ピアノ教師を生業にしてから45年目の、大ボケ大失敗で大勢の人たちに大迷惑をかけた日の翌日に、仕切り直し発表会を行った。
11月11日土曜日の午後1時10分、お寺の駐車場で始まった恐怖のドタキャン顛末を、今も思い出すたびに背筋が凍る。
1時10分、15分、20分、じりじりと時間は過ぎていくのに、目の前の建物は巨大な棺のように冷たく微動だにしない。
そうこうしている間に、がらんとしていた駐車場に次々と車が入ってくる。
当然だ。
予め送っておいたメールで、当日舞台のピアノを試し弾きしたい人は早めに来るようにと伝えてあったのだから。
どうしたの?
それが…なぜだかわからないけど、建物の中にまだ誰もいないんです。
なので寒いから車の中で待っていてください。
そんな応答を何度も繰り返しながら、夫とわたしはなんとかして責任者と連絡をつけようと必死になっていた。
思いつく限りの関係者に連絡をし、向こうからの返事を待った。
午後2時20分、結局、発表会は日曜日に延期しなければならないことになり、わたしの体は小刻みに震え始めた。
一体どんな顔をしてこの決定を伝えればいいのだろう。
混乱し、失望し、激怒し、恐怖に苛まれて、わたしの顔はかなり引き攣っていたのだろう。
生徒たちが乗っている車に近づくだけで、何を言い出すかを理解したようだった。
みんな、口を揃えたように、わたしたちのことは気にしないで、こういうことは起こるものだ、また明日会いましょうなどと言って、誰一人わたしを責める人がいない。
そのうちに、日曜日になると出られません、という生徒が現れ始めて、それが4人になった時、もうたまらなくなって泣いてしまった。
延期のせいで聴きに来られなくなった親御さんや友だちも、とてもがっかりしていた。
しかもその人たちは、車で2時間ほどもかけてやって来てくださった人たちだった。
申し訳が無さ過ぎて、愚か過ぎて、取り返しのつかないことをしてしまった自分が情けなく恥ずかしかった。
最後の生徒に伝え終わる頃には、頭の中はボワボワに膨れ上がり、耳の奥では針金のようなものできつく縛り上げられた心の悲鳴が響いていた。
お寺から家に戻り、みんなにお詫びのメールを書き、出られなくなった人たちのことを思ってさめざめと泣いた。
どうしようもなく辛くて、どうしようもなく腹立たしかった。
それでも明日は仕切り直しをしなくてはならない。
そのためだけに食べ物を口に入れ、なんとか頑張って眠った。
日曜日の朝、瞼は腫れ上がり、耳鳴りはしつこく続いていて、起きているだけで気分はボロボロだった。
前夜もたくさんの親御さんから、慰めや励ましのメールをいただいた。
そして翌日の朝もまた、メールが何通も送られてきた。
「気分はどう?昨日は本当に辛そうだったので心配してる」
「昨日、わたしが夫から中止の知らせを聞いた時、一番に先に言ったことは何かわかる?『まうみはどこ?彼女は大丈夫?生徒の親として、ちょっとしたプランの変更よりも、まうみの心の傷の方が心配』だったんだよ」
「今日はいい天気だし、生徒たちは音楽を完璧に仕上げるために、1日余分に時間が取れた」
「昨日は話をしにわざわざ来てくれて、子どもたちを励ましてくれて、素晴らしい先生でいてくれてありがとう」
また切なくなって少し泣いて、気持ちを切り替えた。
昨日話すはずだった挨拶文を変え、もう一度楽譜のチェックをし、昨日と同じ服に着替えて出発した。
空はよく晴れて、終末を迎えた紅葉が美しい。
今日弾くことができなくなった人たちは、今頃どうしているかな?どんな気持ちでいるかな?などとふと考えてまた涙ぐむ。
いけない、今は発表会の仕切り直しに集中しなければ。
再び午後1時10分、お寺の駐車場に到着。
建物の中の灯りにホッと一安心する。
警備員が二人、会場整備係が一人、去年と同じ顔ぶれだ。
会場のライトの調整、飲食物を置くテーブルのセッティング、ピアノの位置の確認、お花とトロフィーの設置などをやっているうちに、試し弾きをしに生徒たちがやって来た。
2時半、発表会開始。
「昨日、すっかりしょげていたわたしに、夫がこんなことを言ったんです。『人間は失敗をする。だから失敗してもいいんだ。だけど失敗しても立ち止まらず、気持ちを立て直して前に進む。それが大事』」
「うーん、それ、どこかで聞いたことあるなあ」
「そりゃそうだろうよ、発表会が近づくといつも生徒たちにそう言って励ましてるじゃん、前に進め、弾き続けろって」
即席自虐ギャグ、大ウケした。
みんな、堂々と、表情豊かに、普段よりもぐんと大きなフルコンサートグランドピアノを演奏した。
ソロもデュエットも、興奮と幸せに満ち溢れていた。
けれどもプログラムで読み飛ばされる4人の生徒たちを思うたび、胸がきゅっと痛んだ。
見ず知らずの、昔はプロのピアニストだったという年配の女性が、「あなたの生徒たちの演奏を聞いただけで、あなたがどんなに音楽を愛して丁寧に教えているかがよぉく分かる」と、両手でわたしの手を握り、何度も誉めてくださった。
「どんなに小さな子どもでも、どんなに初歩の曲でも、表情がとても豊かで美しい。それに、あなたがすべての生徒たちと一緒に連弾をしてあげるという企画も素晴らしい」
ううむ、ここまで誉めてくれなくても…もしかしてこの方は、45年頑張ったで賞を渡しに、音楽の神さまが連れてきてくださった方なのかな?
発表会は、今回でわたしの生徒ではなくなってしまう8歳のRくんとの連弾で終わった。
Rくんは3歳半からピアノを習い始めた。
やんちゃで体がうずうずして、最初のうちは15分もピアノの前に座っていられない子だったけど、とにかくピアノを弾くのが好きで好きで、あれよあれよという間に上達した。
この4年半の間にコロナ禍があり、彼が大っ嫌いなバーチャルレッスンが2年も続いた。
15分が20分に、そして30分が45分に、さらに1時間のレッスンになる頃には、初見の能力がとても高くなり、小さな手でかなり難しい曲を弾きこなせるようになった。
やんちゃで落ち着きがない性格はそのままで、教えている間に何度もキレそうになったけど、こんなに急激に上達する子は珍しいので、どこまで成長するのかがとても楽しみだった。
けれども彼らがプリンストンに引っ越すことを決め、わたしはRくんを手放さなければならなくなった。
彼は発表会のスターで、誰もが彼の上達に目を丸くして驚いた。
今回は彼のラストステージなので、彼をプログラムの最後に持ってきて、ショパンの軍隊ポロネーズを連弾で弾いた。
彼の、まだ小さな手を見ながら弾いていると、いろんなことが思い出されてきて胸が熱くなった。
彼はプリンストンでミュージカルの伴奏を担当したり、大学が設立した子どものための英才クラスで学ぶことになっている。
どちらもオーディションを受けて合格したらしい。
がんばれRくん、そしてありがとう、わたしの生徒になってくれて。
というわけで、大失敗は大成功で終わった。
みんなのおかげだと思う。
本当に感謝だ。