平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



以仁(もちひと)王の令旨が諸国の源氏蜂起の引き金となり、治承4年(1180)8月、
頼朝が伊豆で挙兵すると、ほどなく木曽義仲も立ち上がりました。
義仲が北陸道に進軍する前、頼朝軍が上野(群馬県)と信濃(長野県)境の
峠を越え、信濃国で両者は一触即発の事態となりましたが、
義仲が嫡男清水冠者義高を頼朝の許に遣わすことで和解が図られました。

寿永2年(1183)7月、義仲は源氏勢の中で最初に都に入りましたが、
やがて後白河院と対立して義仲追討の院宣が出され、
鎌倉勢に攻撃され生涯を終えました。
義高は頼朝の娘大姫の許嫁として迎えられていましたが、
父が頼朝に討たれると、鎌倉を逃亡し頼朝の放った追手堀親家の郎従藤内光澄に
入間河原で追いつかれ悲運の生涯を終えたと『吾妻鏡』に記されています。

鎌倉から北上し、鎌倉街道を町田、府中、所沢を経て
ここまで逃れてきた義高の心情が哀れです。

昔、「八丁の渡し」と呼ばれる浅瀬があり、この渡しは鎌倉街道が
入間川を渡るところにあったといわれています。
渡しといっても渡し舟ではなく、浅瀬を徒歩で渡ったのです。
義高は「八丁の渡し」にさしかかったところで討たれ、
「八丁の渡し」が義高終焉の地と推定されています。

『新編武蔵国風土記稿』によると、入間川右岸の入間川村(現、狭山市入間川1~4、
富士見1~2など)は、中世、鎌倉街道上道(かみつみち)が通り、
子(ね)ノ神で入間川を渡河していたという。


また『広報さやま』によると、「八丁の渡し」は、
市内に二ヵ所あるとされ、一つは、子(ね)ノ神を下り、
本富士見橋周辺の中島辺、もう一つは下流の奥富の前田、
入間川堤防に建つ九頭龍大権現の石仏辺から柏原へ渡る浅瀬です。

そこで子之神社前の坂から入間川へ下ります。






 
入間川右岸  手前の道は、入間川に沿って走るサイクリングロードです。

近くの歩道橋から眺めた「八丁の渡し」があった辺り



国道16号線から新富士見橋を渡って1㎞ほど行くと奥州道という交差点に出ます。



新富士見橋側道橋
晴れた冬の寒い日には、この橋から富士山がよく見えるそうです。

八丁の渡りがあった辺の河川敷の風景を眺めながら橋を渡ります。





奥州道交差点の坂を少し上った傍らにある影隠(かげかくし)地蔵は、
頼朝の追手に追われた義高が、道端の地蔵尊の背後に身を潜め、
難を逃れようとしたといわれています。

ゆるやかな坂を上っていくと、木陰の中に赤い帽子とよだれかけが見えてきます。

『新編武蔵国風土記稿』によると、この石の地蔵は、
現在地より入間川よりの上広瀬側の地蔵堂に木像の地蔵としてあったという。

「影隠地蔵 市指定文化財 史跡
 所在地 狭山市柏原二0四-一 指定年月日 昭和五十二年九月一日
 この地蔵尊が影隠地蔵と呼ばれるのは、清水冠者義高が追手(おって)に
追われる身となったとき、難を避ける目的で、
一時的にその姿を隠したためといわれています。
義高は源義仲(木曽義仲)の嫡男で、義仲が源頼朝と対立していた際、
和睦のために人質として差し出され、頼朝の娘である大姫と結婚しました。
政略結婚とはいえ二人は幼いながらも大変仲がよかったと伝えられています。
その後、義仲と頼朝は再び対立し、後白河法皇の命を受けた頼朝は、
弟範頼・義経の軍に義仲の討伐を命じ、義仲は敗れて討たれました。
義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで鎌倉からのがれ、
父義仲の出生地でもあり関係の深かかった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町か、
生まれ故郷である信濃国(長野県)へ向いました。
しかし、頼朝は将来の禍根(かこん)を恐れ、娘婿の義高に追手を放ちました。
命を狙われた義高は元暦(げんりゃく)元年(一一八四)四月、
この入間川の地まできたときに、追手の堀藤次親家らに追いつかれ、
一度はこの地蔵尊の陰で難をのがれたものの、ついには捕えられ、
藤内光澄に斬られたといわれています。地蔵尊はかつて木像で地蔵堂があり、
その中に安置されていました。道路の拡張により現在の場所へ
移動していますが、過去にも入間川の氾濫で幾度か場所が移動していると思われます。
また、石の地蔵尊になったのは明治七年(一八七四)のことで、
明治政府がとった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により
木像の地蔵が処分されたためと考えられています。不明な部分もありますが、
義高の悲劇をあわれんだ村人が建てたともいわれているなど、
変わり行く時代の中でも影隠地蔵はその歴史を後世に伝えています。
 (清和源氏略系図・桓武平氏略系図は省略しました)
 平成二十四年三月 狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会」(現地説明板より)

影隠地蔵前に建つ石橋供養塔には、
四面に「南江戸、東川越、北小川、西八王子」と刻まれ道標となっています。

「歴史の道  鎌倉街道(かまくらかいどう)
 鎌倉幕府の成立とともに整備されたといわれる中世の道「鎌倉街道」は、
武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ新田義貞等多くの武将たちが、
その栄枯盛衰の物語を踏みつけた道として、また、さまざまな文化の
交流の場として利用され、狭山市の歴史の展開に大きな役割を果たした道です。
 狭山市内を通過する鎌倉街道の伝承路は、児玉方面(群馬県藤岡方面)に向かう
通称「上道」があり、上道の本道(入間川道)と分かれた鎌倉街道には、
堀兼神社前を通る道があります。このほか、「秩父道」などと
呼ばれる間道や脇道もあります。
また、逆に「信濃街道」 「奥州道」といった
鎌倉から他国への行き先を示した呼び方もあります。
 狭山市」

鎌倉を脱出した義高はいったい何処へ逃げるつもりだったのでしょう。
鎌倉街道をこのまま進めば、武蔵嵐山までは30㎞ほどの距離です。

埼玉県比企郡嵐山町では、義高の母は山吹とし、同町の班渓寺(はんけいじ)は、
山吹がわが子義高の菩提を弔うために建立したとしています。
境内には山吹姫の墓もありますが、同寺に残る山吹の位牌やその戒名
「威徳院殿班渓妙虎大姉」の形式が江戸期のものであることから、
山吹がこの地で亡くなったという伝承は、近世以降に創造されたものと思われます。

頼朝と義仲は従兄弟にあたります。
義仲の父義賢(よしかた)は義平(義朝の子)と勢力争いの末、
武蔵大蔵館で合戦に敗れて討死し、
2歳の駒王丸(義仲)は、畠山重能や斎藤実盛に助けられ、
中原兼遠を頼って木曽に逃れ、そこで養育されます。

嵐山町に縁があるのは、義高の父木曽義仲や祖父の源義賢です。

義高が鎌倉街道上道を北上したのは、入間川の先には、義仲と最後まで
行動をともにした多胡家兼の本拠地上野国(群馬県)多胡庄があるので、
そこまで逃げれば義仲の旧臣がかくまってくれると考えたのであろう。
(『源頼政と木曽義仲』)
ちなみに義仲の父義賢(よしかた)は、一時多胡館に住み、
義仲は挙兵後、父の旧領である多胡郡を訪れています。

義高と大姫の悲話は、御伽草子『清水冠者物語』の
題材となり、広く知られるようになりました。
この物語では、義高は奥州藤原氏を頼って落ちる途中、那須野ヶ原で
追手に捕えられ、鎌倉の小坪の浜で処刑されたことになっています。

清水冠者の「清水」の由来は、義高の乳母の出身地と伝わる
善光寺近くの箱清水、それに義高生誕地とも伝えられる
松本市丸子町の「正海清水」などと推測されています。

「歴史の道」の説明板横には、信濃坂と記された木標がたち、
この坂が義高の故郷信濃に続く道であることを物語っています。

義仲の残党が甲斐・信濃等に隠れ、謀反を企てているとの情報があり
頼朝は甲斐、信濃国に大規模な軍兵の派遣を命じ、残る残党を一掃しました。
清水冠者義高の悲劇を伝える清水八幡宮  
『アクセス』
「影隠地蔵」埼玉県狭山市柏原69付近
狭山市駅西口から西武バス「奥州道」下車徒歩1分
「子(ね)之神社」狭山市入間川3丁目24番付近
『参考資料』
「埼玉県の地名」平凡社、1993年 「木曽義仲のすべて」新人物往来社、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年
伊藤悦子「木曽義仲に出会う旅」新典社、2012年  
永井晋「源頼政と木曽義仲」中公新書、2015年





コメント ( 2 ) | Trackback (  )





埼玉県狭山市の国道16号線沿いの「本富士見橋」近くに、
「清水冠者源義高終焉の地」の案内板がたっています。

西武新宿線狭山市駅



国道16号線

清水八幡宮の傍を流れる入間川






狭山ロータリークラブによる案内板



清水八幡は市指定文化財で、毎年5月の第3土曜日に大祭が行われます。

拝殿、本殿、下諏訪自治会館

祭神 木曽清水冠者義高
本殿には、永享2年(1430)の石祠が安置されています。

『清水八幡宮由来記』によると、
治承4年(1180)源義仲は以仁王の令旨を掲げて挙兵し、北陸道を
京へ攻め上る直前、対立状態にあった頼朝との戦争を避けるため、
嫡男の清水冠者義高を人質として鎌倉に差しだし、両者は和解しました。
義高は頼朝の娘大姫の許嫁となり、同じ御殿に仲睦まじく暮らしていました。

その後、義仲は北陸道で平家に大勝し、京都に入りましたが、
義仲の粗野で傍若無人の振る舞いが都人に嫌われ、後白河法皇は
政治的パートナーとして義仲を見限り、源頼朝に義仲追討の宣旨を出しました。
これを受けて義仲を討伐した頼朝は、その息子義高を放置することもできず、
「娘をくれてやるのも無駄なこと、折をみて小冠者を片付けろ」と命じました。
侍女がこの密談を聞き、大姫の御殿に駆けつけ政子や大姫らに告げました。
政子は義高を助けようと、義高に大姫の衣装を着せて女装させ、
夜に紛れて従者6名をつけてこっそり逃がしました。

元暦元年(1184)4月、鎌倉を脱出した義高は、武蔵嵐山を目ざし
鎌倉街道に沿って府中・所沢を過ぎ、入間川の八丁の渡しに出た時、
頼朝が追手として送った堀親家の郎党藤内光澄に討たれました。
それを哀れに思った村人が亡骸を埋めて塚を築き、ケヤキの木を植えたという。
その後、北条政子の庇護により、社殿が築かれ清水八幡宮と崇め、
自ら入間川の地に来て供養をし、神田を寄進しました。
社殿は朱の玉垣を巡らせた壮麗なものでしたが、
応永9年(1402)8月の入間川の大洪水で社殿と社地を失いました。
元の場所は不明ですが、
昭和34年(1959)10月、現在の地に社殿が再建されました。

頼朝はかつて父義朝が起こした平治の乱に敗走中、
雪道に迷い父とはぐれてしまい、辿りついた青墓で平宗清に捕われました。
死罪になるはずのところを清盛の継母池禅尼の命乞いによって
危うく命を助けられた頼朝は、伊豆に配流となり、挙兵するまでの
二十年もの間、北条氏などに監視される流人生活を送りました。
自らの事を振り返り、成長してからの義高の復讐を恐れ、
生かしておけなくなりました。
影隠地蔵(清水冠者義高)  
 鎌倉市常楽寺に義高の墓と伝わる塚があります。
清水冠者義高の墓(常楽寺) 
 大姫を野辺送りした地に建つ岩船地蔵堂  
『アクセス』
「清水八幡宮」埼玉県狭山市入間川3丁目35番付近
西武新宿線「狭山市駅」より徒歩約20分

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )





石橋山合戦で敗れた頼朝は、真鶴から小舟で海上を安房に逃れて態勢をたて直し、
房総半島を北上しながら次第に軍勢の数を増やし、
上総(千葉県中部)・下総(千葉県北部と茨城県南部)の武士を束ねて武蔵へ入りました。

畠山重忠はじめ河越重頼・江戸重長らの秩父一族は、当初、源氏に反旗を翻したので、
頼朝が再起して武蔵国に入ったときは苦境に陥りましたが、頼朝の勢威を見て、
そろって長井の渡(現、東京都荒川・台東区付近)に出かけ頼朝に服従を誓いました。

小坪合戦、続く衣笠合戦で三浦一族と戦った秩父一族を、源氏勢は到底
受け容れることができませんが、平維盛が東国に出陣するという情勢下、
このような大武士団を敵にまわしては、
折角回復してきた勢力が頓挫してしまうと、
頼朝は畠山重忠らに遺恨のある三浦一族に言い聞かせ勢に加えました。

『源平盛衰記』によると、この時、重忠は「平氏は一旦の恩、佐殿(頼朝)は
重代相伝の君なり。」三浦氏との合戦は、私の望みではなく、
平氏の恩を返すためのもので、その恩は果たした。今は佐殿(すけどの)に
忠誠を誓うと述べ、先祖伝来の白旗を持って帰順しました。
この白旗は後三年合戦の時、
先祖の秩父(平)武綱が八幡太郎義家より賜って先陣を務めたもので、
大蔵合戦では、父重能(しげよし)がこれを掲げ、勝ち運を招いた
縁起のよい旗であると云って頼朝を喜ばせました。

重忠を先陣として、頼朝が大軍を率いて鎌倉入りしたのは、
治承4年(1180)10月、石橋山敗戦の僅か40日あまり後のことです。
重忠に先陣させることで、平家方であった武蔵の大武士団
秩父一族を組み入れたことを広くアピールする意味もありました。
名誉の先陣を務めた重忠は、その後、北条時政の娘を妻に迎え、
名実ともに鎌倉幕府の有力御家人となっていきます。

重忠は清廉実直、知性と武勇を兼ね備えた武将と評価されていますが、
そんな性格の彼にも思わぬ嫌疑をかけられることがありました。

重忠は戦功の恩賞として各地に多くの所領を与えられました。
その一つとして伊勢国(
三重県)の沼田御厨(みくりや)の地頭職があります。
この御厨で重忠が派遣した代官が詐欺・横領を起こしました。

事件は代官が起こしたもので重忠は直接関係していませんでしたが、
沼田御厨は伊勢の外宮(げぐう)領であり、この事件は、鎌倉と
外宮との対立に発展する恐れがあったので、頼朝は大いに怒り、
文治3年(1187)9月、重忠を囚人として千葉胤正(たねまさ)に預け、
所領四か所を没収しました。
誠実で実直な性格の重忠は、深く恐縮して
一週間も睡眠をとらず絶食をして謹慎したので、身柄を預かっていた胤正は、
見かねてその様子を頼朝に報告し、寛大な処置を願い出ました。

頼朝もその態度に感動してすぐに許しましたが、重忠は一旦出仕したものの
この事件が落ち着くと、罰を受けたことを恥としてすぐに本拠地の
菅谷(すがや)の館に帰り引き籠ったことから疑われ、
同年10月14日、梶原景時が「重忠謀反」と頼朝へ讒言しました。


それは、「畠山重忠は、さしたる重罪も犯してないのに処罰されたということは、
今まで自分がたてた手柄を無視されたのも同じである。」として、
菅谷の館にこもり謀反を企てているという噂があります。一族の者が皆、
武蔵国にいるということですから、この風聞は間違いないと思われます。
すぐに対策をとるように。というものでした。もともと猜疑心の強い頼朝は、
この言葉に惑わされ、小山朝政・下河辺行平・結城朝光(ともみつ)・
三浦義澄・和田義盛らの有力御家人らを集め、この件について相談しました。

結城朝光は「畠山重忠は、清廉潔白な性格で、道理をわきまえており、
謀反の気持ちがあるなど考えられません。重忠のところに使者を送って
お確かめになったらいかがでしょうか。」と重忠を弁護しました。
ほかの御家人らもこの意見に賛成したので、重忠の幼なじみの
下河辺(しもこうべ)行平がその使者となり、鎌倉のよからぬ風聞を聞かせると、
重忠は激怒し、腰の刀を抜いて自害しようとしました。

驚いた行平は重忠を宥め、鎌倉に戻って弁明することを承諾させ、
一緒に帰ってきました。そして梶原景時が重忠を尋問すると、
重忠は謀反の気持ちなどないことを申し述べたので、
「異心がないなら起請文(神仏に誓いを立てて書く文書)を
提出するように。」というと、重忠は「武力を使って他人の財産を
横領したといわれるより、謀反を企てていると噂を立てられる方が、
武士にとってよほど名誉なことである。ただ頼朝殿をご主人と
仰ぐようになってからは、二心を持つようなことは絶対にない。
起請文(きしょうもん)を取るというのは、悪しき者に対して
することである。」といい、起請文の提出を拒否しました。

景時は重忠の答弁を頼朝に報告したところ、
頼朝はすっかり疑念が晴れ、この件について何も語りませんでした。
これがきっかけとなり、重忠はいっそう頼朝の信頼を得たという。

坂東八平氏の流れを汲む梶原景時は、石橋山合戦の際、平家軍に属していながら、
洞穴に隠れ潜む頼朝をあえて見逃し、その危機を救いました。
その後、景時は政治的な才能もあったので、御家人を組織し統制する
侍所の所司という要職に就き、頼朝の気持ちをよく理解して、
邪魔な存在は素早く排除する役目を担い、「一之郎党」と見なされます。

かつて徳大寺家に仕えたことがあり、文化的素養が高く弁舌も巧みでしたが、
有能で冷徹な人柄は、他の御家人から嫌われる存在となっていました。
義経をそしり、義経と頼朝の不和の原因を作った人物とされています。

畠山重忠が厚く尊崇した東京都青梅市の御嶽(みたけ)神社には、
重忠が奉納したと伝えられる国宝の赤糸威鎧(おどしよろい)や
宝寿の銘がある黒漆太刀があり、境内には重忠の騎馬像が建っています。

畠山重忠館跡(菅谷館跡)  
『参考資料』
福島正義「武蔵武士」さきたま出版会、平成15年
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年
上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」吉川弘文館、2012年
梶原等「梶原景時 知られざる鎌倉本體の武士」新人物往来社、2000年
「新定源平盛衰記(3)」新人物往来社、1989年
 「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 
「東京都の地名」平凡社、2002年「郷土資料事典(御嶽神社)」ゼンリン、1997年





コメント ( 2 ) | Trackback (  )





埼玉県比企郡嵐山町には、畠山重忠や木曽義仲、
その父源義賢(よしかた)などの史跡が点在しています。

嵐山(らんざん)という地名は、槻(つき)川の美しい渓谷が
京都嵐山に似ているとして名づけられました。



武蔵嵐山駅から小さな商店街を歩いて行くと、国道254号線に突き当たります。
菅谷(すがや)館跡(国史跡)は、そのバイパスに面しています。
 
菅谷館跡は都幾(とき)川と槻川の合流する地点の北の台地上に位置しています。



バイパスに面した搦手門跡から入ると、すぐに「嵐山史跡の博物館」があります。

搦手門跡







博物館は三ノ郭の一角に建っています

菅谷館は本郭、南に南郭、二ノ郭、北に三ノ郭、西に西ノ郭があり、
空堀と土塁などの遺構が残っています。面積は11万平方メートルもあり、現在、
館跡の三方の堀は、池や水田などとなっていますが、館は堀と土塁をめぐらし、
南には都幾(とき)川が流れる天然の要害の地にありました。

これは戦国時代に使われた時のもので、菅谷館は扇谷(おうぎがやつ)
上杉氏の重臣太田資康(道灌の子)によって城塞化され、
重忠の時代の遺構はその一部に残るだけです。

畠山重忠が本領の畠山から東南約10㎞の菅谷に移った時期は
明らかではありませんが、
文治3年(1187)には、
菅谷館を本拠地としていたことが『吾妻鏡』にみえます。

「畠山重忠と菅谷館跡(説明板より)
畠山重忠は長寛二年(一一六四)、畠山庄司重能(しげよし)を父とし、
相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に
生まれました。治承四年(一一八〇)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、
父の重能が平家に仕えていたため、弱冠(じゃっかん)十七歳の重忠も
平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。その後間もなく頼朝に仕え、
鎌倉入りや富士川の戦いには先陣をつとめ、宇治川や一の谷合戦では、
かずかずの手柄をたてました。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、
武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。
頼朝死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、
北条氏に謀殺されました。四十二歳でした。
鎌倉時代の史書『吾妻鏡』によると、元久二年(一二〇五)六月十九日、
「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか百三十四騎の部下を率い
「小(男)衾郡(おぶすまぐん)菅谷館」を出発し、同月二十二日、
二俣(ふたまた)川(現横浜市)で雲霞(うんか)のごとき北条勢に囲まれ、
部下とともに討たれたとあります。嵐山町菅谷にあるこの城郭が、
その「菅谷館」ではないかと古くから言われてきました。
城郭の西には鎌倉へ通じる街道筋が残されており、この城郭のどこかに
重忠の館があったことも充分考えられます。現在この城郭は、
縄張りや土塁・空堀(からぼり)の構造から推定して、
戦国時代末頃に最終的に改築されたものと考えられています。 埼玉県」

二ノ郭の土塁の上に、木々に囲まれた畠山重忠の像が建っています。
平服で鎌倉を臨む姿を造形したものですが、勇壮な騎馬像が多い中、
直垂(ひたたれ)姿の石像は、非常に印象的でした。

歴史資料館の建設にともなって発掘調査が実施され、発見された建物跡、
溝跡、井戸跡のうち、
2か所の建物跡と1か所の井戸跡を保存し、
本館前の三ノ郭に丸太を建ててその位置が示されています。この建物跡は、
柱と柱の間隔の長さや出土した遺物から江戸時代のものと推察されています。

本郭へ



重忠の館があったとされる本郭



出桝形土塁
本郭は空堀と高い土塁によって守られています。
さらに土塁にはこのような出桝形(凸状に突き出た箇所)がつくられていて
敵軍の侵入が効果的に防げるようになっています。

二ノ郭

館跡の西側近くを鎌倉街道が南北に走り、
搦手門跡傍に「鎌倉街道跡」の道標が建っています。
ここから重忠は鎌倉を目ざし、郎党を率いて笛吹峠を駆け抜けました。

畠山氏は坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一つ秩父一族の嫡流で、
重忠の父重能(しげよし)の時、畠山(現、深谷市畠山)に移住し、
地名を苗字として畠山氏を名のりました。

桓武天皇の曾孫の高望(たかもち)王は、平姓を賜って臣籍降下し、
上総介(千葉県中部)に任じられ、5人の息子を伴って下向しました。
高望王の五男村岡(平)良文は下総国相馬郡村岡を本拠とし、
その子孫が下総の千葉氏、上総の上総氏、相模の三浦氏、相模の土肥氏や
畠山氏を筆頭とする秩父氏、相模の大庭氏、相模の梶原氏、
相模の長尾氏などの武家平氏となり、
坂東八平氏と呼ばれ関東各地に勢力を拡大していきました。

八平氏は地域によって、中村氏、鎌倉氏、佐奈田氏などをいう場合もあり、
必ずしも一定していませんが、この良文を祖とする氏族をそう呼びます。

一方、良文の兄である国香(くにか)の孫、惟衡(これひら)の時代に
伊勢に進出したのが、平清盛に代表される伊勢平氏です。


東国というとすぐ源氏を思い出しますが、清和源氏の祖
清和天皇が即位したのは、桓武天皇の即位の77年後のことで、
東国の荒地を開拓して開発領主となり、早くに勢力を築いたのは、
こうした桓武平氏の子孫たちでした。

後に彼らが源氏再興の中核となって鎌倉幕府創設に尽力します。
  
深谷市畠山の重忠館跡 畠山重忠公史跡公園(畠山重能)  
畠山重忠邸跡(鎌倉)  
アクセス』
「菅谷館跡」埼玉県比企郡嵐山町菅谷字城757
東武東上線「武蔵嵐山」駅西口下車 徒歩約15分
「県立嵐山史跡の博物館」0493(62)5896
9時~午後4時30分 月曜日休館 
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )