ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

初めてのお留守番

2010年01月30日 | 家族とわたし
今日は最っ高に寒い日。最高がマイナス6℃、最低がマイナス12℃。
そんな日に、旦那とTは再びヴァージニアへと旅立って行きました。
旅立ちに際し、天気の週間予報を調べてみると…………警報が出ているではありませんかっ?!
ほんの1ヶ月ほど前に、どえりゃ~思いをしたとこやのに……。
「あんなんをまた経験したいの?!」と詰め寄るわたしに、「大丈夫大丈夫。転ばぬ先の杖ぐらいは用意できるし。ボクもいっぱい学んだんやから」ふぅ~ん……
まあ確かにTは、仕事が決まる前にヴァージニアのアパートの部屋の始末をちゃんとして、車だってこちらに戻さなければなりません。
今うちには車が2台しか無いので、皆が車で無いと動きが取れない日などは、互いのスケジュールの組み替えをしたり、送り迎えをしないとうまく回りません。
せめてあと1台あれば、かなり楽になるので、Tと一緒に戻ってきてくれる日産がとてもありがたいのです。

雪の降る時間などから計算して、降り止んでかなり落ち着いた頃にヴァージニアに入る、という計画になりました。
あれだけ大混乱した州が、たった1回の経験で学べたことはそう多くはない、と睨んだからです。
混乱というより、あまりにびっくりし過ぎて腰が抜けたように誰も動かなかった、という形容が正しいほどに、あの日のあの場所は静寂に包まれていました。


長旅の前に、しっかりした和食を食べさせてあげたかったので、野菜の具たっぷりのお味噌汁とおかずを作り、4人で一緒に食べました。
こちらの長時間ドライブでいつも1番恋しくなるのはサービスエリアでの食事です。
うどんか蕎麦があったらなあ~おにぎり売ってたらなあ~○○丼食べたいなあ~毎回同じ愚痴を言いながら、アメリカンなジャンクフードを食べるわたし達。

旦那とT組が昼過ぎの3時に出発。わたしはピアノの練習を始めました。
Kはどうせどこかに出かけるんだろうと思っていたら、案の定、シャワーに入る準備をし始めました。
「どこ行くん?」
「え?あ、ちょっとヘアカットに」
うん?Kがいつも行く美容院、ミツワにめっちゃ近いやん!
「なあ、あんたが髪の毛切ってもろてる時にわたし、ミツワに行こっかな~」
「え?……う~ん……」
「あ、邪魔?美容院からどっかに行くつもりやったん?」
「え、いや、僕もミツワに行こと思ててんけど……」
「あ、それやったらわたし、あんたがおらへん間にミツワの横のトレーダー・ジョーズと日本の古本屋さんに行ってるわ。それでいい?」
「ええと、う~ん、どうしょっかな~、ちょっと考えさして」

結局、美容院まで彼を送り、その足でスーパーと古本屋に行き、終わった頃にまた迎えに行って、ふたりでミツワに行くことになりました。
わ~いわ~い!デートだデート

久しぶりの古本屋さん、文庫本だと一律4ドル、単行本だと6ドル、6冊買うと6冊目が無料です。前より1ドルずつ高くなったけど、紀伊国屋や三省堂などで直接買うよりもずいぶんお得。今は円高なので特に助かります。
本屋さんで遊び過ぎて、トレーダージョーズには一歩も行けず、Kを迎えに行き、ミツワでまず夕飯を食べることにしました。
Kはここの常連なので、レストランだってよく知っています。かつ華のトンカツにしようと言うわたしに、ここは出来てきた物が見本と違い過ぎ!と一蹴。
山頭火の豚骨スープラーメンと決まり、Kは塩ラーメンの大盛り、わたしはミニサイズの味噌ラーメンとイクラ丼セット。美味しゅうございました。
店の中を一回りして、切れた味醂や鮭フレーク、それから味付け海苔とかつお節などをカゴに入れ、あ、もちろん黒豆煎餅も!、野菜と果物とスウィーツはトレーダー・ジョーズで買い、荷物持ちをしてくれるKに甘えて(頼まないと気がつかない旦那とえらい違い?!)楽ちんで歩かせてもらいました。

帰りの車の中から旦那に電話すると、な、な、なんと、またまたヤバい事態に巻き込まれそうになり、けれども前回に学んだ情報の先取りが役立って、50キロも続いている渋滞に巻き込まれる寸前に高速から降り、最寄りのモーテルに泊まることができたそうな……。

家に戻ってから、台所でテレビを観ながらKとちょっとゆっくりしていると、旦那から電話がかかってきました。
わたし達家族全員が大好きな映画の再放送をやってるという報告で、コマーシャルのたんびにどっちかがどっちかに電話してしゃべっていると、
「僕な、ほんまは今夜もトーナメントやってん。けど、かあさんひとりやし、とりあえず行かんといた」と、旦那にポロッと言うK。
どっひゃ~ん
そうやったんか……ごめん、すっかり忘れてたし……わたしが冗談で「独りになるのいややなあ」とか言うてたから、言い出しにくかったんや……許せK
「もうええで。どこかに行く予定があるんやったら行って行って」
「じゃ、かあさんが寝る時間ぐらいからにするわ」
「ええからええから。わたし、今夜は夜更かしするし。そんなん待ってんでええから」
「ほな、そろそろ行こかな」
「ありがと」
「あ、そや、あんな、D、退院したで。ほんで、今は友達の家に居らせてもろてる。また近々、うちでご飯食べさしたって。鍋とかうどんとか」
「もちろんや。けど、来る前には連絡してって言うといて」
「わかった。そう言うとく」
「今からその友達んちに行くん?」
「違う。僕はそういうふうには関わってないから」

Dちゃんの退院のニュースと、退院してから身を寄せることができる場所があることと、近々ご飯を食べに来てくれるらしいこと。嬉しいニュースでした。

K、優しゅうしてくれておおきに。楽しい日になったわ。


米国たまにこういう奇跡も起こる事情

2010年01月29日 | 米国○○事情
アウディ、すっかりベッピンになって帰ってきました。
いや、帰ってきたいうても、別にあの子が自分で帰ってこれるわけないので、旦那とわたしが迎えに行ってきたんですけど……そんなことわかってるわいって?

これはもう、ここアメリカでは自信持って奇跡と言っていいことやと思います。
昨日工場に入れたとこですよ!しかもなんの予約もしてなくて、ただどれぐらいの費用がかかるか見積もりしてもらうためだけに行っただけやったんですよ!
それが、その場でパパッと見積もってくれて、中古のドアも運良く見つかって、それがまた、今までの工場の中で一番安くて、まことにリーズナブルな技術料金で、旦那が帰った後、即仕事に取りかかってくれて、夜中遅くまでコツコツしてくれて、
今日の昼前に、どないな様子か旦那が聞こうと電話したら、「あ、もうほとんど終わってるので、塗料が乾くのを待ってもらえたら今日渡せます」って……。
泣きそうになってしまいました。こんなことがあってええのんやろか!このアメリカで、こんな素晴らしいことが起こってええんやろか

ところで今日は、明日からの旦那とTの旅行の間、うちにもう1台車が必要やってんで、レンタカーを借りに行ったんですが、
わざわざ前日に電話を入れ、コンピューターの画面上ではほとんど手続きが終了していたにも関わらず、アメリカァ~ンなノロノロノロノロうだうだ応対、そこに居る客は携帯で大声でしゃべりまくるわ、他の従業員もうるさいわ、保険会社に再度確認の電話を入れてる旦那は相手の声が聞こえなくて辟易しまくり。
結局45分もそこで過ごし、ランチを食べる時間も無くなってしまったので、そこからホゼさんの工場に直行ということになりました。

車いじるのがただただ楽しい、という感じの、旦那よりもうちょっと年下のホゼさん。「ありがとう!」という我々に、「いやいや、こちらこそ楽しませてもらいました」、と彼もニコニコ。とっても穏やかな目をしたハンサムさんでした。
長年、いつかきれいにしてあげるからね~と思いながらできなかった凸凹を、見事にツルンと仕上げてくれたホゼさんに感謝です!
バンパーの穴も閉じてもらい、外れ落ちてガムテープでグルグル巻きにされていたプラスティック部分も新しいのに変えてもらいました。
これで生徒の家に行って、「せんせ~、いつ直すん~」などと聞かれなくて済みます。
今日は偶然にも、アメリカの明暗(ホゼさん&レンタカー屋の従業員)を一度に見た日になりました。
安くて早くていい仕事。アメリカにもたま~にゃこういう奇跡が起こるねん、というお話でした


米国事故車修理事情

2010年01月29日 | 米国○○事情
やっとやっと、Kが運転中に当てられた車の修理の目処が立ちました
なんでそんな長い時間放っといてんねん?とお思いの方々、ごもっともでございます。当の本人である我々もなんでやねん?と思うのであります。

相手方の保険会社からの提案は、修理するなら42万円、新車に買い替えるなら50万円出します、というものでした。
その数字を前に、旦那とわたしはう~んう~んと唸りながら考えました。
前にも申し上げましたが、事故に遭った車は旦那母からのお古をいただいたもので、御年11才、我々には逆立ちしても買えない高級外車でして、
故障したら目の玉が飛び出るほどの修理代がかかり、ガソリンだってレギュラーはダメでプレミアムしか入れられません。
我々の生活レベルには全く合わない、しかも高齢ということで毎月のようにどこか調子がおかしくなる車なのでした。
それでもローンが大っ嫌いな旦那。修理代、ガソリン代が余計にかかっても、ローンの支払いよりゃ安い!ということで、今まで乗らせてもらっていました。

迷いながら、あちこちの外装修理場に車を持ってっては、「いくらで直してもらえる?」と尋ね回り、その見積もりが出てくるのを気長に待っていたわたし達。
返事がぼちぼちと、アメリカンスピードでもって返ってまいりました。
前回お世話になった工場からは、保険会社の見積もりとほぼ同額の見積もりが、
前の家の近所の、ちょっとえらそうだった(客は向こうからやってくる!みたいな態度で通していた)工場からも、なんと見積もりが送られてきたのにはびっくり!今の彼らの経営状況が透けて見えたような気がしました。そこが少し安い36万円。
どこもだいたい似たような金額で、やっぱり保険屋さんが出した見積もりはそうでたらめでもないんやなあ……と少しがっくりしてたわたし達。
そうこうしている間にも、アウディはいつものようにまたまた調子が悪くなりました。
そこで、我らがエリックの修理工場に持ってって直してもらったところ、修理代金が10万円也?!……いつものことなんですけど……。
するとエリック、「ボクの知り合いに腕はいいけど安いのがいるよ。行ってみる?」と教えてくれました。
早速そこに行って破損の状況を見てもらい、また見積もりが出たら連絡してくださいと言うと即、「ああ、26万でできるよ」とあっさり。
「へ?」と旦那。
実は、安いのならと調子に乗って、今までについた傷(大木が落ちてきて凹んだ所&バンパーの上下の破損部分&他の傷もろもろ)も全部ひっくるめて直して欲しい、と言っていたのでした。
そこで、「へ?」と言いながらもしっかり値切るのが旦那。「23ってのはどう?」
結局24万円で、完璧ではないけれど、見た目全然ええやん的に直していただけることになりました。

なので、保険会社からいただいた修理代を、効率良く、有効に、アウディくんのためだけに34万円(エリックの修理代を含む)、あとの8万円は、Kの親知らず4本いっぺん抜きの代金の半分として、ありがたく使わせていただくことにいたしました。

最近、車体を見事に凹ませたまま乗っている方がやけに多くなりました。
前は、気のせいかな、などと思っていましたが、自分が凹んだ車に乗っていて、以前より恥ずかしく無かったというか、みんなおんなじやん、と思えたので、
これはもう気のせいでもなんでもなく、保険会社から送られてきたお金を多分、他の事に用立てているのだと思います。
こういうこと一つにも、世の中の事情が反映されるのですね

ありがとう!

2010年01月29日 | 友達とわたし
事態はまだなにも変わらず、進まず、待ちの状態です。
精神科の二人部屋に入院しているDちゃんは、安定剤と落ち込みを軽減する薬を投与されてはいるものの、今だに精神科医の治療は受けていない様子。
見舞いの者は、一日に設けられた二回のチャンス(午後1時から2時までの間と午後7時から8時までの間)にしか彼女と会うことができません。
しかも、見舞客は1度に2人と制限されていて、たとえその時間に行ったとしても、部屋に入ることができるかどうかも定かではありません。

病棟に入るには2重のドアがあり、そこでいちいちインターホンで答えなければなりません。
買い物用のビニール袋、バッテリーの充電コード、鍵など、Kから頼まれた荷物の中から様々な物がナースセンターで取り上げられてしまいました。
もちろん理由はわかります。我々に配慮が足りなかったのです。

昨日、料理当番だったKは、得意なカレーを作り、それをせっせと容器に詰めてお見舞いに出かけました。
あの、痴呆のお年寄りばかりがおられる病棟に、日本のカレーの匂いがプンプンと漂っているのを想像して、ちょっと可笑しくなりました。
若者はDちゃん独り。話し相手が全くいなくて困っているようです。

いつ退院できるのか、どんな治療の計画が組まれているのか、そういうことは全く我々にはわかりません。
身内ではなく、ただの友人家族の我々は、そういう情報を聞かせてもらえる立場ではないのです。

彼女のことを、ある一定の距離を保ちながら見守っていけるようにするためには、まずはKと旦那とわたしとの3人が、しっかりと話し合い、意見を同じくしておくことが大切だと思っています。
特に若いKは、彼の性格上、丸ごと抱え込んでしまう恐れがあるので、できることとできないことがあることを、きちんと伝えたいと思っています。
ひと(他人)の人生を丸ごと抱え込むことはできません。これはもう、明白な事実です。そのひとに依存の気持ちが強ければ尚更のことです。

明日から丸3日間、旦那が家を空けます。
Tをヴァージニアのアパートメントまで送りがてら、病身の親の面倒を看にヴァージニアから更に3時間ほど南下した町に帰った友人に会いに行きます。
Tはヴァージニアで1週間ほど過ごしながら、やり残していた部屋の片付けをし、嵐のために置いてきた車に乗ってこちらに戻る予定です。
Kとわたしだけの3日間。できたらゆっくり時間をとって話したいと思っています。
けど、Kはよく家を空ける子なので、この家に引っ越してから初めて、わたしひとりになる時間がいっぱいできそうです。
大丈夫かなあ……。

今も、わたしやわたし達家族、それからDちゃんのことを心配してくれているみんな、本当に本当にありがとう!
みんなの言葉のひとことひとことが嬉しかったし、ありがたかったし、教えてもらったこともいっぱいありました。
言葉にできないでごめん、と言ってくれたみんなにも、心からありがとう!
言葉にならなくても、その気持ちがひしひしと伝わっていたこと、これはもうほんとにそうなので、信じて欲しいと思っています。
思い遣ってくれる気持ちに上手下手なんてないのだもの、言葉になってもならなくても、その気持ちはちゃんと伝わっています。
いっぱいいっぱいありがとう!みんな、ほんまにありがとう!

ある ある ある

2010年01月27日 | ひとりごと
『あたりまえ』

こんなに素晴らしいことを 皆は なぜ喜ばないのでしょうか

お父さんがいる お母さんがいる 手が2本あって 足が2本ある  

いきたいところへ自分で歩いてゆける

手を伸ばせばなんでもとれる こんな幸せあるのでしょうか  

しかし 誰もそれを喜ばない  

あたりまえだと笑って済ます

食事が食べられる そして また朝が来る 空気を胸いっぱいすえる

笑える 泣ける 叫ぶこともできる 走り回る

みんなあたりまえ こんなすばらしいことを 皆は 決して喜ばない

それを知っているのは それをなくした人たちだけです

なぜでしょう



友人のあべちゃんのブログで見つけました。あべちゃん、ごめん!勝手にいただきました!

中村久子さんという方の詩です。
中村さんは、明治30年岐阜県大野郡高山町(現高山市)に生まれ、3歳のとき、突発性脱疽が原因で両手両足を切断。
数々の想像を絶するピンチに見舞われながらも、「いのちの力」を最大限に発揮し続け、昭和43年に72年の生涯を閉じられた方です。

手足のない状態というのは、泥のような状態だと思っていた久子さんはある時、
「泥は“悪”だとばかり思っていたが、そうではなかった。泥があるおかげで、自分は蓮のように花開くことができたのだ」という境地に到達されたのでした。

欲しいものは何でも手に入る現代社会の私たちから見れば、久子さんの生活は「何もない」といってもよいくらいの悲惨なものでした。
久子さんは、20歳の時郷里を離れ、独り立ちの生活を始めます。
無手足の身に裁縫・編み物・口での糸結び・短冊書きを芸として、見世物芸人"だるま娘"の看板で興行界に入ります。
日本全国のみならず朝鮮などの外国へも巡業しています。
わたしが子供の頃でもまだ、久子さんのような身体に障害をもたれた方々が見せ物にされていました。
お祭りの屋台が並んだ路地の奥に、見世物小屋が建てられていて、重くてカビ臭い暗幕の向こうでは、時には檻の中で、時には小さな舞台の上で見せ物にされている人を見た覚えがあります。

しかし久子さんは、ある時、自分の心境を「ある ある ある」という詩に託して表現しておられます。
手足がない久子さんですが、「何でもある」という境地に達せられたのでした。


『ある ある ある』

 さわやかな
 秋の朝

「タオル 取ってちょうだい」

「おーい」と答える
 良人(おっと)がある

「ハーイ」という
 娘がおる

 歯をみがく
 義歯の取り外し
 かおを洗う

 短いけれど
 指のない
 まるい
 つよい手が

 何でもしてくれる

 断端に骨のない
 やわらかい腕もある

 何でもしてくれる

 短い手もある

 ある ある ある
 みんなある

 さわやかな
 秋の朝





誰も殺したらあかん!

2010年01月26日 | 家族とわたし
今朝早く、まだ真っ暗な5時半、家の電話が鳴った。
ここしばらく、生理と低気圧と寝不足とピアノの弾き過ぎが重なって、どうしたって身体が怠くて仕方が無い。それで昨日も早めに寝た。
その電話の呼び出し音で飛び起きた。起きた瞬間から、考えたくもない事柄の絵が、わたしの瞼の裏のスクリーンに何枚も映し出された。
Kになにかあった!?
交通事故?人身事故?それとも喧嘩に巻き込まれた?
心臓がバクバクと踊りだし、息が苦しくなり、けれども全身を耳にして、わたしに聞かせまいとひそひそと話す旦那の声を聞いていた。

Kの元ガールフレンドが、耐えきれない思いに苛まれ、薬をたくさん飲んでしまった。
ここ数日、彼女からのSOSが何回かあり、そのたびにKは駆けつけていたので、昨日もなにかイヤな予感がして行ったところ、かなり危険な状態に陥っていた彼女を発見。そこからわたし達に電話をかけてきたのだった。
即刻、最寄りの救急病院に連れていくように旦那から言われたKは、彼女を車に乗せ、病院に着いてからは彼女を担いで長い距離を走った。

わたし達はベッドに戻り、旦那は「起きて考えていても仕方が無いのだから、とにかく我々は寝よう。明日があるのやから」と言うが無理。寝られない。

とにかく、Kの身に何も起こっていなかったことに手を合わせて感謝した。
そして彼女も、やってしまったことはともかく、命が救われたことを感謝した。
そしたら急に身体が震え出した。ものすごく恐くなった。
なんでKの周りには、死にたい病にかかった子が寄り集まってくるのん!
なんでそんな子ばっかりKに頼ってくるのん!
Kは神さんちゃうのに、あの子だって強くないのに、あんたらの心配ばっかして寝られへんかったりして、駆けつけたりして、吐きそうになるまで弱ったりするのに、もうつきまとわんといてよ!解放したってよ!
そこまで考えて、もっと今度は自分の心が恐くなった。
なによそれ?あんた、いったい鬼か?なんちゅう冷たい心やねん!あの子達の苦しみをわかってやれるはずの経験をもってるあんたがなに言うてんの!

すっかり混乱してしまったわたしを、闇の中からニヤニヤしながら見ているモノの気配がした。
息をゆっくり、4つ数えながら吸った。その息を4つ数える間止めて、次に8つ数えながらゆっくり、けれども空っぽになるまで吐く。
ずいぶん経って、やっと少し落ち着いてきた。そしたら涙が滲んできた。「ごめん、D」と、彼女の名前を呼びながら謝った。

わたしはいらんことをクヨクヨ心配する癖がある。直したいと思っているけれど、こういうショックなことがあるとすぐに後戻りしてしまう。
命を粗末にする子に頼られたら、その方法によっては巻き込まれて殺されてしまう可能性だってあるやないか。
そんなんで我が子を失う母親になんかなりとうない!そんなことで殺されてたまるか!
黒々した邪悪な思いがふつふつと沸き上がってきて、それが怒りになって、どうしてその子がそういう行為に至るのか、それを思い遣れなくなってしまう。
なんとも情けない、我が身中心の思考……久しぶりに対面した気がした。

朝早く、徹夜で付き添っていたKから連絡が入った。
彼女はもう大丈夫。大量の解毒剤と炭を投入し、危険な状態からは脱出できた。彼女がふたりに「ごめんなさい」と言ってた。
わたしは彼女に「ごめんなさい」と心の中で謝った。
同時に、彼女がこれから支払うであろう治療費を思って目眩がした。
救急で治療を受けた場合、無職の彼女は保険など持ってないだろうから実費になる。
1日入院しただけで何十万という費用になるのだから、その金額はものすごいものになるに違いない。現実はどこまでも厳しく彼女にのしかかっていく。

彼女は生まれた瞬間から、とても辛い運命を背負ってきた。
両親ともに、子供を育てるどころか生活もろくにできない人達だったため、幼児の頃に里親に預けられ、その里親も冷たい人達で、6軒の家庭をはしごした。
愛情を注がれないまま大人になり、それでも一所懸命生きて、働きながら学校に通っていたけれど、疲れ果てて挫折。歯車が狂い始めた。
Kは彼女を守りたかった。なんとか幸せにしてあげたかった。けれども彼女の傷は深過ぎた。その傷は彼女の心をカサカサにして、過激な行動を取らせた。
Kは彼女の言葉や動きに驚き、戸惑い、傷つき、とうとう自分の至らなさに疲れ果て、彼女とは距離を置くようになったのだけど、それでもやっぱり心配で、彼女とはずっと連絡を取り合っていた。
Kは昔、彼が高校生だった頃、ネットで知り合った女の子の相談に親身になって乗ってあげていたことがあった。
Kにとっては単なる相談してくる女の子だったのだけど、彼女にとってのKはもっと意味合いの違う、とても大きな存在だった。
それを知らなかったKが、これからガールフレンドとデートしてくる、と軽くメールで言った後、その女の子はいきなり自殺してしまった。
その時のKの驚きと後悔と悲しみは、今思い出しても寒気がしてくるほど、彼にとっても死が近いくらい、暗く深いものだった。
わたしは彼を失いたくないと本気で思い、彼をぎゅっと、腕が痺れるほど抱きしめて、獣のように呻きながら泣くKと一緒に泣いた。
もうひとり、同じ頃、Kよりはもっと年上の子だったけれど、やっぱり深刻な悩みを抱えていて、Kに自殺の相談を持ちかけていた子がいた。
Kはいったいどうしたらその子の力になれるのか、どうしたらその子が命を大切にしようと思い直してくれるのか、そのことで頭がいっぱいだった。

今回、彼女の命を救うことができたK。わたしはそのことを心から喜ぼう。そして誇りに思おう。そのことをKに伝えよう。

Kは今、わたしのすぐ横のソファで、すうすう寝息をたてて眠っている。
旦那が「こんなとこで寝てたら風邪ひくから、上に行ってベッドの中で寝なさい」と言っても、「ここがいい」と言って、また眠ってしまった。

「かあさん、Dが治って元気になったら、鍋作って食わしたってくれる?」
「ええよ」
「Dな、かあさんの鍋、最高やって、いっつも言うててん」
家にフラフラになって戻ってきたKが、最初にそう言った。
よっしゃ、作ったる。腕によりかけてって……鍋なんか誰が作っても美味しいねんけど、頑張って作る!

「あんな、わたし、明日お見舞いに行ってくるわ」
「ほんま?行ったってくれるん?めちゃ喜ぶわ。Dはもう、誰とも会いたない。けど、Bとかあさんだけは別って、ずっとかあさんらのこと言うてるねん」

Dちゃん、わたしはあなたのこと、わかってあげられない。あなたの辛さ、あなたの悲しみは、あなただけしかわからない。
でもわたしには、ひとにわかってもらえないそれらのことを抱えて生きることが、どんなにしんどいことか、どんなに孤独なことか、それだけは少しはわかる。ほんとやで。
(もう生きてたって仕方がない。もうええわ、さいなら)
死んだらあかん、そんなことしたらあかんって重々わかってるのに、それでももうええわって思ってしまう一瞬も、アホやから2回も経験した。
だからそれも少しはわかる。
けど、結局はね、助けてくれるのは他の誰でもないねん。自分しか自分を助けられへんのよ。
自分が助かりたいって思わな、自分が自分を助けたらなって思わな助からへんねん。
それを、ひとりぼっちでせなあかん人もいる。誰かがいてくれて、見ててくれたり、手を差し伸べてくれたりしてもらえる人もいる。
けど、結局最後のところは自分やねん。よっしゃ、とりあえず生きたろって思う自分が居なあかんねん。

お鍋食べにおいで。
もしどうしても今のアパートに帰られへんのやったらうちに少しの間居てもいいよ。
気持ちを休めて、ちゃんとお腹を満たして、ゆったりと寝て、もういっぺん生き直す元気つけよね。
Bも、いつまでも助けることはできないし、限りなく頼られても応えられないけど、うちには部屋があるし、役に立てるのは嬉しいって言うてるよ。
ぼちぼち、ゆっくりちょっとずつ。生きてたらええことあるから。それだけはわたし、自信もって保証する。

I'm not Lance!

2010年01月25日 | 友達とわたし
Lance Armstrong(ランス・アームストロング)
1971年アメリカ、テキサス州生まれ。
21歳のとき、史上最年少で世界自転車選手権に優勝するなど、順調に世界の一流自転車選手の道を歩んでいたが、 1996年、25歳のときに睾丸癌を発病。
発見された当時、癌は既に肺と脳にも転移していたため、生存率3%と医者は診ていたが、生存への希望を失って欲しく無いために20%とウソをついた。
通常の治療法ではレースを続けるための肺活量が絶望的な状態になるため、復活にかけるランスは、別の、とてつもなく過酷な治療法を選んだ。
苦しい闘病生活を乗り越え、1999年に自転車レースの最高峰ツール・ド・フランスで個人総合優勝し、奇跡の復活を遂げる。
翌年の同レースでも個人総合優勝し、同年開催のシドニー五輪にも、アメリカ代表として選ばれた。
そして2005年4月、同年のツール・ド・フランスを最後に現役引退を発表する。前人未踏の7連覇を達成し、これを花道に現役を退いた。


旦那の大学時代からの親友スコットが、このたび本を書いて自主出版しました。
題名は『I'm not Lance!』
さっそく注文して、今日うちに届いた本の表紙には、アスファルトに写る、ヘルメット姿のスコットと自転車の影。
スコットは、前に一度どこかで紹介したことがあると思いますが、大学を出てアメリカの電話会社に勤め、そこで得たスキルをもとにベルギーに移り電話会社を設立、今ではベルギーにおいての最も大きな電話会社にまで成長させた人です。日本だとNTT、こちらだとAT&Tのような感じ。
会社は順調に成長し、暮らしも豊かになり、妻とふたりの小さな息子と娘、家族4人で生活を謳歌し始めた頃、彼は突然とても不可思議な癌に襲われました。
まず見つからない確率99%のその癌は、右耳のすぐ後ろの方から静かに密やかに進行し、時には勝手に消えたりもする、とても厄介で珍しいタイプ。
ものすごい幸運によって見つけてもらったものの、それからの治療はとてつもなく辛いものだったそうです。

その治療中、彼の友人知人、そして親戚の人達は、彼をなんとか励まそうしましたが、言葉の選びようがありません。
そこで、ランス・アーノルドが書いた『It's not about the Bike(ただマイヨ・ジョーヌ(自転車レースで1位の選手だけが着られる栄光の黄色いジャージ)のためでなく)』を手渡しました。問題はそのアイディアを思いついたのが一人ではなかったことでした。

彼は今、とりあえず回復し、定期的な、かなり深い部分まで掘り下げて行われる辛い検査を受けながら、仕事に家庭に完全復帰しています。
けれども、彼の右頬はごっそりとえぐり取られていて、人相はすっかり変わってしまいました。
癌に襲われてから、誰も示唆することのない、どちらかというと避けているように思える彼の仕事と癌の関係を、彼はずっと考え続けてきました。
そこで、彼なりの見解と経験から得た知識や実感を文章にまとめ、今回自主出版から本格的な出版にこぎ着けたのです。

携帯電話から出る電波が人体に及ぼす害、彼がかかった癌と携帯電話の関連性についての彼の見解。
英語なので、まずは旦那が読み、わたしはその次。医学的な専門用語が多いので、読み進めるには時間がかかりそうですが、
以前からずっと、わたしもその件についてはとても興味があったので、コツコツと少しずつ読みたいと思っています。

彼は、耳たぶに直接引っ掛ける携帯電話を長い時間使い続けていました。
そこから疑問がわいてきて、他の、携帯電話のみならず、電波を出していそうな器具や機械の多くについて調べています。
前の記事にも書きましたが、携帯電話よりもっと恐ろしいのは電話の子機、だそうです。
ものすごい量のラジオ波が出ていて、寝室の枕元などに置いている人は即座に撤去するように、と彼は言っていました。
ある一定の距離さえとれば、その波の被害はかなり少なくなるので、どうしても使いたい場合は、場所を考えることでマシになるそうです。
けれども、できれば子機のある電話を使わないように、少々の不便は我慢してもらいたいというのが彼の意見です。


スコットはジョークが大好きな男。スコット的ジョークというのが語り継がれているぐらいです。
旦那が読み始めていて、「あ、これもスコットジョーク!ここも!」と言いながら笑っていました。
知っている人が書いた本を読むのって、ちょっとくすぐったくて、読んでるこっちが反対に照れたりします。
わたしはランスの自伝をまだ読んでいませんが、まずは、深刻な病を強い意志と希望でもって克服したスコットの言葉に耳を傾けようと思います。
近々、日本のアマゾンからも発売される予定だと聞きました。日本語訳は無理なので原語(英語)ですが、興味のある方はどうぞ読んでみてください。

雨にも負けず

2010年01月25日 | ひとりごと
ただ今気温14℃。とんでもなく、気色悪いほどに暖かです。そして大雨…………なんもここまで降らんでも、と言いたくなるぐらいの勢い。



旦那とわたしは似た者同士、低気圧と湿気にあまり強くありません。
なのに、うっかりしていて、寝室にずっとつけたままにしてある加湿器のスイッチを消し忘れ、昨夜は湿気のダブル攻撃、上半身鈍痛の嵐です。

起きたすぐは、墓場から這い出てきたゾンビそのもの?!漢方とマグネットでなんとか人間に戻りつつありますが、これからちょっと鍼打ってもらいます。
同じくゾンビから人間に戻りつつある鍼師さんに、ですけれど……

春の予感

2010年01月24日 | ひとりごと
今日は久しぶりの雨降りでした。

うちから車で1時間半も離れた所からピアノを習いに来てくれている、お花の大好きな、そして唯一の日本人生徒さんのS子さんが、「先生、勝手にさせてもらいます!」と言って、いきなり園芸セットとチューリップの球根を持って来てくれて、あっという間に植えてくださったのが去年の12月。
家の前の垣根の裏側に、石で囲っただけの簡単な半円型の元花壇風の地面があって、無精なわたしがいつまでも何もしないのに我慢ができなくなったS子さん。
チューリップの花はわたしも大好きなので、遠慮なく植えていただくことにしました。
「先生はな~んにもしなくていいんですよ。暖かくなったら勝手に芽が出てきますから~」
わたしのことをよくご存知のS子さん。これから以降の世話を尋ねようとしているわたしの先手を取って、にこやかにそう言って車に乗り込んでしまいました。

それから以降、ほんとにな~んにもしていません。
一昨日まで、厳しい寒さが続いていました。
それが昨日から、少し気温が緩み、5℃?!なんていう驚異的な暖かさになりました。そして雨。
明日はなんとなんと、10℃近くまで上がるそうです!そして再び雨。
この夢のような二日が過ぎたら、また元の寒い寒い冬に戻ります。

今日はちょっと、花壇の横に座って、土の様子をじいっと見ていました。
すると、ほんの1ミリほどの、黄緑色の、それはそれはちっちゃい芽が、焦げ茶色の地面の中に見えました。
「こんにちわ。けど、慌てたらあかんよ。明後日からまた、すご~く寒くなるんやから。まだまだ冬はこれからやで」と、ひそひそっと声をかけました。
明日の雨が上がったら、上から少し、園芸用の用土のお布団かけてあげるからね。待っててね。

新年初会合とお腹の話

2010年01月23日 | ひとりごと
マディソン・スクエア・ガーデンの真ん前にあるレストランで、ACMAの今年初めてのミーティングがありました。
週末にもマンハッタンへのダイレクト電車が走るようになりましたが、残念なことにまだ、2時間に1本という少なさ?!
帰りはともかく、行きは集合時間に合わせなければならないので、仕方なくバスで行くことにしました。
うちから電車の駅までは歩いて2分、バス停までは15分、なので別になにも問題はないのですが、電車はともかく、バスが時刻通りにやってくることはまず無いので、そこがこの季節には辛いところです。吹きっ晒しの道ばたでものの10分も待てば、充分に身体が冷えます。
だからといって、遅れてくる頃を見計らって行くということも恐ろしくてできません。早めにやって来て、そのまま素知らんふりして行っちゃう国ですから。

さて、300人を超える会員を抱えるようになったACMA。毎月の演奏ミーティングへの出演応募がどんどん増え、超流行ってるレストラン並みに、出演予約が何ヶ月か先にまで入れられないような状態になってきました。
わずか3人で始まったACMA。それがものの3年で急激に発展したので、これからの運営については、もっと会議を重ねてアイディアを練る必要があります。
アルベルトに甘えて一任してきた数々の仕事の中で我々にも分担できる事柄があれば、いつまでも人任せにしていないでやろう!ということになりました。
*毎月のミーティングの出演者管理係。
*ミーティングの内容に新しいアイディアを取り入れるための企画係。
*メンバーの中でアンサンブルのグループを作る世話係。
*メンバーからの意見&苦情の受付係。
さてさて、わたしはいったいどの係ならできるのか……またまた新たな挑戦の始まりです。

「まうみ、4月ね、4月。ボクと『I Got Rhythm』ね。もうプログラムの中に入れちゃったから」とアルベルトに言われてしまいました。
「はは、ははは、4月っつったら、もしかして合わせの練習は来月からってこと?」
「もちろん!ボクがまうみんちに行くからさ!」

昨日はウソ偽り無しに、1日中ピアノを練習していました。あ、ブログ遊びしていた時間以外、ですけど。
まずはタイソンとやる2月の曲を。それからオーディションにやる難しい方の曲を。
ほんでもって、多分来週にある、タイソンが通っているヴァイオリンレッスンにわたしも乱入させてもらうための新曲2曲(このレッスン、ジュリアードのレッスン室でやるのでメチャ楽しみです!)をちょっと涙目(弾けぇ~ん!)で練習し、
すでにその時点でくらくらしていたのだけど、とりあえず今日アルベルトになんか言われた時のためにと、『I Got Rhythm』も弾いたのでした。
ほとんど息も絶え絶え、瀕死の白鳥のようなか細い指を震わせ(うそっ!)、ついでにジェーンとの曲『スカラムーシュ』をやけくそで。
一度に8曲もの曲を、同じような本気度でもって練習にかかるのは、うう~ん、わたしの貧しい演奏経験の中では無かったかも。
なので、猛烈に脳みそが疲れるし、上体のあちこちが知らないうちに凝りまくってたりします。
昨日は、そんなところにもうひとつ、生理が突然やってきたのでした
それに最近ちょっと、お腹がいつもいっぱいな状態が続いていて、やばいな……と思っていたのでした

今日は丸々2時間半、ディレクター達が弾丸のごとく語る言葉を聞き逃してなるもんかと、耳だけでなく目も、そして第三の目も凝らして必死に聞いていました。
夢中で聞きながら、あまり考えずに、目の前にあったビーフシチューを食べてしまいました。
そのシチューの中には巨大なお肉の塊がゴロゴロしていて、結局は3分の1も食べきれずにドギーバッグに入れてもらったのですが、既に食べ過ぎ。
会議が終わる頃に合わせてマンハッタンに出て来ていた旦那と待ち合わせをして、お茶とスウィーツを食べたい旦那にまたまたちょいと付き合ってしまい、全車両二階建ての新しい電車に乗って家に戻った頃には、すっかりお腹が調子悪くなっていました
ここしばらく、かなり長い間、お腹の調子が良かったのになあ……自業自得です

なのに、今夜は家族で久しぶりにジャパニーズレストランに行く予定になっておりました。
トイレに立てこもっているわたしに旦那が、「どうする~、大丈夫?」と聞いてきましたが、わたし自身もどうしたもんか、決められないでいると、
「よっしゃ、マグネット作戦!」と、両膝小僧から4本指ほど下がった所にあるツボ、そしてくるぶしの内側からこれまた4本指ほど上がった所にあるツボ、両腕の先の方の表と裏にあるツボそれぞれに、計6個のマグネットを貼ってくれました。
そこまでして行くかぁ~!!
せっかくの家族揃っての外食。楽しみにしていた家族をがっかりさせたくない一心で(←ほんまかいな?)、頑張って行ってまいりました!
でも……TとKが寿司&刺身の盛り合わせを、旦那がうな丼と巻きを、そりゃもう美味そうに食べてる横で、鍋焼きうどんのうどんだけちゅるちゅると啜っていたわたしの姿は、かなり可哀想だったような気も…………ま、えっか。
いったいなんの話をしたかったのか、さっぱりわからんちんになってしまった今日のわたしなのでした