平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平忠度(1144~1184)は忠盛の六男で、清盛の末弟にあたります。
忠度にまつわる物語の中で、印象深いシーンは和歌の師・藤原俊成との
別れを描いた巻七の「忠度都落の事」、そして巻九の「忠度の最期の事」です。
今回は一ノ谷合戦で忠度が討死する場面を描いた忠度の最期と
忠度の腕を埋めたという腕塚堂をご紹介します。

須磨海岸の東に長田港があります。この辺りは一ノ谷合戦で敗れた
平家武将たちの多くが海上の船へと逃れたところです。
この港に近い駒ヶ林町の民家の路地奥に忠度の腕を埋めたという
腕塚堂があります。堂内には忠度の位牌があり、
お堂の傍には忠度を祀る十三重の塔が建っています。
またJR新長田駅近くには、腕塚にちなむ「腕塚町」という地名もあります。




居酒屋「ちか」と腕塚堂説明板の間の路地を入り、道なりに60m進みます。





十三重の塔が軒に触れんばかりにたっています。

一ノ谷の戦いでは、忠度は西の搦手口の大将軍として
源氏軍に対しましたが、一の谷の城郭背後からの義経の
逆落としで総崩れとなり、駒ヶ林の沖に停まっていた船を目ざし、
百騎ばかりの手勢に囲まれながら落ちて行きます。

忠度その日の装束は、紺地の錦の直垂に黒糸縅の鎧着て、
太く逞しい黒馬に金粉をちらした塗鞍を置いて乗っていました。
黒と紺を基調した年齢にふさわしい落ち着いた色調の装いです。

武蔵国猪俣党の岡部六弥太忠澄がその軍装から、大将軍に違いないと
目をつけ、鞭をあげ鐙(あぶみ)をけって追いつき呼びとめます。
「いかなる人に候ぞ。名乗らせたまえ。」忠度は「味方であるぞ。」と
言いますが、その振り仰いだ顔を見ればお歯黒をつけています。
味方の源氏武者には、歯を染めた者などいるはずがありません。
平家の公達であろうと、馬を並べて組みついてきます。
忠度勢は数では圧倒的に有利でしたが、忠度の周囲を固めていた手勢は
諸国から寄せ集めた駆り武者ばかり、この様子をみるや主を見捨て
蜘蛛の子を散らすように逃げ出しました。

しかし忠度は熊野育ちの剛の者、一人で応戦して六弥太を逆にねじ伏せ、
その首を取ろうとした時、駆けつけた六弥太の郎党が
後から駆けより右腕を肘の下から切り落としました。
利き腕を落とされた忠度はもはやこれまでと観念し、「しばらくどいておれ、
念仏を唱えるほどに。」と六弥太を残った左手でつかんで2mほど投げ飛ばし、
そして西に向かって高らかに念仏を唱えながら首を取られました。
41歳の最期でした。その箙には「旅宿(りょしゅく)の花」という題で
一首の和歌が結びつけられていました。
これによって六弥太は、討ち取った武将が薩摩守忠度であることを知ります。

♪行き暮れて木下かげを宿とせば 花や今宵の主ならまし 忠度

(旅をするうちに日が暮れてしまった。あの桜の木陰を宿とするならば、

桜の花が今宵の宿の主となって、もてなしてくれるのであろうか。)
行き暮れて途方にくれた旅人がふと見かけた桜を心の中に
思い描いて詠んだ美しい一首の和歌が、戦場の殺伐とした風景を
風雅な情景に展開させています。

「武蔵国の住人、岡部六弥太、薩摩守忠度をお討ち申したぞ」と
大声で名乗ると、『平家物語』は「敵も味方もこれを聞いて、
あないとほしや、武芸にも歌道にもすぐれて、
よき大将軍にておはしつる人をとて、皆鎧の袖をぞぬらしける」と
「忠度の最期の事」の章段を結び、死の直前まで
風雅の道を忘れなかった忠度の死に同情を惜しみませんでした。

ところで「♪行き暮れて…」の歌について、『源平の武将歌人』には
「『忠度集』の諸本では、内閣文庫蔵浅草文庫本のみに見え、
巻末に後人の手で書き加えられている。従って歌の真偽は疑わしく
『平家物語』の作者による創作歌を書き入れたものかと思われる。」とあります。

『平家物語』の系統によっては、忠度最期の話はあっても、
この和歌が入ってないものもありますが、
この歌の詩情は、忠度作として調和するもので
都落ちの時の「♪さざなみや…」と対をなす和歌で、
忠度をより魅力的に印象づけてくれます。

『平家物語全注釈』によると、「忠度の家集には、この箙につけた歌は見えないが、
賀茂歌合に、花を詠める
木のもとを やがて住家と なさじとて 思ひ顔にや 花は散るらむ
が発想において極めて近い歌である由を志田義秀氏が説いた。」とあり、
この歌を踏まえて忠度は箙に結ばれていた和歌を作ったとも考えられます。


 
 明治39年(1906)作の唱歌『青葉の笛』には
「更くる夜半に門(かど)を叩き わが師に託せし言(こと)の葉あわれ
 今わの際(きわ)まで持ちしえびらに 残れるは花や今宵の歌」と
忠度都落ちの情景とその最期が歌われています。

ここから約300mほど西北の野田8丁目27に胴塚があります。
平忠度胴塚
明石市源平合戦の史跡2(腕塚神社・忠度塚)  
岡部六弥太が建てた忠度の墓
平忠度の墓(清心寺)  
岡部六弥太忠澄の墓・普済寺・岡部神社  
忠度と和歌の師藤原俊成の別れをご覧ください。
忠度都落ち(俊成社・新玉津嶋神社)  
『アクセス』
「腕塚堂」神戸市長田区駒ヶ林町4ー5
神戸市営地下鉄「駒ヶ林駅」下車、南西へ徒歩9分 
JR神戸線「鷹取駅」下車、南東へ徒歩22、3分
『参考資料』 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 
上宇都ゆりほ「源平の武将歌人」笠間書院  冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下1)」角川書店、昭和42年
「図説 源平合戦人物伝」学習研究社

 

 

 

 



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神戸村野工業高校グラウンドの西側に平知章(ともあきら)、平通盛(みちもり)、
源氏方の木村源吾重章、猪俣小平六則(範)綱の碑が敵味方仲良く並んでいます。

昔、西国街道を挟むようにして、この付近を流れる
苅藻川(現・新湊川)の傍に、夫婦池のよばれる二つの池がありました。
今二つの池は埋め立てられ、北の小平六池は村野工業高校の敷地になり、
南の池は工場になっています。西国街道はいま車が走る国道28号線、
小平六池は源氏の武将の碑に因んで名づけられた名称です。




高速長田駅から村野工業高校へ

源平合戦勇士の碑は、神戸村野工業高校のグラウンドの西にあります。





西側には新湊川が流れています。

生田森の大将軍父の平知盛をかばって討たれた知章の墓
知章の墓は明泉寺にありますが、この碑は『摂津志』の著者並河誠所が、
人目につきやすい西国街道筋のこの地に新たに建てたという。

一ノ谷合戦で山ノ手の将軍通盛が内兜(顔面)を射られ
自害しようと落ちて行く中、木村三郎成綱ら七騎に取り込められて
討死する様子が『平家物語』に描かれています。

『吾妻鏡』には、木村三郎成綱の子俊綱が通盛を討ったと記され、
俊綱はもと平家の武士でしたが、都落ちの時に源氏方に寝返ったとしています。
ところが謡曲「通盛」では、木村源吾重章が
通盛と刺し違えたとして、碑にはこの名前が刻まれています。


猪俣小平六則綱は武蔵七党の一つ、猪俣党に属する武士で、
保元の乱では、同じ猪俣党の岡部六弥太忠澄、西党の平山季重らとともに
源義朝(頼朝の父)に従い、平治の乱では、待賢門合戦で
悪源太義平(頼朝の兄)率いる十七騎の中にその名が見えます。
頼朝が挙兵すると源家譜代の家人として直ちに参陣し、
一ノ谷合戦では平家の侍大将平盛俊に組み伏されますが、
ことば巧みに騙して盛俊を討ち取ります。

ここで源平合戦で活躍した武蔵七党をご紹介します。
平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて関東平野に中小武士団が次々と誕生しました。
これが武蔵七党(横山党・猪俣党・野与党・村山党・児玉党・西党・丹党など)、
族縁(同じ祖先から分れた同族)によって結ばれた共同体です。
規模が小さく手勢も少ない彼らは自分の命と引きかえに功名手柄をめざします。

薩摩守忠度を猪俣党の岡部六弥太忠澄がまた父知盛の窮地を救った
平知章と家臣の監物太郎頼賢(方)を児玉党が討ち取っています。
手柄の見返りに与えられる恩賞にあずかろうと、
武蔵七党の面々は、時には仲間さえ欺きます。
一ノ谷西城戸の先陣を狙っていた西党の平山季重は、横山党の成田五郎に
「ただ一騎敵陣に駆け入っても、味方に功名を確認してもらえないぞ。
しばらく馬を休めて後陣の兵を待ちたまえ。」と言われ、それもそうだと
平山季重が味方をまっているすきに、成田五郎はさっと抜け駆けをしてしまいました。
「謀ったな。」と平山季重は一鞭打って成田五郎を追い抜き、
私市党の熊谷直実とともに敵陣にとびこみます。

また猪俣党の人見四郎は、親族の猪俣小平六がだまし討ちにしてとった
盛俊の首を奪い取ります。手柄を横取りしようとするすさまじい戦いです。

烏帽子親畠山重忠の指揮の下に出陣した大串次郎は、横山党の武士です。
大串次郎は宇治川合戦の際、馬を流されて溺れそうになり、
先頭を切って渡る畠山重忠にすがりつき、岸に投げあげてもらうと
すぐに立ちあがり「我こそは宇治川の徒(かち)立ちの先陣、武蔵国の住人
大串次郎重親。」と必死で名乗り、敵味方にどっと笑われましたが、
奥州合戦では、敵将の一人を討ち取ります。

元服した男子に冠をかぶせる役を烏帽子親といい、
一族や親が仕えている主人筋の有力者に烏帽子親を頼みます。
大串次郎は畠山重忠の直属の部下ではありませんが、支配される関係に
あったものと思われ、奥州合戦にも畠山重忠に従って出陣しています。

 生田の森の先陣を切ったのは私市党の河原太郎・次郎兄弟でした。
「千葉や畠山などの大豪族は郎党の手柄で恩賞にあずかれるが、
手勢の少ない俺たちはそうはいかないから。」と
子孫のために論功行賞に預ろうと、死を覚悟し馬にも乗らず、
藁草履のままで決死の働きをしますが、ついに戦死してしまいました。
苅藻川
六甲山地から流れ出た苅藻川は南流し鵯越付近へと流れ、
途中、湊川と合流して長田港に注ぎます。
長田区は南部に山陽道(西国街道)が通り、鵯越や一ノ谷に近いことから、
一ノ谷合戦の激戦地となり、平家の公達たちが次々と海上の船に向かって
落ちて行ったところです。苅藻川沿いにはその武将の塚が残っています。
猪俣小平六則綱のだまし討ちにあい戦死した盛俊の塚は
長田区名倉町の刈藻川のほとりにあり、そこから川筋を遡れば
長田区明泉寺町の明泉寺、平知章の墓があります。

小平六池付近の西国街道に面して平通盛・木村源吾重章・
猪俣小平六則綱の碑がありましたが、道路拡張のためたびたび移転し、
現在は苅藻川(現・新湊川)の傍に祀られています。

湊川は明治三十四年に改修され、長田神社の南付近で苅藻川と合流し、
合流地点から下流は「苅藻川」から「新湊川」と名を変えました。
村野工業高校校門付近には
監物太郎頼賢(方)の碑 があります。 
平通盛の陣跡氷室神社平通盛と小宰相1(氷室神社) 
 越中前司盛俊の最期(平盛俊塚)
平知章の墓  平知章 (明泉寺)  
『アクセス』
「源平合戦勇士の碑」神戸市長田区四番町

神戸市営地下鉄「長田駅」又は神戸高速鉄道「高速長田駅」下車徒歩4、5分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 安田元久「武蔵の武士団」有隣新書
「南関東」世界文化社 「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞出版センター
「兵庫県の地名」平凡社

 

 


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鵯越から直線に南下した位置にある会下山(えげやま)は
一ノ谷合戦の主戦場となりました。

その西南麓の長田神社から山陽道を横切ると和田岬に達します。
戦いは源氏軍が優勢であったため、平家の武将が多く討たれ、
激戦地の中にあった長田区にはその史跡が点在しています。
その一つ、村野工業高校の校門傍に監物太郎の碑があります。
監物(けんもつ)太郎は、主君平知盛(清盛の四男)を救おうとして、
平知章(ともあきら)とともに戦い討死しました。

『平家物語』巻九「濱軍(はまいくさ)の事」の章段の一節です。
「監物太郎は飛びかかって知章の首を取った敵の首を掻き、矢種のある限り射つくし、
太刀を抜いて戦ったが、左の膝頭をしたたか射られて立ち上がれなくなり、
座ったまま討ち死にしてしまった。」

地下鉄長田駅から地上に出たところにある長田神社南の交差点

村野工業高校東側の細い道を少し北に行きます。

路地の一角にある祠の中には、忠臣を称えて供養の碑が祀られています。
『摂津志』を編纂した儒学者・地理学者の並河誠所が碑を建立したという。

祠には参拝者のために線香やローソクなどが置いてあります。

監物太郎頼賢の碑
監物太郎頼賢は中納言平知盛の家臣でした。平家物語によると
寿永三年(1184)二月七日、源平一ノ谷の合戦で活躍した監物太郎は、
主人の平知盛とその嫡男平知章の三人で海のほうへ
落ちのびようとしていました。その途中、源氏方の児玉党との戦いになり、
主人知盛を助けようとした監物太郎は知章とともに
討死にすることになりました。
そのことによって知盛はおちのびることができたのです。
『摂津名所図会』によると、江戸時代の享保年間に、
並河誠所が諸国行脚の途中、討ち死にの地(長田区明泉寺)に立ち寄り、
監物太郎の忠義を称え顕彰するため、
西国街道近くの現在の地に石碑を移したということです。
現在、保存会により、毎年五月七日の命日に祭礼が執り行われています。
また願い事がかなうとされている為、
現在でもお参りに訪れる人が絶えることがありません。
なお、平知章の碑も同じ頃にこの付近に移され、
源平勇士の碑として五番町八丁目に祭られています。
監物太郎保存会 神戸市認定地域史跡 平成十七年三月十五日認定 (現地説明板)

隣家、ただいまリフォーム中

『平家物語』新潮社の頭注には、監物太郎について次のように記されています。
監物太郎頼賢は系譜不詳。
「監物」は中務省に属して出納を監察・管理した職で、
この経歴のある者が姓とした例がある。

村野工業高校グラウンド西側には源平合戦勇士の碑があります。
源平合戦勇士の碑  
『アクセス』
「監物太郎頼賢の碑」神戸市長田区四番町
神戸市営地下鉄「長田駅」又は神戸高速鉄道「高速長田駅」下車徒歩2、3分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞出版センター 「神戸歴史散歩」創元社

 



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明泉寺の墓地には、けなげにも父を討たせまいとして、
十六歳で戦死した平知章(ともあきら)の墓があります。

平知章像(明泉寺蔵)


山号は天照山、臨済宗、本尊は大日如来





天照山明泉寺(通称大日寺)
天平年間、行基菩薩(668~749)の創建と伝えられ、
もとは現在の明泉寺のずっと北の方、長田村から白川村を経て
太山寺へ通じる長坂越東山の古明泉寺大日丘の地
(現在の雲雀丘小、中学校辺り)にありましたが、
平盛俊が源氏軍来襲に備えて陣を布いたため戦火で焼け、
観応二年(1351)赤松光範が現在の地に再興したと伝えられています。
『摂津名所図会』には、「長田村の奥にあり、天照山と号す、
いにしえは伽藍魏々たり、寿永の乱に荒廃す」とあります。

『明泉寺略縁起』 によると、「知章が討死にしたのは
明泉寺の北の谷、
モンナ池の辺りで、薮の中に知章の塚があったのを
神戸史談会会長
木村昇三氏等の手によって、
当寺の境内に移し五輪塔として祀った。」とあります。




知章は生田の森の大将軍、新中納言平知盛(清盛四男)の嫡男です。
父の知盛は清盛の最愛の息子といわれ、父亡きあと、平家の棟梁となった
兄宗盛とともに一門を支え、主に軍事指揮官として采配を振るっていました。
時に三十四歳。武勇だけでなく洞察力に優れ、
凡庸で臆病な宗盛と対照的に『平家物語』には描かれています。

生田の森で源氏軍と戦っていた知盛は一ノ谷が落ちたことを知り、
逃げるうちに手勢はみな討たれたり落ちたりして、
知章と郎党の弓の名手監物太郎との三騎だけになってしまいました。

主従は沖の軍船に乗ろうと渚へ逃げる途中、武蔵国児玉党の武者
十騎が追いかけてきて、その中の大将らしい男が知盛に組みつきます。
そうはさせまいと中に割って入った知章が、転がりながら
見事その男の首を取った瞬間、別の児玉党の武士が知章を刺しました。
監物太郎頼賢(方)は知章を討った武士を討ち取り、
知盛の退却を助けて矢種のある限り必死に戦いましたが、
とうとう討死してしまいました。
知盛はその隙に追いすがる敵をかわし、逃げることができました。
墓地にある「平知章孝死の図」には、その様子が描かれています。

知盛はやっとの思いで、沖に待っていた軍船に辿りつきましたが
船は人であふれかえり、馬までも乗せる余地がなく、
知盛は愛馬を岸の方へ返させます。この時、阿波民部重能は、
名馬を敵に取られるのを惜しんで射殺そうとしますが、
知盛は「たとえ誰のものになろうとも、わが命を助けてくれた馬を
殺すなどとんでもない。」とこれを強く押しとどめます。
馬は主人との別れを惜しむように沖の方へと泳いでいきますが、
船がしだいに遠ざかっていくので、やがて渚に泳ぎ帰り
脚が立つようになると、なおも船の方を振り返り、二三度いななきました。
主との別れを惜しむ馬と、愛馬を生かそうと敵の方に逃がしてやる
知盛の情の深さを感じさせる名場面です。

この馬は信濃の善光寺平(高井郡井上)で育った馬だったので、
「井上黒」と名づけられ、後白河院秘蔵の馬でしたが、
宗盛が内大臣に昇進した時に贈られ、知盛が大切に預かっていました。

主人と別れ、渚で駆けまわる「井上黒」を源氏方の河越小太郎が捕えて、
後白河院に献上したところ、「河越黒」と名づけられて、
第一厩舎で飼われ、可愛がられたということです。
阿波民部重能は平氏の都落ち後、四国に戻って讃岐国を制圧し、
平氏一門を迎え屋島での内裏造営を行った平家有力家人の一人です。

知盛は宗盛の前に出て「私は何という親なのでしょう。
子が親を助けようと敵に組みついているのに、それを助けないで
逃れる親がどこにありましょう。これが他人のことなら
歯がゆく思われますのに、わが身のこととなると
よくよく命が惜しかったものと、思い知らされました。」と
いつもは冷静な知盛が鎧の袖を顔に押しあて人目もはばからず泣くのでした。

宗盛は「よいご子息でした。武芸に優れ、心は剛毅。確かこの清宗と同い年で、
今年16歳のはず。」と言いながら、わが子清宗を見て涙ぐむばかりです。
しかし一人逃れてきたのは命惜しさからだけではありません。
知盛は何としても生き残り、軍事指揮官として
平氏一門を立て直す責任があったのです。
平知章の墓が祀られている源平合戦勇士の碑   
監物太郎頼賢(方)の碑  
『アクセス』
「明泉寺」神戸市長田区明泉寺町2 JR神戸駅 から市バス「大日寺前」下車すぐ。

阪神神戸高速線高速長田駅下車、北に徒歩25分。
明泉寺から苅藻川沿いに下り、明泉寺橋を渡った所に
平盛俊の塚(長田区名倉町二丁目2)があります。

『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社 「平家物語(下)」角川ソフィア文庫

安田元久「平家の群像」塙新書 高橋昌明「平家の群像」岩波新書
 「兵庫県の地名」平凡社 
杜山悠「神戸市歴史散歩」創元社
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社

 

 



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