幡宮といい、大内裏の北東に祀られていたため、
王城鎮護の社とされました。かつてこの地には金売吉次の
屋敷があったと
伝えられ、遮那王(牛若丸)が吉次に伴われ奥州平泉に赴く際、
ここで道中の安全を祈願したといわれています。
一の鳥居

参道

「源義経奥州首途之地」の石碑
二の鳥居

首途とは「出発」の意味で、牛若丸がここから旅立ったので、
首途八幡宮とよばれ、
旅立ち・旅行安全の社として信仰を集めています。


宇佐神宮から八幡大神を勧請したのが始まりとされ、
祭神は誉田別尊(応神天皇)、比咩(ひめ)大神、息長帯姫命(神功皇后)です。




弁財天

粟田口十禅師社(義経と吉次の待合せ場所)     牛若丸(義経)遥向石(三嶋神社) 
源義経元服の地(鏡の宿・鏡神社・元服池・白木屋跡)   
『アクセス』

絵図は首途八幡宮HPよりお借りしました。
「首途八幡宮」京都市上京区智恵光院通今出川上ル桜井町
市バス「千本今出川」下車徒歩約7分


 


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金売吉次から奥州の情報を得た遮那王(義経)は、奥州へ下向する決心をし、
京の出口にあたる粟田口の十禅師社の前で吉次と会う約束をして鞍馬寺を出ました。
十禅師社は慈円僧正(鞍馬寺の別当忠尋とも)が青連院の鎮守として、
比叡山延暦寺の鎮守日吉山王七社
のひとつ十禅師社から勧請したものです。
現在、この社はありませんが、中之町の三条通りと広道が交差する辻が
十禅師の辻といわれ、十禅師社に因む辻とされています。
京都市立白川小学校前に粟田口の碑が建っています。

この道を南へ少し進むと青蓮院があります。


京都市東山区粟田口三条坊町

粟田口は京の東の出入口です。
粟田口の青蓮院境内には、十禅師社が再興され日吉社として祀られています。



青連院の本堂背後の小高い丘に上ります。
 
日吉山王を祀る日吉社は、はじめ三条岡崎広道にあって十禅師社と称しました。
慶長十年(1605)、この地に移して再興されたと伝えています。

「青蓮院・龍心池の南、本堂の東の小高い所にある社は

日吉社と稲荷社・秋葉社である。この日吉社は慈円が
信仰し勅請した十禅師社で粟田口は京都から
東海道の出口にあたって居り、昔東国へ旅立った人は
この十禅師社に賽して、旅の平安を祈ったとのことである。
青蓮院拝観パンフレットより」





かつて十禅師社があった三条岡崎広道の風景。

首途(かどで)八幡宮(義経奥州旅立ちの地)  
 牛若丸(義経)遥向石(三嶋神社) 
源義経元服の地(鏡の宿・鏡神社・元服池・白木屋跡)   
『アクセス』
「青連院」京都市東山区粟田口三条坊町69−1
地下鉄東西線東山駅下車 徒歩約5分
市バス・京阪バス神宮道下車 徒歩約3分
『参考資料』
五味文彦「義経記」山川出版社、2005年
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂、1981年
 


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由岐神社から800mほどで鞍馬寺本殿金堂に至ります。
鞍馬寺の中心道場で770年鑑真の高弟鑑禎(がんてい)がこの地に
草庵を造り
毘沙門天を祀ったのが始まりといわれています。

本堂金堂では、6月20日に竹伐会(たけきりえ)式が行われます。
僧兵に扮した鞍馬法師が山刀で太い青竹を五段に伐り、
各4人が東西にわかれて切断の速さを競って
その年の作物の豊凶を占う千年以上も続く行事です。

奥州平泉で自刃した義経の魂は、幼少期を過ごした鞍馬山に戻ったとされ、
毎年9月15日には義経の霊を慰める義経祭が催されています。

金堂からは比叡の山並みが一望できます。
奥の院参道
金堂の横から奥の院へここからもさらに上り坂

鐘楼 奥の院参道を過ぎてすぐ。
山並みを見下ろして鐘を突きます。

 



ある夜、正門坊と名乗る僧が現れ、牛若丸が清盛に敗れた源義朝の
子であることや兄の頼朝が伊豆の国に流されていることなどを語りました。
自分の素性を知った牛若丸は、この日を境に平家討伐を一途に思い、
いよいよ武芸に励むようになりました。

東光坊が夜な夜な寺を抜け出る牛若丸に不審をいだき
後をつけさせると、四方の木を「平家一族」
一本の大木を「清盛」と名づけて切りつける姿がありました。
これを知った東光坊は驚き牛若を出家させようとしましたが、
牛若が嫌がるので思いとどまり、厳しく監視し
名を「遮那王(しゃなおう)」と改めさせました。
正門坊とは、牛若丸の父義朝の郎党・鎌田二郎正清の子で
僧となり正門坊を名乗っていました。
 

義経公息次ぎの水

牛若丸は毎夜奥の院僧正が谷へ剣術の修行に
通ったとき、
この清水を汲んで喉をうるおしたという。
八百年後の今も湧きつづけている。(駒札より)

源義経公背比石
遮那王と名のって十年あまり鞍馬山で修業をしていた

牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衡の許に
下るときなごりを惜しんで背を比べた石といわれる。
波乱に富んだ義経公の生涯は、
この石に始まるといえよう。 
「遮那王が 背比べ石を 山に見て
わがこころなほ 明日を待つかな 」與謝野 寛(鉄幹)
(駒札より)

 
石の高さは1・2mほどしかなく
牛若丸は小柄だったようです。

大杉権現社 樹齢千年近い大杉の木の根道、
ここにある 古木の大杉を神木とし
大杉権現」の名で信仰する人々が
多くいます。
木の根道 砂岩が硬化して杉の根が地下に入ることができず、
地面に出て這い絡み合い珍しい 景観をつくっています。
根を踏まないように!との注意書き
 
鞍馬寺1(牛若丸)  鞍馬寺2(牛若丸) 
鞍馬寺4 (牛若丸)  


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 「僧正が谷(そうじょうがたに)不動堂」
「堂内の不動明王は比叡山開祖伝教大師がここに参篭なさったときお刻みになったと伝えられる。
また牛若丸が鞍馬天狗より兵法を学んだ舞台は、このあたりであるという。」(説明板より)
 
謡曲『鞍馬天狗』の舞台です。

義経は奥州衣川で自害しましたが、鞍馬寺では、その魂は鞍馬山に
戻って来たと信じられ、遮那王尊として義経堂に祀られています。

僧正が谷不動堂の向かいに建つ「義経堂」
「歴史には文治五年(1189)四月、奥州衣川の合戦にて自害したと伝えるが、義経公の御魂は
この山におわし遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正のお働きを助けておられるという。
 この義経堂には遮那王尊をおまつりする。」(駒札より)
                    
  鞍馬寺不動堂の辺一帯
  鬱蒼とした杉の大木が聳え立つこの辺りを僧正ヶ谷といい、
  ここで牛若丸が鞍馬天狗に出会い、夜ごと剣術や兵法の修行に励んだとされる場所で、
  山深く、神秘的で独特の雰囲気が感じられます。しかもこの奥には奥の院魔王殿が鎮座しています。

  護法魔王尊が祀られている奥の院魔王殿
650年前に金星から降臨したとされる魔王像を安置しています。
巨大な岩盤は古代の磐座(いわくら)信仰のものです。
「魔王殿」を過ぎれば鞍馬寺西門まで杉林の中、九十九折の坂道を下ると
やがて貴船川のほとりに出ます。鞍馬寺
西門近くの道ばたに祀られているお地蔵さん。
貴船川に架かる奥の院橋  鞍馬寺の西門を出て貴船神社へ
貴船神社(京都市左京区鞍馬貴船町180)
京都鴨川の水源地貴船で水の神を祀る神社です。
鞍馬で修行中の牛若丸が、夜な夜なこの社に通い、
源家再興を祈って願掛けを
したと伝えられています。
鞍馬寺本殿金堂からこの社まで40~50分あります。

叡山電車鞍馬駅から貴船神社まで
歩きましたが、貴船神社~鞍馬寺西門と
逆のコースを歩くこともできます。
貴船神社」は、叡山電車 貴船口駅下車
貴船川に沿って徒歩約30分です。
このコースは、あまり歩きなれていない人には
お勧めできませんが、帰りに鞍馬駅付近にある
おみやげやさんで買い物ができます。
シーズン中は、貴船神社⇔貴船口駅まで
バスも運行しています。

鞍馬寺1(牛若丸)  鞍馬寺2(牛若丸)   鞍馬寺3(牛若丸)




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鞍馬山は京都盆地の北に位置し標高584m、
その中腹にある鞍馬寺(左京区鞍馬本町1073)の
本尊毘沙門天は、平安京北方鎮護神として崇められました。
またこの毘沙門天が戦いの神であることから、
武将の篤い信仰を集めました。

鞍馬は牛若丸が7歳から鞍馬寺を出る16歳まで過ごした所で、
『義経記(ぎけいき)』による牛若丸伝説発祥の地です。
本殿裏から奥の院への山道には、牛若丸が武芸に励んだという伝説があり、
牛若丸背比べ石や義経息次ぎの水など、義経の足跡や遺跡が数多く残っています。
毎年9月15日には、義経を偲ぶ「義経祭」が催されます。

叡山電車「出町柳駅」から「鞍馬駅」まで30分ほどで到着します。
京都市街からだと、京阪電車と叡山電車を乗り継いで
1時間たらずで終点鞍馬駅です。
駅を出ると天狗の面が参拝者を歓迎してくれます。

牛若丸は、平治元年(1159)に父源氏の棟梁源義朝と
もと九条院(近衛天皇の中宮呈子)の雑仕女(ぞうしめ)であった
常盤との間に3人目の子として生まれました。
その年の12月、義朝は平治の乱で平清盛に破れた上、
東国めざして逃げる途中、尾張国内海荘で
家人の長田忠致(おさだただむね)に騙し討ちにされました。

常盤は7歳の今若・5歳の乙若・生まれたばかりの牛若を連れて
大和の宇陀郡龍門牧に住む伯父のもとに逃れましたが、老母が平家に
捕まり厳しく尋問されていることを知り、
六波羅に自首したという。

清盛は常盤と3人の子供の命を助け、子供が幼少であるということで、
出家を条件にそのまま都に住むことを許しました。
常盤は清盛に囲われる身となり、清盛との間に娘を1人もうけましたが、
のち大蔵卿一条長成(ながなり)の妻となり、2人の子を生んでいます。
そのうちの長子の能成(よしなり)は、義経が頼朝に
追われる身となった時、その逃亡を助けています。
3人の子供のうち、今若は醍醐寺、乙若は
園城寺に入り僧となりましたが、生まれて間もない
牛若は常盤の手元で育てられます。その後は
山科に隠れ住む源氏ゆかりの者にあずけられ、
7歳の時に鞍馬寺の別当東光坊・
阿闍梨蓮忍(れんにん)のもとに稚児として入り、
日夜、経を読み学業に励みました。
駅から200mほど進むと、朱塗りの仁王門が建っています。
仁王門を入ってまもなくケーブルの山門駅があります。
終点多宝塔前まで(所要2分)ですが、シーズン中は
時間待ちのほうが長いので、あまりお勧めできません。
もと天台宗の大寺でしたが、昭和24年(1949)、鞍馬弘教(こうきょう)の
総本山として独立しました。本尊は魔王尊・毘沙門天・千手観音。


仁王門をくぐって階段を上ると、
鬼一法眼を祀る鬼一法眼社があります。
鬼一法眼は一条堀川に住んでいた陰陽師で
牛若丸に兵法を教えたといわれる伝説上の人物です。
後年、奥州から京に戻った義経は、鬼一の娘の助けを借り、
兵法指南書「六韜(りくとう)」を手に入れ、
それを暗記したと
伝えられています。
当時、兵法指南書を伝授された者は、
超人的な力が得られると信じられていました。


鬼一法眼社 魔王の滝の鳥居
魔王の碑(鞍馬山は魔王尊が降り立った所)                             鬼一法眼社手前のお地蔵さん

鞍馬寺2(牛若丸)  
鞍馬寺3(牛若丸)
鞍馬寺4 (牛若丸)


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鬼一法眼社から2、3分進むと、九十九(つづら)折参道入り口に
天狗みくじで知られる由岐(ゆき)神社の拝殿が見えてきます。

天慶3年(940)創建、鞍馬の産土神として御所から勧請されました。
毎年10月22日に行われる「鞍馬の火祭」は、この社の祭礼です。
拝殿は中央が通路となっていることから
「割(わり)拝殿」と呼ばれ、崖にのぞむ舞台造です。
豊臣秀頼により慶長12年(1607)に再建。(国重文・桃山時代)
拝殿をくぐると上方に本殿があります。
お賽銭箱の左手に天狗みくじ 
由岐神社を過ぎると、左手の石段の上に義経の大きな供養塔が見えます。
牛若丸は父・義朝の祈祷の師であった東光坊阿闍梨蓮忍(れんにん)に
7歳で預けられ、東光坊で十年近く暮らしたといわれています。
ここは鞍馬寺別当東光坊阿闍梨の坊跡とされ、
牛若丸は毎晩ここから奥の院まで剣術の修行に出かけたという。

義経公供養塔

「八百年余り前、牛若丸が遮那王と名乗り、
七歳の頃から十年間、
昼は学問、夜は武芸に励んだときに住まいした
東光坊の旧跡である。義経公をしのんで、
昭和十五年に供養塔が建てられた。」(駒札より)


義経供養塔を過ぎると、九十九(つづら)折れと
呼ばれる急な曲がりくねった
坂道が
続きます。
清少納言の「枕草子」に「近うて遠きもの」の中に
鞍馬の九十九(つづら)折れと書かれている道です。


やがて右手に転法輪堂が続いて光明心殿が
見えてきました。


転法輪堂、光明心殿です。
鞍馬駅からここまでゆっくり歩いて40分位です。
鞍馬寺1(牛若丸)  
 鞍馬寺3(牛若丸鞍馬寺4 (牛若丸)
 


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