平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



神戸市須磨区には、一ノ谷合戦に赴く途中、
那須与一が戦勝祈願したと伝わる北向八幡宮があります。

最寄りの妙法寺駅

屋島の戦いで両軍かたずをのんで見守る中、那須与一が波間に揺れる平家方の
小舟に立てられた扇を一矢で射落とし、「沖には平家、船ばたを叩いて感じたり。
陸には源氏えびらを叩いてどよめきけり。」と敵味方の双方から
喝采をあびた話は『平家物語』の名場面として知られています。
この時、与一は『平家物語』では20歳くらい、
『那須氏系図』では17歳とされています。
この功により、与一は頼朝から丹波国(京都府)、信濃国(長野県)、
若狭国(福井県)、武蔵国(埼玉県など)、
備中国(岡山県)に領地を拝領したとされています。

若きヒーロー那須与一は、幸若舞や能、歌舞伎などに多く取り上げられ、
伝統芸能を通して現代まで語り継がれ、全国各地にその伝承地があります。

大阪府豊中市「那須原山超光寺(ちょうこうじ)」は、那須与一の寺ともいわれ、
寺伝によると、源平合戦後那須与一は、当寺の住職空心に帰依して出家し
弓矢を奉納したので山号を那須原山に改めたとしています。
後、その子孫那須太郎が空覚と名乗り中興の祖となりました。
与一は後鳥羽上皇から武芸を愛でられ菊の紋を賜ったと伝え、
今も境内の手洗い石に菊の紋が刻まれています。(『大阪伝承地誌集成』)

壇ノ浦合戦に敗れた残党の一部が九州の山深く逃げ込んだことを知った頼朝は、
与一に
追討させようとしましたが、与一は病床に伏していたため、
弟の那須大八郎宗久がその任にあたり、清盛の末裔である鶴冨姫と恋仲になりました。
しかし幕府の命令で宗久は鎌倉へ帰っていったという。(『平家伝承地 総覧』)

『那須氏系図』によると、建久元年(1190)に源頼朝の上洛に供奉した
与一は山城国で没し、京都市伏見の即成院(泉涌寺塔頭)に葬られたとし、
『寛政重修諸家譜』では、文治5(1189)年8月8日に山城国伏見で亡くなり、
法名を「禅海宗悟即成院」と号したとしています。 
しかし、那須与一の名も所領拝領のことも『吾妻鏡』などの確かな史料にはみえず、
その真偽のほどは定かではありません。

那須氏は藤原道長の孫通家の子、貞信を祖とし、
下野国那須郡(栃木県)に勢力を張った豪族で、与一の父資高は
その六代目にあたります。与一は下野国(栃木県)那須の庄の出身で、
「与一」は正しくは「余一」で十一番目の子の意味です。
幼い頃から弓の腕で父資隆や兄を驚かせ、那須岳で弓の稽古をしていた時に
那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、
兄の十郎為隆と与一が源氏方に従軍したという伝説や弓の稽古のしすぎで
左右の腕の長さが変わってしまったというエピソードがあります。

与一がいつどこで死んだのか明らかではありませんが、故郷に墓所はあり、
京都の即成(そくじょう)院にも墓と伝えられる石塔があります。
須磨では屋島合戦のお礼のため北向八幡宮へ参詣して病に伏し、
この妙法寺地区の人達の懸命な手当ての甲斐もなく
息を引き取ったと伝えられ、地元の人々はそれを信じています。

妙法寺会館傍に「北向八幡宮」の碑が建っています。





北向八幡神社(北向八幡宮)
御祭神
八幡大御神(応神天皇)・(誉田別尊=ほんだわけのみこと)
大神宮(天照大御神)・春日大神(春日大明神)
寿永三年(一一八四)源平の一の谷の合戦、
時の総大将源義経は村人より御神威が高く、
飛ぶ鳥も社殿の上を避けて飛ぶ「社」があると聞き、
那須与一に先勝祈願の代参を命じ勝利挙げたと伝える。
又、大国主神を祀るとも云い出雲大社への敬意から北向に建立されたと伝わる。
 平成十七年一月吉日 妙法寺協議会
祭典日・新年一月 豊年祈願祭 八月 例大祭十月第二日曜日(説明板より)

「那須神社」大正10年(1921)ごろ、北向厄除八幡神社の境内に
与一をまつる那須神社が勧請されました。

北向八幡宮の向かい側、県道22号線をはさんで那須与一の墓があります。
「那須与一の墓
那須与一は源平合戦に際し、北向八幡神社を守護神として、
源義経に従い数々の戦陣に加わったとされ、屋島の合戦で
扇の的を射落とし賞賛を得た若武者。晩年に与一はこの地へ
お礼参りに訪れますが、病のためここで亡くなったと伝えられています。
この墓にお参りすると年老いてもシモの世話にならないとの言い伝えがあります。
また、道路を渡った東側には与一を祀った那須神社と
与一が信仰していた北向八幡神社があります。」(説明板より)


「那須與市崇高公御墓所」と書いたのぼりがはためく石段が続いています。

長い石段を上るとお堂が現れます。





この墓にお参りすると、年老いても「しもの世話をしてもらわなくてすむ。」との
信仰があり、祥月命日や月命日の7日には多くの参詣者が訪れます。

天井から吊り下げた献灯の提灯が並ぶお堂にある五輪塔が与一の墓です。



お堂の左手には、無縁仏の墓があります。周辺の谷あいに埋もれていた
源平合戦で亡くなった武士の塚や五輪塔をここに集めたといわれています。

屋島古戦場を歩く那須与一扇の的(祈り岩・駒立岩)  
那須与一の墓(即成院)   那須与一の郷(那須神社)  
一の谷へ出陣途中、亀岡で病になったという与一 那須与市堂  
『アクセス』
「北向八幡宮」兵庫県神戸市須磨区妙法寺宮ノ下 54−1
例祭日:10月第2日曜日
「那須与一の墓」神戸市須磨区妙法寺字円満林24-8
開門時間 9時から15時
月例祭(毎月7日):8時から15時
市営地下鉄「妙法寺駅」または市営地下鉄・山陽電車「板宿駅」から、
市バス5系統で「那須神社前」下車すぐ
または市営地下鉄妙法寺駅 から徒歩約25分
『参考資料』
「国史大辞典」吉川弘文館、平成元年 
NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター、2008年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)、昭和42年 
三善貞司「大阪伝承地誌集成清文堂昭和53年
全国平家会編「平家伝承地総覧」全国平家会、2005年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


« 妙法寺(福原... 平重衡の墓 »
 
コメント
 
 
 
小野小町の墓や伝説が各地にあるのと同じですね。 (yukariko)
2019-11-27 10:17:05
那須与一も若くして病を得て亡くなっているし、11番目の子供だとしたら一族の跡目筋ではなかったでしょうから手柄は一族の物となり、彼のお墓も伝承でしか伝わってこなかったのかも。
鶴富姫と大八郎の悲恋も子供が男児でも椎葉の里の跡取りとして育てられたと思うから話は膨らまないでしょう。
でもどの土地でも「那須与一の墓とその伝説」は大事に言い伝えられたと思うから、源平合戦で亡くなった武士の塚や五輪塔など、色々入れ混じりながらも、その足跡として残っているのはありがたいですね。
 
 
 
そうですね (sakura)
2019-11-28 12:41:33
小野小町の墓も、全国各地に点在していますね。
小町は絶世の美女、女流歌人として知られ、和歌も残しています。

与一は晴れの舞台で華々しく活躍したにも関わらず、
一級史料にその名がまったく見えません。
その後の活動も確かな資料にないことや若くして逝った
与一の姿が数多くの伝承を生んだと思われます。

物語上の人物としての色彩がきわめて濃いとされています。

 
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