ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

さようなら

2022年05月17日 | 家族とわたし
5月11日の朝、義父が亡くなりました。
享年81歳、来月6月の82歳の誕生日を迎えることはできませんでした。



彼が数年前に癌を発症してからの闘病生活の介助、昨年末に肺炎を発症してからの看護と介護は、長年連れ添った義母が一手に引き受けていましたが、在宅ホスピスケアが始まってからは流石に一人では無理になり、最期の2ヶ月間は夜間ケアを引き受けてくれる看護師を雇いました。
息子であり、鍼灸や漢方の治療ができる夫は、毎週末の3日間はペンシルバニアにある実家に通い、父親の容態に合わせて看護を続けていました。


義父の容態は日々変化し、調子が良かったり悪かったり、もう危ないかと思ったらまだまだ大丈夫と思ったり。
施設や病院には入りたくないという彼の思いを尊重するには、介護する家族の者が、さまざまな医療機器をレンタルしてはそれらの使い方を学んだり、口から食べてもらえる食事の工夫や空調管理、床ずれ防止の方法などを身に付けなければなりません。



それに義父は紙オムツの使用が本当に嫌だったので、自分で用を足そうと最後までもがいていました。
そもそも父は、家族にさえ、くつろいだ服装を見せないような人でした。
パジャマ姿はもちろんのこと、どんなに暑い日でも下着やカジュアルな部屋着などで過ごすこともなく、ショートパンツでさえ履かなかったので、この30年、わたしは義父の太ももはもちろん脛も素足も見たことがありませんでした。
あ、そういえば、ハワイに旅行した時だけ履いていたかもしれません、ショートパンツ。
でも、絶対に泳がなかったので、水着姿も見たことがありません。
なので自分の意思でおしっこを出さなかったり、うんちを我慢してしまうようなこともありましたし、もう自分では立てないのに立とうとして、女性の看護師さんを困らせたりもしたようです。



最後の最後まで自分らしくあろうとした義父は、家族が誰もいなくなった日の朝に、いつものように食事をし、付き添いの看護師さんと一言二言言葉を交わし、その後静かに息を引き取りました。



小学校の頃からの知り合いで、中学校高校とお互いを気に留めながら過ごし、大学時代から恋人になり、結婚をし、その後60年を義父と共に暮らしてきた義母は、彼の闘病をずっと支えてきました。
義父は癌の発病後数年で視力をほとんど失い、生活の中の事細かな部分で助けが必要となり、服の着替えから靴を履くことはもちろん、会議への出席やメールの読み聞かせなどの事務的な補助や食事の管理など、義母にとっては一日中休む間も無い状態が何年も続いていました。
ベッドに寝たきりになってからは、そういう類の世話はしなくてもよくなりましたが、今度は命の存続に関わる事態になったので、義父の症状が良くなる食べ物やサプリメントを与えようと奮闘していました。



主任看護師や義母、そして夫が見る限り、これは長期戦になるんじゃないかと考え始めていた今月の初めに、義母はここらで一度休みを取ろうと決心し、家から4時間ほど車で走ったところにあるリゾートに出かけることにしました。
それを義父に伝え、実に6、7年ぶりに夫の元から離れ、独りの時間を過ごしに出かけたその二日後の朝、台湾人の鍼灸師に施術をしてもらっている最中に訃報が届いたのでした。
その場に居合わせた鍼灸師は、ショックでうまく息ができなくなった義母が落ち着くまで寄り添ってくれたそうです。



義父らしいお別れだったなあと、今ではしみじみそう思います。

義父はハーシー社の重役を務めた後、存続が危ぶまれていた保険会社の再建などに活躍し、さらには非営利団体や官民団体の役員を通して芸術への並外れた貢献と支援を続け、数々の表彰を受けました。
それらの活動を通して彼と関わった人たちは皆、口を揃えてこう言います。
「彼がいなければ今日の〇〇は存在しなかった」
「彼はとても物静かだが、仕事は受動的でなく、物事をきちんと把握し、失敗を許さなかった」
「彼は慈善活動を通じて、謙虚で静かな人柄を保った」
「既存のアーティストや古典的な作品に資金を提供するのではなく、新しいものを積極的に求めることに並々ならぬ情熱を持っていた」
「人生の最後の30年間を、非営利団体のリーダーシップと非営利団体内のリーダーの息性に捧げた」
彼のお悔やみ記事は、地元紙の日曜版の3ページ目を全て使って大きく掲載されました。


大々的な表彰式には何回か出席したことがあったので、彼の業績や貢献をわたしなりに理解していたつもりでしたが、彼は本当に偉大な人だったんだなと思います。
彼のような人と出会えたことを、心から感謝したいです。

義父が亡くなった日、夫とわたしは仕事を全てキャンセルし、ペンシルバニアの実家に向かったのですが、途中で義母を出先まで迎えに行くべきだと考え、行き先を母が滞在しているリゾートに変更しました。
結局辿り着いたのは夜の11時。


急遽、数時間だけ寝るためだけに一部屋借りてもらい、翌日の朝早くに、わたしたちを待つ義父の元に戻りました。




義母は自分の胸に手を当て、もうあの体には彼はいない、ここにいるのだからと言って、葬儀屋の人たちが彼のご遺体を家から運び出す際にも見送ることもしませんでした。
先週の始めまで長期戦になると思っていたので何も決まっておらず、先週末は火葬や遺灰の埋葬などの日程を決めることで忙しかったのですが、今はそれらのほとんどの段取りがつきました。
義母を寂しくさせないようにと、夫も一昨日まで実家に留まっていましたが、多分大丈夫だろうとこちらに戻って来ました。


結婚する前の15年間、結婚してからの60年間、本当に長い年月を共に過ごしてきたパートナーでした。
その相方がいなくなった義母の喪失感を、わたしには計り知ることなどできません。
けれども義母は、どんどんとできないことが増え、心底嫌がっていた下の世話を断ることができなくなった夫が、弱々しく手を振りながら、なんとかしてベッドから出ようとする姿を見るにつけ、こんな質の悪い生活を長く続けさせたくないと考えていたようです。

在宅ホスピスという、家族にとっては最も大変な方法を選び、最後まで頑張り抜いた義父と義母。
もうこの舞台は閉じられます。


部屋の主がいなくなったことを敏感に感じ取っている家猫ピーターは、ここで昼寝をすることが増えました。



お義母さんのこと、頼むね、ピーター。
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親知らず親知らず、ああ親知らず

2022年05月07日 | ひとりごと
火曜日の朝、残りの親知らず3本をいっきに抜いた。
現場に行くまでは全くそんなつもりは無かったのだけど、新たに撮ったレントゲン写真を見た歯科医が、もうこれは時間の問題だから、3本とも抜いてしまいませんか?と言ってきて、
それを聞いたわたしの頭の中はもうクルクルのパーで、たった一本の親知らずでも、下のは上のと違ってちょっと大変だと聞いていたから緊張してたのに、一度に全部ってなんだ?ってなって、しばらくは返事もできなかった。
その日は自分一人で行くつもりだったのだけど、送り迎えを夫にしてもらうのはもちろんのこと、仕事も全部キャンセルしなさい、もっと自分のことを大切にしなさいと、夫と義母に強く言われて、さすがに言うことを聞かないわけにはいかず、送り迎えを夫に任せ、仕事も休んでいた。
なので、眠ってしまう静脈内鎮静法の麻酔をしてもらっても家に帰ることができるし、家に戻ったら安静にしていることもできる。
それに、一本ずつ抜くとなると、局所麻酔や笑気麻酔にその都度お金がかかるし、抜歯後にしばらく続けなければならない流動食や抗生物質の服用などの期間が3倍になる。
それを一度に効率よく済ませた方がいいのかもしれない。
といっても、問題はそんな単純ではない。
わたしは保険が無いので、3本の抜歯の費用が恐ろしい。
するとしばらくして、スタッフの人が見積書を手にやって来た。
もともと、下側の親知らず一本で830ドルを支払う予定だった。
そこに静脈内鎮静法の麻酔代、そしてあと2本の親知らずの抜歯代。
前に、別のところの専門医に、インプラント治療のために奥歯(親知らずのすぐ隣)を抜いてもらった時は、たった1本に1600ドルも払った。
その後に続く治療費のバカ高さに驚愕してとっとと逃げ出し、それ以降にお世話になっている超良心的な歯科医院から紹介された専門医だから、まさかぼったくりはしないだろうけど…。
見積書の最後に書かれていた数字を見ると、3本の抜歯で約2000ドル。
けれども実費払いなので20%オフになって1800ドル。
前の所と比べたら、ほぼ3分の1だけど、それでもやっぱりキツい。
う〜ん…診療用椅子に座ったまま唸り続けること5分。
結局、もうじゃあいっきにやっちゃってくださいと返事をした。

するとスタッフがわらわらと部屋に入ってきて、点滴袋を設置したり、血圧計とオキシメーターを腕に装着したり、心拍を測るパッチをペタペタと貼り付けたりし始めた。
それらと繋がっているモニターからは、わたしのやたらと忙しい心拍音が聞こえてくる。
いやあ、これ、緊張しますがな。
いよいよ静脈確保という時になって、それを歯科医本人がやろうとするもんだから焦ってしまった。
よほどのベテランの看護師さんで、しかも確保が大の得意、みたいな人でないと絶対に無理なのに…。
あのぉ、わたしの静脈ルート、めっちゃ見つけにくいと思いますよと、はかない願いを込めて言ってみた。
え?そうなの?まあ大丈夫だと思うよ、などと鼻歌まじりに言って、全く交代する気配は無い。
観念して目を閉じた。
痛っ!痛っ!痛っ!
何回か針を挿しては抜き、また挿しては抜き、徐々に腕の下側に移動して、ついには手の甲の血管穿刺となった時になって、やっとごめんねと謝った。
いやあ、何が痛いって、これが痛いんですよね〜と、涙目になって言うわたし。
一体いつになったら点滴の針がスッと入る日が来るんだろうか。

麻酔薬が加えられて、「さあ、ハワイに行こう〜!」などという寒いジョークを聞いてるうちに全く何もわからなくなった。
気がついた時にはもう、後片付けをするスタッフ以外は誰もいなくて、椅子からよっこらしょと降りたわたしを夫が迎えに来ていた。
あれ?電話したっけか?
まだフワフワとしたまま車に乗って、薬局で抗生物質やうがい薬などを受け取って、家に戻った頃にはずいぶんとはっきりしてきたのだけど、出血がなかなか止まらなかったのでガーゼをずっと噛んでいた。
痛いのか気持ちが悪いのか、そのどっちもが行ったり来たりして、もう20時間以上もずっと飲み食い無しのままなのに食欲なんか全く無くて、ああ、やっぱ3本は無謀だったかもと、ちょっとだけ後悔した。
しばらくはぐったりとして、寝てるのか起きてるのかはっきりしないような状態だったのに、ベッドに入った途端に目が冴えて、どんなに退屈な本を読んでも全く眠れず、とうとう朝の6時になってしまった。
抜歯後の痛みはじわじわとやって来たけど、普段漢方薬以外は全く何も飲まないからか、普通の痛み止めの小さな錠剤を一錠飲んだだけで効果抜群。
というか、わたしはこれまでの経験上、歯の痛みに対しては耐える力がものすごく強い。
お金が無かったからなかなか治療に行けなかったというのが鍛えられた理由なので全く自慢にもならないし、だからこそ歯の状態がどんどん悪化して現在のカオスに至っているのだからどうしようもない。
だから、夫に痛み出す前に飲んだ方がいいと言われても、いやあ、別にこれぐらいだったら飲まなくても、などと思ってしまう。
昨日は鍼を打ってもらって、顎の動きがかなりスムースになった。

今日で4日目。
お粥、スクランブルエッグ、ヨーグルトバナナなどを食べているのだけど、これで痩せられるねと思う人はまだまだ甘い。
二日分作ったつもりのお粥を、気がついたらすっかり平らげてしまってたり、いつもお腹が減ってるので、ついつい作っては食べてしまうのだから、こんなので痩せられるはずがない。
あと何日我慢したら、大好きな韓国の餅菓子やおかきやナッツが食べられるのだろう。
豆腐チゲも食べたいし、雑穀米も食べたい。
食い意地が張ってるので、やっぱり3本一緒にやって、この食事制限の期間を短くしたのは良かったのだろう。
でも、奥にずっといた大きな歯が4本も無くなってしまったからか、端っこがスウスウする。
ぐっと噛み締められるようになったらなんか物足りない感じがするんだろうか。

などと独りごちながらただ一人、お粥をすする花金の夜なのであった。
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さよなら親知らずさん

2022年04月17日 | ひとりごと
今日は歯のクラウン治療の最終日。
これでやっと、両側の歯で噛みながら食べることができると、今までの不便さに耐えてきた自分を労いながら出かけた。
左下の奥歯の3本に問題が発生して、インプラントだのクラウンだの、やたらと費用のかかる治療を、1年以上も実費で受け続けてきた。
払った費用はゆうに50万円は超えている。
今日でとりあえず一息ついて、こんなカオスからせめて数ヶ月の間は遠ざかっていたい。
その日がやっとやって来たのだ。
そんな感慨にも似た思いに浸りながら、治療椅子に座ってパク先生を待っていた。

この1ヶ月は、半年以上も続いたインプラントの仕上げのクラウンが無事終わり、やれやれと思った矢先に、そのすぐ隣の親知らずの歯の詰め物が外れ、その歯もかなり痛んでいたので四角い土台になるまで削ってクラウンを被せる治療を進めていた。
今日はその治療の最終日だった。
でも、1週間前に受けた治療の後、ずっと左奥の頬の内側が痛かったので、そのことを伝えると、どれどれとチェックし始めたパク先生。
「まうみさん、あなた、この頬の内側の、しかも両側の、何か手術とか受けましたか?」
「え?手術?」
「ええ、手術です」
「いいえ、一度も受けたことがありません」
「うーん…おかしいなあ…では、この痛みはいつからですか?」
「えっと…先週に治療を受けてからだと思います」
「そんなはずはないと思いますよ。かなり前から継続していたはずです」
「…」

そういえば、たまにほっぺたの内側が痛んで、よく噛めなかったり大きな口を開けることができなかったりした。
そういう時はいつも、ああまた疲れ過ぎて頬の内側が腫れたのかな、それで噛んでしまったのかなと思っていた。
そう話すと、「これまでよく我慢してきましたね」と言って、中の様子を撮影しながら見せてくれた。
見るからに痛そうな映像を見て、一体何が起こったのかと首を捻っていると、
「あなたの親知らずの歯が頬の内側のギリギリにあって、それで無意識に噛んでしまっているのです。このままだともっと悪化すると思います。上下ともに抜歯した方がいいと思います」

みるみる青ざめるビビりのわたしを見て、「今すぐに決断しなくてもいいですよ、時間をとってよく考えてください」とパク先生。
「でも、抜かない限りこの痛みは続くのですよね」とわたし。
5分ほど考えた。
親知らずが4本とも残っていることがちょっとした自慢だったのだけど、長年の痛みから解放されるのなら抜いてもらおうと決心した。
「上の親知らずの抜歯は私でもできますが、下の親知らずは口内外科手術になるので専門医がすることになります。その際の専門医の施術料金はここよりは割高になりますが、一度に2本ともやってもらうと1日で済むというメリットがあります」
「パク先生、わたしは歯の保険を持っていないので、便利さのメリットよりも費用を少しでも減らしたいので、上の歯はパク先生にお願いします」

というわけで、呑気な気持ちで出かけたのに、いきなり血圧を測ったり誓約書にサインをしたりの大忙し。
心臓はもうバクバク、サインをする手も震える始末…。
麻酔をガツンと打ってもらわにゃ!いや、局部麻酔だけじゃなくて笑気麻酔も頼んだ方がいいかな?などと考えていると先生がやって来て、
「じゃあ始めましょう!」
え、ちょ、ちょっと待って、ちょっとちょっと!
歯茎を痺れさせるゼリーをチョイチョイと塗って、30秒もしないうちに局部麻酔を打って、またまた30秒もしないうちに抜歯作業を始めようとするパク先生?!
助手の人がわたしの肩を優しくトントンと叩いてくれるのはいいのだけど、わたしはもう完全にパニック状態。
でも痛くないのだ全然。
え?なんで?どうなってんの?
「ちょっと圧を感じますよ」と言いながら先生が力を込めた。
ものの5分もしないうちに、65年間わたしと一緒に生きてきてくれた親知らずさんが抜かれてしまっていた。
「あのー、その歯、家に持って帰ってもいいですか?」と聞くと、びっくりした顔されたけど、きちんと密封して渡してくれた。

抜歯代は200ドル。
でも、今日で終了するはずだったクラウン治療のために払ってきたお金は全額払い戻しにしてくれた。
それどころか、今日のパク先生に払うはずだった治療代の150ドルを、払わなくてもよいことにしてくれた。
パク先生がそう申し出てくれたそうだ。
なんて親切な人たちなんだろう。

******* ******* ******* ******* *******

昨日すっかり葉桜に変身したぽんちゃんの、一番べっぴんさんだった時の写真。



曇り空でもべっぴんさん。

山ちゃんに背負ってもらってた猫柳さんの枝から、

知らないうちにこんなにも根っこが生えていた!これをどうしたらいいんだろうか…。

猫柳さんってどんな姿でもうっとりする。



1年半もののお味噌。


納豆のような匂いがする。

盛り上がりがハンパじゃない元気なニワトリさんたちが産んだ卵。

いつも同じところに姿を現して、しばらくポーズをとってくれるリスちゃん。

痒いところをスリスリしたり、

目にも止まらぬ速さでガシガシしたり、

前庭の春その2





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Restaurant BLOOM in Verona NJ

2022年04月15日 | 家族とわたし
明日からまたペンシルバニアに向かう夫が、誕生日の前祝いをしてくれました。
フレンチレストラン・ブルームを紹介します。
648 Bloomfield Ave, Verona, NJ 07044
1-(973) 433-7256

何か特別なことがある時に行きたくなる、車で15分くらいの隣町のお店です。
韓国人シェフのウーさんのお料理は、食材のひとつひとつが小さいけれどしっかりとした声で主張していて、そしてそれぞれが本当に美味しいのです。
サラダに和えたグレープフルーツの一房でさえわざわざ柚子ソースをまとわせたりしていて、舌に乗せた途端「ん?」とか「うわ!」とかいう思いが込み上げてきます。
行くたびに、なんでこんなに美味しいんだろうと夫と二人で感心してばかり。
今夜はたまたまお客さんが少なかったので、ウーさんと話すことができました。
彼の経歴を聞いて大いに納得。

お店のウェブサイトに掲載されている文章です。



ウー・シェフの料理に対する情熱は、幼い頃から韓国で母親と一緒に料理をしていたことに始まります。
プロのシェフになることを夢見て、ニューヨークのフランス料理学院(FCI)に入学しました。
その努力と技術により、世界的に有名なレストランで6年以上働く機会を得ました。 
そのレストランは以下の通りです。
ニューヨークのJean-Georges、Daniel、Morimoto(まうみ注・料理の鉄人さんです)などです。
その後、家族とともにニュージャージーに移り住み、Prime and Beyond, Fort Leeのエグゼクティブシェフに就任しました。
この店は高級ステーキハウスであるため、絶賛され、強い支持を得るようになりました。

いやはや、なるほどなるほど。
というわけで、この2年半に渡るコロナ禍を耐え忍び、乗り越えてくれたことに感謝!

今日のお料理。
バターナッツスクワッシュスープ

ビーツサラダ


貝柱とワイルドマッシュルーム、そしてキムチピューレとキノコリゾットの組み合わせ

いつもは食べないデザート(ティラミス)ですが、誕生日なので特別に。お店のスタッフがロウソクに火をつけてお祝いしてくれました。

ウーさん、ありがとう!
いちびって片言の韓国語をしゃべっちゃってごめんなさい😅
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桜だ〜〜〜🌸

2022年04月15日 | 友達とわたし
40枚の桜の写真と、4枚のガチョウさんの写真を一挙にお見せします。
みなさんにもお花見気分を満喫していただけたらと思います。
訪れたのは我が家から車で10分のところにある桜公園です。
毎年、いつでもすぐに行けるやと思ってしまって、何度も花見をし損なってきましたが、今回、この公園の噂を聞いて、わざわざクイーンズからやって来てくれた明子さんと一緒に、快晴の空のもと、花見を楽しむことができました。
今は平日しか動けないのですが、今週は生徒たちが春休みで、ポコポコとレッスンに空きがあるので、思い切って行くことにしました。
わたしの背中を押してくれた明子さん、ありがと〜!


さて、このブランチ・ブルック公園にこんなにたくさんの桜を寄贈した人は、キャロライン・ファード氏、アメリカの女性実業家です。
日本を訪れた際に見た桜に感銘を受け、帰国後、2000本以上の桜の木を、この公園に寄贈したそうです。
彼女は、アインシュタインが籍を置いて教授をしていたプリンストン高等研究所の共同設立者でもあります。
アメリカで桜の名所といえばワシントンD.C.の桜公園ですが、なんとこの公園の桜の本数は、ワシントンD.C.よりも多く、4000本を超えているそうです。
ただし、ワシントンのようにダァーッと桜だけを密に植えられておらず、場所によっては雑木の合間で咲いていたり、そもそも公園の面積が広大過ぎて、一度に見ることができません。
この公園は、アメリカ合衆国初の郡が運営する公園で、ニューアーク市中心部から南北へ6kmにわたり細長く延びています。
この公園の敷地面積は145 ヘクタール、ニュージャージー州で一番広い公園です。
どおりでいつ行っても迷ってたわけだ…。

というわけで、今回初めての入口から公園に入ったわたしは、見たこともない風景にオロオロ…。
でもまああちこちに桜が咲いているので、明子さんと車から降りては散歩しながらの撮影会を楽しみました。



明子さん、逆光でお顔が暗くなっちゃってごめん!






桜吹雪に大興奮!






老齢の枝垂れ桜さんを見学中のガチョウさん

ゆったりと座ってくつろぎ始めたので、


近づいてみると、

調子に乗ってさらに近づいていくと、

怒った…😅




これから咲く気満々の八重桜さんたち


この公園の桜の種類は一体どれだけあるんだろう?







青空の下では枝だけでもいい。

桜の花びらが流れていく。


やっと見慣れた場所に到着。








ああ、この古木はまだ健在でした。

明子さんと一緒に。

わたしもついでに。

タイトル写真にも載せましたが、この公園で一番好きな桜です。

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音楽のちから

2022年04月05日 | 家族とわたし
肺炎を患ってからの義父の容態は良くなったり悪くなったりを繰り返しながら今に至っている。
彼の血中酸素飽和度は80%台が通常になり、咳も毎日続いている。
それでもベッドをリクライニングに替え、一階のリビングに移し、日当たりの良い広々とした空間で過ごせるようになってから、少しずつ様子が変わってきた。
看護師が7人、日替わりで彼の基本的な世話を引き受けてくれるようになったおかげで、義母が終始近くに居る必要が無くなり、彼女にとってもずいぶん楽になった。



夫の単独ペンシルバニア通いはもう何週目になったのだろう。
1週間のうちの約半分を向こうで過ごし、義父の体調を整えるための漢方を処方し、必要があれば鍼を打つ。
義母の不眠や疲れにも対処しなければならないから、いつの間にか大きなビリヤード台が漢方薬の容器と処方箋で埋め尽くされていた。



今回は息子たちの同伴も無く、一人で運転しなければならなかったが、6日間続いた便秘を解消し、血中酸素飽和度が90%台に戻った義父に、ピアノの音を聞かせてあげるのは今だと思い、楽譜をバックパックに詰め込んで行った。
あいにく空模様はぐずついていて、時々ゲリラ雨にも見舞われて、何度かハラハラさせられたドライブだったけど、なんとか無事に到着し、ピアノを弾きに来たよと義父に告げると、うんうんと頷いてくれた。

義父が居るリビングには、彼の母親の形見の古い古いグランドピアノがある。
もう何年も調律をしていないから、きっとひどい音だと思うと義母が心配していたが、弾いてみるとそれほどでもなかった。
低音部に弾いても音が出ない鍵盤があったけど、まあそれほど大きな影響が無いので無視をした。
義父が若かった頃に愛したであろう曲や、クラシックの中から穏やかで温かく、懐かしい感じがする曲を選んで弾いていたのだけど、何曲か弾き終わった時に急に、「ワォ!」という義父の声が響き渡った。
そこに居た誰もがびっくりして、顔を見合わせていた。
この数ヶ月、彼のそんな大きな声を誰も聞いたことが無かったからだ。
わたしも心臓がドクンとした。
その後すぐに嬉しさが込み上げてきて、だけど楽譜が読めなくなると困るので、泣きたくなるのを抑えながら演奏を続けた。
父のその声は、わたしがピアノを弾いた時によく言ってくれてた、まだまだ元気そのものだった頃の彼の声と同じだった。
父は音楽が大好きで、わたしたちをよくオペラやミュージカルや著名な演奏家の演奏会に連れて行ってくれた。
どれもチケット代がバカ高かったので、その合計額を頭の中で計算しては仰天したものだ。
終わったらいつもどうだった?と言うので、もうめちゃくちゃ感動した、どの場面のどの演技が素晴らしかった、あの役者はイマイチだったなどと好き勝手なことを言ったけど、義父はそれを嬉しそうに聞いていた。



見ず知らずの、異国の、正式に離婚の成立もしていない8才も年上の、しかも2人の幼児を連れたわたしと共に生きていくと決めた息子を信じてきてくれた。
義父は初めて会ったその日からずっと、わたしや息子たちを大切に思ってきてくれた。
尊重し、認め、愛し、わたしたちがわたしたちであることを両手を大きく広げて受け入れてくれた。
彼はわたしを素晴らしい母親だといつも褒めてくれた。
そしてどんな状況の時でも、いい仕事をしている、勇気がある女性だと讃えてくれた。
彼は自分の気持ちや考えを伝えることがほとんど無かったし、スケジュールを決め、それにみんなを従わせることは当然だと思っている人だったから、小さな衝突は何度も起こった。
夫を含む3人の子どもたちとも、開けっ広げであたたかな関係を作ろうとしなかったから、3人それぞれが苦い思い出を抱えている。
義父は昭和時代で言うモーレツサラリーマンで、だからこそ大企業のトップにまでのし上がったのだけど、早くに引退してからも他の大企業の相談役などをずっと務めていたので、義母は寂しい時間をたくさん過ごした。
昨年、二人は結婚60周年を迎え、ズームチャットでお祝いをしたばかり。
60年といえばわたしの人生とほぼ同じ年数で、わたしと夫は30年だから、まだまだ小僧なのだという気がする。



ピアノを弾いていると、ベッドの方からいびきが聞こえてきたので演奏を中断した。
子守唄になったのならそれも嬉しい。
台所に戻ってお茶を飲んでいると、夫がやってきて、また弾いてって言ってると言うので居間に戻った。
それからまた少し弾いていると、またもやいびきが聞こえてきたので、とりあえず今日はこれでお開きにして、また来週にはどんな曲を用意しようかなどと考えながらベッドの横のカウチに座っていると夫から呼ばれた。
ベッドに近づいていくと、夫が義父に、今日のピアニストと握手をしないか?と言って、義父がそろそろと手を伸ばしてきた。
わたしはその手を両手で包みながら、義父に、ピアノを弾かせてくれてありがとうと伝えようと彼の目を見た。
本当に本当に驚いた。
それまでずっと白濁して、ほとんど見えなくなっていた彼の目がすっきりと澄んで、綺麗な、かすかにグレーがかった青色に戻っていたからだ。
一体何が起こったのかわからないけれど、彼のその目の色を見たのは本当に久しぶりだったので、カメラに収める代わりにわたしの心の引き出しに収めることにした。
彼のあの「ワォッ!」という声と一緒に。

お義父さんありがとう。
お義父さんからはもらってばかりだ。
どんなに感謝しても絶対にし足りない。
これからのわたしは、ピアノを弾くたびに、あの「ワォッ!」と青い目を思いだすだろう。
そして何度でも嬉しく、懐かしくなるだろう。
また弾きに行くからね。
待っててね。
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生きたい気持ち

2022年03月31日 | 家族とわたし
春から秋にかけては裏庭の菜園の隣で、秋から冬の間はわたしの寝室で育ち続けているキンカンの木。
一時期は弱ってもうだめかと思ったこともあったけど、その後じわじわと蘇り、今年はたくさんの実をつけてくれた。
今回は楊枝の先で所々に穴を開け、砂糖を加えずにブランデーに漬け込んでみた。

漬けてから1ヶ月をめどに実を取り出していただくのだそうだけど、さてさて、どんな味に仕上がるだろうか…。

先週末はカルフォルニアから飛んできた次男くんと一緒に、ペンシルバニアの義父のお見舞いに行った。

先週末は、西海岸沿いの町でカラッと晴れた暖かな気候を満喫している彼には酷な寒さで、おまけに雪まで降ってきた。
いくら花冷えといっても、氷点下5度まで下がると身も心も縮こまる。
西海岸と東海岸の時差は3時間。
これに加えて、数日前まではバルセロナに出張していたので、彼の体感時間はもうめちゃくちゃになってしまった。
なので運転は大変だろうと思い、何度も交代を申し出たけど、結局行き帰りの運転を全部引き受けてくれた。


車の中でいろんな話をした。
次男くんは祖父とじっくり話ができなかったことを悔やんでいた。
人受けの良い長男くんに比べ、どちらかというとユニークな言動が多かった彼は、祖父が自分のことをどう思っているかが気がかりだった。
日本の学校では突飛な行動が目立ち、担任の先生の受けが良くなかった。
集団行動からはみ出ることも多かった。
それでこちらに移ってからは心機一転、良い生徒になろうと決心したのだけど、如何せん英語がよくわからず、違う意味で良い生徒にはなれなかった。
母親の離婚騒動に巻き込まれた孫を慰めようと、わたしの父が与えたゲームボーイで3歳から遊び始め、最初からどのゲームもすぐに攻略し、それからというもの、ゲームに熱中して欲しくない親の我々との攻防が続いた。
お茶目でふざけることが好きで、わざと悪ぶることもあったけど、思いやりに満ちていて、思考はいつも開放的だった。
だから絶対に大丈夫だと信じることができたし、どんな大人になるかがとても楽しみだった。
いわゆる有名大学には入学できなかったし、会社を転々としたけれど、常に真面目に働きながら、ゲームの世界では名声を得てスポンサーがついた。
二足わらじを履きながら、今はYouTube配信も手がけ、長年の夢だった世界最大のゲーム会社に入社してゲームデザイナーになった。
そういうこと全部を、わたしは義父に会うたびに話してきたのだけど、義父はいつもわたし同様に次男くんのことを理解していた。
そのことを次男くんに伝えると、彼は心底ホッとしたようだった。
会ってもきっと長くは話せないだろうから、一番伝えたいことをまず先に話した方がいいよと言うと、残念そうだったけれども踏ん切りをつけたようだった。


次男くんはコロナ禍が始まってからずっと、自宅勤務を続けている。
ガールフレンドのEちゃんと愛犬炭(スミ)くんと一緒に暮らしているのだけど、わたしたち両親から授かったいろいろな事柄を生活の中で活かしたり改良したりしているらしい。
彼もわたしと同じく、他人と一緒に暮らすようになってから掃除魔&片付け魔となったようだ。
自宅に居ることが多くなってから、宇宙のことをたくさん学んでいて、その膨大な量の事実を知るにつけ、人生そのものに対する考えが大きく変わったそうだ。
そのほんの一部を話してくれたけど、どれもこれもが唖然とするような話で、この世にはまだまだ知らないことが多過ぎるとしみじみ思った。

義父が役員になるまで長年勤め上げたハーシーズの新しい工場が、彼の家の近所に建っていた。

義父の容態は一進一退で、緊急の連絡が入った時のためにスーツケースには数泊用の着替えを詰めてある。
夫はまた明日からペンシルバニアに向かい、眠りや排便を助けるための漢方を処方する。
義父はまだ死にたくないと言う。
気が済むまで生きて欲しいと思う。
わたしの父も、モルヒネを増量されて意識が混濁する直前まで、家に帰りたい、生きたい、天ぷらが食べたいと言い続けていた。
義父は自分でトイレに行きたいあまりに無理をして、ベッドから転落した。
咳がひどく、体力も落ち、食べることも飲むこともほとんどできず、酸素吸入をしても息苦しい。
けれども生きたいという気持ちを持ち続けている。
もし許されるなら、義父のためにピアノを演奏してあげたい。
彼はわたしがピアノを弾くのをいつもとても喜んでくれていた。
そういう時間が許されますように。
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世界から戦争と武器が消える日

2022年03月27日 | 世界とわたし
上記(↑)の写真はwww.helabimarice.com よりお借りしました。
www.helabimarice.com(ヘレビマ)については、下記で説明しています。

******* ******* ******* *******

よく一緒に演奏しているソプラノ歌手のヴェロニカからメッセージが届いた。
彼女はウクライナ人で、家族は全員ウクライナに暮らしていることを知っていたので、ロシアの蛮行が始まってからずっと心配していた。

まうみへ
できればこの団体に寄付してほしいの。 
戦争が始まった最初の週に、人道的トラックで自らウクライナに来たドイツ人医師とその奥さんに会いました。
私は先週、ドイツで、家族の手伝いをしていました。
ビデオの中で旗を掲げているのは私の弟です。
ありがとう。

Volunteeres "Blago Ukraine" Help for Ukraine допомога Українцям


彼女から教えてもらった募金サイト。
わたしはペイパルで募金をした。
ここでも紹介してみなさんにお願いしようと思ったのだけど、なぜかリンクが開けられない。
彼女に問い合わせて、また再度試そうと思う。

代わりにと言ってはなんだけど、その募金画面に記されている言葉をここに載せておこうと思う。
Persönliche und direkte Organisation medizinischer und humanitärer Hilfe in individuellem Kontakt vor Ort - organisiert vom Münchener Arzt Erwin Lüddecke und seiner Verlobten Kateryna Oksenenko aus Charkiw Wir stehen mit BLAGO einer humanitären Organisation in CERNOWITZ in Kontakt, welcher ihr Bruder initiiert hat. Daher können wir genau und zielgerichtet die Hilfe leisten und wissen genau wer es bekommt. Mit viel Herz, familiär und direkt. Helfen sie uns das Leid zu mindern. Danke Erwin Lüddecke und Kateryna Oksenenko  

現地で個別に連絡を取り合いながら、医療・人道支援を直接組織する - ミュンヘンの医師Erwin Lüddeckeとハリコフ出身の婚約者Kateryna Oksenenkoが主催。
彼女の兄が始めたCERNOWITZの人道団体BLAGOと連絡を取り合っています。
そのため、的確で的を射た支援を提供することができ、誰がその支援を受けるかを正確に把握することができます。
心を込めて、親しみを込めて、直接的に。
苦しみを減らすために助けてください。
Erwin Lüddeckeさん、Kateryna Oksenenkoさん、ありがとうございました。

Helebima(ヘレビマ) 2012年12月22日、医師エルヴィン・リュデッケの主導により、バイエルン州アンプフィングに非営利団体Helebima e.V.が設立されました。
設立メンバーは、スリランカ・コロンボ出身の国際的に著名なアーユルヴェーダ医師、ジャヤナス・アベイウィクラマ博士の長年の教え子であり支援者である22名です。
協会の目的は、伝統的なアーユルヴェーダ、文化、医療、精神的な交流を促進することです。
協会はワークショップやセミナーを開催し、同時に設立された非営利会社RiceForLifeは、スリランカのエコロジーとスピリチュアルに栽培された米の輸入と貿易をコーディネートしています。
現在の役員は、第1代会長Roland Niedermeier氏、第2代会長Anneliese Jilg氏、会計担当Martina Niedermeier氏で構成されています。
さらに詳しい情報は、www.helebima.info 
アメリカでは、カリフォルニア州リノ出身の著名な実業家であるシャリ・チェイスが、同じ目標を掲げて、2013年にヘラビマ協会を設立。 
www.helabimarice.com 
ヘラビマワールドのミッションは、人類を養い、貧困と飢餓を減らし、ホリスティックな生活の価値を人々に伝え、健康と幸福を増進する道しるべとなることです。
2022年3月、同協会は医師エルヴィン・リュデッケと婚約者カテリーナ・オクセンネンコのウクライナ向け、および開戦直後の人道的使命を支援しました。
ルーマニア、ポーランド、モルドバの国境で難民を自ら迎え入れ、宿泊施設を手配し、初期医療を提供しました。
その後、ドイツでの輸送と宿泊は家族ぐるみで手配されました。
ドイツやウクライナの親戚や友人と連絡を取り合いながら、ドイツから直接、CERNOWITZに援助物資の輸送が行われました。
インスリンなど緊急に必要な医薬品は、1日以内に手渡すことができました。
現在、被災地へ直接お届けできるよう、現地の方々のご協力をいただきながら調整中です。
現地のパートナーはノンプロフィット(非営利団体)です。


自国民に命を捧げよと声高に訴える政治家は政治家ではない。
自国民が殺されることを前提に正義を語る政治家は政治家ではない。
戦争を仕掛けた政治家は失脚する、あるいは終身刑を課せられる。そんな制度や法律が作られないものか。
戦争を行った軍は解散する。そんな憲法が作られないものか。
戦争は暴力だ。
戦争は人を殺し、街を破壊し、ズタズタにする。
そんなものに正義などあるわけがない。
人を殺してはならない、街を破壊してはならないと、誰もがわかっているのに、戦争になると真っ先にそれが行われる。
人間世界は一向に良くならない。
戦争ビジネスをやめない人たちは悪魔の他の何者でもない。
ならば地球が、世界が、絶対に戦争をしてはならないと決めるしかない。
軍は災害時の救助や復興に特化した組織に生まれ変わり、武器の代わりに救助用具や開拓道具を手に持って活躍する。
日本は平和憲法を掲げ、世界をリードしていく国になるべきだ。
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春、いのちを想う

2022年03月25日 | ひとりごと
この頃の両親は紳士服の仕立て屋をやっていて、その仕事っぷりが優良だったことから、大阪の有名百貨店への仕入れを許されていた。
わたしと3歳下の弟のよそ行きの服は、たいていが母の手作りで、母も含めて3人がお揃いの洋服を着て、訪れた町の通りをウキウキ気分で歩いたものだ。

金回りも良く、贅沢に暮らしていた10年あまりだったが、家の中には小さなウソや秘密がそこかしこに隠れていて、見て見ぬふりをするのが面倒だったし、いつもモヤモヤとした不安が心の中で漂っていた。

わたしたちがまだ小さい頃、父は8ミリカメラなどで盛んに撮っていたから、家族写真は何冊ものアルバムに保管されていたのだけれど、借金の取り立てや差し押さえの際に、家具と一緒にほとんどが持ち去られてしまった。
火事にでも遭ったと思えばいいやとその頃は思っていたけど、今頃になってあの頃の投げやりになっていた自分を残念に思う。

夫は今日もまた、週末の看護にペンシルバニアに向かう。
その日その時間の義父の体調や症状に合わせて調合できるよう、ありとあらゆる種類の漢方薬の粉末を持参する。

82歳の義父は数週間前まで、なんとかして生き続けたいと思っていた。
どんな治療でも可能な限り受けて、肺炎に罹る前の状態に戻りたいと言っていた。
20年来にわたって苦しんできた不眠症に前立腺癌の辛い治療が加わり、そこに今回の肺炎だ。
抗生物質の効果もあまり芳しくなく、介護を一手に引き受けている義母も同い年の82歳。
これでは共倒れになってしまう。
夫が毎週通うようになってから、少しはその大変さが軽減されたとはいえ、それぞれに違う思いが交差してして、どうするのか、どうしたいのかの決定がなかなか定まらなかった。
試行錯誤してやっと、病院には入りたくない父の在宅ホスピスが決まった。
わたしはこれまでホスピスというと、終末医療を施してくれる病院だと思っていたが、夫が言うにはそうではなくて、自宅であれどこであれ、その人が希望する場所でその人らしく生き、死を迎えられるよう支え見守っていくことを言うのだそうだ。
義父の場合はその場所が自宅だった。
義母は複数のエージェントに連絡を取り、1週間全ての夜から翌日の朝にかけて介護してくれる人を手配した。
この暮らしがいつまで続くかはわからないけれど、義父が1日も長く穏やかに、彼を案じて訪れてくる人たちとの再会を楽しみ、質の良い眠りを得られることを祈る。

政府から各家庭に送られてきた4回分の簡易テストセット。
マスク着用義務が解除されてから、感染者数がまた増えてきたので、まだまだ油断はできない。

わたしはいつも単独で日帰り見舞いをするのだけど、先週は長男くんと奥さんのTちゃん、今週はカリフォルニアから駆けつけてきた次男くんと一緒に行く。
この年になると片道3時間弱の日帰り運転を一人でするのはかなりしんどいので、分担できる人がいるととても助かる。
今回もおにぎりとおやつを食べながら行こうと思う。

最近ハマっている相撲みかん。売り場では本当に「Sumo Citrus」と書かれている。

久しぶりに、近所の友人Sちゃんと一緒にガールズランチに出かけた。
ミドルイースタンのレストランでは、グルテンフリーの人間はなかなか楽しめないのだけど、このお店はほとんどがグルテンフリー😵


猫柳を背負って立つ山ちゃん。

5月からレジ袋(プラスチックも紙も)が無くなるので、各自で買い物袋を持参しなければならない。

前庭の春






先代の家猫ショーティの墓守り夫婦

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「戦争をやめろ!戦争反対!プロパガンダを信じるな!この人たちはあなたにウソをついている!」

2022年03月15日 | 世界とわたし



ロシアのウクライナ侵攻が始まってから、日を追うごとに酷いニュースが耳に入ってきます。
その中には誤報やプロパガンダも混入していて、一体何が本当なのかよくわからなくなってしまいます。
いろいろな方々の話を聞いて、いろいろな方面からの現状を見て、自分なりに理解しようと思うのですが難しいです。
これまで聞いてきた中で、この方の話がとても興味深かったので、1時間10分と時間は長いのですが、ぜひ聞いていただけたらと思います。

ロシアのウクライナ侵攻①

ウクライナは左上部に位置します。

冒頭の7分弱の部分だけでも、「なるほどなるほど」と何度思ったかしれません。
プーチンの大統領になり方が非常に汚かった。
首相時代、モスクワの3都市で起こったテロ事件をチェチェン人の仕業に違いないと断定する。
少数民族、イスラム教徒というのを利用して、イスラムに対する偏見を利用してイスラム教徒のテロだという話に持っていく。
チェチェン共和国の首都グロズヌイを空爆し、チェチェン人を悪者扱いし、第二次チェチェン紛争を引き起こすことで人気を得て大統領になった。
ではなぜプーチンは、このチェチェンにこだわったのか。
ロシアは、チェチェンの右側、カスピ海沿岸一帯の、バクー油田(19世紀での石油の半分を賄っていたほどの採掘量を誇る)などで有名な非常に豊かな石油と天然ガスを、世界に売り捌いてボロ儲けをしたかった。
チェチェンが独立してしまうと、ロシアの富の源になるパイプラインを管理するのが難しくなるというので、空爆などで独立を阻止している。
ジョージアはチェチェン同様、パイプラインが通っている。
今現在、侵攻しているウクライナにもパイプラインが通っている。

プーチンが仕掛ける侵攻・戦争の本質、天然ガスと石油のパイプラインの利権である。
何度だって言いますが、戦争は人殺しです。
土地や資源を奪うために、自分たちが潤うために、ありとあらゆる手を使って理由や話を作り上げ、権力と金を使って世論を煽り、人と街を破壊する戦争は、この世で最も愚かなことです。
世界中の国が放棄すべきことです。
こんなことを一井の市民であるわたしが言ったところで、世の中は何も変わらないじゃないか。
そんな思いが込み上げてくるたびに、わたしはわたしに言い聞かせます。
変わらなくても言い続けていこう。
それが人として生まれたわたしの使命ですから。
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