ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

7年ぶりの再会

2023年06月23日 | 友達とわたし
まず最初に、先日生検に出された限りなく怪しい出来物は良性だったことをお伝えする。
まったく、わたしの体には、限りなく怪しい姿をした良性ブツが多すぎる…。

6月特有の、清々しさが朝から晩まで居座ってくれる天候が続いた週末に、うちからちょうど1時間ぐらい離れた大学街に住む、夫のペンシルバニア大学時代のルームメイト(夫婦ともども)に会いに行った。
二人ともに超エリートで、特大企業の役員(そして彼はとても過酷な癌からのサバイバーでもある)と建築家のカップルで、彼女がデザインした(わたし的には夢のような)お部屋がこちら。









と、ここまでは前回(といっても7年も前だったらしい…コロナ禍の3年がどんなに大きな破壊力だったかを思い知る)と同様で、今回は新たにこれ↓が増築されていた。


いわゆるお外キッチン。
天井のスレートは開閉可能な全天候型。アレクサに呼びかけると開いたり閉じたりしてくれる。
夫の左側の横長の暖炉からは、怪しくも優雅な火が立ち上がる。
この空間が気持ち良すぎて、1年の半分以上はここで料理をして食べているのだそうな。
わかる気がする。

この丸いのが気になって仕方がない。

鉄板のように見えるがそうではなく、別の金属でできていて、だいたい1000℃ぐらいまで熱くなるそうだ。
火を入れて温度をあげていく。


調理開始!




家の中のキッチンでは、栄養はもちろん彩りや食感までにこだわりを持って作られた惣菜が並ぶ。






いやもう、どれもこれもが超〜美味しくてたまらない。
鶏のもも肉がハンパなくジューシーで柔らかで、こんなの今まで食べたことがない。恐るべき1000℃鉄板もどき。

食事は友人夫婦、そして近所に住むお母さんとの5人でいただいた。
台湾人のお母さんはわたしの母と同い年で、老齢に入ってから3回も癌にかかり、常に果敢に挑んでは乗り越えてきた人。
背筋がピンと伸び、普段から努めて歩くようにしているという彼女の足取りはとてもしっかりしている。
彼女は日本語が堪能である。
日本の占領下に置かれていた台湾で、家の内外で日本語のみを話すようにされていたからだ。
彼女の父親や叔父は、その当時役所のお偉方だったので、日本語を話すモデル家族に認定された。
日本から酷い目に遭ったという認識は持っていなかったと言う。
酷い目に遭ったというならそれは中国で、同じ占領でも内容や待遇は全く違ったのだそうだ。
もちろん、そんな思いを持つ人ばかりではないのだけれど、わたしの身近に、日本の占領によって実際に辛い思いをしたという人がいないことに救われる。
彼女はこちらに移ってから栄養学を学び、栄養士としてしばらく働いたのだけど、それまでの間にバイトで働いていた図書館の仕事の方が性に合っていることがわかり、もう一度司書の資格を取るべく学校に入り直したのだそうだ。
そして同じ図書館で30年近く司書として働いた。
凛として、けれども可愛くて、出来ればずうっと話を聞いていたくなる人だ。

観葉植物や盆栽も、その一々がユニークで美しい。


彼女の専門は建築だけど、ランドスケープの才能にも魅せられる。







おまけ写真は罠にかかったグラウンドホッグくん。

うちにも時々出没する、この憎可愛いやつは、ありとあらゆる努力をして、我々が丹精込めて育てた野菜をパクパク食べる。
この後彼は、車で遠いところまで運ばれて放されたそうな。
夫が、野生動物を捕らえて放してやる場合は、川を越えなければならないと言う。
そうしないと、かなり遠くまで行っても戻ってくるのだそうだ。
グラウンドホッグ、ウサギ、シマリス、リス、スカンク、キツネ、シカ、アライグマ…共存できるに越したことはないのだけれど、やっぱり育てた花や野菜を見ごろ食べごろにパクパク食べられちゃうと頭にくる。

これは一昨日夫が撮った写真。
整備されていない野原は、彼らにとっては居心地がいいのかもしれない😭。



ともだちっていいな

2023年06月10日 | 友達とわたし
親友Aの大事な家族、チャウチャウのウィリーくん。
ここ最近いろいろと健康被害が出てきて病院通いしている。
同じ名前だからか、余計に親しみがわいている夫が、漢方で治療に加わった。
良くなるといいなあ。

このモコモコがたまらん。

やきもちを焼いて擦り寄ってきたオディールは、真っ黒ででっかいプードル。

ゲイシャ(白銀色の鯉)も元気。

混ざりっ気なしのジャスミンの花茶。

親友Aはいつも、何か楽しいことや嬉しいことがあると、花火みたいな勢いのある字で手紙を書いて送ってきてくれる。
来週は彼女がずっと前からイチオシしてた皮膚科の先生に、わたしの身体中に居座っているイボイボ各種を診てもらいに行く。
そのC医師は70歳で、けれど診察室ではクレイジーかつパワフルで、トランプ(元大統領)が大っっっっ嫌いな女性で、だからきっとまうみと気が合うはずだと、もうかれこれ5年以上は勧められていた。
それでやっと重い腰を上げて診察予約を取ろうと思ったら、もう新患は取らないことにしたのでと、きっぱり断られてしまった。
それは困る、絶対に困る。
なので今回はズルをして、C医師に向けて書いた熱々のラブレターを、ちょうど診察の予約を取ってあったAに渡してもらうことにした。
わたしも診てもらえることが決まって、いよいよ来週に診察を受ける。
どうか困ったチャンが見つかりませんように。


庭の花が綺麗に咲いたからと、ほんとは先週渡すつもりで用意してくれていたらしい。
だからちょいと花の端々がくるまり始めてるけど、美しい心と優しい思いが嬉しくて、しばらくじっと眺めていた。

難病指定の再生不良性貧血と闘うワカコさんを支援しよう!

2022年07月17日 | 友達とわたし
友人の西嶋明子さんらが立ち上げてくれた寄付支援プロジェクトを紹介します。
突然難病に襲われてしまったワカコさんは、このブログでも何度も登場している女性です。
例えばこの「日本政府に対し在外ネット投票制度導入を求める署名運動」。
2万6千27筆が集まり、林芳正外務大臣へ書名を手渡すことができたのですが、この署名運動の発起人の一人がワカコさんなのでした。(モニター画面上段右に映っているのが彼女です)

以下の支援寄付を募る紹介文にも書かれていますが、
「心の優しい方で、これまでも入院中の子供たちやお年寄りをお見舞いするボランティアをしたり、海外在住日本人が在外投票しやすくなるような運動に参加したりと、さまざまな無償の活動をしてきた」人です。
みなさんのご支援、どうぞよろしくお願いします。
難病指定の再生不良性貧血と闘うワカコさんを支援しよう

みなさん、こんにちは。

私はニューヨーク市に住む子田稚子(こだ・わかこ)さんの友人で、西嶋明子という者です。
わかこさんは2022年の5月に突然、日本では難病指定となっている再生不良性貧血という病気に罹ってしまいました。
この病気は骨髄の中の造血幹細胞が減少し、赤血球・白血球・血小板など全ての種類の血球が減少するというもので、完全に治癒するには骨髄移植しかないと言われています。

わかこさんは、5月2日に、極度の貧血でクイーンズのエルムハースト病院のERに運ばれました。
当初彼女のヘモグロビン値はたったの2で(通常は13程度で3以下になると心臓発作などで亡くなる可能性もあるほど危険な状態)、生きているのが奇跡のような状態でした。
そのまますぐ病棟に移動して入院生活が始まり、5月10日にマンハッタンのベルビュー病院に移動し、多くの検査の結果やっと再生不良性貧血という診断が下りました。
血液が足りなくなるので輸血と検査を繰り返し、5月19日にようやく一時退院しました。

一時退院したとはいえ、その間も通院が続き、6月14日の血液検査の結果が悪かったため1泊2日の入院で輸血もしました。

6月21日から28日までは、免疫抑制療法(ATG)という治療のため再び入院してICUに滞在。
モニターで全て管理されての孤独な隔離治療を受けました。
6月29日からは一般病棟で、ステロイドと免疫抑制剤を大量に投与する治療を受けて、7月9日にようやく退院しました。
現在は自宅で療養中ですが、未だ予後看過中であり、自宅でも高額な薬をたくさん飲まなくてはいけません。

転倒したり体をぶつけたりすると血が止まりにくいこと、免疫抑制剤を飲んでいるので感染症にかかりやすいこと、貧血が起こりやすいこと、などなどの理由で働くことも制限されています。

この病気を完治できる治療法は骨髄移植だけなので、今後も絶えず検査をしながら病気をコントロールする治療を続けなくてはいけません。
これからどうなるかまだまだ先行きは不明な状態です。

わかこさんはアメリカに家族がいないので、私たち友人や知人の援助が必要です。
わかこさんは心の優しい方で、これまでも入院中の子供たちやお年寄りをお見舞いするボランティアをしたり、海外在住日本人が在外投票しやすくなるような運動に参加したりと、さまざまな無償の活動をしてきました。
どうかわかこさんが安心して治療に専念できるよう、とりあえずの生活費や薬代を補う寄付のサポートをお願いします。

ご協力ありがとうございます。

わかこさんの友人を代表して
西嶋明子

桜だ〜〜〜🌸

2022年04月15日 | 友達とわたし
40枚の桜の写真と、4枚のガチョウさんの写真を一挙にお見せします。
みなさんにもお花見気分を満喫していただけたらと思います。
訪れたのは我が家から車で10分のところにある桜公園です。
毎年、いつでもすぐに行けるやと思ってしまって、何度も花見をし損なってきましたが、今回、この公園の噂を聞いて、わざわざクイーンズからやって来てくれた明子さんと一緒に、快晴の空のもと、花見を楽しむことができました。
今は平日しか動けないのですが、今週は生徒たちが春休みで、ポコポコとレッスンに空きがあるので、思い切って行くことにしました。
わたしの背中を押してくれた明子さん、ありがと〜!


さて、このブランチ・ブルック公園にこんなにたくさんの桜を寄贈した人は、キャロライン・ファード氏、アメリカの女性実業家です。
日本を訪れた際に見た桜に感銘を受け、帰国後、2000本以上の桜の木を、この公園に寄贈したそうです。
彼女は、アインシュタインが籍を置いて教授をしていたプリンストン高等研究所の共同設立者でもあります。
アメリカで桜の名所といえばワシントンD.C.の桜公園ですが、なんとこの公園の桜の本数は、ワシントンD.C.よりも多く、4000本を超えているそうです。
ただし、ワシントンのようにダァーッと桜だけを密に植えられておらず、場所によっては雑木の合間で咲いていたり、そもそも公園の面積が広大過ぎて、一度に見ることができません。
この公園は、アメリカ合衆国初の郡が運営する公園で、ニューアーク市中心部から南北へ6kmにわたり細長く延びています。
この公園の敷地面積は145 ヘクタール、ニュージャージー州で一番広い公園です。
どおりでいつ行っても迷ってたわけだ…。

というわけで、今回初めての入口から公園に入ったわたしは、見たこともない風景にオロオロ…。
でもまああちこちに桜が咲いているので、明子さんと車から降りては散歩しながらの撮影会を楽しみました。



明子さん、逆光でお顔が暗くなっちゃってごめん!






桜吹雪に大興奮!






老齢の枝垂れ桜さんを見学中のガチョウさん

ゆったりと座ってくつろぎ始めたので、


近づいてみると、

調子に乗ってさらに近づいていくと、

怒った…😅




これから咲く気満々の八重桜さんたち


この公園の桜の種類は一体どれだけあるんだろう?







青空の下では枝だけでもいい。

桜の花びらが流れていく。


やっと見慣れた場所に到着。








ああ、この古木はまだ健在でした。

明子さんと一緒に。

わたしもついでに。

タイトル写真にも載せましたが、この公園で一番好きな桜です。


寿司と友だちとライブ音楽と

2021年10月05日 | 友達とわたし
寿司三昧❣️
お友だちのおかげです。

のんちゃんの友人さんが本マグロを釣り、その釣りたてホヤホヤのマグロの切り身がドカンと送られてきたそうな。
そこでプロのシェフさんにお願いして、マグロパーティなるものを開くことになり、お相伴に預かることになりました。

まずはHideyoシェフによるマグロこれでもか〜寿司。


生まれて初めてのマグロの鎧(ヨロイ)身。

お寿司を食べるのは年に何回か数えられる程度なんだけど、好きなネタはハマチとアナゴとタイ。
マグロはどちらかというと苦手な方で、いつも他の人に食べてもらうか、頼まないようにしていました。
だけどこの日、めちゃくちゃ新鮮な本マグロの鎧身というものを口に入れた途端…えへらえへらと意味不明の笑いが込み上げてきて、のんちゃんちの庭から採れた紫蘇に巻いてはパクリ、またパクリと、贅沢の限りをさせてもらいました。

手巻きのネタとビーツとポテトのサラダ

炙りマグロ。

自家製缶詰マグロの作業開始!


メイソンジャーのフタが新しいかどうかが大事だそうです。

圧力鍋で何分だったっけか?もう忘れちゃっいました。

出来上がり

このまま常温で何ヶ月もオッケー。果物やトマトソースなど、いろんなものでできるってことを聞いてびっくりしてたら、今まで知らなかったの?と反対にびっくりされちゃいました。

Hideyoさん手作りのデザートがまたすごくて、写真に撮り忘れてしまったのだけど、グルテンフリー&ビーガンの、これまた名前も材料もすっかり忘却の彼方…でも口に入れた時の至福感は今もくっきり残っています。
彼女のいろんなビデオはここで観られます。


そして次の土曜日は、ACMAがついに、バーチャルではない演奏会を開くことができた記念日でした。
ほぼ2年ぶりに顔を合わせた仲間たちと、新しい会の旗。


やっぱり生の音はいいなあとしみじみ思いました。

そして急いで家に戻り、歩美ちゃんと息子くんカップルをお迎えしたのですが、二人が持参してきてくれた手巻き寿司セットがすごかったのでした。
歩美ちゃんが、自分がどうしても食べたかったから、えいっと決心して買ってきたというマンハッタンの高級お魚屋さんのウニ。
その値段を聞いて目玉が飛び出しそうになりましたが、胸はワクワクドキドキ。


味はどうだったかって?
いやもう、言葉にならない美味しさでした。
こんなの食べちゃったら後々困ります。
わたしなりにえいっと決心して買って食べた(まあ1年か2年に一回ですけど…)ウニもそれなりに美味しいと思ってたのが吹っ飛んじゃいました。

お寿司で盛り上がり過ぎちゃって、ジャズフェスを聞きに行くのが遅くなり、到着して15分ほどで終わってしまいました。
このジャズフェスも去年は中止だったので、町の人たちの盛り上がりのすごかったこと。


ちょっとびっくりしたのは、マスクをつけていない人が多かったことと、かなり密接していたことです。

わたしたちの住む地域ではマスク着用率がとても高く、マスクをつけていない人がいるとギョッとするほどなのに、なぜかこの夜は無礼講だったのか、それともコロナ禍以前の日常が戻ってきたと思いたかったのか、理由はわかりません。

というわけで、お友だちのおかげで、心身ともに小確幸ならぬ大確幸な週末を過ごさせてもらいました。
感謝!!

だいじょうぶ だいじょうぶ

2021年04月01日 | 友達とわたし
『大きな空」演奏=フォンテーヌ (『ジャズ組曲 音泉大国・群馬』より 撮影地=高崎市観音山)

友人夫妻がすてきな歌を作って送ってくれた。
本島阿佐子・歌&コーラス 
冨田芳正・作詞作曲&編曲と楽器演奏  
わたしがちょいと落ち込んでるってのを小耳に挟んだから、一番に送ったって言ってくれた。

今、たくさんの人たちが、どちらかというと楽しくない状況の中でグルグルと毎日を過ごしてる。
どちらかというとどころか、悲しくて苦しくて辛くて痛くて疲れてる。
どうしたらいいのか決められなくて、分からなくて、困り果てている。
ひとりじゃないけどひとりで、どんどん心が塞がって、話したり歌ったりするのも億劫になっている。

でもだいじょうぶ、だいじょうぶ。

苦しいね、悲しいね、辛いね。

でもだいじょうぶ、だいじょうぶ。

だけど無理しないでいいからね。
時間かかってもいいからね。
みんなそれぞれ精一杯生きてる。
みんなそれぞれいろんなことを抱えて生きてる。
これまで生き続けてこられただけで立派なサバイバーだよ。
この世で生きてる全ての人はみんなサバイバーだよ、かっこいいよ。
うーんと褒めてあげようよ。

井戸の底で膝を抱えて、その膝小僧におでこを乗せてじっとしてたみたいな半年間だった。
そんなわたしの話を聞いてくれるセラピストのジェドが、毎回必ずわたしに言う。
とにかく自分のことを許してあげなさいな。
いいから、それでいいからって言ってあげなさい。
一日中ウダウダして、不健康な物を食べて、不安で心配でみぞおちの辺りがイヤな感じでドキドキして、気がついたら夜になってても、ああよく生きたねって思ってあげなさい。
どんな一日でも、時間が過ぎて眠ったら明日になる。
ああまた生きられたね、えらかったね。
そんな最悪な一日の繰り返しでも、それは永遠に続くことはない。
いつかきっと、まあどれだけの時間がかかるかは誰にも分からないけど、それでもいつかきっと、あああんな事があったなあって思い出せる時が来る。
それはあなたが一番知ってるでしょう?

だからだいじょうぶ、だいじょうぶ。

阿佐子の歌声を聞いてください。

夏の気持ち

2020年07月14日 | 友達とわたし
ひと目で好きになる人がいる。
性別や年齢に関係なく。
そんな人の中の一人、アードリーの家に遊びに行った。
彼女はインテリアデザイナー。
キャリアはもう随分と長い。
出会ったのは夫が先で、きっと好きになるよと言われていて、二階の浴室の改装をするに当たってデザインをお願いした。
彼女の顧客のほとんどは裕福な人たちで、だから彼女がやりたいように、やれるだけやってしまえる仕事が多い。
うちの場合はほんの2畳半ぽっちのちっちゃな室内に、日本風の深い浴槽を入れたいというだけが希望で、けれどもできるだけさっぱりした感じの浴室にしたかったので相談した。
彼女が提案してくれた壁と床のタイルにまず惚れて、その価格がまるで高価じゃなかったことにまた惚れた。
結局工事の段階で、頼んだ業者がきちんと仕事ができなかったので、ものすごいストレスに見舞われてしまったけれど、その空間は本当に気持ちが良くて、数年が経った今でもそこに入るたびに感謝の気持ちがふつふつと湧いてくる。

彼女自身はほんの2年前までの30年間、ものすごく狭いアパートメントで暮らしていた。
大きな犬が好きで、チャウチャウを3匹、でっかいテリアを1匹を飼っている。
新しいパートナーとの生活も始まり、さすがに窮屈になったので家を買うことにしたのだけど、
もうニュージャージーとはおさらばして、どこか全く違う風土の場所に引っ越そうと、いろんな州の町を探したらしい。
すごく美味しいコーヒーが飲めて、ニューヨークタイムズが簡単に手に入る場所ならどこでもよかった。
全く違う風土は2週間もすると嫌気が差してきて、おまけにすごく美味しいコーヒーとニューヨークタイムズを簡単に手に入れるには、やはりトライステートに留まるっきゃないことに気がついた。
そんなところに、家を早急に売りたい人がいるという情報を得た。
そこはわたしのうちから車で20分ぐらいの、もちろんだからニュージャージー州の家だった。
おさらばしたかった所にまた戻っていくのには抵抗があったのだけど、まあとりあえず見にいくだけでもと思い直して訪れた。
そこは確かに地図上ではニュージャージー州なんだけど、ペンシルバニア州の広々とした雰囲気があってとても異質な空間だった。
そして彼女はその家に一目惚れした。

COVID-19の被害を大きく受けた新しい世界では、会ってもハグも握手もできない。
もちろん家族以外の家の中には入って行かない。
入ったとしても、靴を脱ぎ、手を洗い、マスクをつけて、ほんの短い時間だけにする。
アードリーも彼女のパートナーのマックも、わたしより少しだけ年上なので、ソーシャルディスタンスを守って外で楽しく過ごそうと思っていた。
だけど、到着した途端、家の中を案内すると言われて、いいの?いいの?とまごまごしながら彼女に付いていき、一部屋一部屋じっくり見せてもらった。
壁にかけられた絵や彫金がどれもこれもすごく良くて、まるでとてもカジュアルな美術館に迷い込んだみたいな気持ちになった。
彼女の好きな色、風合い、空間の取り方、小物の数々に出会うたびに、胸の中に浮かんだ小舟が心地よく揺れた。
極め付けは大きなオルゴールだった。
オークションで手に入れたというそれは、もうオルゴールというより、柔らかな夢の音のオーケストラだった。
すっかり舞い上がってしまって、写真もビデオも撮るのを忘れて聞き惚れていた。
今度はきっと紹介できるよう、気を落ち着けて聞こうと思う。

グルテンフリーに加えてデイリー(乳製品)フリーというなんとも面倒くさいわたしたちのために、美味しい軽食を用意してくれた二人と、美しくて若い鯉が泳ぐ池のすぐ横のパティオで楽しく過ごした。
すっかり長居してしまって、気がついた時には薄暗くなっていて、だから敷地内にあるサマーハウスの横の小さな林で群生する蛍の光の乱舞も見られた。

彼女が遠くに行ってしまわなかったことに感謝する。
いつでも来たい時に来てね!と言ってくれる彼女にまた惚れた。


ちょっと日が空いたので、かなり荒れてるだろうなと思いつつ、カゴとハサミを持って菜園を見に行った。
今年は本当にカブとビーツが頑張っている。


オクラはちょっと油断したら巨大になってしまってて、きっとこれはどんなに料理をしても食べられないだろうと反省…。


葉っぱものもぐんぐん大きくなっていた。
夏は人も野菜もぐんぐん大きくなる。

おひな祭りの大雪と灯油ストーブと親友と

2019年03月04日 | 友達とわたし
春の雪はボタボタで、木の枝にしがみつく。


垣根が両側から垂れ落ちて、車道からうちに入れなくなっちゃった?!


粘着質は人間でなくてもやっぱり困る…。




わずか0.5センチぐらいの幅しかないフェンスの縁にも。


おひな祭りの日だというのに…。




向こうの空がようやく晴れてきた。


万が一の時のために、灯油ストーブの準備をする。


芯にオイルを染み込ませるために数時間放置してから点火する。
最初はすごく臭うので地下室で点火したのだけど、それでも1階全体がとんでもなく臭くなり頭が痛み出したので、慌てて外に出した。


今回は出番が無かったのだけど、二人ともに灯油ストーブの臭いにすごく弱いので、できたら使わずに済んで欲しかったりする…いやはや。


さて、先週の土曜日は、嬉しいお客さまをお迎えした。

漢方の学校で学び始めてから週末は土曜日しか無い事になった夫は、それでなくても週末のアクティビティ(いわゆる妻以外の人付き合い)を渇望しているので、何の予定も入っていない土曜日を忌み嫌う。
一方わたしは、週末こそは週日にできないことをしたり、逆に何にもしないでパジャマのままで、家から一歩も出ないでボーッとしたりするのが大好きなので、週末にあれこれ予定を立てるなんて意欲はほぼゼロに近い。
でも、結局夫が立てた計画でどこかに出かけたり人と会ったりすると、あ〜楽しかったと思う。
だからまあ、ただのめんどくさがり屋なのだ、わたしは。

わたしたちのめちゃくちゃ急な誘い&悪天候にもかかわらず、のりこさん&ジャンさん夫妻が遊びに来てくれた。
いつものごとく会話が弾み、話題はあっちこっちに飛んでは大笑い。

のりこさんとジャンさんが、のりこさんのお里の沖縄に遊びに行った時のこと、ジャンさんが日本語の『どうも』の意味をのりこさんのお父さんに尋ねたところ、お父さんはありとあらゆる辞書や本を持ち出してきて、一所懸命説明しようとした。
『どうも』…なるほど、ああいう時こういう時に使うと言えるんだけど、意味を説明しろと言われたら言葉が出てこない。
なんてなことを言ってたら、「じゃあ『Love』は?」と聞かれた。
「『Love』って何?」
「『Love』は『Love』、としか言いようがない」
「でも、『どうも』と同じく、いろんな言い回しができる」
「それって『Fuck』もだよね」
「まうみ、いつか『LoveとどうもとFuckと』っていうタイトルでブログ書いてよ」

えっ…。

むくむくと書きたい気分になってきた。
どちらかというと短編っぽい話で。
今すぐにはとても無理だけど、いつか気持ちに余裕ができた時にでも。

4人で散歩に出かけた時、のりこさんに見せたこの通り。


同じ道なのだけど、右側が裕福層が暮らす町で、左側が庶民(我々も含めて)が暮らす町なので、舗装がきっぱり違う。
税金もだから右側の家に暮らす人たちの方が高い。

はっきりしてるっていうか、はっきりし過ぎているっていうか、いつ通っても笑えてくる。


のりこさんと直に話せたのがとても久しぶりだったので、山のように積もっていた言葉をどこから抜き出していいのかわからないぐらいだった。
のりこさんは、在米の沖縄県系の人たちが、どういう行動に出たらいいかを模索し、話し合い、実行に移そうとしていることを教えてくれた。
インターネットを使って、全米に散らばっている人たちと話し合えることが素晴らしいし、それぞれ個々に行動する気持ちの強さもすごい。
こちらで暮らしているのだから、こちらの政治家に圧力をかけて、アメリカ国内での啓蒙に励もうとしている。

どんなに嫌だと言ってもやめてくださいと願っても、自分たちが暮らしている場所が米軍基地を増やすために破壊されるってことを、日本全土に課して初めて、沖縄が日本の県になる。

沖縄の人たちは、基地の全面撤去を望んでいるのではなくて、本土との分かち合いを求めている。
そのことがなかなか伝わらなくてとても歯がゆいと、のりこさんは言う。
のりこさん自身、自らの意思で沖縄から離れた。
まずは東京に出て、基地の無い暮らしに初めて接して心底驚いた。
基地のことが嫌で嫌で、けれどもそれでもその土地から離れられない人もいる。
沖縄といっても、そこには一人一人、人の数だけ違う考え方感じ方がある。
もちろん沖縄以外のところに暮らしている人たちにも、その人の数だけ違う考え方感じ方がある。
だから伝えていくことが大事なんだな。
日本中で米軍基地を受け入れよう。
そうなったらどうする?
そうなったらどう思う?

米軍基地も原子力発電所も、押し付けられてきた地域の人たちの命や暮らし、そして声を無視してきたわたしたちの生き方が、増やした物事だ。
どちらも政治家や大手土建会社に莫大なお金が流れ、その費用や何か起こった時の後始末代は、国民の税金や電気代に溶かし込んで賄われている。
政治家は痛くも痒くもないし、土建会社は儲かる一方。
建てられた土地は未来永劫ひどく汚染され、病気や事故が発生しても誰も責任を取ろうとしない。

はっきり言ってクソみたいな社会だけど、それでもやっぱりどんなに時間がかかっても、やるべきことをやり、伝えるべきことを伝えていくしかない。
どんなに地味でも、結果が目に見えなくても、行動して伝えていくしかないんだね。

二人が帰った後からずっと、そして今も考えている。
日本に『ろうそく革命』が起きて、悪党を政治の世界から追い出せるのは、まだもう少し先のことなのかもしれない。
けれども希望は持ち続けたい。
もうすぐ春が来る。

ニシダ飴❤️

2018年11月13日 | 友達とわたし
『パパママぼくの脱原発ウォーク』、そしてもう7年以上も続いている、それも毎月でも毎年でもなくて、毎週金曜日の夜になると集まってくるあきらめない人々の、抗議活動の場となる官邸前の『希望のエリア』。

そのどちらもの主催者として、本業の整体師の仕事も超忙しいというのに、ずーっとずーっとがんばってる二朗さんが、こんなん送ってくれました。

じゃ〜ん♪
ニシダ飴♪
ほんでもって肌触り満点であったかそうなマフラー♪


このニシダ飴、ちょっと前から、二朗さんがすごくオススメだと言っていて、



画面の飴ちゃんを眺めながら、よっし、次回の帰省の際は、絶対にココに行くぞ!と密かに企んでたら…、

いきなり二朗さんが、
「まうみちゃん、ニシダ飴ほしい?」とメッセージが。

え?え?え?
なんでわかったん?
なんで今、飴ちゃん見ながらうっとりしてたんわかったん?

「欲しいけど、欲しいって言うたらきっと、二朗さんのことやから、面倒な箱詰めして送ってくれたりするやろし…ゴニョゴニョゴニョ」

「え〜い、欲しいのか欲しないのかはっきりせいっ!」

「欲しぃ〜〜〜!」

「よっしゃ、送ったるから待っとけ!」(二朗さんはもうちょっと上品な物言いをされます)

というわけで、遠路はるばる、埼玉県熊谷市のお店から二朗さんちに、そして二朗さんちからうちに、旅をしてきてくれたニシダ飴のいちご味とサイダー味の飴ちゃんは、
今、わたしの口の中で、レロレロレロレロ、あっちに行ったりこっちに来たりして、少しずつ小さくなっていくのです。
評判通り、密度が濃いというか、まろやかというか、ほどよい甘酸っぱさが心地よい、そしてなかなか小さくならない、マジで美味しい飴ちゃんです。

ありがと〜二朗さん!


おまけ

ニシダ飴さんの情報です。









http://brand.cci-saitama.or.jp/kumagaya/shop_kumagaya_243/

昔から伝えられてきた、そのままの方法で作られている「ニシダ飴」。
店舗にはた~くさんの飴が陳列されています。

必ずお気に入りの飴が見つかると思いますよ!

飴以外にも「ニシダが最中」「五家宝」「熊谷石畳(生チョコ)」などの和スイーツが並びます。

バレンタイン限定品、クリスマス限定品なども見逃せません。

戦争の無い世界をつくる使命を授けられた人、「おてんてん」な笹森恵(しげ)子さんとの再会

2018年11月04日 | 友達とわたし
ばばちゃんとまた会えました!
ばばちゃんの名前は笹森恵子(しげこ)さん。
13歳のとき、広島の爆心地で被曝した人です。



前回お会いしたのは2016年。
New Jersey Peace Actionが、平和賞を恵子さんに授与するということで、彼女がニュージャージーに招待されたのでした。
このNew Jersey Peace Actionのオフィスは、うちから歩いて数分のところにあるのですが、前身の設立者の一人が、恵子さんの養父、Norman Cousins氏なのでした。
そのNJPAに、イングルウッド高校から、恵子さんの講演の依頼があり、カリフォルニアのご自宅からやって来られた彼女を、拙宅でお迎えさせてもらいました。
恵子さんのお世話と通訳を、友人の歩美さんが引き受けていたことから、この素晴らしい出会いを授かったのですが、
あれから2年半近く経った今、恵子さんは86歳、
なのに、「この後またすぐに日本に行くの。だから今年は5回も日本に行ったことになるのよ」なんてことをサラリと言うスーパーウーマンっぷりは健在で、
「でもばばちゃん、お願いだから無茶はしないで」と、思わず肩を抱いてお願いしてしまうわたしはやはり、凡人だということなのでしょうね…。

今回の講演は、ペンシルバニアのエリザベスタウン大学で教えておられる高橋先生からの依頼で行われました。
なので今回は世話役ではなく、聴講する人たちの一人として行く歩美さんから、「一緒に聞きに行きませんか?」と誘ってもらい、もちろん!と即答。
夫と歩美さん、そしてわたしの3人で、一路ペンシルバニアに向かいました。

雨が多かったのであまり美しくないと言われている今年の紅葉ですが、高速道路の両側に次から次へと現れてくる樹木は、わたしたちの目を十分楽しませてくれました。










場所の特定が難しくて、マップでは無理と諦めて、構内にいる学生さんたちに手当たり次第に尋ねながらやっと到着。


ばばちゃんだ!


近寄っていくと、あ〜!と満面の笑顔を見せてくれたばばちゃん。
「一番前の席に座りなさいよ」と言ってもらったのだけど、大学から15分ぐらいの所に住んでいる夫の両親も一緒に聴講するので、5列ほど後ろの席に座りました。

いよいよ講演が始まります。
日本語の通訳は高橋先生が、そして英語の通訳は(多分)大学の学生さんが担当です。




ばばちゃんのお話が始まりました。
「英語はブロークンだし、いろいろ脱線するけれども、まあおばあちゃんトークだと思って聞いてください」と言って場内をわかせる恵子さん。




子どもの頃、楽しかったことは?という質問(これは前もって高橋先生が用意しておいたもので、ハプニングが起こらないための対策だったようです)に、
毎週土曜日の夜は、映画館に行って(といっても当時はニュースしか流さない映画館が多かったそうです)、ポパイとベティのマンガを見るのが楽しみだったこと、
その後、洋食屋さんに行って、牛タンシチューやオムレツを食べさせてもらうことが楽しみだったことを話すのと、先に歩美さんとわたしに教えてくれてた恵子さん。
「タンシチューってのが子どもだったから言えなくて、いつもタンチュータンチューって言ってたの」
と言う恵子さんに、
「でもばばちゃん、あの時代にタンシチューを毎週食べてるようなご家庭って、そんなになかったんじゃないの?」とわたしたちは聞いたんですが…。

これがその映像。


原爆が投下される前の、広島の街並み。


同じく原爆が投下される前の「広島県物産陳列館」(原爆ドーム)。それはそれは美しい建物だったそうです。


赤い点は、ばばちゃんが立っていた地点。その右上の緑の点は、被爆したばばちゃんが逃げた場所。左下の青い点は、ばばちゃんの家。


原爆投下後の広島。


恵子さんの養父ノーマン・カズンズ氏と、谷本牧師。


原爆乙女(ヒロシマメイデン)の25人。


恵子さんの手術の軌跡。






みんな真剣に、時には笑い、時には眉間にしわを寄せ、時には涙を流し、恵子さんの話に聞き入っていました。


******* ******* ******* *******

少し長くなりますが、2016年の恵子さんとの出会いを書いた記事を、もう一度ここに載せておきます。
恵子さんの養父ノーマンさんのこと、そして恵子さんご自身のことを、詳しく書いてありますので、ぜひ読んでください。


夫とわたしがワシントンD.C.から戻った日曜の夜、彼女と歩美ちゃんは台所にいて、お茶を飲みながらくつろいでいた。
小柄な彼女は、椅子から立ってもちっちゃくて、そのちっちゃい体をペコンと折って、「おじゃましてます」と微笑んだ。
その可愛らしいこと。
わたしはいっぺんに好きになって、ばばちゃん(彼女のあだ名)大好き!と、心の中で叫んでいた。
彼女の名前は、笹森恵子さん。
恵子と書いてしげこと読む。
今年84歳になる彼女は、13歳の夏、真っ青に晴れた空を、銀色の光をキラキラ輝かせて飛ぶ『Bちゃん』から落とされた、世にも恐ろしい破壊力を持つ爆弾の、爆心地に立っていた。

歩美ちゃんから彼女のことを聞いた時、わたしはいつもの早とちりをして、日本からこちらにいらっしゃったのだと思い込んでいた。
でもそうではなくて、彼女はカリフォルニアに暮らしながら、世界平和の実現を使命に持ち、広島での体験を各地で語り続ける人なのだった。
彼女と出会った日曜日の夜から水曜日の朝までのことを、わたしはきっと一生忘れないし、これからもまた、もっと一緒に時間を過ごしたいと思っている。


原爆というものが、そしてそのような化け物を作ろうと考えた軍隊というものが、そしてその人殺しを実行するのが当たり前という狂った認識が正しいとされる戦争というものが、わたしは憎くて憎くてたまらなかった。
まだ漢字がそれほど読めないぐらいの頃から、図書館に行っては、原爆についての本を読んだり見たりしていた。
読んでいるうちに、文字や写真がぼやけてきて、涙をポトポトとページの上に落としているのに気づいて、慌てて拭いたりした。
それはそれはたくさんの本を読んだつもりでいたけれど、しげ子さんのような経験をした、25人の女性のことを、わたしは全く知らずにいた。
『原爆乙女』と、しげ子さんたちは呼ばれていた。
こちらでは『HIROSHIMA MAIDEN』
しげ子さんは、「この『原爆乙女』という呼び名が嫌いだった」と言った。
わたしも嫌いだ。

話しても話しても尽きることのなかった話を、自分の頭の中で整理して、なんとかまとめようと思うのだけど、気持ちが絡み付いてしまってうまくできない。
けれども、ばばちゃんを空港で見送った後、彼女のことをもっと深く知りたくなって、自分で読んだたくさんの記事の中に、話したことが散りばめられていたので、その中から数件、ここに紹介させてもらう。

↓転載はじめ

記憶1 笹森 恵子さん
被爆した10年後、手術のため渡米。
平和のため使命を持って、広島の体験を語る。

【戦争の記憶・Memories of War2015.9.25
http://memories-of-war.com/m1-shigeko-sasamori/


笹森 恵子さん
ささもり・しげこ/1932年6月16日広島生まれ。
アメリカ・カリフォルニア州在住

1945年8月6日、13歳で被爆した笹森恵子さん。
真っ青な空に、銀色の飛行機が、キラキラと輝き、白いものが落ちてきた…。
その瞬間のことは、鮮明に覚えているという。
大火傷を負った恵子さんだが、両親の献身的な看護で、なんとか回復することができた。

10年経って、ケロイドの手術のために、アメリカに渡ることとなり、その後、アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんの養女に。
「それもこれも神様の思し召し」という恵子さんの体験と、平和への想いを聞いた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

銀色の飛行機から白いものが落ちるのを見た

──恵子さんは広島ご出身ですね。1945年8月6日は、どこで何をされていましたか?

当時、私は女学校一年生で、13歳でした。
その頃すでに、東京や大阪には、傷痍爆弾が落ちていて、大火事でたくさんの方が亡くなっていました。
私がいた広島にも、B29はしょっちゅう来ていました。
でも、爆弾はまだ落とされたことはなかったので、B29が見えても、慣れてしまっていましたね。

当時、「建物疎開」といって、爆弾が落ちたときに逃げやすいように、建物を壊して間引いていたんですね。
若い男たちは兵隊にとられていますから、建物を壊すのは年寄りや女性です。
瓦礫の片付けをするのは、中学1、2年生でした。

その日は、私たちの学校が、はじめての作業に当たっていました。
朝8時に集合し、これから作業にあたろうというときに、飛行機の音がして、私は空を見上げました。
雲ひとつない、真っ青なきれいな空でした。
銀色にキラキラ光る飛行機が、白い飛行機雲を出しながら、飛んでいます。
私は、近くにいたクラスメイトに、「見てごらん、きれいよ」と言って、空を指さしました。
その瞬間、白いものが落ちるのが見えました。
あとから聞いたら、爆弾がついた落下傘だったのです。
ものすごい爆風が起こりました。
そして私は倒されました。

私がいた場所は、爆弾が落ちた中心地から、1.5㎞以内にありました。
今で言うと平塚町です。




──その瞬間は、爆弾が落ちたということもわからず、怖いとか痛いといった感覚もなかったのでしょうか。

ええ。
だから、中心地にいた人たちは、一瞬のうちに丸焦げで、熱いも痛いもなかったんじゃないかと思います。

私の姉は、「太陽が地球に落ちたのかと思った」と言っていました。
姉たち上級生は、軍の仕事をするため、海田にある工場にいました。
大きな音がして、何事かと思って建物から出て見たら、大きな火の玉が沈んでいくのが見えたと。


──僕たちはいわゆる「きのこ雲」をイメージしますが…。

雲が見えるのは、最後なんじゃないかしら。
火の玉が見える前に、私は飛ばされたわけですが、火の玉のあとに雲ができるんだと思います。
雲の前に、赤い火柱を見たという人もいます。

私は、長い時間、気を失っていました。
意識が戻ってから周りを見たら、真っ黒でした。
暗いのではなくて、黒いのです。
大火傷を負っていたのに、何も感じませんでしたね。
真っ黒の中にしばらく座っていたら、霧が出てきたように、少しずつ明るく、グレーになってきました。
ああ、きっと、近くに傷痍爆弾が落ちたんだ、と思いました。

「爆弾が落ちたときは、大人について行け」と言われていましたから、とにかく、近くを歩いている大人について行こう、と思いました。
着ているものがボロボロだったり、足を怪我していたり、火傷で皮膚がめくれ、ピンク色になっている人たちが、歩いていました。
川のほうへ向かっていたんです。

川べりまで来ると、たくさんの人が集まっていました。
川の中にも、人が大勢入っていたので、水が見えないくらいでした。

「ぎゃーん」
ふと、赤ちゃんの泣き声が聞こえました。
ーまうみ注ー
この母子とも焼けただれていた。
母親はそれでも、なんとかして赤ん坊にお乳をあげようとしていたのだそうだ。
しげ子さんの耳には、その赤ん坊の泣き声が、今もはっきりと残っている。


周囲のざわめきも聞こえてきました。
それまでは無感覚で、何も聞こえなかったんです。
音が聞こえるようになっても、自分の火傷には気づきませんでした。
体の4分の1が、焼けていたんですけどね。

橋を渡って、避難所になっている小学校へ行きました。
大きな木の下に座ったら、そのまま倒れてしまったようです。
いつの間にか、講堂に運ばれ、私はそこに5日間いました。

目が開かなくて、昼も夜もわからないのですが、とにかく、
「千田町一丁目の新本恵子です。お水ください。両親に伝えてください」と叫びました。
だんだん、声を出すのもしんどくなってきます。
あともう1回だけ、もう1回だけ叫ぼう。
そうしたら、誰かが聞いてくれるに違いない。
そう思いながら、声を出していたことを覚えています。

結局、お水はもらえませんでした。
それで良かったんです。
大火傷を負っている人に、お水をあげてはいけないそうですね。
お水を飲んで、「ああ、美味しい」と言って死んだ人が、たくさんいるそうです。

母は、焼け跡に毎日通い、私の名前を呼んで、探していたそうです。
火傷をした人の収容所があると聞けば、そこまで歩いていって探しました。
似島へも、船で行きました。
でも、見つからなくて、また帰ってくるんです。


「炭団」のような私を、母が見つけてくれた



私たちは家が二つあって、「夏の家」と呼んでいたほうの家は、川沿いの魚市場の近くにありました。
そちらの家は、たまたま魚市場の陰になって、爆風でも倒れませんでした。
当時、母は、ここにいたんです。
家の中で飛ばされ、起き上がってから外を見てみたら、周りの家がぺたんこにつぶれていたそうです。

そこから、普段、私たちが暮らしていたほうの家の、二階ベランダ部分が見えました。
それで、母は、ぺたんこになった家々の屋根を歩いて、行ってみました。
でも、やはり潰れていて、どうすることもできません。
隣の家の人の声が聞こえますが、どこにいるのかわかりません。
瓦礫をどかしてもどかしても、人らしき姿は見えません。
そうこうしているうちに、あちこちから火の手があがり、母のいる場所にも火が近づいてきました。

「ごめんねぇ。どこにいるかわからないの」

お隣さんを助けることができないまま、母は、その場を去らざるをえませんでした。

父は、その時ちょうど、外にいました。
前の日に釣りに行ったので、ご近所のおじいさんたちのところに、魚を持って行っていたのです。
そして、私と同じように、飛行機から、白いものが落ちるのを見たそうです。

「爆弾落ちたから、逃げえ!」

おじいさんたちにそう叫んで走り、魚市場にある、大きなセメントの冷蔵庫へ、すべりこみました。
爆音が消えてから、外の様子を見てみたら、さっきまで一緒にいたおじいさんたちは、座った格好のまま、皮膚が真っ赤に焼けただれていたそうです。

一瞬遅かったら、父もそうだったのでしょう。

両親と家が無事だったおかげで、私は良くなることができました。
家で、両親が、治療してくれたんですから。
薬もないし、病院はいっぱいだし、私は、食用油で治療してもらったんです。


──想像もつかないような体験をされたんですね。

想像できないでしょう?
元気になってから、自分がどのような状態だったのか、母に質問したんですが、いつも「今度ね」、と言われていました。
年をとってから、ようやく教えてくれたんです。
だからいま、こうしてお話ができるわけ。

避難所の講堂は真っ暗で、母は、ロウソクを1本持って、「しげこ~しげこ~」と、名前を呼びながら探したそうです。
そうしたら、蚊の鳴くような声で、「ここよ~」と言ったと。
ハっと声の主を見ても、それが本当に娘なのかどうかわかりません。
「炭団(たどん 炭を丸めた燃料。黒く丸く、ざらざらしている)のようだった」、と言っていました。
私の顔は、黒く腫れ上がっていて、目も鼻もわからなかったんですね。
もちろん、髪も焼けてしまっていました。
でも、おかっぱにしていた髪の毛のおかげで、額の上半分と頭の部分、耳のあたりの皮膚は、焼けていませんでした。

父は、黒く焼けてしまった皮膚を、はいでくれました。
母は、とにかく、私の目・鼻・口を開けようと、食用油と布を使って、私の顔を拭いてくれました。
膿がどんどん出てくるので、洗い流す必要があるんです。
本当に、つきっきりで看病してくれました。


──目が開けられるようになったり、食事できるようになるのに、どのくらいかかったのでしょうか。

はっきりとは覚えていません。
新円切替(1946年2月16日に幣原内閣が発表した戦後インフレ対策)の前だった、と思います。

私が寝ていると、近所の学友のお母さんが来て、私の母と話しているのが、聞こえたことがあります。

「恵子ちゃんは、本当に良かったねぇ。
私の娘は、半分瓦礫の下敷きになってしまって、一所懸命引っ張り出そうとしても、ダメだったの。
だんだん火がまわってくるでしょう?
『お母さん、早く逃げて。お母さんがいなかったら、下の子たちはどうなるの』って言うの」

生きたまま別れなくてはならなかったなんて、どんなに辛い気持ちだったでしょうね。

他にも、地獄のような広島の町の様子を聞きました。
町には死体がゴロゴロと転がっていて、兵隊さんたちがそれを、ゴミでも拾うかのように拾って、焼き場へ持って行くんだそうです。
真っ黒になるほど蝿がたかって、ウジもわいていて。


──そういったお話を聞いたときの恵子さんの心境は、どのようなものでしたか。

戦争ですから、人が死ぬということ自体は、わかっていたわけです。
それで、最初は、「広島にも、そんなにたくさんの爆弾が落とされたのか」と思っていました。
次第に、みんなが、「ピカドン」と言っているのを聞くようになりました。
たくさんの爆弾ではなくて、一つの大きな爆弾だったんですね。
「そんなに大きな爆弾があったのか」と、驚きました。
また落とされるかもしれない、と怖い気持ちがありました。

私は、終戦のときのラジオ放送は聞きませんでしたが、家族や近所の人がうちに集まって、話しているのを聞きました。
日本は負けた、と。
でも、終戦になる前から、そういうムードはあったと思います。
だって、食べるものもないし、家にあるものは指輪でも鍋でも、軍に差し出さなければならなかったくらいですから。

「こんなものまで出させて…。この戦争は負けるでぇ」

そうやって、大人たちが、陰で言っているのを聞きました。


──今考えると軍部はおかしかったなど、いろいろな考えがあると思うのですが、当時はどうだったのでしょうか。

当時、天皇は神様でしたよ。
神様だから、直接見てはいけない、と言われていたのです。

とにかく私は、戦争が終わったことが嬉しかったです。
戦後、広島には、外国から、食べ物や着るものが送られ、建物も建つようになり、人様のおかげで復興していきました。
その頃になるとまた、「戦争がなければ、みんな友達になれたのに。どんなにか幸せだったのに」と、強く感じるようになりました。
年を経るにつれ、戦争の悪を自覚します。
だからこうして、聞いてくださる方がいるところへ行っては、戦争の話をしています。

いま、憲法を変える、という話もありますよね。
私は「なんで?」って、すごく驚きました。
戦争が起こる可能性のある方向へは、進んでほしくないです。


原発と日本人の品格

──こうしてお話を伺っていると、リアルな「戦争」のことを知らないのは、本当に怖いと感じます。
恵子さんの凄まじい体験をお聞きして、ようやく少し知ることができていますが、知らない人も多いと思います。


生まれる前にあったことは、どうしてもぴんと来ないんですよ。
私も、明治維新や関東大震災のことを、映画で見たりして、「ああ、そういうことがあったんだ」とは思いますけど、ぴんと来ないですもの。

先日、若い人たちと話をしていて、原子力発電所のことが話題に出ました。
原発は廃止したほうがいいか、続けたほうがいいか、みんな手を挙げたんですね。
一人の青年は、どっちがいいのかわからない、と言いました。
私は、
「あなたの気持ちはよくわかる。
私の体験談を聞いても、『そういうことがあったのか』とは思うけど、ぴんと来ないわよね。
生まれる前の話だもの。
でも、これからの未来のために考えるのよ。
積極的に、現状はどうなのか研究して、それで意見を決めてごらん」と伝えました。

私は、原発に反対です。
理由は、いまだに放射能が出ているから。
放射能を浴びて、ガンになって、死んでいった人は多いんです。
私の父も母も、放射能で亡くなりました。
すぐに火傷で死ななくても、遅かれ早かれ不調が出るんですよ。
原子力じゃなくたって、電気は作れるはずです。

これだけ技術は発達しているのだし、もっと日本の科学者が、新しいエネルギーの研究に力を入れれば、原子炉なんて要らないと思います。

一人の技術者の方が、こう言いました。
「原発は、廃止できるに越したことはないと思うけど、いまは技術が発達して、絶対に壊れないようなものが作れるから、全部なくす必要はない」

「それなら、福島にある原子炉は、修理できないんですか?放射能が漏れているのは、どうにかなりませんか」

私が尋ねると、
「私は、作るほうの技術者なので、直すことについてはよくわかりません」ということでした。
まずは、止めなければいけない、と思うんですけどね。

いま、世界から見て、日本は人気がすごく落ちています。
そういうデータを見たことがありますし、私の実感としてもそうです。

「絶対に戦争をしない。核兵器を持たない。原発はすべて止める。」

そう宣言して立ち上がったら、元の日本のように、尊敬されると思います。
原発は、今日明日止めるのは無理でしょう。
でも、少しずつなくしていくのです。


手術のためにアメリカへ。そして看護士に

──恵子さんは、顔のケロイドの手術のために、アメリカに渡られたそうですが、それは何歳の頃ですか。

被爆の10年後で、23歳の頃です。
1年ちょっといました。

──アメリカで寄付が集まり、25名の方が、一緒に行ったそうですね。
(アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんが、ケロイドを負った若い被爆女性のための、寄付金プロジェクトを発足。
ノーマン・カズンズさんはのちに、恵子さんの養父となる)
原爆を落とした国に行くことについては、複雑な気持ちではありませんでしたか。




当時私は、流川教会の谷本清先生を囲んで行なわれていた、「聖書の会」に行っていました。
谷本先生が、日本に来ていたノーマン・カズンズに、「この子たちの手術はなんとかならないだろうか」と、言ってくださったんじゃないでしょうか。

アメリカに戻ってから2年かけて、お金を集めたそうです。
あるとき牧師さんに言われて、私もみんなと一緒に、市民病院に行ったんです。
そこに、ノーマン・カズンズとお医者さん、看護士さんが来ていて、問診を受けました。
手術をして機能が回復する、アメリカに渡る元気がある、等の条件を満たした人が、対象に選ばれたようです。

問診の際に、「アメリカに行きたいか」と聞かれたのですが、私はきっと行かないだろう、と思っていました。
すでに、東京大学の附属病院で、何度も手術をしていましたから。
アメリカに行くと言われても、ぴんと来なかったです。
全然期待していませんでした。
でも、選んでもらってアメリカに行った。
これも、神の摂理だと思います。

「なぜ私が大火傷を負ったのか」と考えたとき、「神の証」なのではないか、と思いました。

神は、人間が幸せになることを望んでいます。
戦争なんてしちゃいけないの。
でも、それを伝える術がないでしょう?
だから、私たちは、それを伝える使命を負ったのです。
私の火傷の痕、傷を見れば、単に言葉で伝えるよりも、感じるものがありますよね。
ああ、そのために私は、こんな火傷を負ったんだ、と思いました。
アメリカに渡ったこともそうです。
私の人生はすべて、神の摂理なのです。


──そのように思えるようになったきっかけはあるのでしょうか。

もともと、私の家は、仏教を信仰していました。
おばあちゃん子だったので、おばあちゃんについて、お寺によく行っていました。

被爆後、歩けるようになって、友達の家に行く道すがら、きれいな音楽が流れてきたので、近寄ってみたんです。
それが、キリスト教の教会でした。
讃美歌を歌っていたんですね。
「どうぞお入りください」と言われて中に入り、後ろのほうに座って、牧師さんのお話を聞きました。
意味はよくわからなくても、とにかく居心地が良かったです。
それから毎週日曜日に、教会に通うようになりました。

谷本先生が、「あなたのような状態の人を、他にも知りませんか」とおっしゃったので、私と同じように火傷を負っている、女学生たちを集めました。
そして、週に1回、「聖書の会」を開くようになったのです。

私は、子供の頃から、看護士になりたいと思っていました。
東大病院で手術を受けるたびに、その思いを強くしていました。
アメリカで手術をし、帰国する直前に、将来のことを聞かれたとき、日本に帰ったら、看護士になるつもりだと答えました。
そうしたら、「ここでやってみないか」と言われたんです。
すぐには決められなくて、両親に相談しました。
父は、
「お前といつまでも一緒にいられるわけじゃない。だから、自分で決めなさい」と言いました。

アメリカでは本当に良くしてもらったので、またみんなに会えるという喜びで、それほど深く考えずに、また渡米することになったんです。
飛行機の手配等は、みんなノーマン・カズンズがやってくれました。
私は、ノーマン家の養女になったから、アメリカで学ぶことができたんです。


──最後に、これをお聴きの方にメッセージをいただけますか。

愛の心、思いやりの心を育てることが、大切だと思います。
そうすれば、自然に、戦争反対の気持ちも生まれるでしょう。
この世で一番大事にしなければならないのは、命です。
命を大切に、頑張って生きていきましょうね。(了)
(インタビュー/早川洋平 文/小川晶子 写真/河合豊彦)



米国で伝える
一人の命の大切さ
笹森 恵子さん(在米被爆者)

【ピースデポ】

http://www.peacedepot.org/essay/interview/interview31.htm

被爆後、しばらくの記憶は、断片的です。
目が腫れて開かず、あまりのことで、痛みも感じませんでした。
私は、ぞろぞろと歩く人々の後を付いて行き、段原国民学校(現在の段原小学校:広島市南区)までたどり着き、木の下に倒れ込み、そこで気を失いました。
次に私の意識が戻ったのは、千田町の自宅でした。
顔が全部、真っ黒に焼けただれ、前も後もわからない状態だったそうです。
まず父が、ちりちりに焼けていた髪を切り、顔の皮膚を剥いだところ、その下は、膿で真っ黄色だったそうです。
母は、「はよう口を開けなくちゃ」と必死になって、布に食用油を塗り、膿を取りました。
8月のものすごい暑い中、それが5日間続いたのです。

母は、この話を、被爆後何年も経ってから、私が何度も訊くので、ようやく話してくれました。
当時、私は、泣きわめく力さえなく、いつ死ぬのかと、とても不安だったとのことです。
だいぶ良くなってから、皮膚にひっついたガーゼを剥ぐ時に、痛かった記憶はありますが、それまでは、痛みもまるで感じないような状態が続きました。
私が今生きているということは、今後大変な世の中になるから、その時のために生きろと、神様が生かしたのかなと思います。

みんな、核の恐ろしさを、頭ではわかっていても、心まで理解できている人はどれだけいるのか、と考えます。
心に応えていたら、平和運動などにも一生懸命になりますよね。

私がいつも話すのは、「命の大切さ」についてです。
自分の身内が戦争に行って、犬死にすることを考えると、本当に命がもったいない。
「何十万人亡くなった」、という数字は大事だけれど、数字だけでは私も忘れてしまうと思います。

「一人の命が大事」、という思いが強いです。

一人ひとりを動かす、という力は大切なのです。
あるアメリカの人とお話をした時のことですが、彼には13歳の娘がいるということで、
「私は、同い年の時に被爆したんだ」と話したら、彼は震え出し、涙を流し出しました。
自分の娘のことを思っての反応です。
みんながそういう風に感じてくれれば、良い方向に変わっていくと思います。

私の経験は、大変でなかったと言えば嘘になるけれど、あのとき両親は、大火傷を負った私を治療しながら、
毎日いつ死ぬかもわからず、治った後も元には戻らない状況で、その心の痛さは、私どころではないと思います。
私は、若い人たちに、
「あなたがお父さん、お母さんになったときに、自分の娘がそんな状態になったらどうする?」、という風に話します。
被爆証言は、たくさんの方がされているし、本もたくさんあります。
だから私は、私が、どういう感じで命の大切さを考えているか、ということを話します。
難しいことを話すよりも、気持ちで伝える方が、届くと思うからです。

アメリカの学校で話をすると、よく、その後に手紙が届きます。
その中には、私の話を聞いて、原爆・核兵器への考え方を変えた人や、
「高校を出たら軍隊に入ろう、と思っていたけどやめた」という反応が、かなりあります。
「家に帰って、お母さんに話をしたら、涙を流した」なども。
そういう知らせを知ると、やっぱり嬉しいですよね。

アメリカの高校には、米軍のリクルーターが入ってきて、子どもたちを軍隊に囲い込もうとするのですが、
私は、
「戦争というのは、いくら大義があろうが、人殺しをすることには変わらず、あなたたちがもし、軍隊に入って戦争に行ったら、罪人になるんだよ。
それだけじゃない、殺されるんだよ」
と話をします。
私にも息子がいますが、その子が生まれた時に、
「この子は、絶対に戦争には行かせない。
この子は、戦争に行って人殺しをするため、また、殺されるために生まれてきたんじゃない」
と思いました。
息子には、
「例えば、もし、赤紙のようなものが来たとしたら、私が先に行くよ」と言いました。
自分が殺されるのなら、それでもいいという気持ちです。
世の中の親は、みんなそう思うはずです。

最近は、大学で、話をする機会が多くあります。
広島市が行っている、全米各地での原爆展に、私も行って、様々な州で、学生さんに話をしてきました。
みなさん、とても真摯に受け止めてくださり、私も、とても良いフィードバックをもらっています。
私が行く所は、事前学習をしっかりしていることもあり、行くとすでに受け入れ態勢ができていることが多いのですが、
私は、核兵器の問題に関心がなく、賛成・反対どちらでもない、道端を歩いているような人たちにも、話を聞いてもらいたい、動いてもらいたいと思います。

オバマさんの、「核兵器のない世界」は、彼が本気で思っているから言われたのだと思いますが、
これがオバマさん一人だったら、やっぱり消えていくと思います。
目的を果たせるよう、私たちみんなが、支えなくてはいけません。
私は、学校に行ったときにも、いつも言います。
誰だって、一人の力ではできない。
私たちがやらなくちゃいけない。
私もそのためにも頑張ります。
(談。まとめ、写真:塚田晋一郎)


↑以上、転載おわり



ばばちゃんが、うちから30分ほど車で行った町の私立高校で、講演したときの様子。
前日の日曜日に、講演やインタビューで6時間、休み無しで話し続け、戻ってきたわたしたちとまた話に花を咲かせていたばばちゃんは、
さすがに疲れが出ていたのか、真っ直ぐに歩けない状態で、おまけに耳鳴りがひどくて、自分の声も変に聞こえると言っていた。
けれども、いざ壇上に立つとこの通り。








高校生たちも身じろぎもせず、真剣に話を聞いている。


泣いたり笑ったりの30分。しげ子さんの言葉は、彼らの心に、どんなふうに届いたのだろうか。


(生徒たちからの質問)
ー手術のためとはいえ、アメリカに来ることに抵抗は無かったか。
ーアメリカに対してどう感じたか。
ー世界の核問題についてどう思うか。


(恵子さんの答え)
手術が受けられて、それで自分が良くなると信じていたので、場所はあまり関係が無かった。
・アメリカという国のせいで、アメリカ人のせいで、わたしはこんな酷い傷を負ったと、そんなふうに考えたことは無かった。
これは戦争のせい。
戦争は人を殺し、傷つける。
だから、人間は、戦争など起こしてはいけないの。
・アメリカに降り立ち、暮らし始めるうちに、日本はどうして、こんな豊かで広大な国と、勝てるはずの無い戦争をしてしまったのだろうかと思った。
・核と人類は、共に生きていくことなどできない。
だからわたしは、あなた方のような若い人たちにお願いしたい。
今は、わたしの話を聞いて、頭の中がこんがらがっているかもしれない。
意味があまり分からないかもしれない。
それでもいいから、時間をかけて、よくよく自分で考えて。
自分たちの、そして自分たちの子どもの未来に、平和が存在しているか否かは、わたしたち一人一人の平和への強い意思が必要なのだから。
・オバマ氏が今度、伊勢志摩サミットで訪日する際に、もしかしたら広島を訪問するかもしれないと言われている。
「わたしはその頃、ちょうど広島に居るので、ちっちゃい体を活かし、こっそり近づいてって、
『オバマさん、核兵器の無い世界を実現してください!実現すると言うまでこの手を離しません!』と捕まえる」
と言って、周りを大笑いさせていた。


******* ******* ******* *******

ああ、あの時はオバマ大統領だったんだなあ…と、ため息をつきながら読み直しました。

恵子さんは今回もまた、

戦争の愚かさ、酷さを説き、会場のわたしたちに、特に若い人たちに、時間をかけて、自分の頭でよく考えて、
自分たちのために、そして自分たちの子どもの未来のために、平和を求め、戦争の無い世界を作ろうという気持ちを持って欲しい。
誰だって、一人の力ではできない。
だから私たちがやらなくちゃいけない。
そう思って欲しい。
私もそのために頑張りますよ。

と、何度も何度も繰り返し訴えていました。

そしてその話の中に、「この会場には、それをずっと実践して活動している素晴らしい女性がいます」と言って、恵子さんは歩美さんを紹介しました。
歩美さんは、本当にたくさんの平和実践活動をしている人ですが、恵子さんはその中の「劣化ウランで増えたイラク小児ガン患者を支援する活動」を紹介してくれました。
平和活動を通じて深くつながる二人の、互いを尊敬し合う姿に、会場からも大きな拍手が起きました。

そしてもう一つ、質問に立った米国人男性が、声を詰まらせながら、アメリカ人として謝りたい、こんなひどいことをしたことを恥じると恵子さんに言ったとき、
恵子さんは、
「原爆はあなたが落としたのでは無い。アメリカが落としたのでも無い。政府や軍隊が落としたのです。戦争が落としたのです」
「だからあなたに謝って欲しいなんて全く思っていません。もう起こってしまったことは仕方がない。その今の気持ちを未来の、戦争の無い世界を作る原動力にしてください」と訴えました。

あの過ち…。
あれよあれよという間に戦争に突き進んでいってしまうときの社会に、どれほどの過ちが存在していたか。
報道に、会社に、家庭に、抗いようの無い強い作用が働いて、止めようにも止まらない。
その恐ろしさ、おぞましさ。

絶対にもう、あの社会が戻ってくるようなことになってはならない。
そう強く思いました。


会の終わりに、もし近くに住んでいたら大の仲良し家族同士になっていただろうくみさんと、その息子(まだ幼児だった)ジュリエン君に会ってびっくり!!
嬉しいやら懐かしいやら。
よくよく聞くと、くみさんと今回のこの会を主催した高橋先生が学生時代の同窓だったそうな。
It's a small world!!

会の後に一緒に食事できないの?って恵子さんに聞かれて、思いっきり後ろ髪を引かれたのですが、夫の実家で夕食を食べ、その後コンサートに行く予定になっていたので、
今回はすごく残念だけどここでお別れしましょうと、恵子さんにさよならを言って、会場を後にしました。

また来年、東海岸でも西海岸でも、どちらでもいいから会いたいな、ばばちゃん!
くれぐれもお身体を大切に、そしてまだまだ多くの若い人たちに、語りかけていってください!