ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

おひな祭りの大雪と灯油ストーブと親友と

2019年03月04日 | 友達とわたし
春の雪はボタボタで、木の枝にしがみつく。


垣根が両側から垂れ落ちて、車道からうちに入れなくなっちゃった?!


粘着質は人間でなくてもやっぱり困る…。




わずか0.5センチぐらいの幅しかないフェンスの縁にも。


おひな祭りの日だというのに…。




向こうの空がようやく晴れてきた。


万が一の時のために、灯油ストーブの準備をする。


芯にオイルを染み込ませるために数時間放置してから点火する。
最初はすごく臭うので地下室で点火したのだけど、それでも1階全体がとんでもなく臭くなり頭が痛み出したので、慌てて外に出した。


今回は出番が無かったのだけど、二人ともに灯油ストーブの臭いにすごく弱いので、できたら使わずに済んで欲しかったりする…いやはや。


さて、先週の土曜日は、嬉しいお客さまをお迎えした。

漢方の学校で学び始めてから週末は土曜日しか無い事になった夫は、それでなくても週末のアクティビティ(いわゆる妻以外の人付き合い)を渇望しているので、何の予定も入っていない土曜日を忌み嫌う。
一方わたしは、週末こそは週日にできないことをしたり、逆に何にもしないでパジャマのままで、家から一歩も出ないでボーッとしたりするのが大好きなので、週末にあれこれ予定を立てるなんて意欲はほぼゼロに近い。
でも、結局夫が立てた計画でどこかに出かけたり人と会ったりすると、あ〜楽しかったと思う。
だからまあ、ただのめんどくさがり屋なのだ、わたしは。

わたしたちのめちゃくちゃ急な誘い&悪天候にもかかわらず、のりこさん&ジャンさん夫妻が遊びに来てくれた。
いつものごとく会話が弾み、話題はあっちこっちに飛んでは大笑い。

のりこさんとジャンさんが、のりこさんのお里の沖縄に遊びに行った時のこと、ジャンさんが日本語の『どうも』の意味をのりこさんのお父さんに尋ねたところ、お父さんはありとあらゆる辞書や本を持ち出してきて、一所懸命説明しようとした。
『どうも』…なるほど、ああいう時こういう時に使うと言えるんだけど、意味を説明しろと言われたら言葉が出てこない。
なんてなことを言ってたら、「じゃあ『Love』は?」と聞かれた。
「『Love』って何?」
「『Love』は『Love』、としか言いようがない」
「でも、『どうも』と同じく、いろんな言い回しができる」
「それって『Fuck』もだよね」
「まうみ、いつか『LoveとどうもとFuckと』っていうタイトルでブログ書いてよ」

えっ…。

むくむくと書きたい気分になってきた。
どちらかというと短編っぽい話で。
今すぐにはとても無理だけど、いつか気持ちに余裕ができた時にでも。

4人で散歩に出かけた時、のりこさんに見せたこの通り。


同じ道なのだけど、右側が裕福層が暮らす町で、左側が庶民(我々も含めて)が暮らす町なので、舗装がきっぱり違う。
税金もだから右側の家に暮らす人たちの方が高い。

はっきりしてるっていうか、はっきりし過ぎているっていうか、いつ通っても笑えてくる。


のりこさんと直に話せたのがとても久しぶりだったので、山のように積もっていた言葉をどこから抜き出していいのかわからないぐらいだった。
のりこさんは、在米の沖縄県系の人たちが、どういう行動に出たらいいかを模索し、話し合い、実行に移そうとしていることを教えてくれた。
インターネットを使って、全米に散らばっている人たちと話し合えることが素晴らしいし、それぞれ個々に行動する気持ちの強さもすごい。
こちらで暮らしているのだから、こちらの政治家に圧力をかけて、アメリカ国内での啓蒙に励もうとしている。

どんなに嫌だと言ってもやめてくださいと願っても、自分たちが暮らしている場所が米軍基地を増やすために破壊されるってことを、日本全土に課して初めて、沖縄が日本の県になる。

沖縄の人たちは、基地の全面撤去を望んでいるのではなくて、本土との分かち合いを求めている。
そのことがなかなか伝わらなくてとても歯がゆいと、のりこさんは言う。
のりこさん自身、自らの意思で沖縄から離れた。
まずは東京に出て、基地の無い暮らしに初めて接して心底驚いた。
基地のことが嫌で嫌で、けれどもそれでもその土地から離れられない人もいる。
沖縄といっても、そこには一人一人、人の数だけ違う考え方感じ方がある。
もちろん沖縄以外のところに暮らしている人たちにも、その人の数だけ違う考え方感じ方がある。
だから伝えていくことが大事なんだな。
日本中で米軍基地を受け入れよう。
そうなったらどうする?
そうなったらどう思う?

米軍基地も原子力発電所も、押し付けられてきた地域の人たちの命や暮らし、そして声を無視してきたわたしたちの生き方が、増やした物事だ。
どちらも政治家や大手土建会社に莫大なお金が流れ、その費用や何か起こった時の後始末代は、国民の税金や電気代に溶かし込んで賄われている。
政治家は痛くも痒くもないし、土建会社は儲かる一方。
建てられた土地は未来永劫ひどく汚染され、病気や事故が発生しても誰も責任を取ろうとしない。

はっきり言ってクソみたいな社会だけど、それでもやっぱりどんなに時間がかかっても、やるべきことをやり、伝えるべきことを伝えていくしかない。
どんなに地味でも、結果が目に見えなくても、行動して伝えていくしかないんだね。

二人が帰った後からずっと、そして今も考えている。
日本に『ろうそく革命』が起きて、悪党を政治の世界から追い出せるのは、まだもう少し先のことなのかもしれない。
けれども希望は持ち続けたい。
もうすぐ春が来る。
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ニシダ飴❤️

2018年11月13日 | 友達とわたし
『パパママぼくの脱原発ウォーク』、そしてもう7年以上も続いている、それも毎月でも毎年でもなくて、毎週金曜日の夜になると集まってくるあきらめない人々の、抗議活動の場となる官邸前の『希望のエリア』。

そのどちらもの主催者として、本業の整体師の仕事も超忙しいというのに、ずーっとずーっとがんばってる二朗さんが、こんなん送ってくれました。

じゃ〜ん♪
ニシダ飴♪
ほんでもって肌触り満点であったかそうなマフラー♪


このニシダ飴、ちょっと前から、二朗さんがすごくオススメだと言っていて、



画面の飴ちゃんを眺めながら、よっし、次回の帰省の際は、絶対にココに行くぞ!と密かに企んでたら…、

いきなり二朗さんが、
「まうみちゃん、ニシダ飴ほしい?」とメッセージが。

え?え?え?
なんでわかったん?
なんで今、飴ちゃん見ながらうっとりしてたんわかったん?

「欲しいけど、欲しいって言うたらきっと、二朗さんのことやから、面倒な箱詰めして送ってくれたりするやろし…ゴニョゴニョゴニョ」

「え〜い、欲しいのか欲しないのかはっきりせいっ!」

「欲しぃ〜〜〜!」

「よっしゃ、送ったるから待っとけ!」(二朗さんはもうちょっと上品な物言いをされます)

というわけで、遠路はるばる、埼玉県熊谷市のお店から二朗さんちに、そして二朗さんちからうちに、旅をしてきてくれたニシダ飴のいちご味とサイダー味の飴ちゃんは、
今、わたしの口の中で、レロレロレロレロ、あっちに行ったりこっちに来たりして、少しずつ小さくなっていくのです。
評判通り、密度が濃いというか、まろやかというか、ほどよい甘酸っぱさが心地よい、そしてなかなか小さくならない、マジで美味しい飴ちゃんです。

ありがと〜二朗さん!


おまけ

ニシダ飴さんの情報です。









http://brand.cci-saitama.or.jp/kumagaya/shop_kumagaya_243/

昔から伝えられてきた、そのままの方法で作られている「ニシダ飴」。
店舗にはた~くさんの飴が陳列されています。

必ずお気に入りの飴が見つかると思いますよ!

飴以外にも「ニシダが最中」「五家宝」「熊谷石畳(生チョコ)」などの和スイーツが並びます。

バレンタイン限定品、クリスマス限定品なども見逃せません。
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戦争の無い世界をつくる使命を授けられた人、「おてんてん」な笹森恵(しげ)子さんとの再会

2018年11月04日 | 友達とわたし
ばばちゃんとまた会えました!
ばばちゃんの名前は笹森恵子(しげこ)さん。
13歳のとき、広島の爆心地で被曝した人です。



前回お会いしたのは2016年。
New Jersey Peace Actionが、平和賞を恵子さんに授与するということで、彼女がニュージャージーに招待されたのでした。
このNew Jersey Peace Actionのオフィスは、うちから歩いて数分のところにあるのですが、前身の設立者の一人が、恵子さんの養父、Norman Cousins氏なのでした。
そのNJPAに、イングルウッド高校から、恵子さんの講演の依頼があり、カリフォルニアのご自宅からやって来られた彼女を、拙宅でお迎えさせてもらいました。
恵子さんのお世話と通訳を、友人の歩美さんが引き受けていたことから、この素晴らしい出会いを授かったのですが、
あれから2年半近く経った今、恵子さんは86歳、
なのに、「この後またすぐに日本に行くの。だから今年は5回も日本に行ったことになるのよ」なんてことをサラリと言うスーパーウーマンっぷりは健在で、
「でもばばちゃん、お願いだから無茶はしないで」と、思わず肩を抱いてお願いしてしまうわたしはやはり、凡人だということなのでしょうね…。

今回の講演は、ペンシルバニアのエリザベスタウン大学で教えておられる高橋先生からの依頼で行われました。
なので今回は世話役ではなく、聴講する人たちの一人として行く歩美さんから、「一緒に聞きに行きませんか?」と誘ってもらい、もちろん!と即答。
夫と歩美さん、そしてわたしの3人で、一路ペンシルバニアに向かいました。

雨が多かったのであまり美しくないと言われている今年の紅葉ですが、高速道路の両側に次から次へと現れてくる樹木は、わたしたちの目を十分楽しませてくれました。










場所の特定が難しくて、マップでは無理と諦めて、構内にいる学生さんたちに手当たり次第に尋ねながらやっと到着。


ばばちゃんだ!


近寄っていくと、あ〜!と満面の笑顔を見せてくれたばばちゃん。
「一番前の席に座りなさいよ」と言ってもらったのだけど、大学から15分ぐらいの所に住んでいる夫の両親も一緒に聴講するので、5列ほど後ろの席に座りました。

いよいよ講演が始まります。
日本語の通訳は高橋先生が、そして英語の通訳は(多分)大学の学生さんが担当です。




ばばちゃんのお話が始まりました。
「英語はブロークンだし、いろいろ脱線するけれども、まあおばあちゃんトークだと思って聞いてください」と言って場内をわかせる恵子さん。




子どもの頃、楽しかったことは?という質問(これは前もって高橋先生が用意しておいたもので、ハプニングが起こらないための対策だったようです)に、
毎週土曜日の夜は、映画館に行って(といっても当時はニュースしか流さない映画館が多かったそうです)、ポパイとベティのマンガを見るのが楽しみだったこと、
その後、洋食屋さんに行って、牛タンシチューやオムレツを食べさせてもらうことが楽しみだったことを話すのと、先に歩美さんとわたしに教えてくれてた恵子さん。
「タンシチューってのが子どもだったから言えなくて、いつもタンチュータンチューって言ってたの」
と言う恵子さんに、
「でもばばちゃん、あの時代にタンシチューを毎週食べてるようなご家庭って、そんなになかったんじゃないの?」とわたしたちは聞いたんですが…。

これがその映像。


原爆が投下される前の、広島の街並み。


同じく原爆が投下される前の「広島県物産陳列館」(原爆ドーム)。それはそれは美しい建物だったそうです。


赤い点は、ばばちゃんが立っていた地点。その右上の緑の点は、被爆したばばちゃんが逃げた場所。左下の青い点は、ばばちゃんの家。


原爆投下後の広島。


恵子さんの養父ノーマン・カズンズ氏と、谷本牧師。


原爆乙女(ヒロシマメイデン)の25人。


恵子さんの手術の軌跡。






みんな真剣に、時には笑い、時には眉間にしわを寄せ、時には涙を流し、恵子さんの話に聞き入っていました。


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少し長くなりますが、2016年の恵子さんとの出会いを書いた記事を、もう一度ここに載せておきます。
恵子さんの養父ノーマンさんのこと、そして恵子さんご自身のことを、詳しく書いてありますので、ぜひ読んでください。


夫とわたしがワシントンD.C.から戻った日曜の夜、彼女と歩美ちゃんは台所にいて、お茶を飲みながらくつろいでいた。
小柄な彼女は、椅子から立ってもちっちゃくて、そのちっちゃい体をペコンと折って、「おじゃましてます」と微笑んだ。
その可愛らしいこと。
わたしはいっぺんに好きになって、ばばちゃん(彼女のあだ名)大好き!と、心の中で叫んでいた。
彼女の名前は、笹森恵子さん。
恵子と書いてしげこと読む。
今年84歳になる彼女は、13歳の夏、真っ青に晴れた空を、銀色の光をキラキラ輝かせて飛ぶ『Bちゃん』から落とされた、世にも恐ろしい破壊力を持つ爆弾の、爆心地に立っていた。

歩美ちゃんから彼女のことを聞いた時、わたしはいつもの早とちりをして、日本からこちらにいらっしゃったのだと思い込んでいた。
でもそうではなくて、彼女はカリフォルニアに暮らしながら、世界平和の実現を使命に持ち、広島での体験を各地で語り続ける人なのだった。
彼女と出会った日曜日の夜から水曜日の朝までのことを、わたしはきっと一生忘れないし、これからもまた、もっと一緒に時間を過ごしたいと思っている。


原爆というものが、そしてそのような化け物を作ろうと考えた軍隊というものが、そしてその人殺しを実行するのが当たり前という狂った認識が正しいとされる戦争というものが、わたしは憎くて憎くてたまらなかった。
まだ漢字がそれほど読めないぐらいの頃から、図書館に行っては、原爆についての本を読んだり見たりしていた。
読んでいるうちに、文字や写真がぼやけてきて、涙をポトポトとページの上に落としているのに気づいて、慌てて拭いたりした。
それはそれはたくさんの本を読んだつもりでいたけれど、しげ子さんのような経験をした、25人の女性のことを、わたしは全く知らずにいた。
『原爆乙女』と、しげ子さんたちは呼ばれていた。
こちらでは『HIROSHIMA MAIDEN』
しげ子さんは、「この『原爆乙女』という呼び名が嫌いだった」と言った。
わたしも嫌いだ。

話しても話しても尽きることのなかった話を、自分の頭の中で整理して、なんとかまとめようと思うのだけど、気持ちが絡み付いてしまってうまくできない。
けれども、ばばちゃんを空港で見送った後、彼女のことをもっと深く知りたくなって、自分で読んだたくさんの記事の中に、話したことが散りばめられていたので、その中から数件、ここに紹介させてもらう。

↓転載はじめ

記憶1 笹森 恵子さん
被爆した10年後、手術のため渡米。
平和のため使命を持って、広島の体験を語る。

【戦争の記憶・Memories of War2015.9.25
http://memories-of-war.com/m1-shigeko-sasamori/


笹森 恵子さん
ささもり・しげこ/1932年6月16日広島生まれ。
アメリカ・カリフォルニア州在住

1945年8月6日、13歳で被爆した笹森恵子さん。
真っ青な空に、銀色の飛行機が、キラキラと輝き、白いものが落ちてきた…。
その瞬間のことは、鮮明に覚えているという。
大火傷を負った恵子さんだが、両親の献身的な看護で、なんとか回復することができた。

10年経って、ケロイドの手術のために、アメリカに渡ることとなり、その後、アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんの養女に。
「それもこれも神様の思し召し」という恵子さんの体験と、平和への想いを聞いた。

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銀色の飛行機から白いものが落ちるのを見た

──恵子さんは広島ご出身ですね。1945年8月6日は、どこで何をされていましたか?

当時、私は女学校一年生で、13歳でした。
その頃すでに、東京や大阪には、傷痍爆弾が落ちていて、大火事でたくさんの方が亡くなっていました。
私がいた広島にも、B29はしょっちゅう来ていました。
でも、爆弾はまだ落とされたことはなかったので、B29が見えても、慣れてしまっていましたね。

当時、「建物疎開」といって、爆弾が落ちたときに逃げやすいように、建物を壊して間引いていたんですね。
若い男たちは兵隊にとられていますから、建物を壊すのは年寄りや女性です。
瓦礫の片付けをするのは、中学1、2年生でした。

その日は、私たちの学校が、はじめての作業に当たっていました。
朝8時に集合し、これから作業にあたろうというときに、飛行機の音がして、私は空を見上げました。
雲ひとつない、真っ青なきれいな空でした。
銀色にキラキラ光る飛行機が、白い飛行機雲を出しながら、飛んでいます。
私は、近くにいたクラスメイトに、「見てごらん、きれいよ」と言って、空を指さしました。
その瞬間、白いものが落ちるのが見えました。
あとから聞いたら、爆弾がついた落下傘だったのです。
ものすごい爆風が起こりました。
そして私は倒されました。

私がいた場所は、爆弾が落ちた中心地から、1.5㎞以内にありました。
今で言うと平塚町です。




──その瞬間は、爆弾が落ちたということもわからず、怖いとか痛いといった感覚もなかったのでしょうか。

ええ。
だから、中心地にいた人たちは、一瞬のうちに丸焦げで、熱いも痛いもなかったんじゃないかと思います。

私の姉は、「太陽が地球に落ちたのかと思った」と言っていました。
姉たち上級生は、軍の仕事をするため、海田にある工場にいました。
大きな音がして、何事かと思って建物から出て見たら、大きな火の玉が沈んでいくのが見えたと。


──僕たちはいわゆる「きのこ雲」をイメージしますが…。

雲が見えるのは、最後なんじゃないかしら。
火の玉が見える前に、私は飛ばされたわけですが、火の玉のあとに雲ができるんだと思います。
雲の前に、赤い火柱を見たという人もいます。

私は、長い時間、気を失っていました。
意識が戻ってから周りを見たら、真っ黒でした。
暗いのではなくて、黒いのです。
大火傷を負っていたのに、何も感じませんでしたね。
真っ黒の中にしばらく座っていたら、霧が出てきたように、少しずつ明るく、グレーになってきました。
ああ、きっと、近くに傷痍爆弾が落ちたんだ、と思いました。

「爆弾が落ちたときは、大人について行け」と言われていましたから、とにかく、近くを歩いている大人について行こう、と思いました。
着ているものがボロボロだったり、足を怪我していたり、火傷で皮膚がめくれ、ピンク色になっている人たちが、歩いていました。
川のほうへ向かっていたんです。

川べりまで来ると、たくさんの人が集まっていました。
川の中にも、人が大勢入っていたので、水が見えないくらいでした。

「ぎゃーん」
ふと、赤ちゃんの泣き声が聞こえました。
ーまうみ注ー
この母子とも焼けただれていた。
母親はそれでも、なんとかして赤ん坊にお乳をあげようとしていたのだそうだ。
しげ子さんの耳には、その赤ん坊の泣き声が、今もはっきりと残っている。


周囲のざわめきも聞こえてきました。
それまでは無感覚で、何も聞こえなかったんです。
音が聞こえるようになっても、自分の火傷には気づきませんでした。
体の4分の1が、焼けていたんですけどね。

橋を渡って、避難所になっている小学校へ行きました。
大きな木の下に座ったら、そのまま倒れてしまったようです。
いつの間にか、講堂に運ばれ、私はそこに5日間いました。

目が開かなくて、昼も夜もわからないのですが、とにかく、
「千田町一丁目の新本恵子です。お水ください。両親に伝えてください」と叫びました。
だんだん、声を出すのもしんどくなってきます。
あともう1回だけ、もう1回だけ叫ぼう。
そうしたら、誰かが聞いてくれるに違いない。
そう思いながら、声を出していたことを覚えています。

結局、お水はもらえませんでした。
それで良かったんです。
大火傷を負っている人に、お水をあげてはいけないそうですね。
お水を飲んで、「ああ、美味しい」と言って死んだ人が、たくさんいるそうです。

母は、焼け跡に毎日通い、私の名前を呼んで、探していたそうです。
火傷をした人の収容所があると聞けば、そこまで歩いていって探しました。
似島へも、船で行きました。
でも、見つからなくて、また帰ってくるんです。


「炭団」のような私を、母が見つけてくれた



私たちは家が二つあって、「夏の家」と呼んでいたほうの家は、川沿いの魚市場の近くにありました。
そちらの家は、たまたま魚市場の陰になって、爆風でも倒れませんでした。
当時、母は、ここにいたんです。
家の中で飛ばされ、起き上がってから外を見てみたら、周りの家がぺたんこにつぶれていたそうです。

そこから、普段、私たちが暮らしていたほうの家の、二階ベランダ部分が見えました。
それで、母は、ぺたんこになった家々の屋根を歩いて、行ってみました。
でも、やはり潰れていて、どうすることもできません。
隣の家の人の声が聞こえますが、どこにいるのかわかりません。
瓦礫をどかしてもどかしても、人らしき姿は見えません。
そうこうしているうちに、あちこちから火の手があがり、母のいる場所にも火が近づいてきました。

「ごめんねぇ。どこにいるかわからないの」

お隣さんを助けることができないまま、母は、その場を去らざるをえませんでした。

父は、その時ちょうど、外にいました。
前の日に釣りに行ったので、ご近所のおじいさんたちのところに、魚を持って行っていたのです。
そして、私と同じように、飛行機から、白いものが落ちるのを見たそうです。

「爆弾落ちたから、逃げえ!」

おじいさんたちにそう叫んで走り、魚市場にある、大きなセメントの冷蔵庫へ、すべりこみました。
爆音が消えてから、外の様子を見てみたら、さっきまで一緒にいたおじいさんたちは、座った格好のまま、皮膚が真っ赤に焼けただれていたそうです。

一瞬遅かったら、父もそうだったのでしょう。

両親と家が無事だったおかげで、私は良くなることができました。
家で、両親が、治療してくれたんですから。
薬もないし、病院はいっぱいだし、私は、食用油で治療してもらったんです。


──想像もつかないような体験をされたんですね。

想像できないでしょう?
元気になってから、自分がどのような状態だったのか、母に質問したんですが、いつも「今度ね」、と言われていました。
年をとってから、ようやく教えてくれたんです。
だからいま、こうしてお話ができるわけ。

避難所の講堂は真っ暗で、母は、ロウソクを1本持って、「しげこ~しげこ~」と、名前を呼びながら探したそうです。
そうしたら、蚊の鳴くような声で、「ここよ~」と言ったと。
ハっと声の主を見ても、それが本当に娘なのかどうかわかりません。
「炭団(たどん 炭を丸めた燃料。黒く丸く、ざらざらしている)のようだった」、と言っていました。
私の顔は、黒く腫れ上がっていて、目も鼻もわからなかったんですね。
もちろん、髪も焼けてしまっていました。
でも、おかっぱにしていた髪の毛のおかげで、額の上半分と頭の部分、耳のあたりの皮膚は、焼けていませんでした。

父は、黒く焼けてしまった皮膚を、はいでくれました。
母は、とにかく、私の目・鼻・口を開けようと、食用油と布を使って、私の顔を拭いてくれました。
膿がどんどん出てくるので、洗い流す必要があるんです。
本当に、つきっきりで看病してくれました。


──目が開けられるようになったり、食事できるようになるのに、どのくらいかかったのでしょうか。

はっきりとは覚えていません。
新円切替(1946年2月16日に幣原内閣が発表した戦後インフレ対策)の前だった、と思います。

私が寝ていると、近所の学友のお母さんが来て、私の母と話しているのが、聞こえたことがあります。

「恵子ちゃんは、本当に良かったねぇ。
私の娘は、半分瓦礫の下敷きになってしまって、一所懸命引っ張り出そうとしても、ダメだったの。
だんだん火がまわってくるでしょう?
『お母さん、早く逃げて。お母さんがいなかったら、下の子たちはどうなるの』って言うの」

生きたまま別れなくてはならなかったなんて、どんなに辛い気持ちだったでしょうね。

他にも、地獄のような広島の町の様子を聞きました。
町には死体がゴロゴロと転がっていて、兵隊さんたちがそれを、ゴミでも拾うかのように拾って、焼き場へ持って行くんだそうです。
真っ黒になるほど蝿がたかって、ウジもわいていて。


──そういったお話を聞いたときの恵子さんの心境は、どのようなものでしたか。

戦争ですから、人が死ぬということ自体は、わかっていたわけです。
それで、最初は、「広島にも、そんなにたくさんの爆弾が落とされたのか」と思っていました。
次第に、みんなが、「ピカドン」と言っているのを聞くようになりました。
たくさんの爆弾ではなくて、一つの大きな爆弾だったんですね。
「そんなに大きな爆弾があったのか」と、驚きました。
また落とされるかもしれない、と怖い気持ちがありました。

私は、終戦のときのラジオ放送は聞きませんでしたが、家族や近所の人がうちに集まって、話しているのを聞きました。
日本は負けた、と。
でも、終戦になる前から、そういうムードはあったと思います。
だって、食べるものもないし、家にあるものは指輪でも鍋でも、軍に差し出さなければならなかったくらいですから。

「こんなものまで出させて…。この戦争は負けるでぇ」

そうやって、大人たちが、陰で言っているのを聞きました。


──今考えると軍部はおかしかったなど、いろいろな考えがあると思うのですが、当時はどうだったのでしょうか。

当時、天皇は神様でしたよ。
神様だから、直接見てはいけない、と言われていたのです。

とにかく私は、戦争が終わったことが嬉しかったです。
戦後、広島には、外国から、食べ物や着るものが送られ、建物も建つようになり、人様のおかげで復興していきました。
その頃になるとまた、「戦争がなければ、みんな友達になれたのに。どんなにか幸せだったのに」と、強く感じるようになりました。
年を経るにつれ、戦争の悪を自覚します。
だからこうして、聞いてくださる方がいるところへ行っては、戦争の話をしています。

いま、憲法を変える、という話もありますよね。
私は「なんで?」って、すごく驚きました。
戦争が起こる可能性のある方向へは、進んでほしくないです。


原発と日本人の品格

──こうしてお話を伺っていると、リアルな「戦争」のことを知らないのは、本当に怖いと感じます。
恵子さんの凄まじい体験をお聞きして、ようやく少し知ることができていますが、知らない人も多いと思います。


生まれる前にあったことは、どうしてもぴんと来ないんですよ。
私も、明治維新や関東大震災のことを、映画で見たりして、「ああ、そういうことがあったんだ」とは思いますけど、ぴんと来ないですもの。

先日、若い人たちと話をしていて、原子力発電所のことが話題に出ました。
原発は廃止したほうがいいか、続けたほうがいいか、みんな手を挙げたんですね。
一人の青年は、どっちがいいのかわからない、と言いました。
私は、
「あなたの気持ちはよくわかる。
私の体験談を聞いても、『そういうことがあったのか』とは思うけど、ぴんと来ないわよね。
生まれる前の話だもの。
でも、これからの未来のために考えるのよ。
積極的に、現状はどうなのか研究して、それで意見を決めてごらん」と伝えました。

私は、原発に反対です。
理由は、いまだに放射能が出ているから。
放射能を浴びて、ガンになって、死んでいった人は多いんです。
私の父も母も、放射能で亡くなりました。
すぐに火傷で死ななくても、遅かれ早かれ不調が出るんですよ。
原子力じゃなくたって、電気は作れるはずです。

これだけ技術は発達しているのだし、もっと日本の科学者が、新しいエネルギーの研究に力を入れれば、原子炉なんて要らないと思います。

一人の技術者の方が、こう言いました。
「原発は、廃止できるに越したことはないと思うけど、いまは技術が発達して、絶対に壊れないようなものが作れるから、全部なくす必要はない」

「それなら、福島にある原子炉は、修理できないんですか?放射能が漏れているのは、どうにかなりませんか」

私が尋ねると、
「私は、作るほうの技術者なので、直すことについてはよくわかりません」ということでした。
まずは、止めなければいけない、と思うんですけどね。

いま、世界から見て、日本は人気がすごく落ちています。
そういうデータを見たことがありますし、私の実感としてもそうです。

「絶対に戦争をしない。核兵器を持たない。原発はすべて止める。」

そう宣言して立ち上がったら、元の日本のように、尊敬されると思います。
原発は、今日明日止めるのは無理でしょう。
でも、少しずつなくしていくのです。


手術のためにアメリカへ。そして看護士に

──恵子さんは、顔のケロイドの手術のために、アメリカに渡られたそうですが、それは何歳の頃ですか。

被爆の10年後で、23歳の頃です。
1年ちょっといました。

──アメリカで寄付が集まり、25名の方が、一緒に行ったそうですね。
(アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんが、ケロイドを負った若い被爆女性のための、寄付金プロジェクトを発足。
ノーマン・カズンズさんはのちに、恵子さんの養父となる)
原爆を落とした国に行くことについては、複雑な気持ちではありませんでしたか。




当時私は、流川教会の谷本清先生を囲んで行なわれていた、「聖書の会」に行っていました。
谷本先生が、日本に来ていたノーマン・カズンズに、「この子たちの手術はなんとかならないだろうか」と、言ってくださったんじゃないでしょうか。

アメリカに戻ってから2年かけて、お金を集めたそうです。
あるとき牧師さんに言われて、私もみんなと一緒に、市民病院に行ったんです。
そこに、ノーマン・カズンズとお医者さん、看護士さんが来ていて、問診を受けました。
手術をして機能が回復する、アメリカに渡る元気がある、等の条件を満たした人が、対象に選ばれたようです。

問診の際に、「アメリカに行きたいか」と聞かれたのですが、私はきっと行かないだろう、と思っていました。
すでに、東京大学の附属病院で、何度も手術をしていましたから。
アメリカに行くと言われても、ぴんと来なかったです。
全然期待していませんでした。
でも、選んでもらってアメリカに行った。
これも、神の摂理だと思います。

「なぜ私が大火傷を負ったのか」と考えたとき、「神の証」なのではないか、と思いました。

神は、人間が幸せになることを望んでいます。
戦争なんてしちゃいけないの。
でも、それを伝える術がないでしょう?
だから、私たちは、それを伝える使命を負ったのです。
私の火傷の痕、傷を見れば、単に言葉で伝えるよりも、感じるものがありますよね。
ああ、そのために私は、こんな火傷を負ったんだ、と思いました。
アメリカに渡ったこともそうです。
私の人生はすべて、神の摂理なのです。


──そのように思えるようになったきっかけはあるのでしょうか。

もともと、私の家は、仏教を信仰していました。
おばあちゃん子だったので、おばあちゃんについて、お寺によく行っていました。

被爆後、歩けるようになって、友達の家に行く道すがら、きれいな音楽が流れてきたので、近寄ってみたんです。
それが、キリスト教の教会でした。
讃美歌を歌っていたんですね。
「どうぞお入りください」と言われて中に入り、後ろのほうに座って、牧師さんのお話を聞きました。
意味はよくわからなくても、とにかく居心地が良かったです。
それから毎週日曜日に、教会に通うようになりました。

谷本先生が、「あなたのような状態の人を、他にも知りませんか」とおっしゃったので、私と同じように火傷を負っている、女学生たちを集めました。
そして、週に1回、「聖書の会」を開くようになったのです。

私は、子供の頃から、看護士になりたいと思っていました。
東大病院で手術を受けるたびに、その思いを強くしていました。
アメリカで手術をし、帰国する直前に、将来のことを聞かれたとき、日本に帰ったら、看護士になるつもりだと答えました。
そうしたら、「ここでやってみないか」と言われたんです。
すぐには決められなくて、両親に相談しました。
父は、
「お前といつまでも一緒にいられるわけじゃない。だから、自分で決めなさい」と言いました。

アメリカでは本当に良くしてもらったので、またみんなに会えるという喜びで、それほど深く考えずに、また渡米することになったんです。
飛行機の手配等は、みんなノーマン・カズンズがやってくれました。
私は、ノーマン家の養女になったから、アメリカで学ぶことができたんです。


──最後に、これをお聴きの方にメッセージをいただけますか。

愛の心、思いやりの心を育てることが、大切だと思います。
そうすれば、自然に、戦争反対の気持ちも生まれるでしょう。
この世で一番大事にしなければならないのは、命です。
命を大切に、頑張って生きていきましょうね。(了)
(インタビュー/早川洋平 文/小川晶子 写真/河合豊彦)



米国で伝える
一人の命の大切さ
笹森 恵子さん(在米被爆者)

【ピースデポ】

http://www.peacedepot.org/essay/interview/interview31.htm

被爆後、しばらくの記憶は、断片的です。
目が腫れて開かず、あまりのことで、痛みも感じませんでした。
私は、ぞろぞろと歩く人々の後を付いて行き、段原国民学校(現在の段原小学校:広島市南区)までたどり着き、木の下に倒れ込み、そこで気を失いました。
次に私の意識が戻ったのは、千田町の自宅でした。
顔が全部、真っ黒に焼けただれ、前も後もわからない状態だったそうです。
まず父が、ちりちりに焼けていた髪を切り、顔の皮膚を剥いだところ、その下は、膿で真っ黄色だったそうです。
母は、「はよう口を開けなくちゃ」と必死になって、布に食用油を塗り、膿を取りました。
8月のものすごい暑い中、それが5日間続いたのです。

母は、この話を、被爆後何年も経ってから、私が何度も訊くので、ようやく話してくれました。
当時、私は、泣きわめく力さえなく、いつ死ぬのかと、とても不安だったとのことです。
だいぶ良くなってから、皮膚にひっついたガーゼを剥ぐ時に、痛かった記憶はありますが、それまでは、痛みもまるで感じないような状態が続きました。
私が今生きているということは、今後大変な世の中になるから、その時のために生きろと、神様が生かしたのかなと思います。

みんな、核の恐ろしさを、頭ではわかっていても、心まで理解できている人はどれだけいるのか、と考えます。
心に応えていたら、平和運動などにも一生懸命になりますよね。

私がいつも話すのは、「命の大切さ」についてです。
自分の身内が戦争に行って、犬死にすることを考えると、本当に命がもったいない。
「何十万人亡くなった」、という数字は大事だけれど、数字だけでは私も忘れてしまうと思います。

「一人の命が大事」、という思いが強いです。

一人ひとりを動かす、という力は大切なのです。
あるアメリカの人とお話をした時のことですが、彼には13歳の娘がいるということで、
「私は、同い年の時に被爆したんだ」と話したら、彼は震え出し、涙を流し出しました。
自分の娘のことを思っての反応です。
みんながそういう風に感じてくれれば、良い方向に変わっていくと思います。

私の経験は、大変でなかったと言えば嘘になるけれど、あのとき両親は、大火傷を負った私を治療しながら、
毎日いつ死ぬかもわからず、治った後も元には戻らない状況で、その心の痛さは、私どころではないと思います。
私は、若い人たちに、
「あなたがお父さん、お母さんになったときに、自分の娘がそんな状態になったらどうする?」、という風に話します。
被爆証言は、たくさんの方がされているし、本もたくさんあります。
だから私は、私が、どういう感じで命の大切さを考えているか、ということを話します。
難しいことを話すよりも、気持ちで伝える方が、届くと思うからです。

アメリカの学校で話をすると、よく、その後に手紙が届きます。
その中には、私の話を聞いて、原爆・核兵器への考え方を変えた人や、
「高校を出たら軍隊に入ろう、と思っていたけどやめた」という反応が、かなりあります。
「家に帰って、お母さんに話をしたら、涙を流した」なども。
そういう知らせを知ると、やっぱり嬉しいですよね。

アメリカの高校には、米軍のリクルーターが入ってきて、子どもたちを軍隊に囲い込もうとするのですが、
私は、
「戦争というのは、いくら大義があろうが、人殺しをすることには変わらず、あなたたちがもし、軍隊に入って戦争に行ったら、罪人になるんだよ。
それだけじゃない、殺されるんだよ」
と話をします。
私にも息子がいますが、その子が生まれた時に、
「この子は、絶対に戦争には行かせない。
この子は、戦争に行って人殺しをするため、また、殺されるために生まれてきたんじゃない」
と思いました。
息子には、
「例えば、もし、赤紙のようなものが来たとしたら、私が先に行くよ」と言いました。
自分が殺されるのなら、それでもいいという気持ちです。
世の中の親は、みんなそう思うはずです。

最近は、大学で、話をする機会が多くあります。
広島市が行っている、全米各地での原爆展に、私も行って、様々な州で、学生さんに話をしてきました。
みなさん、とても真摯に受け止めてくださり、私も、とても良いフィードバックをもらっています。
私が行く所は、事前学習をしっかりしていることもあり、行くとすでに受け入れ態勢ができていることが多いのですが、
私は、核兵器の問題に関心がなく、賛成・反対どちらでもない、道端を歩いているような人たちにも、話を聞いてもらいたい、動いてもらいたいと思います。

オバマさんの、「核兵器のない世界」は、彼が本気で思っているから言われたのだと思いますが、
これがオバマさん一人だったら、やっぱり消えていくと思います。
目的を果たせるよう、私たちみんなが、支えなくてはいけません。
私は、学校に行ったときにも、いつも言います。
誰だって、一人の力ではできない。
私たちがやらなくちゃいけない。
私もそのためにも頑張ります。
(談。まとめ、写真:塚田晋一郎)


↑以上、転載おわり



ばばちゃんが、うちから30分ほど車で行った町の私立高校で、講演したときの様子。
前日の日曜日に、講演やインタビューで6時間、休み無しで話し続け、戻ってきたわたしたちとまた話に花を咲かせていたばばちゃんは、
さすがに疲れが出ていたのか、真っ直ぐに歩けない状態で、おまけに耳鳴りがひどくて、自分の声も変に聞こえると言っていた。
けれども、いざ壇上に立つとこの通り。








高校生たちも身じろぎもせず、真剣に話を聞いている。


泣いたり笑ったりの30分。しげ子さんの言葉は、彼らの心に、どんなふうに届いたのだろうか。


(生徒たちからの質問)
ー手術のためとはいえ、アメリカに来ることに抵抗は無かったか。
ーアメリカに対してどう感じたか。
ー世界の核問題についてどう思うか。


(恵子さんの答え)
手術が受けられて、それで自分が良くなると信じていたので、場所はあまり関係が無かった。
・アメリカという国のせいで、アメリカ人のせいで、わたしはこんな酷い傷を負ったと、そんなふうに考えたことは無かった。
これは戦争のせい。
戦争は人を殺し、傷つける。
だから、人間は、戦争など起こしてはいけないの。
・アメリカに降り立ち、暮らし始めるうちに、日本はどうして、こんな豊かで広大な国と、勝てるはずの無い戦争をしてしまったのだろうかと思った。
・核と人類は、共に生きていくことなどできない。
だからわたしは、あなた方のような若い人たちにお願いしたい。
今は、わたしの話を聞いて、頭の中がこんがらがっているかもしれない。
意味があまり分からないかもしれない。
それでもいいから、時間をかけて、よくよく自分で考えて。
自分たちの、そして自分たちの子どもの未来に、平和が存在しているか否かは、わたしたち一人一人の平和への強い意思が必要なのだから。
・オバマ氏が今度、伊勢志摩サミットで訪日する際に、もしかしたら広島を訪問するかもしれないと言われている。
「わたしはその頃、ちょうど広島に居るので、ちっちゃい体を活かし、こっそり近づいてって、
『オバマさん、核兵器の無い世界を実現してください!実現すると言うまでこの手を離しません!』と捕まえる」
と言って、周りを大笑いさせていた。


******* ******* ******* *******

ああ、あの時はオバマ大統領だったんだなあ…と、ため息をつきながら読み直しました。

恵子さんは今回もまた、

戦争の愚かさ、酷さを説き、会場のわたしたちに、特に若い人たちに、時間をかけて、自分の頭でよく考えて、
自分たちのために、そして自分たちの子どもの未来のために、平和を求め、戦争の無い世界を作ろうという気持ちを持って欲しい。
誰だって、一人の力ではできない。
だから私たちがやらなくちゃいけない。
そう思って欲しい。
私もそのために頑張りますよ。

と、何度も何度も繰り返し訴えていました。

そしてその話の中に、「この会場には、それをずっと実践して活動している素晴らしい女性がいます」と言って、恵子さんは歩美さんを紹介しました。
歩美さんは、本当にたくさんの平和実践活動をしている人ですが、恵子さんはその中の「劣化ウランで増えたイラク小児ガン患者を支援する活動」を紹介してくれました。
平和活動を通じて深くつながる二人の、互いを尊敬し合う姿に、会場からも大きな拍手が起きました。

そしてもう一つ、質問に立った米国人男性が、声を詰まらせながら、アメリカ人として謝りたい、こんなひどいことをしたことを恥じると恵子さんに言ったとき、
恵子さんは、
「原爆はあなたが落としたのでは無い。アメリカが落としたのでも無い。政府や軍隊が落としたのです。戦争が落としたのです」
「だからあなたに謝って欲しいなんて全く思っていません。もう起こってしまったことは仕方がない。その今の気持ちを未来の、戦争の無い世界を作る原動力にしてください」と訴えました。

あの過ち…。
あれよあれよという間に戦争に突き進んでいってしまうときの社会に、どれほどの過ちが存在していたか。
報道に、会社に、家庭に、抗いようの無い強い作用が働いて、止めようにも止まらない。
その恐ろしさ、おぞましさ。

絶対にもう、あの社会が戻ってくるようなことになってはならない。
そう強く思いました。


会の終わりに、もし近くに住んでいたら大の仲良し家族同士になっていただろうくみさんと、その息子(まだ幼児だった)ジュリエン君に会ってびっくり!!
嬉しいやら懐かしいやら。
よくよく聞くと、くみさんと今回のこの会を主催した高橋先生が学生時代の同窓だったそうな。
It's a small world!!

会の後に一緒に食事できないの?って恵子さんに聞かれて、思いっきり後ろ髪を引かれたのですが、夫の実家で夕食を食べ、その後コンサートに行く予定になっていたので、
今回はすごく残念だけどここでお別れしましょうと、恵子さんにさよならを言って、会場を後にしました。

また来年、東海岸でも西海岸でも、どちらでもいいから会いたいな、ばばちゃん!
くれぐれもお身体を大切に、そしてまだまだ多くの若い人たちに、語りかけていってください!
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「来年の三鷹市市議選挙に立候補する『紫野あすか』ちゃんを応援しに行った!」日本旅行2018・その4

2018年09月27日 | 友達とわたし


わたしがあすかちゃんを見つけたのは、パソコンモニターの画面の中でした。

巨大地震と大津波、そして甚大な原子力発電所の爆発が立て続けに起こった2011年の3月。
どんなに心配しても距離は縮まらず、自然の猛威に命を奪われた人々や町や村、そして動物たちに思いを馳せながら、命拾いをしてもなお、二次災害や被爆の危険に晒されている命を政府がどう守るのか、そのことが知りたくてSNSで情報を集めていました。

日本の新聞を6社、地方新聞を3社、毎日読み続けているうちに、おかしなことに気がつきました。

その昔、10年近く授からなかった赤ちゃんが、突如お腹の中にいてくれることがわかり、しみじみと喜んでいた矢先に、チェルノブイリの原発事故が起こりました。
もともとから環境汚染のことは気になる方だったのに、初めての妊娠に夢心地になっていたわたしは、空気の汚染が気になって、いろんな新聞を読んだり図書館に通ったりしました。
当時はインターネットなどというものは無く、調べたいことは新聞かテレビ、ラジオや図書館に頼らなければなりませんでした。

日本では、当時のロシアの対応が不十分である、といった報道が流れていました。
事故後、何年か経ってからは、様々な不備や失敗が明らかになり、そういった報道を見たり読んだりするたびに、ああ、わたしは日本人で良かった、などと思ったのを覚えています。
一体どうして日本人で良かった、などと思ったのでしょう?
もうその時には、日本の海岸線上に、日本をぐるりと囲むようにして、世にも恐ろしい原子力発電所が何十基も建てられたていたというのに、そんなことは全く知らずにいたのです。
仮に知っていたとしても、日本はきっとロシアのような失態は犯さないはず、いや、そもそも日本の原発は事故を起こさないはず。
だって日本なんだから。
日本でもし、こんなひどい事故が起こったら、絶対にあんなことにはならないだろうし、被災者の人たちをあんなふうに見捨てないはず。
だって日本のテレビも新聞も、遠く離れた国の事故にもかかわらずこんなに徹底的に調査して、検証して、それをわたしたちに知らせるべく報道してくれてるんだから。

なんて能天気で無知な大人だったんでしょう。
そんな思い込みがどれほど幼稚で世間知らずなものだったか。

新聞の報道が妙にズレていると感じてから、ツイッターやフェイスブックのメッセージと読み比べるようになりました。
すると…。
なんでこんなに違うんだ?から、どうして本当のことを言わないんだ?に変わり、これはあかん、自分で調べて覚え書きしていこう。

それが、このブログ記事のカテゴリーに、『日本とわたし』という項目が加わった理由です。

そんな毎日が続き、ツイッターの矢継ぎ早に流れてくる情報のどれもを鵜呑みにせず、一歩引いたところから読むことが大事だと気づいた頃、あすかちゃんのツイートが目に入りました。
もうどんな言葉が書かれていたのか、それすら覚えていません。
わかるのは、まったく見ず知らずの東京在住の女性だということだけ。
でも、なんか惹きつけられたんです。
彼女、子どもを守りたい、命を大切にしたい、親の命も守りたい…そんな気持ちを伝えるデモをやりたいって、呟いていたんです。
その後、彼女のツイートが読めるようにフォローして様子を見ていると、彼女を支えたいという人たちがワラワラと現れてきて、あっという間に(だったかな?)デモをする段取りがつきました。

『パパママぼくの脱原発ウォーク』

わたしはもう嬉しくなって、思い切って彼女にメッセージを送りました。
「遠く離れてるけど、読んでくださっているのは日本人の方がほとんどなので、わたしのブログで紹介させてください。応援したいです!」

それからというもの、女優業で鍛えた張りのある温かな声、パッと開いた花のような笑顔、人に寄り添う優しい心、そしてすんげ〜エネルギーでもって、どんどんファンを増やしていく彼女を、わたしはずっと遠くから見守っていました。
国会前のスピーチエリア『希望のエリア』では、頼りになる二朗さんと一緒に、雨の日も風の日も雪の日も、毎週金曜日の夕方6時(半?)に集まって来てくれる人たちと声を上げるあすかちゃん。
二朗さんとの漫才のような司会、おもしろトーク、参加者も混じっての歌や音楽、そして素晴らしいスピーチ、かっこいいコール、あきらめない人々の集まりを、これまでずっと7年間以上も引っ張ってきたただ者ではない人です。

その彼女が、とうとう、やっとのやっと(毎年会ってはやれやれ!とけしかけてきたので)、政治家になることを決心しました。

幸運にも、東京に滞在している間に、『あすかちゃんを励ますつどい』なるものが開かれるとのこと。
行かいでかぁ〜!!

というわけで、三鷹の会場に行ってまいりました。

ここからは、それはそれは素敵な、いつ見ても気持ちがすぅっとする素晴らしい人物像を撮ってくれるしのぶちゃんの写真と、優しい心がにじみ出るみほこちゃんのコメントをお借りして紹介させていただきます。

明日香さんの楽屋のれん、素敵ですね!


吉良よし子参議院議員と明日香さん。
吉良さんはとても感動的なスピーチをしてくださいました。詳しくは動画を!https://youtu.be/7MtAmDyacio


ちなみに、出産で入院されていた吉良さんを思って投稿したあすかちゃんの言葉はこれです。
この頃、2015年の9月15日は、国会前だけではなく、各地で『戦争法案』を強行採決しようとする安倍政権に、多くの市民が抗議の声を上げていました。

https://m.facebook.com/photo.php?fbid=879049675513652&id=100002258838836&set=a.336190526466239

左から、吉良よし子参議院議員、紫野あすか三鷹市議会議員予定候補、伊藤岳参議院議員埼玉予定候補。
お二人とも明日香さんを応援したくてたまらなくて、励ますつどいに参加してくださいました。


前進座の俳優の方々。
柳生さんと黒河内さんかが参加の予定でしたが、なんと、舞台のお稽古がお休みになったとのことで、先輩の益城さん、同期の浜名さん、えばやしさんがご参加くださり、応援メッセージを下さいました。


前進座の大先輩、村田吉次郎さん。


京都から村上敏明さん。
たくさんの方々の応援メッセージを持って、駆け付けてくださいました。




斎藤まりこ都議と藤田りょうこ都議のスピーチ。


弁護士白神優理子さんの、超〜パワフルな応援メッセージ。


体調を崩され療養中の柏原さんが、元気そうなお姿で、応援に駆けつけてくれました。
渡瀬さんも嬉しそうです。


スタッフのえつこさんのスピーチ。


ラストは決意表明のあと、毎週金曜日、国会前希望のエリアで歌っている「主権在民」を披露しました。
きらさんも「9の輪手拭い」を持って応援!


石原さんも。


希望のエリアの皆さんも「9の輪手拭い」を持って応援!


みんなからの心が詰まった千羽鶴。


最後にスピーチしたのは一人娘のふーちゃん。思いっきりもらい泣きしちゃいましたぞ〜!ほんっとに素敵な親子。


明日香さん決意表明、みんなの心に届く言葉でした。


時間が45分も押してしまって15分で撤収しなければならなかったのですが、皆さんのご協力もあり、10分で片付け。
最後に応援に駆けつけてくれた希望のエリアの皆さんとぱちり。



というわけで、この会ではスピーチを頼まれたわたしも、拙い言葉をつなぎ合わせたものをマイクで拾っていただいたのですが、
なんかもう泣きそうになってしまって、声が裏返らないようにするのが精一杯で、なかなかのトホホなスピーチになってしまいました。

わたしとほぼ同じ時期に、それまでほとんど知らなかった、知ろうとしてこなかったことを知り、愕然としながらも調べたり考えたりし始めたあすかちゃん。
まだ学生だった娘さんの未来を守りたい、どの子どもの未来も守りたい。
なのに国は、政府はどうだ。
守ろうとしないばかりか、まるで棄てるような態度を取り続けている。
じっとしているわけにはいかない。
声を上げて、一人でも多くの人に伝えたい。
それからは、元々からの彼女の意志の強さ、生きものに対する愛の深さを支えに、いろんな中傷や妨害にもへこたれず、ずっと前を向いて行動してきたのです。
だからわたしは、あすかちゃんのことが大好きだし、人としてとても尊敬しています。

紫野あすか、がんばれ〜!!
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初めての和太鼓!!夏の日本旅行・2018(その3)

2018年09月26日 | 友達とわたし
東京滞在4日目の8月24日は、和太鼓のお稽古見学!

フェイスブックで仲良くしていただいている宏さんが、なんと和太鼓の名手で、舞台で演奏しているビデオを見ちゃってからは、わたしも習いたぁ~い病にかかってしまい、
今回会うときに、じゃあ一緒に行ってみましょうか、もしかしたら少しは実際に叩けるかもしれませんよ、などと言ってもらい、嬉しくてフワフワしていたのだ。

いやあ、美しいもの(特に音楽)に触れるとすご〜く涙もろくなる宏さんは、専修大学の教授で、SNSが無い時代だったら絶対に巡り会えないような人なんだけど、
出会ってしまったものは仕方がない(これは宏さんの方の感想だと思う)、お付き合いしていただきましょう(これは図々しいわたし)ということで、待ち合わせの駅まで浮き足立ちながら出かけて行った。

地下鉄の駅に行く際に、いつも通り過ぎる風景。少しは慣れたとはいえ、今日もやっぱり暑い…。


駅からお稽古場である廃校になった小学校まで、宏さんの車に乗っけてもらった。

ドキドキしながら教室に入ると、うわあ、いろんな和太鼓がいっぱい!


先生はとても華奢で素敵な方で、同じく華奢で素敵な女性がお二人と、男性は宏さんと、肩の痛みがなかなか去らずに困っておられる方のお二人。
この男性は笛も吹かれるようで、いろいろと紹介したり教えてくださろうとしたのだけど、お稽古の時間の関係もあって途切れてしまった。

何回も観たユーチューブのビデオとはまた違い(当たり前だ)、みなさんの打つ和太鼓のひびきが、わたしの心を震わせ、魂を揺さぶる。


血が喜んでいるような、だから体の芯から笑いたいような、そんななんとも言えない良い気持ちになって、打ち下ろされるバチ、流れるように上下する腕、支えながらもリズムに乗る足を眺めながら、
日本古来のリズムの間合い、様々な太鼓の音の絡み、思わず息を詰めてしまうような緊迫感、全員のタイミングが完全に合ったときの心地良さなどを、たっぷり感じさせてもらった。

これ↓は、昨年の秋に行われたみなさんの舞台演奏です!
馬簾太鼓(ばれんだいこ) 第35回あさお区民まつり 2017.10.8


ああやっぱりいいわ和太鼓。
ただ聞かせてもらっているだけなのに、すっかり興奮して、汗がにじむやら頬が赤くなるやら。

「やってみますか、一曲?」
「え?」
「いいですよ」
「いや、そ、そんな…」

お遊び程度に、何個かのリズムを叩かせてもらえたら、もうそれだけで大満足と思っていたのに、みなさんと一緒に曲を通しで演奏するだなんて…。
いやあ、それはやっぱり無謀すぎる…などと頭の中は大混乱。
加えて心も大混乱。

そんなこんなでぐずぐずと突っ立ってるだけのわたしに、先生がにっこりとしながらバチを持たせてくださる。
そしてバチの持ち方、打ち方を教えてくださる。
なるほど、ドラムのバチの持ち方と共通しているところがある。
ちょっとだけ不安が収まったのだけど、心臓はドキドキモード全開。

せっかくのお稽古の時間を無駄にしちゃったらどうしよう…。
なんてくよくよしてるくせに、もう一人のわたしはもう、叩きたくて叩きたくて、カニさん歩きで太鼓の前に。

例によって例のごとく、ビデオをここに載せることができないので、切り取り写真を数枚。




音符なんてどこにもない。
口承で説明を受け、親切で優しいメンバーのみなさんに甘えて、うわ〜とパニックになりながら演奏に加わらせてもらった。

ああもう楽しすぎる!気持ち良すぎる!
嬉しすぎて、体がフワフワ浮かんでしまわないように、何度も何度も四股を踏むように重心を下げなければならなかった。

宏さん、夢を叶えてくれてありがとうございました!
厚かましいことは重々承知で、また来年、連れてってくださ〜い!
ごめんなさ〜い!
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お能と土壌とブルーベリーと(夏の日本旅行・その2)

2018年09月24日 | 友達とわたし
農業環境技術研究所 農業環境インベントリーセンター主任研究員 大倉利明さん。
ひょんなことから…なんていう表現はやっぱり間違っている。
利明さんは、いろいろあってすっかり疲弊してしまい、もうこのブログを閉じようと決めかけていたわたしを、コメント欄を通じて励まし、支えてくれた人だから。
一体どういう人なんだろうと思いながら何年か経ち、ある日突然、Facebookのメッセージに、利明さんから連絡が入った。
実は僕でした、と。

その人の経歴を読んでびっくり仰天。
わたしにはまるで想像もつかない世界の、それも世界的権威者であり、農学博士。
どうして…と思いながら、慌ててFacebookのウォールを過去から遡って読ませてもらう。

土や石が子どもの頃からずっと好きだったから、次から次へと載せられている土壌モノリスの写真に魅入った。
一体どうやってこういうものが出来上がるんだろうと、興味がムクムクとわき上がってきた。
もし日本に来るときに時間があったら、案内しますよと言ってくださったので、いやもう、ぜひお願いします!と即答した。

以下は、4年ちょっと前に、利明さんのことが紹介されていた記事。

「土壌」は地球からの預かりもの
【常陽リビング】2014年4月7日
http://www.joyoliving.co.jp/topics/201404/tpc1404001.html

つくば市にある(独)農業環境技術研究所・農業環境インベントリーセンター主任研究員の大倉利明さん(49)は、子供の頃に岩石と土の魅力にのめり込み、迷わずその研究の道に進んだ。

国内外の土壌を調査・分析し、その結果を各国の農業振興に生かしながら、全国の先輩から引き継いだ研究データを後世につなぐ地味な仕事
それでも、土壌から伝わる地球のリアルな息遣いを知るにつけ、探究心は止まらない

岐阜県の飛騨高山で生まれ、「カミオカンデ」のある神岡町で育った。
小さい頃から岩石を集めて遊ぶのが好きで、母に買ってもらった岩石図鑑に夢中になった。
中学では化石集めに熱中し、高校進学で上京。
たまたま手にした「土」に関する本を読んで、岩石から土へと興味が広がり、著者の教授がいる大学を選んで入学した。

卒業後、選んだのは(独)国際協力機構(JICA)。
フィリピンの農業省では、7年にわたって土壌調査技術の指導を行い、農業振興に尽力した。
2002年に帰国し、現研究所に入所。
これまで、国内は、沖縄を除く全国46都道府県に足を運び、土壌調査を実施
また、2011年4月からは、農水省の調査団に加わり、ロシアやウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンなどを訪ね、チェルノブイリ事故から20数年にわたる、各国の放射性物質による土壌汚染対策の取り組みを調査
核実験場跡地では、土が熱で溶けて、ガラス玉と化した姿を見た

「例えば、土中のセシウムが、作物や地下水に行かないようにするにはどうすればよいかなど、土壌中の研究はとても大切です」

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そうした土壌への関心を少しでも高めたいと、学生や一般の見学者をまず案内するのが、研究所内の農業環境インベントリー展示館
そこには、
土壌の断面を、そのままの姿で保存・標本にした土壌モノリスや、
1899年から、収集・保存してきた昆虫の標本、
1881年から、採集および寄贈された微生物の標本、
1901年?54年に、研究所が行っていた肥料分析の台帳や、当時の肥料、
1908年~37年に、亜硫酸ガスによる農作物の被害(煙害)を調査・研究した資料、
1959年から続けている、農作物や農地土壌に含まれる放射性物質のモニタリングや、放射性セシウム濃度分布図、測定用機器など、貴重な資料が多々展示されている。


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中でも目を引く土壌モノリスは、遺跡の保存技術を応用した、独自の手法で標本化したもので、地質や気候、植物、地形、人間の作用によって、多様な顔つきになることが一目瞭然で分かる
そして、日本最初の土壌図も展示。

日本が、国の事業として土壌図作りを始めたのは、1882年(明治15)
当時の農商務省地質調査所土壌係に、ドイツから農林地質学者マックス・フェスカ博士を招き、その指導の下で国別土性調査を始め、1885年(明治18)に、「大日本甲斐国土性図」が完成
その後、弟子たちが事業を引き継ぎ、1937年(昭和12)に、陸奥国を除く全国の土性図が完成し、第二次大戦で一時中断したが、戦後の1948年(昭和23)に、最後の陸奥国の土性図が完成した。

「このように、全国の先輩たちが積み重ねてきた資料やデータがあってこそ、日本や世界の土壌をよく知り、うまく付き合っていけるような未来を思い描くことができると考えます。
偉大だと思いませんか」


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ついつい熱弁になるその胸にあるのは、「土壌は地球からの預かりもの」との思い。
しかし、社会全体が関心を向け、土壌との賢い付き合いをしていくための、仕組みが不十分だと感じていた。

昨年、国連が、2015年を国際土壌年、毎年12月5日を世界土壌デーと定めたことから、研究者や法律家など、仲間数人で研究会をつくり、運動を盛り上げようと議論している。
2014年4月15日(火)には、研究会主催イベントの一環として、「人と土の新しい関係を探る」と題して、東京・科学技術館で研究会の展示・発表を行う。
さらに4月18日(金)は、科学技術週間の一環で、(独)農業環境技術研究所も一般公開され、農業環境インベントリー展示館で熱く解説する。

そんな熱い土壌博士は、時に、農を「能」に替えて、舞台に立つこともある
「伝統芸能は、長い歴史を積む土壌に通じる」と、近所の縁で、観世流橋岡伸明氏に師事して4年。
師匠の勧めで考案した黒紋付の家紋は、世界に通じるスコップのデザイン。

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つくばに向かう。


初めまして(?)の挨拶もそこそこに、まずは自宅に連れて行ってもらい、そのすぐご近所にある能楽師のお宅に行く。
お稽古を見学させていただくということで図々しくもお邪魔したのだけど、家の中に足を踏み入れたところですっかり緊張してしまった。
襖はどうやって開けたらいいんだったっけ…廊下から畳の間に入るときはどうするんだっけ…などとぐずぐずしていると、さあ入って入ってと手招きされた。

足を崩して座っていいですよ、と優しく声をかけてもらい、いえいえ大丈夫ですと顔を引きつらせて言うと、無理しなくていいですからと言われ苦笑い。
ああそうだった、わたしは正座が大の苦手なんだった。

能のお稽古なのに、なんでたい焼きが???いかにも美味しそうな水羊羹まで???


なんと観世流能楽師橋岡さんは、お稽古にやって来る生徒たちのために、朝も4時から起きて、あんこをコトコト煮、たい焼きの生地を作り、一度に2匹しか焼けないたい焼き器で、40匹ものたい焼きをせっせと焼き続け、その合間を縫って水羊羹を作ってくださったそうな。
それを冷めたからと、もう一度軽く焼き直して持ってきてくださったのが上の写真。

いやもう、何が何だかわからなくなったのだけど、目をうろうろさせて呆けているわたしの目の前で、突然お点前が始まった。


わわわっ!どうしよう…。お茶の作法を全く知らないので、利明さんや他の生徒さんたちの仕草をガン見する。


今度は利明さんの番。




見よう見まねでなんとかお茶をいただくまでを終え、たい焼きと水羊羹を美味しくいただいていると、
じゃあちょっと、まうみさんもやってみましょうか、と師匠。
いや、ちょっとそれは、あまりにも無理があり過ぎますと、手を顔の前でブンブン振りながら断ったのだけど、大丈夫大丈夫とどんどん勧められて、釜の前に座った。
教えていただきながら立てたお茶は、師匠や利明さんが立てたお茶とは大違い。
修行が足りませぬ…。

お稽古中の様子を撮ったビデオから切り取った写真。












唄いだけに集中してのお稽古。
利明さんの声も深くて素晴らしいと思いながら聞かせてもらっていると、あ、また跳ねましたねと師匠。
跳ねるとはどういうことかを説明してもらい、耳を澄ませて聞いているうちに、少しだけわかるようになった。




幼児の頃にテレビで観た能楽に興味を持ち、熱心にお稽古通いする男の子。すごく感心したのに名前を忘れてしまってごめんなさい!


唄の調子やタイミングに集中して練習する際に、その合図取りに使われるバチ(どんな名前だったか、これまた忘れてしまった)。


このバチはもちろん、それで打つ箱型のものにも、それぞれにこだわりがあることを教わった。

会話中は優しげな声だった伸明師匠だが、唄いが始まった途端、地の底から湧き出てくるような、深く、広く、宇宙の彼方にまで届くほどのエネルギーに満ち満ちた声に変わり、本当にたまげてしまった。
その声をここに紹介できないのが残念!

床の間に飾られた野草。


足利ナニガシ(だから室町時代?!)から受け継がれてきた小鼓。


無心に打ち続けていくうちに、だんだんと音が定まってくる。


またまたわたしにも打たせてくださる、それはそれはざっくばらんな師匠なのだった。

貴重なお茶碗も。


そしてお面も。
容れ物から出されたお面を見た瞬間、背骨の周りがざわざわした。










彫り師が込めた思いと、それを受け取りながら舞う能楽師の技量と度量が相まって、その面は微妙な感情を表すのだろうか。




もう本当に濃くて楽しい、それはそれは貴重な体験をさせていただいた。


次は念願の土壌モノリスに会いに、農業環境技術研究所・農業環境インベントリーセンターに連れて行ってもらう。


野草にも名前が。




ああワクワクする。


まず玄関を入るとすぐに出会える松の根っこモノリス。これは、静岡の三保の松原で採取されたものだそうです。




砂地だから、水分は止まらず、どんどん下に移動してしまう。
だからそのような環境でも生き続けられるよう、根っこが横に張らずに下へ下へと伸びている。


土壌モノリスの数々!












上の写真(6メートルの土壌モノリス)を作成した現場の様子。


上記の記事中にもあった日本最初の土壌図や、陸奥国を除く全国の土性図などの写真。










土壌博士の話は、その一言一言が面白くて、知らないことだらけで、これもほんの一部だけ録音したのだけど、ここではとてもじゃないけど説明しきれない。
でも、土がどんなに大切で、土が何を語り、何を訴えているのか、それを、人間のわたしたちがこれまでどんなに無視してしまってきたかを、様々な角度から教えてもらった。
たった1センチの土壌ができるのに100年かかる。
だから6メートルの深さで採ったモノリスは、6万年の歴史を語ってくれる。

土砂崩れの災害が起きた土地には、そういう災害が起こるべき歴史が、山の表面や宅地の下にしっかりと刻まれている。
そういうことを無視して、そういうことをきちんと調べずに、必要なんだからと経済ばかりを重要視して宅地開発をしてきたツケを、知らずに暮らす住民の人たちが払わされている。
もうこれまでの気候とは違ってきたことは明確で、頻発するゲリラ雨や台風が、これからもそういった被害を増やし続けるだろう。
だからこそ、早急に、宅地はもちろん、工場や原発のような危険な物を抱えている施設について、国をあげて調べ直し、速やかな対処をしていかなければならない。

「土壌は地球からの預かりもの」と利明さん。


そして利明さんは、こうも言う。

「土壌は足もとに広がる宇宙」

話をたくさん聞かせてもらいながら、わたしも宇宙を感じていた。


土壌モノリスの後はブルーベリー畑!




何種類ものブルーベリーを採っては食べ、また採っては食べ、ああ美味しい!
微妙に風味や味が違う。
利明さんは毎年、採取したブルーベリーでジャムを作り、あちこちにお裾分けしているそうで、その量が半端ではないので販売したらどうかと聞くと、
実はそういう希望を言ってくれる人もいるそうなんだけど、これはあくまでもお裾分けが気持ちいいのであって、お金儲けは気が進まないのだそうだ。
武士の精神を肝に抱く土壌&農学博士は、実はとっても頑固な人だ。

というわけで、厚かましくもお裾分けしていただいたジャム(2種類いただいたうちの、これは実がゴロゴロと原型を留めている方のジャム)。


もうなんとも言えない、口の中でいろんな表情を出してくれる、食べ心地が最高で、喉を通った後に思わずニヤっとしてしまう、とんでもなく美味しいジャム。
ごちそうさまでした!
また来年お邪魔しま〜す!
えぇ〜?また来るのぉ〜?(妄想の中の利明さんの声)
はい、また行きま〜す!
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夏の日本旅行・2018(その1)

2018年09月23日 | 友達とわたし
とうとう書こうと思う。
なんか大げさだ。
けれども、今日まで毎日、パソコンの前に座っては固まり、また座っては固まりして、書けずにこんなにも日が過ぎてしまった。
それでなくても、旅行中に出会った人たちとの楽しい思い出や、絶対に覚えておきたいと胸を熱くして聞いたいろんな話が、まるで息に溶け込んで吐き出されているかのように忘れてしまうのに…。
メモっておけばよかったなあ…。
でも、本当に暑過ぎて、ホテルに戻ったらもうフラフラで、ただただお風呂に入って汗を流し、その後翌日の予定を確認して、約束の場所に約束の時間にちゃんと行けるよう、毎晩乗継案内のアプリとにらめっこするのが精一杯。
初めてのカプセルホテルは、物音を立てないことにすごく気を遣わなければならなかったし、なんでこんな時間に?という時間に荷造りして出発したり、どこかから戻ってくる人が毎晩いて、まともに眠れやしない。
やっぱり耳栓が必要だなと痛感した。

でもそれ以外は、いつでも入れる大きなお風呂だったり、広々としたパウダールームだったり、女性しか出入りできない厳しい制限がされていて、なかなかに快適だった。
また独りで旅行するときは、性能の良い耳栓持参で泊まりたいと思っている。


例のごとく、出発の前日にパッキングをした。
昨年の乗り継ぎ騒動に懲りて、今回は直行便を選んだ。
悪名高いユナイテッド航空だけど、他の航空会社に比べて600ドル以上も安い。
それでも予算オーバーだったけど…。

いつも寝る前に水に溶かして飲んでいるマグネシウム&カルシウムの粉は、見るからに怪しい。
なので、容器全体の写真をコピーして、小分け容器に貼り付けた。
どうぞ信じてもらえますように。


空港の待合が、ここ数年でガラリと変わった。
ほとんどの席にiPadが設置されている。




乗り換え無しで東京に着く、というのはやっぱり楽。
ただ、通路側の席が取れなくて、左横に座った男性(日本人)がすごくでっかい人で、ゲームをしてるか寝てるかのどちらかで、なのでトイレに行きたい時は、右側に座っている二人の親子に立ってもらわなければならなかった。
それと、機内食があまりにもひどくて、元々グルテンフリーなんてことは望めなかったのだけども、三食とも食べられないまま日本に到着した。
ああ、こんなことなら、小豆玄米ご飯でおにぎりを作り、それを持ち込むべきだったとつくづく後悔した。

暑いぞ〜と散々脅されてたけど、覚悟していた以上の暑さと湿気に呆然としながら東京行きのバスを待っていると、バス会社の荷物積み係の若者たちが、バスの横っ腹にせっせと荷物を積み込んでいる。
こんなに暑い中を、チャキチャキと、それも整然と、わたしたちの大きな荷物を抱る彼らの後ろ姿に、感謝を込めてお辞儀をした。

ホテルは六本木駅から徒歩10分弱、西麻布の交差点のすぐ近くにある。
駅からは緩やかな下り坂になっているので、大きなスーツケースをゴロゴロと運ぶのもさほど大変ではなかったけれど、もうその10分間で大汗をかいた。
チェックインして部屋に入り、お風呂に直行。

部屋はこんな感じ。
ベッドは大の字になっても平気なサイズで、マットは固め。
ベッド横には歩けるスペースがあって、貴重品はベッド下の鍵付きの引き出しに入れられる。


着替えは適当にハンガーやテレビにかける。




ちっちゃなテーブルもある。


ドアは無く、アコーディオンカーテンのみなので、当然鍵はかけられないし、物音の全ては耳に入ってくる。
他の泊り客の人たちと、もっとコミュニケーションが取れるのかと思っていたけれど、寝床に入ったら物音を立てないという習慣が身につくからか、他の場所で出会っても、互いに声をかけることもかけられることも無かった。

その晩、久しぶりに会って食事をしようと約束していた、ホテルの近所に住んでいる友人夫婦と待ち合わせている場所に行こうとホテルを出たら、
え?マリオ?


素晴らしく美味しい和食のお店で、いつも会いそびれていた友人夫婦と一緒に、楽しくおしゃべりしたり食べたりしていると、あっという間に時間がすぎる。
朝早く家を出発してから、20時間ぶりの食事だったので、その美味しさがしみじみとしみた。
ごちそうさまでした!


翌日は、横浜在住の友人幸雄さんと一緒に、横浜美術館へ。


モネの絵を観に来た。


幸雄さんと二人で、これはいいね、こりゃ一体なんだ?なんてブツブツ言いながら、一つ一つ観て回った。
よく似た感性と好みがあると知って、ちょっと嬉しかった。

幸雄さんは、ずいぶんと大人になってから、フィドルの修行ならあそこだろう(なんて考えたかどうかは知りません<笑>)と、単身アイルランドまで行って、地元の人たちの輪に飛び込んでった人です。
その前はバンドでギターを演奏していた、そうですよね?
フィドルというのはバイオリンのことで、同じ楽器なんですが、クラッシックを演奏するとバイオリンって言うし、民族音楽を演奏するとフィドルって呼ばれるのだそうで、
でも、よくよく聞いてみると、幸雄さんは小さい頃からバイオリンを習ってたわけでもなくて、なんかすご〜く遅い始まりなんですね。
バイオリンって、ちゃんと音が鳴るまでにかなりの時間がかかると思ってたので、聞いてたまげてしまったくらいのスピードで、弾けるようになったと言うのです。
やっぱただ者ではない。
アイルランドでの逸話は山盛りあって、いつかレコーダー持参でインタビューしようと思っています。

でも、幸雄さんは何枚もCDを作ってるし、たくさんのファン(特にアイリッシュ音楽をやってる演奏家から、一緒にやって欲しいと言われる人)がいるのですが、実は音楽家ではなくて技術士さんです。
なので、幸雄さんと出会ったのは、実はFacebookのおかげで、それもわたしにはチンプンカンプンの原発関連の情報を、それはそれは分かりやすく説明してくれた文章に感動して、わたしから友だち申請をさせてもらったことがきっかけです。

話すうちに、好きな音楽はもちろん、腹を立てることも同じで、あれこれと気が合うことがわかり、無理やりかもしれないけれど、仲良くしてもらっています。


そこまで晴れなくても…と思うくらいにぴーかん晴れの横浜。


やんちゃだった彼がやんちゃしていた伊勢佐木町。


伊勢佐木町の伝説の人、白塗りのメリーさんと彼の接近話を聞きながら、絶対に案内したかったんだというお店にやって来た。

どっひゃ〜!!
お店の中に入る勇気はなかったけれど、名前の通り蛇以外のものは無い、すごいお店だった。



その翌日は、ポカリと一日空いた。
出かけて食べるのが面倒だったので、朝食付きを選んだのだけど、食べられるのは日替わりで入っている野菜と味付けが変わるスープとオレンジジュースだけ。
見るからに美味しそうで焼きたてのいい匂いがするパンは、グルテンフリーだから食べられない…ううぅ。
でも、6日間居て、全て違う味付けで、入っている野菜も色々違ったスープと、生のオレンジを絞ったところに手で実を割いて入れてあるジュースは、とても美味しかった。

食べながら見る外の景色。


弟が、予定が無いなら東京タワーにでも上ってきたら?と言うので、そうすることにした。
大阪在住の彼は、少し前に東京に旅行で来て、スカイツリーと東京タワーに上ったのだけど、どちらかというとスカイツリーより東京タワーの方が良かったと言う。
なるほど、では行ってみよう。

またまた乗換案内とにらめっこ。
でも、日本の公共の乗り物は便利だから、どこへ行くにも調べさえしたら行ける。
公共交通機関が未発達(発達させようとも思っていない)国に20年近くも暮らしていると、その便利さはもう奇跡のようでありがたいったらない。

バスだって、ご丁寧に、次のバスがいつ着くか知らせてくれる。


渋谷駅は大きな工事が続いているそうで、けれども表示がしっかり為されているので迷わなくて済む。




見えてきた!


東京って坂道が多いなあ…と、汗をふきふき歩いていたら、タワーの近所に可愛い教会が。


おぉ〜、東京タワー!


東京タワーの建主は、日本電波塔(にっぽんでんぱとう)株式会社であり、管理ならびに運営も同社で行っている。
1957年5月、「大阪の新聞王」と呼ばれ、当時は産業経済新聞社、関西テレビ放送、大阪放送(ラジオ大阪)各社の社長を務めていた、前田久吉により設立。

その前田久吉さん。


設計者の内藤多仲さん。


独りで来ているのはわたしだけっぽかったけど、夜景をゆっくり観る。










建物内もなかなかきれい。




こんな催しも。


なんでワンピースが?


タワーの最上階から降りるエレベーターの中で、1組の母娘の会話が気に障って仕方がなかった。
母親は多分30代後半から40代、娘はまだ小学生だった。
エレベーターに乗るまでにちょっと待たされたし、乗ったら乗ったで混んでいたのだけど、暑い、ツアーアテンダントの話がつまらない、外国人が臭いなどなど、それを大声で言い続けていた。
外国人といっても、日本語を理解している人がいるかもしれない。
みんなも同様に暑いし、待たされて疲れているのに、娘に向かってうだうだと、それも誰にでも聞こえるような大きな声で言うので、思わずにらみつけてしまった。
きれいな夜景が心から消えてしまわないように、エレベーターから降りてすぐに、ブルブルと頭を振って追い出した。

ホテルに戻ると、マスコットのわんちゃんが、お祭りバージョンで出迎えてくれた。



次の二日間は、日本の芸能所体験記と、世界的権威である土壌博士のお話。
つづきはまた明日。
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あすかちゃん、応援するぞ!

2018年08月16日 | 友達とわたし
先月の11日、東京在住の友人が呟いたツイートに世耕経産相が批判ツイートをし、大きな騒ぎになりました。

その頃は、西日本に甚大な被害が出ていたにもかかわらず、総裁選の票稼ぎの方を優先し、党をあげての酒盛りをしていた自民党と安倍首相に、非難の目が注がれていました。



友人がツイートした内容は、倉敷で被害に遭い、避難所に避難されている友人さんからの話でした。

「倉敷の友達が言ってた。
『急に、避難所に自衛隊が来て、お風呂が設置された。
クーラーがついた。
ここは比較的被害が少ない地域なのに、なぜ優先的に?
警備体制がやたらと凄くて、今日から学校も再開なのに何があるのかと思ったら、安倍首相が来るんだって。
あれ、アピールのために慌てて準備したんだよ」と」


そしてすぐ後に、なぜか世耕弘成経産相が、こんなツイートを流しました。

「こんな時に無責任な情報を流さないでいただきたい。
現場で懸命に突貫工事でエアコン設置をしてくれているメーカー、電気工事会社、電力会社社員など関係者に申し訳ない思いです」


友人のツイートにはとんでもない数の誹謗中傷ツイートが為され、ネット上に個人情報を晒され、娘さんの身の安全を心配しなければならないような緊迫した状況になりました。

現役の大臣が、一市民のツイートを批判する。
それも、実際に避難している人が、周りの状況などから判断した上で考えたことを話しているのに、それを無責任な情報と断言し、責めたのです。
これは大臣規範にそぐわないものです。
自身が持つ影響力を利用して、一般市民の声を閉ざし、ウヨウヨとわいてくるネットリンチを扇動する行為に他なりません。


安倍首相が、被災地や被災者にどれほど無関心であり、ただただ総裁選に勝つことだけに執着しているかは、5分でも調べてみればわかることです。
そのあまりにもあからさまな自己保身の姿を、テレビや新聞はほとんど伝えないので、最近ではますますやりたい放題になっています。

今もまだ片付かず、状況も厳しいままの被災地に向かうどころか、さっさと夏休みを取り、ゴルフ三昧。
票取り宴会や食事会のためなら、どこへでも足を運ぶのに、被災地にちょっと行っただけで体が故障する。
被災地に行ったら行ったで、自分はすごい!をアピールすることばかりに邁進し、避難所はこんなことに。








そして先日、ツイートをした友人の、いつもすぐ近くにいるもう一人の友人が、Facebookにこんなことを書いていました。

『8月5日、「倉敷の友達」は、私の顔を見るなり号泣した。
僕はその刹那…、苦しい辛い想いをしたことを理解した。
いろいろなお話を聞いた。

まだ2000人も避難者がいるのに、自衛隊は、特設のお風呂を「任務終了」として撤収した。
市は、慌ててシャワーを付けてくれたそうだが、お風呂とは違うからね。と言ってた。

「エアコン」はやはり、彼の人が来たところとそうでないところでは、対応の速度が違う。
いくら頼んでも、「対応している」としか言わなかった「エアコン設置」が、内閣府から一本の電話があり、慌てて取り付けられ、
自衛隊が来て、誰にも何の相談もなく、件の学校の校庭にお風呂を付けて、警備を強化した。


事実は変えられない。

後々、誰が嘘を言ってるのか分かるときが来る。
それも近い将来。
「エアコンデマババア」などとバッシングした連中。
デマがどちらか、すぐに分かるよ」



友人は今度、三鷹市の市議選に出馬します。
愛にあふれ、間違ったことは間違っている、嫌なことは嫌と、はっきりと言葉にできる勇気と、弱い立場の人たちを守り命を大切にしようという信念を持つ彼女を、心から信頼し、尊敬しています。

励ます会、行くからね〜!
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イライザとルエルとわたしたちと

2018年07月25日 | 友達とわたし
去年の末に、最愛の夫を失ったイライザ。
発症から1年半の闘病だった。
少しでも良さそうなこと、効果がありそうなことがあれば、どんどんと取り入れては試した。
話が大好きだったルエルを襲った悪性腫瘍は、事もあろうに脳の言葉を司る部分に居座った。
ものすごく大きな不安とストレスを抱えてもなお、ルエルはイライザを優しく愛し続けた。
最期の最期まで。

そんな彼が亡くなって、残されたイライザを支えようと、友人たちがそれぞれにできることをした。
イライザ自身も、喪失感と憤りと悔いを心に抱えながら、それでもなんとか大きな波に飲み込まれないようにと、いろんな公的支援や専門家に助けを求めた。
そんな毎日を数ヶ月過ごした頃、突然今度は母親が亡くなった。
そのショックから抜け出せないでいる彼女に、さらに追い打ちをかけるように、父親が余命2ヶ月の末期ガンであることがわかった。

夫とわたしは、そんな彼女の気持ちを支えたくて、スカイプや電話で話した。
でもやっぱり、近くで目を見て、声を聞きながら話したいな。
肩を抱いて、背中を撫でて、手をそっと握って、何も言わずに一緒にいたい。

イライザにとって、父親の看病が今一番の優先事項なので、彼女の都合に合わせ、急きょカナダに出かけることにした。


車の窓ガラスから容赦なく差し込んでくる太陽の光が、年々強くなっているような気がするのはわたしの錯覚か?


最近は、高速道路のサービスエリアに、マッサージ機が置かれるようになった。


週末なのに、国境がガラガラ?!


ラジオからはフランス語が、そして標識もフランス語。


道の両側はずっと、広々とした畑の風景が続く。


舗装されていない道路を15キロほど走った。時々、前の車が作る砂埃で、2秒ほど全く前が見えないようになった。



いつもと全く同じ湖がそこにはあった。


わかってはいたつもりだったけど、全く同じということに動揺した。


全く同じ風景の中にルエルがいない。


とても大切な人がいなくなった後に、いつも必ずその人がいた所に行くと、その場所で感じていた心地良さとか楽しさが、蜃気楼のように揺らぎながら消えていく。






ルエルがいつも座っていた岩。





翌日の土曜日は、朝からよく晴れた。










あ、チップモンクくん!


え?え?いいの?撮らせてくれるの?


こんなことは初めてだった。


と感動していたら、今度はリスくんが!


人間に近づかないはずのリスくんが、なぜかすぐ横にある薪の保管棚の所をチョロチョロし始めた。


ちょっとちょっと!


イライザが干しているタオルの上で…。






そうか!わかった!ルエルだ!


そう思ったら嬉し涙がこみ上げてきた。

糸トンボくんも登場。



湖畔の花たち。






















おまけ。





うがい水と飲み水をゲットしに、近くの湧き水の所に行く。蚊の総攻撃を一手に受けるわたしは、ちょっと離れた所から写真を撮るだけ。


イライザが設置してくれたハンモック。


気持ち良かねえ〜。




日がどんどん暮れてくる。




いつも金色に光る窓。小学校の時に、なんかそういう話を読んだような気がする。




夫が見つけたケムトレイル。


気を落ち着けよう。


いきなり賑やかになったと思ったら、


4羽のアヒルさんたちが、水中に頭を突っ込んで遊んでた。









三日目の日曜日は、天気予報通り、朝から曇り時々雨。

気温が一気に下がったので、薪ストーブをつけた。


モントリオールで大流行りのコンブチャ。いわゆる紅茶キノコ。


せっかくの雨なので、車で40分ほど走った所にある町のカフェに行くことにした。


来るたびに同じ写真を撮ってる気がする…。


イライザは、ずっとずっと話し続けた。
もう涙は出尽くしていて、わきあがってきても流れ落ちることはなかった。
彼女が抱えているのは、夫と母親の死と現在進行形の父親の死。
ルエルの発病から今までに至る2年と3ヶ月の間に、彼女は闘い、打ちひしがれ、倒れそうになってはまた立ち上がり、気持ちを強めるためにありとあらゆる事をした。
その歴史の所々を、彼女は思いつくまま話し、夫とわたしはただただ耳を傾けた。

夫にとって、ルエルのいない湖畔の家は、イライザとはまた別の悲しみを与えた。
『男の子は泣くんじゃない』、というタイトルの曲を教えてくれたのはルエルだから、だから僕は泣かない。
どうしても泣きたい時は独りで泣く。
と言う夫は、今回、車を停めて家の玄関まで歩いて行く途中で泣いた(らしい)。
だから、イライザの話は辛すぎて、何度も途中で姿を消した。
幼い頃から50年近く、兄弟のようにして遊んできた人を、夫は失くした。
大人になってから30年近く、魂と魂が触れ合うように愛し合ってきた人を、イライザは失くした。

そんな二人の、それぞれの悲しみが、湖の水に溶けていくよう祈った。


四日目の月曜日は、夫とわたしの二人だけになった。


家に帰るかどうか起きてから決めようと言ってたら、なぜか突然のめまいに襲われた。
ベッドで横になっている時には、ちょっと変だなと思うくらいだったのに、起き上がって立とうとしたら、いきなりグワ〜ンと世界がゆっくり回った。
これはやばいと思って、少し落ち着くまでベッドの端に腰掛けた。
しばらくしてトイレに行って座り、ちょっと頭を傾げてみたら、途端に強烈なめまいが…。

もう黙っている場合ではない。
帰るどころか、部屋の中を移動するのもおぼつかない。
夫にめまいのことを話すと、即、鍼治療開始。
鍼を入れたまましばらく眠った。

めまいがすっかり消え、食欲も出てきた。

ぐずついた天気になるはずが、暑くもなく寒くもなく、それほど湿気もなく、いやこれ、カヌーにぴったりちゃう?


夫に内緒でカメラをビニール袋に入れてカヌーに乗り込む。


シルバーレイクの主、ルーンの声を夜に一度聞いたっきりで、今回はまだ姿を見ることができないでいた。
カヌーを漕いでいる間にもし出会えたら…と願いながら、湖の半分を周ったけれどだめだった。
まあ、毎度会えるわけでもないしな、そう思ってあきらめた。

気温が昨日より上がったので、もう一度泳いで、その勢いでシャワーを浴びることにした。
どうして勢いでシャワーを浴びるかというと、実は今回、お湯が全く出ないのだった。
食器を洗うのは、よほどの油物でない限り全く差し支えがないのだけど、泳いで冷えた体で水シャワーを浴びると、石けんを洗い流す頃には全身寒イボだらけになる。
でも、入らないわけにはいかないので、よっしゃ、行くぞ!と独りでブツブツ覚悟を決めていると…、

え?あれ?もしかしてあれは?

ルーンだった!!


あんなに探しても見つけられなかったのに、向こうから来てくれた!!


ああルーン…会いたかったよぉ〜!!






と、そこに、でっかい灰色サギが飛んで来て!


いやあもう、全員総出という感じ。
きっとこれもルエルのおかげだな。






帰宅日は、朝から掃除に励む。
立つ鳥跡を濁さず!

また来年までバイバイ!


なぜか白猫のBLACK CAT車。


これまたスカスカの国境。


モクモク雲。



また会おうね、ルエル。
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2018 WOMEN'S MARCH & POTLUCK NEW YEAR PARTY

2018年01月24日 | 友達とわたし
マンハッタンだけで20万人が声を上げたWOMEN'S MARCH!


これはワシントンD.C.


参加した友だちの写真を、現場で撮ってくれた友だちから拝借!

















純さぁ〜ん!!



この日、アメリカ全土で、思い思いのプラカードを手に、大勢の人たちが声を上げた。
ウィメンズ・マーチのそもそもの始まりと意義を、詳しく書いてくださっている記事がある。
興味のある方はどうぞ。

反トランプ「ウィメンズ・マーチ」:「女性の権利」のための長い闘い −大西睦子
http://www.huffingtonpost.jp/foresight/womens-march_b_14588830.html


日曜日は、マーチに参加した友だちと一緒に、富美子さんちのポットラック新年会へGO!!
ということで、のんちゃんとジャンの車に乗っけてもらって、炊飯器持参で出かけた。

新年会直後に、写真込みでその時の様子を書いてくれたひでこさんの、フェイスブックの記事をちょいと拝借!

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明子さんが呼びかけてくれて、富美子さんとエレノアさんのおうちで、遅ればせながらの新年会。
さあ、集まるぞという頃合いに届いた!南城市長選でのチョービンさん当選の朗報。
皆で狂喜。

サブロー師匠の三線で、秀子さんが急遽、お祝いの踊りを踊ってくれることに。
お二人は、NY総領事館前での「ジュゴンを救え」スタンディングのスター。
しかも踊りは、お年寄り版と元服前のしゃきしゃき若者版と2つの振りで。
最後には、明子さんが飛び入りで「祝い節」。

のたのた出かけた私が到着した頃には、富美子さんの芸術祭推薦クラスのお寿司も、紀子さんのラフティもすでに影も形も無し。
でも見て見て。
ミキさんのローケーキとゆかさんのビーガン・マックアンドチーズ。

写真取り損ねたけれど、ジュゴン折り紙教室もあった。
わかこさんが「みんなのジュゴンでモザイクアート」を展開中。https://www.facebook.com/events/547673378934367/?notif_t=plan_user_invited¬if_id=1516540515091613

なぜか、途中でマッサージ大会も。
もりだくさんというか、好き勝手というか、いえーい、うれしい日になりました。

エレノアさん、今回は人の写真も載せますからね~。

それにつけても、チョービンさん、わーい!!


******* ******* ******* *******

ということで、では写真をば。



富美子さん作、食べるのがもったいないゲージュツの巻き寿司。


のんちゃん作、激ウマのラフティ。


わかちゃん作、伝統レシピのスペアリブ。


手作り餃子。

 
あっこちゃん作、レンコンのきんぴら。


インドカレー各種。


ビーガンのユカさんのためにと、ミキちゃんが作ったナッツ各種、バナナ、アボガド、フルーツの生ケーキ。


ユカさん作、ビーガンマカロニ&チーズ。


塩昆布と小豆を混ぜて炊いた玄米&もち米のお赤飯は、炊飯器から直接ついで食べてもらった。

パクパク食べていっぱいおしゃべりして。


感謝の人、日本山妙法寺の池田上人と、やっと初めてゆっくり話すことができた。













みんなのお腹が満たされた頃、サブロー師匠の三線に乗って、秀子さんが急遽、お祝いの踊りを踊ってくれることになった。






お祝いの相手はもちろん、沖縄の南城市での市長選で、激戦の末当選した長敏さん。
長敏さんは、「オール沖縄」勢が推した新人で、自民、公明、維新が推した現職の古謝景春氏の四選を阻んだ。
この結果の意味は大きい。
辺野古新基地建設問題で苦しみながら戦い続けている名護市の、2月に行われる市長選に、大きな影響を与えることになる。

三線教室!


マッサージ大会!


ジュゴンの折り紙作り!




その横では、沖縄の米軍基地反対を訴えてきた山城さん、稲葉さん、添田さんが、3月14日の判決で無罪を勝ち取ることができるよう、日本国外からハガキを送る準備に励む。


いやもう、ほんとに盛りだくさんで好き勝手!
それもこれもひとえに、場を提供してくれる富美子さんとエレノアさんの、懐の大きさと愛情の深さのおかげだと思う。

楽しく嬉しい時間をありがとう!
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