平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
源氏堀川館は、源氏累代の邸があった所で六条堀川館ともいい、
源頼義が西洞院(にしのとういん)左女牛(さめが)小路に館を構えて以来、
義家、為義、義朝、義経まで六条堀川を拠点にしました。

頼義は前九年合戦を鎮圧し、武勇をうたわれただけでなく、
朝廷にも出仕してその名を高めます。
さらに京都に進出するためには都に拠点をもつ必要に迫られ、
六条堀川に営んだのがこの館で、その嫡男
八幡太郎義家が誕生したところでもあります。
以来、義家・為義・義朝・義経まで六条堀川を拠点としました。
為義が「六条判官」と呼ばれたのは、この地名によるものでした。
六条通リは、平安京の六条大路にあたりますが、
現在の六条通は狭い道路となっています。


源氏堀川館の位置は、北は五条通の一筋南の楊梅(ようばい)通から
南は六条通まで、東は油小路から、西は堀川小路までの方一町の地で、
現在の朴味金仏(ぼくみかなぶつ)町の西半分と、
佐女牛井(さめがい)町にあたります。

「左女牛井之跡」の石碑の少し北に
「下京区楊梅通醒ヶ井東入泉水町」と記された住居表示のプレートがあります。

平治の乱で義朝が清盛に敗れると、源氏堀川
館は平家によって
焼かれましたが、
後に源義経が後白河法皇から与えられた邸も、
この辺りにあったという。
壇ノ浦合戦で捕われた宗盛父子が鎌倉へ護送されるまで、
一時義経の館に留め置かれました。
文治元年(1185)10月17日、源頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が、
軍勢を引き連れて、義経を討とうと夜討ちをかけたのもこの館です。
この襲撃は失敗し、同月26日鞍馬山で捕えられ六条河原で斬られました。
源氏堀川館は、六条西洞院 (にしのとういん)の西にあった
後白河法皇の仙洞御所六条殿の近くにあり、土佐坊を
追い散らした義経は、すぐに六条殿に参上し状況を報告しています。

義経が頼朝と対立し、京都を去る時に館は焼き払われ、
その後は再興されることはありませんでした。

邸内には名水「左女牛井」がありましたが、第二次大戦中、
井戸は建物疎開と堀川通の拡幅により取り壊され、
現在、堀川通り六条西側歩道の一角の植え込み内に
「左女牛井之跡」の碑と駒札がたっているだけです。



この井戸からくみ上げた水を村田珠光が茶の湯に用いたといわれます。

佐女牛井跡
京の名水として平安時代より知られ、
源氏の邸いわゆる六條堀川館の中にとりいれられていた。
室町時代には南都の僧村田珠光がこの畔に住み茶道を興し、
足利義政も来遊したという。江戸初期元和二年五月織田有楽斎は
これを改修した。内径二尺四寸(約73cm)の円井戸であった。
その後天明の大火で埋もれたが、寛政二年、藪内家六世
竹陰によって修補され、その碑が七世竹猗によって建てられていた。
しかし、円井戸、碑ともに第二次世界大戦最末期の民家の
強制疎開によって撤去された。昭和四十四年醒泉小学校
百周年の一つとしてここに碑をたて名水を偲ぶよすがとした。

「佐女牛井之跡」の碑

碑の背面には「醒泉(せいせん)小学校創立百周年記念事業委員会」と刻まれています。



側面には「源義経堀川御所用水と伝えられ、足利時代既に名あり。
元和二年在銘の井戸稀なり。第二次世界大戦に際し昭和二十年疎開の為撤去さる。
当学区醒泉の名は之に由来する。井筒雅風」と刻まれています。

西洞院通の一筋東、若宮通に若宮八幡宮があります。

若宮八幡宮は頼義が邸内に石清水八幡宮より八幡神を勧請したのが始まりで、
六条八幡、左女牛八幡とも呼ばれました。
若宮八幡宮は、慶長10年(1605)五条坂へ移転しました。


社前の鳥居横にたつ若宮八幡宮の碑の側面

頼朝は若宮八幡宮を手厚く保護し、室町時代には、源氏の一族
足利将軍家が帰依し隆盛しましたが、応仁の乱で荒廃してしまいました。

慶長十年(1605)、豊臣秀吉の命により東山に移転し、
五条坂(五条通大和大路東入北側)に移されました。
この地にある若宮八幡宮は、町民によってもとの社地に再建された社です。
五条坂にある若宮八幡宮をご覧ください。
若宮八幡宮 (八幡太郎義家) 



若宮八幡宮由来記(現地説明板)
当宮は天喜5年(1058)源頼義が後冷泉天皇の勅を奉じて創建され
六条八幡とも左女牛井八幡とも言われました。
平安時代は五条大路までが市街地で、六条の地は堀川館をはじめ当町には
頼義・義家の館、その東には後に義経が居を構えるなど 長く源氏の邸宅が
あったところとして著名で「拾芥抄(1540年代)」には「八幡若宮義家宅」の
書き入れがあり「古事談」にも「六条若宮はかって源頼義が
邸宅の家向に構えた堂に始まる」とあります。
また義家誕生水と称される井戸の伝承地があると記されています。
「吾妻鏡(1190年代)」によると文治三年(1187)正月十五日

六条以南・西洞院以東の壱町の左女牛井御地を社地として
六条若宮に
寄進されたとあります。

そもそも左女牛(さめごい)とは現在の醒ヶ井通りのことではなく
平安京条坊図によれば北から五条大路(現・松原通)樋口小路(現・万寿寺通)
六条坊門小路(現・五条通)楊梅小路・六条大路・左女牛小路(現・花屋町通)・
七条坊門小路(現・正面通)北小路・七条大路とあり寄進された壱町とは
正しく若宮八幡宮を中心とした一区画であります。以来、源頼朝からも
格別の崇拝を得、文治三年六月十八日には放生会を始行すべき沙汰あり、
同年八月十五日に鎌倉八幡宮と共に放生会が行われたのが
今日の祭事の始まりです。―以下略―若宮町

通法寺跡・源氏三代の墓
『アクセス』
「左女牛井之碑」市バス五条堀川下車徒歩5分
堀川通の西側を西本願寺の方向(南)へ進むと、
歩道に沿って緑地があり

石碑と駒札がその中に立っています。
「若宮八幡宮」京都市下京区若宮通花屋町上ル若宮町
 市バス西洞院下車徒歩2、3分

「左女牛井之碑」からは、六条通を東へ進み、若宮通を右折して南へ
やがて左手に小さな社が見えてきます。

『参考資料』
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 「京の史跡めぐり」京都新聞社
 井上満郎「平安京の風景」文英堂 「平安時代史事典」角川書店
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館

 

 

 

 

 

 

 




 

 

 


 



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近鉄電車・上太子駅から飛鳥川を渡りブドウ畑の中のゆるやかな坂道を
上り下りすると、やがて前方に壺井八幡宮の白い鳥居が見えてきます。
この辺は源満仲の三男・頼信が屋敷を構え頼義、義家の三代が
住んだことから河内源氏発祥の地といわれています。
周辺には氏神である壺井八幡宮、菩提寺であった通法寺跡、源氏館跡、
源氏三代の墓などの史跡が点在しています。






史跡「壺井水」
平安時代前九年の役(1051~63)のとき源頼義の軍が
飲料水に苦しんだ折、弓の先で崖をつき崩して得た冷水により
将士の意気があがったといわれている。
平定完了して凱旋する際冷水の水を壷に入れて持ち帰り、
本拠地の香爐峯の南麓に井戸を堀り、そこの冷水の水を底に入れ
苦戦の記念としたもので、これが「壺井」の地名の起源となった。(現地説明板)


「壺井八幡宮」府史跡
このあたりは壺井の香炉峯といわれ、河内源氏発祥の地として知られており、
平安時代中期の寛仁4年(1020)源頼信が河内守の任官してこの地に
私邸を営み、康平7年(1064)に前九年の役を平定した頼義(頼信の子)が
私邸の東側に勧請したのが本宮の起原である。
また、左側にある壺井権現社は義時(義家の五男)が河内源氏の祖神として
天仁2年(1109)創祀したものである。現社殿は、両社とも元禄14年
(1701)徳川綱吉の命で柳沢吉保が再建したものである。(現地説明板) 


壺井八幡宮







頼義の子の義家は、石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎義家とよばれ、
武勇だけでなく、和歌をたしなむ風雅の人でもありました。
陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花のちりければよめる
♪吹く風を勿来の関と思へども 道もせに散る山桜かな  源義家朝臣

義家は頼義と前九年合戦、後三年合戦に出陣し、奥州を平定し、後三年合戦後、
義家は私財を投じて部下の労をねぎらい主従関係を強くしました。

若宮八幡宮社 (八幡太郎義家)




源氏三代を祀る壺井権現社

例大祭:例年5月15日 11:00~
通法寺跡・源氏三代の墓  
『アクセス』
「壺井八幡宮」大阪府羽曳野市壺井605-2
 近鉄電車上太子駅下車徒歩20分位

 



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源氏三代の墓は通法寺跡(大阪府羽曳野市)の周辺にあります。
頼信・頼義・義家のいわゆる源氏三代は、
河内国に地盤をもっていたので河内源氏とよばれます。
頼信の父満仲は、摂津の多田(川西市)に住み、多田荘を開発し
武士団を統括し、多田院(現・多田神社)を創設しました。
摂津は当時の農業先進地の上に、交通の要衝であり、多田銀山があり、
経済力を手にした満仲は、摂津源氏の祖となりました。
満仲は策謀に長け、藤原氏に取り入り摂津守となります。

満仲の二男頼親は大和源氏の祖となり、藤原道長の
護衛役にすぎなかった三男の頼信は、それまで鎮圧に向かった追討使が
失敗した「平忠常の乱」を鎮圧し、その名を天下にとどろかせました。
その功により美濃守となり、次いで河内守に任じられます。
河内守を二度歴任し、羽曳野市坪井町に館を構えました。
頼信は京都朝廷との
関わりを深め、その子頼義は京都にも邸宅をもちます。

鎌倉幕府を開いた源頼朝は頼信の末裔であり、義家の子・義国の流れから
新田氏や室町幕府を開いた足利尊氏が出ています。




史跡:「通法寺跡」
羽曳野市壺井は河内源氏発祥の地として知られていますが、この壺井通法寺は、
長久4年(1043)に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから
始まります。前九年の役(1051~62)の時、東北地方で活躍した源頼義が
浄土教に帰依し阿弥陀仏を本尊としてから河内源氏の菩提寺となり
源氏の隆栄と共に栄えました。
南北朝時代(約700年前)には、戦火にあい建物を消失しましたが
江戸時代になって源氏の子孫・多田義直が5代将軍綱吉に願い出て柳沢吉保らが
普請奉行となって再建しました。ところが、明治時代の廃仏毀釈により
現在のように、山門・鐘楼などを残すだけとなってしまいました。
なお、ここには源頼義の墓があり東方約200mの丘陵には
その父・頼信と子義家の墓もあります。 (現地説明板)


通法寺跡の鐘楼

通法寺跡に祀られている源頼義

◆国指定史跡「源頼義の墓」(968~1075)
源頼義は父頼信、母修理命婦の長男として生まれた。平忠常の乱の際、
父を助け乱の鎮圧に貢献し、はやくからその武勇を東国武士に知らしめていた。
永承6年(1051)「浮囚の長」である安倍頼良(のち頼時)が
反乱をおこした際、乱の鎮圧にあたった。
一旦は頼時を従わせたが、その時頼時とその子貞任がふたたび謀反を
おこしたため、出羽豪族清原の援を得て、
康平5年(1062)ようやく乱を平定した(前九年の役)。
また頼義は前九年の役の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、
その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に
八幡神を勧請し、通法寺の北側に壺井八幡宮を建立、源氏の氏神とした。
承保2年(1075)7月13日、88歳でその生涯を閉じ、
通法寺境内に葬られたといわれている。(現地説明板)


◆「源氏館跡」
平安時代の後期になって、急速に武士が力を伸ばし始めた頃、
源満仲の三男頼信は河内守となって寛仁4(1020)年に
河内国古市郡壺井里の香炉峯に居館を構えて本拠地とした。
数々の武功によって大きな勢力を築いた名族、河内源氏の始まりである。
頼信とその子頼義、孫の義家らは、平忠常の乱(1028~30)、
前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)などの相次いだ
戦乱で活躍し、関東、東北地方へも地盤を広げていった。彼らの子孫には、
鎌倉幕府を開いて将軍となった頼朝や、その弟義経などがいる。
頼信らが住んだ館の跡は、壺井八幡宮が鎮座する丘の上にあると
伝えられている。今のところ、場所や規模などを知る具体的な
手掛かりはないが、武家の棟梁にふさわしい豪壮な屋敷が造られ、
たくさんの武士達が集まっていたことだろう。(現地説明板)


通法寺跡から東方約200m進むと、小高い丘の上り口に
「源頼信・源義家墓」の石碑が見えます。

石段を上って行くと源義家の墓があります。
国指定史跡「源義家の墓」(1039 ~1106)
源義家は父源頼義・平直方の女の長男として生まれました。
7歳の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。
前九年の役の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。
永保3年(1083)には出羽豪族清原の」内紛が起こるが、
寛治元年(1087)その鎮圧に成功し、武将としての地位は
不動のものになった(後三年の役)。
この功績から百姓が土地を寄進しはじめ、寛治6年(1092)には、
朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。
また、永徳2年(1098)武将ではじめて院への昇殿(殿上人)を許された。
晩年、康和3年(1101)7月、次男対馬守義親が反乱、また三男義国が
嘉承元年(1106)6月に事件を起こすなど義家の中央官界での地位が
危ないものになっていった。最期は嘉承元年(1106)7月、
京の邸宅で死去し、この地に葬られた。(現地説明板)


源義家の墓

国指定史跡「源頼信の墓」(968 ~1048)
源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。
20歳の時中央官界に身を置き、藤原通兼や道長に仕えた。
特に長元元年(1028)に勃発した平忠常の乱の際には、
追討使平直方にかわり反乱を鎮圧した。この乱を鎮圧したことによって、
頼信は武家の棟梁としての確固たる地位を築いた。また上野・常陸・石見
伊勢・美濃などの国司を歴任しており最期に河内国司となる。
その時、河内国古市郡壺井里(現壺井・通法寺)に本拠地を構え
河内源氏をひらくもとになった。
永承3年(1048)81歳の時、この地で死去し遺言により
通法寺の巽(東南)の丘陵に葬られた。(現地説明板)


源頼信の墓


附近には隆光の墓もあります。

下記の記事もご覧ください。
「壺井八幡宮」河内源氏発祥の地  
頼義が京都に構えた邸宅跡
源氏堀川館・左女牛井之碑・若宮八幡宮  
『アクセス』
「通法寺跡」 羽曳野市通法寺字御廟谷 近鉄電車上太子駅下車徒歩30分
『参考資料』
井上満郎「平安京の風景」文英堂 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館
「日本名所風俗図会」近畿の巻(1)角川書店
 

 

 

 





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満願寺は高野山真言宗の寺で8Cに聖武天皇の勅願により創建され、
源満仲が多田に本拠を構えこの寺に帰依してから、
歴代摂津源氏、多田源氏の崇敬を集めたといわれています。


阪急電車雲雀ケ丘花屋敷駅から満願寺への途中にある道標。

満願寺境内「源家七塔」の傍に多田神社へのハイキングコース出発点があります。
満願寺の境内を出て脇道を下りるとすぐ愛宕原ゴルフクラブに沿って
大きく迂回する
遊歩道に出ます。「ゴルフ玉に注意」の掲示を目にしながら
しばらく進むと、
アップダウンのある山道にさしかかります。
木立の合間から所々顔を出す能勢の山々を
臨みながら山道を下ると
急に視界が開けニュータウン湯山台に出ます。

住宅街にある道標に従って20分も歩くと、まもなく多田神社の鳥居が見えてきます。
(満願寺から多田神社までは40~45分)

満願寺山門の金剛力士像は明治初に多田神社南大門より移されました。

満願寺本坊

金堂

金堂・毘沙門堂


坂田金時の墓この奥50m先を左へ

童話や童謡で足柄山の金太郎で
知られる坂田金時の墓。
「源家七塔」中央の仲政(仲正)は源頼政の父です。

多田院の住職となった美女丸・幸寿丸・源満仲の家臣で幸寿丸の父藤原仲光の三廟。

釣鐘堂より

「源家七塔」左手の脇道から多田神社へ



多田神社鳥居

美女丸伝説
源満仲の末子美女丸は僧侶になるため寺に預けられますが
修行もせず毎日武芸のまね事をして過ごしていました。
これを知った満仲は怒り家臣の藤原仲光に美女丸の首をはねるよう命じます。
しかし仲光は主君の子の命を絶つことができず、実子の幸寿丸を斬り美女丸を
逃がします。後にこのことを知った美女丸は修行に励み、やがて源賢という
高僧になります。そして天禄元年(970)満仲が多田院を建てた時、
この院の住職となります。
この物語は謡曲「仲光」でも知られています。
頼光四天王
渡辺綱(頼光母方の一族嵯峨源氏・源綱とも)、碓井貞光、
卜部季武、
坂田公(金)時の四人です。
頼光が東国から都へ帰る途中、足柄山で金時と出合い郎党の一人に

加えたという伝説があり、その童姿は五月人形でもよく知られています。
多田神社 (源満仲・源頼光)  

『アクセス』
「満願寺」川西市満願寺町7-1
阪急電車雲雀ヶ丘駅より愛宕原ゴルフ場行バス10分 満願寺前下車
バスの本数が少ないので要注意
または阪急電車雲雀ヶ丘駅よりバス道に沿って2.5K(上り坂多し)
『参考資料』
新「兵庫史を歩く」NHK神戸放送局編 管原いわを「川西の人と歴史」創元社
 

 

 



 


 

 

 



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多田神社は関西にある清和源氏ゆかりの三つの神社
(六孫王神社・壺井八幡宮)のひとつです。
猪名川上流に広がる多田は、周りを山で囲まれ、守りやすく
攻めにくい天然の要害の地で、源氏発祥の地として知られています。

平安時代の末、武士の棟梁として頭角を現した源満仲は、ここを本拠地として
武士団を統括し、
天禄元年(970)、末子源賢(幼名美女丸)を住職にし、
一族の氏寺として多田院を建てたのが始まりです。
当時は
本殿・拝殿・法華堂・金堂・常行堂・学問所・鐘楼などを備えた
天台宗の大寺院でしたが、明治の神仏分離令によって
「多田大明神」となり仏教関係の建物は排除されました。
満仲を主祭神として、頼光・頼信・頼義・義家の五神を祀っています。
本殿北には満仲・頼光父子を祀る廟所がありますが、
誰も立ち入ることはできない
禁足地となっています。

満仲は清和天皇の孫の源経基の嫡子で、「安和の変」を契機に
藤原摂関家との関係を深め、国司や鎮守府将軍
を歴任します。
摂津国多田の地(川西市)で開発領主として勢力をのばし、
清和源氏発展の基礎を築きました。

武士団を形成した満仲の流れは子孫に受け継がれ、
三男頼信の末裔は鎌倉幕府を開いた源頼朝へと続きます。

鎌倉時代には幕府祈願所となり、次いで足利尊氏は多田院を崇敬し、
尊氏が没すると義詮は父尊氏の遺骨を当社に納め、以後、足利歴代将軍が
ここに分骨するようになり、将軍家の祈祷所として栄えました。
戦国時代は一山の大部分を焼失しましたが、江戸時代、四代将軍家綱が
諸堂を再建し、現存する建物の大部分がこの時に建てられました。



御社橋

南大門 もと多田院の仁王門で両脇に仁王像がありましたが、
明治時代の神仏分離の際、仁王像は満願寺山門に移転されました

隋神門(重要文化財)両脇に築地塀がついた門で、
左右に二体の随身が安置されています。


拝殿(重要文化財)

拝殿内陣





拝殿背後の本殿(重要文化財)
神廟(源満仲、頼光両公の御廟所)は本殿裏にあり、禁足地帯となっています。
又、足利尊氏以下、足利歴代将軍の分骨も収められています。

玉垣には「源氏旧御家人」「源氏同族会」などの文字が見えます。

東門

◆源満仲
康保4年(967)村上天皇が崩御し冷泉天皇が即位しましたが、

天皇は異常な振るまいが多く子供もなかったため、早急に東宮を決めることになり、
冷泉天皇の同母弟の為平親王と守平親王(円融天皇)のうち、

兄をさしおいて守平親王が皇太子になります。
安和2年(969)、源満仲は源連らが皇太子の守平親王(円融天皇)を
廃して為平親王を皇太子にしようと企てていると密告するという大役を演じました。
この事件により、左大臣源高明は事件に関与したとして太宰権帥に左遷されました。

それは為平親王の妃が源高明の娘だったため、親王が皇位につき皇子が生まれると、
高明は外戚となって実権を握る可能性があることから、高明の一派であった
源満仲が彼を裏切り、藤原氏がそれを未然に封じ込めたとされています。
これを安和(あんな)の変といいます。
寛和元年(986年)に起きた藤原兼家らによる花山天皇退位事件にも満仲は関与し、
嫡子頼光、郎党とともに天皇出家の邪魔が入らぬよう、行列が鴨川の堤に
さしかかった辺から行列を警固し、山科の花山寺(元慶寺)まで送りました。
そしてこの寺で天皇は髪をおろし花山法皇となりました。
◆源頼光(948~1021)
満仲の長男で母は嵯峨天皇の曾孫源俊(すぐる)の娘です。
摂関家の家司として備前・但馬・美濃・伊予・摂津等の受領(国守)を務め
兼家・道長父子に仕えた頼光は巨額の富を得ます。
兼家の二条京極第新築の宴で来客への引出物として30頭の馬を贈ったり
道長の土御門殿が長和5年(1016)に全焼し再建の際には家具・調度一切を
頼光が一人で贈り、その品々を運ぶときには見物の人垣ができたといいます。
娘たちを道長の異母兄道綱や道長の妻倫子の甥に嫁がせ
摂関家との結びつきを強めていきます。

頼光は四天王の故事とともに大枝山酒呑童子や土蜘蛛退治の
説話や物語の中で活躍する優れた武将としてよく知られていますが、
当時の貴族の日記や史料にはその活躍はみえず、実態はよく分からないようです。
史料に登場する頼光は、摂関家と巧みに縁を結び兼家・道長に
まめまめしく仕えるもう一つの顔です。

「平家物語・巻十一」剣の巻(下)には
四天王の一人渡辺綱や頼光の物語が書かれています。
綱が頼光の使いの途中、一条戻り橋で鬼が化けた美しい女に出合い愛宕山に
帰るので送ってくれと頼まれますが、頼光が綱に持たせた鬚切(ひげきり)で
鬼の腕を斬りとり、すんでのところで命拾いします。この話を聞いた頼光は驚いて
安倍晴明に占わせると「仁王護国般若波羅蜜多経を7日間となえよ。」と
綱に申しつけますが、6日目に綱の母に化けた鬼によって腕を取り返されました。
鬼の腕を切り取った「鬚切」は以後「鬼丸」と名づけられます。

また熱病にかかった頼光を空から土蜘蛛が下りてきて縛ろうとするので
枕元の膝丸で退治し「膝丸」は「蜘蛛切」と改名されました。
この二つの太刀は刀づくりの名工が満仲に頼まれ
宇佐八幡宮に祈願して作った刀で、嫡子の頼光に伝えられたものとしています。

※「鬼丸」は多田神社宝物殿に陳列されています。
宝物殿開館日: 4月1日~6月30日の土・日(4月11日・12日・5月10日は閉館)
開館時間: 午前10時~正午、午後1時~3時
毎年4月の第2日曜日、川西市源氏祭りが多田神社の例大祭に合わせて行われ、
源満仲、頼光、頼朝、義経、静御前、巴御前などが登場します。
◆多田行綱(生没年不詳)
源平時代には源満仲から数えて八代目の行綱が多田荘を継承していましたが
頼光の孫・頼綱の代に摂関家に荘園を寄進し、摂関家とともに衰退していました。

「平家物語」に行綱がはじめて登場するのは巻二(西光が斬られの事)の中です。
俊寛の鹿ケ谷の山荘に集まって、後白河院や院近臣らによる平家打倒の陰謀に
藤原成親に誘われ加わっていましたが、計画の無謀さを悟り清盛に密告する人物です。
満仲が亀岡を経由して都へ往来した道が残っています。
万寿越 (源満仲)  
摂津源氏・多田源氏の崇敬を集めた満願寺
満願寺から多田神社へ  
『アクセス』
「多田神社」川西市多田所町1-1 能勢電鉄多田駅下車・桜馬場を西へ徒歩約15分
『参考資料』
大津透「道長と宮廷社会」 講談社学術文庫 
新潮日本古典集成 「平家物語」(下)新潮社 「兵庫県の歴史」山川出版社 
菅原いわお「川西の人と歴史」 創元社 新「兵庫史を歩く」NHK神戸放送局編 
「平安時代史事典」角川書店 「日本人名大事典」(5)平凡社 





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