ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

憲法は、人々を権力者から守るために生まれたもの。権力者の上に立ち権力者に歯止めをかけるもの。

2013年04月30日 | 日本とわたし
先日ここで紹介させてもろた、法学館憲法研究所の伊藤真所長が、憲法を一条ずる解説してくださってます。

わたしはその解説をひとつずつ読ませてもらい、心からこの憲法を守りたいと思うようになりました。
特に、今、憲法をいじろうとしている者達の、これまでの動向を見ている限り、どうして今この時に変えたいのか、変える先に待ち構えているものはなんなのか、
調べれば調べるほどにキナ臭い、なにか不穏な物事が見え隠れしていて、どうしても信頼することができません。

↓以下は、憲法はなんのためにあるんだろう?を転載させていただきます。

基本は、国家統治の基本構造についての定めが、憲法には書かれています。
本当にすべてにおいてです。

そして、憲法は、人々を権力者から守るために生まれたものです。
憲法は権力者の上に立ち、権力者に歯止めをかけるものです。
つまり、「権力者がどのような権力を持ち、どのように使うことができるか」は、憲法が定めるようにしよう、というのが立憲主義の意味なのです。
大抵の国が、この立憲主義の立場をとっています。
憲法の中では、個人の尊重が国家の基本的な価値とされて、そのような価値を実現するために、立憲主義が採用されています。

ちなみに気をつけて欲しいことがあります。
憲法を語るときには、国家という考え方が、普段皆さんが思っているような「祖国」とかいう意味で考えてはいけません。

国家とは、
1. 一定の領土を持つ
2. 人々(国民)が住んでいる
3. 権力を持ったものが治めている組織体であり、


国家の本質は
権力で国民を支配する仕組みです。

そのうえで、立憲的意味の憲法とは、権力に歯止めをかけていくために「人権保障」と「権力分立」の定めがある憲法ということになります。
どうしても、国家の方が憲法より偉いような感じを受けますが、違います。
立憲主義は、国家の行為を憲法に基づかせる考え方なので、
国家権力は、国家に当然に備わっているものではなく、憲法が定めて初めて、その定められた範囲内でのみ、憲法から国家に与えられるものです。

ここでまた気をつけて欲しいのですが、
憲法は、国家機関が作るどんな法よりも上の位置にあって、議会や政府が作る法律や政令などは、憲法に反することができません。
だから、憲法と法律・政令は、全然違う性質をもったものなのです。

そして、最後に念を押しておきますが、
立憲的意味の憲法は、あくまで国家を制限するために作られたものであり、国民の対して向けられたものではありません。
憲法によってはじめて、国民の自由と人権が保障されているのです。



そんな成り立ちの憲法を、アベシンゾーはなんで躍起になっていじろうとしてるのか?
これは自民党の、長年の悲願やったとも聞いてます。
それこそが一番、ああ信用できんなあと感じる理由です。

絶対に、あいつらの手にかけさせたらあきません。
原発を平気で、ウソついてまで、地震大国に乱立してきた連中です。
なにも学んでない。なにも省みようともしない。なにも責任をとらない。
そんな人間が、いきなりまともなことをできると思いますか?
思わへんでしょ?


『憲法改正権は内閣には無く、わたし達国民にあり、国民にのみ帰属する』
『いまの国会は、衆議院も参議院も、本来なら無効であるはずの選挙によって選ばれた議員、つまり、本来なら議員たりえないはずの議員によって構成されている、ということ』
『憲法改正の発議のような、国の枠組みの根幹にもかかわる事項は、本来なら国会議員たりえないはずの、正当性に瑕疵のある国会議員によって扱われてはならない事項の最たるものというべき』
『そういう意味で、あなた(安倍首相)がいま「改憲」を言うことは、まったく不適切なこと』


↑以上は、その伊藤真所長が、安倍首相に向けて書かはった手紙の文面からの抜粋です。

憲法をまるで学んで来んかった、学ぼうともせんかった、中身がスカスカの大人やったわたしですが、今こそ気合い入れて、主権者として恥ずかしないようになりたいと思てます。

何回かに分けて、ここに紹介させてもらいます。
みなさんも一緒に、ちょっとずつ知っていきませんか。


日本国憲法の逐条解説

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

明治憲法では天皇は主権者であり、国家神道と結びついた象徴でもありました。
それに対して新憲法の下では、天皇は象徴でしかないことを明確にし、しかも主権が国民にあることを宣言したのです。
天皇という平等原則に反する地位を、平等を旨とする国民の象徴としたところに、この憲法が持つ一つの矛盾が現れています。
身分制秩序の中で生きる天皇は、民主的で平等に人権を保障された国民とは異質です。
それが国民の象徴とはどういうことなのでしょうか。
ただ、天皇制にどのような意味づけを与えるかはまさに主権者たる国民の「総意」、つまり私たちの意識の問題です。
この条文は、私たち国民が天皇の地位すらも決めることができる主体なのであって、けっして「天皇を象徴として敬え」と強制されるような客体ではないことを示しています。
一人ひとりの国民がどのように主体的に生きることができるか、それがこの憲法の価値を決めるといっても過言ではありません。(2006年2月3日)


第2条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

天皇の地位が世襲、つまり一定の血統関係に属するものに限られることを定めています。
憲法上は世襲が要求されているだけで、生前退位や女性天皇を認めるかは皇室典範という法律に委ねられています。
明治憲法時代には皇室典範はいわば第2の憲法とでもいうべきもので、国会の意思が及ばないところにありました。
それを通常の法律と同じく国民の意思で皇位継承資格や順序を決められるとしたのです。
現在、天皇となる資格は「皇統に属する男系の男子」(皇室典範第1条)に限られていますが、男女の違いにどれほどの意味を与えるかも国民の意思次第です。
皇位の世襲制自体、憲法が認めた平等原則の例外であり、そこにはそもそも憲法上の人権保障など観念できないという考えもあります。
しかし、それでも女性を跡継ぎを産むための道具としてみたり、側室つまり一夫多妻制を話題にしたりすることはまた別の問題です。(2006年2月10日)



第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

明治憲法時代の天皇は、すべての統治権を持っていましたが、現在は、主権が国民に移ったため、天皇は一切の政治的権限を失いました。
憲法に規定されている国事行為という非政治的、儀礼的行為を行なうことができるにすぎません。
しかもその国事行為を行なうときでさえ、内閣の「助言と承認」が必要とされます。
一体としての「助言と承認」が事前にあればよいのですが、天皇はこれに絶対的に拘束されます。
ここでも国会に責任を負う内閣の意思によって天皇の行為が決定される典で、国民主権が徹底されています。
国事行為については内閣が責任を負うのであって、天皇は一切責任を負いません。
なお、天皇の私的行為については、刑事責任は及びませんが、民事責任を否定する理由はないと言われていますから、天皇が不法行為責任を負うこともあります。
ただし、現在の判例は天皇に民事裁判権は及ばないとしているので、いまのところ天皇を訴えたりすることはできません。(2006年2月17日)


第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。


国政に関する権能とは、国政を決定したり影響を与えたりする行為をいいます。
国事に関する行為とは、そのような政治的決定力や影響力をもたない名目的、儀礼的な行為をいいます。
ここで、天皇は一切の政治的権限を持たないことを宣言することによって、天皇の非政治化をはかりました。
しかも非政治的、儀礼的な行為である国事行為も、憲法に列挙されているものに限定し、その権限が拡大していくことのないように歯止めをかけたのです。
また、たとえ天皇の私的行為であっても、国政に関するものであってはなりません。
ですから、いくら学術的なものであっても「戦後補償問題について」という論文を発表することなどはできませんし、園遊会での発言も、政治的な意味を持つことはありません。
本条2項によって、天皇が海外旅行に出かけているときなどは、国事行為を個別に委任できますが、委任された人が一時的に天皇になるわけではもちろんありません。(2006年2月24日)



第5条 皇室典範の定めるところにより、摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

摂政とは、天皇が病気などで自ら国事行為をすることができなくなったときに、天皇に代わってその行為を行う法定代理機関です。
いわば親権者や後見人のようなものです。
「天皇の名で国事行為を行う」とは、天皇に代わってという意味であり、天皇自身が行ったのと同じ効果を持ちます。
内閣の助言と承認に基づいて行われ、その責任も内閣のみが負います。
ですが、摂政は天皇ではありませんから、天皇と同じように象徴になるわけではありません。
また、4条1項が準用されていますから、摂政の権能も、天皇自身の権能と同じく、国政に関するものであってはなりません。
摂政が置かれる場合は、皇室典範という法律によって決まっています。
天皇が成年に達しないとき、および天皇が精神もしくは身体の重患または重大な事故により、国事行為をみずからすることができないときに置かれます(皇室典範16条)。
なお天皇、皇太子、皇太孫の成年は18歳です(同22条)。(2006年3月3日)



第6条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。


7条とともに、天皇の国事行為について規定しています。
天皇は、国政に関する権能を一切もたず、形式的・儀礼的行為である国事行為をすることしかできません(4条1項)。
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決によって指名されます(67条)。
天皇は、国会の指名した者を内閣総理大臣として任命しなければなりませんし、国会が指名しなかった者を任命することもできません。
天皇の行為が名目的なものにすぎないことを強調するためには、たとえ内閣に実質的な決定権のない内閣総理大臣の任命という国事行為であっても、
それまでの内閣による助言と承認が必要、と解されることになります(3条)。
最高裁判所長官に関しては、内閣は、実質的な指名を行うと同時に、天皇の名目的な任命行為への助言と承認を行います(本条2項)。
このように行政権の長、司法権の長に対してであっても、天皇は、あくまでも名目的な関わり方しかできないのです。(2006年3月10日)


第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2 国会を召集すること。
3 衆議院を解散すること。
4 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
6 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7 栄典を授与すること。
8 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
9 外国の大使及び公使を接受すること。
10 儀式を行ふこと。


6条とともに 、天皇の国事行為について規定しています。
天皇は国政に関する権能を一切もたず、形式的・儀礼的行為である国事行為をすることしかできません。
この7条列挙事由には、衆議院の解散のように、「国政に関する」とも思えるようなものも並んでいますが、
内閣などの他機関が実質的な決定を行なうので、天皇の行為が名目的なものにすぎない点に変わりはありません。
天皇は、これらの国事行為以外にも、外国訪問など一定の公的行為を行うことがあります。
これを「象徴としての行為」として説明する立場もありますが、天皇を政治的に利用するようなことがあってはなりません。(2006年3月17日)


第8条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。

88条とともに、天皇の権能を財政面から制限しました。
天皇や皇族の財産授受を国会のコントロールの下におくことによって、皇室が財産を通じて政治的影響力を持つことを禁じたのです。
天皇や皇族であっても一私人としては、土地の売買などの財産法上の行為をすることができるのですが、
そうした私的行為すら旧憲法時代には政治的・軍事的に利用されてしまったので、その弊害を防ごうというわけです。
皇室外から皇室へ、逆に皇室から皇室外への財産(土地所有権、預金、債券、株式、特許権などあらゆる財産)の移転を目的とする契約は、有償・無償を問わず国会の議決がなければ無効となります。
ただ、たとえ皇族であっても、婚約者へのちょっとしたプレゼントなどをいちいち国会で議決してもらうのでは興ざめです。
この条文の趣旨から考えて、皇室の皆さんの日常生活にかかわる程度の財産授受などは、一定の金額内であれば国会の議決は不要となります。(2006年3月24日)



次はいよいよ第9条です!

読めば読むほどに、こんなすばらしい憲法の主権者として生きることができる幸せをしみじみと感じます。
ああ、早よ紹介したいっ!
お楽しみお楽しみ。

けど、そんな、時差なんか待てるかっ!という方は、どうぞどうぞ、http://www.jicl.jp/itou/chikujyou.htmlで一気読みしてください!

日本国憲法、みんなで守りましょうね!
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リス吉の災難

2013年04月30日 | お家狂想曲
早起きの旦那と寝坊助のわたし。
まず旦那が起きて、家の中の温度を調節し、朝のストレッチや体操や散歩をし、朝食の準備にとりかかる。
なんとな~くすべてが整った頃、わたしはゴソゴソとベットから出てきて、ぼぉ~っとした頭でキッチンに入る。

とまあ、朝はこんな調子なんやけど、今朝はなにやら様子が違た。

まず、いつもは寝てるわたしのために、物音をたてんように気を遣てくれる旦那やのに、バタン!ガタゴト!とやけにうるさかった。
その時目が覚めたのやけど、なんとなくまだもうちょっと寝足りん気がしたので、またうとうとと二度寝に入ってしもた。
ほんで起きて、台所に行ったら……。

「ちょっと今朝は、まうみに見せたいもんがある」

と言う旦那について、バスルームに入ってった。
旦那が指差すとこは、シャワー室の床。
なんか、ちっちゃいのんが落ちてる。
色は焦げ茶で、形は、う~ん……米粒の3倍ぐらいのおっきさのん。
これまでの経験でいくと、前の家のガレージに住み着いてた、巨大ドブネズミくんのソレにそっくりや。

「まうみに見せたろ思て、残しといてん」
「おっきいネズミ出たん?」
「いや、ちゃう」
「まさか……?」

いやもう、えらいことになってたみたい。
何気なしに、ひげ剃りでもしよかとバスルームに入った旦那。
右方向の視界の端っこに、妙~なもんが動いてるのを感知して見てみたら……リスっ?!
もうまさに、ビビリまくってるの図そのもののリス吉くんが、リスがパニックに陥った時はどんな状態になるかを、まざまざと見せてくれたのやそうな。
どっかに逃げとうても、初めての場所で、なんかけったいなもんがいっぱいあって、それにちょっとでもぶつかったら倒れておっきな物音たてて、
それでまたびっくりして、おしっこチビって、ついでにウンチもチビって、もうボクちゃん、どうしたらええねん!とヤケクソになりつつあって、
旦那はその様を見て、これはヤバいと思い、まずはキッチンに閉じ込めるべく、ドアを閉めに行ったんやけど、旦那もやっぱりパニクってるわけで、
それで自分が中に入ったまんま、思いっきりドアを閉め過ぎて、ロックがかかったみたいになって……、自分も出れんようになってしもた。
そこでもういっぺん、バスルームの方に行ってみると、リス吉くん、シャワー室のガラスドアの上に足かけて、逆さ吊りになってたらしい……。
その後キッチンの方にやって来て、テーブルに登り、そこで旦那をまた見てびっくり仰天!
旦那のラップトップの上におしっこをチビり、椅子の上にもチビり、庭に面してる窓目がけてジャンプするも、窓ガラスにぶつかって落ち、またジャンプしては落ち、
そんなんを4回ほどやってから、やっとこさで、旦那が開けといた勝手口のドアから、外に出たらしい……ふう……。

いやもう、えらい勢いでぶつかったから、脳しんとう起こしてないやろかと思うけど、もし窓が開いてたら、窓のむこうは煉瓦の階段やから、多分もっと怪我してたかもしれん。
旦那は旦那で、恐怖のあまり突撃してきた時のことを考えて、バーバキュー用の用具を手に構えてたらしい。
リスは見た目可愛いけど、噛まれたりしたら面倒(毒がある)やからね。

それにしてもリス吉くんはいったい、どないして部屋の中に入ってきてしもたのか。

我が家のキッチンは、何十年もの間使われてなかった、古い古いキッチン。
このガスコンロは、100年前に暖炉やったとこに、無理矢理突っ込んである。


このコンロの上が、藁やらクズやら埃やらススやらで、えらいことになってたらしい。
どうも、元暖炉の元煙突から、落ちてきたんやないか?
ここが、コンロの上の天井の、丸うくり抜いてあるとこのフタが思いっきり壊れてた。(暗くてよく見えへんのやけど)


というわけで、いっつもポーズつけてくれるあのリス吉くんかどうか、起きてなかったわたしにはわからんのやけど、誰にせよ、えらいびっくりしたやろなあと思う。

もう落ちてきたらあかんで、リス吉くん。
うちかて、あんたのおしっこやらウンチやら、掃除するん大変なんやから。
たのんまっせ。
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「原発、改憲、絶賛大推進!世論調査の誇大宣伝、国論偽装、わてらなんでもやりまっせ!」by読売新聞

2013年04月29日 | 日本とわたし
『HUNTER』Investigative Journalism(新聞・放送などの)調査報道というサイトに、
「読売新聞さん、いい加減にしたらどうですか」という記事が載ってた。

この新聞さんには、以前からわたしも、おんなじことを何回も何回も言うてきたので、さてまた、なんかアホなこと書きよったんかいなと、覗きに行ってみた。
いやもう、マジで「ええ加減にせんかいっ!」と言いとうなる記事をまた、ヌケヌケと書いてたので、ここに紹介させてもらいます。

↓以下、転載はじめ

僭越ながら論
読売新聞さん、いい加減にしたらどうですか

今月20日、読売新聞の朝刊に、憲法に関する世論調査の結果を報じる記事が掲載された。
見出しは、<改正、「賛成」51%>。
あたかも、国民の過半数が、憲法改正に賛意を示しているかのような見せ方だ。
 
憲法改正を社是としている同紙のこと、立ち位置を明確にしているのは立派だが、自社の調査結果を用い、無理に世論を誘導する手法はいただけない。


「憲法改正」煽る意図

20日の読売新聞朝刊、見出しの後の記事は次のようなものだった。

《読売新聞社の全国世論調査(3月30、31日、面接方式)で、憲法を「改正する方がよい」と答えた人は51%となり、昨年2月調査の54%に続いて半数を超えた。
「改正しない方がよい」は31%(昨年30%)だった。
政府が「保有するが行使できない」としている集団的自衛権に関しては、「憲法を改正して使えるようにする」が28%(同28%)で、
「憲法の解釈を変更して使えるようにする」の27%(同27%)との合計は55%となり、昨年に続いて容認派が半数を超えた。
 
憲法改正の発議要件を定めた96条については、「改正すべきだ」と「改正する必要はない」がともに42%で並んだ。
 
今夏の参院選で、投票先を決める際、憲法問題を判断材料にすると答えた人は40%で、前回参院選前の2010年調査から、12ポイント上昇した。
安倍首相が、96条の先行改正などの憲法問題を、参院選の争点に掲げていることを反映したようだ。
各政党が、憲法論議をもっと活発に行うべきだ、と思う人は76%に 上った。
 
海外で事件に巻き込まれた日本人を自衛隊が輸送する場合、船舶や航空機に加えて、車での輸送を認める方がよいとする人は、76%に達した》。

読売新聞のホームページで確認したところ、調査は、今年の3月30日から31日にかけて行われており、対象者は、層化二段無作為抽出法によって選ばれた、全国の有権者3,000人。
戸別訪問をして面接のうえ、回答を得ていた。
回答の回収率は49%、つまり、調査に応じた人は1,472人だ。
このうち51%が改憲に「賛成」ということは、750人程度が「改正すべき」と答えたことになる。

我が国の有権者数は約1億人
いささか乱暴な計算ではあるが、読売の調査に答えたのは、その内の0.0014%ということになる。
改憲に賛成の人の比率は、さらに少ない数字となって0.00075%
これで見出しに大きく“憲法改正、「賛成」が51%”、と打てるものなのだろうか?

世論調査とはそうしたもので、理論上、この程度でも、一定の方向性が見出せるとされているが、どうにも納得がいかない。
精度の低い調査結果を、過大に見せかけ、国民を煽っているとしか思えないのだ。


記事にはならない不都合な調査結果

世論誘導への不信を増幅させたのは、同紙の次の報道だった。
無理にでも改憲に向けた風を吹かせたかったらしく、<自民や維新に追い風か…憲法改正「賛成」過半数>(読売新聞のサイト「YOMIURI ONLINE」より)ときた。
記事にはこうある。

《読売新聞社の全国世論調査で「憲法を改正する方がよい」との回答が51%となり、昨年の前回調査に続き半数を超えたことで、憲法改正に前向きな自民党や、日本維新の会などには追い風となりそうだ》。

あたかも、読売新聞の調査結果が、国を動かす原動力であるかのようなはしゃぎぶりだ。
前述したように、750人程度の改憲賛成派の意見が、ここまで過大視されて良いはずがない

両日の記事中にある《前回調査》とは、前年の3月に実施されたもので、改憲賛成と答えた人の割合は、今回の調査結果より3ポイント高い。
つまり、今年になって、改憲賛成の意見が減っているのだが、この点については一切言及されていない。
都合の悪い部分は記事に反映させない方針だったことが、実際の調査結果を見ると明確になる。

ホームページ上の調査結果に、次のようなQ&Aがある。

Q:憲法96条は、憲法改正の具体的な手続きを定めています。
憲法の改正案を国民に提案するには、衆議院と参議院の全議員の3分の2以上の賛成が必要ですが、これを緩和して、過半数の賛成で提案できるように改正すべきだという意見があります。
憲法96条の改正について、回答リストの中から、あなたの考えに最も近いものを、1つだけあげて下さい。 

【回答】
1、まず96条を改正すべきだ 16%
2、96条は改正すべきだが、具体的な憲法の内容も一緒に議論すべきだ 26%
3、96条を改正する必要はないが、具体的な憲法の内容は議論すべきだ 19%
4、96条を改正する必要はない 23%
5、答えない 15%
 
改憲への道のりで最初のハードルとなるのは、96条に定められた、衆・参両院の3分の2以上とされる発議要件だ。
改憲賛成派が「51%」だったとするなら、96条改正に前向きな人が同程度いるはずなのだが、この点についてのQ&Aの結果は微妙。

「まず96条を改正すべきだ」と答えた人は16%に過ぎず、26%は改正の必要を認めながらも「具体的な憲法の内容も一緒に議論すべきだ」としている。
安倍首相が目指す、96条のみを先行して改正することには慎重、ということだ。
20日の記事では、《憲法改正の発議要件を定めた96条については、「改正すべきだ」と「改正する必要はない」がともに42%で並んだ》としているが、
実際の調査結果を見ると、無理やりに両論を括っていることが分かる。

読売がもっとも記事にしたくなかったのは、憲法9条についての、次のQ&Aの結果だろう。

Q:「戦争を放棄すること」を定めた第1項については、改正する必要があると思いますか、ないと思いますか。
答え 1、ある 19%  2、ない 74%  3、答えない 7%
Q:「戦力を持たないこと」などを定めた第2項についてはどうですか。
答え 1、ある 44%  2、ない 45%  3、答えない 11%


安倍首相が、96条を先行して改正する方針を打ち出しているのは、「9条」を変えるための布石だ。
国防軍を創設して戦争をやりたい人たちにとって、この調査結果は、極めて不愉快なものだろう。
別の新聞社なら、見出しに、“戦争放棄、74%が支持”とでも打ち、9条第一項の改正に否定的な国民が多いことを報じるのではないだろうか。

2番目の、「戦力」についてのQ&Aも、改憲派には目障りな結果となっている。
回答した人の45%が、《前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない 》とする9条第二項を変えなくてもよいと答えているのである。
いずれの結果も、安倍首相の思惑とは、違う方向性を示している。
当然ながら、安倍応援団の読売としては、記事にするわけにはいかない。


世論誘導

“憲法を磨く”という意味において、改憲の是非をめぐる議論を活発化させることは結構だ。
しかし、世論調査の結果を誇大に宣伝し、国論が定まりつつあるかのように偽装することは、報道がやるべきことではあるまい。

昨年、解散・総選挙が決ってから、読売は常に、自民党優勢の世論調査結果を大々的に流して、民主凋落を演出。
一連の選挙情勢に関する報道は、客観性、中立性に疑問を抱かざるを得ない内容ばかりで、結果として、自民党の政権返り咲きを助ける形となった

原発推進、憲法改正―いずれも読売の社是である。
紙面でそれらに関する論陣を張るのは大いに結構。
自民党や財界を擁護するのも、読売らしくて分かりやすい。
しかし、世論調査の結果から、ごく一部の数字だけをことさら大きく取り上げ、国内世論を動かすことに利用するという手法には、賛同しかねる。
 
いっそのこと、「これは世論誘導のための調査です」と断ってから調査をやってくれたほうが、親切だと思うのだが……。
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春一番のバーベキュー

2013年04月29日 | 友達とわたし
一回行って、一目惚れして、思わず小説の舞台にして、好き勝手書いたこの町ブルックリン♪


やっぱええわぁ~ここ♡


ここに来る前に、クィーンズに住む息子のアパートメントに、彼がガレージセールで買うて、うちの地下に置いてあったコーヒーテーブルを運んだることにした。
それで、渋滞を嫌う旦那が、嫌うあまりに、徹底的に、携帯電話やカーナビを睨みながら、カーラジオから情報を聞きながら、クィーンズまで行くと言う。
そやから自分は運転してる場合とちゃうから、まうみが運転しろと言う。
渋滞は好きやないけど、運悪う巻き込まれたら巻き込まれた時のことでと思うわたしからすると、そこまでして避けようとする方がよけいにイライラする。
かなんのは、横でああやこうやと迷いまくった挙げ句、いきなり道を変えたり、どうすんねんと聞いても答えんかったり、そんなことボクに答えられるかと逆ギレしたりすること。
どうやら、我々恒例の、車中険悪ムードまんまん、という、全然楽しない状況に陥る確率がめちゃ高い。

案の定、思いっきり気分を害したまんま、だまりこくって運転した。
渋滞なんかほんの1キロ強の間だけで、スルスルと息子のアパートメントに着き、彼のお古のコーヒーテーブルを引き換えに車に積み込んで、いざブルックリンへ。

再び同じ状況で、わたしが運転をし、旦那がナビをすると言う。
はいはい、なんとでもしまっさ。
クィーンズからブルックリンへの道も、旦那の必死のナビのおかげ?で、ほとんど渋滞に遭うことなく到着。
ところが、行き先の友人夫婦宅の近くでは、駐車スポットをゲットするのは至難の業。
そこでまたドンパチが勃発。
もともと機嫌がようなかったから、消火栓の前に急停車して、自分の荷物だけ持って車から出た。
「なにすんの?」と旦那。
「もうやめた!」とわたし。
「番地知ってんの?」
「知らん!」
「◯◯◯。電話番号は?」
「……」

と、勢いよく歩き始めたものの、30秒前に聞いたはずの番地を忘れてしもた?!
ま、近くには違いないしと、ぶらぶら歩いては立ち止まり、旦那が車を駐車するのに四苦八苦してる間に、パチパチ写真を撮ってたら……、

「あの、君、なにか目的でもあるの?」と、わたしが立ってた真正面にある建物の2階から、男性が、超~いぶかしそうな顔して出てきた。
「あ、いえ、あの、わたし、この町並みがめちゃ好きでして、それであの、写真を撮りたいな~とか思て、でへへ」
余計に怪しまれてしもたようなので、慌てて、「1階に住む友だちんちに遊びに来たんですけど、番地忘れてしもたんです。けど、この長い階段やったんちゃうかな」と言うと、


「この建物には、あなたの友だちは住んでないと思うけど」と言う。
「どうしてそんなことわかるんですか?」と聞くと、「ここの1階には人が住んでないから」と言われた。
そらあかんわ。
「長い階段だったら、もうちょっと坂を上がった所にもあるよ」と教えてもらい、もうちょっと上がってみた。

あったあった!


しかも鯉のぼり!けってぇ~い!


とうもろこし王子海くん♪


わしゃ、ほんまにとうろもこし好っきゃねん♪(←恭平風にアレンジしてみた)


裏庭のアレンジがやけに東洋風♡ これはもともとらしい。


ジョージがまず戻り、アパートメントを見つけ、そのあと海くんとかおりちゃんがやってきて(←これには大変な困難が勃発した)4ヵ月、初めてのバーベキュー♪


なんでもかんでも、バーベキューするとうみゃ~!!野菜が特にうみゃ~!!
海くんは、野菜だぁ~い好きっ子。トマトもズッキーニもアスパラガスもぱくぱくぱくぱく!

初めて見た、杉の板の上で蒸し焼きにされる鮭。


これがもう、うみゃ~のなんのって!


大人もパクパクいただいた♪

一家の友だち夫婦、サラとラブ、そして超~かわいい娘ちゃんのアガサちゃんとも話しながら、突如爆睡した海くんを見ながら、美味しいもんいっぱい食べながら、楽しいひとときを過ごした。

あんがとね、ジョージ、あんがとね、かおりちゃん、また遊ぼね、海くん。
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憲法学の常識もない連中のゴリ押し改憲は、まさしく『憲法クーデター』と言うべき由々しき事態!

2013年04月28日 | 日本とわたし
asobitarianさんのブログ『Die Zeit des Rechts』に出会た。
96条改憲について調べてた時、ツィートで見つけたんがきっかけ。

憲法クーデターという言葉が目に飛び込んできた時、わたしの脳ミソは、そうや、その通りや!と叫んでた。
とても分かりやすう書いてくれてはるので、ぜひぜひ、みなさんにも読んでもらいたいと思い、ここに転載されてもらいます。

『憲法学の常識もない連中が、数の力に任せて96条を改憲するようなことがあれば、まさしく憲法クーデターと言うべき由々しき事態』

こんな事態を放っとくことは、主権者であることを丸投げするということ。
歴史に残る無責任者で阿呆です!
そんな大人をひとりでも減らそう!

↓以下、転載はじめ(太字、強調は、わたし個人の考えで行いました)


96条改憲は憲法クーデターである

安倍自民党が、憲法「改正」に執念を燃やしている。
そのための突破口と位置付けているのが、憲法改正手続きを定めた96条の改憲である。
現行憲法が、憲法改正の発議要件を、国会の各議院の3分の2以上の賛成を要するとしているのを、過半数の賛成に緩めようとしているのであり、来る参院選の争点に掲げると息巻いている。
言うまでもないことながら、自民党が、改憲の争点としてまず真っ先に96条を持ってきたのは、いったん憲法改正の発議要件を、衆参各院の2分の1にまで緩和してしまえば、
自民党の長年の悲願であった、9条改憲をはじめ、人権制約の根拠を人権の内在的制約原理である「公共の福祉」から、外在的制約原理である「公益・公の秩序」に置き換えることによる人権保障の骨抜き(無制約化)や、
天皇の元首化、国民の義務規定の乱立など、次々とやりたい放題の改憲が容易になるからである。
そのためには、衆参両院で、改憲勢力が3分の2という、現行憲法の改正手続き要件を満たす可能性がある次期参院選後を、千載一遇のチャンスと見て、ここで一気に改憲要件を緩和してしまおう、としているのである。

そこで、安倍首相は、9日の衆院予算委員会で、96条改正の意図を、「2分の1以上の国民が(憲法を)変えたいと思っても、3分の1をちょっと超える国会議員が反対すればできないのはおかしい」と述べている。
確かに、安倍首相が、96条の意味を全く理解できず、国民投票の賛成要件と国会議員の発議要件が違っていることを「おかしい」と思っていることは、十分に理解できる。
先日の記事(「アベシンゾーと「驚愕の事実」」)でも指摘したように、安倍首相には憲法の意味が全く理解できていないので、
なぜ改憲要件が、通常の立法よりも厳しくなっているのかということ自体が理解できないために、「おかしい」と感じているのであるが、それがどれほど大問題であるかも先日の記事で指摘した。

自民党は昨年、改憲草案とともに公表した「憲法改正草案Q&A」の中で、96条改正の理由について、「世界的に見ても、改正しにくい憲法となっています」と述べているが、
これが事実に反する大嘘であることは、4月13日の東京新聞特報面「チェック改憲 改正手続き 国際比較すると」でも詳細に証明されている。
成文憲法を持たない英国やニュージーランドといった、特殊な不文憲法の国を除けば、今日、成文憲法を持つ国は、ほとんどが硬性憲法(通常の立法や法改正より厳しい改正手続きを定めた憲法)であって、
そうでなければ、そもそも立憲主義の国とは言えない
のである。
立憲主義とは、人権を保障するため、権力分立を定めた憲法を制定し、そうすることで、時々の為政者の恣意的な権力行使を制限し、人々の自由を確保しようとする思想であるから、
憲法改正手続きが、通常の立法手続きと同様であれば、到底この役割を果たしえないことは自明である。

そこで、憲法が、立憲主義の憲法たりうるためには、憲法改正についても、おのずから一定の限界がある、というのが憲法学界の通説である。
憲法改正の限界については、細かく言えば色々な学説が分かれているが、現在、日本の憲法注釈書としておそらく最も権威のある『注釈 日本国憲法』(青林書院)によれば、
憲法改正の限界として、
第1に、憲法制定権力の担い手である主権の変更は認められないこと、
第2に、元の憲法との同一性を失わせるような改正は認められないこと、
第3に、憲法改正手続き規定および改正禁止規定の実質に触れるようなことは改正行為として認められないこと、
の3点が挙げられている(『注釈 日本国憲法(下)』1461頁)。

これが、憲法改正規定の限界をめぐる、通説中の通説と言うべきものであろう。
憲法改正手続きの改正が、改正権の限界を超えていると考えられる理由は、国の最高法規(98条)である憲法の改正行為が、法的に秩序づけられた行為であるためには、
立法手続きを定める法規範が、法律に上位する憲法規範と考えなければならないのと同様、改正規定そのものが、憲法典のなかにあっても、他の諸規定よりも一段上位の法規範と考えなければならないからである。
それゆえ、「改正手続き規定は、憲法制定権力が、憲法典成立以後法的に行為しうる唯一の道筋であり、行為準則であって、改正手続きの実質に触れる改正はできない」(佐藤幸治『憲法』)のである。

憲法を、一度もまともに勉強したことのない安倍首相のような改憲派議員が、この説明を理解できるかどうかはわからない(ことにしてあげる)が、
こうした憲法学の常識もない連中が、数の力に任せて96条を改憲するようなことがあれば、まさしく憲法クーデターと言うべき由々しき事態である。
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内閣も各大臣も国会も国会議員も、憲法によって「制限され」、国民から「指示・命令され」る側!以上!

2013年04月28日 | 日本とわたし
ツィッターで見つけた、安倍首相のシドロモドロ(というか、日本語をしゃべってるとは思えへん答弁……いや、答えになってるとは思えへん答弁)
URLを残し忘れたので、申し訳ないですけど、書き写させてもらいました。

衆院内閣委員会での日本共産党の赤嶺政賢議員に対する安倍首相答弁(歴史認識関連部分)
(2013年4月26日、仮起こし=J)
※赤旗政治記者の仮起こしです。あくまでも、ご参考まで。

赤嶺政賢議員:
法案に入る前に、安倍総理の国会発言について聞いておきたいと思います。
昨日、韓国の外務次官が別所駐韓大使を呼び、「日本政府と政治家による、ゆがんだ歴史認識と時代錯誤の言動に対し、強く遺憾の意を表する」と抗議するなど、外交上の問題になっています。
 
問題の発端である4月23日の参議院予算委員会で、安倍総理は、村山談話について、「いろいろ曖昧な点がある」とした上で、
「とくに、侵略という定義については、これは学界的にも定まっていないといってもいいんだろうと思うわけでございますし、
それは、国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」、このように述べました。
 
総理は、日本の過去の戦争について、どちら側から見るかで評価が違う、というのでしょうか。
中国や韓国から見ると侵略だが、日本から見るとちがう、というのですか。


安倍晋三首相:
えー、いわゆる村山談話はですね、戦後50年を機に出されたものであり、また戦後60年にあたっては、当時の小泉内閣が、談話を出しているところでございます。
わが国はかつて、えー、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な…多大の損害と苦痛を与えた。
その認識においては、安倍内閣は、歴代の内閣と共通の立場、同じ立場でございます。

ま、その上においてですね、ま、しかるべき時期に21世紀に相応しい未来志向の談話を発表したいと、ま、考えており、
そのタイミングと中身については、今後十分に考えていきたいと、ま、先般そのように答弁をいたしました。

ま、いずれにせよ、韓国や中国をはじめとする、ま、近隣の国々は、えー、日本にとっても重要な、ま、パートナーでもあります。
えー、私は、これらの国々との関係強化に引き続き努力をしていくとともに、えー、地域の平和と繁栄に、積極的に貢献をしていく所存でございます。
えー、ま、歴史認識の問題についてはですね、ま、基本的に、私が先般も述べたことはですね、えー、政治家がとやかく、ま、いうべきことではないと。
えー、歴史家がせん…歴史家や専門家に委ねることが適当であろうと、このように考えております。

えー、私は歴史認識に関する問題が、外交問題、ま、政治問題化されることは、もちろん望んでいないわけでございまして、
いわば、歴史認識問題について、ま、政治のば…ば、ば、場においてですね、議論することが結果としてですね、それは、外交問題、えー、政治問題に発展をしていくわけでございまして、
だからこそそれは、それこそは、まさに、えー、歴史家、専門家に任せるべきことであろうと、えー、このように判断をしております。


赤嶺:
再度確認いたしますけれども、村山談話で、植民地支配と侵略が、アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたという認識、これは継承するということですね。


安倍:
ま、これは、あの、ま、継承するとかしないとかということではなくてですね、それは、あのー、さきほど、えー、申し上げましたように、
えー、村山談話がですね、50年を機に発出をされたものであり、60年を機に小泉談話が出されたわけでございまして、
えー、ま、今回政権が代わり、安倍内閣が誕生したなかにおいてですね、えー、そして、えー、もうじき70年を迎えることになるわけでございますが、
えー、内閣としてですね、えー、ま、未来志向の談話を、えー、発出していくのが、適当ではないかと、ということも含めて、えー、よく考えていきたいと、ま、こういうことでございます。


赤嶺:
非常に曖昧であります。
日本が、中国や朝鮮半島をはじめ、アジア諸国に対して侵略戦争を行ったということは、歴史的、客観的な事実であります。
1941年12月、日本がアメリカ、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まった直後、42年1月、米英中ソはじめ26カ国が連合国共同宣言を発表し、
生命、自由、独立を擁護し、人類の権利、及び正義を保持するため、あらゆる資源を動員して、日本、ドイツ、イタリアに対抗する共同闘争を呼びかけます。
 
そして、1943年11月、「日本国に関する米英中3カ国によるカイロ宣言は、日本国の侵略を制止し、かつこれを罰するため、今次の戦争をなしつつあるものなり」と、
日本との戦争の目的が、日本の侵略制止にあると、このように規定しております。
1945年7月、ポツダム宣言には、カイロ宣言の履行が明記され、そのポツダム宣言を、日本が受諾したのであります。
 
こうした事実を前提として、現在につながる戦争後の国際秩序と、国連体制が形成をされました。
総理が、国によって見え方が違うと、このように発言するのは、こうした歴史の事実を否定することになるものではありませんか。


安倍:
まあ、いま、もう、答弁したとおりでございますが、ま、歴史というのは、ま、一般論としていえばですね、これは、あの、えー、確定するって、えー、それは確定するのが難しいこともあるわけでありまして、
長い年月をかけてですね、専門家の手のよって、えー、新たなファクトが、これ、掘り出されていくことも、ま、ございます。
ま、そういうようなこともですね、えー、あわせていきながら、まあ、まさに、えー、これは専門家、あー、歴史家に委ねるべきであってですね、
えー、私が政治家として神のごとくそれを判断することはできないと、えー、このように申し上げているところでございます。


赤嶺:
日本の政治家が、あの侵略戦争に対する反省から、国際社会からいろんなことを要求され、いま戦後につながっている、これは歴史家が判断することじゃないですよ。
日本の政治家が判断をして、これにもとづいて国際社会に向き合っていくことこそ、大事だと思います。
 
で、見過ごせないのはですね、総理は侵略の定義について、これはまだ定まっていないとおっしゃいました。
ところが、国連総会決議3314は、侵略の定義に関する決議をしておりますが、これはご存知ですか。


安倍:
ま、しかし、これは、あのー、歴史家のなかにおいてはですね、さまざまな、まあ、議論が、あるのは事実でございまして、
えー、ま、私もですね、えー、そうした定義については、ま、さまざまな観点から議論がいまでもされていると、いうふうに承知をいたしております。


赤嶺:
この侵略の定義というのは、「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全、若しくは政治的独立に対する…武力の行使である」と明確に定義しております。
この侵略の定義というのは、国際刑事裁判所の規定にも援用され、国際社会が、侵略行為と侵略犯罪を処罰する根拠規定とされております。
これは日本も加盟をしております。
 
国連は、戦後のこのような長い議論を経て、侵略の定義に至ったのであります。
やはりですね、そういうこともゆがめて発言するようなことは、許されないと、このように思います。



この人は、いっつもこんなふうにしゃべってんの?
質問してる人が、もっときちっとわかるように発言できんのかと、徹底的にしつこう求めても、こんな訳ワカメの状態で押し切られてまうの?
ほんで、それを、周りのだ~れも、なんとかせなって思わんの?
こんなんに、国の行方を任せなあかん不幸は、ここでいうたらブッシュのあの8年間に匹敵するな。
ここではまだ、相も変わらず、武器商人やら戦争屋やら、モンサントやら、世界を代表する悪党らがぎょうさん居てて、不幸は絶賛続行中やけど、
日本は原発の重大事故っちゅう、新たな、ある意味決定的な深い傷を遭うてなお、まだこの悪党らの操り人形チャンに甘んじてる人間が首相をやってる。

JICL 法学館憲法研究所の方々が出さはった、安倍首相への手紙を続いて載せさせてもらいます。
あの男の日本語能力では、これは理解できんやろと思いつつ、こういう文章を発表するのはきっと、我々市民に、身近な人だけでもええから伝えて欲しいということちゃうやろか。
転載にあたり、わたし個人の意思で、文字の強調をさせてもろた。

憲法改正権は国民にあり、国民にのみ帰属する。     
内閣および各大臣、国会および国会議員は、いずれも、憲法によって「制限される側」であり、国民から「指示・命令される側」に立っている。


↑この、基本中の基本ともいえる、憲法というもんの在り方を、まだ知らん人、なんとなく知らん人に、どうしても伝えたいと思たから。


改憲を問う!

拝啓 安倍晋三様 あなたが「改憲」に前のめりになるのは筋が違いませんか?
2013年4月15日

法学館憲法研究所

安倍さん、あなたは、首相在任中の「憲法改正」に、強い意欲を持っているそうですね。
まずは、国会による憲法改正案の発議を容易にする、96条の「改正」から手がけるということは、あなた自身の口からも度々語られています。
そして、同じように「改憲」を唱える「日本維新の会」に、参議院選挙後の連携を見据えて、接近を図っているとも伝えられています。
しかし、ちょっと待ってください。
あなたがこのように「改憲」に前のめりになるのは、筋が違いませんか?
それは、次のような問題があるからです。

第一に、いまの国会の構成が、衆議院も参議院も「違憲」状態にある、ということです。
昨年末の衆議院選挙については、全国で、16件の「一票の格差」訴訟が起こされましたが、
その16件の訴訟すべてにおいて、各高等裁判所は「違憲」(14件)または「違憲状態」(2件)の判決を言い渡し、うち2件では、選挙無効の宣告さえなされています。
これだけ見事に「違憲」判断がそろい、「合憲」判断は1件もなかったのですから、現在の衆議院の構成が「違憲」状態にあることは、もはや明白といわなければなりません。
最高裁の判決ではないからといって無視することは、とうてい許されうる状況にはありません。
また、参議院については、昨年10月の最高裁判決が、「違憲状態」であると断じていますから、現在の参議院の構成もやはり、「違憲」状態にあるということになります。
 
「違憲」の選挙は、本来無効です。
これまで裁判所は、「違憲」と判断しても、選挙じたいを無効とすることは避けてきましたが、
それは、選挙を無効とした場合に生じるさまざまな問題を考慮してのことであり、「違憲」の選挙に正当性を認めたものではありません。
まさにいろいろな「事情」を考慮して、無効とすることは避けた(「事情判決」)、というだけであって、「違憲」の選挙は本来無効である、という原則そのものを変えたわけではないのです。
ですから、「違憲」の選挙によって選ばれた現在の国会議員は、あなた自身も含めて、本来からいえば、国会議員たりえないはずなのです。
「違憲」の選挙は、本来なら無効なのですから。
 
要するに、いまの国会は、衆議院も参議院も、本来なら無効であるはずの選挙によって選ばれた議員、つまり、本来なら議員たりえないはずの議員によって構成されている、ということです。
その意味で、いまの国会議員は、「正当に選挙された代表者」(憲法前文)とは言いがたいのです。
それでも、議員としての地位が一応認められているのは、さまざまな事情を考慮した、一種の「緊急避難」的措置としてのことに過ぎません。
このような立場にある議員がなしうることは、選挙制度の違憲状態を解消したうえで、憲法に反しない正当な選挙を速やかに実施することまで、と考えるべきでしょう。
それまでの間、国民生活に支障を及ぼさないために、必要最小限の国政事項を処理することは、「緊急避難」のうちに入ることとして認められるでしょう。
しかし、そこまでです。
とりわけ、憲法改正の発議のような、国の枠組みの根幹にもかかわる事項は、本来なら国会議員たりえないはずの、正当性に瑕疵のある国会議員によって扱われてはならない事項の最たるものというべきです。
そういう意味で、あなたがいま「改憲」を言うことは、まったく不適切なことなのです。

 
第二は、あなたが、首相として「改憲」をめざすとしていることと、憲法との整合性の問題です。
言うまでもないことですが、内閣には憲法改正権はありません。
憲法改正権は国民にあり、国民にのみ帰属します。


「国民の代表」にも、憲法改正権はありません。
文字どおり「国民にのみ」あるのです。
それは、憲法というものが、そもそも、「統治権に対する法的制限」を意図したものであり、「権力担当者に対する国民からの指示・命令」としての意味をもつものだからです。
内閣および各大臣、国会および国会議員は、いずれも、憲法によって「制限される側」であり、国民から「指示・命令される側」に立っているのです。
「制限される側」、「指示・命令される側」が、その制限や指示・命令の内容を自由に変えられるというのでは、制限も指示・命令もまったく無意味なものになります。
だから、内閣に憲法改正権がないのは当然のことであり、また、国会も、「国民の代表者」によって構成される「国民代表機関」であっても、憲法改正権そのものはもちえないのです。
 
ただ、憲法は、国会が「国民代表機関」であることにかんがみ、国会に憲法改正の発議権を委ねています
この、国会の発議権は、憲法改正権は国民にのみあるという観点からいえば、国会が憲法改正を主導できるということを意味しません。
国民の側から、具体的にここをこう改正すべきだという声が上がり、それについて国会で議論せよという声が高まったときにはじめて、
国会は その国民の指示を受けて 憲法改正原案をまとめ国民に提示する、というのが本来のあり方
なのです。
そうではなく、国会議員たちが「ここは自分たちにとって都合が悪いから変えたい」といって改憲発議をするのは、本来筋違いなのです。
国会議員が改憲に前のめりになるべきではないのです。
まして、憲法改正の発議権が委ねられているわけでもなく、なによりも政権担当者として、統治権の中枢を担う内閣が憲法改正を主導することは、絶対に避けられなければなりません。
それは、政権の都合のいいように憲法を変えることにつながりかねない行為であり、「統治権に対する法的制限」としての憲法の意味を、大きく損なうこととなるからです。
その意味で、あなたが首相として「改憲」をめざすというのは、筋が違う、といわなければならないのです。

このように考えてくれば、憲法96条の国会による発議の要件を、衆・参それぞれ総議員の「3分の2以上」から「過半数」に変えようというあなた方の企図には、重大な問題があることがわかると思います。
「過半数」で発議できるということは、基本的には、ときどきの政権与党だけで改憲発議できるということを意味します
つまりこれは、政権の都合のいいように憲法を変えることを、より容易にすることになります。
ですから、この「改憲」は、「3分の2」か「過半数」かという単なる数字の問題ではなく、憲法の意味そのものを大きく損なうことにつながりかねないものなのです。
あなたは、「憲法について国民に議論してもらう機会は多いほうがいい」ということを、「過半数」にすべき理由の一つとしてあげているようですが、
「憲法について国民に議論してもらう機会」を国会が提供するという発想自体、憲法改正は国会が主導すべきだという誤った考え方に立っているものといわなければなりません。
かりにそのことを問わないとして、「過半数」にするという96条の変更を、どうしてもやりたいというのであれば、
同時に、政権に都合のいいような憲法変更の可能性をできるだけ防ぐため、政権与党は憲法改正原案を国会に提出できないこととする、といった制限を設けるべき
でしょう。
そこまでやるというのなら、あなた方の96条「改正」企図も、善意のものと受け止めましょう。
それでも、その発想自体は誤っていると、私たちは考えますが……。

法学館憲法研究所
所   長:伊藤真(伊藤塾塾長・弁護士)
顧   問:浦部法穂(神戸大学名誉教授)
客員研究員:水島朝穂(早稲田大学教授)
客員研究員:村井敏邦(大阪学院大学教授)
客員研究員:森 英樹(名古屋大学名誉教授)



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小さいけれど確実に幸せなこと

2013年04月27日 | ひとりごと
昨日の晩は、音楽仲間であり、すばらしいソプラノ歌手ミアが設立した『OPERA THEATRE OF MONTCLAIR』のコンサートに行ってきた。
彼らの歌を初めて聞いたのは、この会を支援しようと名乗り出た方のお宅で開催された、ワインとスナック、そしてデザート付きの、小さなコンサートやった。
会のメンバーは皆、オペラ歌手にふさわしい力量と演技力があり、間近に、いろんなオペラのハイライトシーンを聞かせてもらい、おおいに楽しんだ。
今回は、前回よりは規模を大きくして、教会を借り、伴奏もピアノではなく、オーケストラでしようという試みやったんやけど、
どうしたことか、音楽家や芸術家がうじゃうじゃいる町やのに、メンバーを集めるのにめっちゃ苦労して、コンサート直前まで第一と第二のヴァイオリン奏者が見つからんかったらしい。
第一と第二のヴァイオリンがおらんオケって……人間の声など吹っ飛ばしてしまうブラスバンドにもできず困りきってたのやけど、当日やっと、町の大学の生徒に頼んで頭数だけは揃えた。



という、ドタバタな状況がしっかり演奏に出たオーケストラ。
リハーサルも無し、ほぼ初見で弾いたり吹いたりしてる人が多くて、指揮者もどうまとめたらええのかわからんようで、これはちょっと聞くのが辛かった。
歌い手がすばらしいだけに、めちゃもったいないというか、どないしかして聞き分けて心を鎮めようと思たのやけど、
絶対音感っちゅうのは、こういう場合には持ちとうないモノで、2.3曲聞いてるうちに、頭の真ん中らへんがクラクラしてきた。

ここら辺に住んでる、音楽好きの連中の耳は、ひじょ~に肥えてる。
そやし、周りの観客の様子を見ながら、やばいなあ……と心配した。
このコンサートは、この会を育てるための寄付をするというのが目的やから、その分いつもよりチケットが高かった。
うちなんか、そやから旦那が今回は行かなんだ。
そやからよけいに心配になった。
案の定、ちらほらと、途中で帰っていく人が出てきた。
今後の運営に、マイナスの影響が出たりしませんように!
ほんまにすばらしい歌手の集まりなんやから。

外に出ると、まあまあ見事なお月さん。



翌日の今日、土曜日は、一週間最後の仕事日。
本日もそれはそれは見事な晴天なり!

あ、あんた、そこは禁止区域ちゃいますのん?
あ、ばれたか……。


同じく午前中の仕事を終えた旦那が、せっせと家の窓の外枠をきれいにしてくれてるので、わたしもちょいと外で働くことにした。
名付けて、空き地を庭に近づけるぞ~プロジェクト。

地続きの空き地から、なんぼでも持ってってええよ~と言うてもろた石を、あれこれ運んでは並べてみる。


鳩小屋の基礎のために埋めてあった砂利は工事用のんで、思いっきり愛想も品も無い、ほんまにジャリジャリした感じの砂利なんやけど、せっかくやから日本庭園の真似事をやってみた。
いやもう、あるもんそのまんまやんか、と言われて当然ですが、ここはひとつ、大目に見てもろて……。


これからまた寒うなるまでの間、ぼちぼち、ちょこちょこ、空き地を庭と呼べるように、植えたり掘ったり積んだりしていこと思う。

さてこれも、我が家の得意技、廃物利用なり。
バターケースのフタばっかりが割れたり無くなったりして、皿だけが二枚残ってた。
ふと、これにワインのコルクがぴったり入るかもと思いついた。
入れてみた。


ええ感じや♪

あ、そや、食器立ての受け皿の、水はけがようなるようにしてみよう!



今日は、小確幸がいっぱいあった日。
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わたしたちが生きてる世界は

2013年04月26日 | 世界とわたし
ここ数日、画面上の文字が、いくら拡大ボタンをクリックしても、まるでおっきくならへん。
ロ~ガンのわたしには、かなりつらい。
いろいろやってみたけど、周りがグングンおっきくなるだけで、記事の文字自体は全く変わらず、よけいに悲しゅうなる。
まあしゃあない。


今日は朝から気功瞑想。
ひさしぶりのマリアンの参加で、今日はミリアムと彼女とわたし、3人のクラスになった。
立ち瞑想はなんとか無事にできたものの、座り瞑想はもう、瞑想してんのか寝てんのか、どっちやねんっ!?と自分で自分にツッコミ入れとうなるほどに、そらもうええ気持ちで寝させてもらい、
終った後でミリアムに、どやった?って聞かれて、いやもう、どない言うたらええのんか……もごもごもご。

瞑想後、マリアンが突如、ボストンの事件を口に出した。
彼女は生まれも育ちもここアメリカ東海岸。
ミリアムは、イスラエルの中でも特別の、キブツという、小さなコミュニティで育ち、大人になってからここに引っ越してきた、
わたしも、日本でたっぷり丸43年暮らし、自分なりに区切りをつけて、こちらに家族で引っ越した移民中の移民。

それぞれに、考えも、環境も、心地良い慣習も違うのやけど、情緒がなぜかものすご合う。

その3人の中で一番、今ある社会の、今まで良いものと信じ込んできてしもてた物事を、めっちゃ疑うてかかるようになってしもたわたしは、
あのボストンの事件でさえ、報道の仕方、捕り物騒動の、言い方は悪いけど、どこかお祭り騒ぎみたいな感覚、あまりにも早い犯人確保などなど、
あのふたりの兄弟のうしろに、いったい誰が、どんな組織が存在してるんやろと、ついつい思てしまうのやと白状した。

巨大化した国際企業や組織、権力者、戦争屋、武器商人、1%の金持ち……。
この連中がやらかしてることの非道さを、ほんのひと欠片でも知ってしもたら……。

ミリアムは、数年前によく話してた、中国から来た友人(女性)の話をしてくれた。
「彼女は、生まれも育ちもずっと、バリバリの共産党の国だったけど、一度として、国が国民のためになにかをしてくれる、守ってくれるだなんて思ったことが無いし、
ずっと見張られていて、少しでも隙を見せたら、そしてそれが向こう側にとって都合の良い、あるいは悪い時期と重なってたりしたら、即座に人生を奪われると思ってたって言ってた。
だからこのアメリカに来て、みんなののんきな暮らしを目の当たりにして、大丈夫だろうかと心配になったけれども、
あの同時多発テロがあってからは、どんどん偏ってきて、戦争やテロをわざと招いて恐怖を煽り、警察国家を作り上げようとしてることを、
やっぱり知らずに、のんきに、これまでの贅沢がこれからも続くと信じ込んで生きてる人が多過ぎて、今では本気で恐ろしく思うって」

「昔はこんなじゃなかったって言うと、またかって嫌がられたりするけど、ほんとに、昔はこんなじゃなかった。もっと大人にガッツがあった」とマリアン。
「こんなのはおかしい、間違ってる。こんなことはイヤだっていうことがあったらね、みんな各々暮らしてるそばの通りに出たり、ワシントンに集まったりして、一所懸命怒ったり、抗議したりした。
みんな、自分の生活のことはもちろん大事だったけれども、それ以上に大事なことがある時は、そちらの方に集中するエネルギーとガッツがあった。
それが今はどう?誰かに頼ってばかり。
イヤだけど、おかしいけど、間違ってるけど、しょうがないよ、忙しいんだ……。ほんとにどうしようもない」

「でもねマリアン」と、ミリアムが身を乗り出した。
「オキュパイ・ウォールストリートや、この前のガンコントロールの問題でも、ものすごい数の人達が必死でロビー活動をしていたよ。
オキュパイは、あの、ニューヨーク警察の、とんでもない暴力が無かったら、まだまだ続いていたと思う。
あの平和的デモに対しての警察の暴行のすさまじさと、デモに参加したというだけで、人生をすっかり狂わされるという恐怖感は、デモを続行する気力を失わさせるのに充分だった。
わたしたちの人生なんて、道ばたを横切る一匹のアリみたいなもんよ。
だから今のアメリカは、いつ何時、巨大な靴の裏で踏みつぶされるかわからないけれども、それでも行列の中の一匹になる覚悟があるか?ということをを問われているのかもしれない」

「自分は持ちたい物を持ちたいだけ持ち、他人に制約を押し付ける。
自分は破壊したいだけ破壊して、他人に正義を求める。
そんな甚だしい破廉恥な利己主義が、いつまでも通るのがおかしい。
世界がアメリカという愚かで奢り高ぶった幼児を、皆で諭して躾ける勇気を持たないと」

3人ともしばらく、う~んと押し黙った。
いい話ができた。


うちに戻って、これを書いていると、視界の端っこで怪しい動きが……。


ううむ、何奴?


彼のシャツの向こうで、ポンちゃんの蕊すがた……うっとり。


もうちょっと拡大……青空に向こてケタケタ笑てはる。


垣根にも葉っぱがぎっしり生えてきた。


タンポポも光ってる。


うちの家番号は1。これがけっこう、我が家全員のお気に入り。


あ、なんか塗ってる。


ずっと気になってると言うてた、窓枠の錆びてるとこ、直してはるんやな。
旦那は家の修繕に、わたしは夏野菜の準備に、春しごとはまだまだ続く。
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あんたら子どもが暮らしててええとこちゃうけど、誰も責任取りとうないねん。裁判所もやねん。以上!

2013年04月25日 | 日本とわたし
放射線量の高い被災地に、今だ暮らしている子ども達を、なんとか集団疎開させてあげたいと、必死に頑張ってはる方々がいる。
この運動が、なんで全国規模にならへんのか、それが不思議でならん。

先日、仙台高裁で、再び却下されてしもた、子ども達の未来を守りたいという願い。
その顛末について、きーこさんがまた、大変な量の文字起こしをしてくれはった。
この奇々怪々な判決文を理解しようと、柳原弁護士が格闘しはったのやけど、結局1万5千文字もの字数が必要で、それでもやっぱり意味不明。
弁護士にとっても理解し難い、お経みたいな(←こんなこと言うたらバチ当たる?)、わざと分からんようにしてるんちゃうか、と疑いとうなるような、
判決文を考えた側の人間が、ほんまに意味わかって書いたか?と疑いとうなるような、はっきり言うて、腹立ってくる文なんです。
そやし、そのつもりで読んでください。

ただ、いっちゃん大事なことは、
今回もまた、子どもを避難させる権利、避難を求める権利もなければ、郡山市にも避難させる義務はないっちゅう、なんともえげつない判決が出たのやけど、
その一方で、
このまま郡山市、福島県に子どもたちがいては、児童生徒の生命身体健康について由々しい事態の進行が懸念されると、
はっきりと、被ばくの危険性、健康被害の危険性について明言してん、裁判所が。

これはおっきいことやと思う。
けど、判決文として、ここまで言うてることがチグハグでええんか?
被ばくや健康被害の危険性を認めときながら、うだうだとワケの分からん理屈を並べた挙げ句に、自分で逃げなはれと丸投げする。
引っ越しせなあかんような危険な状況になってしもてるけど、あんたが自主的に逃げたらええことであって、それができんというのはあんたの勝手な我がままやと言う。

結局は、状況がかなり悪いことは重々知ってるんやけども、あっちに責任を取らせるわけにはいかんねん、わてらも世話になってんねん、
そこんとこ、察しておくんなはれ、とでも言いたいんか……。

なんかもう、上げたり下げたり、おちょくるのもええかげんにせえって思う。

こんな判決文、郡山の子どもらが読んだらどない思うやろ。
ほんまに困って、切羽詰まって、必死の思いで訴えてんのに、全国の何パーセントの大人が心を寄せてるんやろ?
何人の大人が、実際に助けようと動いてくれてるんやろ?
何人の大人が、この子たちの苦しみや恐怖を、我が事のように想像してるんやろ?

この国は、ここまで冷たかったか。
この国は、ここまで自分さえよかったら人間の集まりやったか。
助けたろうな。支えたろうな。せめて逃げる権利ぐらい持たせたろうな。


<ふくしま集団疎開裁判>「判決文を読み解く」柳原弁護士の解説4/24(会見書き出し)

動画はこちらです⇒http://www.ustream.tv/recorded/31892201

14:32~
柳原:
今日12時過ぎに、仙台高等裁判所から事務所の方に連絡がありまして、
裁判所の判断、これの判決、ま、決定というんですが、仮処分の事件なので、出ましたので取りに来てほしいという事で、
それでいろいろと手続きをしまして、その後この判決内容を入手して、実は検討に時間がかかりまして、参加に遅れて申し訳ありませんでした。

先ほど、井戸弁護士の方から内容があったかと思うんですが、もう一回私の方から、今日の判決について報告させていただきます。

一言で言って、今回の判決は、私や先程の井戸弁護士も含めて、普通の法律家にとってみたら、狐につままれた様な判決です。
と言いますのは、裁判所の判断の理由が大きく二つ分かれていまして、前半がいわば総論部分です。
福島の、郡山の子どもたちが、どの位被ばくの危険があるかという、一般的な判断で、
後半が、それを踏まえて、今回の申立人の子どもたちが避難する権利があるのか、避難させる義務はあるのかという事の個別の判断ですが、
前半の総論の判断では、さっき言いましたように、
このまま郡山市、福島県に子どもたちがいては、彼らの、児童生徒の生命身体健康について、由々しい事態の進行が懸念されると、
ハッキリと、被ばくの危険性、健康被害の危険性について明言しました。

で、その後、結論に入るところでですね、途端に論調が変わりまして、いろんな理由を付けて
結局この裁判の当事者は避難させる権利、避難を求める権利もなければ、郡山市にも避難させる義務はないという、
前半の結論とどう結びつくのかが、分からないような結論になっています。

これがどうして、このような結論を導くのかについて、少し してきたところを、これから解説させていただきます。

判決の決定が、お手元に届いたと思うのですが、最初の前半部分は、この事案の概要の部分で、
7ページの終わりから、3行目から裁判所の判断になっていまして、このメインテーマは、8ページの下から5行目。
ここからが、この裁判のメインテーマの判断です。

最初に、裁判所はどういう事を言ったか?と言うと、
福島第一原発によって、どのような被害、被ばくが、この福島に住む子どもたちに及ぼす、一般的な認定を行っています。

で、この認定について、基本的には、私たちの主張を、ほぼ9割9分認定をしております

具体的には、10ページの真ん中に、2というところがあるんですが
私どもは、今回の事故によって、子どもたちの被害というのは、直ちに被害が起きるようなそういった傾向じゃなくて、
晩発制と言って、ある程度、数年経ってから、初めて被害が発生するような、そういう健康被害について、重大な懸念を持っているんだ、という事を主張していました。

それについて裁判所は、この10ページ2のところで、
詳細に、この晩発制被害の症例に関しての事実認定を、私たちの主張で認定しています

矢ケ崎さんの意見書を基にした、チェルノブイリ事故との対比。
これを基にして、チェルノブイリ事故で発生した甲状腺の被害について、同じような汚染地域である福島県の、これは郡山市ですが、
同等の被害が発生する、という事を認定しています


その後、松井英介医師のチェルノブイリの、甲状腺以外のさまざまな疾病に関して、
糖尿病とか心臓病の多発に関する、この、最近ですね、日本でも出版されましたヤブロコフレポート。
チェルノブイリの詳細な医療事故の報告、これを基にした松井英介氏の報告書、これも認定して、
こういった甲状腺以外の沢山の病気、糖尿病、心臓病の多発を指摘する意見もある、という事を認定しています

さらには、今回の甲状腺の検査の結果を踏まえて、北海道の松崎医師が報告書を出しました、
「福島の児童には、被爆から数年後の、チェルノブイリの高汚染地域の児童に匹敵する頻度で、甲状腺がんが発生して、今後もこの癌が激増する恐れがあるという指摘もある」
ということも認定しています


で、このような晩発の健康被害が発生するという証拠を認定したうえで、他方で、では実際にですね、福島県の学校の空間線量がどうかという事についても、
私どもが主張した、これは、神戸大学の山内教授が、実際にこちらの原告の子どもたちの学校に行って、詳細に空間線量を測った結果、
年間1ミリシーベルトの基準になるような、毎時0.193マイクロシーベルト以下のところは、その測定、152カ所の測定のうち1カ所しかないということ。
環境省によって汚染の基準とされた、0.23マイクロシーベルトを下回ったところは、9か所にすぎなかったという山内報告書を、ここでもきちんと取り上げて認定しています。

空間線量においても、郡山に住む子どもたちは、
年間1ミリシーベルトを遥かに上回る、高い線量のところに暮らしているという事を、裁判所は認定しています

他方で、郡山市がこの間ずっと主張してきた、校庭の表土除去、校庭での除染作業において、十分な成果が上がっているという主張に対して、こういうふうに認定しています。


一定の成果をあげている事は認めるけれども、いまだ十分な、これは11ページの下から10行目です。
いまだ十分な成果が得られるとは言えないのであるが、その主要な理由の一つとして、校庭外から飛散するガンマ線の影響が表れていると。


山内教授の指摘をいいます。
ガンマ線は、100m以上離れたところから飛来するため、放射線量を下げるためには、半径数100mの地域一帯を除染しなければならない、とされており、
学校周辺、すなわち地域全体の除染を実施しなければ、学校内の放射線量も下がらないか、
除染により放射線量ゼロのためには、屋根瓦や、側溝のコンクリート道のアスファルトなどにこびりついたセシウムは、高圧洗浄によっても除去出来ないため、
屋根のかわらや、アスファルトや、コンクリートを剥がしての工事のやり直しを要するが、ガンマ線の被害を考えると、地域ぐるみの除染が必要であり、
しかも除染は、一回では不十分で、何回もする必要があるという事がされている一方、
除染による汚染土の仮置き場が見つからないため、やむなくこれを、その地域内に置いている(学校内においては校庭の一面に埋めてある)
こうした仮置き場が容易に見つからない事が、除染の作業が進まない直接な理由とされていると。

このように、除染を理由に、子どもたちの安全を主張する郡山市には、除染の、むしろ限界、様々な未達成の理由について、裁判所は詳細に認定しています

このような、実際に、チェルノブイリ事故と対比をして被害を認定し、
なおかつ、山内神戸大学教授の測定した、実際の子どもたちの学校の空間線量の高い値を認定し、
なおかつ、郡山市が実施している除染の成果が表れない理由についても、詳細に認定したうえで、
このように結んでいます。


12ページの終わりから6行目。

以上の事実によれば、郡山市に対して、抗告人が通っている学校は、強線量ではないが、低線量の放射線に破断なくさらされていると認められることから、
そうした低線量の放射能に、長期間にわたり継続的にさらされることによって、その抗告人の子どもたちの、生命身体健康に対する被害の発生が危惧されるところであり、
チェルノブイリ原発事故に、一同に発症されたとされる被害状況にかんがみれば、
福島第一原発付近一帯で生活居住する人々、とりわけ児童生徒の生命身体健康について、由々しい事態の進行が懸念されるところである。



このようにハッキリと、今回の原発事故によって、子どもたちの生命身体健康について、由々しい事態の進行が懸念されると、きちんと認定しています。

私どもは、ここまで認定したのは、実は、一審の郡山支部では、こういった認定は全くしておらず、
「100ミリシーベルト以上でなければ、健康に被害の証明はない」といった、例の100ミリシーベルト問題を取り上げて、今回の被害の問題を蹴ったわけですけれども、
それに対して、今回の高等裁判所の認定は、このようにハッキリと、子どもたちの生命身体健康についての、由々しき事態の進行が懸念される、と認定しました。

そこまで読んだところで、私どもは、もうここまで行くと、次のだいたい展開が読めるんですが、さらにこういう展開になっています。
もっとこれを、裁判所は、実は、厳しい目で把握しています。
こう言っています。


放射性物質により汚染された土壌などを除染するため、相手方郡山市などの地方公共団体をはじめとする、各地方団体や法人などが、
今まで、土壌の入れ替えや表土のはく離などに取り組み、多くの費用と様々な努力が傾注された結果、一定の除染の成果をあげるに至ったとはいえ、
なお広範囲にわたる拡散した放射性物質を、直ちに人体に無害とし、あるいはこれを完全に封じ込めるというような科学技術が、いまだ開発されるに至っていない事は公知の事実であり、
またその大量に発生した汚染物質や、これを含む土壌などの保管を受け入れる先が乏しいこともあって、これを付近の仮置き場に保管するほかないまま経過していることから、
今なお郡山市の管轄行政区域内にある各地域においては、放射性物質が放出される放射線の被ばくの危険から、容易に開放されない状態にあることは、長期認定の事実により明らかである



こういうふうに言いまして、郡山市では、除染の技術はまだ完全に解されていないし、除染によって発生した土壌等を保管する場所の問題も解決されていないために、
引き続き郡山市に の放射性物質から排出される放射能による被ばくの危険から、容易に解放されない、極めて危険な状態である事が認定できると、裁判所は言っています。

これはさらに、郡山市の危険性を駄目押しで、健康被害の問題だけじゃなくて、除染の限界についても、こういう厳しい認定をしています。

で、ここまで認定したうえで、普通であれば、子供たちの避難の問題にいくんですが、
ここからが、実は私どもが首をかしげる、キツネにつままれる様なロジックの展開がここから始まります。
そのまま読み上げます。


もっとも、郡山市の管轄行政区域においては、特に強線量の放射線被ばくの恐れがあるとされているわけでも、また、避難区域等として指定されているわけでもなく、
いまなお多くの児童生徒を含む市民が、居住し生活しているところであって、
上記認定にかかる相手方(郡山市)の、管轄行政区域における空間線量率を見る限り、そこで居住生活をする事により、
その居住者の年齢や健康状態などの身体状況による差異があるとしても、この生命身体健康に対しては、放射線被害のしきいちはないとの指摘もあり、
中長期的には懸念が残るものの、現在直ちに、不可逆的な悪影響を及ぼす恐れがあるとまでは、証拠上認め難いところである。



これは先程、井戸弁護士や小出さんが、子どもたちの生命や健康に対して、由々しい事態が進行が懸念されると言っておきながら、
一転して今度は、子どもたちの生命身体健康に対しては、現在直ちに、不可逆的な悪影響を及ぼす恐れがあるとまでは、証拠上認め難いところであるというふうな、
キツネにつままれる様な認定をここでしています。

でその後、次は14ページなんですが、ここもちっともロジックが分かりません。
そのまま読ませていただきます。


14ページ1行目。

このように、福島第一原発から流出した放射性物質から放出される低線量の放射線は、抗告人が現に居住し生活する空間に、あまねく存在しているのであって、
抗告人が現住所に居住して生活し、そこから相手方(郡山市)の設置する、抗告人の中学校に登校する限りは、
その通学する学校外においても、日夜間断なく、相当の量の放射線にさらされている事になる



ま、これは正しい事実です。
子どもたちは、学校だけではなくて、学校外のその居住地域において、昼夜間断なく24時間、相当量の放射線に当たっています
実際上、上記認定の郡山市の管轄行政区域における空間線量率もですね、ここで数値をあげています。
平成24年の2月から25年の2月の3回の測定値を見ても、
抗告人が平均被ばく量の上限とする、0.193マイクロシーベルト毎時の倍以上である、0.41マイクロシーベルト毎時以上に達するものであるということで、数値も非常に高いと。

で、この数値を前提とする限り、抗告人が通う中学校において、学校生活を送ると考える8時間を除外した、その後の16時間の、学校外での空間生活での生活をした場合、
被ばくするものと算定される1年間の積算追加放射線量は、抗告人が主張する1ミリシーベルトを、3割以上の超過すると。
ようするに、1.3ミリシーベルト以上の被ばくを、この抗告人は、学校と学校が居合わせたところで、年間で被ばくするんだという事を、裁判所は認定しています。

すなわち抗告人は、郡山市に引き続き居住する限りは、郡山市が設置する学校施設以外の生活空間において、
すでに抗告人が、生命身体健康に対する被害を回避し得る上限値として使用する、年間積算被ばく量、これは年間1ミリシーベルトを超える量の放射線を被ばくすることは、避けられない事になると。


従って、学校生活において被ばく量の多寡(たか)に関わらず、その主張する被害を避ける事が出来ない計算になると。
そしてここにおいて、現在、学校施設外での被ばく量を減少させる事が出来るような施設設備のもとで、日常生活を送ったり、あるいは、送る事が出来る状況にあるとの、特別な事情も認める事が出来ない



そうしてみると、ここからが結論ですね。


抗告人が、引き続き郡山市に定住する限りは、それを主張するような、教育活動の差し止めを求めてみても、
抗告人が、被ばく線量の年間積算量の上限と称する量(1ミリシーベルト)を超える空間線量の被ばくを、回避するという目的は達成することはできず、
その回避のためには、そうした空間線量率以下の地域に居住するほか、通常取り得る手段はなく、
そうであれば、年間の積算空間線量の被曝回避を目的とする、抗告人主張の差し止め請求権などの発生を、認める余地はない



というのが裁判所の結論です。

これを読んで、直ちに理解することが出来る人は、天才か常人ではないと思われます。
実は、私ども弁護団も、これが何を言っているのかさっぱり分からず、先ほども井戸さんが解説していたと思いますが、
彼が分からなければ、他の人間でも分からないと思ってもいい位というのが、ちんぷんかんぷんのロジックです。

どうもその…私が思うには、
この、今の郡山市の事態は、学校内における1年間の被ばく量と、学校外におけるその子どもが通う環境での1年間の被ばく量を合計すると、
もう悠に1ミリシーベルトを超えると。
したがって、このような場所にいる以上は、「年間1ミリシーベルト以下で教育をせよ」という事を、実現することは不可能であると。

「不可能であるから私たちは避難させろ」と言っているのだけども、
「不可能であるからそういうことを求める権利はない」というふうに裁判所は結論付けた
んですね。

そこがどうしても理解できないんですが、ただ、裁判所の結論は、そういうロジックです。

もうここはとても人が住めるような環境じゃないから、ここで住むような事を求める、
「ここで住んで、教育するような事を求める権利はない」というような事を言っているように思います。

ただ、まァ、それでバッサリ切るんだと、裁判所は本当に無茶苦茶なんですが、後半でですね、もう一回、私どもが、実は主張した問題にも一応答えています。
私どもは、裁判所がそういうような言い逃れをしてくることは想定して、
年間1ミリシーベルト以下の安全な場所で、それは郡山市に限らないで、外でもいいから、そこに避難して教育せよという要求もしているので、
それについて次の15ページの(5)のところで、この問題についても一応、裁判所は回答しています。

これは、ある意味では、ここが本命です。
私どもは、郡山市内で教育を工夫してやれ、なんていうことはもう不可能ですので、そういう主張をするつもりなんてなくて、
「郡山市外の安全な場所で教育をしろ」ということを決めているんで、それに対する回答がここです。

こういうふうに裁判所は言っています。


次に、抗告人は、一定の空間線量率以外の、これは1ミリシーベルト以下の学校施設における、教育活動の実現を請求する


と言っています。
これについて検討したものが、ここです。


上記(4)で説時したところによれば、
抗告人が、現に居住している、自宅周辺を含む郡山市の管轄行政区域においては、あまねく放射性物質による放射線被ばくが避けられないのであって、
抗告人が主張するような、年間1ミリシーベルト以下という積算空間線量率の環境が確保されるような、学校生活を含めた生活を送るとなると、
抗告人は、自宅を離れた地に転居して、ようするに、郡山市外の場所に転居して、教育活動を受けることは避けることができない



ま、これはまともな事を言っています。

「抗告人はそうした前提で、上記請求をするようであるが」と。
ま、これも一応行わせ、え、そんな回りくどい事は、「しろ」と言っているんですが、


するようであるが、
他方で、郡山市は、現にその設置する抗告人の中学校で、多数の生徒に教育活動を行っているものであるところ、現に、その学校施設の教育を受けている生徒がそこにおり、
その教育活動を継続する事が、直ちに、その生徒の生命身体健康の安全を侵害する危険があるとまでは、認め得る証拠がないから



ということで、


郡山市は、現在の学校施設での教育活動を継続する事が、直ちに不当であると言うべき物ではない


という事を、結論として導いています。


ここが全く分からないんですが、さっき12ページの終わりから13ページのところで、
「福島第一原発付近一帯に居住する人と、とりわけ児童生徒の生命身体健康について由々しい事態の進行を懸念するところである」という事を決めておきながら
郡山市の現在の学校施設の教育活動を継続することは、
「彼らの生命身体の安全を侵害するほどの危険があるとまでは認め得る証拠もない」という事です

先ほどの、12ページの1行目で主張している事と、15ページのところがどういう関係になるのか?

小出さんがおっしゃったように、この各論がどう繋がるのか、どう関係あるのかというのが、全く理解が出来ません。
関連性が書いてありません。
で、さらに、16ページでこう言っています。


ところで、抗告人が転居する地域、転校する地域に、郡山市は学校施設を開設して、そこで教育活動を施すという事は、
現に、抗告人が被っている放射線被害から、開放される一つの選択肢であろうけれども



これは認定しています。
抗告人が今被っている、放射線被害から解放される選択肢の一つとして、郡山市が、別の安全な地域に学校の施設を開設して、
そこで教育活動を施す事はひとつの選択肢である
、という事を、裁判所は、ある意味初めて、認定しました。


ただしその後がこういう展開になっています


そうした転居先の地での教育は、その地における教育機関によって行われることが原則であり、
遠隔地での公的教育機関が、わざわざ地元の公的機関を差し置いてまで、別の学校施設を開設する必要があるとはいえない



これは、原則は分かるんですが、私どもは常々、
「今は原則は言っている場合ではない」と、「非常時である」と。
「前代未聞の非常時に対して、どういうふうに決断すべきか」という事を求めているんですが、それについては全く触れていません。


その上で、転居する場合には、転居先での公的教育機関による教育を受けることで、その目的を充分に達する事が出来るはずである


これは、自主避難という事を前提にした議論です。
なぜなら、「転居先の公的教育機関による教育を受ける」という事は、「子どもたちが自分で自主避難して転校しろ」という意味です。

しかし私どもは、
「郡山市が自ら、子どもたちを安全な所で教育する義務を果たせ。そのために、具体的に、安全な場所で学校施設を開設して、そこで教育活動を施せ」と言っているんだけれども、
その問題に対して答えないで、
「転校するんだったら、転校先の公的教育機関に教育を受けることで、目的は十分に達成できる」と。

まるで郡山市が、転居先の教育機関に転校するかのような議論をしていますが、これはあくまでも、子どもが自主避難する事を前提にした議論であり、全くかみ合っていません。

で、これについて、さらにこう言っています。


抗告人は、この点について、同窓の友人らをはじめとする教育環境を従事するべきであるとして、個人での自主転居(自主避難)に否定的な意見を述べるが、
本件は、抗告人が、現地(郡山地裁)に一貫して主張し、抗告理由においても強調するように、
郡山市の管轄行政区域にいる、全ての児童生徒に対する教育活動に関する請求ではなく、あくまでも抗告人個人の放射線被ばくを回避するため、
その人格権ないし、安全配慮義務の履行請求権に基づく、抗告人個人の請求なのであるから、他の生徒の動向については、当然にこれを斟酌すべき物ではない

としても、就学希望者や、その収容能力その他の関係上、希望者全員が、同一の施設で教育を受ける事が出来るとは限らないはずであり、
教育上の配慮の要請があると入っても、各個別の対応を取る事さえあり得よう



これもなんかお経のようで、ほとんど念仏を唱えているようで、え…、わたくしどもは理解が出来ません。
一応続けます。

したがって、何がしたがってか分かりませんが、


抗告人が主張するような集団疎開は、抗告人が主張するような被ばく被害を回避する一つの抜本的方策として、教育行政上、考慮すべき選択肢ではあろう


こういう認定はしています。
なんか上げたり下げたりなんですが、ここでは初めて裁判所がこういうふうに、私どもが直接裁判の目的ではないんだけど、裁判の暴論としてですね、
集団疎開というものが、抗告人をはじめとする、同じような危険な環境におかれている福島県の多くの子どもたちの、
被ばく被害を回避するための抜本的な方向性だ、という事を主張してきましたが
これを裁判所が自ら
「一つの抜本的な方策の一つとして、教育上考慮すべき選択肢である」ということは認めました。

しかし、ここからまた、「けれども」というふうに文書が続きます。


けれども、もとより、抗告人個人の請求件に係る、本件請求に関する判断の対象外というべきものである


ということで、
「この問題は、個人については、集団避難という事を考慮することはできない」と言っています。

ここに関しては、ちょっとひとこと言わせていただきたい。
実は、「抗告人は何故自主避難しないのか?」について、裁判所から質問がありまして、それに対する回答をした中で、
ようするに、自主避難というのは、お金の問題、経済的な理由の問題も大きいけれども、
友人の問題。
やっぱり自分ひとりだけでですね、仲間を置いて逃げることはできないんだと、同じ様な危険にいて同じような思いをしている子どもたち、仲間と一緒に逃げたいと。
それが実現できるようでなければ、自分は自主避難できないと。
それはあくまでも、自分だけ逃げる事が出来ない事が、困難であることを説明にいったんです。
ところが、裁判所はそういうことをですね、自主避難が困難であるという事を認めるんじゃなくて、
他の友達のですね、他の人間の事を配慮して、この問題を議論してはいけないみたいな事を言うんですね。

私どもはなにも、他の人間も一緒に避難できるようにしろ、という要求をしているんじゃなくて、
ここでその問題になっている、抗告人が、この子どもが、
「なんで自分で逃げられないんですか?」と裁判所に聞かれたんで、
自分はこういう友達関係が非常に大事だから、自主避難する事が出来ないんですよという事、
その、自主避難が困難な理由をいろいろと説明したにもかかわらず、
裁判所はそれを正面から受け止めて、「だから自主避難は困難である」という認定をするんだったらわかるんですけれども、

他の子どもの事を言いだすようなことは、この裁判の問題からは外れる、というような事をですね、言って、
無理やり、他の子どもの事を考える事を、この裁判の事実認定から外すんじゃないかという事は、
この抗告人が自主避難できない理由についての判断を、正面から取り上げるという事はしませんでした。

これは非常におかしな、チンプンカンプンじゃなくて、不当な判断だと思います。
その上でこういうふうに裁判所は結論にもっていきます。
16ページの下から4行目です。


このように、抗告人の主張するような放射線被害を回避するためには、現居住から転居して、郡山市の管轄行政区域外に居住する事を前提とするほかはなく、
その場合には、その転居先での公的教育機関が開設置した学校施設で、学校教育を受けることに何らの妨げもない以上は、



これはもう、「自主避難をすればいいんだ」という議論ですね。


抗告人の人格権に基づく妨害排除請求として、郡山市の管轄行政区域外の地で、相手方に学校教育を行う事を求めることはできず


ようするに、郡山市以外の地で、郡山市に学校教育を求めることはできないんだと。


相手方(郡山市)は、その管轄行政区域外に移住する事になるものに対する関係で、引き続き教育活動の実施をすべき安全配慮義務を負うものではない


という事を言う訳です。
なぜ、この郡山市がですね、市内で教育する事が危険な時に、市外に、安全な所に行って教育することが、そういう義務がないのか?
その安全配慮義務がないと言っているんですけれども、その理由に関しては、全く書いてありません。
というふうに私は思うんです。
結論としては、郡山市は、郡山市の市内がもう危険であって、
その中で教育すると、子どもたちの生命身体健康に対する、由々しき事態が危惧されるという事を言っておきながら、
それをですね、郡山市外の場所で教育をするような、そのような安全配慮義務がないんだというふうに裁判所は認定して、こちらの主張を退けました。

さらに、これは保全の必要性と言いまして、今回は、本来の裁判と違って、仮処分と言ってですね、緊急の救済を求める裁判なので、
その場合には、緊急の救済を求める必要性について、一応証明をする必要があります。

一般的には、生命身体の健康に関する危害が認められる場合には、もうこれは緊急にですね、この生命身体を守る必要があるので、
わざわざそれ以上仮処分の必要性を議論する必要はないんですが、今回これについて、裁判所は次のように言っています。
17ページの(6)です。


上記(4)(5)のとおり、
抗告人が主張するような被ばくを逃れる環境の下で教育を受けるためには、郡山市が、管轄行政区域外に学校施設を設ける場合を含め、転居する以外には他に方策がない



ということ。
これを、裁判所は認めた訳ですね。
この「安全な環境で教育をするためには、郡山市は市外に出て教育するしかないんだけども」、
証拠によればですね、


今回の抗告人の父親は、抗告人の居住地(郡山市)から通勤する事が出来ないような地に単身赴任をしており、
東北地方太平洋沖地震直後には、抗告人の家族も、父親方に避難することを検討したが、
抗告人が、友人と離れて生活することを嫌がったことなどもあり、実現には至らなかった事が認められる。
そうであれば、抗告人が、郡山市の管轄行政区域外(郡山市外のですね)安全な地に転居して、被ばくを逃れる環境で教育を受けることには、大きな支障があるとはいえず、
これを困難とすべき事情は、証拠上認める事が出来ない。



ま、簡単に言えば、自主避難しようと思えば容易にできるんだと。
従って、この子がですね、「自主避難できない」と言っているのは、理由はないんだと。
ようするに、簡単に言えば、勝手なわがままを言っているににすぎないという、そういう理屈で蹴っています。
さらに結論として、


そうしてみると、抗告人について、その人格権、ないし安全配慮義務の履行請求件に基づいて、教育活動を差し止めてみても
その主張する権利の保全(仮処分のですね)につながるものとは言えず、また、抗告人の主張する、被ばくを回避するためには転居するほかないが



これは認めているんですね。
「被ばくを回避するためには郡山市にいてはいけない」と、転居するしかないんだけれども、ただし、
転居する事については、抗告人には格別の支障があるとは認められないんだと。
ようするに、簡単に自主避難できるんだと。


しかも、転居先の公的教育機関による教育を受ける事にも、特別に妨げもないはずであるから、
抗告人の主張するような、抗告人に生ずる、著しい損害や危機をもたらすような被ばくを避けるために、抗告人が求める仮処分を出す必要性があるとは認めることはできない



ようするに、自主避難すれば、この子は容易にですね、郡山市から安全な場所に逃げられるんだから、
この裁判で仮処分で救済を求める必要性はないという、以上から、細かい処分というのが認められない、というのが裁判所の結論です。

53:40

二回目なんですが、一回目よりは少しは、中身が理解できたんですが、まだ半分ぐらいチンプンカンプンな判決でよく分かりません。
ただ裁判所は、今年1月22日に、3回の裁判の最終に審議を終えまして、当初私どもは、数週間で結論が出ると思っていました。
2月の終わりか3月の初めには、もう結論は出ると思っていたんですが、それがここまで、さらに二カ月近く、この判断が出るのが延びたというのは、
おそらく裁判所の中で、どういう判断を下すか、喧々諤々の議論があったものだと思われます。

その喧々諤々の議論が、私の率直な感想としては、十分に整理整頓されないまま、放り出されたままですね、
なんか、矛盾したものが平気でというか、並行したまま、判決の中にぶち込まれているという印象を受けます。

簡単に言うと、前半の判決を書いた裁判官と、後半の判決を書いた裁判官が別人間で、ひょっとしたら二人は、全く逆の結論を持っていたんじゃないかと。

前半の裁判官は、子どもを被曝させるという事で、由々しい事態だという事を認定し、
後半の裁判官は、とは言っても、やっぱり子供を避難させるのはいろいろと問題があるよね、ということで、
結論としては、子どもたちを避難させないという結論を打ち出して、したがって、前半と後半では支離滅裂というか、脈略がどうしてもつかめない形になってて、
おそらく、その前半と後半をつなげるために、裁判官で議論をしたんでしょう
けれども、

裁判所で、このように判断が割れた理由は、
私どもでこの疎開裁判に期待をかける、子どもを守って欲しいという、その声が非常に大きなものになってきていると、
それにかける思いを、裁判所は真摯に受け止めざるを得なくて、それでここまで厳しい判断を。
内容が、ある意味では、期待をする判断も入っていたように思われます

~57:00

仙台高等裁判所による判決文(PDF)
http://www.ourplanet-tv.org/files/20130424sokai.pdf
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春しごと

2013年04月25日 | ひとりごと
まずは昨日のお月さん。


お天気続きの今週、ぐんぐん気温も上がるっぽいので、畑(というても直径2メートルあるかないかのミニ畑)の準備にとりかかる。

まずはこの方、ゴーヤさん♪


ピアノ弾きのメンツにかけて、1と3の指で、種をぎゅうっと押しつぶす。
ちょっとでもメリッとしたら不合格。検査官はひじょ~に厳しい。

無事に検査に通った、多分去年と一昨年のゴーヤから採った種さんたち。


とりあえず、ニンジン、ピーツ、三度豆、小松菜、水菜、とうもろこし、枝豆の種を蒔いてみた。


無事に芽が出てきてくれますように♡

さて、これはカエデ爺さんの赤ちゃん。たったの3年でめちゃ大きなってきた。


カエデ爺さんも萌えてきはった♪


前庭の、お昼寝石の横で、猛烈な勢いで増えてきた芝桜。たしか、白とピンクも植えたのやけど、姿がまったく見えへん。紫おそるべし……。


さて、最近の旦那とわたしのちっちゃいもめ事は、食卓の上にパソコンを置くか否か。
パソコンの前に座ってる時間がべらぼ~に多いわたしとしては、せめて食事の時ぐらい、窓の外のカエデ爺さんや、名前もわからん木で休憩する鳥やら、遊ぶリスやらを見ながら、ぼぉ~っとゆっくり食べてたい。
一方旦那は、食べながら、新聞やらコラムやらをゆっくり読みたい。その新聞やらコラムは、旦那のパソコンの中にある。

旦那がほっこり、ぼぉ~っとしたい時に、そのすぐ横で、パソコンの画面をにらんでることが多いわたしとしては、自分の都合だけを押し付けたらあかんと思うのやけど、
気持ちがまったくアサッテの方に向いてる人と、真向かいに座って食べるのは、どうにも居心地が悪い。
なもんで、いろいろとアイディアを出してみた。

その中のひとつを、今日から実験。
縦長に置いてたテーブルを横長にしてみた。


旦那は、こちらから見て左側の席に座りたい。
そこに座ると、お気に入りの、縦長の庭がずぃ~っと見える。
わたしは、左側の窓いっぱいに立ってる、カエデ爺さんが見えたらそれで充分やったけど、できたら庭の方も見てみたい。
なもんで、横長の方の席に座り、正面の窓から見える景色も楽しませてもらうことになった。

あらら?
なんか、左の隅っこ、ほんのり桃色になってるぞ。


行ってみよ~!

うちの庭は芝生やのうて雑草のミドリさんでいっぱい!お喜楽♪


幼稚園とかで作った、はな紙の花みたい!


足元で咲いてたチューリップ。桜に気をとられて、もうちょっとで踏んずけてしまうとこやった。



これから蚊がプウ~ンと飛んでくる季節までの間、窓を思いっきり開けて楽しませてもらいまっす。
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