ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

Mr. WTF

2023年08月21日 | アホな小話
ちょっと前のことだけど、それからというものの、何度も思い出しては笑ってしまう話なので、書きとめておこうと思う。

6月のとある週末に、一泊二日で家を空けなければならなかった我々は、空と海の世話を息子夫婦にお願いした。
家を出発してから2時間ぐらいが経った頃、息子たちがうちの家の合鍵を持たずに出かけてしまったことがわかった。
どこかに合鍵を隠してあるかと聞かれたが、最近はそういうことはせずにご近所さんに合鍵を預けていたので、その人たちに連絡をした。
ところがどの家も外出していて、息子たちが駅に到着する時にはまだ戻らないことがわかったので伝えると、じゃあ映画でも観に行って時間を稼ぐと言う。
そこで思い出したのが、息子のこれ。
『我が家のスパイダーマン』

クライミングの上級者である彼にとって、レンガ造りの家の壁などお茶の子さいさい。
もしかして、鍵がかかっていない窓があるかもしれない。
すると夫が、僕の2階の寝室の一つが開いていると思う、と言うではないか。
さっそくそのことを息子に伝えると、とりあえず登れるかどうか見てみる、と言う。
けれども万が一の落下に備えて敷くマットも、クライミング用の靴も、滑り止めの粉も無く、しかも今回は鍵がかかっていないとはいえ、窓はしっかりと閉められている。
うちの1階は地面から半階高くなっているので、2階も当然その分高い。
そんな高さの、足場が極めて不安定な状態で、普通でも開けるのに一苦労する窓をどうやって開けられるのか。
そんなことをやってるうちに、バランスを崩して落ちたらどうするのか?
言ってしまったものの、良いような悪いようなアイディアに、わたしの心は壊れたやじろべえみたいにグラグラ揺れていた。

15分ほど経って…。


"What the fuck!"
「なんじゃこれ!」
「壁をよじ登って窓から部屋に入ったんやけど、俺が家の中から玄関ドアのとこまで降りてったら、ドアの鍵がかかってなくてすでに開いてたし。しかも鍵穴に鍵が刺さったまんまやったし」
という、ことの次第に呆れ返った彼の怒りのメッセージと共に、冒頭の写真が送られてきたのだった。
最新のiPhoneで撮ったにも関わらずピントが合っていないのは、彼のショックの大きさを表している。
彼らはただ何もせずに、玄関のドアをスルッと開けて入れたのだ、鍵穴に差し込まれたままの鍵を抜いて…。
なのに苦労して壁をよじ登って、とても重くて開けにくい窓をなんとか開けて…。

ああ、これ以上にピッタンコな『WTF』がこの世に存在するだろうか。
彼はこの罵声言葉を何万回でも叫ぶ資格がある。
しばらくはごめんごめんごめんと謝りまくったのだけど、申し訳なさと共に妙な感動がムクムクとわいてきて、その場面の息子の顔と声を想像するとやたらと可笑しくなってきて、運転中の夫と一緒に涙を流しながら大笑いした。

鍵をかけた(つもりでいた)のは夫だったので、全ては彼の大ボケが発端だったのだけど、一つ間違えば近所の人に泥棒と勘違いされて通報されていたかもしれないし、バランスを崩して大怪我を負う可能性だってあったわけで、
そう考えると笑っている場合ではないのだが、まあ何事もなく無事に済んだから笑えるわけで、無駄骨を折らされた息子には申し訳ないが、この話は誰にしても大ウケで、みんなで腹を抱えて笑わせてもらっている。

というわけで、ちょっとお裾分け。

またまた歯のお話と、ちょこっとホタル

2023年08月20日 | 日本とわたし
多分、日本で暮らし続けていたら、ここまで深く後悔しなかったかもしれない。
日本なら国民健康保険があるし、国民健康保険ならほとんどの治療の支払いを補ってくれる。
ここみたいに歯と目は含まれてません、などと無情なことも言わない。
しかも全国津々浦々、どこの病院でも医者でもオッケーで、救急車に15万円の請求が送られてきたりもしない。
アメリカは歯科治療技術の最先進国と言われているらしいけれど、治療のために年に50万から80万円もの大金を払わねばならないことが、どう考えても納得できない。
そもそも、一体なぜ、耳と鼻は保険適応で、歯と目は適応外なのか。
こんな馬鹿げたことを、いつ、どこの誰が決めたのか?

50歳を過ぎたあたりから、わたしの歯は悪化し始めた。
エナメル質の部分は屈強なのに、象牙質の部分は脆弱。
だからなのか外見だけだと全く問題がなさそうに見えるので、よほどこちらから訴えないと医者が相手にしてくれない。
しかもレントゲンにも引っかからないステルス虫歯がわたしの歯にはあるらしい。
経済的に厳しい時期は、めまいがするほどの痛みも、正露丸を潰したのを詰めて誤魔化しながら耐えた。
耐える期間が1ヶ月近く続くこともあった。
息子たちが自立してからぼちぼちと治療を受け始めたのだけど、誤魔化していた間にしっかりと悪化してしまっていた虫歯の治療は、どれもこれもが大掛かりなものになった。

後悔先に立たず。
そもそもどうしてこんな不健康な歯になったのか。
高校時代に、コーラの1リットルボトル全部とマクビティの胚芽ビスケットの一袋全部を、毎日のように食べていたからか?
長男くんがお腹の中で育っていた時、産む直前まで、常時のど飴を口の中に入れていた(そうしないと吐きそうになるからだった)からか。
物語を熱心に書いていた時、Trader Joe'sの特大板チョコ(500g)を、制限なく食べていたからか。
手指の関節炎に悩まされてからは、チョコレート(白砂糖)とカフェインとアルコールを断ち、食の事情はすっかり変わったけれど、ここ10年はオーガニック専門の韓国食品店のゆず茶にハマり、季節に関係なくしょっちゅう飲んでいたからか。
それでも毎日の歯磨きは欠かしたことがないし、フロスもウォーターフロスを含めしっかりやってきたのに…。
わたしの母は88歳で虫歯はゼロ、32本とも全部自分の歯である。
それとは逆に父の歯はしっかりしていなかったような覚えがあるが、はっきりしたことはわからない。
もうすぐわたしは父が亡くなった年と同い年になる。

とにかくわたしは今後もずっと、モグラ叩きのように、ひょこひょこと顔を覗かせてくる虫歯を、大金を払ってやっつけていかなくてはならないのだろう。

というわけで、先週の木曜日はインプラントの中間治療に出かけて行った。
3月のはじめに古いインプラントの歯と支柱を撤去し、膿んでいた部分を徹底的に掃除し、骨移植をした。
その手術の翌日に、アホなわたしは友人たちとダイナーに行って、熱々のスパイシーなスープを飲み、熱々のフライドポテトを食べてしまったので、術後で弱っていた上顎を火傷して、治癒を大幅に遅らせてしまった。
目の前で美味しそうな料理を食べる友人たちに嫉妬して、柔らかな食べものならオッケーだからと、スープとポテトを頼んだのだけど、スープにはびっくりするほど唐辛子が入っていた。
そんなこんなで、6月だったはずの人工歯根の挿入日が延びに延びて一昨日になったわけだけど、またまた問題が発生した。
治療は朝の10時半から始まった。
やたらと痛い麻酔の注射針が5回、いつもだったら3回目あたりから痛みが軽減していくのに、今回のは5回ともぎゃ〜っと心の中で叫ぶほどの痛みだったが、これさえ我慢したらあとは痛みから解放されるのだからと言い聞かせた。
40分ぐらい口を開けていたが、今回は顔全体が細かく揺れるような削り作業もなく、傷口を縫う時の不快感も前回よりはマシだった。
治療後にいつもの禁止事項の説明を受け、いざ帰らんという時に、「次は2週間後に来院してください」と言われ、「え?それは無理です、今夏の最初で最後の旅行に行くので」と答えると、助手の人がぽかんとした顔になった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、ドクターに聞いてきますから」と言って、パタパタと治療室から出ていく後ろ姿を見ていると、どんどん嫌な予感が湧き上がってきた。
「本当は9月に入ってから予後の確認をしたいのだけど、仕方がないので26日に来てくださいとのことです」
「すみません、予後のことまで全く考えていなくて」
「あ、それと、今日から2週間以内は飛行機に乗らないでくださいね」
「え?12日後に飛行機に乗る予定なんですが…」
「ドクターに聞いてきます」と、2度目の退室。
「まあ、多分大丈夫でしょうということです」

そんなこんなの、不安な雲がモクモクと立ち込めてくる会話だったが、今更旅行の変更はできないのだから仕方がない。
帰る途中にあるTrader Joe'sやWhole Foods Marketに寄ろうと思っていたのだけど、出血がけっこう多くて、傷口に詰めたガーゼがすぐにボタボタになってしまい、さらに麻酔が切れるにつれて顔全体がガンガンと痛み始めたのでやめた。
家に戻り、レッスンが始まるまでに3時間近くあったので、ゆっくりと休めばなんとかなるだろうと思っていたら、2時過ぎに歯科医から電話がかかってきた。
「今日の6時にもう一度来院して欲しい」と言う。
なんで?
「6時はレッスンが入っているので無理です」と言うと、「じゃあ今からでもいいから来られるか」と言う。
「どうしてですか」と聞くと、「あなたが帰ってから考えていたんだけど、旅行でいろいろと予定が押されてしまうので、もう少し徹底的にしておきたいことがある」と言う。
「どうしても今日でないとダメなんですか?」「はい」
なんのこっちゃと思ったけれど、ついさっき治療をした本人が頼んでいるのだから、それを聞かないわけにはいかないではないか。
でも、レッスンまであと1時間半しかない。
病院までの往復に1時間強かかるので、なにをするつもりなのかはわからないが、30分弱で終わってくれないと困る。
その日は夫の休みの日だったので(休みといっても漢方薬の調合を何人分もしなくてはならないのだけど)、気分転換にもなるからと運転を買って出てくれた。
2度目もまたまた激しく痛い麻酔の注射をブスブスと打たれ、閉じた部分を開き、人工歯根を抜き、素人の想像ではあるけれど、さらに深く何かを削り、また人工歯根を挿入して傷口を縫った。
なんだかなあ…という気分で、しかもようやく治りかけていた痛みが戻ってきて、けれども今回は夫がくれた止血の漢方薬を飲んでいたからか出血はほとんど無く、帰りの車の中ではずっと目を閉じて休んでいた。
結局最初の生徒だけ翌日に移動してもらい、残りのレッスンをなんとかこなし、熱くもなく辛くもない卵粥を食べ、抗生物質のカプセルを飲んでその夜は寝た。

そして今日は2日目。
禁止されていた激しい運動とやらも解禁になり、痺れや痛みもほとんどなくなった。
また当分、好物のおかきもナッツも熱々のスープも豆腐チゲも食べられないけど、とにかく飛行機に無事乗りたいので我慢する。
今回が初めてでもないのに、こういう大掛かりな治療の2週間後は経過観察を徹底しないといけない、という常識がスポンと抜けていたことがなかなかに情けない。
けれども過ぎたことをクヨクヨ考えても何も変わらないし仕方がない。
なのでとにかく自己免疫力を高められるよう、よく寝てよく食べる(柔らかなもの限定だけど)、これを自分に言い聞かせて実行しようと思う。

時々紛れ込んでくるホタルさん。
今回もそおっと外に逃がした。

小さな蝉の抜け殻を見つけた夏のある日のひとりごと

2023年08月11日 | 日本とわたし
酷暑続きに喘いでいるみなさんには申し訳ないのだけど、こちらはエアコン無しで過ごせる日が続いている。
こちらに移り住んだ頃の夏は、そこそこに気温は上がるのだけど、避暑地かと思うような爽やかな風が吹き、朝晩は冷んやりと心地良い毎日で、エアコンをつけなければと思ったのはほんの数日だけだった。
23年が経った今、こちらの夏もだんだんと日本化(?)してきて、エアコンをつけない日が少ない年もあったけど、今年の夏はなかなかに涼しい。
そんなふうな夏だからか、蝉を見ることは滅多に無い。
何年かに一回の割りで今年は蝉がたくさん出てくるぞ〜と新聞などが騒いでも、鳴き声はか細くて少ない。
だから大抵の年はゼロに近い。
今年は一回だけ、玄関前の掃き掃除をしている時にジィ〜ッという声が聞こえて、あ、蝉?と思って辺りを見回したのだけど、当然見つかるわけもなく、声もすぐに聞こえなくなった。
この子だったのかな。


YMCA通いを再開して今日で丸1週間。


とりあえず水中エクササイズのクラスを一通り体験した。
インストラクターの指示通り体を動かそうとするのだが、なにせ首から下は水の中なので、その動きを的確に把握するのは難しい。
あたふたバタバタしていると、必ず教えに来てくれる人がいる。
そんな感じでどうにか各クラスの初日をこなしていったのだけど、水深3メートルのプールで行うエクササイズだけはどうにもこうにもうまくいかずに落ち込んだ。
エクササイズ以前の問題なのだが、なぜか同じ場所に留まっていられないのである。
一体なぜ自分が流されていくのか訳がわからないまま、まるでクラゲみたいにあちこちに行ってしまうのだ。
大勢が運動しているのだから波立ってはいるが、他のメンバーはみんな同じ場所で運動している。
ヌードル(浮き棒)を股に挟んでいるので水底に沈むことはないのだけど、その浮き加減に慣れていないからか、思うように動けない。
このクラスはまあ、もう少し経験を積んでから再挑戦することにした。

というわけで、15年間、一度も足を踏み入れることが無かったプール界隈に入り浸った。
クラスの内容はもちろん、それに参加するためには何が必要不可欠な物なのかを学習する毎日だった。
まずは水着。
わたしが持っていたのは都合の悪い部分を隠せるタイプのもので、腹や股の部分に余分な布がヒラヒラと付いている。
クラスではどんな水着を着てもいいのだが、水から上がった途端にそのヒラヒラからポタポタと水が落ちてうざいったらない。
プールの水はそこそこに温かいのだけど、プールからロッカールームに至る通路が結構長くて寒いので、そのヒラヒラを絞りながら歩かないと体が冷えてしまう。
そこで、シンプルな布一枚で作られた水着と移動時に羽織るワッフル織のガウン、それから小ぶりのバスタオルを買った(合計60ドルなり)。
シャワーで必要なソープ各種を小分けできる容器も買った。
けれども塩素消毒されたプールの水の匂いが、石鹸で洗ってもなかなか落ちない。
そんな水に毎日1時間以上浸かっていたら、肌や髪は当然荒れてくるだろう。
プールは1日おき(月・水・金)にして、その他の日は3階のジムでシニア用のクラスを受ける、という方法もある。
この1週間、体のあちこちがどんよりと痛いし、家に戻るやいなや水着やタオルを洗って干さなければならないのが面倒だけど、これまでの万年ダルさや不眠や肥満から、ほんの少しだけ抜けだせてきたような気がする。
というわけで、最初っから張り切りすぎると長続きしないのは目に見えているので、気をつけてスケジュールを組もうと思っている。
わたしもなかなか大人になったな(シニアになって言うことか😅)。


今年の夏は生徒の数が半分に減ったので、火曜日も休みにしている。
夫もその日は仕事をできるだけ入れないで、二人で外食を楽しむか、作り置きができる料理をしたりして過ごす。
先日の火曜日は、最近夫が見つけた超〜美味しいミドルイースタン料理のレストランに行った。

まずは前菜サンプラーから。
グルテンフリーな我々は、家にあるクラッカーを持参していただく。


メニューを読んでいると、時価と書かれた料理があった。
夫は一度、メイン州の海沿いのレストランで、時価と書かれたロブスターのサンドイッチを注文して痛い目に遭った。
ロブスターの小さい身が数切れ挟まれているだけのサンドイッチが42ドル、しかも彼はそのうちの一切れを床に落としてしまっている。
普段ならしつこく値段を聞いてから注文するか否かを決める(まあ大抵は即刻あきらめる)のに、その時はなぜか何も聞かず、わたしはヒヤヒヤしながら事の成り行きを見守っていたのだが、さすがに42ドルはないだろうと、血の気がさーっと引いたのを今でも覚えている。
それ以降、時価というのをメニューで見つけるたびにニヤッとしてしまうのだけど、そのレストランの焼き魚の時価は25ドル…いい感じだ。

身がしっとりとして柔らかく、皮はパリッとして香ばしく、それはそれは美味しい焼き魚だった。


ここの肉の美味しさったら…どの肉もモチモチと柔らかくてコクがある。

半分食べたところで満腹になり、ミントティを注文したら、なんともユニークなカップに入れられてきた。



夏の小確幸なひととき。

「オマール君、君は君のことを忘れない日本人あることを記憶していただきたい」by 武者小路実篤

2023年08月07日 | 日本とわたし
オマール君
君はマレーからはるばる日本の広島に勉強しに来てくれた。
それなのに君を迎えたのは原爆だった。
嗚呼、実に実に残念である。
君は君のことを忘れない日本人あることを記憶していただきたい。
武者小路実篤

今朝、桃子さんがFacebookに掲載した記事を読んで深く胸を打たれた。
毎年この時期になると、どこからともなく辿り着かれた方々が、もう今から10年以上も前に書いた記事「あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?」を読んでくださっている。
今日ここで紹介させていただくのは、今まで全く知らなかった人たちの死である。

桃子さんのコメント:
今日の広島の原爆記念日、マレーシア人で当時広島大学の留学生だったサイード オマールさんの葬られた一乗寺 臨済宗の圓光寺にお墓参りに行った。
オマールさんは18歳の優秀な留学生で広島でこの原爆という悲劇に遭遇した。
投下直後は自分の体の痛みも厭わず、被爆者の救出に奔走したと言う。
京都にたどり着いた時には瀕死状態で京大でもどう治療してよいやら、まだ原爆の実態すらわからない中、彼は若き命を終えたのだという。
当初、京都の公の墓所は南禅寺だそうでそこに葬られたが、その後、山端の平八茶屋の当主や家族、地元の方々の協力で今の圓光寺にイスラーム式の墓を建造し手厚く埋葬されたそうだ。
武者小路実篤のオマールさんに寄せた一文の石碑もあった。

同じく桃子さんが紹介してくれた記事、『被爆南方特別留学生・サイド・オマールさんを訪ねる旅』を読んでさらに当時の詳しい事情を知り、原子力爆弾の非人道さに怒りが込み上げてきた。
絶対に、2度と繰り返されてはいけないことの代表格、原爆。
核兵器撲滅への道はどんなに遠くても、必ず実現させなければならない。人として、大人として。

『被爆南方特別留学生・サイド・オマールさんを訪ねる旅』

引用(順不同):
・オマール青年が南方特別留学生として日本に来たきっかけ
戦争中に日本軍がジャワを占領したとか、フィリピンのマニラを占領した時に、その土地に、それぞれの土地でそこの王族とか、大臣とか大統領とかのそこの偉い人の子どもさんを、日本に連れてきたのです。
そして「日本で勉強させて偉い人にしてやる」、そして大東亜共栄圏を守ろうということで、連れてきたのです。
自分の子弟が日本にいることで、日本にはむかえない。
日本軍の言いなりになるというふうなことが、作戦的に考えられたわけです。
だから留学生としては、非常に、お気の毒だったわけです。

・どのような旅だったか
戦争中オマールさんたちは、日本海軍の駆逐艦に乗って何日もかかって、魚雷をくぐりぬけながら来られた。

・オマール青年の被爆とその後
原爆が投下された時、オマール君は寮の中におりました。
そしてこの辺りの川の中は、死人やけが人でいっぱいで、埋め尽くされているような状態でした。
オマールさんは寮生の被爆後の状況を大学へ連絡しに行き、大学の指示を受けて寮に帰り、寮の消火活動をはじめ、日本人の救助活動をいろいろしたわけです。

特に感心したのは、老人や女性、小さな子どもたちや弱い立場の人には、とてもやさしかったことです。
そんなオマールさんを見て、留学生はみんな親切でした。
被爆後の広大での野宿では、行方不明のわたしたち肉親捜しを一緒にしてくれたり、疲れてかえったら、「千重子どうだった。明日またさがそう」と声掛けしてくれました。
5人の留学生は率先して係を作り、私や母たちの食 べ物もどこかから(配給や炊き出し、学校の畑等)持ってきてくれました。本当に感謝でした。

オマールさんは胸にヤケドをしながら、そのような様子は全く見られなくてドラムかんを探してきて、お風呂をわかして入ったりしている姿が忘れられません。
オマールさんは自分の考えをはっきり持った人で、お別れの時「日本はこの様になったけれど、きっと立ち直るでしょう。(私はそれを信じることはできませんでしたが)わたしもマレーシアに帰って国のために働きます。きっとまた広島にみんなに会いに来ます」と約束されました。

サイド・オマールさんのお墓/京都市左京区 圓光寺 



猫とYMCAと野菜とけん玉と

2023年08月06日 | 日本とわたし
猫はどうしてヨガマットと洗いたての洗濯物の上に鎮座ましますのであろう。
ただの嫌がらせなのか?
それとも愛なのか?

体重がじわじわと増え始めて早や3年、今年に入ってから最高値を更新し続けている。
それでなくても小太りだったのに、今や本格的な太りっぷりである。
若い頃から、とんでもなく辛い別れがあっても、余命を宣告されても、借金取りのヤクザに追われてても、仕事場でたっぷり嫌がらせを受けても、田舎の婦人会の新人イジメに遭っても、とてつもなく暑い日が続いても、食欲が失せたという経験がない。
難産で死にかけて点滴を7本打たれてベッドに横たわっていた時と、急性の肝炎にかかって立ち上がれなくなった時と、激しい下痢に見舞われた時以外は、どんな状況においても腹が減り、普通の食事を摂ることができるので、今までの長い人生の中で何かが原因で痩せたという経験がない。
まあこんなものかと放っておいたら、裸で鏡の前に立つと、思わず目を逸らしてしまうほどにだらしない姿に成り果てていた。
わたしの足は全身の3分の1の長さしかなく、その上ここまで太ったらブサイク極まりない。
さすがにこれはあかんやろと思い、コロナ禍以降、ずっと休んだままにしていたYMCA通いを再開することにした。


このビルディングの前を通り過ぎるたび、いつかは戻らなきゃなあと思いつつ、なかなか決心がつかなかったのだけど、いざ建物の中に入ってみると、びっくりするほど様変わりしていた。
まず、メインの出入り口だった(写真の)向かって右側のドアが閉鎖されていて、中を覗くと受付カウンターが撤去され、運動器具が設置されていた。
その空間はYMCAのスタッフとメンバーの交流の場だったので、それが無くなっていることはショックだった。
出入り口は地下の小さなドアだけに限られていて、メンバーは小振りのカウンターで受付を済ませ、そこからそれぞれの目的場所に移動する。
2020年の冬、コロナ禍で社会が閉鎖されてしまった時から少なくとも2年間、ここは無人化してしまったのだから、いろんなものを縮小しなければならなかったのだろう。
そしてエクササイズの内容も、それに関わる講師たちも、この3年半の間に生き残るための試行錯誤をしながら、変えられていったのだろう。
わたしが以前、15年近く受けていたクラスは全て姿を消していて、その代わりにシニアの人たちのためのクラスが増えていた。
休んでいる間にシニアになっていたわたしは、月々のメンバー会費が68ドルから44ドルに下がっていて、そのことに興奮して手続きを取ったのだけど、それらは全てインターネット作業で、クラスのスケジュール表もやはり各々が1週間ごとにインターネットで調べて把握するようになっていた。
人の手から手に渡される紙のスケジュール表はもう廃止されたのだそうな。

興奮するとやり過ぎて痛い目に遭うというのが通常パターンなので、今回こそは賢くやろうと思い、まずはシニア用の水中エクササイズのクラスに通うことにした。
15年も通っていたのにプールには全く行かなかったので、何もかもが初体験。
ロッカールームに入り、着替え部屋とシャワー室とサウナを覗きに行き、プールサイドからクラスの様子を見学した。
なんだかすごく楽しそうである。
みんなニコニコしながらインストラクターの指示に従っている。
これぐらいなら楽勝かも。
泳ぐわけではないので、ゴーグルもキャップも要らない。
ということで、水着とタオルとプールサイド用のサンダルをカバンに詰めて、朝8時からのクラスに参加した。
そのクラスは小さい方のプールで行われていて、男性は2人、ほとんどがわたしと同世代の女性だ。
水中運動用のダンベルやチューブを使って、ずっと体を動かし続けるのだけど、ものの15分も経った頃には、わたしの息は完全に上がってしまっていた。
ニコニコどころの話ではない。
水の揺れにつられて体がヨロヨロする。水の抵抗に負けて足が前に進まない。
そんなわたしを置いてきぼりにしてさっさと進んでいくみんなの背中を見ながら、小学校時代の徒競走の自分を思い出していた。
なかなかに情けなく、なかなかに悔しく、なかなかに可笑しい時間であったのだけど、そんなわたしに手を差し伸べてくれる人が少なからず居て、それはそれでなかなかに嬉しい気持ちにもなった。
水から出ると、途端に重力が戻ってきて、うわっ、こんなに重かったのかと自覚させられた。
いきなりいっぱいやってしまうと長続きしないので、ぼちぼちと通うことにする。
でもやっぱりプールに入ると泳ぎたくなったので、耳全体にすっぽり被せることができるキャップを買って、ちょびちょびと泳いでみようかとも思っている。
泳ぎをやめたのは耳の中がよろしくない状態だからで、耳に水が入らないようにさえできたら少しずつ体を慣らしていきたい。

さて、うちの野菜さんたちは、ランタンフライに毎日襲われている気の毒な胡瓜を除いて、順調に育ってくれている。
今年の茗荷は小ぶりなので、酢漬けにしていただくことにした。
千切りにして冷凍した茗荷は一昨年の分がまだ残っていて、昨年のをまだ食べていない。


ランタンフライの襲撃にも負けず、毎日1本から2本の胡瓜を収穫しているのだけど、さすがにポリポリにも飽きてきたので、こちらもピクルスに。

切ると真ん中の部分がほんのりと緑色で美しい。

いつも収穫が遅れて美味しくいただけなかったオクラも、今年はずいぶんと楽しませてもらっている。

枝豆は採るのが随分遅れて色が悪くなったのもあるけれど、毎年の如く甘くてコクがあってとても美味しかった。

おまけ写真
近所の大型ドラッグストアの棚にこんなものが?!

その名もKENDAMA、けん玉そのものである。
夫と二人でこのけん玉くんを、首を傾げてしばらく見ていた。