ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

こんなことを呼び掛けると非難されるが、被曝して傷つく子供達の痛みを思うと私などなんでもない!

2012年09月29日 | 日本とわたし
緊急呼びかけ!!福島市の「まるごと博」の自重を求む
武田邦彦

2012年9月27日の読売新聞に、福島市が行う、「まるごと博」の記事が大きく出ていました。
「福島原発事故の、風評被害を吹き飛ばすため」とありましたが、
読売新聞には記事の訂正を、
福島市には中止を、
福島市民には不参加を、呼び掛けます。

まず第一に、被曝は危険です。
本格的な病気に発展するかは別にして、普通なら、100人に1人の甲状腺異常が、福島の女子小学生で54人、女子中学生で55人です。
チェルノブイリでは、26年経っても、甲状腺ガンが増えていることを考えると、お子さんを持つお母さんのご心配は、いかばかりでしょう。
このような人たちを、増やそうとしているのです。

福島市を汚染したのは、東電であり、福島市の人ではありません。
このまま、このようなことをすると、福島市民が加害者になります。
放射線障害が出る可能性が高く、そうすると、福島市の人は、傷害罪と同じです。

すでに、法令で、「被曝をできるだけ少なくすること」となっていて、それを、社会人が知らない、とは言えません。
法令は、「お上」が決めるのではなく、国民(福島市の人、日本国民)の合意です。
つまり、福島の「まるごと博」に、福島市民が参加したら、国民の合意を破り、病気の人がでたら、福島市民が加害者になります。

「まるごと博」の会場前で、デモをしてピケを張ってください。
自分が被曝を避けられないから、他人を被曝させるというのは、日本人の気持ちではありません。

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第二に、風評被害ではありません。
法令では、一般人の被曝限度は、1年1ミリであり、福島市では、それを超えます。
福島市の人が、そこにお住みになるかは個人のご判断ですが、それを、「風評被害」と称して、他人を呼び入れるのは、違法であり、善良な市民がするべき事ではありません。

日本国民を被曝させて、生活を守るのではなく、東電と国に、保障を求めるべきです。
自分が交通事故にあったから、他人を車ではねても良い、ということはありません。
交通事故の被害が大きくても、あくまで補償を求めるべきであり、
「俺は傷ついたのだから、他人を傷つける」というのは、善良な日本人が、することではありません。

福島市の皆さん! 
苦しいことは分かるつもりですし、除染もできるだけ早くやって、綺麗な福島を取り戻すために、私も全力を挙げます。
でも、被曝者を増やすことは、賛成できません。

是非、中止してください。
原子力関係者、お医者さん、教育関係者、公務員の皆さん、協力してください。
健康を守り、法令を守ること、それは、とても大切なことです。
他人を、法令違反の範囲に呼び込んで、お金を儲けても、何もなりません。
辛い反省の一生が、残るだけです。

私も、こんなことを呼び掛けると、非難されますが、被曝して傷つく子供達の痛みを思うと、私などなんでもありません。
法令を守る人を、バッシングする人など、軽蔑するばかりです。
一致団結して、子供を守りましょう!!

(平成24年9月28日)

武田邦彦

「このただれ切った日本の方向を変える力は、人々の意志と良心的医師たちの活動に委ねられる」広河隆一

2012年09月29日 | 日本とわたし
『DAYSから視る日々』に掲載されていた、広河隆一さんの言葉を紹介します。
わたしの思いをすべて、言葉にしてくださっていました。

↓以下、転載はじめ

最初の小児甲状腺がんの症例の報に接して(広河隆一より)

本人もご家族も、どんな思いで、医師の宣告を受けたのだろうか、どれほどの不安と、恐怖にさいなまれているのだろうか。
せめて医師は、患者の身になって、告知したのだろうか。
それとも、事実は学者のデータ管理庫の中にあって、本人家族には、まだ告げていないのだろうか。

チェルノブイリでは、検査の結果は、親に伝えられた。
しかし、多くの親は、検査結果を子どもに告げることができなかった。
「がん」という言葉は、大人でさえ耐えられないほどなのに、子どもには重すぎる。 
しかし、子どもが、自分の診断書を見つけて、知ってしまうこともあった。
子どもが知った後、泣き明かす母親を、慰める子どももいた。
子どもに襲いかかった事実に、父親が耐えられず、アル中になったり、離婚するケースが相次いだ。
母親と子どもが、残されたケースも多い。

今回、検査を受けたのは、18歳以下の8万人だという。
その子どもたちの多くは、「自分ももしかしたら」と考えているかもしれない。
次の検査で、自分が宣告されるかもしれない、と考えている子どもも多いに違いない。

権威を振りかざす医師や、医師会や、自治体や政府が、「安全」を説くのが自分の役割だと考え、
子どもが、放射性ヨウ素で被曝するのを、予防する仕事を放棄した。
安定ヨウ素剤を与えると、不安をあおってしまい、自分たちが、それまで安全だと言ってきたことが、嘘だということになってしまう。
事故があり、ベントが決定され、被曝の危険性が高まることが分かっていても、子どもや妊婦のために、当然やらなければならないことをやらなかった。

原発事故が起きたら、すぐに何をしなければならなかったかは、専門家でなくても、誰でも知っている。
安定ヨウ素剤を飲むことと、妊婦、子どもの避難である。
それを、権威者はやらなかっただけでなく、むしろ、妨害したケースさえある。
ある医師は、安定ヨウ素剤を、大量に注文した。
しかしそれは、医師会にストップされた。
これら医学界の犯罪は、メディアの犯罪調査とともに、まだ手に付けられていない。

この程度の被曝では、安定ヨウ素剤が必要ないと、彼らは考えた。
しかし、彼らも含め、すべての関係者は、どれほどの放射能が放出されるか、知らなかった。
医師も政府も東電も、分からなかった。
そして、安定ヨウ素剤は、放射能が来る前に、呑まなければ効果がない。
結果的に、多量の放射性ヨウ素が、襲ったと分かってからでは、すべて後の祭りなのだ。
そうしたことが起こらないように、事前に服用するのが、安定ヨウ素剤なのである。
そんなことを知らない医学者はいない。
だから、医学者たちが今回行ったことは、判断の間違いというより、犯罪である。

発表された、子どもの甲状腺がん発症は、放射能のせいではない、と医学の権威者は言う。
「なぜなら、チェルノブイリでは、事故から3-4年後になって、病気が急増したからだ」という。
しかし、実際には、チェルノブイリの事故の4年後に、日本の医学者たちは、小児甲状腺がんの多発を、認めなかったではないか。
「広島や長崎では、小児甲状腺ガンは、十年以上たってから現れたから、これほど早く発症するはずがない」と、あの時彼らは言った。
彼らは、自分たちの知っている知識や経験を超える、「万が一」という言葉を嫌う。
「万が一」に備えることを、恐れる。
自分たちの限界を認めたら、学会のヒエラルキーは崩壊する。

しかし、親が子どもを思う時、何よりも、「万が一」で行動するものなのだ。
そして、チェルノブイリ事故でも、スリーマイル事故でも、母親たちの懸念のほうが、医学者や政府や電力会社の判断よりも、正しかったことが証明されている。
 
今回の、小児甲状腺がんの発症は、時期が早すぎるため、放射能とは関係ない、つまり、原発事故とは関係ないと、医学者たちは言う。
そして、8万人に一人という数字は、ふつうでもありうる数字だと言う。
しかし、これまで彼らは、小児甲状腺がんは、100万人に一人しか現れないと、繰り返し発言していたのではなかったか。
8万人に1人、発症するのが普通だというなら、福島県の子どもの人口30万人余に対して、
これまで毎年、平均して3-4人の小児甲状腺がんが現れていた、とでもいうのか。
そんなデータは、あるはずがない。
 
この、ただれ切った日本の方向を変える力は、人々の意志と、良心的医師たちの活動にゆだねられる。
そして、「万が一」にしろ、被害者がこれ以上増えないようにすることに、すべての力を結集すべきで、取り組むべきである。
子どもたちを守るために。

福島のこども支援プロジェクト「沖縄・球美の里」代表
DAYS JAPAN 編集長
広河隆一

禅と道教から、ふたつのお話

2012年09月29日 | 友達とわたし
小さな子供が読む絵本に、禅の教えを英語で簡単に書いたお話があった。

年老いた僧侶と、彼の若い弟子が、嵐の後で水かさが増した川を、渡りきれずに困っている女性に出会った、という話だった。

『年老いた僧侶が女性の荷物を、そして若い弟子が彼女を背負い、強い流れに押し流されそうになりながら、やっとの思いで向こう岸に着くと、
その女性は、礼を言わなかったばかりか、しぶきで濡れた荷物や服の文句をぶつぶつつぶやきながら、さっさと去ってしまった。

若い弟子は、その失礼さに激怒したが、隣の僧侶が素知らぬ顔をしているので、その怒りを口にすることはできなかった。

随分経って、歩き疲れた足を休めようと、ある茶店に入った時、今だに怒りが冷めやらないままの弟子が、とうとうこう言った。

「まったく、なんて失礼な女だったんでしょう。あなたはよく、平気でいられますね」

すると僧侶は、少し驚いたような顔をして、しげしげと弟子の、怒りで充血した目を見つめ、こう言った。

「なんだ、おまえはまだ、あの女性をおぶっておったのか……」』



わたしが今の旦那と一緒に暮らすようになってから、こういうふうなことを何回か言われたことがある。
なんでずっと怒ってるのか?と。
ある時など、どうしてそこまで腹が立つのか?と聞かれたこともあった。

わたしはその問いに、答えることはできなかった。
どうしてって聞かれても、腹が立つから腹が立つのだ、としか答えようがなかった。

怒り方はともかく、怒っている時間が長過ぎる。
これについては仕方がない。完璧に親の模倣なのだから。
いったん怒るべきことがあると、くどくどと、時間をかけて、怒りをこねくり回して固め、心の中の引き出しに入れていき、
それを、折に触れて、自分の出したい時に出してきては、まだ熱が残っているそれを、見せたい人に披露する。
そういう作業を延々と続けている母の姿を見て育ったので、それが正しい怒り方だと思い込んでいた。

そんな、ある意味いびつな心の持ち主だったわたしを、長い年月をかけて矯正してくれたのは旦那なのだった。

怒る時間が3日から2日、1日から半日、そして数時間から1時間、そしてついに、ほんの10分ぐらいまでになった今では、
あの、火鉢の中の練炭のように、見た目はくすんだ灰色なのに、芯はふつふつと熱い心を持て余しながら、長い時間を過ごさなくてもよくなった。

身体にも心にも、かなり負担が少なくなったと思う。

先の僧侶が呆れたように、わたしも、長い長い時間、背負い続けていた。

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昨日は、気功瞑想と道教を学ぶクラスに行った。

立ち瞑想と座位瞑想の後、いつも道教の本から1ページだけ、皆で違う翻訳の本を読み合い、書かれている意味について話し合うのだけど、
昨日は、瞑想が終ってすぐに帰らなければならない人ばかりで、またまたミリアムとわたしの二人きりになった。

「今の日本の政治家に、欠けているものは、倫理と正義を持った行動を実行するための勇気だと思う」とわたしが言うと、
ミリアムは、首を傾げて、「正義って?」と聞いた。
聞かれた意味がわからなかったので、黙っていると、
「正義は、ただ眺めているもので、持てやしない」と言う。
さらにわからなくなったので、どういう意味かを聞いてみた。

正義というのは、人間が作り上げた言葉で、そこに意味なんか無い。
いったい何が正義で、何が正義でないか、そこに線引きができる人などいない。
法律と一緒で、政治的に、人を管理しなければならないような場所にだけ、正義という言葉は存在する。
例えば、ライオンとシマウマがいて、ライオンはシマウマを追いかける。追いつけば噛み付く。そして殺す。

動物と人とは違う。
人の道というのは特別である。
ちゃんちゃらおかしいと、ミリアムはさらりと言った。

殺生をすることで比べてみればわかる。
そうしなければ生きていけない自然界に生きる動物と、そうしなくても生きていけるのにも関わらず、どの生き物よりも活発に行う人間。
生き死にには関係が無いのに、物欲や怒りを理由に、互いを殺し合う人間。
本能で考えれば、助けて当然の、困り果てている同朋を、助けようと決めさえしたらいくらでも助けられるのに、他人事のように無視できる人間。

正義という言葉は、大きな権力を持った人間が、自分の仕組んだ、殺し合いや潰し合いのゲームを、権力を持たない人間にさせる時によく使われる。
ただそれだけ。
別に、なんの大した意味もない。
だからわたしは、眺めていることにするの。
そんなものを持たされたが最後、どうせろくなことにはならないゲームの駒に使われてしまうから。

だからまうみ、正義なんてことを、他人に期待してはだめ。特に、権力を持った人間にはね。
そして、正義という言葉が巷で溢れ出したら、その時は、その場所からできるだけ遠くに離れなさい。

あのね、正義には怒りがセットでくっついてるの。
まうみが今、あの日以来ずっとやってきたことは決して間違っていない。
でもね、自分の中に、正義という言葉があると思っているのなら、それだけは消してしまいなさい。
怒りはろくな事につながらない。
怒りは人間をほとほと疲れさせてしまう。

自然とつながること。
自分を無にして、大地と空との間にいる、ちっぽけな自分を感じなさい。
そして、自分がどんなにちっぽけか、それをしみじみ笑いなさい。
そしたらきっと、元気が出てきて、よし、もっともっと頑張ろうって気持ちになるから。