平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




福岡県遠賀郡芦屋町の遠賀川河口を見下ろす山上に山鹿城跡があります。
平安時代末に標高45㍍ほどの丘陵にこの城を築いたのは、山鹿経政・秀遠でした。
現在は桜の名所として知られ、城山公園として整備されています。
大宰府を追われた平家一門は、山鹿城を経て門司区大里に仮御所を構えますが、
そこにも長く留まることはありませんでした。
再び瀬戸内海に漕ぎ出し讃岐の屋島を目指します。

JR鹿児島本線折尾駅前から北九州市営バスに乗ります。

石見神楽の流れをくむ折尾神楽は、北九州の気質に合うように
テンポ早く激しく舞うことで、郷土芸能として定着しました。



山鹿城へは芦屋橋でバスを下ります。

ひとつ手前の山鹿バス停で下り、
周囲の景色を楽しみながら芦屋橋を目指しました。


山鹿城遠望

芦屋は室町時代、茶の湯の名器として一世を風靡した芦屋釜の里です。

響灘へと注ぐ遠賀川

芦屋橋畔の「かなや公園」には、芦屋の歴史を紹介した説明板が設置されています。



川べりのヨットハーバーの駐車場に上り口があります。

ここの細い道を入っていきます。



この山鹿城跡は壇の浦の合戦に平家と運命を共にした山鹿兵藤次秀遠の居城であった。
昭和五十二年(一九七七)散策歩道工事中、南北朝時代の宝篋印塔や五輪塔などを発見した。
出土した墓石や石像は町立歴史民俗資料館裏に移し保存されている。(背面の碑文を要約しました。)

 秋山光清の歌碑(郷土史家)
雲の上に 今そかゝやく 西の海の 山鹿の城乃 弓張の月  光清

二の丸跡には、福岡藩主黒田長知の長子「従一位勲一等侯爵黒田長成」の書による
山鹿兵藤次秀遠之城址」側面には、
「蘆屋町立小学校職員児童建之大正十一年九月」と彫られた石碑、
傍には
「史蹟山鹿城址」の碑が建っています。




「山鹿城は朱雀天皇の天慶年間鎮西奉行藤原の俵藤太秀郷の弟
藤次によって築城され、以後代々山鹿氏の居城となり、
年を経ること二百四十年山鹿兵藤次秀遠が城主となった。
寿永二年七月(西暦一一八三)源氏に追われた平宗盛は、幼帝安徳天皇を
奉じて西国に落ち、さらに同年九月に大宰府に逃れる。
此時山鹿城主秀遠は一身の盛衰を顧りみず尊王の大義を体して
安徳天皇を迎え、この城にこもり一意専心天皇の為に忠勤を励んだ。
元暦元年(西暦一一八四)秀遠は平氏と共に屋島に出陣し忠烈むなしく
戦に破れ、壇之浦において山鹿氏は滅亡するに至ったのである。
山鹿氏滅亡の後は代々麻生氏の居城となった。
秀遠奉安徳帝到讃州八島笣(?)営内裏此時
九州四国群将悉背平氏唯秀遠蓋(?)力戦・所所
山鹿素行筆「山鹿家譜」に拠る」(碑文より) 

儒家・兵法家の山鹿素行は、筑前.芦屋の山鹿が祖先の地だとしています。



石段を上ると頂上の本丸跡です。 
眼下に流れるのが遠賀川、右奥に見えるのが響灘です。

山鹿秀遠は『菊池系図』によると、有力府官藤原政則を祖とした粥田経遠の子で菊池氏と同族です。
政則は九州兵頭の宣旨を受け、「兵頭(兵藤とも)」と称しました。
秀遠は父粥田(かいた)経遠の所領筑前国粥田荘のほかに叔父山鹿経政の所領
山鹿荘を継ぎ、本拠を山鹿荘(現在の福岡県遠賀郡芦屋町山鹿)に置いて
山鹿兵藤次(ひょうとうじ)秀遠と称しました。

粥田経遠は京都にのぼり、鳥羽上皇の武者所にも出仕していました。
そのころ上皇の院司(いんじ)であった忠盛(清盛の父)との
関係が生まれたと推測されています。

 宇治拾遺物語 巻9の5』には、山鹿恒正(経政)が有力郎党の政行の
法事を営んだところ、政行の同輩が100余人も集まったという話を載せています。
有力郎党だけでも100余人いたということは、経政は千騎以上の軍勢を
編成できたと推測でき、またその名が都にまで聞こえていたことが知れます。
このことからも経政の跡を継いだ山鹿秀遠の軍事力が推し量れます。

山鹿荘・粥田荘ともに遠賀川流域にあり、秀遠の勢力は遠賀川一帯に及び、
その居城である山鹿城は遠賀川右岸河口に位置する水陸交通の要衝にありました。

 藤原一族の山鹿氏と大蔵一族の原田氏は、11C初頃から大宰府上級府官の
地位を世襲していました。また菊池氏、板井氏、宇佐大宮司家なども
彼らと姻戚関係にあり、互いに深いつながりをもっていました。
彼らは平家という大きな力を背景に、有力府官、在庁官人として
北九州一円に勢力を広げていたのです。

 山鹿秀遠は壇ノ浦合戦では、山鹿水軍を率いて平家舟戦(ふないくさ)の
先陣を務め、九州一番の強弓の威力で、緒戦に義経軍を破っています。
壇ノ浦の敗戦後、鎌倉幕府によって領地は没収され、
宇都宮左衛門尉家政がその旧領を与えられ、
彼はのちに姓を山鹿と変え、つぎに麻生と名のっています。

『巻8・緒環(おだまき)の事』『巻8・太宰府落ちの事』によると、
豊後国(大分県)は後白河法皇の配下、鼻が大きいので鼻豊後と呼ばれた
藤原頼輔(よりすけ)の知行国です。都落ちした平家が大宰府に下ると、
頼輔は法皇の意を汲み、目代として現地にいた息子頼経に
「平家に従ってはならぬ。彼らは法皇にも見放された落人である。
すぐに追放せよ。これは法皇の命令である。」との書状を送りました。
この旨、緒方三郎惟栄(義)に下知すると、惟栄(これよし)はこれを
院宣だといって九州の主な武士たちに触れ回り、平氏追討に立ち上がりました。
このことは一門の耳にも入りましたが、平大納言時忠(時子の弟)は、
「惟栄は小松殿の御家人であり、平家からかねて重恩を受けた身、
小松殿のご子息の誰かが説得なさるべきであろう。」と
惟栄を説き伏せることができるものと高をくくっていました。

重盛の次男資盛(すけもり)が緒方惟栄を説得する使者に選ばれ、
九州の事情に詳しい平貞能(さだよし)とともに豊後国に出向きました。
重盛の嫡男は維盛ですが、富士川合戦・倶利伽羅合戦で惨敗して勢力を弱め、
法皇と親密な関係にあった資盛や重盛の腹心であった貞能が
適任と緒方三郎との折衝に派遣されたのです。
資盛は小松家と惟栄の主従関係に期待し、あれこれと説得しますが、
惟栄はこれに応じる様子は全くなく彼らを追返します。それどころか
次男の二郎惟村を大宰府に遣わし、平家に九州から出ていくよう迫ったので、
時忠は惟栄らの忘恩をなじりました。惟村からこの報告を聞いた惟栄は立腹し、
「こはいかに、昔は昔、今は今。」と言い放ち、三万余騎の軍勢を差向けました。

このような大軍が相手ではどうにもならず、一門は激しい雨の中、
安徳天皇を手與に乗せ、建礼門院はじめ女房らは徒歩(かち)はだしで
取るものもとりあえず逃げ出します。住吉神社、筥崎宮、香椎宮、
宗像神社を伏し拝みながらようやく海岸に出ましたが、女房たちの足から
流れ出る血が白い袴や着物の裾を紅に染め、砂浜は赤く変わりました。

軍勢を率いてお供に馳せ参じたのが、平家が九州に落ちてきた当時、
安徳天皇に館を提供していた原田種直です。しかし山鹿秀遠が数千騎を率いて
迎えにくるとの噂を聞き、自分がいては都合が悪かろうと途中から引き返しました。
種直は秀遠とは覇権争いがあり、不仲の間柄であったようです。
芦屋津(現在の遠賀郡芦屋)という所を通り過ぎる時には、「これは我々が
都から福原へ通うとき、見慣れた里(現在の兵庫県芦屋市)の名である。」と
どの里よりも懐かしく、感慨深く思うのでした。

秀遠は一門を山鹿城に迎え入れましたが、それも束の間、ここも安全な
場所ではありませんでした。山鹿へも敵の手が回り再び海上へ逃れることになります。
秀遠が用意した小船に分乗し、夜通し船を漕いで豊前の柳ヶ浦へ渡りました。

緒方三郎惟栄の平氏離反、何がそうさせたのでしょうか…。
惟栄は倶利伽羅・篠原合戦などで大敗し、義仲に都を奪われた平氏を見て、
もはや平家の世ではないと見限ったことや平氏一辺倒の原田種直・
山鹿秀遠・宇佐公通・坂井種遠などの勢力に妨げられ、先行きが見えない
領主的発展の道をなんとか切り開こうとしたものと思われます。
平家一門都落ち(緒方惟栄)  
『アクセス』
「山鹿城上り口」
JR鹿児島本線の折尾駅から北九州市営バス青葉台行「芦屋橋」下車(約40分)徒歩5分。

バスの本数が少ないのでご注意ください。(1時間に1~2本)
芦屋橋東詰を川に沿って南下した所に公園の駐車場があります。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)(下)新潮社、昭和60年、平成15年
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房、1995年 「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年
 日本古典文学全集「宇治拾遺物語」小学館、2008年「福岡県百科事典」西日本新聞社、昭和57年
 「平安時代史事典」(下)角川書店、平成6年
「日本史大事典」平凡社、1993年
 森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年









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「旅人」は、万葉集の代表的歌人大伴旅人にちなんで
名づけられた太宰府観光列車です。(通常の運賃で利用できます。)





今から1300年ほど前の奈良時代、遠の朝廷(とおのみかど)といわれた
大宰府は、都から赴任する多くの官人らで賑わいました。
その中で都の華やかな文化を持ち込んだ一人が旅人です。
当時、大宰少弐(次官)として九州にあった小野 老(おゆ)は
♪あをによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり と詠んで、
文字通り青色の瓦、朱色の柱で彩られた建物が建ち並ぶ都を懐かしんでいます。
ちなみに「大宰府」は、九州一帯を管轄する朝廷の出先機関としての役所を指し、
「太宰府」は天満宮や現在の地名に用いられています。

平安時代、大宰権帥(ごんのそち)として大宰府に左遷された菅原道真は、
望郷の思いを抱きながらも二度と都の土を踏むことなく59歳でその生涯を終えました。

九州での平家一門の足どりは諸本で異なりますが、語り本『平家物語』では、
大宰府に着いた一門は、まず道真の霊廟である安樂寺(現在の太宰府天満宮)に参詣し、
望郷の思いを歌に詠んでいます。この辺りの事情は、
平家一門都落ち(太宰府天満宮)の記事で述べさせていただきました。


それから朝廷の守護神と仰がれた宇佐八幡宮へ行幸し、大宮司公通の館を
御所にあて、社殿は一門の居所となりました。七日間参籠したその明け方、
宗盛の夢想に「平家に神の加護は及ばない。」との不吉な託宣を受け、
神に見放された思いで、一行は悲嘆に暮れながら大宰府に戻りました。
そうこうするうちに九月十三夜となり、月見をしながら忠度(清盛の末弟)、
経盛(清盛の弟)、経正(経盛の嫡男)が望郷の歌を涙ながらに詠みましたが、
やはり道真と同様に帰京はかないませんでした。

平忠度は♪月を見し去年(こぞ)の今宵の友のみや 都にわれを思ひ出づらむ
(去年の今夜一緒にこの月を眺めた友だけは、
都で私を思い出しているであろうか。)
 
平経盛は♪恋しとよ去年の今宵の夜もすがら 契りし人の思ひ出られて
(ああ悲しいことだ、去年の今夜、二人の仲は変わらぬと
夜すがら誓いあったあの人が思い出されて。)

 平経正は♪分きて来し野辺の露とも消えずして 思はぬ里の月を見るか
(はるばると分けて来た野辺の露のようなはかない命なのに
今までよく消えもせず、思いもよらぬこの筑紫の月を見ることだ。)

忠度、経盛の「こぞの今宵」は、菅原道真の『菅家後集』九月十日によるものです。
「去年の今夜清涼(せいりょう)に侍(じ)す 
秋思(しゅうし)の詩篇(しへん)独り断腸(だんちょう)
 恩賜(おんし)の御衣(ぎょい)今ここに在(あ)り
 捧持(ほうじ)して毎日余香(よこう)を拝す」

(去年の今夜私は宮中の清涼殿で天皇にお仕えしていた。
『秋思』という題で詩を作るよういわれ、私一人が痛切な思いをこめた詩を奉った。
その時、天皇から賜った御衣が今ここにある。
その衣を捧げ持って毎日その余香を拝している。)
道真は配流という憂き目にあいながらも、醍醐天皇のことを恨みに思わず、
その恩恵を思い起こしているとの内容です。

太宰府市には、万葉歌碑27基をはじめ、著名な歌人の歌碑や俳人の句碑が点在しています。
大宰府政庁跡南側で見つけた歌碑です。

やすみしし わが大君の 食(をす)国は 倭もここも 同じとぞ思ふ
 (大宰帥大伴旅人 万葉集巻6-956)
 大伴旅人が大宰府に赴任したばかりの時の歌です。
大宰少弐(次官)の石川足人(たるひと)が「大宮人が住んでいる
佐保山を懐かしくはありませんか」という趣旨の歌を詠んで旅人に
問いかけたのに対して、「大和もここ大宰府も大君がお治めになるご領地、
何も変りはないよ。」と答えたものです。

神亀2年(725)山上憶良(やまのうえのおくら)が筑前守に就任し、
その2年後、64歳の大伴旅人が妻の郎女(いらつめ)と家持(やかもち)を連れて
大宰帥(長官)として赴任しました。
この頃から天平2年(730)12月、旅人が大納言に昇進して
大宰府を離れるまで、九州筑紫の地に万葉文化が花開きました。

物部(もののべ)氏とともに武をもって大和朝廷を支えた大伴氏は名門氏族です。
旅人はその氏の長で、左将軍(さしょうぐん)、征隼人持節大将軍(じせつたいしょうぐん)
などを歴任後、突然、奈良の都を追われ大宰府に左遷されました。
万葉集の編纂に大きく関わったとされる家持はその長男です。

学校院跡近くにたつ子等を思ふ歌の歌碑。
瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食(は)めば まして偲はゆ
いづくより 来りしものそ
まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ
    反歌(はんか)
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも                
 筑前国守(ちくぜんのくにのかみ) 山上憶良(万葉集巻5-8022)


安田靫彦画 「憶良の家」 
家族を愛し、子供を何よりも大切にした憶良の姿が描かれています。

山上憶良は朝鮮半島の百済生まれといわれています。
百済が滅びたため、父親に連れられ日本に逃れ、苦学して遣唐使に抜擢された苦労人です。
帰国後、国司や皇太子の教育係を歴任した後、筑前の国司となり、
生い立ちの全く違う大伴旅人と出会いました。ともに老境の二人を中心に
少弐小野老(おののおゆ) 、沙弥満誓(しゃみまんせい) 、
大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)などが
筑紫の自然や望郷の思いを詠み、数多くの万葉歌が誕生しました。
それを後世の人々は「筑紫歌壇」とよんでいます。

沙弥満誓は造観世音寺(観世音寺を造る)別当を命じられ大宰府に着任し、
坂上郎女(旅人の異母妹)は、旅人が赴任早々に妻を亡くしたため、
旅人や家持(当時10歳)の世話をするために
大宰府にやってきました。彼女も優れた歌人でした。

天平二年(730)正月十三日(新暦の2月8日)、旅人の官邸で
「梅」を題とする歌宴、「梅花の宴(えん)」が盛大に行われました。
大宰府の官人や九州諸国の国司・官人らが招かれ、32首の和歌が詠まれました。

中国の楽府詩(がふし)に「梅花落(ばいからく)」という
遠く故郷を離れ辺境を守備している兵士たちの望郷歌があります。
妻を亡くし 鬱屈(うっくつ)とした日々を送っていた旅人は望郷の念も強く、
中国の詩文「梅花落」を背景に都から遠く離れた
鄙(ひな)の地である大宰府で「梅花の宴」を催したとされています。
大宰府展示館には、その様子を博多人形で再現した「梅花の宴」が展示されています。
旅人はこの翌年に帰京しましたが、まもなく67歳で亡くなったという。

この宴が開かれた旅人の邸があった場所は明らかではありませんが、
政庁跡のすぐ北西にある坂本八幡宮付近から蔵司(くらつかさ)にかけての
傾斜地一帯が小字内裏とよばれていることから、
その付近と推測されています。梅は中国からの渡来の花ですが、
中国文化にあこがれていた当時の人々に愛され、万葉歌に数多く詠まれています。

道真も梅の花をこよなく愛し、絶筆となった漢詩
「謫居春雪」(たくきょのしゅんせつ)にも梅が詠まれています。

大宰府にまるで白梅が咲いたかと見まがうほど降り積もった雪に、
中国の故事を重ね合わせ都への帰還を願った詩です。

大宰府展示館近くに建つ万葉歌碑。
大宰府政庁に隣接する「大宰府展示館」では大宰府の歴史をパネルで説明しています。

あをによし 寧楽の京師は 咲く花の 薫ふがごとく  今さかりなり
  小野 老(万葉集巻3-328)


さいふ参り・大宰府学校院・蔵司 
 平氏と大宰府(大宰府政庁跡)
  
『アクセス』
「大宰府展示館」太宰府市観世音寺4-6-1電話:092-922-7811
 休館日  
月曜 8月13日〜8月15日 12月28日〜1月4日 
開館時間 9:00〜16:30 入館料無料。
西鉄太宰府線「五条」駅下車徒歩17分、または西鉄天神大牟田線「都府楼前」駅下車徒歩15分。
市営バスまほろば号「観世音寺」より徒歩5分。
太宰府市コミュニティバス「まほろば号」一日フリー乗車券300円を利用すると便利です。
まほろば号」路線別時刻表(平成26年4月4日改正)/太宰府市

レンタサイクル「西鉄太宰府」駅 9時~18時「西鉄二日市」駅9時~17時で受け付けています。
料金一日500円 また返却は「西鉄都府楼」駅でも受け付けています。
500円/1日、電動アシスト付き自転車800円/1日
※お問い合わせは西鉄二日市駅まで TEL:092-922-2024
太宰府天満宮では、大伴旅人が、天平2年1月13日に催した有名な梅花の宴にちなみ、
毎年2月、市民が旅人や憶良に扮して万葉歌を詠う「梅花の集い」が開かれます。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年

「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年  犬養孝「万葉の旅」(下)社会思想社、1995年  
 杉原敏之「遠の朝廷 大宰府」新泉社、2011年 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書、2014年 
週刊朝日百科・世界の文学「万葉集」朝日新聞社、1999年  富田利雄「万葉スケッチ歩き」日貿出版社、2000年




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西鉄「五条」駅から北西に向かい、御笠川沿いに北上すると西鉄「太宰府」駅前に出ます。
駅前からは太宰府天満宮の参道が続いています。

太宰府天満宮は大宰府政庁跡から北東方向に2㎞ほどの場所にあり、
太宰府市役所は
この二ヵ所の中間に位置しています。太宰府天満宮には、
大宰府に左遷され、大宰府で亡くなった菅原道真が祀られています。

大宰府の中枢である四等官の規模は、長官の「帥(そち)」一人、
次官の「大弐(だいに)」一人と「少弐」二人、以下「大監(だいげん)」二人、
「少監」二人、「大典(だいてん)」二人、「少典」二人の計十二名です。
帥の相当位は従三位で、中央の八省の位よりも上でした。
大同元年(806)伊予親王が大宰帥になって以降、
帥には親王がなり、大宰府に来なくなりました。右大臣菅原道真が
大宰権
帥(仮の官位、ごんのそち)として左遷されたのは、延喜元年(901)のことです。

太宰府市役所。
市役所駐車場傍の植込みの中に建つ「さいふ参り」の説明板。

太宰府天満宮への参詣は、平安時代より都からの官人や文人などにより行われていましたが、
江戸時代からは「さいふまいり」とよばれ、庶民にも広がっていきました。
「さいふ」は、都から西にある都督府(大宰府)があった地、「西府」の意味もありました。

御笠川に架かる五条橋の付近は、宰府(さいふ)宿(現在の太宰府)の入口にあたり、
橋のたもとに三浦の碑が建っています。この碑は、伊勢の二見浦、紀伊の和歌浦、筑前の箱崎浦の
砂を取り寄せて清めた行事の記念碑として、文政13年(1830)に建てられたものです。
太宰府天満宮参詣の人々は、この碑のところで穢れを払ったのだといわれています。

五条橋の西方には、大宰府の五条大路の名残の道、政庁通りが伸びています。

御笠川の畔に建つ三浦の碑。

大宰府の周辺には、政所(まんどころ)、公文所(くもんじょ)、
蔵司(くらのつかさ)などの多くの役所がありました。
政庁通りの北側にあるこの広場は学校院跡です。田園の中に石碑と説明板がたっています。

中央政府は官吏養成のため中央に大学、地方に国学を設置し、大宰府には
府学校が整備されました。
学生は郡司など在地豪族の子弟に限定され、
府学校の教育水準はかなり高かったと推定されています。


「学校院跡
 学校院は、西国の役人を養成する機関である。大宰府政庁の東側にあるこの地区は、
小字名を「学業」ということから、学校院があったと考えられている。
  学校院では、博士を教官として、中国の「五経」「三史」等の書物を教科書に、
政治・医術・算術・文章など、役人として必要なことを学んだ。
古代の教育システムでは、通常は国(ほぼ現在の県にあたる)ごとに国博士がおかれるが、
筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の六国には博士はおかれず、
学生は大宰府で修学した。学生は、所定年内に必要な科目を修得した後に、
試験に合格すれば役人として採用される。天応元年(781)には約200人の学生が
大宰府に集まったとの記録があり、大宰府が学問の中心地としても
機能していたことを知ることができる。  太宰府市 」(現地説明板より)


 政庁の西側の丘の小字蔵司(くらつかさ)には、「蔵司跡」があります。
この役所では、大宰府管内諸国から収納された調庸(租税)の出納事務にあたり、
また倉庫を管理した所と考えられています。 

「蔵司地区官衙(かんが)
大宰府には、実務を行う19の役所があったことが知られている。
その多くは政庁の周辺に設けられていたと考えられる。
政庁の西側に位置する丘陵は、現在、字名から「蔵司」と呼ばれている。
「蔵司」は、もともと西海道(九州)九国三島(後に二島)の綿・絹などの
調庸(ちょうよう)物(税)を収納管理する役所である。
集められた調庸物は一旦ここに納められ、その後一部は都に進上された。
後方の丘陵上に礎石建物(倉庫)1棟が存在することは早くから知られていたが、
1978年・1979年に、この丘陵の前面地域が発掘調査され、
二重の築地(ついじ)と、その内部に建物5棟が新たに見つかった。
これらの築地や建物は、8世紀~11世紀前後にわたって営まれており、
「蔵司」を構成する建物の一部であることが明らかとなった。」(現地説明板より)
『アクセス』
「学校院跡」西鉄太宰府線「五条」駅下車徒歩15分、
または西鉄天神大牟田線「都府楼前」駅下車徒歩18分
市営バスまほろば号「観世音寺」より徒歩5分
『参考資料』
 杉原敏之「遠の朝廷 大宰府」新泉社、2011年「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
「特別史跡大宰府政庁跡」財団法人古都大宰府保存協会、2009年
   「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年

 



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大宰府は西海道とよばれた九州やその周辺の島々を治める古代最大の
地方の役所の名称です。また遣唐使などの往来を扱う対外交渉の窓口としても栄えました。
その中心となったのが都府楼(とふろう)の名で親しまれている大宰府政庁です。

大宰府政庁の跡です。付近一帯は大宰府跡として国の特別史跡に指定されています。
なお歴史上の役所は大宰府、地名や太宰府天満宮などについては太宰府と表記されています。
政庁の敷地は東西110㍍、南北211㍍あり、
中心にはその大きさをしのばせる巨大な礎石が残っています。
そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡が平面復元され史跡公園となっています。


当時、博多湾岸に「那津官家(なのつのみやけ)」が置かれ、
大宰府が設置されるまで、その役割を担っていましたが、天智天皇2年(663)の
白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅の連合軍に朝鮮半島で敗れ、
これをきっかっけにして、大宰府政庁の建設が始まりました。
大和朝廷は唐の侵攻を恐れ、さらに水城(みずき)や大野城・基肄(きい)城などの
大防衛施設を北部九州に築き、沿岸には防人(さきもり)を置きました。

階段を上がると南門跡です。そこから先に進むと中門がありました。
発掘調査により、大宰府は創成期を含め三回の建て替えが行われたことが明らかとなっています。
現存の礎石は藤原純友の乱後に再建された第三期のものです。
人物の大きさと礎石の大きさを見比べてください。

源平の戦乱で荒廃した後、再興され鎌倉時代にも、大宰権師(ごんのそち)
大宰大弐(だいに)が任命され太宰府は機能していましたが、
蒙古襲来後、その役割を終え完全に形骸化しました。

三基の碑が建っているところが大宰府政庁正殿跡です。
中央の「都督府古趾」の碑は、明治七年に乙金村の高原善七郎が自費で建立したものです。
左側の「太宰府址」の碑は地元の人々の働きかけで明治時代に建てられたもので、
碑面には、大宰府の由来が彫られています。右側の「太宰府」の碑は、寛政元年(1789)
福岡藩学問所の教授であった亀井南冥(なんめい)
が建立しようとしましたが、
藩の許可が下りず、大正三年、門下生の尽力で建てられました。
(石碑には、大宰府ではなく太宰府と彫られています。)

石碑の背後には、四王寺山(しおうじさん)が見え、その山頂には
大野城がそびえています。
この城は大宰府の北の守りとして、南の備え基肄(きい)城、
それに西北方の水城(みずき)という大堤防によって外郭を守護していました。
大宰府は都督府(ととくふ)と称しました。

天慶二年(939)海賊を取り締まる側であった藤原純友が
海賊を集めて純友の乱を起こし、大宰府を焼き打ちした後、
まもなく政庁は再建され、在地の有力豪族が府官(大宰府の役人)に任命され、
彼らが政治の主体となっていきます。
これら在地クラスの官人は11Cになると、武士化が急速に進んでいき、
12Cには武士に衣替えしました。源平合戦に参加した豊前(ぶぜん)の板井氏・
筑前の原田氏や筑豊の粥田(かゆた)氏らの武士団が形成され、
これら土着の有力武士を傘下に置くことで、平氏は大きく勢力を伸ばしました。

模型は平安中期の様子を復元したものです。
政庁の建物は、朱の柱に瓦を葺いた朝堂院形式を模したものでした。

大宰府政庁跡全景。(最初、大宰府は天智天皇の時代に置かれた対外防備の役所です。)

原田種直は、藤原純友の乱で勇名を馳せた大蔵春実の子孫です。
大蔵氏は土着し、大蔵氏嫡流の種直は府官(大宰府の役人)として、
平氏の北九州の地盤固めの要となって働きました。
大蔵一族の板井氏も在庁官人となり、種直のいとこにあたる坂井種遠の頃には、
京都郡城井(福岡県京都郡)の神楽城を本拠にして、
その所領は各郡内に広く分布しています。
種遠の娘は宇佐大宮司公通の子公房の妻となり、坂井氏は宇佐宮とともに
豊前国内における平家与党勢力の中心となっていました。

藤原一族の山鹿秀遠も11C初めごろから上級府官を世襲し、
父の粥田経遠は1000町にのぼる広大な領地を所有する筑豊の大勢力となっていました。
この大蔵・藤原一族は互いに婚姻関係を結んで勢力を強め、拡大していきました。

平氏は大社寺の掌握にも努めました。
頼盛が大宰大弐として赴任した時、香椎宮(福岡市東区)は頼盛の所領となり、
宗像(むなかた)大社の神主宗像氏は代々府官をつとめています。
宗像大社は平盛俊(平氏有力家人)が預所として守り、
平氏が両社を把握していました。両社はいずれも荘園領主である一方、
積極的に宋との交流や密貿易を活発に行っていました。
日宋貿易を積極的に促進した清盛の政策と両社の利害が一致したのです。
 

当時、朝廷は外国との交易を禁じていましたが、実際には、九州の武士たちは、
宋や朝鮮半島との貿易を盛んに行い、博多にはチャイナタウンがあったくらいです。
瀬戸内海や北九州で交易を行っていた肥前の松浦党なども平氏の統制下に入り、
壇ノ浦合戦では、山鹿・松浦党が平家方の先陣となって奮戦します。

宗像大社には、平家と宋との交易を伝える阿弥陀経石が置かれています。
清盛の嫡男重盛が宋へ砂金を送りその返礼として重盛没後に阿弥陀経石が
日本へ送られ、宗像大社へ届きました。しかし平氏滅亡のあとだったので
京都へ送ることなく、宗像大社に保存されているというものです。
正林寺阿弥陀経石 平重盛(2)  
『アクセス』「大宰府政庁跡」太宰府市観世音寺4-611
西鉄「都府楼前」駅下車徒歩約15分 無料駐車場は政庁跡入口左側にあります。
『参考資料』
県史40「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年 杉原敏之「遠の朝廷 大宰府」新泉社、2011年
 「特別史跡大宰府政庁跡」財団法人古都大宰府保存協会、2009年 
 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年
武野要子編「福岡 アジア開かれた交易のまちガイド」岩波ジュニア新書、2007年


 



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