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ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

母との時間

2025年08月23日 | 家族とわたし
19日の明け方に飛行機は羽田に着きました。


さすがにその時間帯は到着客が少なくて、あれよあれよという間に空港ロビーに出られたのに、あらかじめ購入しておいたeSIMを使えるようにするのがどうしてもできなくて、出口付近の椅子で、なんと2時間以上も座り続けるという羽目に…😭。
その間、どこかの学校の団体旅行の生徒たちが解散したり、他の飛行機の到着客が次から次へと出てきたり、おかげで始発の電車はいつなのかなどと心配する必要は無くなったのですが😅。

出発の前日はなぜか3時間弱しか眠られず、深夜に発った飛行機の中でもやはり2時間ぐらいしか眠られず、日本に到着した時にはほぼフラフラに。
けれども長い電車移動の前に力をつけておかないとと思い、朝食を空港の中のカフェで食べ、いざ品川へ。
そこから富士山側の窓際で、しかも大型の旅行カバンを置ける席の切符を買い(なのに残念ながら富士山はすっぽりと雲の中に隠れていました)、母が暮らす町に向かいました。

みんなから散々暑さが半端ではないと言われて、それなりに覚悟をしていたのですが、いやもう、48時間中、合計5時間しか眠れなかった体には、その暑さが一層キツく感じられました。
東南アジアと化した日本の夏のキツさ、これはしんどい。

母はとても痩せて弱っていました。
毎日のようにLINE電話で顔を見ながら話していたのに、気づくことができませんでした。
入院する前の、あれやこれやと不具合があり、できなくなったことが色々と出てきていた頃の母を思い出すと、それでも今の状況と比べるとどれだけマシだったか。
高齢者の入院がこれほどの身体機能の劣化につながるのだと思い知らされました。
口の中が異常に乾き、そのために味覚がほとんど無くなり、食欲が失せてしまいました。
言葉をはっきりと発音することもできなくなりました。
家の中の移動を車椅子でやるようになったので、母が自分の足で立ったり歩いたりということはほぼ無くなってしまいました。
デイサービスの1日体験をしたのですが、案の定、もう二度とあんなところには行かないと一発拒否。
なので、今年2月の緊急入院までに受けていた訪問サービスを続けることになりました。
週3回の入浴と週2回のリハビリです。

新しく担当になってくださったケアマネさんにお会いして、彼がわたしに直接会って確認したかったことのお話を聞かせてもらうこともできました。
彼はざっくばらんな、3人の息子さんたちのお父さんで、担当する家族をよく観察し、何が必要なのかを把握した上でテキパキと手続きを取ってくれます。
母や義父の心の支えになってくれているのがよくわかります。
母は気難しくて好き嫌いが激しい人ですが、彼のことをとても気に入っていて、そんな奇跡のような出会いにどんなに感謝しても足らないぐらいです。
彼の頭の中で描いた設計図は、母によってことごとく潰されてしまうのですが、それにもめげずに代案を用意して、それが母に受け入れられるかどうかを試してくれるケアマネさん。
今回はこれがそうでした。

玄関から道路までの階段の上り下りに、いざ必要になった時のために、事前に階段昇降機を取り付けておいてはどうかと考えるケアマネさん。
自分の足でやれると考えている母は、今はまだ必要がないと言って断ります。
けれども設置には数ヶ月かかるので、その継ぎ目の時間稼ぎの手段として、人的労力によるカゴのようなものを見せに持ってきてくれました。

担ぎ手は2名必要で、担ぐというより手で引っ張り上げなければならないことから、高齢者には不向きであると、介護用品のプロやケアマネさんがいくら説明しても、義父は自分もやりたい、できると言って聞きません。
それで、実際に、母に乗ってもらうことになりました。

実験した結果…こりゃ無理だと観念した義父。みんなほっと胸を撫で下ろしたところです。

母は口の乾きと歯の痛みに悩まされていて、だから余計に食が細くなってしまいました。
その話をすると、訪問歯科医の紹介をしてくださいました。
少し遠いのですが、ケアマネさんのご尽力で、家まで来ていただけることになりました。

こうやって間近に介護システムの実態を見させてもらい、もちろん幸運に恵まれているということもあると思いますが、本当にありがたく感心するばかり。
ケアマネさんは何度も、直近の入院(尿路感染症と肺炎)での母の様子と年齢から考えて、寝たきりになるに違いないと、医療関係者ともども断言していたと言います。
けれども義父が、妻は家に戻ったら蘇ると言い切っていて、実に時間がかかるものの、自分で顔を洗ったり、箸やスプーンを使って食事をしたりできるようになった母を見て、感無量であるとともに、ここまできたらもう、また歩行器を使って自分で歩けるようになろうな、そしてお母さんの大好きなあの温泉にまた行けるようになろうなと、母を励ましてくれるケアマネさんを見て、本当にありがたく胸が熱くなりました。

同じ日に、大阪の弟が、休みが取れたからと来てくれました。
昨晩に自分で作った茄子の煮浸しや美味しい夏のお菓子など、母が食べやすい美味いもんをたくさん持ってきてくれました。

母はこのような人たちに支えてもらいながら、今の自分が在るのだと、感謝していると言います。
義父が事細かに助けてくれて、難聴がゆえにイライラさせられることも少なくはないけれど、本当にありがたいと言います。
これからも多分、できなくなることが少しずつ増えてくるでしょう。
昨夜もふと、入院前の母のことを考えました。
母と毎日LINE電話で〇〇したなあ、母は〇〇が好きだったなあ、などとあれこれ思い出すと、なんとも言えない寂しさが押し寄せてきましたが、そういうことを受け止めていくしかありません。

5日目の朝、これまでは腫れに腫れてしまった母の足のマッサージを毎日やってきたのですが、肩から腕をほぐしてみました。
すると、体が軽くなったからと、昨日から始めた足踏み体操をした後に、いきなり歩行器で歩き出しました。
え?え?え?
義父とわたしとで前と後ろを固め、彼女が行きたいところに進んで行きます。
結局、玄関までの廊下を歩き、玄関の上り框に取り付けた2段の階段を2往復、退院後初めての大運動会となりました。
わたしはもう嬉しくて嬉しくて、けれどもだからといって調子に乗ってはいけないと思いつつ、また明日もできたらやってみようねと言うと、母も満更ではない様子。

今夜は親友のAちゃんから教えてもらった、食べようとしない母に食べてもらえるよう茶碗蒸しを作ろうと思います。
うまくいくこと、うまくいかないこと、喜んだりがっかりしたり、たった12日の間だけど、シャカリキにならないように適当に息抜きしながらやっていこうと思います。

日本に行きます。

2025年08月17日 | ひとりごと
母が肺炎と尿道感染症の治療を終えて退院してから約2週間、家の中でも車椅子に乗って生活しています。
食欲は依然として無く、口の中が渇き過ぎていて、梅酢やリンゴ酢、それから口内うがいなどを試しているのですが、あまりはかばかしくないようです。
言葉は入院中よりもうんとはっきりとして、普通に会話ができるようになりましたが、15分ほど経つと疲れてくるのか、少しずつ不鮮明になってきます。
けれども、とにかく退院してくれたので、面会の制限時間30分だけしか会えない、という事態にならないで済みましたので、母の頑張りに感謝しなければなりません。
義父との関係はまだギクシャクしていて、母というクッションがなかったら、どうやって二人だけで時間を過ごせるんだろうと悩んでいたのでした。

こちら時間の今日の夜中(正確には18日の午前1時過ぎ)にJFK空港を発ち、日本時間の19日の明け方に羽田に着く便に乗ります。
母の介護や家事を手伝いながら、今回新しく担当してくださることになったケアマネージャーさんと会い、いろいろとお話を聞かせていただく予定です。
母の食欲が少しても増すようなおかずを作って、過酷な暑さを乗り越えてもらおうといろんなレシピを集めているのですが、さてさて、ワガママで好き嫌いの激しい彼女に勝てるかどうか…あまり自信はありません😅。

この帰省が終わったらすぐに、新学期のレッスンが始まります。
11月に発表会を控えているので、41人の生徒たちはわたしの帰りを今か今かと待ち構えているはずです。
その1ヶ月前の10月の中旬には、我が家でのサロンコンサートを予定していて、こちらに戻ったらすぐに、発表会で弾く連弾曲と、サロンコンサートで弾く2台のピアノのための曲の練習を再開しなければなりません。
時差ボケしてる場合ではない!😭のですが、果たして体力がもつかどうか…。

というわけで、旅の支度も整い、酷暑対策として髪にパーマもかけ(少しでも汗をかくとすぐにクネクネと踊り出して収拾がつかないので、それならいっそのこと初めっからクネクネにしちゃえと)、準備万端です。
ここ数日の間、眠れない日が続いたからか、なんだか体が酷く重苦しいので、夫に鍼を打ってもらいました。
昨晩遅くに、子どもだった頃に可愛がってくれた伯父が、施設で転んで骨折し、車椅子生活になった途端に体力が激減し、食べ物を喉に詰まらせて意識不明になったという知らせを受けました。
伯父は父のすぐ上の兄なので、多分年齢は95歳。
90歳を過ぎると、いろんなことがバタバタと起きて、それまでの生活の質が一気に変わる、という事態になるのだなあと、最近ではしみじみと考えさせられます。
伯父も母も、叶うなら、復活して欲しいと思うのですが、こればかりは本人次第。彼らにとって一番良いようにと祈ります。


最近のうちのお客さん。
これは夫が撮った写真です。彼はボクに何か言いたげだったと😅。

わたしが家に戻り、ドライブウェイに車を停めても、そのすぐ横でくつろぎ続ける彼ら。


庭でさえずる鳥たちの声を、このアプリは聞き取ってくれます。

携帯電話で四苦八苦して撮った満月。


音楽三昧の夏2025 その2

2025年08月07日 | 音楽とわたし
海辺のコンサートの翌日は、マンハッタンのブロードウェイのショーを観に行きました。
夫の両親が所有する、セントラルパークのすぐ横にあるアパートメントに義母が来ていて、何か一緒に観ようと誘ってくれたので、夫がこのショーを選びました。
『BUENA VISTA SOCIAL CLUB』
いやあ、ほんっとに楽しかったです。
まさに快楽の音楽でした。
楽しんでいること全身からバンバン伝わってくるダンスでした。
坂本龍一さんが大絶賛していた驚愕のラテン音楽。
いやもう、座っているのが苦しくなってくるほどの躍動と歓喜に包まれた会場で、観客はみんな笑顔、笑顔、笑顔!

1959年に、このミュージカルの中でも不穏な空気を醸し出しながら語られていたキューバ革命が、カストロの指導によって成功しました。
1961年、革命後のキューバでは社会主義国家建設が進行し、アメリカ資本が追放されたことから、アメリカのアイゼンハワー大統領が国交断絶に踏み切りました。
キューバを長い間従属させてきた米国政府は、革命政権転覆を謀り、亡命キューバ人によるキューバ侵攻を支援していましたが、ケネディ大統領もそれを継続し、同年4月に亡命キューバ人に侵攻させ、革命政府の転覆を謀りましたが失敗。
それに怒ったカストロがソ連に近づき、ソ連もフルシチョフが第三世界への支援と核戦力の強化によって対米優位を得ようとして、キューバに核ミサイルを配備したのです。
それが、1962年のキューバ危機につながりました。
結局は核戦争勃発という大惨事にはなりませんでしたが、大国の底抜けの強欲というものは簡単に世界を崩壊させるのですね。

話が横にそれてしまいましたが、このミュージカルは、そういった混沌と恐怖の中で、それでも自分の音楽を求めてやまないミュージシャンたちの姿が描かれているので、彼らの音楽への情熱がより深く、強く感じられます。


アメリカのコメディショーの大御所「となりのサインフェルド」で取り上げられて超有名になったスープ店。
"No Soup For You!" | The Soup Nazi | Seinfeld
実際に、このお店の店主は、客の注文の仕方や代金の払い方が気に入らなかったら、店から出て行けと言って追い出すような気難しい人で、けれどもスープが美味し過ぎて行列ができるということで有名だったそうです。


まずは「焼き鳥TOTTO」で腹ごしらえを。

これは、隣町に住むスティーヴン・コルベア氏の「ザ・レイト・ショー」の劇場です。
トランプの圧力で来年の5月に番組が終了となってしまいました。
終わってしまう前に絶対に行きたい!

タイムズスクエアはいつも通りに混み混み。

劇場に到着しました。




とても小さな劇場です。


ミュージシャンたちが現れて、楽器の調整を始めました。

撮影は厳しく禁止されているので、ここから先はもう写せません。

94歳で現役のオマーラ、彼女のバイタリティに乾杯です!
Bolero a la vida - Omara Portuondo feat. Gaby Moreno (Video oficial)

伊東英朗監督「日本人映画監督として、アメリカの核問題を映画化し、アメリカで議論を巻き起こしたい」 みなさんの支援をお願いします!

2025年08月06日 | 日本とわたし
このプロジェクトの支援受付が、あと8日で終わってしまいます。
みなさん、どうか、どうか、力を貸してください!

わたしも昨日このプロジェクトのクラウドファンディングのことを知って、慌てて支援の手続きをしました。
手続きはとても簡単です。

クラウドファンディングのページから:

高校生の時、僕は、広島の原爆ドームを訪ねました。
その時から、放射能に強い関心をもち続けてきました。

2004年、太平洋で核実験に巻き込まれ被曝した多くのマグロ漁師と出会い、取材し、ドキュメンタリー番組や映画を製作し続けてきました。

20年にわたり日本国内でマグロ漁師の被害を訴え続けてきましたが、事実が認められることはなく、補償やアメリカ政府の謝罪へつながることはありませんでした。

その活動の中で、この問題は、日本国内で伝えるだけではなく、核兵器保有国であり、当事者国であるアメリカで伝え、アメリカ市民に核兵器開発の過程で起こった事実を知らせなければ、核兵器の問題は解決しない、と考えるようになりました。
そして決意を固めたのです。
アメリカ政府は、核兵器を手に入れるため、国内で101回の地上での核実験を行いました。
その過程で、アメリカ全土が放射能汚染しました。
そのことをアメリカ政府は、知りながら、その事実を国民に隠し、実験を続けました。
さらには、太平洋で100回以上の大気圏内核実験を続け、そのことでさらにアメリカ大陸は放射能汚染を強めたのです。
しかし、ほとんどのアメリカ人は、その事実を知りません。

つまり、アメリカ国民は、自らの命と引き換えに核兵器を手に入れたのです。
核兵器を持つか持たないかの議論の前に、その事実を知る必要があるのです。
自らの国を守るための核兵器が、自らの国民を被曝させていたことは、今でも理解できません。

支援後に監督からのメッセージが届きました。

プロジェクトを支援してくださり、ありがとうございます! 
感謝です! 
地球上から放射能の被害をなくすため 大きなムーブメントを核保有国であり被ばく国のアメリカから巻き起こしたい! 
そのためのご支援に感謝いたします。  
映画を完成させるためには、最低でも1000万が必要です。 
放射能がテーマの映画がスポンサードされることは非常に難しい現実があります。 
さらにSNSなどで情報拡散を頂けます幸いです。

もう一度みなさんにお願いします。
どうか、このプロジェクトが順調に実現できるよう、力を貸してください!

音楽三昧の夏2025 その1

2025年08月04日 | 音楽とわたし
いつか、お互いのどちらかがこの世を去る前に、できれば会っておきたいと思っていた人たちに会いに行ってきました。
会場はロングアイランドにあるJONES BESCH THEATER。
名前の通り、海岸沿いにあり、舞台は海の上です。

見えてきました。

巨大な駐車場に到着。すでに大いに盛り上がっている人たち。
駐車場パーティはこの手のコンサートには付きものなんだそうです。


上空ではエサ狙いのカモメがいっぱい飛んでいます。

見た目はどんよりとした曇り空ですが、空気は乾燥していて、吹く風がひんやりと心地よく、下手をすると寒いくらいです。


会場の中に入りました。




待ち時間にゲームをする人たち。


プログラムも何も無いので、夫が売店のおばさんに尋ねると、これを見せてくれたそうです。


4時開演。
最初のミュージシャンはウェイロン・ペイン、演奏時間は35分。
それ、だれ?

まだ開演までには時間がありますが、座席はガラガラです。


4時きっかりにトップバッターのペイン氏が現れました。



観客がこんな少ないのが勿体なさ過ぎる!と怒りたくなるほどに、歌もギターも胸の奥深いところに響いてきます。
一体何者?
歌と歌の間に、さらさらと話してくれるのは、波瀾万丈だった彼の人生のエピソードでした。
彼はナッシュビル生まれ、テキサス育ちのシンガー・ソングライターで、有名なギタリストの父、グラミー賞を受賞したカントリー歌手を母親に持つ、言わばカントリー界のサラブレッドさんなのですが、酒とドラッグ依存からなかなか抜けられず、相当に苦しんだようです。
彼のことを詳しく書いてくださっている記事を見つけたので、紹介させていただきます。興味のある方は読んでみてください。
愛する母の死、ドラッグ依存を乗り越え、グラミー賞にノミネートされたWAYLON PAYNEが16年ぶりに2ndアルバムをリリース - LAST HURRAH 2.0

ああ、いい歌とギターだったな〜などと思いながら周りを見回してみると、ありゃりゃ、いつの間にか客席が増えていて、なぜか色々なビーチボールがあちこちで飛び回っています。


そして登場してきたのはルシンダ・ウィリアムズ、自分の立ち位置に到着するのに、かなり難儀している様子です。



わたしはこの時まで何も知らなかったのですが、彼女は数年前に脳梗塞を発症し、過酷なリハビリを経て、今のようにまた再び歌えるようになったのだそうです。
でも、ギターを演奏することはもう無理かもしれません。

歌い終わった彼女が、舞台脇にやってきて、盛り上がる観客にこんなスピーチをしてくれました。
音楽があれば、どんな苦しみにも打ち勝てる。
巷に溢れ出した悪いことにも。



彼女の言葉が心に沁みて、なぜか涙が込み上げてきて、内緒で静かに号泣していたわたし。
人生で最も苦しい時に、付かず離れず、わたしがまたその気になるまで、じっと待っていてくれた音楽。
音楽に救われた者の一人として、彼女のメッセージをしかと受け取りました。

そして登場してきたのはウィルコ。
夫にとってもわたしにとっても、今日一番楽しみにしていたバンドです。
リードボーカルのジェフ、リードギターのネルスが特にお気に入り。


いつか直に聞きたいと思っていたのですが、この日のサウンドミキシングの音量が大き過ぎて耳が痛いほどだったので、たまらず両耳を塞いで聴かねばなりませんでした。
他の人たちはどうなんだろうと思いながら周りを見回してみました。
観客の年齢層はまちまちでしたが、割合からいくとわたしと同じか上の高齢者が半分以上を占めています。
けれども、わたしすぐ隣の夫以外、誰もそんなことをしている人はいませんでした。
え?わたしたちの耳が繊細すぎるのか?
それにしてもギュインギュインと耳に刺しこんでくる音の塊の中から、ボーカルや各楽器のそれぞれの音色を聞き分けることは至難の業で、家や車の中で楽しんでいる普段のウィルコの音楽に浸ることができなかったのはとても残念で、できることならミキシングエンジニアさんのところに行って、ちょっと音量を下げてもらえませんかと頼みたかったです。



曲はどんどん進んでいき、舞台も観客席も興奮のるつぼ。




そんな中、淡々と演奏に没頭するこのキーボードさん、すてきです。


このハーモニカの達人の演奏もすごかった。


そしていよいよボブ・デュランの登場です。
なんだか怪しげなアップライトピアノに陣取り、いきなり歌い始めました。
その声のみずみずしさにびっくり!


でも、さすがはボブ・デュラン、舞台は夕焼け色のライトのみ、両横のビッグスクリーンは真っ黒のまま。遠くの席に座っている人たちにはほとんど見えません。

薄暗い中、携帯電話の望遠ではボケボケの写真しか撮れません。



前の方の観客は総立ちで盛り上がっていましたが、もともとわたしはボブ・デュランの歌をあまり聞いたことがなく、彼の歌は全て夫からのまた聞きで、けれども去年観た彼のデビュー当時を描いた映画でちょっと興味が出てきただけなので、昔の古い歌には蓋をして、新たに創った曲をMC無しで淡々と演奏するコンサートは、それほど楽しくはありませんでした。
彼がピアノをこんなに弾けるとは思っていませんでしたが、たまに好きなようにテンポを動かしたり、勝手に終わったりするので、バンドのメンバーがそれに合わせるのに四苦八苦している様子が面白かったです。
でも、ボブは84歳。やっぱりオーラがすごかったです。
夫は彼のコンサートには何も期待しないで行くといつも言っていて、今回もやっぱりあれこれと文句を言っていました。
まあでも、60年も前の歌を、何万回と歌わされてきたボブの、自分が歌いたい曲を歌わせてくれという気持ちもわからんでもない、という気もします。


そして今日のメインミュージシャンのウィリー・ネルソンの登場です。
彼の横には、今日の1番はじめに登場したウェイロンが座っています。

ウィリーのギターは渋さ満点。




すっかり夜になりました。

ウィルコと一緒に演奏していたハーモニカ奏者も加わりました。
彼の名前を聞きそびれたのですが、ウィリーのバンドではさらに艶やかで哀愁があり、彼のソロをいつまでも聞いていたいくらいに素晴らしい演奏でした。


ウィリーは92歳。
カントリーミュージック界の大御所である彼は、マリファナの合法化に向けて尽力した人でもあります。
彼は最近、大麻料理本も出したそうです。


「どのレシピも、大麻の効能で体だけでなく心もリラックスさせてくれます。家族、友人、ファンと共有した食事から得た料理本は、エキサイティングで心地よく、生き生きと物語に飛び込む方法になっています」

…というわけで、日本では考えられないでしょうけれど、合法化したニュージャージーはもちろん、ニューヨークのマンハッタンでは、通りのあちこちでマリファナの煙の匂いが漂っています。
わたしは息子たちから入眠のための大麻グミ(CBD)をもらって、たまに眠りにくい時は口の中でしばらく転がしているといつの間にか眠っていたという経験が何回もあります。
副作用や薬物依存の心配もありません。
いわゆる食用大麻ですね。

話が横に逸れてしまいましたが、ウィリーの声は実に若々しく、けれども年季が入っていて、ギターの音色と一体になって大きな会場いっぱいに響き渡ります。
彼と、彼の孫のようなウェイロンのギターと歌声が、折り重なったり別々の場所でそれぞれに輝いたり、実に聞き応えのあるステージでした。

ウィリーは92歳、ボブは84歳、ルシンダは72歳、もうすぐ58歳になるウィルコのメインボーカルのジェフと53歳のウェインは、今回の出演者の中ではまだ若者だと言える、それはそれは物凄いコンサートでした。

空一面の厚い雲は、暑い太陽の日差しを遮ってくれたし、日が暮れてからは肌寒いくらいの最高のコンサート日和。
4時から始まったコンサートは11時まで続きましたが、7時間もの長い時間とは思えない、夢のような時を過ごさせてもらいました。

母の3度目の入院

2025年07月23日 | 家族とわたし
母が昨夜、救急車で運ばれて3度目の入院をしました。
晩ご飯を食べ終わるまでいつもと変わらなかったのですが、食べ終わってからしばらくすると急に両手の指でテーブルを激しく叩き始め、それが20分もの間続いたそうです。
その発作がようやく収まり体温を測ると39℃超え、慌てて血圧も測ってみたら160近くあり、これは病院に行った方が良いと判断した義父が、救急車を呼んでくれました。

検査は夜中まで続き、その時点で出た結果は、熱は肺炎から、そしてまるでピアノの鍵盤を激しく叩いているような奇妙な発作は、尿道から侵入したウイルスによるものではないか、というものでした。
90歳という高齢であることから、肺炎が悪化して人工呼吸器や胃瘻処置が必要になった場合の、受け入れるか否かの意志を確認された義父は、常日頃から延命処置や胃瘻は絶対に断ってと言っていた母の意思を尊重し、受け入れない旨を伝えたそうです。
病院側は常に最悪の事態に陥った時のことを想定した上で、患者や患者の家族の意思を確認していると承知しているものの、やはりこういう流れになる現実が重く心にのしかかってきます。

夫は、「こういう場合の西洋医学は抜群の力を発揮する。抗生物質などの投与で今のお義母さんの症状は一気に回復する。だからそんなに深刻に考えなくてもいい」と言ってくれます。
わたしも母は基本的に体力がある人なので今回のことも乗り切ってくれるはずと思うのですが、対して気力の方がめっぽう弱く悲観的なので、そこのところが心配でなりません。
母は数日前から、頭が痛い、歯が痛いと繰り返し訴えていました。
歯の痛みが頭につながっているのではないか、家にある頓服を服用して、しばらく様子を見るといいと思っていましたが、言い始めた時から病院に連れて行っていれば良かったのかと後悔したり…。
1週間前にひどい寝汗をかき、暑い暑いと言っていたのも、もしかしたらすでに肺炎の症状が出ていたのかもしれません。
冷え冷えシーツや掛け布団を送ると、その晩からひんやりと気持ちよく寝られた、汗もかかなかったと喜んでいたのに。
そういえば、昨日の朝の電話で、痰の塊が出てきたと言っていましたし、少し咳き込んだりもしてたので、じわじわと肺炎が進行していたのでしょうか。
などと、あれこれと思い出しては後悔することばかりです。

8月18日から日本に向かう予定で飛行機のチケットを購入してしまったので、どうしたらいいものかと思案中です。
18日までに片道だけのチケットで日本に行き、18日出発の便には乗らずに帰りの便だけを利用する、というようなことが可能なのかどうか、明日また航空会社に尋ねてみなければと思っています。
大阪在住の弟も、まずは担当医からの診断結果が出てからの話、落ち着いて待つべきだと言われました。

やはり日本は遠い、本当に遠いです。
ここに移る時にしっかりと覚悟したし、今もそれはブレてはいませんが、やはり現実のものとなるとキツいです。

世にも素晴らしい歌手たちとピアニストが奏でる、日本と英国を結ぶ旋律を、大いに満喫できるコンサート♫ ぜひぜひ!

2025年07月23日 | 音楽とわたし
わたしの一推し、いや、一なんかじゃ全く足りない、千万推しのメゾソプラノ歌手綾香と、同じく千万推しのピアニストの久美さん、そして二人が一緒にやろうってんだから、そりゃもう素晴らしいソプラノ歌手に決まってるサラジェーンさん。
わたしはまたまたタイミングが合わなくて聴きに行けないのですが😭、わたしの無念を晴らしに行ってくださいますよう、このコンサートのお知らせをさせていただきたいと思います。

お盆の真っ最中ではありますが、みなさん、お誘い合わせの上、ぜひぜひお出かけくださいね!
鳥肌が立ちまくるような、ひっくり返るほどの感動と喜びを得られる夜になると思います。

ちいさな三つのお話

2025年07月19日 | ひとりごと
我が家のお箸はご覧のように、それぞれのペアが輪ゴムで縛られています。
夫はあまり賛成ではありません。
輪ゴムがなんとも不粋だし、いちいち取り外すのが面倒だからです。
でも、今までずっと、さあ食べようという時になって、ペアのお箸を見つけるのに時間がかかってイライラしていたのは夫です。
こうして分けておいたら、なんの迷いもなく選ぶことができます。
それにしても…。
息子たちもとっくの昔に巣立ち、今ではたった二人だけの暮らしなのに、どうしてこんなにいっぱいお箸を出しておくの?と、自分でもたまに思います。
ほんと、どうしてなんでしょう。
お箸がいっぱいある、という景色が好きなのかな。

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最近、食べ方を変えました。
朝起きて、まず夫が処方してくれた漢方薬を飲み、レモンを絞った白湯を飲みながらピーナッツを30粒食べます。

情けないことながら、こんなふうに食べた殻を置いていかないと、すぐに食べ過ぎてしまうのです。
ピーナッツはコストコで売っている巨大袋入りのピーナッツです。

このピーナッツは「NON-GMO」(遺伝子組み換え作物ではない)で、オーガニックではありませんが、スーパーで売っているものよりは良いのではないかと考えています。
けれども、焦げていたり破損していたりして、食べられない状態のものが結構あって、そのことに不満を持つ消費者さんたちが少なくありません。
でも、やたらに粒が揃っていて美しい、というのもなんか嘘くさくて恐ろしいので、もっぱらこのピーナッツを食べています。

ピーナッツを食べ終わったら、ゆで卵を一つ、塩をつけずにいただきます。
塩なしの素のゆで卵を食べた時に、ゆで卵自体に塩気があることに気がついて感動しました。
そうやってタンパク質を十分に摂ってから、炭水化物(ご飯やパン、または韓国餅)を、アオサと刻み葱をたっぷり入れた味噌汁と一緒にいただいて朝食は終了します。

炭水化物を摂る前にタンパク質を摂っておくと、血糖値スパイク(食後の血糖値が急上昇・急降下を繰り返す状態)を和らげる効果があると最近学びました。
母が脳梗塞を患ったことで、血管のことを色々と調べているうちに知ったのですが、ご飯や米菓子が大好きだからと、食べたいときに食べたいだけ食べていた自分を反省し、血管を良い状態に保てるよう頑張ってみようと思ったのでした。
そう思って夫と一緒にご飯を食べていると、今までずっと奇妙に思えていた夫の食べ方が、実は正しかったことに気がつきました。
さすがは健康オタク!
夫はまず、野菜を食べ、それから肉類を食べ、最後の最後に小さなお茶碗に3分の2ほどのご飯をおかず無しで食べます。
毎度のことのように、わたしはその食べ方を見て、どうしてあなたはご飯とおかずを少しずつ交互に食べて、食べ終わりにはご飯もおかずも全て無くなっているというふうに食べられないの?と文句を言っていました。
同じおかずをそれが全部なくなるまで食べ、次のおかずをまたなくなるまで食べ、ご飯だけが残ったらやっとご飯を食べる、そんな食べ方が幼児っぽいと思っていたのです。
でも、野菜とタンパク質を先にお腹に入れておく、というふうにしてからは、最後に残ったご飯をたくさん食べられなくなりました。
今まではお茶碗にたっぷりだったご飯が、夫と同じく3分の2ぐらいまでに減り、納豆やおじゃこを混ぜ、それを韓国海苔で包んでいただくと、もうお腹はいっぱいです。
だからといって痩せる気配は全くといってありませんが、少なくとも血管は喜んでくれているだろうと思います。

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レッスンが始まる前は必ず、前庭から玄関までの階段やポーチを掃きます。
うちの横庭には、巨大な松の木があって、枯れた松の葉や松ぼっくりが毎日必ず落ちてくるので、1日たりとも欠かせません。
6年間、わたしと一緒に掃除をしてくれた箒さんが、さすがにくたびれてきたので、新人さんに来てもらいました。


長い間、本当にお疲れさまでした。

ムーンチャイルドの還暦

2025年07月14日 | 家族とわたし
暑い日はピアノの上が一番!
空海の寝顔です。
仲良く眠っているのを見るのは嬉しいのですが、カバー布の汚いことったら😅。

今年の夏は例年よりジメジメと蒸し暑い日が多いような気がします。
25年前の、まるで北海道の高原で過ごしているような(北海道も最近ではかなり暑くなってきたようですが)、涼やかな夏はもう、2度と戻ってきてくれないのでしょうか。

夏はホタルやカブトムシが、こっそり部屋の中に侵入していることがたまにあります。



先日、夫がついに還暦の誕生日を迎え、60代倶楽部のメンバー入りを果たしました。
満月の日に生まれたそうで、なんと還暦を迎えた日も満月🌕。
そういうものなのでしょうか?
今回は特別なお祝いにしたかったのですが、夫は基本、誕生日を祝ってもらうのは嬉しいけれど、過剰な気遣いやプレゼントは敬遠する人なので、通常仕様で祝うことになりました。
相方のわたしはあと1年半強もすると70代倶楽部に移籍してしまうのですが、見た目はそこそこ同い年っぽいと言われます。
夫は上方修正、わたしは下方修正、8年3ヶ月の年月の差を無意識のうちに縮めているのでしょうかね😅。

夫の誕生日の当日と前後に、家族と一緒に食べた美味いお料理の数々。






ごちそうさまでした😋。

インディペンデントデーと家族と

2025年07月05日 | 日本とわたし
義母がずっと暮らしてきた家で迎える最後の独立記念日になる(かもしれない)ということで、今回はちょいと特別なものにしようと、彼女がプランを立てました。
前日の3日は夕食と野外コンサート、そして当日の4日は、お昼過ぎから夫の従姉妹の子どもたちに陶芸教室を開き、夕食と花火鑑賞を親族と一緒に楽しもうという計画です。
義母はその2日間の夕食の献立を考え、あらかたの準備を整えて、わたしたちを迎えてくれました。
夫とわたしは、当初は2泊の予定でしたが、海の体調がイマイチ良くならないので、わたしだけ4日のお昼過ぎにニュージャージーに戻ることにしました。

ペンシルバニアの夏は圧倒的な緑の世界です。雲もなかなか面白い。





踏切で待つこと3分、延々とコンテナが続く貨物列車なのでした。


夕飯を食べてコンサート会場に到着。
亡き義父が発起人の中心となって、何年もかかって作り上げたオーケストラです。
なので、義母を見つけるとたくさんの人たちが寄ってきて、彼女に感謝の言葉をかけていました。
もちろん彼女は夫の遺志を受け継いで、今も支援を続けています。


指揮者のスティーブさんは優れたピアニストであり、作曲家でもあり、見るからに温厚でとても楽しい人です。
7月4日の独立記念日は、愛国的な要素が濃い記念日でもあるので、わたしもコミュニテイバンドの一員として演奏していた時は、毎年この日はトラックの荷台に乗ってパレードに参加していたのですが、演奏する曲は行進曲や軍隊のテーマ曲などが大半を占めることになります。
なのでこの日のプログラムもそうなのかなと思っていましたが、さすがはスティーブさん、そういう愛国的なものも入れながら、アメリカ人の作曲家たちの曲を取り入れて、楽しい時間を作ってくれました。

それぞれの軍隊のテーマ曲メドレーを演奏する際には、今のアメリカは分断が激しいですが、今夜はともに音楽を楽しんでほしいと、トランプ支持者の多い地域ということもあって慎重に言葉を選んで話していたスティーブさん。
現役&退役軍人さんたちを讃え、テーマ曲ごとに所属する人たちに起立を促すスティーブさん、会場から盛大な拍手が送られました。


日が暮れてくると、芝生のあちこちから蛍が浮かび上がってきました。


夜が明けた今日、11人分の夕食の準備を手伝い、ちょっとひと息、テラスで鳥の声を聞きました。

下方で流れる小川のせせらぎを聞きながら、ここからの景色を楽しむのも、もうこれが最後なのかなあと思うと、なんだか寂しい気持ちになります。


義母の陶芸教室は、彼女の家の敷地内にあるスタジオで行われました。
彼女はここで様々な作品を創り上げてきました。

小柄な彼女ですが、とても力持ちです。
子どもたちが使う粘土の塊を、机に打ち付けて空気抜きをしています。

今度はそれを板状に伸ばします。

はみ出た粘土は取り除きます。

これに型を当てて切り取り、いよいよ陶器作りの始まりです。



花火大好き人間としては、独立記念日の花火を観ないで帰るのはかなり残念だったのですが、やはり海のことを考えると仕方がありません。
2回分の餌やりとトイレの掃除を手伝ってくれたコーリー君のおかげで、コンサートを楽しむことができたのだから、それだけでもありがたいと思わないと。

というわけで、みんなにお別れの挨拶をして家に戻ってきました。
「なんだよなんだよ、またボクちゃんたちを置いてきぼりにしてさ〜」と、普段は滅多に鳴かない空と海が、珍しくニャーニャーと迎えてくれました。
さっそく急いで餌タイムです。
海がまだドライフードを食べてはいけないので、空も無理矢理付き合わされています。
明日からは外遊びもドライフードも解禁なので、あともう少しの辛抱だよ。

そして2階の猫トイレの点検をしていると、海がやってきました。
ううむ、さては今の今まで我慢してたのかな?と思って見ていると、まさしく目の前で盛大に…以下省略します😅。
でもよかったです。こんなのをコーリー君に片付けさせるようなことにならないで済みました。

一通りの片付けが終わり、ホッと一息つくと、やっぱり花火が見たいなあという気持ちがむくむくとわきあがってきました。
そうだ、母と一緒に観よう!
ネットで調べると、隣町の大きな公園で行われる花火は2日前に終わっていて、渋滞が激しくて駐車する場所が見つかりにくい我が町の花火は今夜行われるとのこと。
仕方がない、行くか。
会場に近づくにつれ、どんどんと交通量が増えてきます。
夫はこういう時に勘が働き、良い場所を見つけるのが上手なのですが、わたしはいつも横に座っているだけだったので、今夜は自分でなんとかしなければなりません。
ドキドキしながら脇道に入り、わたしにしてはなかなかの良い場所を見つけることができました。

夜の9時前だというのにこの明るさ。

歩きがてらライン電話で母と話しました。
よく考えると、こんなふうに花火を観に行く時に話したことなかったよなあ、いつも写真やビデオを撮って送ってただけだったよなあ。
花火が上がる生の音を聴きながら、日本とアメリカ、別々に暮らしている母と一緒に楽しむ花火。
どうして今の今まで思いつかなかったのか、それが不思議でなりません。

花火がちゃんと画面いっぱいに映っているか、母が楽しめているか、チラチラと携帯電話の画面を確認しつつ、わたしも花火ショーを思いっきり楽しむことができました。
大音響の合間に「綺麗やなあ、すごいすごい」という母の声が聞こえてきます。
ああ、今わたしは母と花火を観ているのだなあ。
花火を母とこんなふうに一緒に観たのは、いったいいつのことだったんだろう。
大袈裟ではなく、多分60年も前のことだったと思います。
今回は花火の写真を一枚も撮ることはできなかったけど、観終わってから心がほのぼのと温かくなったのは初めてのことでした。

会場から50メートルも離れていない所にある花火の打ち上げ場所。煙がもうもうと立ち込めています。



また来年、一緒に観られたらいいなあ。