
明泉寺の墓地には、けなげにも父を討たせまいとして、
十六歳で戦死した平知章(ともあきら)の墓があります。

平知章像(明泉寺蔵)

山号は天照山、臨済宗、本尊は大日如来



天照山明泉寺(通称大日寺)
天平年間、行基菩薩(668~749)の創建と伝えられ、
もとは現在の明泉寺のずっと北の方、長田村から白川村を経て
太山寺へ通じる長坂越東山の古明泉寺大日丘の地
(現在の雲雀丘小、中学校辺り)にありましたが、
平盛俊が源氏軍来襲に備えて陣を布いたため戦火で焼け、
観応二年(1351)赤松光範が現在の地に再興したと伝えられています。
『摂津名所図会』には、「長田村の奥にあり、天照山と号す、
いにしえは伽藍魏々たり、寿永の乱に荒廃す」とあります。
『明泉寺略縁起』 によると、「知章が討死にしたのは
明泉寺の北の谷、モンナ池の辺りで、薮の中に知章の塚があったのを
神戸史談会会長木村昇三氏等の手によって、
当寺の境内に移し五輪塔として祀った。」とあります。


知章は生田の森の大将軍、新中納言平知盛(清盛四男)の嫡男です。
父の知盛は清盛の最愛の息子といわれ、父亡きあと、平家の棟梁となった
兄宗盛とともに一門を支え、主に軍事指揮官として采配を振るっていました。
時に三十四歳。武勇だけでなく洞察力に優れ、
凡庸で臆病な宗盛と対照的に『平家物語』には描かれています。
生田の森で源氏軍と戦っていた知盛は一ノ谷が落ちたことを知り、
逃げるうちに手勢はみな討たれたり落ちたりして、
知章と郎党の弓の名手監物太郎との三騎だけになってしまいました。
主従は沖の軍船に乗ろうと渚へ逃げる途中、武蔵国児玉党の武者
十騎が追いかけてきて、その中の大将らしい男が知盛に組みつきます。
そうはさせまいと中に割って入った知章が、転がりながら
見事その男の首を取った瞬間、別の児玉党の武士が知章を刺しました。
監物太郎頼賢(方)は知章を討った武士を討ち取り、
知盛の退却を助けて矢種のある限り必死に戦いましたが、
とうとう討死してしまいました。
知盛はその隙に追いすがる敵をかわし、逃げることができました。
墓地にある「平知章孝死の図」には、その様子が描かれています。

知盛はやっとの思いで、沖に待っていた軍船に辿りつきましたが、
船は人であふれかえり、馬までも乗せる余地がなく、
知盛は愛馬を岸の方へ返させます。この時、阿波民部重能は、
名馬を敵に取られるのを惜しんで射殺そうとしますが、
知盛は「たとえ誰のものになろうとも、わが命を助けてくれた馬を
殺すなどとんでもない。」とこれを強く押しとどめます。
馬は主人との別れを惜しむように沖の方へと泳いでいきますが、
船がしだいに遠ざかっていくので、やがて渚に泳ぎ帰り
脚が立つようになると、なおも船の方を振り返り、二三度いななきました。
主との別れを惜しむ馬と、愛馬を生かそうと敵の方に逃がしてやる
知盛の情の深さを感じさせる名場面です。
この馬は信濃の善光寺平(高井郡井上)で育った馬だったので、
「井上黒」と名づけられ、後白河院秘蔵の馬でしたが、
宗盛が内大臣に昇進した時に贈られ、知盛が大切に預かっていました。
主人と別れ、渚で駆けまわる「井上黒」を源氏方の河越小太郎が捕えて、
後白河院に献上したところ、「河越黒」と名づけられて、
第一厩舎で飼われ、可愛がられたということです。
阿波民部重能は平氏の都落ち後、四国に戻って讃岐国を制圧し、
平氏一門を迎え屋島での内裏造営を行った平家有力家人の一人です。
知盛は宗盛の前に出て「私は何という親なのでしょう。
子が親を助けようと敵に組みついているのに、それを助けないで
逃れる親がどこにありましょう。これが他人のことなら
歯がゆく思われますのに、わが身のこととなると
よくよく命が惜しかったものと、思い知らされました。」と
いつもは冷静な知盛が鎧の袖を顔に押しあて人目もはばからず泣くのでした。
宗盛は「よいご子息でした。武芸に優れ、心は剛毅。確かこの清宗と同い年で、
今年16歳のはず。」と言いながら、わが子清宗を見て涙ぐむばかりです。
しかし一人逃れてきたのは命惜しさからだけではありません。
知盛は何としても生き残り、軍事指揮官として
平氏一門を立て直す責任があったのです。
平知章の墓が祀られている源平合戦勇士の碑
監物太郎頼賢(方)の碑
『アクセス』
「明泉寺」神戸市長田区明泉寺町2 JR神戸駅 から市バス「大日寺前」下車すぐ。
阪神神戸高速線高速長田駅下車、北に徒歩25分。
明泉寺から苅藻川沿いに下り、明泉寺橋を渡った所に
平盛俊の塚(長田区名倉町二丁目2)があります。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社 「平家物語(下)」角川ソフィア文庫
安田元久「平家の群像」塙新書 高橋昌明「平家の群像」岩波新書
「兵庫県の地名」平凡社 杜山悠「神戸市歴史散歩」創元社
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社