ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

戦争の無い世界をつくる使命を授けられた人、「おてんてん」な笹森しげ子さんとの出会い

2016年04月30日 | 日本とわたし
夫とわたしがワシントンD.C.から戻った日曜の夜、彼女と歩美ちゃんは台所にいて、お茶を飲みながらくつろいでいた。
小柄な彼女は、椅子から立ってもちっちゃくて、そのちっちゃい体をペコンと折って、「おじゃましてます」と微笑んだ。
その可愛らしいこと。
わたしはいっぺんに好きになって、ばばちゃん(彼女のあだ名)大好き!と、心の中で叫んでいた。
彼女の名前は、笹森恵子さん。
恵子と書いてしげこと読む。
今年84歳になる彼女は、13歳の夏、真っ青に晴れた空を、銀色の光をキラキラ輝かせて飛ぶ『Bちゃん』から落とされた、世にも恐ろしい破壊力を持つ爆弾の、爆心地に立っていた。

歩美ちゃんから彼女のことを聞いた時、わたしはいつもの早とちりをして、日本からこちらにいらっしゃったのだと思い込んでいた。
でもそうではなくて、彼女はカリフォルニアに暮らしながら、世界平和の実現を使命に持ち、広島での体験を各地で語り続ける人なのだった。
彼女と出会った日曜日の夜から水曜日の朝までのことを、わたしはきっと一生忘れないし、これからもまた、もっと一緒に時間を過ごしたいと思っている。


原爆というものが、そしてそのような化け物を作ろうと考えた軍隊というものが、そしてその人殺しを実行するのが当たり前という狂った認識が正しいとされる戦争というものが、わたしは憎くて憎くてたまらなかった。
まだ漢字がそれほど読めないぐらいの頃から、図書館に行っては、原爆についての本を読んだり見たりしていた。
読んでいるうちに、文字や写真がぼやけてきて、涙をポトポトとページの上に落としているのに気づいて、慌てて拭いたりした。
それはそれはたくさんの本を読んだつもりでいたけれど、しげ子さんのような経験をした、25人の女性のことを、わたしは全く知らずにいた。
『原爆乙女』と、しげ子さんたちは呼ばれていた。
こちらでは『HIROSHIMA MAIDEN』
しげ子さんは、「この『原爆乙女』という呼び名が嫌いだった」と言った。
わたしも嫌いだ。

話しても話しても尽きることのなかった話を、自分の頭の中で整理して、なんとかまとめようと思うのだけど、気持ちが絡み付いてしまってうまくできない。
けれども、ばばちゃんを空港で見送った後、彼女のことをもっと深く知りたくなって、自分で読んだたくさんの記事の中に、話したことが散りばめられていたので、その中から数件、ここに紹介させてもらう。

↓転載はじめ

記憶1 笹森 恵子さん
被爆した10年後、手術のため渡米。
平和のため使命を持って、広島の体験を語る。

【戦争の記憶・Memories of War2015.9.25
http://memories-of-war.com/m1-shigeko-sasamori/


笹森 恵子さん
ささもり・しげこ/1932年6月16日広島生まれ。
アメリカ・カリフォルニア州在住

1945年8月6日、13歳で被爆した笹森恵子さん。
真っ青な空に、銀色の飛行機が、キラキラと輝き、白いものが落ちてきた…。
その瞬間のことは、鮮明に覚えているという。
大火傷を負った恵子さんだが、両親の献身的な看護で、なんとか回復することができた。

10年経って、ケロイドの手術のために、アメリカに渡ることとなり、その後、アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんの養女に。
「それもこれも神様の思し召し」という恵子さんの体験と、平和への想いを聞いた。

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銀色の飛行機から白いものが落ちるのを見た

──恵子さんは広島ご出身ですね。1945年8月6日は、どこで何をされていましたか?

当時、私は女学校一年生で、13歳でした。
その頃すでに、東京や大阪には、傷痍爆弾が落ちていて、大火事でたくさんの方が亡くなっていました。
私がいた広島にも、B29はしょっちゅう来ていました。
でも、爆弾はまだ落とされたことはなかったので、B29が見えても、慣れてしまっていましたね。

当時、「建物疎開」といって、爆弾が落ちたときに逃げやすいように、建物を壊して間引いていたんですね。
若い男たちは兵隊にとられていますから、建物を壊すのは年寄りや女性です。
瓦礫の片付けをするのは、中学1、2年生でした。

その日は、私たちの学校が、はじめての作業に当たっていました。
朝8時に集合し、これから作業にあたろうというときに、飛行機の音がして、私は空を見上げました。
雲ひとつない、真っ青なきれいな空でした。
銀色にキラキラ光る飛行機が、白い飛行機雲を出しながら、飛んでいます。
私は、近くにいたクラスメイトに、「見てごらん、きれいよ」と言って、空を指さしました。
その瞬間、白いものが落ちるのが見えました。
あとから聞いたら、爆弾がついた落下傘だったのです。
ものすごい爆風が起こりました。
そして私は倒されました。

私がいた場所は、爆弾が落ちた中心地から、1.5㎞以内にありました。
今で言うと平塚町です。




──その瞬間は、爆弾が落ちたということもわからず、怖いとか痛いといった感覚もなかったのでしょうか。

ええ。
だから、中心地にいた人たちは、一瞬のうちに丸焦げで、熱いも痛いもなかったんじゃないかと思います。

私の姉は、「太陽が地球に落ちたのかと思った」と言っていました。
姉たち上級生は、軍の仕事をするため、海田にある工場にいました。
大きな音がして、何事かと思って建物から出て見たら、大きな火の玉が沈んでいくのが見えたと。


──僕たちはいわゆる「きのこ雲」をイメージしますが…。

雲が見えるのは、最後なんじゃないかしら。
火の玉が見える前に、私は飛ばされたわけですが、火の玉のあとに雲ができるんだと思います。
雲の前に、赤い火柱を見たという人もいます。

私は、長い時間、気を失っていました。
意識が戻ってから周りを見たら、真っ黒でした。
暗いのではなくて、黒いのです。
大火傷を負っていたのに、何も感じませんでしたね。
真っ黒の中にしばらく座っていたら、霧が出てきたように、少しずつ明るく、グレーになってきました。
ああ、きっと、近くに傷痍爆弾が落ちたんだ、と思いました。

「爆弾が落ちたときは、大人について行け」と言われていましたから、とにかく、近くを歩いている大人について行こう、と思いました。
着ているものがボロボロだったり、足を怪我していたり、火傷で皮膚がめくれ、ピンク色になっている人たちが、歩いていました。
川のほうへ向かっていたんです。

川べりまで来ると、たくさんの人が集まっていました。
川の中にも、人が大勢入っていたので、水が見えないくらいでした。

「ぎゃーん」
ふと、赤ちゃんの泣き声が聞こえました。
ーまうみ注ー
この母子とも焼けただれていた。
母親はそれでも、なんとかして赤ん坊にお乳をあげようとしていたのだそうだ。
しげ子さんの耳には、その赤ん坊の泣き声が、今もはっきりと残っている。


周囲のざわめきも聞こえてきました。
それまでは無感覚で、何も聞こえなかったんです。
音が聞こえるようになっても、自分の火傷には気づきませんでした。
体の4分の1が、焼けていたんですけどね。

橋を渡って、避難所になっている小学校へ行きました。
大きな木の下に座ったら、そのまま倒れてしまったようです。
いつの間にか、講堂に運ばれ、私はそこに5日間いました。

目が開かなくて、昼も夜もわからないのですが、とにかく、
「千田町一丁目の新本恵子です。お水ください。両親に伝えてください」と叫びました。
だんだん、声を出すのもしんどくなってきます。
あともう1回だけ、もう1回だけ叫ぼう。
そうしたら、誰かが聞いてくれるに違いない。
そう思いながら、声を出していたことを覚えています。

結局、お水はもらえませんでした。
それで良かったんです。
大火傷を負っている人に、お水をあげてはいけないそうですね。
お水を飲んで、「ああ、美味しい」と言って死んだ人が、たくさんいるそうです。

母は、焼け跡に毎日通い、私の名前を呼んで、探していたそうです。
火傷をした人の収容所があると聞けば、そこまで歩いていって探しました。
似島へも、船で行きました。
でも、見つからなくて、また帰ってくるんです。


「炭団」のような私を、母が見つけてくれた



私たちは家が二つあって、「夏の家」と呼んでいたほうの家は、川沿いの魚市場の近くにありました。
そちらの家は、たまたま魚市場の陰になって、爆風でも倒れませんでした。
当時、母は、ここにいたんです。
家の中で飛ばされ、起き上がってから外を見てみたら、周りの家がぺたんこにつぶれていたそうです。

そこから、普段、私たちが暮らしていたほうの家の、二階ベランダ部分が見えました。
それで、母は、ぺたんこになった家々の屋根を歩いて、行ってみました。
でも、やはり潰れていて、どうすることもできません。
隣の家の人の声が聞こえますが、どこにいるのかわかりません。
瓦礫をどかしてもどかしても、人らしき姿は見えません。
そうこうしているうちに、あちこちから火の手があがり、母のいる場所にも火が近づいてきました。

「ごめんねぇ。どこにいるかわからないの」

お隣さんを助けることができないまま、母は、その場を去らざるをえませんでした。

父は、その時ちょうど、外にいました。
前の日に釣りに行ったので、ご近所のおじいさんたちのところに、魚を持って行っていたのです。
そして、私と同じように、飛行機から、白いものが落ちるのを見たそうです。

「爆弾落ちたから、逃げえ!」

おじいさんたちにそう叫んで走り、魚市場にある、大きなセメントの冷蔵庫へ、すべりこみました。
爆音が消えてから、外の様子を見てみたら、さっきまで一緒にいたおじいさんたちは、座った格好のまま、皮膚が真っ赤に焼けただれていたそうです。

一瞬遅かったら、父もそうだったのでしょう。

両親と家が無事だったおかげで、私は良くなることができました。
家で、両親が、治療してくれたんですから。
薬もないし、病院はいっぱいだし、私は、食用油で治療してもらったんです。


──想像もつかないような体験をされたんですね。

想像できないでしょう?
元気になってから、自分がどのような状態だったのか、母に質問したんですが、いつも「今度ね」、と言われていました。
年をとってから、ようやく教えてくれたんです。
だからいま、こうしてお話ができるわけ。

避難所の講堂は真っ暗で、母は、ロウソクを1本持って、「しげこ~しげこ~」と、名前を呼びながら探したそうです。
そうしたら、蚊の鳴くような声で、「ここよ~」と言ったと。
ハっと声の主を見ても、それが本当に娘なのかどうかわかりません。
「炭団(たどん 炭を丸めた燃料。黒く丸く、ざらざらしている)のようだった」、と言っていました。
私の顔は、黒く腫れ上がっていて、目も鼻もわからなかったんですね。
もちろん、髪も焼けてしまっていました。
でも、おかっぱにしていた髪の毛のおかげで、額の上半分と頭の部分、耳のあたりの皮膚は、焼けていませんでした。

父は、黒く焼けてしまった皮膚を、はいでくれました。
母は、とにかく、私の目・鼻・口を開けようと、食用油と布を使って、私の顔を拭いてくれました。
膿がどんどん出てくるので、洗い流す必要があるんです。
本当に、つきっきりで看病してくれました。


──目が開けられるようになったり、食事できるようになるのに、どのくらいかかったのでしょうか。

はっきりとは覚えていません。
新円切替(1946年2月16日に幣原内閣が発表した戦後インフレ対策)の前だった、と思います。

私が寝ていると、近所の学友のお母さんが来て、私の母と話しているのが、聞こえたことがあります。

「恵子ちゃんは、本当に良かったねぇ。
私の娘は、半分瓦礫の下敷きになってしまって、一所懸命引っ張り出そうとしても、ダメだったの。
だんだん火がまわってくるでしょう?
『お母さん、早く逃げて。お母さんがいなかったら、下の子たちはどうなるの』って言うの」

生きたまま別れなくてはならなかったなんて、どんなに辛い気持ちだったでしょうね。

他にも、地獄のような広島の町の様子を聞きました。
町には死体がゴロゴロと転がっていて、兵隊さんたちがそれを、ゴミでも拾うかのように拾って、焼き場へ持って行くんだそうです。
真っ黒になるほど蝿がたかって、ウジもわいていて。


──そういったお話を聞いたときの恵子さんの心境は、どのようなものでしたか。

戦争ですから、人が死ぬということ自体は、わかっていたわけです。
それで、最初は、「広島にも、そんなにたくさんの爆弾が落とされたのか」と思っていました。
次第に、みんなが、「ピカドン」と言っているのを聞くようになりました。
たくさんの爆弾ではなくて、一つの大きな爆弾だったんですね。
「そんなに大きな爆弾があったのか」と、驚きました。
また落とされるかもしれない、と怖い気持ちがありました。

私は、終戦のときのラジオ放送は聞きませんでしたが、家族や近所の人がうちに集まって、話しているのを聞きました。
日本は負けた、と。
でも、終戦になる前から、そういうムードはあったと思います。
だって、食べるものもないし、家にあるものは指輪でも鍋でも、軍に差し出さなければならなかったくらいですから。

「こんなものまで出させて…。この戦争は負けるでぇ」

そうやって、大人たちが、陰で言っているのを聞きました。


──今考えると軍部はおかしかったなど、いろいろな考えがあると思うのですが、当時はどうだったのでしょうか。

当時、天皇は神様でしたよ。
神様だから、直接見てはいけない、と言われていたのです。

とにかく私は、戦争が終わったことが嬉しかったです。
戦後、広島には、外国から、食べ物や着るものが送られ、建物も建つようになり、人様のおかげで復興していきました。
その頃になるとまた、「戦争がなければ、みんな友達になれたのに。どんなにか幸せだったのに」と、強く感じるようになりました。
年を経るにつれ、戦争の悪を自覚します。
だからこうして、聞いてくださる方がいるところへ行っては、戦争の話をしています。

いま、憲法を変える、という話もありますよね。
私は「なんで?」って、すごく驚きました。
戦争が起こる可能性のある方向へは、進んでほしくないです。


原発と日本人の品格

──こうしてお話を伺っていると、リアルな「戦争」のことを知らないのは、本当に怖いと感じます。
恵子さんの凄まじい体験をお聞きして、ようやく少し知ることができていますが、知らない人も多いと思います。


生まれる前にあったことは、どうしてもぴんと来ないんですよ。
私も、明治維新や関東大震災のことを、映画で見たりして、「ああ、そういうことがあったんだ」とは思いますけど、ぴんと来ないですもの。

先日、若い人たちと話をしていて、原子力発電所のことが話題に出ました。
原発は廃止したほうがいいか、続けたほうがいいか、みんな手を挙げたんですね。
一人の青年は、どっちがいいのかわからない、と言いました。
私は、
「あなたの気持ちはよくわかる。
私の体験談を聞いても、『そういうことがあったのか』とは思うけど、ぴんと来ないわよね。
生まれる前の話だもの。
でも、これからの未来のために考えるのよ。
積極的に、現状はどうなのか研究して、それで意見を決めてごらん」と伝えました。

私は、原発に反対です。
理由は、いまだに放射能が出ているから。
放射能を浴びて、ガンになって、死んでいった人は多いんです。
私の父も母も、放射能で亡くなりました。
すぐに火傷で死ななくても、遅かれ早かれ不調が出るんですよ。
原子力じゃなくたって、電気は作れるはずです。

これだけ技術は発達しているのだし、もっと日本の科学者が、新しいエネルギーの研究に力を入れれば、原子炉なんて要らないと思います。

一人の技術者の方が、こう言いました。
「原発は、廃止できるに越したことはないと思うけど、いまは技術が発達して、絶対に壊れないようなものが作れるから、全部なくす必要はない」

「それなら、福島にある原子炉は、修理できないんですか?放射能が漏れているのは、どうにかなりませんか」

私が尋ねると、
「私は、作るほうの技術者なので、直すことについてはよくわかりません」ということでした。
まずは、止めなければいけない、と思うんですけどね。

いま、世界から見て、日本は人気がすごく落ちています。
そういうデータを見たことがありますし、私の実感としてもそうです。

「絶対に戦争をしない。核兵器を持たない。原発はすべて止める。」

そう宣言して立ち上がったら、元の日本のように、尊敬されると思います。
原発は、今日明日止めるのは無理でしょう。
でも、少しずつなくしていくのです。


手術のためにアメリカへ。そして看護士に

──恵子さんは、顔のケロイドの手術のために、アメリカに渡られたそうですが、それは何歳の頃ですか。

被爆の10年後で、23歳の頃です。
1年ちょっといました。

──アメリカで寄付が集まり、25名の方が、一緒に行ったそうですね。
(アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんが、ケロイドを負った若い被爆女性のための、寄付金プロジェクトを発足。
ノーマン・カズンズさんはのちに、恵子さんの養父となる)
原爆を落とした国に行くことについては、複雑な気持ちではありませんでしたか。




当時私は、流川教会の谷本清先生を囲んで行なわれていた、「聖書の会」に行っていました。
谷本先生が、日本に来ていたノーマン・カズンズに、「この子たちの手術はなんとかならないだろうか」と、言ってくださったんじゃないでしょうか。

アメリカに戻ってから2年かけて、お金を集めたそうです。
あるとき牧師さんに言われて、私もみんなと一緒に、市民病院に行ったんです。
そこに、ノーマン・カズンズとお医者さん、看護士さんが来ていて、問診を受けました。
手術をして機能が回復する、アメリカに渡る元気がある、等の条件を満たした人が、対象に選ばれたようです。

問診の際に、「アメリカに行きたいか」と聞かれたのですが、私はきっと行かないだろう、と思っていました。
すでに、東京大学の附属病院で、何度も手術をしていましたから。
アメリカに行くと言われても、ぴんと来なかったです。
全然期待していませんでした。
でも、選んでもらってアメリカに行った。
これも、神の摂理だと思います。

「なぜ私が大火傷を負ったのか」と考えたとき、「神の証」なのではないか、と思いました。

神は、人間が幸せになることを望んでいます。
戦争なんてしちゃいけないの。
でも、それを伝える術がないでしょう?
だから、私たちは、それを伝える使命を負ったのです。
私の火傷の痕、傷を見れば、単に言葉で伝えるよりも、感じるものがありますよね。
ああ、そのために私は、こんな火傷を負ったんだ、と思いました。
アメリカに渡ったこともそうです。
私の人生はすべて、神の摂理なのです。


──そのように思えるようになったきっかけはあるのでしょうか。

もともと、私の家は、仏教を信仰していました。
おばあちゃん子だったので、おばあちゃんについて、お寺によく行っていました。

被爆後、歩けるようになって、友達の家に行く道すがら、きれいな音楽が流れてきたので、近寄ってみたんです。
それが、キリスト教の教会でした。
讃美歌を歌っていたんですね。
「どうぞお入りください」と言われて中に入り、後ろのほうに座って、牧師さんのお話を聞きました。
意味はよくわからなくても、とにかく居心地が良かったです。
それから毎週日曜日に、教会に通うようになりました。

谷本先生が、「あなたのような状態の人を、他にも知りませんか」とおっしゃったので、私と同じように火傷を負っている、女学生たちを集めました。
そして、週に1回、「聖書の会」を開くようになったのです。

私は、子供の頃から、看護士になりたいと思っていました。
東大病院で手術を受けるたびに、その思いを強くしていました。
アメリカで手術をし、帰国する直前に、将来のことを聞かれたとき、日本に帰ったら、看護士になるつもりだと答えました。
そうしたら、「ここでやってみないか」と言われたんです。
すぐには決められなくて、両親に相談しました。
父は、
「お前といつまでも一緒にいられるわけじゃない。だから、自分で決めなさい」と言いました。

アメリカでは本当に良くしてもらったので、またみんなに会えるという喜びで、それほど深く考えずに、また渡米することになったんです。
飛行機の手配等は、みんなノーマン・カズンズがやってくれました。
私は、ノーマン家の養女になったから、アメリカで学ぶことができたんです。


──最後に、これをお聴きの方にメッセージをいただけますか。

愛の心、思いやりの心を育てることが、大切だと思います。
そうすれば、自然に、戦争反対の気持ちも生まれるでしょう。
この世で一番大事にしなければならないのは、命です。
命を大切に、頑張って生きていきましょうね。(了)
(インタビュー/早川洋平 文/小川晶子 写真/河合豊彦)



米国で伝える
一人の命の大切さ
笹森 恵子さん(在米被爆者)

【ピースデポ】

http://www.peacedepot.org/essay/interview/interview31.htm

被爆後、しばらくの記憶は、断片的です。
目が腫れて開かず、あまりのことで、痛みも感じませんでした。
私は、ぞろぞろと歩く人々の後を付いて行き、段原国民学校(現在の段原小学校:広島市南区)までたどり着き、木の下に倒れ込み、そこで気を失いました。
次に私の意識が戻ったのは、千田町の自宅でした。
顔が全部、真っ黒に焼けただれ、前も後もわからない状態だったそうです。
まず父が、ちりちりに焼けていた髪を切り、顔の皮膚を剥いだところ、その下は、膿で真っ黄色だったそうです。
母は、「はよう口を開けなくちゃ」と必死になって、布に食用油を塗り、膿を取りました。
8月のものすごい暑い中、それが5日間続いたのです。

母は、この話を、被爆後何年も経ってから、私が何度も訊くので、ようやく話してくれました。
当時、私は、泣きわめく力さえなく、いつ死ぬのかと、とても不安だったとのことです。
だいぶ良くなってから、皮膚にひっついたガーゼを剥ぐ時に、痛かった記憶はありますが、それまでは、痛みもまるで感じないような状態が続きました。
私が今生きているということは、今後大変な世の中になるから、その時のために生きろと、神様が生かしたのかなと思います。

みんな、核の恐ろしさを、頭ではわかっていても、心まで理解できている人はどれだけいるのか、と考えます。
心に応えていたら、平和運動などにも一生懸命になりますよね。

私がいつも話すのは、「命の大切さ」についてです。
自分の身内が戦争に行って、犬死にすることを考えると、本当に命がもったいない。
「何十万人亡くなった」、という数字は大事だけれど、数字だけでは私も忘れてしまうと思います。

「一人の命が大事」、という思いが強いです。

一人ひとりを動かす、という力は大切なのです。
あるアメリカの人とお話をした時のことですが、彼には13歳の娘がいるということで、
「私は、同い年の時に被爆したんだ」と話したら、彼は震え出し、涙を流し出しました。
自分の娘のことを思っての反応です。
みんながそういう風に感じてくれれば、良い方向に変わっていくと思います。

私の経験は、大変でなかったと言えば嘘になるけれど、あのとき両親は、大火傷を負った私を治療しながら、
毎日いつ死ぬかもわからず、治った後も元には戻らない状況で、その心の痛さは、私どころではないと思います。
私は、若い人たちに、
「あなたがお父さん、お母さんになったときに、自分の娘がそんな状態になったらどうする?」、という風に話します。
被爆証言は、たくさんの方がされているし、本もたくさんあります。
だから私は、私が、どういう感じで命の大切さを考えているか、ということを話します。
難しいことを話すよりも、気持ちで伝える方が、届くと思うからです。

アメリカの学校で話をすると、よく、その後に手紙が届きます。
その中には、私の話を聞いて、原爆・核兵器への考え方を変えた人や、
「高校を出たら軍隊に入ろう、と思っていたけどやめた」という反応が、かなりあります。
「家に帰って、お母さんに話をしたら、涙を流した」なども。
そういう知らせを知ると、やっぱり嬉しいですよね。

アメリカの高校には、米軍のリクルーターが入ってきて、子どもたちを軍隊に囲い込もうとするのですが、
私は、
「戦争というのは、いくら大義があろうが、人殺しをすることには変わらず、あなたたちがもし、軍隊に入って戦争に行ったら、罪人になるんだよ。
それだけじゃない、殺されるんだよ」
と話をします。
私にも息子がいますが、その子が生まれた時に、
「この子は、絶対に戦争には行かせない。
この子は、戦争に行って人殺しをするため、また、殺されるために生まれてきたんじゃない」
と思いました。
息子には、
「例えば、もし、赤紙のようなものが来たとしたら、私が先に行くよ」と言いました。
自分が殺されるのなら、それでもいいという気持ちです。
世の中の親は、みんなそう思うはずです。

最近は、大学で、話をする機会が多くあります。
広島市が行っている、全米各地での原爆展に、私も行って、様々な州で、学生さんに話をしてきました。
みなさん、とても真摯に受け止めてくださり、私も、とても良いフィードバックをもらっています。
私が行く所は、事前学習をしっかりしていることもあり、行くとすでに受け入れ態勢ができていることが多いのですが、
私は、核兵器の問題に関心がなく、賛成・反対どちらでもない、道端を歩いているような人たちにも、話を聞いてもらいたい、動いてもらいたいと思います。

オバマさんの、「核兵器のない世界」は、彼が本気で思っているから言われたのだと思いますが、
これがオバマさん一人だったら、やっぱり消えていくと思います。
目的を果たせるよう、私たちみんなが、支えなくてはいけません。
私は、学校に行ったときにも、いつも言います。
誰だって、一人の力ではできない。
私たちがやらなくちゃいけない。
私もそのためにも頑張ります。
(談。まとめ、写真:塚田晋一郎)


↑以上、転載おわり



ばばちゃんが、うちから30分ほど車で行った町の私立高校で、講演したときの様子。
前日の日曜日に、講演やインタビューで6時間、休み無しで話し続け、戻ってきたわたしたちとまた話に花を咲かせていたばばちゃんは、
さすがに疲れが出ていたのか、真っ直ぐに歩けない状態で、おまけに耳鳴りがひどくて、自分の声も変に聞こえると言っていた。
けれども、いざ壇上に立つとこの通り。








高校生たちも身じろぎもせず、真剣に話を聞いている。


泣いたり笑ったりの30分。しげ子さんの言葉は、彼らの心に、どんなふうに届いたのだろうか。


講演の後、昼食までの間、ここで休憩を取ってくださいと案内された広間。
そこに一人、しげ子さんと話をしたいと、青年がやって来た。




するとさらに二人、話をしてくださったことにお礼を言いたくてと、生徒たちがやって来た。




さらにさらに、続々と生徒たちがやって来て、しげ子さんに質問を投げかけた。








入れ替わりに今度は、歴史を学んでいるクラスの生徒たちが、先生と一緒にやって来た。







しげ子さんは、自分が見えない所に座らないでと、生徒たちにお願いする。
そうして、ゆっくりと、大きな声で話して欲しいとお願いする。

ー手術のためとはいえ、アメリカに来ることに抵抗は無かったか。
ーアメリカに対してどう感じたか。
ー世界の核問題についてどう思うか。

手術が受けられて、それで自分が良くなると信じていたので、場所はあまり関係が無かった。
・アメリカという国のせいで、アメリカ人のせいで、わたしはこんな酷い傷を負ったと、そんなふうに考えたことは無かった。
これは戦争のせい。
戦争は人を殺し、傷つける。
だから、人間は、戦争など起こしてはいけないの。
・アメリカに降り立ち、暮らし始めるうちに、日本はどうして、こんな豊かで広大な国と、勝てるはずの無い戦争をしてしまったのだろうかと思った。
・核と人類は、共に生きていくことなどできない。
だからわたしは、あなた方のような若い人たちにお願いしたい。
今は、わたしの話を聞いて、頭の中がこんがらがっているかもしれない。
意味があまり分からないかもしれない。
それでもいいから、時間をかけて、よくよく自分で考えて。
自分たちの、そして自分たちの子どもの未来に、平和が存在しているか否かは、わたしたち一人一人の平和への強い意思が必要なのだから。
・オバマ氏が今度、伊勢志摩サミットで訪日する際に、もしかしたら広島を訪問するかもしれないと言われている。
「わたしはその頃、ちょうど広島に居るので、ちっちゃい体を活かし、こっそり近づいてって、
『オバマさん、核兵器の無い世界を実現してください!実現すると言うまでこの手を離しません!』と捕まえる」
と言って、周りを大笑いさせていた。


これは、うちに滞在中に報じられた記事。

原爆乙女「謝罪より被爆感じて」
オバマ大統領の広島訪問歓迎

【共同通信】2016.4.26
http://this.kiji.is/97586238448173062?c=39546741839462401



13歳の時に、広島で被爆し、戦後、米国に渡って治療を受けた「原爆乙女」の一人、笹森恵子さん(83)が26日、
訪問先の米東部ニュージャージー州ハズブルックハイツで取材に応じ、
オバマ米大統領が、5月に広島を訪問する見通しとなったことを歓迎し、
「大統領には、被爆がどんなに大変だったのか、広島で感じてほしい。謝ってほしいとは思わない」と述べた。

大統領の広島訪問が、「謝罪外交」とみなされる可能性を、米側が懸念していることに関して、
「大統領が、原爆慰霊碑の前で、『安らかに眠ってください』と心から祈ってくれればいい。そうすれば(被爆者の)魂が休まると思う」と話した。



この高校の食堂は、うちの息子たちが通った公立のそれとは違い、丁寧に調理されたおかずや、砂糖抜きの飲み物が用意されていた。


最後に、この企画を立ち上げ、しげ子さんのお世話役を務めてくれた生徒と一緒に。



そしてこの高校から戻ってすぐに、レッスンがあるわたしだけを降ろし、しげ子さんと歩美ちゃんはお墓参りへ。
しげ子さんの養父ノーマン・カズンズ氏と、親戚が眠るお墓。





その晩、まだまだこの先に講演や家族との嬉しい再会が、あちこちの出先で待っているしげ子さんの、耳鳴りとふらつきを治そうと、
夫は鍼治療を、わたしはマッサージを、心を込めてさせてもらった。
しげ子さんは、夫が鍼を刺し始めても、
「まうみさんはここ、ここに寝なさい」と、彼女のすぐ横をパンパンと叩いて催促する。
そうして、夫が問診をしようが、刺した鍼の状態を問おうが、まるで聞かずに、わたしがまだまだ聞きたいことがいっぱいあるのを知ってか、いろんな話をしてくれた。

ばばちゃんの足や背中は、まるで赤ん坊のようにきれいな肌で、つやつやしていた。
その健康な皮膚を削り、時にはソーセージのように肉ごと剥ぎ取り、それをまず別の部分に移植して、それからやっと治療部位に移植する。
ばばちゃんが闘ってきた痕のすべてを、見たり触れたりさせてもらったことを、わたしの心と目と手のひらは、これからもずっと忘れないだろう。

ずっと肩が痛んでいると言っていたので、仰向けになってもらい、夫の続きでわたしがマッサージをすると、
「ああ気持ちがいい。なんでわかるの?ここをこういうふうにしてもらいたいっていうのが」と言って、気持ち良さそうに目を閉じた。
しげ子さんの辛かったこと、苦しかったこと、痛かったこと、そんなものの一切合財を溶かして、わたしの手を通じて減らしてあげたい。
そう思った時急に、自分が辛い思いをしていた頃のことが蘇ってきて、わたしはその時、彼女とひとつになった気がした。
翌日のしげ子さんは、たっぷりと睡眠も取ることができ、耳鳴りも痛みも半減して、とてもすっきりしたと言った。
ランチを一緒に食べながら、とてもプライベートな話にまで花が咲き、あっという間に時間が過ぎていった。
昼過ぎから、近くにある『NJ Peace Action』での会合に行き、そこから歩美ちゃんと一緒に、『王様と私』のブロードウェイのショーを観劇。

その間に、わたしときたら、急に襲ってきた吐き気とどうしようもない怠さに、気持ちが動転してしまっていた。
まさか、昼間に作った料理にあたったか?
それとも、食べた量が多過ぎたか?
もしそれなら、しげ子さんも同じ物を、それも同じ量を、残してもいいと言うのに、昔人間だからと、お茶まで一滴も残さず飲んでいたくらいだったのだ。
おかしなことになってなかったらいいのだけども…と、くよくよと心配しながら、その日は結局断食をして、彼女たちの帰りを待った。
ショーが終わり、こちらに戻る車中から、「あと30分ほどで着きます」と、歩美ちゃんから連絡があった。
歩美ちゃんの声の向こうから、いつものように後部座席に座っているであろうしげ子さんの、元気そうな話し声が聞こえて、わたしはホーッと一息ついた。
よかった…しげ子さんは元気だ。

翌日の朝、しげ子さんを空港まで見送ってからも、わたしの体の変調は良くならなかった。
わたしはしげ子さんの中に、わたし自身を見ていたのだと思う。
奇しくも、しげ子さんと同じ13歳から22歳ぐらいまでのわたしに起こった、大小さまざまな辛い出来事を、
それらはしげ子さんのに比べたら、てんで比較にならないほどの些細なことかもしれないけれど、わたしにとっては充分に、自死を願い続けるほどに辛かったことを、
これまたしげ子さんと同じく、その折々に手を差し伸べてくれる人に恵まれながら、そしてその人たちが口にする希望の言葉を信じながら、
ひとつ、またひとつと乗り越えていた若かったわたしが、わたしの中にまた戻ってきているのだ。
何度も何度も、死にかけたり殺されかけたりした。
そんな恐ろしいことだらけだった十代の、自分の身の上に起こったことをおもしろ可笑しく人に話していると、何となく本当のことでは無かったような気がして楽になる。
そのことに気がついたのは、ずいぶん大人になってからだ。


しげ子さんがアメリカに、整形手術のために渡った頃の写真。




25人のうちの一人の方が、麻酔事故で亡くなった時のことを話してくれた。
必死の思いで蘇生に努めた医師や関係者だったが、その甲斐もなく息を引き取ったその日、しげ子さんは病院で、ノーマン氏の迎えを待っていた。
いつもは笑顔のノーマン氏が、ひどく憔悴した姿でやって来て、今日は帰れないと言った。
それから3日後に、やっと迎えに来てくれたノーマン氏と一緒に、病院から帰る車中の窓から、セントラルパークの風景が見えた。
しげ子さんは、独り言のように、
「冬が終わると春が来る、ね」とポツリとつぶやいた。
その途端、ノーマン氏の顔にパッと笑顔が浮かび、いつもなら避けているファーストフードのお店に入った。
家に着いたら、夕食の準備が整っていて、お養母さんに叱られるかとびくびくしながら、「もう食べてきた」と告げると、
お養母さんはそれはそれは嬉しそうに微笑んで、「よかった!」と言ったのだそうだ。
彼はその時まで、食事が全くのどを通らなかったのだそうだ。

わたしはこのエピソードを聞いた時、ノーマン氏がなぜ、しげ子さんを養女にしたいと思ったのか、理解できたような気がした。
彼女の中にある、希望を捨てない心、信じる心、前に進もうとする強さ、生きとし生けるものを思いやる優しさを、見抜いていたのではないかと思う。


ばばちゃんにもわたしにも、お互いが自分の中にすうっと入ってきて、家族のようだねと言い合ったのだけど、
今わたしは、家族というよりも、わたし自身のような気がする。
もしわたしがばばちゃんだったら、きっとばばちゃんのように生きたし、もしばばちゃんがわたしだったら、きっとわたしのように生きた。
そんな感じ。
ばばちゃんは自分のことを「おてんてんだから」と何度も言った。
それを聞くたび、父がわたしに、「おまえはほんまにおつむてんてんやな」と言っていた声が蘇った。
ばばちゃん、わたしら、「おてんてん」やから生き延びられたのかもね。
人の言うことをすぅっと信じて、深刻に考えず、良くなることだけ思いながら前ばっかり見ていた。




逢わせてくれた歩美ちゃんに、心から感謝!
また逢おうね、そうして、またいっぱいおしゃべりしようね、ばばちゃん。

ワシントンD.C.とスミソニアン・クラフトショーと桃子さんとボルティモアと

2016年04月29日 | 友達とわたし


この写真を、もっともっと大きなものでここに紹介できないことが、悔しくて残念でなりません。
この作品は、陶芸家であり友人の、桃子さんが創りました。
先日、彼女の作品が、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館が主催する展示会で披露されることになり、そりゃもう行かいでかっ!ということで、ワシントンD.C.まで駆け付けました。
彼女と知り合ったのはフェイスブック。
いったいどうして知り合ったのか、それを思い出そうとしたのですが、てんで思い出せません。
とにかく通じるところがたくさんある人で、それほど頻繁にではないけれども、いろんなことをよく話していたのですが、
生で逢うのはこれが初めて。
わたしは、彼女自身はもちろん、彼女の作品の写真を一目見て惚れてしまっていたので、自分の目で眺め、自分の手で触れることが嬉しくてなりませんでした。

小さい写真ばかりですが、他にもこんな作品が。









出発は先週の土曜日の朝でした。
土曜日の夜からの、空と海の世話をお願いした歩美ちゃんが、ちょうどその日からある方のお世話をしなければならないというので、
それじゃあついでに(←なんという乱暴な?!)、うちに二人で泊まってもらいましょうということになったので、
いくら何でも、ばっちい家に来ていただくことはできないと、あれこれ掃除をしていたら、なんとまあ夜中の3時を過ぎてしまいました。
ワシントンに向かう車の中で、なんとか寝不足の埋め合わせをしようと思ったのですが、なかなかうまくいかず、運転を担当した時には居眠り運転しまくりっ!
危ないったらありません。

出発時は雨がけっこう降っていましたが、


ワシントンに着いた時にはすっかり上がり、


青空が見えてきました。


普段なら絶対に利用しない門構えの立派なホテルを予約してくれていた夫。
景色はいいけど騒音がする、景色は良くないけど静か、どちらを選びますか?とフロントマンに聞かれ、景色よりうるさくない方を、と答えたわたしたち。
部屋は広々としていて、居心地はまあまあ良かったのですが、空気がどよよーんと重苦しく、他の部屋のドアの開け閉めの音が異様にうるさい…。
しかも、隣の部屋から、小型犬の鳴き声がずっと聞こえてきます。
う~ん…大丈夫かな…。

せっかくお天気になったので、去年、桜の時期に来た時に偶然見つけた、とても美味しかったレストランでまた食べることにしました。
天井とランプが懐かしい。


夕日が沈んでしまう前に、食後の散歩。


また来たよぉ~ワシントン・モニュメントくん!


近くより、こんな感じで遠くから眺める方が好きかも…。


ホワイトハウスの裏側。


警備はこの警察官ひとりっきり?!


んでもって、ここからは立ち入り禁止みたいなんですが、この蜘蛛の巣のような、別に簡単に行けてしまえそうな柵が、なんともアメリカン。


ワシントンD.C.は、建物はもちろん、庭や広場もデカい。


地面すれすれまで葉っぱをつけた木。


えっとこれは…忘れた。




中に入ると魅せられる作品がてんこ盛り!と評判のRenwick Gallery。今回もまた素通りです…残念!


夕日が当たってきれい。


ホワイトハウスの正面にはいつも、抗議行動をする人で賑わっています。


もちろん、観光で見学している人もたくさん。


去年ここに来た時には座っておられたコニーさんは、今年の1月に亡くなられたと、友人の志津子さんから聞いていたのですが、
どっこい彼女の魂はしっかり引き継がれ、平和テントもそのまま残っていました。


この平和テントについて、志津子さんが書いてくださったものを、ここにちょっと拝借させていただきます。

↓以下、転載はじめ

ワシントンのホワイトハウスを訪れた人なら、大抵この光景に驚く。
大統領がおいでになるこの、正にピカピカに白い館のど真ん前に、こんな見すぼらしいテントがあるのだから。


大統領が見える所で直接訴えたいと、ここで、30年以上も、反核平和アピールを続けてきたコニーさんは、残念なことに、この1月に、80歳で亡くなっていた。


左のボードにあるような、おぞましい広島の原爆写真に衝撃を覚えて、極貧の生活をしながらも、核廃絶や世界平和を、観光客に声をからして訴え続けてきた。
暑い夏も、雪の日も。
流石に、ホワイトハウス付属(?)の名物にもなってしまったので、歴代大統領も撤去することも出来ずに、半ば諦め顔でテントの存在を許してきたのだろう。

コニーさんの存命中に、いずれかの大統領が、会って声を掛けたとか、そういう話はない。
でも、コニーさんの後を継いだという甥の方に、快い許しを得て、テントの隣に3時間くらい立たせて頂くと、
確かに、向こうの窓から、大統領が時折覗くかも知れない近さなのだ。
国交を回復したキューバから、オバマ大統領は戻っているはずだ。
私のサインも見てくれるかも知れない。


通りすがりの留学生の男の子も、サインを持ってくれた。
「選挙に参加してね」と言うと、「はい、僕は18歳になりました」

コニーさんは、自分に話しかけてくる人には、こう言ったそうだ。
「あなたが自分で、平和のために出来ることを始めることが、一番必要なことなのよ。そうすれば、私はここにいなくてもよくなるのだから」

何という強い意志や決意を貫いた人だったのだろう。
甥の方とも平和談義をやりたい人が、次から次へとやってきて、ついでにこちらにも寄ってくれる。
大抵が、「Abeって誰(或いは何)なの?」から始まる。

明日もここに来る。


↑以上、転載おわり



ホテルは、なんというか、隣の人の常識が無かったからか、めちゃくちゃ大音量のテレビの音やドアの開け閉めの音が、夜中まで続いて、おかげで?全然眠れませんでした。
やっとウトウトしかけたら、またまた朝の8時から大音量の音楽が…。
これじゃ、景色の良い部屋を選んだ方が、まだマシだったかもしれません。
でも、見た目しっかりした、それも歴史があるっぽい、議事堂のすぐそばのホテルなのに、この騒音はいけませんよ、ほんとに。

気を取り直して出発!
天気は上々、雲一つない青空です。
会場の国立美術館が見えてきました。


う~ワクワクする。


なんとまあ、全館吹き抜け。








天井からの風景(桃子さんの写真から)。




あ~いたいたっ!
全身全霊支援中の、ご主人のマークさんも!


初めて逢った気が全くしない桃子さん。素敵な衣装がすご~く似合ってます。


彼女の作品をいつか、うちに飾れる日がきますように!


実は桃子さん、ショーの当日の朝にぎっくり腰になり、息子さんがインターネットで調べてくれた急場凌ぎの、温めては冷やし、また温めては冷やすを繰り返し、なんとか立てているそうな。
もちろん痛み止めを飲みながら。
できるなら、鍼を持参している夫が治療できたら良いのだけれども、ショーの最中ではそれも叶わず…。
なのに桃子さんは、ニコニコと微笑みを絶やさずに、わたしたちとのおしゃべりに加わってくれるので、ついつい調子に乗ってしまいました。

彼女の作品は、土の温かさ、素朴さ、荒々しさ、そして何よりも、物事の源であることのどっしりとした存在感がみなぎっていて、
それらをひとつひとつ、生で見ることができたこと、触れることができたことが、しみじみと嬉しいのでした。
そして桃子さんのご主人マークさんの、京都という古い町で、異国人でありながら造園を生業にしていたという才覚を、会話の端々から垣間見ることができました。
なんていい感じのご夫婦なんだろうか…。
二人が暮らしているイサカは、うちから車で4時間弱。
いつかまた近いうちに、今度はもっとゆっくり、いろんな話がしたいねと言いながらお別れしました。
お祝いを何も持って行かなかったわたしに、桃子さんがくださった湯飲み茶わん。
わずかに青味がかった灰色の、どっしりとした、でも柔らかで優しい。
そして、お茶を飲んだ後、内側に入った細かなひびが、微かに色づきます。
お祝いに行ったのか、邪魔しに行ったのか…。
なんだか申し訳の無いわたしたちなのでした。

外はまだまだぴーかん晴れ!


どんだけ集めたの?!首振り人形さんたちがいっぱい!


あまりバタバタ周ると疲れてしまい、留守番をお願いしているお客さまに申し訳無いので、観光はまた次の時にして、帰る途中にある海沿いの町ボルティモアで、海の幸をいただくことにしました。

外観は何ということも無いお店だったのですが、評判通りの超~美味しい海の幸をいただきました。


なぜか、世界各国のお札が、ピンでいっぱい止められていました。


うわっ!塩の山!



というわけで、この日家に戻ってからの、これまた初めて出会った女性の話は、またこの次に。
お楽しみに。

人として政治家として、質の低い人間の集まりである安倍政権に、これ以上政治をさせていては日本が終わる!

2016年04月22日 | 日本とわたし
政府現地本部長交代 暴言続き地元が『NO』、事実上更迭
【西日本新聞】2016年04月21日
http://qbiz.jp/article/85364/1/

食事におにぎり→「こんな食事じゃ戦はできない」

物資配送の滞り→「あんたら(地元自治体)の責任。政府に文句言うな」


政府は20日、熊本地震の政府現地対策本部長を、松本文明内閣府副大臣から酒井庸行内閣府政務官に交代した、と発表した。
松本氏は15日から、熊本県庁内の対策本部で、政府と被災地の連絡調整を担っていたが、
言動を、熊本県や被災自治体から批判されており、事実上の更迭との指摘がある

菅義偉官房長官は、交代理由を、「昼夜たがわず食料支援などで指揮をした。体力面を考慮した」と説明。
河野太郎防災担当相は、「交代は予定通り」と強調した。

一方、政府関係者は、西日本新聞の取材に、「(松本氏は)県との連携がうまくいっていなかった」と認めた。
別の関係者も、松本氏が本部長を続ければ、「政権に大打撃となる。早め早めに手を打った」と話した。

関係者によると、松本氏は、食事におにぎりが配られたときに、
「こんな食事じゃ戦はできない」と不満を口にした。

避難所への支援物資配布を巡って、
「物資は十分に持ってきている。被災者に行き届かないのは、あんたらの責任だ。政府に文句は言うな」と、
地元の自治体職員に、声を荒らげたこともあったという。

県や被災自治体は、「松本氏が、震災対応の邪魔になっている」と不信感を募らせていた。
松本氏は、政権幹部に電話で、「怒鳴ってしまいました」と謝ったという。

松本氏は20日、官邸で、安倍晋三首相に報告した後、記者団に、
「びしびしと言い過ぎたことが批判につながっているなら、甘んじて受ける」と語り、おにぎりの件について「そういう事実はない」と否定した。



この男の言動のひどさ、お粗末さはもちろんのこと、謝まった相手が政権幹部であることに、わたしは本当に呆れています。
しかも、この交代は、「政権にとって大打撃になり(多分選挙のことを考えているのでしょう)、早め早めに手を打った」というなら、
この交代でさえも、現地のためではなく、自民党の存続のため、自分たちの保身のため、と言えるのではないでしょうか?
なんという堕落した、無能者ばかりが寄り集まっているのでしょう。

しかも、この副大臣は、現地に行っていたにも関わらず、安倍首相からのトンチンカンというだけでは済まない、
地震がまだまだ継続している最中に、屋内退避という誤った指示をそのまま伝言し、その後に起こった本震での被害を、拡大させた疑いも持たれています。

このことについて、厳しく追及するべきだと思います。


熊本地震…6日間で現地本部長交代
【報道ステーション】2016.04.21
http://www.newsjs.com/url.php?p=http://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000073194.html

政府は、熊本地震の直後から、熊本に現地対策本部を置いています。


で、こちらの松本内閣府副大臣が、現地の政府側のトップを務めていたんですけれども、6日間で交代となりました


一体何があったんでしょうか。


松本副大臣:
まだ昨日から一睡もしていないんだから。



地震直後に熊本入りし、現地の政府側のトップとして、国と県の調整を行ってきた松本内閣府副大臣。
政府と現地を結んだテレビ会議で、河野防災担当大臣に、おにぎりなどの差し入れを要請したことが、問題になっていました。



松本内閣府副大臣:
申し訳ないけど、親しい近くの(国会議員の)先生方から、おにぎりでもバナナでも何でもいいから、差し入れをお願いしてくれませんかって、テレビ会議で(河野大臣に)お願いした


(河野大臣は)「よーしまっちゃん、任せろ考えるから」と、こう言ってくれて、4人の先生方の事務所から、おにぎりが差し入れられました


「何々先生からの差し入れだよ、みんなこれをまず食べて!」
そういう状況です。


質問:
大臣、テレビ会議のやりとりは、間違いないですか?

河野防災担当大臣:
間違いない。



テレビ会議は、本来、県の要請を国に伝え、政府が対応を調整する場です。



与党からも、こんな批判が出ていました。

公明党中央幹事長・漆原良夫会長:
現場で、おにぎりさえ口に入らない方がいらっしゃるということを考えれば、とっても残念だなと。
本当に、被災者に寄り添う気持ちで、特に国会議員や役人は、現場に行かなきゃいけない。



さらに、こんなこともありました。
16日未明の、震度7の本震が発生する前に、松本副大臣が、屋外に避難している住民を、屋内に避難させるという政府の要請を、熊本県側に伝えたときのことです。

松本副大臣:
避難場所も揺れるもんですから、皆さん怖がって、避難場所の前の広場に夜出てくるんです。
ま、こういうお話が、(熊本県側から)ありました。
隣にお座りだった(熊本県)知事さんが、
「 いやー松本さん、現地とやっぱり離れていると、現場感覚がこういう風に違うんですよね。みんな恐いんですよ」と、こう言われました。



屋内に避難させるという要請は、安倍総理の指示を受けてのものでしたが、


熊本県側は、現地のことがわかっていないと、不快感を示したといいます。



結局、松本副大臣は、6日で、現地対策本部長を交代したことになります。
政府は、松本副大臣の交代は、ローテーションによるものだとしています。

菅官房長官:
まぁ当然、時期が来ましたら、また松本副大臣にも現地入りして、指揮をとってもらいたい。こういうふうに思っております。




災害対策本部の本部長は内閣総理大臣に
【南山法律事務所・コラム】2016.04.20
http://www.nanzanlaw.com/column/196

災害対策本部の本部長が、安倍総理ではなく、河野大臣(防災担当)であることが判明しました。

安倍総理が本部長になる、最も権限の強い災害対策本部もあるのですが、それは現在も使われていない、ということです。
とんでもないことです。

ベストを尽くしていない、という点でもそうですが、現行法制度上ある制度を、全然使い尽くしていないのに、
4月15日の時点で、「憲法改正」「緊急事態条項」に、菅官房長官が言及していたことを含めると、尚更とんでもないことです。

哀しいことですが、政府には考えを改めて、姿勢を変えていただく必要があると思いますので、ぜひシェアをお願いします。
(この件は、民進党の蓮舫議員の指摘で気づきました)


1「緊急災害対策本部」と「非常災害対策本部」

まず、災害対策基本法が定める災害対策本部には、
最上位の「緊急災害対策本部」と、その下の「非常災害対策本部」があります

この二つの本部は、名前が違うだけでなく、権限、つまりできることにも差があります
阪神淡路のときも、非常災害対策本部で対応されたようですが、
これは当時の法律が、災害緊急事態の布告をしないと「緊急災害対策本部」が招集できないものになっていたからです。
この教訓を踏まえた改正が、1995年になされ、緊急災害対策本部は、招集されやすいものになりました

そして、緊急災害対策本部を初めて招集したのは、民主党の菅総理、3.11のときです。
法制度上、最大の権限を行使できるようにした、ということです。

その後の災害、例えば広島豪雨災害も、「緊急災害対策本部」ではなく、「非常災害対策本部」で対応されています
よって、4月14日の、最初の震度7の地震のときに招集されたのが、非常災害対策本部であったことは、それなりに合理的だと思います。
とはいえ、阪神淡路の教訓を踏まえて、緊急災害対策本部の招集がされやすい改正がされていることを踏まえると、
この時点で、緊急災害対策本部、という選択肢もあった
ように思います。

しかし、4月16日未明のM7.3で、次元が変わりました
被害は深刻に、そして範囲が拡大しました。
よって、この時点で、法律に基づき、非常災害対策本部から緊急災害対策本部への移行を行い、安倍総理自ら本部長に就任し、
緊急災害対策本部だからこそ認められている権限も含めて、最大限の措置をとる必要があります


しかし、それが今もってなされていません
そして、権限のこともそうですが、政府は最大限の努力をしていることを、被災者や被災地の首長に示す必要があるのですが、
それが今もってされていない、ということです。


2 他の対応にも見える政府の姿勢

他にも、激甚災害の指定もまだですし、被災者生活再建支援法の適用もまだです(全壊戸数からすれば熊本県に適用できます)。

また、特定非常災害の被害者の、権利利益の保全等を図るための、特別措置に関する法律による、特定非常災害の指定もされていません
大分県には、災害救助法の適用がされていませんし、大分県の全壊戸数が0のままです。

ホンマかいな、という気もしています。

要するに、政府は、4月14日の震度7のときの体制のままであって、4月16日のM7.3を受けた体制になっていないし、
TPPの審議を始めているところを見ると、頭の中も、M7.3モードになっていないのだと思います。


3 政府にがんばっていただきたい

被災者の命がかかっている問題です。
次元が変わったことを理解し、早急に頭を切り替えて、体制も切り替えて取り組んでほしいと思います。
ぜひ切り替えていただいて、私も含めて、心から応援できる政府になってください。
私も一国民です。
こんなときに、政府を批判したくはありません。
しかし、今回の政府の対応は、あまりにも酷すぎます。
外圧によって、ショックを受けていただくしかない、と思っています。
ぜひ認識を改めて、政府には、体制見直しも含めて全力を尽くし、頑張っていただきたいと思います。

「初め彼らは無視するだろう。次に笑いそして挑みかかってくるだろう。 しかし、最後に我々が勝つのだ!」

2016年04月21日 | 日本とわたし
あと1日です!
2016年4月23日土曜日、あと1日できることがあります!
ただ、電話がけの名簿が重複し、何度も電話がかかってきているお宅もあると聞いています。
その際にはお詫びをし、それほどにこの選挙が注目をされていて、とても重要な意味を持つものであることを、丁寧に伝えてください。
池田まきさんのような、苦難に満ちた人生を生き抜いてきた強い精神力と、苦しみや痛みを心から理解し、寄り添おうとする優しい心を持つ人に、
政治の世界で仕事をしてもらいたいという願いを、今、わたしたち市民の手で叶えようとしていることに、ドキドキワクワクしています。

あとたった1日になりましたが、まだまだやれることをやらなければ、この願いは叶いません。
相手は怪物です。
それも巨大な怪物です。
小さな魚の一匹でしかないわたしたちでも、スイミーになれば、怪物に恐れを抱かせ、退散させることができます。
がんばりましょう!

緊急!!「北海道補選 電話がけのお願い」


どっきょです。
えと、今、北海道の現場にいます。
4月24日の北海道補欠衆議院選挙、池田まきさん、現状は、かなり競ってます。

いま問われてるのは、無党派や無所属の方々の投票です。

今、すっごく注目されてるのは、電話がけです。
特に、北海道にいないあなた。
みなさんに言いたいことがあります。
それはなにかと言うと、電話がけをしてください。
フェイスブックにいって、「イケマキ電話作戦3万本」って検索してください。
そこで参加してもらう。
そこん中で、自分でコメントをする。
で、コメントすると、管理人からメッセージが届きます。
マニュアルがあって、ここに電話して下さい、って書いてあるし、イケマキ(池田まき)さんはこういう人です、って情報も入ってる。
その情報に基に、電話がけをしてほしいっていうことなんです。

1万本電話かけると、統計的に800票行くんじゃないかっていう統計が出てるんです。
で、どういうことかというと、
ひとりの人間が、12~13人の方に電話をする→それで1票、票が入るかもしれない。

今、この選挙、絶対勝たなきゃいけない。
ここで勝てば、参院選も勝てる。
今、すごいいい流れが来てる。
北海道の現場では、すっごい多くの市民が動いてる。
でも、東京にいる人間とか、他にいる人間とかも、なにかしたくてうずうずしてますよね。
じゃ、なにができるか、って(いうと)、この電話がけなんです。

自民党は、組織を動員して、期日前投票を今済ませていて、もうかなり追い上げてきてます。
彼らには、ホントに組織の力があります。
組織票を持ってます。
僕らには、市民の力があります。
あの国会前のムーブメントで、関わった30万人以上のすっごい大きな力を、僕ら、持っているんです。
1日1本でも、2本でもいいです。
30万の人が電話をかければ、30万本の電話になるんですよ。

あなたに、その人になってほしいんです。
本気で、ほんとに、この政治を変えましょう。
ぼくらの勇気で、この選挙、絶対に勝てます。
選挙を変える。
市民が変える。
一緒に頑張りましょう。



イケマキ30000本!
池田まき❤️電話勝手連

https://www.facebook.com/events/627690567383942/632330930253239/


イケマキ電話作戦・質問はこちら
https://www.facebook.com/groups/967769113259733/973348162701828/?notif_t=group_activity¬if_id=1461278539542612




【北海道】注目の北海道5区補選、池田候補は無党派層の取り込み! 
「和田氏がやや優勢」!? 
小泉議員は二度目の北海道入り、安倍首相は応援演説断念か!? 23日は熊本入り

【IWJ】2016/04/17(2016/04/22追加)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/297442

「和田義明氏がやや優勢」――

2016年4月24日が投開票となる、衆議院北海道5区補選に関して、
日経新聞は、17日同紙による世論調査の結果を発表し、
自民党が公認、公明党などが推薦する和田義明候補が、「やや優勢」であると伝えた。

また、北海道新聞は、18日の紙面で、
「和田氏、池田氏譲らず」と報じ、同紙が行った世論調査から、
野党4党が推薦する統一候補池田真紀氏と和田氏が、拮抗した選挙戦を展開しているとした。
しかし、この数字を単純に当てはめて計算をすると、こちらも、和田氏がリードしているとの見方もできる。

一方、朝日新聞は、「池田氏・和田氏競り合う」(18日)、
読売新聞は、「北海道5区横一線」(同日)として、両氏が互角の戦いであると報じている。

同補選は、今夏の参議院選挙の前哨戦ともいわれ、当初、安倍総理は、17日に北海道入りして、和田氏の応援演説を行う予定だったが、
14日未明より熊本地方で発生している大地震を理由として、中止となった。
その後、選挙運動の最終日となる23日に、北海道入りするとのではとの見方もあったが、この日、安倍総理は、熊本県の地震被災地を視察することを決めたことが報じられた。

他方、自民党の小泉進次郎衆議院議員は、14日に続き、21日、二度目の北海道入りをし、和田氏の応援演説を行った。


▪️日経新聞、北海道新聞の世論調査~和田候補が10ポイントリードか!?
――池田候補は、最後まで予断の許されない状況が続く


日経新聞は、
同紙の世論調査から、「和田義明氏がやや優勢」であると報じた。
選挙区内で、安倍内閣支持層は4割弱で、不支持率が10ポイントほど上回っている、という。
和田氏はすでに、支持層のうち、7割強の票を固めたが、
池田氏は、安倍内閣「不支持層」の6割弱しか、票を固め切れていないとの分析を示した。
ただし、投票態度を決めていない回答者が3割前後おり、流動的であるとしていている。

他方、北海道新聞は、
和田氏が、自民党支持層8割超、公明党支持層7割超、無党派層4割近く
池田氏は、民進党支持層約9割、共産党支持層のほぼすべて、無党派層約5割を固めた、との世論調査の結果を報じた。
政党支持率は、自民党37.1%、民進党13.3%、共産党3.0%、公明党2.1%、社民党0.2%、新党大地0.2%、無党派43.5%としている。

単純計算すると、
和田氏(37.1×80%+2.1×70%+43.5×39%=48.1ポイント)
池田氏(13.3×90%+3×100%+43.5×50%=36.7ポイント)となり、
こちらも、和田氏が10ポイントあまりリードしていることになる。
一方、投票先を決めていない有権者が2割超いて、流動的であるという見方も示している。

もちろん、このような単純計算で、現実の選挙情勢を判断することはできないが、
劣勢が伝えられる池田陣営にとっては、最後の最後まで予断が許されず、残された選挙戦で、無党派層の掘り起こしを行うことが、急務であることには間違いないだろう。


▪️17日『池田まき大応援会』――雨の中、市民がリレートークで声援送る


▲画像は池田真紀候補HPより転載

同選挙戦の折り返し地点となった4月17日、野党4党が推薦する池田真紀候補は、札幌市の厚別中央公園で、『池田まき大応援会』を開催し、IWJはその様子を中継した。

「普通の市民が、こうやって集まって来る選挙って、多分なかったと思います! 
政治とか『面倒くさい』と思っていた人が、今、公園をいっぱいにしようとしています!」

この日の札幌は、朝から雨が降り続き、気温も昼過ぎの時点で8度前後。
そんな悪天候の中、公園に集まった池田候補の支援者の姿を前に、この日司会を務めた山田さんは、驚きの声を漏らした。

主婦、弁護士、看護師など、一般市民が、次々とマイクをバトンタッチし、代わる代わる池田候補を応援するリレートークを行い、最後に池田候補のスピーチで締めた。
公園に集まった支援者たちは、「政治を変える、市民が変える」と書かれたプラパードを掲げ、声援を送った。
厚い雲で覆われた札幌の空を背景に、池田候補のイメージカラーのピンク色が映えた。
集会には、車椅子で参加された支援者の姿も、複数あった。


▪️「初め彼らは無視するだろう。次に笑い、そして挑みかかってくるだろう。しかし、最後に我々が勝つのだ」


▲政治団体「市民の風」の川原茂雄さん

応援演説のマイクを握った、政治団体「市民の風」の川原茂雄さんは、
「池田真紀さんを当選させようとする風が吹かなければ、選挙は絶対勝つことはできません。
ここにいる皆さんひとりひとりが、風になって、イケマキ旋風を巻き起こそうじゃありませんか」
と訴えた。

そして、池田候補が尊敬するという、マハトマ・ガンジーの言葉を紹介し、会場を盛り上げた。

「初め彼らは無視するだろう。次に笑い、そして挑みかかってくるだろう。しかし、最後に我々が勝つのだ!」

また、「野党統一候補になるまで、彼女の孤独な戦いを、ずっとそばで見ていた」というくましろちかこさんは、
「池田さんは、人生のどん底をみて、人間の本当に悲しいことを知っています。
不幸な思考の人すら、理解できるのです。
『だれひとり置いて行かない、置いてきぼりにしない』という池田さんの政治理念は、すべてのひとを受容し、対話し、安心させることが基本です。
こんな希望を、今まで政治に見出したことが、私はありません」
と、池田候補を押す理由を語った。


▪️「自衛官にだって、基本的人権があるんです。それを、一内閣が奪っていいわけがないんです」

自衛官の人権弁護団という活動をしている、弁護士の神保さんは、自らの活動体験に触れ、安保法制廃止を訴える、池田候補への支援を訴えた。
自衛官の関係者を対象とした、電話相談を行ったところ、相談件数は、昨年9月時には35件あったが、今年3月は7件に激減したという。

「自衛隊の方が、みんな安心になったから、電話が減ったんじゃないんです。
(相談者が)電話口で教えてくれました。
圧力がかかっています
そういう電話相談にも電話するなと、言われているのだそうなんです」


「自衛官だって主権者です。自衛官にだって基本的人権があるんです。それを一内閣が奪っていいわけがないんです」


▪️「貧困に脅かされながら、上から富が落ちてくるのを待つような、そんな暮らしを望みません」

看護師のさがさんは、生活に困難を抱えた患者さんの、深刻な現実を目の当たりにした体験を語り、
福祉の現場に身を置いてきた、池田候補への投票を呼びかけた。

「ある人は、怯えたような表情で、周りの目を気にしながら、『支払いは少し待って下さいませんか』と、小さな声で言いました。
少ない年金から、分割で医療費を払ってきた高齢の患者さんは、『こんなに歳をとって、支払いもできず、人に迷惑をかけるなら、早く死んでしまったほうがいい』、そう言いました」


「(安倍政権は)国民の生命、財産を守る、社会保障にかけると言いながら、どんどん予算を削って、
やっていることは、税金、自己負担を上げて、大企業にお金を回し、憲法解釈をねじ曲げて、自衛隊を戦地に送ることを決めました。
貧困に脅かされながら、上から富が落ちてくるのを待つような、そんな暮らしを望みません」


「池田さんは、福祉の現場で、私が体験したよりも、もっと多くの困難に直面しながら、弱い立場の人に寄り添い、制度の限界と矛盾の中で、立ち向かってきた人です。
自民党政治が蔓延させてきた、自己責任論という弱者切り捨てに、正面からノーと言える人です」



▪️「すべての人に、力があり、チャンスがあり 希望があります。
だから私は、すべての人が安心できる、社会を作りたいんです」~池田真紀候補


池田候補は、最後にマイクを握り、福祉への道へと進むきっかけとなった、自らの生い立ちも交えながら、支援者に語りかけた。

「私は、家庭内暴力や、家族がばらばらになったり、シングルマザーだったり。
なんでこんなに、生きにくい差別や偏見がある世の中なのでしょうか。
同じ思いをする人を作りたくない。
だから私は、福祉の道に進みました」


「福祉の道で、20年間で会った人は、いろいろな苦労、生きづらさ(を抱えていた。しかし、その原因は)それは社会の中にあったんです。
その人が悪いわけではない。
すべての人に、力があり、チャンスがあり、希望があります。
だから、私は、すべての人が安心できる社会が作りたいんです」


また、熊本地方で発生した大地震についても触れ、要援護者支援の大切さを説明した。

「(援護が必要とする)福祉の人たちは、よりいっそう時間がかかります。
平成18年、19年には、福祉施設のなかで置いてきぼりにされている、この防災災害の避難計画、事業継続計画について、取り組ませていただきました。
しかし、その間は、全部民間任せ、施設任せ、私たち当時者任せです」


「一刻も早く、逃げ遅れている人たち、日頃から支援を必要としている人たちの、避難をさせて欲しい。
安全なところに、余震のないところに、避難させて欲しい。
ボランティアが駆けつけるものいいけれども、そこはもしかしたら危ないかもしれない」


政府が真剣に取り組まなくてはならない、政治ではなければ解決できない問題なんです」

会が終わると、池田候補は街宣車に乗り、700メートル近くある厚別中央公園の、外周をまわった。
公園には、支援者による、「イケマキ!」の声援が響いた。
(取材・沙織、記事・青木浩文)

政治は心ある人に託したい!だから池田まきさんを、政治の世界に送りたい!日本改正、北海道から始まるよ!

2016年04月20日 | 日本とわたし

http://join-ikemaki.net



北海道5区衆院補選が、24日に行われます。
「北海道5区の選挙が、アメリカに暮らすあなたに、いったい何の関係があるの?」と聞かれたら、
5年前のわたしなら、「まあとりあえず日本国内のことだしね、でもやっぱ、ほとんど関係無いかもね」と答えていたかもしれません。
でも、今は違います。
関係大アリ過ぎて恐ろしいぐらいです。
政治が、暮らしの隅から隅までの物事や心象に、深く濃くつながっていることが、この5年間の学びの中ではっきりとわかったからです。
忙しいからとか面倒だからとか、小さな子どもがいるからとか、関わるとリズムが崩れるからとか言い訳せずに、
もっと若い頃から、物事の裏側や側面を、見つめ、考え、疑問を持ち、すでに行動している人たちにつながるべきでした。
そうすることで見えてくる山ほどの問題を、じっと見据える気持ちを、強さを、持つべきでした。
それらの問題に対峙することで、見えてくる失望や虚無感を抱えながらも、それでも希望を持って、足を前に一歩踏み出せる胆力を備え持つべきでした。

政治をちゃんと理解することが、これほど大切だと、わたしは50歳を過ぎてから知ったのだけど、
いったいどうして、こんなに時間がかかってしまったのかと、首をひねりひねり考えてみると、
家庭でも、学校でも、そして職場でも、政治に関する話を、家族や友だちや同僚と、したような覚えが無いし、教えてもらった記憶もあまりありません。
たまに政治のことを話そうとすると、「そんな話は今はいい」とか言われることが多かったし、興味も知識も無い人が多かったように思います。

このような社会の『雰囲気』、『質』は、長い年月と相当なお金と、ありとあらゆる場で展開された『政治のことは考えなくて良い』という啓蒙運動によって、見事に作り上げられたものです。
そしてそれは、一党独裁をずっと続けてきた(2度ばかりの、短期間の入れ替えがありましたが、二度とも大震災が起こり失脚しました)自民党にとって、もっとも望ましい雰囲気であり質だったわけです。

今の日本の投票率の低さは、独裁者たちにとっては最高の状況です。
だから、メディアを使い、さらに下げようとします。
そうしておきさえすれば、自分たちの思い通りに、やりたい放題が続けられるからです。

日本は、地球規模の重大な汚染を垂れ流し続ける、問題国となってしまいました。
地震がどこかで必ず起こる、そういう特殊な運命を持つ国土とわかっていながら、膨大な核物質を扱う非常に危険な施設を、続々と海辺に建て続け、
心配をする人、警告をする人、反対をする人の声を無視し、知識や疑問を持とうともせず、ただただ利権と保身のために、でたらめな安全神話を唱え、国策として支援した自民党は、
あれほどの甚大な重篤事故を起こしてもなお、その時たまたま政権についていた人間を非難し、自らが進めてきた原子力政策については、何一つ検証も反省もしなかっただけでなく、
原発推進を再開し、原発を販売し、大地震と余震に揺れ続ける地域にある原発の停止をしないと公言し、停止中の原発の再稼働を促しています。

無責任な原発政策、運用失敗で巨額な損を出した年金、でたらめなTPP承認、露骨な言論統制、ごり押し戦争法案、戦前回帰のための改憲、ヘイトスピーチの放置、
すべての世代に増幅している貧困や負担、暮らしに打撃を与える消費税増税、被災者に対する棄民ともいえる放置、そして秘密保護法と自由盗聴法…。
今まで陰に潜んでいた日本会議や神社庁が、とうとう公の場に堂々と姿を現し始めたのは、
この安倍政権で一気に、これまでの年月をかけて築き上げてきた、彼らの望む日本社会の実現を、叶えようとしているからに他なりません。

この今の自民党に、力を与えてはいけません。
力を削がなければなりません。
政治家だけではない、非常に強力な執念が、政治という姿を借りて蠢いています。
それに日本が飲み込まれるようなことが、起こってはなりません。

そのためにはまず、これからの選挙は、どこの選挙であろうと、これはわたしたちみんなの闘いだということを、認識しなければなりません。
北海道五区は、日本全体の、わたしたちみんなの闘いです。
続くあらゆる町の、市の、県の選挙も、日本全体の、わたしたちみんなの闘いなのです。

そのことに気づいた人たちが、日本全国から、そして海外から、スカイプ電話などを使い、応援運動をしています。
その運動を展開できる時間は、24日の投開票まであと3日もありません。
手伝ってみようかな、と今思った人、ぜひぜひ、こちらに連絡してください!

↓↓↓

★★運営から★★
まだ、電話作戦に参加できてない方?
参加の仕方が分からない方?
「参加します」と黒川までメッセ下さい。
(確認せず全員に送っています。
すでにスタートしている方、スルーしてください。
重複して送ってしまっていたら、ごめんなさい。)

<黒川メッセ>

https://www.facebook.com/messages/atsuhiko.kurokawa

順次チームに、割り当ていたします!

<そもそもイケマキ電話作戦>
安保も原発もTPPも進めさせないために、
北海道5区選挙で、
自民党の出鼻をくじくことが大事です。
遠方の方でも、1時間とか時間を見つけて、
電話をかけて、イケマキを応援してください!
市民の力を結集して、勝ちましょう!

<イケマキ電話作戦>

https://www.facebook.com/events/627690567383942/







↓以下は、池田まき応援隊イケマッキーズの方からのメッセージです。

北海道5区の補欠選挙、今月24日投票の候補者である、池田まきさんを応援しています
かなり接戦で、最後までわからない状況です。
北海道5区のお知り合いの方へ、池田まきさんへの投票を、お願いしていただけないでしょうか?
知り合いがいない場合でも、北海道の方へ広めて下さると、5区に知人がいる方がいらっしゃると思います。
熊本で被災された方からも、池田まきさん応援に全力を!と、力強いメッセージをいただきました。
突然のお願いで申し訳ありません。
23日の夜8時までは、投票依頼が出来ますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 
5区は、札幌市厚別区、江別市、千歳市、恵庭市、北広島市、石狩市、当別町、 新篠津村です。

JOINイケマキ「池田まき」さんの選挙に参加するための情報サイト
http://join-ikemaki.net/

私がなぜ、池田まきさんを、北海道5区の補欠選挙で応援しているのか?を、書きたいと思います。
少し長くなりますが、最後まで読んでいただけましたら幸いです。

私は、3・11で、原発事故の被害を受けるまでは、政治に無関心な一人でした。
それまでは、選挙というと、親から投票に行けと頼まれ、薦められるままに、自民党に入れていました。
原発事故で、子どもに顔中に、見たこともない発疹が出て、病院で薬も処方されましたが、
北海道に避難するまで治らず、このままでは子どもの命がなくなる!と、全財産を捨て、
親や兄弟、親戚、従業員、お客様、故郷を手放し、知り合いもいない北海道に、自主避難しました。

自主避難者は、国も東電も、補償はしません
それどころか、福島で、病気や突然死が増えても、「放射能の影響は無い」と言われ続けました
この5年間、私たちは、苦しみと怒り、悲しみといった感情の中で、自力で、なんとか生活を立て直すしかありませんでした。
原発事故は、民主党政権の時に起き、当時の対応にはもちろん不満がありますが、
菅首相があの時、福島原発から逃げようとする東電に乗り込んで怒鳴らなかったら、日本全体が大変な大惨事になっていたと思います。

私は、その時から、国民の幸せや命のために動く政治家を、選ばなくてはならないと気付かされました。
3年前の選挙で、自民党が圧勝したことには驚きました。
なぜ、福島の人までも、自民党に入れたのかと。
自民党は、日本中に、原発を54基もつくり、安全だと国民に宣伝し、推進してきたのに!
「自民党は、選挙の公約で、脱原発を声高らかに言っていた」と、福島の人が言いました。
その公約は、当選した途端にあっさりと破られ、真逆の原発推進、原発輸出へと、動いていきました
そればかりか、今度は、企業が海外に武器を売ることが出来るように法律を変え
情報を国民に知らせない秘密保護法や、自衛隊が海外で戦争出来る安保法案など、
憲法を無視し、国民の反対を無視して、次々に強行可決していきました


そして驚いたことに、自衛隊が、海外に戦争をしに行くだけだと思っていた自民党の憲法改正が、
実は、私たち国民の人権や、自由の在り方を、大きく変える内容になっている
ことを、弁護士さんの講座で知りました。

今でさえ、被災者が切り捨てられ、老人や子どもの貧困、若者の非正規雇用、子育て世代の負担、消費税増税、年金削減など問題が山積みで、将来に希望が見えない社会で、
今度は、人権や自由まで奪われ、国民が監視されながら生きる世の中になる、そんな危険性を持つ自民党の憲法改正草案

そんな時代に生きるなんて、嫌だ。

この恐ろしい憲法改正を止めるには、自民党、公明党を、選挙で落とす以外に方法はありません。
今まで安倍政権がやってきたことを見れば、憲法改正は必ずやるでしょうし、安倍首相も「必ずやる」と国会で明言しています。

北海道5区補欠選挙で、野党統一候補の池田まきさんが勝てば、国民の世論が野党に向いていると考え、
参院選と衆院選のダブル選挙(ダブルでやると自民党、公明党が有利)をやらずに、参院選に絞ってくる可能性があります。
池田まきさんを勝たせるために、共産党、民進党、社民党などの野党が一つになるなど、日本史上で初めての歴史的なことではありますが、
そうでもしないと勝てないほどに、安倍政権は力を持ってしまったという現実を、認めなければなりません。

池田まきさんは、市民の要請を受け、町村さんの地盤が強く、勝ち目がないと言われる選挙で、
プレッシャーの中、眠れない夜を過ごし、選挙に出ることを決断しました。
私は、避難したばかりの頃に、避難者が主催した生活保護の講座を受けに行き、話を聞きました。
池田まきさんは、その講座で、講師として話し、母子避難者で、旦那さんと別れ別れになり、苦しんでいるママと向き合い、真剣に話を聞いていました。
その池田さんの姿が、ずっと脳裏に焼き付いています。
家庭内暴力に怯えながら暮らした幼少期、母子家庭で二人の子どもを育ててきた波瀾万丈な人生の中で、
苦労してきた池田さんだからこそ、人の痛みが分かるのです。
一人一人に寄り添わずにはいられない、それが池田まきさんなのだと思います。


経済という言葉は、聞こえも良く、お金さえあれば、何でも手に入る世の中かもしれません
だけど、「アベノミクスで、市民の生活は良くなった」と言う人は、私の周りにはいません
聞こえてくるのは、
「給料が安いのに、税金が高くてやっていけない」、
「職場のパワハラやストレスで、睡眠障害になった」、
「リストラに怯えている」、
「うつ病になった」、
「夫が休みがなく、いつも疲れ働いている」、
「子どもの不登校で悩んでいる」、
「お年寄りが引きこもりになっている」、
「年金はもらえないし。老後が心配」…。


池田まきさんは、福祉のスペシャリストで20年、現場での実績があるすごい人で、福祉と社会保障の仕組みをしっかりとつくるという政策を掲げています
私は、国民のために動く、心のある政治家を選ばなければいけないし、
平和で安心な生活をするためには、自分が選んだ政治家を、その後も支え協力することが大切なんだと気づきました。
だから私は、心のある政治家として、池田まきさんを本気で応援し、
政治家任せではなく、自分が日本を変えるんだ、という意識で動くことが大事
なんだと思います。





北海道5区は、3つに分けられる。
北から
①与野党が拮抗する石狩市・石狩振興局管内、
②野党優勢の江別市・札幌市厚別区・北広島市、
③保守が強い南部の恵庭市、そして圧倒的保守地盤の千歳市。



↓以下は、一昨々日の18日現在の報道です。


投票日まで1週間を切った、衆議院道五区補欠選挙。


朝日新聞社は、電話調査と取材で得た情報を加え、情勢を探った。

調査は、コンピューターで無作為に作成した電話番号に、電話をかける方式。
北海道五区の有権者を対象に行われた。


無所属の新人池田まき候補は、20年、福祉に携わった経験をアピール。


「安心社会の仕組みを作ります。
みんなで、市民の声、そして地域の声を、政治に届ける、新しい政治を作ろうではありませんか」


「野党統一候補」の池田氏は、民進、共産両支持層の8割以上を固め、無党派層からも6割の支持を得ている。
職業別では、主婦層の支持が厚い



和田候補は、20年、大手商社に勤めた経験を武器に、訴えている。


「経済の和田義明です。
力強い経済を持って福祉社会保障医療介護子育て家庭の支援子供の教育の財源をしっかり作る」


故・町村信孝前衆院議長の娘婿で、地域政党「新党大地」の支援を受ける和田氏は、自民、公明の両支持層をまとめているが、
無党派層の支持では、池田氏に後れをとっている

いずれも、有権者の4割前後は、投票態度を明らかにしておらず、情勢が変わる可能性もある。















和田氏は、公明党の得意技、送り迎えボランティアによる期日前投票や、組織票で、票固めをしています。
位牌まで持ち出して、地域の結束が強い有権者の情に訴えています。
それに対し、池田さんは、市民の、その中には夜を徹した支援も少なくない協力によって、じわじわと追い上げてきました。
投票態度を明らかにしていない、有権者の4割前後。
この数は決して少なくありません。

池田さんは、福祉の現場で20年、現場を知り抜いている人です。
こういう人だからこそ、本当に困った人の声を聞き、それを心に留め、なんとかしようと行動してくれる。
机上の計算は得意でも、お金儲けがうまくても、政治家はまず心が無かったらだめなんだということを、安倍政権によって痛感させられました。

わたしたちは、まだまだ頑張ることができるし、まだまだ変えることができます。
わたしたちも、ここアメリカから、電話で応援運動を展開しています。
電話が苦手な人は、他のどんな方法でもいいです、どうか、どうか、協力していただけませんか?
この、参院選の前哨戦として、今後の日本を政治を占うとも言われる、本当の本当に大事な、極めて大きな意味を持つ選挙です。
その意味が今イチわからない人も、騙されたと思って、池田まきさんの当選を支えてください!お願いします!


おまけに、ちょっと楽しい絵を見つけたので、貼り付けておきます。

自民党原発政策の正体→全然笑えないぐるぐる4コマ劇場『私、原発の責任を取るつもりは毛頭ございません』

2016年04月20日 | 日本とわたし
こんなふうに、自分には何の責任も無いし、責任を取るつもりはないと言って、自民党は、何十年もの間、原発を粛々と、こんな地震だらけの国土に建て続けてきたのです。



原発の危険性を指摘し、警告を与えた人たちを、全く相手にせず、自分たちの無知が作り上げた安全神話の幻想を、メディアを使って吹聴し、
それにまんまと騙されたわたしは、重篤な原発事故が起こるまで、安価で安全な電気をつくる発電と謳われていた原発が、どこにどんなふうに建て増しされているかも知らずにいました。

原発はどういうものなのか。
快適で便利という電化生活を享受することと引き換えに、いくらデタラメの情報が世に蔓延っていたとはいえ、増築を見過ごしてきた原発の本性を知った時、
わたしは本当に、自分自身に腹が立ち、情けなく思い、まだ若い人たち、子どもたちに、心の底から申し訳ないという気持ちになりました。

もうすぐ北海道5区の補選を先頭に、国政選挙がやってきます。
今の自民党安倍政権の、政策や公約に対する責任感の無さ、デタラメさには、2万字の文字制限ですら軽々と突破するほどに書きたいことがありますが、
この原発に関してだけでも、この政権のいい加減さは際立ってひどい。

今、日本は、気象庁が連日の記者会見を開き、




と言っています。

実際に、地震が続いているし、発生する地域も移動しています。
先日は、奈良方面で、そして東北で、小さいとはいえない規模の地震が発生しました。

そんな状況の中で、次々に原発の再稼動を促す政権…もうそこには人としてのモラルが消えてしまっているとしか思えません。
本当ならまず、これまでの原発政策を猛省し、検証し、訂正や廃炉を実行するべきで、間違っても推進を継続するなど有り得ないはずです。
なのに、福島の事故で、これが無かったらもっと甚大な被害が出ていたと言われている免震重要棟も無いままに、これだけの原発が申請しているのです。


今、執拗に停止を拒んでいる川内原発や、7月に再稼働などと言っている伊方原発も入っています。

これだけでも、とにかく自民党という政党に、力を持たせてはいけないということがわかります。
日本はこの際、戦前回帰を目論む団体に所属せず、市民のために動いてくれる人を、ひとり、またひとりと、議員として国会に送り込むべきです。
だからこの、衆院の北海道5区の補選を始めとするどの選挙でも、今回ばかりは野党に一票!と、お願いしたいと思います。
そしてどうか、棄権しないでください。
棄権もまた、同じく自公に力を与えてしまうからです。

米国『小さな町の公園を守ろうとする人たち』事情

2016年04月20日 | 米国○○事情
先週末は連チャンで、マンハッタンに出かけた。
とうとうしっかりと着地してくれた春は、街の通りに、お店に、惜しみなく光を注いでいた。
用事があって出かけたのだけど、その用事については、このブログに書かないでほしいと、関係者の人から頼まれてしまったので書かない。

場所はイーストサイドのダウンタウン。
ちょっと歩くとチャイナタウンに入っていく。


日差しは温かだけど、風はまだ肌寒い。
春は黄色から。


小腹が空いたので、教えてもらったレストランを探し出し、雑穀米と豆のカレーをいただく。
夫は、納豆入りの野菜カレー。



マンハッタンでは、連立する高層ビルディングの隙間に、突如公園が現れる。
近所に住む人たちが仲間で使うものだったり、誰でも気軽に楽しめるものだったり。
これは公共のものっぽいけど、何やら様子が変だ。


聞くと、ビル建設のために取り壊そうとされているらしい。
これは、それを阻止するための署名と募金集め。


机のそばに立っている青年は、前に立命館で勉強していたのだそうだ。

いろんなものが好きなところに置かれている、なんとも不思議な空間。










よくよく見ると、十月と書いてある。


ビルディングという金の象徴が、自然や憩いを求める人たちの場を、またひとつ減らそうとしている。


こんな楽しい公園も。



二日続きの長いお留守番をさせられた、空ちゃんと海ちゃんが待っている。

木と夕焼け。


橋と夕焼け。


飛行機と夕焼け。


「いじましいんですね、みっともない憲法ですよはっきり言って」この男をまず政界から追放することが肝要

2016年04月19日 | 日本とわたし
あまりにも凄まじい曲解、というより、読解力ゼロ以上の、異常なまでの思い込みに、本当に背筋がゾッとしました。
このような人間を、首相などという地位に就かせていてはなりません。
もう本当に危険です。
日本の有権者全員に向かって叫びたい。
投票しないとマジでヤバいよ、日本!




質問者:
日本の強みとなる、核となる何かが足りていないのではないかと思い、自民党としては、今後どのような分野の政策に、最も力を入れていきたいと考えていますか?

安倍首相:
あの日本国憲法の前文にはですね、
「平和を愛する諸国民の、公正と信義に信頼して、我らの生存と安全を保持しようと決意した」
と書いてあるんですね。

つまり、
「自分たちの安全を世界に任せますよ」
と言っている。


どんなふうに解釈したらこんな認識になるんだと、うんうん唸って考えました。
多分、諸国民というのを、諸外国の国民というふうに勘違いしていて、それを周りの誰も指摘しないままっていうことなのでしょうか?



そして、
「専制と隷従、圧迫と偏狭を、この地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」

自分たちが、専制や隷従、圧迫と偏狭を無くそうと考えているんじゃないんですよ。
国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと。


それを褒めてもらおうと…って。
いやもう、幼児じゃないんだから…。
国際社会において名誉ある地位を占められるよう、日本の中にはびこっていた専制と隷従、圧迫と偏狭を、除去すべく努力しよう、という呼びかけを、
どういうふうにしたら、国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと、という解釈になるのでしょうか?



ま、いじましいんですね。
みっともない憲法ですよ、はっきり言って。
それは、日本人が作ったんじゃないですからね。

そんな憲法持っている以上ですね、外務省も、自分たちが発言するということは、憲法上義務付けられてないんだから、
それは国際社会に任せるんですからね、精神がそうなってしまっているんですね。
そっから変えていくことが大切だと、私は思ってます。


こんなトンデモな男を、政治の世界から追放することが、まず一番、我々有権者が力を入れていかなければならないことだと、わたしは思ってます。


大地震が続いていても原発を止めず、救済よりも政治利用に執着する、世にも愚かで醜い安倍政権の面々

2016年04月18日 | 日本とわたし
熊本県と大分県で、とても大きな地震が起こり、今もまだ、震度6近い地震が続いています。
震度1以上の地震が600回を超えるというのは、どれほどの恐怖と心配をもたらすか、被災しておられる方々の胸の中を思うと、本当にたまらない気持ちになります。

規模の大きな地震が相次いでいる熊本県と大分県では、18日夜も、震度5強の揺れを観測する地震が発生しました。
震度1以上の地震は、これまでに600回を超え、気象庁は、引き続き激しい揺れを伴う地震が起きるおそれがあるとして、警戒を呼びかけています。
今月14日の夜に、熊本県で、震度7の激しい揺れを観測した地震が発生して以降、
今月16日には、熊本県や大分県で、震度6強や6弱の激しい揺れを観測する、マグニチュード7.3の大地震が発生しました。
その後も、規模の大きな地震が相次いでいて、18日午後8時41分ごろには、熊本県阿蘇地方を震源とするマグニチュード5.8の地震があり、
阿蘇市と産山村、それに大分県竹田市で、震度5強の揺れを観測したほか、震度5弱を、熊本県南阿蘇村と高森町で観測しました。
熊本県と大分県で、今月14日の夜から19日午前11時までに発生した地震では、
震度7が1回、震度6強が3回、震度6弱が3回、震度5強が2回、震度5弱が6回、震度4が72回と、
震度4以上を観測した地震は、合わせて87回に達し、震度1以上の地震は、606回に上っています。
気象庁は、今後1週間程度は、引き続き激しい揺れを伴う地震に警戒するとともに、地盤が緩んでいるとして、土砂災害にも警戒を呼びかけています。
【NHKニュース】4月19日 11時48分



いまだにこのような厳しい状況ですが、これまでの経過を簡潔にまとめてくださったmzpontaさんのブログ『みんなどこか変わってるか…』の記事を紹介させてもらいます。

九州大地震
http://d.hatena.ne.jp/mzponta/touch/20160416/p3

熊本県に続いて、大分県でもたいへん大きな地震が起きました…と、
過去形で書けないような状況が現在も続いています

今、政府(地元自治体を含む)は、被災者の救出と救援に全力をあげるべき時…で、
それ以外のこと(で、急を要することを除いては)は、全部後回しにしてもよいくらいです。

そんなことは、ぼくが言うまでもなく、おそらくみなさんがそない思ってはることでしょう。
けれども、なぜか、地震の被災者の救出や、救援以外のことに、先に神経が向いてる人たちもいるようで、

例えば…、





この2枚の写真は、熊本県で最初の大きな地震があった日の、翌日のニュースの映像ですが、
九州本土の中で、なぜか「鹿児島県だけ」が、震度を表示する地図からカットされてました。
(これは、ぼくがとってる朝日新聞の、紙面に出てた地図でもおんなじ…でした)

これはただの偶然か?…いや、そんなはずはない。

だって、(NHKの地図では)本州の山口県や、四国は愛媛県の震度まで表示しているのに。
地震の震源地であった熊本県の、隣接県である鹿児島県だけが、地図からカットされてる
のは、

どない考えたって、おかしい…。

ぼくは、このニュース映像を見て、すぐにそない感じたんですが、
もしかして、それは「ぼくの考えすぎ」で、鹿児島県ではそれほどの揺れがなかった可能性もある…。

と思って、15日に、ネットで鹿児島県の震度を調べたら、それがなかなか見つからない…。

で、ようやく、「Yahoo知恵袋」の回答欄から、気象庁HPで、各地の震度が記述されてるページを知りました。
そのコピペがこれです↓


やっぱり、鹿児島県でも、最大震度4を観測してる…。

それなのに、なんでNHKは、各地の震度を示す地図から、「鹿児島県だけ」をカットしたのか…。

ぼくは、あの「鹿児島カット地図」を見たとき、すぐに、

「これは、現在稼働中の、鹿児島県川内核発電所周辺の震度を、表示したくないんだろうな」
(=川内核発電所の近くで大きな地震が起きた…ということを、視聴者に明示したくなかったんだろうな)


…と思ったんです。

メディアは政府ではありませんけども、視聴者が知りたいと望む情報、あるいは、視聴者に知らせるべき情報を伝達する、「社会的使命」があると思います。

その「使命」を果たすことよりも先に、こういうコト(=鹿児島県の震度を隠すこと)に神経を使う…というのは、
ぼくの感覚では「考えられないこと」でありますが、

じゃ、なぜNHK(やANN)は、「鹿児島県カット地図」を用いて放送したのか…を考えてみると、

それは「政府の意思を忖度したから」、としか思えないのです。
(これはぼくの「考えすぎ」なんでしょうか…)

16日になってから、それまではほとんど出てこなかった、鹿児島県の震度や川内核発電所関連の情報が、
メディアでもようやく出てくるようになりましたが、それはこんな情報でありました↓





稼働中の核発電所のすぐそば(隣県)で、大地震が立て続けに起きたなら、
少なくとも、大きな余震の危険はなくなったな…と思えるまでは、核発電を一旦止める…というのが、

隣県で被災している人たちや、川内核発電所周辺に暮らす人々、
ひいては、それ以外の、日本の市民の不安感を、少しでも和らげることにつながる…とぼくは素朴に思うんですが、

政府は「川内核発電所内の地震計が、自動停止の基準を下回ってるから」という「形式的理由」を盾に
被災者をはじめとする、ぼくたちの不安感の軽減には、務めてくれないのでした。

それは…、



「ここで止めれば、再稼働がさらに困難になる」…という理由なのか、それとも、
「こんなことでイチイチ止めたら、困った前例になる」…という理由なんでしょうか。

(いずれにしても、政府が、被災者や、川内核発電所周辺住民の不安感の軽減よりも、核発電所の稼働を優先していることに間違いはありません)


ここで、再稼働された川内核発電所のことを、少し思い出してみると…。





フクイチの爆発事故時の東電社長でさえ、「あれがなかったらと思うとぞっとする」と言った、
「免震重要棟」もないままに、川内核発電所は、再稼働が認められたのでした。

「免震重要棟」がなくても稼働できます…という新規制基準なんて、核発電所を規制する基準ではなくて、稼働を推進する基準としか思えません


また、ぼくは、こんな「驚愕するようなコト」を今、初めて知ったのですが…↓






フクイチで経験したように、大地震が核発電所の過酷事故の引き金になる…なのに、
大地震では止まることが確実な新幹線で、避難するから大丈夫…と言って、再稼働に突き進んだ…なんて、

これは「ギャグ」なんでしょうか…(と言いつつ、こういう問題で「ギャグ」を言う神経が、ぼくには理解できません)
(また、大地震のときには「道路が寸断される」ことが多いところ。
バスが足りるとか足りない…なんていう話をしてるのも、これまた「ギャグ」のような話じゃないですか)

…と、いつのまにか、川内核発電所の話に重点が移ってしまいましたので、
ここで、もとの九州大地震の話に戻りますと、

熊本で、最初に大きな地震があった14日の翌15日に、安倍首相は、
「屋外で避難している被災者を、屋内に収容すること」を、指示したんでした。

ぼくは、この指示を聞いたとき、はたしてこれは、「被災者のための指示」なのか?…と、強い疑問を感じたんですが、
それは被災県の知事もおなじだったようで…↓


あの時点ではまだ、「いつ大きな地震がくるかわからない」から、屋外に避難してる人たちがたくさんいた…であろうに、
そういう心情(…というか当然の心配)を無視して、「とにかく屋内に」というのは、
何か他の理由があるんじゃないのか?
…と、勘ぐらずにはいられません。

(…と言いつつ、安倍首相には、「被災者の心情や不安感に対する想像力」が、まったく無かった可能性もあります)


でも、大規模災害時(特に大地震時)の想像力が働かないのは、安倍首相だけではなく…、



考えてみたら、核発電所の過酷事故が起きたら屋内避難…とゆうのかて、
その過酷事故の引き金が大地震であったなら、怖くて家の中になんかいてられないはず
…だったんでした。
(…と言いつつ、正直に白状すると、ぼくも今まで、そういう想像力がありませんでした…あぁ、恥ずかし…)

ちなみに、「被災者の心情(不安感)」への配慮よりも、何か別のことを優先したがってるのは、
安倍首相だけ…ではなく、この人もまた、今、このタイミングで、こんなことを言い出してるんです↓



(なんか、あの人たちは、「九州大地震」以外のことを考えすぎやないのか、これ…?)

でも、こんなトンチンカンなことを言ってる人たちに、憲法の「緊急事態条項」を使わせたところで…、



肝心の「緊急事態」の収拾には、何の効果もない…どころか、
かえって収拾を遅らせ、さらには被害を拡げる…なんてことにもなりかねません。
(…というか、そうなることはほぼ確実…やろね)

でも、冷静に考えてみれば…、



…のであり、



憲法に「緊急事態条項」がないと、にっちもさっちもいかんのか?…と言えばそんなことはまったくなく、

このタイミングで、こんな「関係ない話」をするのは、
「火事場泥棒みたいな振る舞い」
であろうかと、ぼくは思います

ということは…、



「緊急事態」に求められる、当然の対処さえできない人たちに、「緊急事態条項」を与えたところで、
そんなものは百害あって一利なし…であることは、確実であります。


安倍首相はこの他にも、まだ被災者の救出・救援の真っ最中…であろうことが確実な16日に、
なんと、「現地視察」することをブチ上げてた
…のでありますが、

これもまた、「被災者のこと」よりも「その他のこと」を優先して考えてる、としか思えない「思いつき」であり、

じゃ、何を「被災者」より優先してんのか?…と言えば、
それは多分、「安倍首相自身」
なんじゃないかと、ぼくは思います。

↑以上転載おわり


その、多くの人が、とりわけ地元や近県で被災しておられる人たちが心配している『川内核物質発電所』ですが、
とても恐ろしい事実を(もちろん全く報道されてないでしょうけれども)、原子力規制委員会の臨時会見の場で引き出してくださったマコさん。

熊本地震の長周期地震動は、川内原発の評価基準を超えていた!!
【おしどりボータルサイト】2016.4.18
http://oshidori-makoken.com/?p=2199

その報告からの、この『3行まとめ』↓を読んでください。


気象庁が、南西方向にも震源が移動している、という評価を出しました。
南西というと、川内原発に近いところです。
そのことについての回答がこれ。

「(熊本地震で)今まで起きた最大の地震でマグニチュード7.3。
この付近の全部の断層が一度に動いたという評価でマグニチュード8.1。
それでも、152ガルくらいの揺れしかない」


だから?と、わたしは腹の底から叫びたいです。
東北大震災の教訓が、ここでも全く生かされていないし、思考のもとにもなっていない!

そして極め付けがこれです。



深刻な地震がいまだに続いている地域近辺の原発を、何が何でも止めないばかりか、
万が一の場合の避難計画については、全くあやふやなまま。
どうして止める必要がないというのかというと、
「それは規制委員会が安全だと評価している」からと、丸川原子力防災担当相が言い、
その規制委員会委員長の田中氏は、
「技術的・科学的には安全。予防的に川内原発を止めるかどうかは、政治的判断」と言う。

こんないい加減な態度で済ましている人間を、核物質発電に関わらせていること自体が間違いだと思います。
これはもう、国の存続にかかっていることなので、こんなことをいつまでも言い続けて誤魔化そうとしている政治をまず、変えなければなりません。


安倍官邸が最初の地震の後、熊本県の支援要請を拒否!
菅官房長官は震災を「改憲」に政治利用する発言

【LITERA】2016.4.16
http://lite-ra.com/2016/04/post-2166.html

「事は一刻を争う」
「被災者救助、支援に万全を期す」

安倍首相は今日4月16日、昼前に開いた非常災害対策本部会議で、関係各省を前にこう宣言。
菅義偉官房長官も会見で、自衛隊を、現在の2千人から2万人に増やすことを決定した、と胸を張った。
 
これを受けて、ネットではいつものごとく、ネトサポ、ネトウヨによる、
「さすが安倍首相の対応は迅速」「菅直人首相や民主党政権とは全く違う」などと、称賛の"やらせ"書き込みが拡散している。

まったく、冗談も休み休み言ってほしい。
今回の熊本大地震に対する安倍政権の対応は、とてもじゃないが「迅速」と呼べるようなシロモノではない
首相は今頃になって、「事は一刻を争う」などと偉そうに言っているが、
当初は地元の要請をはねつけ、その結果、被害をさらに拡大させた形跡があるのだ。

そもそも、14日、1回目の地震が起きた時点で、熊本県では、行政機能がマヒしている地域がいくつも出てきており、
同県の蒲島郁夫知事は、政府に対して、主導的に災害対策に取り組んでもらえるよう、「激甚災害の早期指定」を求めていた
ところが、政府はこれを取り合わなかった

ちなみに、東日本大震災で、あれだけ対応の遅れが指摘された菅政権は、地震発生の翌日、激甚災害の指定を閣議決定しているが、
安倍政権は今日16日昼の時点でもまだ、指定していない(まうみ注・19日現在でもまだです)

自衛隊の増派についても、同様だ。
知事側は、最初から大量派遣を求めていたにもかかわらず、政府は当初、2000人しか出さなかった
そして今日未明、マグニチュード7.3の大地震が起き、被害の大きさを知ってから、ようやく増派を決定したのである。

「被災者の救出が遅れているのは、1回目の地震で行政機能が麻痺していたところに、2回目の地震が起きて、安否確認や救出が満足に行えていないから。
政府が、熊本県の求めに応じて、1回目の地震の直後からもっと積極的に動いていたら、もう少しこの混乱を防げたのではないかと思います」(熊本県庁担当記者)

その後も、安倍政権は、不誠実きわまりない対応を続けている
そのひとつが、安倍首相自身の現地視察見送りだ。
安倍首相は、昨日の政府会合で、
「現場を自らの目で確かめ、被災者の生の声に接し、今後の対策に生かす」と意気込んでいた。
ところが、マグニチュード7.3に達する大地震が起きるや、視察を見送ってしまったのである。

官邸は、現地視察を取りやめた理由を、
「被害の全容把握や被災者支援に、万全を期す必要がある」といっているが、そんな理由は成り立たない。
というのも、今日午前、与野党幹部が会って、週明けのTPP国会審議を行うと確認しているからだ。

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(まうみ注・そして実際に、TPP国会審議は行われました。
「安倍首相から、TPPの議論を、一歩でも先に進めたいと、"強い意向"があった」ということで…。
そしてその議会の中で、安倍首相は、
「リーマン(・ショック)級、あるいは大震災級の事態にならない限り、消費税は予定通り引き上げていく」と言ったのですね。
政界からは、
「震災対応に万全を期すなら、TPP審議だってできないはず。
それをやれるくらいなんだから、現地視察はできたはずだ」
と、疑問視する声が出ている。のだそうです。当然だ)

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「視察取りやめは、マグニチュード7.3の大地震が起きて、安倍首相が、さらに大きな地震が起きるかもしれない、と怖じ気づいたからでしょう。
安倍さんは、東日本大震災、福島第1原発事故のとき、菅直人首相(当時)の対応を、手厳しく批判しました。
しかし、菅さんのほうがまだ、自分で危険な場所に行っただけマシ。
安倍さんは、被害対策を地方に丸投げし、首相公邸に籠もりっきりですからね」(全国紙政治部記者)

安倍首相だけではない。
やはり今日、現地入りする予定だった石井啓一国交相は、九州新幹線の脱線現場などを見て回るはずだったのに取りやめた。

結局、政府が派遣したのは、災害担当の松本文明内閣府副大臣だけ。
しかもこの副大臣、蒲島県知事と面会するなり、
「今日中に、青空避難所というのは解消してくれ」と切り出し、知事から、
「避難所が足りなくて、みなさんがあそこに出たわけではない。
余震が怖くて、部屋の中にいられないから出たんだ。
現場の気持ちが分かっていない」と、怒鳴り返されるという失態を演じてしまった。

「蒲島知事は政府の後手後手の対応に相当、怒っていますからね。怒るのも無理はありません」(前出・熊本県庁担当記者)

これだけでも信じがたい対応だが、安倍政権は、現地の要望を無視しただけでなく、当初、この地震を政治利用しようとしていたフシがある。

1回目の地震の翌日夜、菅官房長官が記者会見で、熊本地震を引き合いに出して、
憲法の新設項目として、非常時の首相権限を強化できる、「緊急事態条項」の必要性を主張した


記者から、
「予想もしなかった大きな地震が発生した。早急な緊急事態条項の必要性をお考えか」と水を向けられると、
菅長官は、
「今回のような、大規模災害が発生したような緊急時において、国民の安全を守るために、国家、そして国民みずからが、どのような役割を果たすべきかを、
憲法に、どのように位置付けていくかということについては、極めて、大切な課題であると思っている」と述べたのだ。


改めて言うまでもないが、災害時の政府対応は、災害対策基本法が定める首相の「災害緊急事態の布告」でもって、主導的に行うことが十分可能で、
事実、東日本大震災の被災地に、政府の災害対応についての法改正が、必要かどうかをアンケートしたところ、
ほとんどの自治体が、「必要がない」という回答を寄せている


菅官房長官の発言は、明らかに「話のすり替え」であり、今回の地震を政治利用しようとした、としか思えないものだ。

「しかも、このやりとりは、シナリオがあったとしか思えないような、スムースなものだった。
おそらく、菅官房長官とべったりの、安倍応援団メディアの記者と、事前にすり合わせをして、質問させたんでしょうね」
(前出・全国紙政治部記者)

さらに、今日16日午後になって、今度は中谷元防衛相が、「米軍の支援受け入れ検討」を表明し、防衛省や自衛隊にも検討を命じたが、これも、露骨な政治利用らしい。

というのも、この米軍の支援については、今日午前の会見で、菅官房長官が、
「動員を拡大し、現地で活動することができるようになり始めているので、自衛隊で対応できる」と否定していた。
それが、一転、受け入れに動いたのは、安倍首相周辺が、強く「受け入れろ」と言ってきたからだという。

「安倍さんの周辺は、世論誘導のチャンスと考えたようです。
米軍が救援に協力する映像を流させ、イメージアップし、集団的自衛権行使や、米軍基地辺野古移転問題で、国民の支持をとりつける。
現実には、時間が経った後に、言葉や地理に不案内な米軍がきても、現場が混乱するだけで、自衛隊内部でも反対意見が根強いんですが......」
(防衛省担当記者)

この期に及んでも、頭の中は、国民不在の"謀略政治"
安倍政権には、せめてこういう非常事態の時くらいは、くだらないことに頭を使うのはやめて、
国民の生命、安全確保だけを考えることを、強く望みたい。
それこそ、「事は一刻を争う」のだ。
(高橋憲一郎)



で、ネパールでは着陸時に、とてつもない粉塵を巻き上げ、弱った家屋を吹き飛ばしてひんしゅくを買ったオスプレイが、出動したんですね。

そのことについて、普段はバリバリの安倍政権応援団のマスコミでさえ、こんなふうに書いています。

「輸送能力を災害現場で発揮するとともに、自衛隊と米軍による連携強化につなげる狙いもある」(読売新聞)

「日米両政府は、実際の災害派遣の現場で活用し、安全性や能力の高さを示したい考えだ。
日米同盟がより強固になったことを、アピールする狙いもある」
(産経新聞)

「陸上自衛隊は、2019年度から、オスプレイ17機を順次配備予定。
日米両政府には、強固な同盟関係をアピール、さらに活動を通じて、オスプレイの性能の高さを訴え、
日本国内に根強い安全性への懸念を、払拭したいとの思惑があるとみられる」
(日本経済新聞)

でも、このオスプレイが着陸する際には、散水車を配備して、それでなくても不足している水をジャンジャンかけなければならないのです。
さらに、着陸には相当広々とした場所が必要なので、支援物資は結局そこから、自衛隊などのトラックに乗せて、運ばねばならないのです。
なんでオスプレイを使わなければならないんですか?

なんなんでしょうかほんとに…この異常なまでのオレオレ政権。
もうほんとにまっぴらごめんです。

気象庁は、観測史上、例がない事象である可能性を示唆しています。
今後、どのように移動していくかも分からないとも。
どうか、逃げられる人は逃げてください。
遠いところまでは無理なら、せめて揺れる可能性の少ないところに、一時避難してください。
いろんな事情を抱えておられると思いますが、まずはご自身の安全安心のために、どうすれば今一番いいのかを考えてください。
わたしたちも心の底から無事を祈りつつ、できる限りの支援をしていきたいと思います。

薔薇とステーキとロッククライミングと

2016年04月18日 | 家族とわたし
いったいどんだけ誕生日してんねん?!とお叱りを受けそうな気がするが、
当日の金曜日の夜は、夫の心づくしのディナーを食べ、きれいな赤いバラの花をふんふん(香りを嗅いでいるの図)し、
さらに翌日の土曜日は、息子たちと一緒に、ロッククライミングに初挑戦した。

なぜかみょう~にオレンジな(写りはイマイチだけど、味は超~美味しかった)、普段は絶対に買わない高級ステーキ。








息子たちは二人とも、クィーンズに住んでいる。
ここは長男くんが通っているジム。


彼は少し前から、ロッククライミングにハマっていて、大会などに出て準優勝とかしている。
なので、母としても、ちょいと体験してみたいと思い、やって来たのだけど…。


ひとりもおらん!
わたしぐらいの年の大人が…。
還暦間際のおばちゃんが挑戦するには、ちょっと厳しいのかも…。
なんといってもわたしは、中途半端な腕立伏せはできるけど、懸垂力がほとんどゼロ…5センチぐらいしか体を持ち上げられないのであ~る。
マジで場違いなところに来たという気がしてきた…。

壁という壁がこんな感じ。


ウォーミングアップはじめ!








お手本。


夫には今後、手長ザルというあだ名を進呈しよう。






わたしはこのウォーミングアップの段階で、すでにトホホな気分に。
長男コーチから、「右手伸ばして!」とか「壁に体を引き寄せて」とか「腕は伸ばして体をひねる」とかの指導を受けても、悲しいかなどれもうまくいかない。
やっぱ無理かも…気合だけでは体は持ち上がらないのだ…当たり前だけど…。

と落ち込む暇もなく本番に。

下から眺めると、どえりゃ~高いゴールに、頭がクラクラ。
でも、命綱の先端を、特殊な結び方で腰ベルトにしっかりつけてもらい、万が一の時はもう一方の先をがっちり握ってる長男くんが助けてくれるというので、とりあえず安心。

おりゃ~!


とりゃ~!


あ~恐かった。


まうみでもできたんだからと、次男くん、夫も次々に挑戦。もちろん、わたしよりは難度は上。




わたしたちの世話ばかりしてないで、あんたも楽しめば?と言うと、こんなとこでし始める長男くん。




あんたはスパイダーマンかっ!


すると手長ザルマンも。


あ、次男くんも。


さらにもうちょっと難しいところに挑戦!


途中で何回か、もうあかん、無理っ!と諦めかけたが、男衆の励ましと、負けず嫌いがフツフツと溢れてきて…到達!


ここは男ふたり組はリタイア。ふふふ、勝った…難度は低いけど…。








もうこれ以上は無理、ということで、卓球をば。









続きは4人でお寿司屋さんに行き、またまたお祝いをしてもらい、そこから歩いて行ける次男くんのアパートメントで、夫と長男くんはコーヒーをご馳走になり、帰宅した。
明日は体中が痛いぞ~と脅されたけど、多分わたしは1日遅れるだろう。
夫は帰りの車の中で、すでになんか変な感じ、と訴え出した。
いずれにせよ、なんともワイルド&エキサイティングな初体験だった。