平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




京都市の新京極三条を150㍍ほど西へ進むと、
三条通に面した北側の弁慶石町に弁慶石があります。

かつてこの付近には、天台宗延暦寺に属する京極寺があり、
境内には鎮守八幡宮が祀られていました。
伝説によると、弁慶は幼少の頃、京極寺に住んでいたといわれ、
弁慶石は弁慶を慕う後世の人が、伝承にちなんで作ったものと云われています。

当社の神輿は、延暦寺の僧兵の強訴に用いられていました。

治承元年(1177)4月13日、山門の僧兵たちは日吉の祭礼
(この年の山王祭は、15日に行われる予定でした。)を中止して、
比叡山の末社、祇園社(現、
八坂神社)・京極寺の神輿を賀茂河原で待ち受け、
力をあわせて神輿を振りたて、大内裏の北の門である
達智門(だっちもん)を目ざして押し寄せ、
朝廷に強訴したという。
この時、朝廷は源平両家に大内裏の四方を守るよう命令し、
平家は小松内大臣重盛が陽明門を固め、源氏には、
兵庫頭(ひょうごのかみ)頼政が大内裏を警護しています。
(『源平盛衰記・山門御輿振りの事』)

京極寺は応仁の乱の兵火で、上御霊神社の西に移り、
大正12年、烏丸通の拡張で、現在地(北区小山下総町28−7)へ移転しました。



高さ約1,5㍍の青みを帯びた石です。

弁慶石の由来は諸説あり、義経を守って奥州衣川で立往生の最期を遂げた
弁慶が愛した石とも、
弁慶が死後、この石になったとも伝えられます。
その石がある時、大声で三条京極に往かんと言い出しました。
その頃、高館地方では熱病が流行したので、
人々は弁慶の祟りと恐れ、
生まれ故郷の京都へ送ったという。なんとも荒唐無稽な話です。

そしてこの石は室町時代の享徳3年(1454)、京極寺に移されました。

また、鞍馬口にあった弁慶石が大洪水で当町へ流れ着いたとか、
この町に住んでいた東京の弁慶橋を造った大工の棟梁
弁慶仁左衛門の庭先にあったともいわれています。

弁慶石の説明プレートには、次のように記されています。
「この石は弁慶が熱愛したと謂はれ、弁慶は幼少の頃三条京極に住み、
死後この石は奥州高館の辺にありましたが 発声鳴動して
『三条京極に往かむ』といひ その在所には熱病が蔓延したので
土地の人が恐怖し 享徳三年(約五百年前)三条京極寺に移し以来当町を
弁慶町と称するに至りました。 その後、市内誓願寺方丈の庭に移りましたが
明治二十六年三月町内有志者により当町へ引取られ、昭和四年七月十二日
この場所に建立されたものであります。 
美秀書 平成八年四月 京都市中京区三条通リ弁慶石町」

武蔵坊弁慶
武蔵坊弁慶の出自、経歴には伝説的要素が大きく、あまりに超人的な
活躍ぶりに実在が疑われていますが、『吾妻鏡』や『平家物語』に
名前が記載されているので、実在したことは確かです。
『吾妻鏡』文治元年11月3日条は、大物浦から九州へ脱出を図った際、
義経に従った人々として源有綱、堀景光、佐藤忠信、伊勢義盛、
片岡広経、弁慶法師の名をあげています。

この時、暴風雨に襲われ200騎ほどあった義経の軍勢は散り散りとなり、
源有綱、堀弥太郎景光、武蔵坊弁慶と静御前の4人だけとなり、
この夜は天王寺辺に宿泊し、そこから義経主従は姿を消しました。
(『吾妻鏡』同年同月6日条)

『平家物語』では、一ノ谷合戦・屋島合戦の義経軍に弁慶の名が見えます。
丹波路から鵯越えに向かう途中、義経は道がよくわからず困り果てていましたが、
弁慶はこの辺りの地理に詳しい老猟師を連れてくるなど、
機転の利くところを見せています。義経はその息子鷲尾義久に
一ノ谷背後の切り立った崖に道案内させ、奇襲を成功させます。(『平家物語・巻9』)

屋島合戦では、弁慶の武勇伝は語られず義経の身辺を守る従者の一人として、
伊勢義盛、佐藤継信、佐藤忠信、源八広綱、江田源三、熊井太郎、
武蔵坊弁慶の順に記されているだけです。(『平家物語・巻11』)

源平合戦では、弁慶は目立った手柄を立てていませんが、平氏滅亡後、
頼朝が義経を討つために刺客として京都堀河の義経の宿所に遣わした土佐房昌俊を
捕えて義経のもとに連行し、その勇猛ぶりを発揮しています。
(延慶本『平家物語・巻12』)

室町時代に入ると、弁慶の人物像は大きく膨らまされて『義経記』
『弁慶物語』などに登場し、その伝承は日本各地に数多く残されています。
京都市内にも、弁慶石の他に弁慶ゆかりの石があります。
八瀬天満宮社の鳥居右手にある石を、比叡山で修行していた弁慶が
背比べをしたという「弁慶背くらべ石」と名づけ、大徳寺の南にある
長谷川米穀店(北区紫野下築山町59)の裏庭の大石は、
「弁慶腰掛石」と呼ばれています。
また、金閣寺から鷹峯に行く途中の山上に「弁慶岩」と呼ぶ岩があります。
牛若丸・弁慶像(五条大橋)  
『アクセス』
「弁慶石」京都市中京区三条通麩屋町(ふやちょう)東入ル弁慶石町

市バス「三条河原町」下車約7分、地下鉄「烏丸御池」下車約10分
『参考資料』
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社、2001年 
京都新聞社編「京都伝説散歩」河出書房新社、昭和59年 
上横手雅敬編著「源義経流浪の勇者」文英堂、2004年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年

現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 
「完訳源平盛衰記(1)」勉誠出版、2005年
「義経ハンドブック」京都新聞出版センター、2005年

 

 

 

 

 

 

 



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三井寺の観音堂へ上る石段の脇に祀られている十八明神社は、
「ねずみの宮さん」と呼ばれ、人々に親しまれています。

この社は延暦寺に攻め上った鼠の霊を祀っているため、
比叡山の方向を向いて建っています。



『平家物語』(巻3・頼豪)によると、「白河天皇の時代、
関白藤原師実(もろざね)の娘賢子は、第一の寵愛を賜りました。
天皇はこの后の御腹から皇子が誕生することを望まれて、
効験あらたかな僧として知られた三井寺の頼豪阿闍梨を召して、
『賢子の腹に皇子が誕生するよう祈祷せよ。この願いが叶えられれば、
褒美は何なりととらせよう。』と仰せになったので、頼豪は三井寺に帰り、
懸命に祈ったのでめでたく皇子が誕生しました。

天皇は大そうお喜びになって頼豪を召して、望むものをとらせると
仰せになったので、
三井寺に戒壇建立の許可を願い出ました。
しかし天皇は『いま、そちの望み通り三井寺に戒壇を設ければ、
山門が憤って世の中が無事に治まるまい。三井寺と延暦寺が合戦をすれば、
天台の仏法は滅びるであろう。』といってお許しになりませんでした。
頼豪は無念に思い餓死して怨霊となり、
生まれてきた敦文親王をも殺してしまった。」と書かれています。

その後日談が『源平盛衰記』(巻10・頼豪鼠と為る事)に記されています。
山門があるので我寺に戒壇の設立が許されないのだ。それならば、
山門の仏法を亡ぼしてやろうと頼豪は大鼠になり、経典を食い散らかした。
これは頼豪の怨霊であるとして、身分の上下の別なく、鼠を打ち殺し踏み殺したが、
ますます鼠がふえてきておびただしいと言うほかなかった。

困り果てた延暦寺の僧たちは、怨霊を宥めようと、
鼠ノ宝倉(ほこら)を作って神に祀ったところ鼠の騒ぎが鎮まった。」とあり、
頼豪は敦文親王を呪い殺しただけでなく、
その怨霊は大鼠となり、延暦寺にも襲撃をしかけてきたのです。
鼠ノ宝倉について『源平盛衰記(2)』71㌻下欄に日吉山王大宮の
北方にあり、
大黒天を祀るという。鼠の祠。と書かれています。

『太平記』にも同じ伝説に基づく記述があります。
比叡山の強訴により戒壇設立の勅許が取り消され、これに怒った頼豪は、
21日間護摩を焚き壇上の煙となって果ててしまった。その怨霊は鉄の牙、
石の体をした8万4千の鉄鼠(てっそ)となって比叡山へ押し寄せ、

堂塔や経巻を食い散らかした。」と
記されていることからみても、
当時、広く知られた説話であったと思われます。

ところでこの説話は史実ではありません。そのことは頼豪の没年が
応徳元年(1084)5月、敦文親王(白河天皇の第1皇子)の逝去したのが
承保4(1077)9月ですから、頼豪の入滅は親王がこの世を去って
7年後であることから容易にわかります。
こうした説話が生まれたのは、三井寺の戒壇(かいだん)設立の希望が
長い間にわたってのことであり、戒壇には朝廷の許可が必要でしたが、
それが延暦寺の反対にあい天皇が認めなかったということを
背景にして生まれたと考えられています。

当時のわが国では戒律を正式に授かることで、
国家公認の僧と認められることになり、
その儀式を行う場所が戒壇です。
ちなみに東大寺大仏殿前に戒壇を建立したのが最初で、ついで唐招提寺、
下野の薬師寺、筑紫の観世音寺にも建てられ、東大寺の戒壇とともに
わが国の三戒壇と呼ばれました。その後、平安時代に大乗戒壇設立のため
最澄が奔走し、比叡山に勅許がおりたのはその死の1週間後のことでした。

江戸時代には、頼豪説話をモチーフにした作品が生まれ、滝沢馬琴は
『頼豪阿闍梨恠鼠伝(らいごうあじゃりかいそでん)」』を創作しています。
下の絵は妖怪ブームを作った絵師・鳥山石燕が『画図百鬼夜行』で描いた
僧衣を着た鉄鼠(てっそ)と呼ばれるネズミ男と経典を食い荒らすネズミ。


護摩壇前で祈祷する頼豪の口から無数のネズミが吐き出されています。
(『伊勢参宮名所図会』寛政9年刊)


 さて平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示して、集団で
朝廷に訴えを行い自らの要求を通そうとする強訴が始まり、特に南都北嶺と
称された興福寺・延暦寺はたびたび強訴を行い、朝廷を悩ませていました。

『平家物語』では、白河院が思うようにならないものとして
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、これがわが心にかなわぬもの」と
語ったという逸話が紹介されています。
(たびたび氾濫する賀茂川、双六のサイコロの賽の目、
何か意に沿わないことがあると、神輿を担いで京で暴れまわって強訴を繰り返す
延暦寺の僧兵、この三つだけは思うとおりにならない)(「巻1・願立」)
この時に用いたのが興福寺は春日大社の神木、延暦寺は日吉大社の神輿でした。



樹下(じゅげ)社本殿



日吉大社の神輿は、摂社樹下社拝殿に置かれていました。

比叡山麓の日吉大社は、『平家物語』にたびたび登場します。
延暦寺の守護神であり、東西本宮を中心に山王二十一社とよばれる
神社から形成され、さらに各神社にはいくつかの末社がついています。
山王祭の「宵宮落(よみやおと)し神事」が行われる大政所(おおまんどころ)の
近くにある子(ね)の神を祀る鼠ノ宝倉もそんな末社の一つです。

円珍(智証大師)は園城寺(三井寺)を授けられ、延暦寺別院として
初代別当となり、貞観10年(868)には、延暦寺の第五代座主に就任しました。
しかし円珍が天台宗を開いた最澄の直弟子ではなく、弟弟子の初代座主
義真の弟子だったため、最澄の直弟子円仁(慈覚大師)の弟子たちの反発を招き、
天台宗は円仁学派と円珍学派が争う山門と寺門の対立時代を迎えるようになります。
寛平3年(891)円珍は円仁派との軋轢を案じながら入滅しましたが、
円珍が心配した通り、この対立は激化していきました。

両派の対立の歴史は、平家物語にも暗い影を落としています。
かつて後白河法皇は受戒のしるしに「伝法灌頂」といって、 
頭に香水(こうずい)をそそぐ儀式をひいき
にしていた三井寺で
受けようとしたことがありました。
この噂を聞きつけた山門側はいきりたち、
法皇が三井寺で戒を受けるなら、
寺を焼き払ってしまおうと
横やりを入れたため中止せざるを得ませんでした。

「第21句・伝法灌頂(でんぽうかんじょう)」

「巻4・蝶状(ちょうじょう)」には、以仁王の挙兵を受けて、
これに味方する三井寺の動向が詳細に描かれています。
治承4年(1180)5月、以仁王・源頼政が企てた謀反は平家方に漏れ、
平家方の動きを知った頼政は以仁王を三井寺に逃しました。この頃、
三井寺や延暦寺、興福寺などの寺社勢力はこぞって反平氏に傾いていました。
それは、
天皇が退位してはじめての御幸は、都近辺の神社に
参詣するのが通例ですが、高倉上皇は清盛の崇拝する厳島神社に詣で
これらの寺院は平家に対して強く反発していたのです。

三井寺でも僧兵の反平家感情は強く、

三井寺は南都と延暦寺に加勢を依頼する蝶状(手紙)を送り、
南都は快諾しましたが、
延暦寺からは返答がありません。
その理由は「延暦寺、園城寺は門跡が山門と寺門の二つに分かれているが、
学ぶところはともに天台の教義である。鳥の翼、車の両輪に似ている。云々」とあり、
二寺を対等に扱う文面を無礼であるとして園城寺の申し出に応じなかったのです。
園城寺は円珍が再興して延暦寺の別院としたことに端を発するため、
延暦寺側は園城寺を末寺として扱っていました。
この時、平家は延暦寺に懐柔策をとり賄賂を贈ったことや
清盛の出家に際して、延暦寺の座主明雲が
戒師を務めたことなども影響し、
結局延暦寺は動きませんでした。

倶利伽羅峠、篠原合戦と勝ち進んできた木曽義仲も都に入る時には、
延暦寺に連帯を申し入れる手紙を出しています。
義仲は平家と延暦寺が連携するのを心配し、くさびを打ちこんでおいたのです。
この頃、比叡山では源氏に好意的な僧らの勢いが強まっており
義仲は提携に成功しました。
(「巻7・木曽蝶状並返蝶」)
このように源氏にとっても平氏にとっても
延暦寺の存在は無視できないものでした。
『アクセス』
「長等山園城寺(三井寺)」大津市園城寺町246
京阪電車石山坂本線「三井寺」駅下車 徒歩約10分
『参考資料』
冨倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)角川書店、昭和62年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈」(中)角川書店、昭和42年
「新定源平盛衰記」(2)新人物往来社、1993年
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
 「比叡山歴史の散歩道 延暦寺から日吉大社を歩く」講談社、1995年
古寺をゆく「延暦寺」小学館、2001年 
小松和彦「京都魔界案内」知恵の森文庫、2002年

 



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三井寺の梵鐘は4つあります。
三井の晩鐘、弁慶引き摺り鐘(重文)、西国札所の観音堂境内の鐘楼の
童子(どうじ)因縁鐘、滋賀県立琵琶湖文化館に寄託されている朝鮮鐘(重文)です。

近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる鐘は、弁慶鐘を摸鋳したものといわれ、
三井寺の長吏道澄(どうちょう)の命で、慶長7年(1602)に
摂津住吉(大阪府)の鋳物師杉本家次が鋳造しました。
この鐘はことに音色が優れ、「声の三井寺」と称されて「形の平等院」、
「銘の神護寺」とともに日本三名鐘の一つに数えられています。
ひと撞き 冥加料 300円






三井の晩鐘のモデルとなった弁慶引き摺り鐘は、
金堂西側の霊鐘堂内に安置されています。



 ♪さざ浪や三井寺の古寺鐘はあれどむかしにかへる音はきこへず と詠んだ僧定円は
三井寺流唱導の祖として知られています。
百八煩悩にちなむ108の乳(にゅう、ち)をもつ梵鐘です。

乳が16個も失われ、無数のすり傷やひび割れが残る弁慶の引き摺り鐘。

伝説「弁慶の引き摺り鐘」
 奈良時代の作とされるこの梵鐘は、むかし俵藤太秀郷が三上山の百足退治の
お礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えています。
その後、山門(延暦寺)との争いで武蔵坊弁慶が奪って比叡山延暦寺へ引き摺り上げて
撞いてみると「イノー、イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は
「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのです。
その時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。
 (三井寺拝観パンフレットより)
寺に悪い事が起こる時には鐘をついても鳴らず、
いい事が起こる時は自然に鳴るという。
南北朝の争乱時には、
略奪を恐れて鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、
これによって足利尊氏が勝利したといわれています。 この鐘をめぐっては
まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な出来事を今に伝えています。

『近江名所図会』1814年刊より「山門の衆徒、三井寺の鐘を奪い、無動寺谷に投げ落とす。」





『近江名所図会』1814年刊「三井寺女人詣」より、画面右上に弁慶の汁鍋が描かれています。
下の絵は「弁慶の引き摺り鐘」歌川国芳筆 個人蔵

衰退していた園城寺(三井寺)は、唐から帰朝した円珍によって再建され、
比叡山延暦寺の別院となりました。
円珍(母が空海の姪) は比叡山
延暦寺の義真に学び第5代天台座主に任じられましたが、そ
の死後、
延暦寺では円仁(最澄の弟子・第3代天台座主)派と円珍派の対立が激化し、
円珍の弟子たちは比叡山を下りて園城寺に移ります。
以後、延暦寺の山門派と園城寺の寺門派に分裂し、
両派の間には数百年におよぶ激しい抗争の歴史が繰り広げられました。
弁慶引き摺り鐘には、その争いの中で、延暦寺の僧兵だった弁慶が
比叡山まで引きずっていったという伝説があります。

こうして、平安時代中期から南北朝時代にかけて、山門派の焼き討ち、
源平の戦いでは、源氏に味方して平家の攻撃をうけ、南北朝の争乱でも、
河内源氏の流れをくむ足利尊氏に与し戦禍に巻き込まれるなど、しばしば
焼失しましたが、その都度、源氏の援助によってたちどころに再興されています。

弁慶の引きずり鐘と千団子祭りの亀をモチーフにした広報僧べんべん。

べんべんショップと文化財収蔵庫

境内のあちこちに「べんべん」ののぼり旗が翻っています。

琵琶湖文化館に預けてある朝鮮鐘は、鐘身に天衣(てんね)をなびかせ
飛来する天人像を鋳造した朝鮮鐘の逸品です。
銘文には中国の年号「太平12年」とあり、高麗では徳宗1年にあたる
1032年の鋳造です。古くから三井寺の金堂に秘蔵されていた鐘です。


最後のひとつは、観音堂境内の鐘楼の童子因縁鐘です。

この鐘は第二次世界大戦で供出の憂き目にあい、
現在釣られている鐘は、当寺所蔵の朝鮮鐘を模刻したものだそうです。



眼下に琵琶湖を望むことができる位置に建つ観月舞台 
県指定文化財 江戸時代(嘉永三年1849)の建立


三井寺の鐘は、謡曲「三井寺」にも登場します。
能「三井寺」は、中秋の名月の三井寺を舞台に
親子の再会を描いた名曲として知られています。
駿河国から来たわが子が行方不明になった女が京の清水寺に参詣し、
観音様のお告げに従って三井寺を訪れ、鐘を撞いたことがきっかけとなって
生き別れの子供と巡り会うというストーリーです。

四季折々それぞれの美しい琵琶湖の景色が眺められます。



境内図は三井寺HPよりお借りしました。

三井寺駅から大門通りを西へ歩いて行くと、三井寺の表門大門が見えてきます。


三井寺の大門(仁王門)室町時代 重文
もとは常楽寺(湖南市石部)にありましたが、秀吉が伏見城に移築し
徳川家康により江戸時代の初めにここに移されました。

天台宗寺門派の総本山である三井寺の正式な名称は、長等山園城寺といいます。
天智天皇6年(667)、天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、
大津には近江大津宮が置かれましたが、天智天皇の死後、
天智天皇の子大友皇子と同天皇の弟大海人(おおあま)皇子との間で
皇位継承を争う壬申の乱が起こりました。

天武天皇15年(686)、この戦いに敗れ自害した大友皇子(弘文天皇)の子・
大友与多王(よたのおおきみ)が、「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して
大友氏の氏寺として建立、この文字にちなみ天武天皇(大海人皇子)から
「園城」の勅額を賜ったのが園城寺の始まりと伝えています。


金堂 桃山時代 国宝 本尊は弥勒菩薩
現在の金堂は秀吉の正妻、北政所が再建したものです。

 園城寺の名よりも一般には三井寺の名で知られていますが、
この名前の由来となった金堂脇の閼伽井屋。

 閼伽井屋には現在も霊水が湧き出ています。

閼伽井屋横の小さなスペースに石庭が作られています。

『アクセス』
「長等山園城寺(三井寺)」大津市園城寺町246
京阪電車石山坂本線「三井寺」駅下車 徒歩約10分
『参考資料』
「滋賀県の地名」平凡社、1991年 「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社、2008年
「郷土資料事典(滋賀県)」人文社、1997年 古寺をゆく「三井寺と近江の名刹」小学館、2001年
 図説「源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 

 

 



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