平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




湯浅城跡はJR湯浅駅の東方へ約2㎞の国民宿舎湯浅城の南側にあります。
平安末から室町時代初にかけて湯浅氏が本拠としていた城郭です。

青木山の小高い丘にあり、北は急斜面、その北側には中山丘陵が続き、
南は比較的緩やかですが、その背後には鹿ヶ瀬峠・白馬の連峰がそびえ、
西は湯浅湾に面した要害の地にあります。

城跡には土塁、廓跡、堀跡などが残る程度で大部分が破壊されていましたが、
2012年、地元のボランティア団体
「グリーンソサエティー」によって復元整備されました。

国民宿舎湯浅城の4階には、湯浅氏に関する資料が展示されている。と
いうので訪ねましたが、
昨年(2013年)この国民宿舎の経営者が変わり、
資料室は取り払われたということです。

麓から見た標高80mほどの湯浅城跡

屋島合戦に敗れ平家の軍勢が長門方面に敗走した時、
平忠房(重盛の六男)だけは別行動をとり、

湯浅宗重を頼って紀伊國有田郡に向かい湯浅湾に上陸しました。
丹後侍従と呼ばれた忠房は重盛の子で、母は兄の清経、有盛、師盛と
同じ藤原経子です。
重盛の正室経子は藤原家成の四女で、
鹿ケ谷事件の首謀者の一人
藤原成親(なりちか)は同母兄です。
忠房は末子ながら勇敢な武将であったようで、一の谷合戦や
藤戸合戦で奮戦し、都落ちの際には、一行に遅れてまで
妻子と別れを惜しむ異母兄、維盛を急き立てています。

忠房が宗重に匿われていることが知れると、近隣諸国に潜んでいた
上総五郎兵衛忠光や
悪七兵衛景清をはじめ、平家の家人や
残党が忠房のもとに集まり、
これに宗重の家の子郎党も加わり
500余騎の軍勢が湯浅城に籠りました。
頼朝の命を受けた
熊野別当湛増がこの城を攻撃し3ヶ月もの攻防が続きましたが、

守りは堅く容易に落ちません。そこで頼朝は城を囲み兵糧攻めにするよう指示する
一方で重盛には旧恩があるのでその息子は助命すると約束し、文覚に
宗重を説得させます。文治元年(1185)12月8日、鎌倉に送られてきた忠房に
頼朝は重盛の恩を述べて、ついで「都近辺でお住まいをお探しします。」といって
安心させて帰した後、すぐに追っ手にあとを追わせ、近江の瀬田の辺で殺害しました。

『吾妻鏡』文治元年(1185)12月17日条には、

後藤基清(ごとうもときよ)が降人となった忠房の身柄を預った記事が見えます。
平治の乱で捕えられた時、まだ十三歳だった頼朝に同情した池禅尼、弥兵衛宗清、
そして清盛の嫡男重盛までもが頼朝の助命を清盛に嘆願しています。
頼朝が忠房に重盛殿には恩があるといったのはこのことです。


湯浅宗重は平治の乱では清盛に加勢して軍功を立て、その際、宗重の四男
上覚も戦に加わりその後、上覚は出家し文覚の弟子となっています。
宗重は平家の中でも清盛の嫡男重盛との関係が深く、
落ち延びてきた忠房を温かく迎え入れています。
湯浅氏が都落ちした平家一門に積極的に味方していないのは、小松家の公達
(維盛・資盛・清経・有盛・師盛・忠房)が反主流派だったためとも思われます。
『平家物語』は重盛の系統を最後まで平家の正統として取扱っていますが、
実際は重盛の死後、重盛の腹違いの弟の宗盛(時子の子)が清盛の跡を
引き継ぎ、重盛の子らは主流から外された形となっています。

国民宿舎から山田川沿いの道を南へ進むと城跡の表示板が目に入ります。
入口には鍵がかかっていましたが、そこに記された連絡先に電話すると、
ほどなくボランティア団体の方が来て開けてくれました。

日本のお城といえば、大阪城のように天守閣がそびえる近世の城郭を
思い浮かべますが、こうしたお城が誕生するのは戦国時代も終わりごろです。
中世の城郭の多くは、天然の山や地形を利用し、天守や石垣などの大型の
建物を持たない、堀や土塁などで交通路を遮断しただけの粗末な軍事施設でした。




城跡への上り口

入口には鍵がかかり、連絡先の電話番号が書かれています。

上り口に設置されている湯浅城の測量図と鳥瞰図





復元された冠木門(かぶきもん)横木を一本渡しただけの屋根のない門です。



虎口(こぐち)曲輪の出入口をいい、曲輪の裏門の出入口を「搦手虎口」と呼びます。

曲輪(くるわ)山頂や斜面を削るなどして平にした場所で、周囲を堀や土塁で囲んで
防御を固めます。簡素な建物が建てられ兵士が駐在していました。
近世の城では、重要な曲輪から「本丸」「二の丸」「三の丸」などと呼んでいましたが、
中世の城では、中心となる曲輪を「主郭」、
それ以外を「一の曲輪」「二の曲輪」などと呼んでいます。


2012年、全国の湯浅姓の有志を集めてイベントが開催され、
主郭に湯浅宗重の碑が建てられました。


主郭に並ぶ湯浅氏の家紋の入った瓦

二の郭にたつ湯浅城址の石碑



追手虎口は三の丸などの曲輪へ通じる出入り口に
設けられた城門で正門にあたります。

野づら積み 土塁を強化するために自然石をそのまま積み上げた石垣。
土塁(どるい)とは、土を築き固めて盛り上げた土手のことで、
雨が降ると土が崩れるため、積み石で土止めすることもあります。


堀切(ほりきり)尾根筋に沿って進む敵を防ぐため、
山の尾根を断ち切るように作られた堀のことです。
堀は敵の侵入を防ぐため城の周囲に掘られ、近世の平城には
水堀が作られましたが、中世では水が張られてない空堀が一般的で、
山の周囲に流れる川を天然の堀として利用する場合もありました。


堀切と土橋(どばし)
土橋は堀切を渡るために架けられた土の橋で、木の橋を用いることもありました。

敵が攻めて来たときには、木橋を落として防御しました。

木々の間からは湯浅の町並や湯浅湾が望めます。

雑木の中に2㎝くらいの小さなお茶の花が咲いていました。
湯浅宗重の孫明恵が京都高山寺境内、日本最古の茶畑を造園する。(現地説明板より)
湯浅宗重(勝楽寺)  
『アクセス』
「湯浅城跡」和歌山県有田郡湯浅町青木 JR湯浅駅下車徒歩30分
『参考資料』

角田文衛「平家後抄(上)」講談社学術文庫 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書
 
山田昭全「人物叢書文覚」吉川弘文館 高橋修「熊野水軍のさと」清文館 
 富倉徳次郎「「平家物語変革期の人間群像」NHKブックス 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館 

「和歌山県の地名」平凡社 「大阪のお城がわかる本」高槻市立しろあと歴史館



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 醤油の醸造で知られる湯浅町は、平安時代末から鎌倉時代にかけて権勢を誇った
湯浅党の本拠地です。湯浅宗重は平安末期には、平氏の家人として重んじられ、
鎌倉時代に入ると、幕府の御家人に転身し湯浅党の基礎をつくりました。
宗重の四男上覚が、頼朝と深くつながっていた文覚の弟子となっていたために、
頼朝は湯浅一族に対して好意的な態度をとり、諸荘園の地頭職に任命しています。
しかし、南北朝時代には、後醍醐天皇の南朝方に味方したために
南朝の終焉とともに次第に衰退していきました。

平治元年(1159)12月、清盛は次男基盛と三男宗盛それにわずかな供を連れて
熊野参詣に出発しました。その隙に藤原信頼が源義朝を誘って兵を挙げ、
後白河上皇の御所三条東殿を襲撃し、上皇とその姉の上西門院を内裏の中の
一本御書所(いっぽんごしょどころ)に幽閉しました。平治の乱の勃発です。
清盛が六波羅からの早馬でこれを知ったのは、熊野古道沿いの田辺付近でした。

15騎の手勢しか連れてなかった清盛は動転し、初め九州へ落ちて兵力を整えてから
京へ攻め上ろうと考えました。そこに救いの手を差しのべたのが、湯浅宗重と熊野別当
湛快(湛増の父)です。湛快は7領の甲冑と弓矢を提供し、宗重は手勢37騎を
引き連れて駆けつけ、直ちに上洛するよう進言しました。清盛はこの進言を入れ、
急ぎ京へと引きかえし、この乱の勝利者となりました。
一介の小豪族に過ぎなかった宗重は、これを機に平氏の有力家人のひとりとなり、
同族らを統率して紀州最大の武士団を形成していきます。

一方の湛快も平氏との結びつきを強めます。『愚管抄』によると、
平治の乱の際、13歳の若武者上覚は、父宗重が率いる37騎の1人として
清盛に加勢し、宗盛に鎧(小腹巻)を着せています。
ちなみに腹巻とは、小形で袖がなく胴をまとうだけの簡単な鎧のことです。
『平家物語・巻10』には、妻子恋しさに屋島を抜けだした維盛(重盛の嫡男)が
紀伊の湊に上陸した後、高野山に上って出家し、次いで熊野に向かう途中、
平家方だった湯浅宗光(宗重の子)に出会うエピソードが見えます。
山伏姿に身をやつした維盛主従は、千里の浜の北・岩代王子の辺で
狩装束の武士の一行に出会いました。「もはやこれまで」
自害しようと
それぞれ腰の刀に手をかけましたが、一行は馬をおりてうやうやしく道をよけ、
維盛の変わり果てた姿に袖を濡らしたのでした。


国道42号線のバス停「紀文茶屋」の近くに、勝楽寺(西山浄土宗)があります。

三叉路にたつ道標

拝観(要予約)0737-63-2118

草創は明らかでなく、現在は新しい本堂と庫裏があるだけの小さな寺ですが、
本堂収蔵庫には、平安後期から鎌倉時代にかけての仏像十体が安置されています。
そのうち平安後期の本尊木造阿弥陀如来坐像をはじめ、木造薬師如来坐像、
木造四天王立像や、鎌倉時代の木造釈迦如来坐像、木造地蔵菩薩坐像 
計八体の仏像は、いずれも国の重要文化財に指定されています。
特に阿弥陀如来・地蔵菩薩は坐像ながら高さが2m以上もあり、
これらの仏像の存在だけでも、当時の勝楽寺の威勢が察せられます。
寺は湯浅氏の庇護のもと大いに栄えましたが、その没落と共に衰退していきました。
『和歌山県の地名』等によると、慶長3年(1598)豊臣秀吉の命により、
勝楽寺の本堂は解体されて京都醍醐寺に移築されました。
現在、同寺の金堂(国宝)として当時の姿を伝えています。


醍醐寺金堂
五大力さんの「餅上げ力奉納」が毎年2月23日金堂前広場で行われています。

金堂内陣 薬師如来坐像(重文)



かつての勝楽寺は、この巨大な本堂を中心に七堂伽藍が立ち並び、
境内には熊野古道が通っていました。



また、江戸元禄期に一代で巨万の富を築き、それを一代で使い果たした
紀伊国屋文左衛門生誕地の碑が勝楽寺境内にたっています。

文左衛門は湯浅町別所出身といわれています。

ある年、大豊作のみかんを江戸に運ぼうとしましたが、その年の江戸への
航路は嵐に阻まれ、運べなくなったみかんは上方商人に買いたたかれ、
大暴落しました。これに目を付けた文左衛門は、大金を借りて船を修理し、
ただ同然でみかんを
仕入れ、そして船頭を説得し、死をも覚悟して
幽霊丸と名づけた船で嵐の中を江戸へと漕ぎだしました。 
この船出が後に江戸随一の豪商にのしあがる基礎となり、のち材木商として
江戸に進出し、持ち前の才略と機知を駆使し、財をふくらませていきました。
ワイロ作戦で念願の幕府材木御用達商人となり、巨万の富を得た文左衛門は、
吉原で大尽遊びを競った話などの豪遊伝説が残っています。
しかし、文左衛門の末路は数多くの異説があり謎につつまれています。
平忠房の最期(湯浅城跡)  
『アクセス』
「勝楽寺」和歌山県有田郡湯浅町別所165 JR湯浅駅下車徒歩約20分 
『参考資料』
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 山田昭全「人物叢書文覚」吉川弘文館
 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 県史30「和歌山県の歴史」山川出版社
 「図説和歌山県の歴史」河出書房新社 「和歌山県の地名」平凡社
「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
神坂次郎「熊野まんだら街道」新潮文庫
「産経新聞朝刊」平成17年9月29日(きのくに時空散歩44)

 

 

 

 

 

 



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10年ほど前の平成16年10月23日サンケイ旅行会主催の「熊野古道ウォーク」に参加し、
那智大社・青岸渡寺から大門坂を経て補陀洛山寺までの7km余
を歩きました
途中には、平宗清の荷坂の五地蔵、尼将軍供養塔などの史跡があり、
ゴールの補陀落山寺では、ご住職から境内に展示されている
補陀落渡海船(復元模型)について説明していただきました。

ここまでは熊野那智大社 青岸渡寺  文覚の滝 (飛瀧神社) 
実方院跡  熊野古道大門坂 をご覧ください。

大門坂からバス道に出て道標に従って左折し、那智川に架かる二ノ瀬橋を渡り
そのまま進むと小学校の先にこんもりとした森が見えてきます。
市野々王子神社です。その隣には周囲を石垣に囲まれた「お杉社」とも
「お旅所」ともいわれる市野々王子跡地があり、
天照大神が姿を現わしたという「影向石」があります。












集落の中の道を辿るとやがて補陀落霊園が見えてきます。その傍に
「荷坂の五地蔵」があり、すぐ先には「尼将軍参道入口」の碑がたっています。


斜面にたつ荷坂の五地蔵の説明板
「平弥平兵衛宗清が石屋の弥陀六(やたろく)と名を替えて
一の谷の合戦で亡くなった笛の名手平敦盛(清盛の弟経盛の子十六才)を
供養するため作ったと伝えられています。
宗清は平治の乱(1159年)の後捕えられた幼い頃の頼朝の命を
助けるよう働いた人。後に頼朝は優遇しようとしたが固辞し
屋島の戦いにも参加したが寿永三年(1184年)以後の消息は不明。
平成十六年度 和歌山県地域ひと・まちづくり補助事業
グランドデザイン那智勝浦」


平弥兵衛宗清は、平家の一族で池禅尼の侍です。
平治の乱の敗戦によって頼朝は父義朝に従って東国に向かいました。
義朝一行は不破の関を避けるために伊吹山に分け入りますが、雪が深く
途中で馬を捨て徒歩で山を越えようとします。しかし頼朝は大人にはついていけず
迷子になってしまいました。この頃、尾張守頼盛(池禅尼の子)は、宗清を目代として
任地に下向させます。青墓宿に着いた宗清は、頼朝を見つけて京都に護送し
身柄を預かりますが、やがて頼朝の助命に奔走するようになります。
『平治物語』によると、頼朝が早世したわが子家盛に生き写しだと
宗清に聞かされた池禅尼が清盛に助命嘆願した結果、
頼朝は死罪を免れ配流されることになったとあります。

実際は、頼朝が仕えていた上西門院(後白河院の同母姉)や頼朝の母方の親族

熱田宮司家らが動き、もともと上西門院と親しかった禅尼に働きかけた。
と推測される。ということは池禅尼と頼朝で述べさせていただきました。 

頼朝が伊豆に流される際、宗清は名残を惜しみ近江篠原まで見送っています。

頼朝はこれらの事を終生恩義に感じ、平家都落ち後も頼盛一家を特別視し、
頼盛と共に宗清も鎌倉に招きます。しかし、宗清はそれを潔しとせず一門と
運命を共にしました。頼盛と別れて屋島の宗盛のもとに馳せ参じます。
引き出物を用意し、宗清を心まちにしていた頼朝は、残念がりその意地に
眉をひそめたような言葉を述べたと『平家物語・巻10』は語っています。
その後の宗清の消息は明らかではありませんが、
荷坂峠の説明板によると生きのびて敦盛の供養をしたようです。
青墓(源頼朝・平宗清・夜叉御前) 


荷坂の五地蔵から道標に従って峠道を上ると杉林の中に祠があります。
これが尼将軍供養塔です。


北条政子は尼御台として弟の時房をともなって二度熊野参詣をしています。
一度目は承元2年(1208)頼朝の死から13年後のことです。
この間、頼家が修善寺で亡くなり、将軍は実朝に変わっていました。
亡き夫や子の冥福を祈ることもあったでしょうが、熊野権現に実朝の
後継者誕生を祈願することも目的の一つだったでしょう。

そして二度目は建保6年(1218)時房と政所執事二階堂行光を
従えての熊野詣でした。すでに政子は62歳になっていました。
京都で2ヵ月余りを過ごし、その間に熊野詣に出かけています。

実朝には子供がなく、将軍後継者を視野に入れての滞在です。
京都では藤原兼子に面会しています。この時の政子と兼子の会談の席で
「兼子が後鳥羽上皇の皇子を下すことを内々に約束した。」と慈円は推察しています。
兼子は後鳥羽天皇の乳母となって当時、権勢を振るっていた女性です。

兼子の姉範子は、夫の法勝寺の執行(事務長)能円(平時子の兄弟)が
平家一門とともに西国へ落ちて後、源通親に再嫁しました。
能円との間に生まれた在子を後鳥羽天皇に入内させ、
在子はその後、土御門天皇を生んでいます。


この祠からじめじめした道を下ると長谷川の土手に出ます。
途中で橋を渡り那智川沿いの県道を進みます。標識に従って県道を離れ
左手集落の中の道を少し歩くと、ゴールの補陀洛山寺の裏門が見えます。




ここからは平維盛供養塔(補陀洛山寺) 
維盛入水1(浜の宮王子跡・振分石)
をご覧ください。
『参考資料』
渡辺保「北条政子」吉川弘文館 上横手雅敬「鎌倉時代その光と影」吉川弘文館
 関幸彦「北条時政と北条政子」山川出版社 新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店



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大門坂は大門跡に向かう熊野那智大社への参詣道です。
熊野詣の人々が歩いた石畳が昔の姿のまま残り、
熊野参詣の歴史が色濃く残る古道のハイライトです。

大門坂バス停から案内板に従って古道に入ると、左手に「大坂屋旅館跡」、
赤い欄干の「振ヶ瀬橋」が見えてきます。




南方熊楠が3年間滞在した大坂屋旅館跡

南方熊楠は大坂屋旅館の離れを常宿として、
那智原生林の菌類・藻類などの採集研究をしていました。

ここからが那智山の聖域で、この橋は神域と俗界を分ける振ヶ瀬橋です。
橋を渡ると石畳と170本もの杉並木が続きます。


鏡石を過ぎるとやがて樹齢800年の夫婦杉が坂の両側に見えてきます

夫婦杉とよばれる幹周囲8.5mの2本の大杉です。

鬱蒼と茂る杉並木には、幹が祠となった大木もあります。



夫婦杉手前の大門坂茶屋では、平安衣装の貸出(1時間2千円)を行っています。

大阪から来られたという娘さんに夫婦杉をバックにモデルをお願いしました。

夫婦杉の近くには多富家王子跡」があります。
九十九王子の最後の王子社で、樹叢や峠の神仏に
「手向(たむ)け」をした
場所と考えられています。
江戸時代には社殿がありましたが、明治10年、
熊野那智大社の
境内に末社「児宮(ちごのみや)」として合祀されました。


熊野古道沿いには「九十九王子」とよばれる社が等間隔に置かれ、

奉幣・読経などの宗教行事の他、休憩地としても利用され、
時には歌会なども開かれて長い旅の疲れをほぐしました。

鎌倉積みの石段は苔むし1町ごとにたてられた小さな町石が所々に残っています。(2町)
ここから右手の小道を下りると、バス停「大門坂」があります。(2、3分)

大門跡手前にある唐戸石、そ
の上には小銭がたくさん置かれています。

大門坂を上りきると那智の滝が見えます。
熊野の自然に宿る神に会うために、やっと辿りついた
巡礼者たちはどのような思いでこの大滝を眺めたのでしょう。

かつて坂を上りつめた所には、仁王像がたつ大門があり、

通行税を徴収していましたが、今はなく那智山駐車場に出ます。
その先には土産物街があり、にぎやかな門前町の風情を漂わせています。
ここからさらに473段の石段を上ると、標高約500mの
高台にある熊野那智大社社殿に到着します。

南方熊楠は 和歌山市生まれですが、後半生を田辺で過ごしています。
毎日のように熊野の山々を歩き、植物を採集して粘菌の研究に没頭、
苔の新種を見つける大発見をしています。

明治39年「神社合祀令」が出されると、その反対運動に奔走するようになります。

そのために費やした時間とエネルギーは膨大なものでした。
「神社合祀令」とは、由緒ある神社を保護し、小さな社は1町村1社を原則として、
神社を整理統廃合する計画です。これが発令された時、熊野の森や鎮守の森も
伐採の危機に直面しました。社叢には神木としてヒノキなどの巨木が多くあり、これが
払い下げられて伐採され、利権の対象となりました。
強引に合祀が進められていく中、
熊野の森を守ったのが南方熊楠でした。

熊楠は合祀推進の官吏が来ている
県の講習会に押しかけて
家宅侵入容疑で拘束される一方で、
民俗学者の柳田國男・和歌山県知事を通じて
合祀反対のパンフレットを政官界に配布、

地元紙「牟婁(むろ)新報」にも、神社合祀反対の意見を発表し、
その主張を地元民に広めました。熊楠が展開した反対運動は
多くの支援者の支持を得て、神仏合祀令はしだいに沈静化していきました。
『アクセス』
「大門坂駐車場」JR紀伊勝浦駅又はJR那智駅から熊野交通バス20~25分
「大門坂駐車場」から「那智山駐車場」まで 徒歩約35分
『参考資料』

「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 「和歌山県の地名」平凡社
産経新聞朝刊「こころ紀行・世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」 平成16年7月~11月掲載記事
梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社 別冊宝島「図解聖地伊勢・熊野の謎」宝島社

 

 

 



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