平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平忠度は都落ちの途中、引き返して藤原俊成に和歌を綴った巻物を預けた後、
一の谷で討死し、平家一門も滅亡しました。
世の中が静まると、俊成は忠度に託された巻物の中から
一首『千載和歌集』に「読み人知らず」として収めます。
『平家物語』は、忠度は朝敵となった身、とやかく云っても詮ないことであるが、
だた一首それも読み人知らずとして扱われたことに心から同情し
「子細に及ばずとはいひながら、口惜しかりしことどもなり。」と結んでいます。

 故郷の花といへる心を詠み侍りける 読人知らず
♪ささなみや志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな

この歌は『万葉集』の「近江の荒れたる都を過ぐる時、
柿本人麻呂の作る歌」の本歌取りになっています。
故郷とは郷里のことでなく、かつて都があったところ、
故郷の花とは古都の桜という意味です。
これは忠度が23歳の時に、寂念の家での歌合せで詠んだもので、
都落ちはそれから20年後のことでした。


志賀の都は、人々の反対をおして天智天皇が大和から遷都し
即位した所ですが天皇の死後、皇位をめぐる争い、
壬申の乱によってわずか5年で廃都となります。
柿本人麻呂はこの宮跡を訪れ、
「玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生(あ)れましし
神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに
天(あめ)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和をおきて
あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか
 
あまざかる 鄙(ひな)にはあれど 石(いわ)ばしる
 近江の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ
 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども
大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ
春日の霧(き)れる ももしきの 大宮所 見れば悲しも」(万葉集巻1・29)


(橿原宮で即位された神武天皇の御代以来、歴代の天皇が、
次々に後を継いで、大和で天下を治めになったのに、
天智天皇は大和を捨てて奈良山を越え、どのようにお思いになったのか、
鄙の国近江の大津宮で天下をお治めになったという。
その大宮は、ここだと聞くが、御殿はここだというが、
今は春草が生い茂り、春の日がかすんでいて何も見えない。
荒廃した大宮の跡を見ると悲しいことよ)と叙事的に歌っています。


忠度は人麻呂のこの長歌を想い起こし、本歌取りの技法を用いて、
かつて華やかな都であった天智天皇の志賀の都は、
今はすっかり荒れ果ててしまったけれども
長等山の山桜だけは昔のままに咲いていることだ。と
「ながら」と「長等」を掛けて、移ろいやすいものと
いつまでも変わらないものの象徴として
志賀の都、山桜をやさしく歌いあげています。
この忠度の歌碑が長等山に、歌碑の写しが長等公園近くの
長等神社の境内のしだれ桜の下にあります。




長等山麓の長等公園



公園奥の長等山不動明王の横の階段を上ります。

 上る途中、木々の間から大津市内が見え隠れします。

長等山の忠度歌碑

 忠度は平忠盛の六男で清盛の末弟にあたり、
「伯耆守」「薩摩守」などを歴任し、薩摩守忠度とも呼ばれます。
父の忠盛は武勇だけでなく優れた歌人として知られています。
『平家物語・巻1・鱸の事』には、忠盛が備前国から都に上った時、
鳥羽上皇に「明石の浦はどうであったか。」と尋ねられ、和歌を詠んで答えると
上皇は大いに感じ入り、この歌はのちに『金葉集』に採られた。と記されています。

♪有明の月もあかしの浦風に 波ばかりこそよると見えしか
(有明の月が明石ではあかるくて、夜に見えないほどでした。
明石の浦吹く風に夜には、波が寄るのばかりが見えました。
「明石」「明し」、「寄る」「夜」の掛詞を使って
朝と夜との情景を交錯させて表現しています)
忠盛の和歌は勅撰集に金葉集以下、18首収録されています。

父の素養を受けて忠度は『平家物語』に熊野育ちの剛の者でありながら、
和歌の才をもあわせもつ文武両道を兼ね備えた人物として描かれ、
母は歌人・僧正遍照の子孫にあたる
高成の娘(藤原為忠の娘とも)と伝えられています。

『千載和歌集』などの勅撰集に十首入集、俊成に託した巻物の百余首は、
俊成によって『平忠度朝臣集』に収められています。
平家一門には歌人が多く、都落ち後も
忠度は一門の人々とともにしばしば都を懐かしむ歌を詠みます。

藤原俊成と平家一門との関係はその他に、
琵琶の名手経正(清盛の甥)も俊成のもとで学び、
『千載和歌集』の院宣伝達の使者であった資盛(重盛の二男)は、
俊成と姻戚関係にあり弟子の一人でした。

また俊成の息子定家に師事した平行盛は、
都落ちに際して日頃詠み集めた歌の巻物を定家に送ります。
忠度の歌の処置を残念に思った定家は、行盛の歌を
『新勅撰集』まで待って、左馬頭行盛と名を顕し入集させます。
♪流れなば名をのみ残せ行く水の あはれはかなき身は消ふるとも
行盛は清盛の二男基盛の長男、
父が早くに亡くなったために伯父の重盛に養なわれました。



長等神社

忠度歌碑
歌碑傍の駒札には、長等山の山上にある歌碑をより多くの人々に
見ていただくために、それを模して建てたと書かれています。
平忠度都落ち(俊成社・新玉津嶋神社)  
『アクセス』
「長等神社」滋賀県大津市三井寺町4-1
京阪電車石山坂本線三井寺駅下車、徒歩約10分
三井寺駅琵琶湖疏水に沿って山手に向かって進み、突き当たりを左へ、三井寺観音堂横。
「長等公園」大津市小関町1
 京阪電鉄京津線「上栄町駅」下車 徒歩 10 分または石山坂本線三井寺駅下車、徒歩約20分

長等神社からは、南方に進むと長等公園があります。
歌碑は公園奥の不動堂横の石段からつづら折の山道を上った桜ヶ丘(桜)
広場にあります。
『参考資料』
高橋昌明「清盛以前」文理閣 新潮日本古典集成「平家物語」(上)(中)新潮社
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「平家物語を知る事典」東京堂出版
古橋信孝編「万葉集を読む」吉川弘文館 犬養孝「万葉の旅」(中)教養文庫
五味文彦「西行と清盛」新潮社 新潮日本古典集成「謡曲」(中)新潮社

 



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ホテル・京都・ベースの一角に、
平安時代末期の歌人藤原俊成をまつる俊成社があります。
この辺り一帯には、俊成(定家の父)の邸があったといわれ、
社は俊成の霊を祀るため創建されました。
 
俊成は当時歌壇の第一人者で、
後白河院から俊成に『千載和歌集』編纂の命が下されました。

平清盛の弟
忠度の和歌の師としても知られ、

都落ちの時、忠度が勅撰和歌集に自作の歌を一首なりとも
載せてほしいと俊成の邸を訪れたことが『平家物語』に描かれています。

現在、ホテルの一角に祀られている俊成社。
近くには、俊成が邸宅に勧請した新玉津嶋神社も残っています。


俊成社
車の往来が激しい烏丸松原辺一帯には、俊成の邸宅が
あったと伝えられ、それにちなんで数年前まで烏丸通に面して
俊成の霊を祀る祠がありました。(2005年撮影当時の俊成社)
俊成は藤原道長の5男長家(御子左家の祖)の流れをくみ、
正三位右京太夫に上り、定家の孫のとき
二条・京極・冷泉(れいぜい)家にわかれ、
その後、二条・京極家は断絶しました。

木曽義仲が5万余騎を率いて都に入るというので、
にわかに都は慌しさを増していきます。
平氏軍はこれを迎え討つために京都周辺を固めますが、
義仲軍ばかりか各地の源氏が都に迫っているという知らせが入ると、
平家一門は都落ちを決意します。

『平家物語(巻7)』の後半「主上の都落の事」から
「福原落の事」までの章段には、平家一門の都おちの慌しくも
長い一日が描かれ、師弟との別れ、愛する家族との別れと、
様々なドラマが抒情的に語られていきます。

寿永2年(1183)7月、都落ちにあたり六波羅の邸宅はじめ一門の邸に
火がかけられると、かって華やかだった都は見るも無惨な焼け野原となりました。
都を落ちたはずの忠度が、どこから引き返してきたのでしょうか
侍五騎と童1人を従え、藤原俊成の門をたたきます。
忠度が名乗ると落人が帰って来たと邸内は大騒ぎになりますが、
俊成は「忠度ならばさしつかえない」と門を開けて会ってくれました。

忠度が申すには、「長年和歌を教えて頂きましたが、この2、3年は都の災い
国々の乱れが当家の上に降りかかって、決しておろそかに
思っていたわけではございませんが、お伺いも出来ませんでした。
安徳天皇はすでに都をお出になってしまい、一門の運命はもう尽きてしまいました。
勅撰のご沙汰がある由、承っていましたが、世が乱れて
その話が沙汰やみになってしまったことは、ただ一身の嘆きと存じます。
世が鎮まったなら、再びこの話がもちあがることでしょう。
この中に勅撰集に入れるのにふさわしい歌がございましたなら
たとえ一首なりともお選び頂けたら嬉しく存じます。」と百首ばかり
書き集めた巻物を、鎧の合わせ目から取りだして俊成に差し出しました。

忠度が師の邸を訪れたのは、ふと歌人としての心がよびさまされ、
都落ちの行列を抜け引き返してきたのです。
俊成は巻物を開き見て「このような忘れ形見を頂いた上は、
決しておろそかには致しません。それにしても、このような時に
よくお越しくださいました。」と涙を流すのでした。
忠度は喜び「今はもう山野に屍をさらさばさらせ、西海の浪に沈まば沈め。
この世に思い残すことは何もございません。」と別れを告げて、
馬にうち乗り甲の紐を締め西に向かって落ちていきます。

俊成がずっと見送っていると、やがて忠度と思われる声で高らかに口ずさむ声… 
「前途程遠し思いを雁山(がんざん)の暮(ゆふべ)の雲に馳す」
俊成も思わず涙を押さえて邸に入るのでした。


この詩は『和漢朗詠集』に載せられている大江朝綱の漢詩です。
先の句に続いて
「後会期(ご)遙かなり 纓(えい)を鴻臚の暁の涙にうるおす」とあります。
9C、日本を訪れていた渤海の使節が帰国の際に
鴻臚館で開かれた送別の宴で、大江朝綱が詠んだものです。

これから遥か遠い国に帰っていく使節の行く手に立ち塞がる
雁山にかかる夕べの雲に思いを馳せ、ここで別れたなら
再会できるのはいつのことかわからない。そう思うと宴会が終わった暁方、
冠の緒が涙でぬれることだ。と別れを惜しんでいます。
雁山は中国と西域との国境の高い山、鴻臚(こうろ)館は外国の使節を
接待するための施設で、七条通の北、朱雀大路の東西二ヶ所ありました。

忠度はすでにこの時、平家滅亡を予感しての覚悟の旅立ち。
再び都に帰り俊成と会うことはないであろうということを言外に含めて、
自身のこれからの長旅の情をこの詩に託して吟詠したのでした。
忠度のいさぎよさが伝わってきます。
その後、戦乱が治まると俊成は『千載和歌集』に例の巻物の中から、
「故郷の花」という題で詠まれている次の一首を選んで載せます。
 
♪さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

(志賀の都は、今はもうすっかり荒れ果ててしまったが、
長等山の山桜だけは昔のままに美しく咲いていることだ)

故郷の花とは、古都の桜の意。ここは近江志賀の旧都のことです。
この歌には、「国破れて山河あり」の古代の都が幻想的に浮かびあがります。
朝敵となった忠度の和歌を俊成は、『千載和歌集』1288首のうちに1首、
「読み人知らず」として収めたのでした。

寿永2年2月、後白河院から藤原俊成に勅撰集編纂の命が下りますが、
世上不穏のため作業は一時、停まっていました。院使は平資盛(重盛の次男)で
忠度は資盛(すけもり)からこの情報を得ていたと思われます。
後白河院は和歌にはあまり興味がなかったようですが、和歌を愛した
兄崇徳院の怨霊を鎮めるために勅撰集の選集を命じたといわれています。

唱歌『青葉の笛』にも「更くる夜半に門(かど)を叩きわが師に託せし
言(こと)の葉あわれ」と忠度都落ちの情景が歌われています。

ところで、この師弟対面の場面は諸本によって異なり、
書写年次の古い『延慶本』によるとこの時、俊成は門を開くことなく、
忠度の語る言葉を門越しにワナワナとふるえながら聞き、
忠度は和歌を記した巻物を門の中に投げ入れたという。
当時、都は平家一門の都落ちに際し、起こりかねない狼藉を警戒し脅えていました。
俊成邸も例外ではないはずです。本当のところはわかりませんが、
『延慶本』に描かれているほうが、実際の情景に近かったのかも知れません。
しかしこの物語を聞く者にとって、それではあまりに忠度がはかな過ぎるし
歌壇の大御所俊成の態度としては情けないということで、その後、次第に師弟の
情愛を際立たせる感動的な物語に改作されていったとも考えられています。

烏丸通から松原通を西に入ると、すぐ新玉津嶋神社の鳥居が見えてきます。
文治2年(1186)に藤原俊成が和歌の神といわれる玉津島明神を
自邸に祀ったもので、ここに和歌所が置かれて選集作業が行われました。


藤原俊成の邸跡にたつ新玉津嶋神社


新玉津嶋神社
この神社は、文治2年(1186)後鳥羽天皇の勅命により、
藤原定家の父で平安時代末期から鎌倉初期の歌人として名高い
藤原俊成が自分の邸宅地に、和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている
歌道の神『衣通郎姫(そとおしのいらつめ)』を勧請したことに由来する。
これに先立つ寿永2年(1183)、後白河法皇の院宣により、
藤原俊成はこの邸宅を和歌所として『千載和歌集』を編纂し始めた。」
(現地駒札)
薩摩守忠度の最期(腕塚堂)   
 平忠度胴塚  
 明石市源平合戦の史跡2(腕塚神社・忠度塚) 
 平忠度の歌碑(長等山・長等神社) 
平忠度の墓(清心寺)   
『アクセス』
「俊成社」京都市下京区俊成町438
以前は烏丸通りに面して小社がありましたが、その跡地に
「ホテル・京都・ベース」が建ち、その一角に移されています。
 地下鉄四条駅、阪急烏丸駅 徒歩5分(5番出口より)
地下鉄五条駅 徒歩3分(1番出口より)
バス停「烏丸松原」徒歩1分「四条烏丸(バスターミナル)」徒歩6分


「新玉津嶋神社」京都市下京区玉津島町309
市バス「烏丸松原」 徒歩約3分
地下鉄「五条」駅 徒歩約10分

『参考資料』
 新潮日本古典集成『平家物語』(中)新潮社 『平家物語』(上)角川ソフィア文庫 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店  新潮日本古典集成『和漢朗詠集』新潮社
竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社  竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂
「京都府の歴史散歩」(上)山川出版社 「図説源平合戦人物伝」学習研究社

 

 



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平氏の追討軍を加賀篠原で破った木曽義仲は京を目指しますが、
比叡山延暦寺がその行く手を阻みます。
今回は篠原合戦後から都入りまでの義仲の行動に注目したいと思います。

古くから平氏と比叡山との間には密接なつながりがあったため、
数千の僧兵を抱える比叡山が義仲に対して
どのような態度をとるのか全く予測できません。
義仲の右筆の覚明は比叡山に協力要請の文書(蝶状)の筆をとるとともに、
旧知の有力僧に働きかけ大衆の詮議が有利に運ぶようにとの工作をします。
比叡山で出家した大夫房覚明は、興福寺にいたことがあり、
儒学にも仏教にも通じ、政治的な見識の乏しい義仲軍にとっては
唯一無二の貴重な存在でした。

蝶状にはこれまでの平家の悪行を記し、
神仏の加護が義仲に大勝利をもたらしたことを述べて
「義仲は今比叡山の麓を過ぎて京に入ろうとしている。
比叡山衆徒は平家に味方するのか、
源氏に味方するのか選択しなければならない。
もし平家に味方するのであれば義仲は衆徒と合戦することになる。
そうなれば延暦寺は瞬く間に滅亡するであろう。願わくは神のため仏のため、
国のため、君のため、衆徒が源氏に味方することを望む。」と記しました。

「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と
白河法皇を恐れさせ常に我意を通してきた延暦寺に対して
「そもそも天台衆徒、平家に同心か、源氏に与力か。」と
脅迫まがいの文面で、毅然たる態度で選択を迫るものでした。

蝶状を受取った比叡山では東塔・西塔・横川の僧らが集まって、
東塔の大講堂の庭で、
はてしない論議が続いたが、
命運尽きた平氏に味方しても何になろう。と
結局、源氏に味方することになった。
義仲の動きに慌てた平家側も平宗盛以下、
一門の連名で丁重な願文を送っている。
その内容は「日吉社・延暦寺を平氏の氏社・氏寺にしようといい、
源氏の軍勢打倒の祈祷と平家のための加護を求める文書」でしたが、
もはや手遅れでした。

寿永2年(1183)7月22日、延暦寺を味方にした義仲は比叡山に上り、
衆徒の協力を得て東塔の総持院に城郭を構えます。
ここでいう城郭とは、
姫路城などに見られるような天守閣がそびえる近世の城郭とは異なり、
周囲に深い堀をほり、垣楯(楯を並べて垣のようにすること)を立て、
逆茂木(刺のある枝を並べて垣にすること)を引いただけの
臨時の粗末な軍事施設です。こうして比叡山を占拠した義仲は上洛します。

当時の都の状況は、三年にわたる養和の大飢饉直後であり、
多くの餓死者があふれ、全ての庶民が飢えていました。
このような所に兵糧米の準備のないまま
5万余騎もの大軍が入るのは明らかに無謀でした。

養和の大飢饉とは、
頼朝や義仲が挙兵した治承4年(1180)の異常気象に始まり
養和2年(1182)まで全国的に飢饉となり、
特に西国では大飢饉となり餓死者は路傍を埋め、
疫病の流行にともなってさらに被害が拡大した飢饉です。
『方丈記』によれば、仁和寺の僧が弔いのために、
道ばたの餓死者の額に「阿」という文字を書いていったところ、
左京だけでもその数は4万2千3百あまりあったという。
飢饉の年あけを待った平氏軍は寿永2年(1183)4月、
北陸道の叛乱鎮圧に向かいますが
事前に大軍勢の遠征を賄う兵糧米を確保することができず、
路地追捕(強制取立て・略奪)を許されて出陣しています。

治承4年(1180)10月、富士川合戦の勝利後、
源頼朝は平氏を追って一挙に京に攻め上ろうとしますが、
三浦義澄・上総広常・千葉常胤らが、
まず東国を固めるべきであると主張したため、頼朝は兵を返し、
幕府の基礎固めに努めてきました。

義仲も北陸に留まって、
頼朝のように地盤を固めようとは思わなかったのでしょうか。
越前国府(武生市中心部)で義仲は部下を集めて評定を行なっていますが、
この時、論議されたのは延暦寺に対する政治工作であり、
一旦、基盤となる北陸道の支配体制を固めて、地域政権の拠点を築くことが
先決であると気がつくブレーンが義仲にはいませんでした。

信濃や越前南部・北陸道南西部の在地領主らの寄せ集め的な集団であった
義仲軍には次のような事情もあったと推測されています。
① 安元事件以来、白山宮と延暦寺の衆徒の間には強い結びつきがあり、
北陸道の合戦には延暦寺の僧兵も加わっています。
白山宮衆徒の勢力に支えられていた義仲の行動は、
白山宮・延暦寺衆徒連合に強い規制を受けざるを得なかった。
しかしこうした素地があってこそ
覚明の延暦寺に対する政治工作は成功したと云えるのでしょうが。

② 頼朝・義仲の叔父で以仁王の令旨を諸国の源氏に伝えた行家が、
頼朝とうまくいかずに当時、義仲を頼っていましたが、
本来畿内を拠点としていた長老的存在の行家の希望を
義仲は無視することができませんでした。

③ 北陸道は京に直結し、越前の小規模な在地領主は在京の武者として
権門勢力へ臣従・家人化し、領主経営の拡大をはかる者が多かったこと。

こうした体質が重なりあって、義仲軍を越前に留まらせることなく
飢餓と策謀渦まく京へと直進させます。

*安元事件とは安元2年(1176)、後白河院の近臣西光の子である
加賀守藤原師高の目代として派遣された弟師経が
社寺や貴族の荘園を没収するという暴政を行ないました。
ある日、目代は白山中宮八院の一つ鵜川の涌泉寺に踏み込みました。
涌泉寺は白山の末寺です。
これに憤慨した白山の大衆が国衙を襲撃して目代を都に追い返します。
さらに白山は本寺延暦寺に訴え強訴を展開し、
師高は尾張国へ流罪、目代は投獄されました。
これに対し西光は後白河院を動かし
天台座主明雲を解任し伊豆に流罪と定められました。
これに反発した延暦寺の衆徒が院への対決姿勢を強化した事件です。

 『参考資料』
上横手雅孝「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 上横手雅孝「源平争乱と平家物語」角川選書
浅香年木「治承・寿永の内乱論序説・北陸の古代と中世2」法政大学出版局
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 
河合康「源平合戦の虚像を剥ぐ」講談社メチエ 河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館
高坪守男「旭将軍木曽義仲洛中日記」歴史史料編さん会 「木曽義仲のすべて」新人物往来社 
中野孝次「すらすら読める方丈記」講談社

 



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多太神社は篠原合戦で討死した斎藤実盛の兜を所蔵する神社です。
多太八幡神社ともいい、延喜式内社に列する古い社で、
祭神は衝桙等乎而留比古命(つきほことおてるひこのみこと)
応仁天皇・仁徳天皇・神功皇后ほかが祀られています。
 
鎌倉時代中期、近くの能美庄が京都の石清水八幡宮の社領になると、
その末社となり、室町時代まで加賀地方ではかなりの勢力をもっていました。
この神社に残る兜・袖・すね当は、藤別当実盛の遺品を
木曽義仲が願状を添えて奉納したものと伝えられています。




篠原合戦における斉藤実盛の逸話は後世まで語りつがれ、
さらに有名にしたのが謡曲「実盛」や松尾芭蕉の俳句です。

斉藤実盛の死後二百年余り経った室町時代、
時宗の遊行上人太空が篠原古戦場近くにある潮津(うしおず)道場で布教中、
実盛の亡霊にあい卒塔婆をかいて霊を慰め供養したといわれています。
(実盛の亡霊が実際に現れたと室町時代の記録類にも載せられている)
謡曲「実盛」はこれを素材にした世阿弥の作品です。
武将が死後修羅道の苦しみを語る修羅物の一曲で「三修羅」および「三盛」の
一つにあげられており「未熟の能師の勤めざる能也」とされる難曲です。

時代は下り江戸時代、芭蕉は「おくの細道」で多太神社に詣で、
実盛が身につけていたと伝えられる錦の切れ端やかぶと等を拝観しています。

松尾芭蕉の像


『奥の細道』でそのくだりを見ておきます。
「この神社には斉藤別当実盛の遺品である甲や錦の直垂の一部が所蔵されている。
その昔、実盛が源氏に仕えていたころ、義朝から拝領したものだとか、
なるほど並みの武士のものではない。目庇(まびさし)から吹返しまで、
菊唐草の彫刻に金を散りばめ竜頭の飾金具と鍬形の角が打ちつけてある。
実盛が討死の後、木曽義仲が祈願の状文に添えてこの社に奉納されたこと。
その時、樋口次郎が使いとして来たことなどが、
目のあたりに見るように縁起に書いてある。」


ちなみに目庇というのはかぶとの正面に突き出した庇をいい、
吹返しは目庇の
両側から耳のように出て
後方に反り返っている部分で矢防ぎと装飾をかねています。


この文章に続けて♪むざんやな甲の下のきりぎりすの句が添えられています。
「このかぶとを見るにつけ往時のことが偲ばれるが、実盛が白髪を染め
この甲をかぶって戦って討たれたことは何といたわしいことであろう。

しかしそれも過ぎ去った昔語りとなって
今はかぶとの下で秋の哀れを誘うようにきりぎりすが鳴いていることだ。」
当時のきりぎりすとは今のこおろぎの事です。

この句の初句は、はじめ「あなむざんやな」または「あなむざんや」でした。
「あなむざんやな」は謡曲「実盛」で、樋口次郎が実盛の首級(しゅきゅう)を見て
「あなむざんやな、斉藤別当にて候ひけるぞや」という詞をとったものですが、
もとは『平家物語』の「あなむざんや」から繋がっています。
『奥の細道』をまとめる際に、字余りが修正され「あな」という詞が省かれました。



芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが三百年前の
元禄二年(一六八九年)七月二十五日(九月八日)であった。
七月二十七日小松を出発して山中温泉に向う時に
再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。
あなむざん甲の下のきりぎりす  芭蕉
幾秋か甲にきへぬ鬢の霜     曽良
くさずりのうち珍らしや秋の風   北枝

斎藤別当実盛の像



おくの細道の旅で芭蕉は西行の足跡を辿ったとされますが、悲劇の武将
源義経を追慕するのも目的の一つでした。平泉から南下するうちに木曽義仲にも
思いをよせるようになり、晩年義仲が眠る義仲寺(ぎちゅうじ)に埋葬するよう遺言し、
義仲寺には芭蕉の墓があります。義仲に特別な思いを持っていた芭蕉は、
多太神社で義仲が奉納した宝物を見た時、実盛の最後を追懐し、
鬢髭を黒く染めて戦った誇り高い武士魂と図らずも恩人を討ってしまった
義仲の心情を思い、感慨深いものがあったはずです。

義仲が奉納した実盛のかぶとは、今も多太神社で見ることができます。
通常は予約が必要ですが、7月下旬の「かぶとまつり」では一般公開されています。
かぶと保存会(0761-21-1707)に予約し、
平成18年5月4日に拝観させていただきました。
宮司さんに案内されて宝物館の戸を開けると、
テーブル状のショーケースの中に兜は展示されていました。
中央の祓立(はらいだて)には八幡大菩薩の文字が彫られ、古雅で気品高い
兜の姿にしばし見とれ、八百年余り前の悲哀に思いを馳せました。



大きく破損していたかぶとは明治33年に国宝に指定された時に
一度解体修理され、昭和25年には重要文化財となりました。

篠原合戦で討たれた実盛は死んで怨霊神となり、稲を食うサネモリという
虫になったという。それというのも実盛は稲につまずいて倒れ、
それが原因で手塚に討たれたと伝えられます。
田植えを終えた祭り「さなぶり」が「さねもり」に重ねられ、稲の害虫よけを
実盛の霊に祈る慣わしが現在でも北陸地方を中心にした農村に残っています。
実盛の説話はやがて謡曲の舞台となり、
文芸・民間伝承の中に長く生き続けています。

拝殿本殿

多太神社回向札(小松市指定文化財)
画像は小松市HPよりお借りしました。
室町時代、時宗の祖一遍から14代にあたる遊行上人太空が
実盛の霊を供養したという縁起にもとづき、代々の上人は加賀国に布教の際、
多太神社・実盛塚で回向するのが慣例となりました。

境内社松尾神社

平成18年に続いて平成27年秋に再度参拝させていただきました。
篠原古戦場(首洗池・実盛塚)  
義仲寺1(木曽義仲と芭蕉) 
 『アクセス』
「多太神社」小松市上本折町72
JR小松駅から徒歩16、7分。駅前通りを300mほど西へ進み、
龍助町から左に折れて南へ向う「上本折町」バス停すぐ。
『参考資料』
新編日本古典文学全集「松尾芭蕉集」(1)(2)小学館
 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 
山本健吉「奥の細道」飯塚書店
菅野拓也「奥の細道三百年を走る」丸善ライブラリー 

佐々木信綱「芭蕉の言葉」淡交社 金森敦子「芭蕉はどんな旅をしたのか」晶文社
水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会 新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社
「石川県の歴史散歩」山川出版社 「石川県の地名」平凡社

 

 



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