ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

新居とバーベキューとスイカ割りと

2016年08月29日 | 友達とわたし
昨日ののりちゃんちも、時々携帯電話が圏外になったのだけど、今日のかおりちゃんちは、時々じゃなくて、ずっと圏外のところに建っている。
それも19世紀の時代から。
20世紀初頭を自慢していた我が家だったが、思いっきり負けてしまった。

昨日の爆裂お味噌作り女子会の名残がまだ、頭と体の中に居座っているけれど、引っ越す前から会いたい会いたいって言ってたかおりちゃんたちからのお誘いだ。
行かいでかぁ〜!

新しい橋を造っているタッパンジーブリッジ。
ウエストチェスターとロックランド郡を結ぶ新しいタッパンジー橋の工事費は39億ドル。
わたしたちが走っているのは、1955年に建設されたもので、わたしより2つ年上。


夏休み中、日本の小学校で過ごした海くん、日本語が猛烈に進化していた。


バーベキュー用のトウモロコシ。


いやもう、森の中の一軒家という感じ。
うっそうとしげる庭の木々を見上げていくと、まぁるく区切られた空が見える。


くつろぐ男たち。


この岩の壁の厚さ、50センチ近くあるらしい。


太ると上っていけない、肥満防止階段。


ああすてき!


引越し中の部屋の中を、遠慮なく撮っていくわたしを、しゃ〜ないやっちゃと許してくれるかおりちゃんとジョージ。




海くんの部屋がこれまた良い。


海くんのお宝が満載のクローゼット。




天井も、階段も、壁も、床も、歴史がぎゅうぎゅうに詰まっている。良いなあ…。




バーベキューの炭起こしの煙を見せたくて、大騒ぎする男子たち。




新鮮な野菜と、ジョージ流サーモン焼き(ヒノキの薄い板に乗っけて焼く)をいただいた。
超〜美味しかった!

左は、海くんの芸術作品。


スイカ割りがしたい!という海くんのリクエストに応えて、庭(森?)の中で落ちてる枝を探すジョージ。


さあ、スイカ割りのはじまりはじまり!


ぐるぐるぐるぐると回って、じゃあ、こっから真っ直ぐにねと念を押す父ちゃん。


とぉりゃ〜!


お見事っ!


誰だ、このへっぴり腰のおっちゃんは?


かおりちゃんとは、うんと年が離れているのだけれど、どんな話をしても楽しい。
そして、どんな話でもしたくなる。
今はとにかく、引っ越してまだ間がないので、なかなか落ち着けないかもしれないけれど、
彼女にはなんというか、見てる側を安心させてくれる、独特の雰囲気がある。
いろんなことに悩んだり、困ったりしていても、そしてそのことについて話している時も、彼女の中にはいつも、程よい余裕や自分を信じられる強さがある。
ジョージはそんな彼女を、本当に愛していて、もちろん愛息の海くんは、そんな二人の愛情を一身に受けている。
だからこの家族とは、いつ会っても気持ちがいい。

家庭菜園のこと、手前味噌のこと、手前納豆のこと、ピアノのレッスンのこと、息子を育てること、自分のキャリアのこと、そして政治のことももちろん、
いつまでもおしゃべりしていたいけど、月曜日からはまた仕事が始まる。
また近々会おうと約束して、お別れした。

行きはちょっと渋滞があって、1時間かかったけれど、なんと帰りは40分で着いた。
アメリカだと、40分は近所だ。
なんか嬉しくなった。

味噌とともだち

2016年08月29日 | 友達とわたし
じゃじゃじゃじゃ〜ん♪♪ こだわりのオーガニック大豆!!


じゃじゃじゃじゃ〜ん♪♪ こだわりのオーガニック玄米麹と、こだわりのオーガニックヒマラヤンソルト!!


というわけで、前回の味噌作りに使った、こだわりまくりのオーガニック大豆とオーガニック玄米麹とオーガニックヒマラヤンソルトで、伝説の超〜ウマ味噌を再現しようということになった。
前回はまるでお客のような調子で参加してしまったので、今回は注文と下準備から手伝おうと意気込んだまではよかったのだけど…。

まず注文の段階で、あわや計画中止か?!という危機を迎えてしまったすっとこどっこいなわたし…。
注文先に、注文は金曜日の午後0時までで、発送はその翌週の月曜日のみ、という恐ろしい決まりがあるなんて全く知らずにいたので、
そろそろ注文するべか、よっこらしょっと書き込んでいたら、え?え?え?そんなぁ〜!今は金曜の夜9時だよぉ〜!と、目の前が一瞬真っ暗になり、
慌ててあちこちのサイトを調べたのだけど無い!
どこをどう探しても、欲しい良品が全く見つからない!
そこで、こうなったらすがりつくしかないと覚悟を決めて、夜中だというのに、注文先にEメールを3通送った。
前回のお味噌作りで利用させてもらった者です。
もうほんとに美味くて、出汁いらずの、それはそれは素晴らしい味噌ができたので、ぜひ今回も使いたいのです!
けれども、味噌作り会の日にちがもう決まっていて、来週の月曜日に配達してもらえないとできないのです!
そんなことになったらもう、会を楽しみにしているみなさんに合わせる顔が無いのです!
などと、くどくどとお願いの言葉を並べた。
すると、翌日の土曜日の朝、二人のスタッフから、
「大丈夫、月曜日の配達分に入れておきました。お味噌作り、楽しんでください」という、なんともありがたい返事が来た。

水曜日に麹が到着。
木曜日にヒマラヤンソルトが到着。
金曜日の夜から、歩美ちゃんが泊まり込みで、塩と麹をまぜまぜする塩切り作業を、手伝いに来てくれた。

まずは大豆を水に浸して、


麹と塩を混ぜる。


ざっとひと回ししただけで、すごく細かい麹の粉?がパァーッと散って、思わずむせる。
腕の毛にびっちり付いた麹の粉。


愛と感謝の心を込めて、混ぜ〜る混ぜ〜る歩美ちゃん。




さて、今回の会は、あの知る人ぞ知る、メルヘンな丸いお家、のりちゃん邸なのであった。


塩切りをした晩、なぜか大興奮して、目がパチパチに醒めて、なかなか眠れなかった。
麹菌か?
でも、運転手を引き受けたのだから、なんとかして眠らねば!

なんせ、メンバーはみんな、お味噌は作りたいわ、のりちゃんちに行ってみたいわで、前々からワクワクドキドキしている。
けれども、のりちゃんちへは、電車やバスでは行けない。
なので、ニューヨーク組はみな、まずわたしんちに集合して、ここから車で一緒に行くということになったのだ。
電車を乗り換え乗り換えやって来る人に、重たいものを運ばせるわけにはいかない。
そこで、車で来られない人の大豆の水浸けはのりちゃんに、そして全員の分の塩と麹はうちから運ぶ、という段取りにした。
圧力鍋と作業に使うおっきなボール、フードプロセッサーと水浸けした2キロの大豆、それから全員の塩麹。
なかなか迫力のある量だ。
車で行く人数のことで、夫ともめたというか、いつもの会話のすれ違いなんかがあって、かなりストレスフルな2日間だったけど、
ひとまずニューヨーク組のわかちゃんとあっこちゃん、そしてあっこちゃんの愛息くん、それから歩美ちゃんとわたしの5人で行くことが決まり、出発進行!

のりちゃんちが初めての4人は、まずはお家見学と探検。
そしていよいよ、持ち寄った大豆を台所のカウンターに並べた。
これは、一回目の水切りした大豆。こんなのが5回6回と続いた。


マジ?
なんでこんないっぱいあんの?
これって、今日中に終われるのか?

いやもう、いきなりの巨大不安に襲われたのだけど、とりあえず平気なフリして大豆煮開始。


前回の、一回に煮る豆の量が多すぎて、圧力鍋がうまく使えなかったという教訓を生かし、多くても半分以下にして煮る。
3台それぞれのキャラクターを持つ圧力鍋を、使い慣れてきたのはほぼ終了という時だった。
まるでたこ焼き器だな。

こりゃ混ぜるのに、でっかい入れ物が要るなと、慌てて別の容器を洗うあっこちゃん。


豆が煮上がるまでの時間、みんなの手で塩切りしてもらおう。
やっぱりむせたあっこちゃん、怪しいヒトではありません。怪しそうに見えるけど…。


いきなり蓋が開かなくなったあっこちゃんの圧力鍋。
煮てる時からちょっと不調で、なぜか煮汁がポトポト落ちてきて、わたしたちはそれを器で受けては「うめぇ〜」と叫びながら飲んでいた。


原因は、蓋の内側のネジが緩んでいたことがわかり、早速ギュッと締めて調理再開。

熱いうちに潰した大豆と同じ分量の塩麹を混ぜて、ぎゅうぎゅうと保存用容器に詰めていくわかちゃんとレイチェル。


ところが、この方法ではうまくいかないことが後でわかり、なんとせっかく詰めた味噌をまたボールに戻す羽目になった二人。
計りでいちいち量りながら混ぜることを提案したのはわたしで、だからすご〜く申し訳ないことをした。
これもまた、次回への反省点。
それから、大豆は一人1キロじゃなくて、多くても500グラム。
これも次回への申し送りだ。

さて、かしましいわたしたちを優しく見守り、家の屋根の修繕に汗水垂らし、その上にわたしたちの夕飯まで作ってくれたジャン。
でも、わたしたちの作業がいつ終わるのか全くわからず、こちらもちゃんと段取りを伝えなかったので、すごく煩わしい思いをさせてしまったと思う。
感謝と陳謝!
まあ、まだ全然終わってないのだけども、キリをつけて夕飯をいただくことにした。


敷地内にある小川で一息。


いっただきまぁ〜す!


あっこちゃんの愛息くんは、この長い長い時間を、一人遊びで乗り切ってくれた。
せっかく水着まで用意して来たのに、母ちゃんのあっこちゃんを作業に縛りつけちゃったから、結局全然泳げなかった。
ごめんね!
次回はこんなことにならないように、おばちゃんたちがもっと気をつけるからね。

ではここで、わかちゃんが撮ってくれた作業の様子をご紹介。









いやもう、すべてが終わったのが夜の10時。
昼の2時半ごろからやってたんだから、7時間半、ほぼ立ち仕事してたことになる。
なのになんと、納豆作りまでやっちゃおう!という、なんとも意欲満々な女子会なのであった。


台所だけじゃなくて、家中ひっかき回してしまった。
なのに、ニコニコと、楽しかったね〜、またやろうね〜と言ってくれたのりちゃん。
ほんと、感謝です!
ニューヨーク組の送り係をレイチェルが引き受けてくれたので、彼女たちはわざわざうちまで戻り、そこから電車(週末は2時間に1本しかない!)に乗って帰らなくてもよくなった。

それにしても、ほんとに楽しい味噌作りだった。
わかちゃんが弾いてくれる三線の音色に合わせて、ウチナーンチュののりちゃん、沖縄に足を運んでいるあっこちゃん、そして歩美ちゃんが、味噌をこねながら沖縄の歌を歌う。
そうかと思うと、昔懐かしいアニメの歌や流行歌がどんどん出てきて、またまた歌う。
なにせ、30代、40代、50代、60代の、元気な乙女たちなのだ。
なんとも楽しい、懐かしい、可笑しい時間なのだった。

またやろうね!
でも、今度は一人1キロじゃなくて、500グラムの大豆にしよう。
みんな(レイチェルとのりちゃんの以外)のお味噌は、うちの地下室で静かに発酵しているよ。

不屈の人亀次郎の叫び「この沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する!基地となることを拒否する!」

2016年08月27日 | 日本とわたし
瀬長亀次郎の不屈の精神が、どのように、沖縄の人々の心に受け継がれてきたか。
アメリカ軍がいかにして、この不屈の人亀次郎を、民衆の前から追放しようとしたか。
その執拗さ、強引さは、アメリカ軍がいかにこの亀次郎を恐れていたかを示すものですが、
そのアメリカ軍の小汚い策略を成功に導き、亀次郎を議会から追放することを実現させた人間は、仲井真元櫂という名の議員であり、仲井真元知事の父親なのでした。
親子二代で、沖縄の人々の思いを踏みにじっていたことを知り、なんともいえない気持ちになりました。

では、長いこと間が空いてしまいましたが、前回の文字起こしの続きです。

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沖縄公文書館には、アメリカ軍が、徹底的に亀次郎の行動を分析した、機密文書が保管されている。


その名も『瀬長亀次郎ファイル』。


琉球諸島の共産主義のリーダーと警戒し、調べ上げた家族構成


アメリカ軍がマークするきっかけとなった、あの宣誓拒否について、亀次郎自身が述べた演説のメモ。


さらには、上京した亀次郎を、徹底的に尾行した記録も残されている。






その行動に、訴追できる材料は無いか、監視の目は常に、亀次郎を追っていた

その頃、軍用地問題に関する報告書が、沖縄に大きな波紋を広げていた。
調査団長の名前から、プライス勧告と呼ばれた報告書は、アメリカ軍の土地代の一括払いや、軍用地接収の正当性を唱えている




亀次郎らが打ち出した四原則を、真っ向から否定するもので、それに対する怒りは、ついに、島ぐるみ闘争へ発展していった。




そんな中で、亀次郎は、那覇市長選挙に立候補(1956年12月)。


市長選を、プライス勧告を押し付ける勢力との対決、と位置付けた。


それでも、投票日直前に、新たな土地の接収があきらかになった。
接収されたのは、普天間基地の移設をめぐって揺れる、名護市辺野古


その原点は、60年前にあったのだ。


亀次郎も、日記に記していた。

亀次郎日記(1956年12月21日)


そして、その4日後の市長選挙を制したのは、亀次郎だった。


市民は、クリスマスプレゼントだと言って、沸きに沸いたが、選挙中、亀次郎を中傷するビラを上空から撒いていたアメリカは、衝撃を受けていた。


那覇市長としての立場は、瀬長に、過激な反米プロパガンダや、琉球における、アメリカの地位を揺さぶる、新たな武器を与えることになるだろう。




さらに、亀次郎の勝因を、軍用地収用計画に対する強い反対姿勢や、綱領として掲げた日本復帰が支持された、と分析した。
米軍諜報報告(1956年12月27日)




沖縄の近現代史を研究する比屋根教授は、市長当選の意味を、こう考える。


琉球大学名誉教授・比屋根照夫さん:
抵抗する瀬長の姿、あるいは、逮捕投獄された瀬長の姿、というものに、沖縄の魂の殉教者というかな、そういうものを市民は発見した。
民主主義を勝ち取るという、瀬長のこの言葉ですね、『民主主義』という言葉は、やっぱりその、キラキラと光っていた


民主主義国家であるはずのアメリカは、民主主義で選ばれた亀次郎の追放工作を強めていく
那覇市への補助金を凍結し、アメリカ軍が大株主である銀行の預金を封鎖した。
沖縄タイムス・琉球新報(1956年12月28日付)


その措置は、銀行単独で発表され、アメリカの介入には、一切言及されなかった


自らは関与していないかのように振る舞う兵糧詰めだった。

米沖縄総領事発・国務長官宛航空書簡(1956年12月28日付)
すると、市役所に、市民の長蛇の列ができるようになっていた。


その列に驚いたのが、当時の那覇市職員、宮里政秋さんだ。


宮里さん:
おばあちゃん、何しに来たの?ったらね、アメリカーが瀬長市長をいじめるから、税金を納めに来たさー!目を輝かせて怒ってね、
行列してる人に何しに来たのって、そう言うと、そう答えました。
いじめればいじめるほど、(市民は)瀬長市政を守れと団結する。


亀次郎を助けようと、納税に訪れた市民の列だった。
納税率は飛躍的に上がり、97%に達したとも言われる。
その自主財源により、止まっていた公共工事も再開


しかし、今度は、別の悩みも生まれていた。
アメリカ軍の司令により、銀行が集まった税金を預からないのだ。

宮里さん:
新しく銀行買って、現金をね、銀行に納めて、置いてるお金をね、寝泊りしてね、中にはシェパードも連れてきてね。
このシェパード、人に噛みつくんかって聞いたら、いや、人民党には噛みつかないって(笑)。

亀次郎は、市民の激励に支えられていた。
その手紙の多くは、弾圧を恐れて、匿名の差出人が目立っていた。

アメリカが次に手を伸ばしたのは、市議会だった。
那覇市議会(1957年6月)


分断を図るバージャー民生官と、連絡を密にする市議がいた


亀次郎日記(1957年6月16日)
仲井真元櫂は、さかんに、バージャー民生官と連絡を取って…、


仲井真前知事の父であった

亀次郎日記
1時開会と同時に、仲井真議員緊急動議とともに、不信任案を上程

画策していたのは、不信任案可決による追放だった。

駆けつけた多くの市民で議場があふれる中、攻防が繰り返されたが、結局、少数与党である亀次郎派は、不信任成立を許す
瀬長市長不信任可決(1957年6月17日)


議事録に、議場騒然という言葉が12回も出てくる、混乱の中での可決だった。


亀次郎は、アメリカと沖縄の財界人たちの圧力に負けた、この屈辱の議会に、解散を命じると、議会を解散


市議選に突入したが、それでも市民は、亀次郎派を躍進させた


その祝賀会の挨拶で、亀次郎は、当選した市議を、沖縄に生息するガジュマルに例えた。


敗れた敵陣営の候補を、その木陰で休ませ、同じガジュマルになれと説得し、民主主義を嵐から守り抜く体制を取ろうと呼びかけた。

千尋さん:
目の前にいる人たちが敵じゃないってことが、わかっているわけですよ。
こんなふうにさせてるアメリカが悪いんだってことがわかってるので、なんで同じ沖縄の人同士、こんなに争うか?


アメリカに残されたのは、最後の、究極の手段だった。

亀次郎日記(1957年9月10日)
連中は、もう一つしかない手を考え出した。
即ち、不信任成立と同時に布令を出し、瀬長が立候補できないようにする


その通りに、アメリカ軍は、布令を改定する。
市町村自治法改定(1957年11月23日)


不信任議決の要件を、議員の3分の2の出席から、過半数に緩和した上に、復活阻止のため、投獄された過去を理由に、亀次郎の被選挙権を奪った


この、いわゆる、“瀬長布令”によって、アメリカは遂に、亀次郎の追放に成功したのである。


亀次郎はこう言い残して、市役所を去った。
「この追放司令によって、瀬長市長を追放することは可能である。
だが、可能でないのは一つある。
祖国復帰をしなければならないという、見えざる力が、50日後に迫った選挙において、やがて現れ、第二の瀬長がはっきりと登場することを、ここに宣言しておく」



亀次郎日記
市長追放の祝杯は、やがて苦汁に変わるだろう。
今、瀬長ががっかりしようものなら、市民はどうなる?
さあ、戦いは新しい段階に踏み込んだ。
頑張れだ。



むしろ、闘志をかき立てられる亀次郎の姿があった。

亀次郎日記:
私は勝ちました。
アメリカは負けました。
第二の瀬長を出すのだ。
それが、布令に対するこよなきプレゼントになるのだ。



仲松さんは、亀次郎が勝ったという意味を、こう理解している。

仲松さん:
アメリカはね、正々堂々と、私と対決することができないでね、権力でね、弾圧でね、私を追放した。


これは私が正義であるんだと。
民主主義者であるということの証明だという意味じゃないでしょうか。
人間的に勝利した、ということじゃないですかね。


自らの後継を選ぶ選挙でも、先頭に立った。
立会い演説会に詰め掛けた、十万の大衆を前に、祖国復帰を訴え続ける。


そして、第二の瀬長当選へ導いたのである。
市長選で後継候補当選(1958年1月13日)

これが、亀次郎を追放したアメリカ軍に、市民が出した答だった。


残されている32年前のインタビュー(1984年取材)で、亀次郎はこう語っている。
「えー、この歴史はね、正しい者が必ず勝つんだと。


で、正しくない者は負けるぞと。必ず報復されると、いう歴史の流れね、その鉄則は、間違いなくね、鉄則通り進んでいくと、いうふうに考えております」

そして、この民意の前に、アメリカは、自らの占領政策を見直す検討に入っていった


検討されたのは、将来に渡って確保する、基地以外の施政権を変換する、飛び地変換


あれほどこだわった土地代の一括払いを取り下げ、引き上げに応じた
亀次郎の抵抗は、民衆の意識を変え、社会の力となって、アメリカ軍の施政を変えさせることに結びついていた
一定の成果を見せた『島ぐるみ闘争』。

その後、日本復帰運動につながっていく。
本土の世論も動かすに至り、政権の最大の課題となった沖縄返還は、日米両政府が合意、1969年11月のことである
日米首脳会談(1969年11月)


しかし、その実像は、沖縄が望んだものではなかった
基地は、そのまま残った


翌年、亀次郎の姿は、国会にあった。
亀次郎初登院(1970年11月24日)


再度、布令が改められたことで、被選挙権を取り戻し、戦後初めて、沖縄から選ばれた、国会議員のひとりになっていた。

衆院/沖縄・北方問題特別委員会(1971年12月4日)
その舞台で、佐藤総理に迫った。


亀次郎:
返還が目的ではなくて、基地の維持が目的である。
この協定は、決して沖縄県民が、26年間、血の叫びで求め要求した返還協定ではない。
この沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する。



基地となることを拒否する。


佐藤栄作元首相:
基地のない沖縄、かように言われましても、それは、すぐにはできないことであります。


しかし私どもは、ただいま言われる、そういう意味の、平和な、豊かな沖縄県づくり、これにひとつ、まい進しなければならない。

このやり取りの5ヶ月後(1972年5月15日)、沖縄は、日本に復帰した。


しかし、その後見えた政治の姿は、佐藤の言葉からは、あまりにほど遠いものである。

その後も、基地あるが故の事件は、後を絶たず、民衆の決起は続く

少女暴行事件・沖縄県民総決起大会(1995年10月21日)


しかし、この場に、亀次郎の姿は無かった。
病床で、この模様を見ていたのだという。
その様子を、妻のフミさんが、歌にしていた。

<デモ隊を テレビに見る目輝きて 胸中燃えしか病床の夫> 瀬長フミ


2001年10月5日、亀次郎は、94歳で、生涯の幕を閉じた。


マジムン(魔物)=基地を退治できなかったことが心残り、という言葉を残して。
その人生は、ムシロの綾のように真っ直ぐ生きなさいという、母の教えを守り続けたものだった。

瀬長亀次郎と民衆資料
亀次郎の大きな写真が、訪れる人々を迎え、多くの資料が、その足跡を伝えている。


館長を務めるのは、次女千尋さんだ。
資料館の名は『不屈館』。


亀次郎が好んで記した『不屈』から取ったものだ。




千尋さん:
なぜ自分が『不屈』って書くか。
沖縄の県民の闘いがね、とても不屈だったっていうことで、自分はこの言葉を色紙に好んで書いてるって言うんですね。
でも、県民は、亀次郎のことを、不屈の人って言うんですよ。
だから『不屈』なんだろうって思ってるけど、亀次郎は、県民の闘いが不屈なんで、自分はこの言葉が好きだって言ってるんですね。



亀次郎の精神は、辺野古で生きていた
辺野古の海で抗議行動をするのは、金井創さん。
新基地建設反対の民意を実現させるために、何ができるのか。
勤務する大学が、全国からの募金で購入した小型船舶に、金井さんは、亀次郎の筆跡そのままに、不屈と命名した。


金井さん:
団結して、そして一人一人のそういう決意と覚悟っていうですね、まあここにこう込められて。


沖縄・南城市

牧師として活動する教会の説教でも、辺野古での活動にふれることがある。
当初は、金井さんらの行動を、心良く思っていなかった、仲間の船長のことだ。

金井さん:
あんな反対運動をしている人たちは、大嫌いだった


ところが、海が埋め立てられて、しかも、生活の場が破壊されていく、ということを実感した時に


あの反対運動をしていた人たちが頑張ってきたから、今まで基地は造られなかったんだ、という思いに至った


ということで、彼は加わって、今いっしょに船長をしています。

仲間に加わった頃を、仲宗根和成さんは、こう振り返る。


仲宗根さん:
国とけんかして、なんかメリットあるのかな?っていうのが、正直な気持ちでしたね。


これそのまま見逃してたら、多分、僕らはもういいですけど、これから生まれてくる子とか、次の大人になる世代が、まあ絶対難儀するだろうなと。


そっからですね、その思いが入っていって、直接俺が行動しないと、自分が行動しないと変わらない

不屈という命名には、最初は驚いたという。

仲宗根さん:
なんとか丸ですよ普通、船のは。
いっしょに闘っていくと、なんかこう、気持ちはほんとにわかりますね、その、金井さんがつけたこの想いってのもわかるし。
瀬長さんとか、まだ沖縄の先人のみなさんが闘ってた想いも、ほんとにわかります。


それで、いっしょにやってるんだと。
今いない、天国にい生きる先輩たちも、この想いでやってたんだなと思うと、やっぱり諦められない
ですよね。
ほんとに、不屈ですよね。
瀬長さんの人形が飾られてるから、いっしょに闘ってます。


そんな仲宗根さんとの出会いを、金井さんは、亀次郎が残した言葉に重ねている。


〝弾圧は抵抗を呼び、抵抗は友を呼ぶ〟(瀬長亀次郎のことば)




こういうことでもなければ、およそ出会うことがない、あるいは、同じ席に着くはずもないような人たちが、友になるっていうすごい出来事が、起こっててきましたし、今もそれは起こっていて、
ああ、瀬長さんが言われた言葉って、ほんとにそれは体験から言われたんでしょうし、そしてそれは時を超えて、私たちも日頃実感していることです。

裁判の和解で、海は静けさを取り戻していたが、再び、国が県を訴えた


この海はまた、闘いの場となるのだろう。

止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会(2015年5月17日)


「我々は屈しない!」

不屈の精神は、60年の時を超えて、沖縄県民の心に根ざしていた
伝来のリーダーも、あの時代に、その原点を見出している。

『瀬長亀次郎先生の生き様は、私も心から尊敬しておりました』


翁長知事・就任挨拶(2014年12月12日):
過重な基地負担に立ち向かうことができるのは、先人たちが土地を守るための、熾烈な島ぐるみ闘争で、ウチナーンチュの誇りを貫いたからであります。


その先頭にいたのが、瀬長亀次郎、その人であった。

翁長知事:
えー、私たちは、どのように厳しいことがあっても、粘り強く、力強く、そして未来を見つめて頑張って、
そして、何十年間、子や孫が、歴史を振り返って、あの頃の私たちが頑張ったから、今の私たちがあるんだねと言われるような、そういう想いを持って、頑張っていかなければならないと。

頑張ろう〜!!


千尋さんは、父の出獄に集まった民衆たちを、思い出していた。

千尋さん:
出獄してくるシーンがね、こんな熱気だったと思うんですよ。


みんながまた、自分たちの所に戻ってきたっていうことを、ちょうどこの辺りで、みんなが、何百人の人が待ち受けて歓迎をしたという雰囲気が、あの写真とダブって、多分嬉しかったんだろうなって思って、


場所もまさに今のここなので。
この民衆の力っていうのは、同じだと思いますね。



亀次郎の闘いが、今に伝えるもの。
今も、未来を探し続ける民衆の闘いに、その答はある。

比屋根教授:
沖縄は、過酷な現実を常に目の前にしていますから、その(思想の)血脈や潮流は、途絶えることがない


民主主義というものを武器にして、闘うということを、あのアメリカの、米軍の重圧下で、沖縄の人は学んだということですね


だから、闘いというか、沖縄の運動は、途絶えないわけですね


それは海が〜〜と泣いている


自然を壊す人がいる


約束は守らず祖国


あなたならどうする。


愛と涙


おしえてよ亀次郎


亀次郎の日記には、こんなことが記されていた。

亀次郎日記
民衆の憎しみに包囲された軍事基地の価値は、0に等しい。


戦後の沖縄で、アメリカ軍が最も恐れた男。
あなたは、亀次郎を知っていますか?

沖縄に脈々と受け継がれている、カメジローの『不屈』の精神

2016年08月25日 | 日本とわたし
米軍が最も恐れた男
〜あなたはカメジローを知っていますか?〜

語り 山根基世

このビデオを昨日、フェイスブックで知ることができました。
ここにこの動画を載せることができないので、文字起こしをしながら、お伝えしようと思います。
沖縄の、島ぐるみ闘争の不屈の精神。
その原点となった瀬長亀次郎さんの生き様と共に、沖縄が負わされてきた苦難や、理不尽な迫害の実態が、60年経った今と同じようなものだということを、改めて思い知らされました。

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↓以下、文字起こしはじめ

普天間基地の移設をめぐり、国に訴えられた裁判の開廷前。
沖縄県の翁長知事は、必ずこの場所に現れた。

「知事がみえました」


リーダーに、自らの思いを託す人々が作る、一体感や高揚感が包む光景。
実はこれを、かつての沖縄にあった、風景と人物に重ねる人も多い。

観光客が行き交う、那覇市の国際通り。


ここで、その人物は、歌になっていた。
♪それは昔むかしその昔 偉い偉い人がいて 島のため人のため 尽くした♪

民衆の先頭に立ち、演説会を開けば、毎回何万もの人を集めた男。


「一番偉い人と思います、はい、大好きですから」
「言葉が好きでしたね、正直で。もうああいう方、いないんですね」
「カメさんとか、カメジローさんとか」

♪おしえてよ 亀次郎♪


その人物とは、瀬長亀次郎。




「「抵抗の戦士」みたいなね、イメージでしたね」
「命を捨てていますからね、何も恐くは無いわけですよ」
「追っかけするのが楽しかったよ。神様みたいだね」

そして、半世紀以上も前の空気が、今、沖縄でよみがえっていると感じている。

「今の戦いとおんなしみたいだ。亀次郎と言う人がいなかったら、こういう盛り上がりはなかったと思うよ」
「沖縄の人を統一させるっていう、団結させるっていうことに、信念を注いでいた人で…」

団結して立ち向かったのは、戦後、沖縄を占領した、アメリカ軍の圧政
祖国復帰に向けて、民衆をリードしたその人物は、アメリカ軍が、最も恐れた男だった


米軍が最も恐れた男
〜あなたはカメジローを知っていますか?〜

https://www.facebook.com/groups/763784207089945/



戦後71年の、慰霊の日。


おびただしい数の犠牲を生んだ、悲劇の後も、沖縄の苦難の時は、止まることがない。




そのすべての始まりは、この沖縄戦である。


県民の、4人に1人が命を落とした地上戦は、本土決戦を遅らせるために、日本が、沖縄を捨て石とした戦いだった
去年発見された、未完成の原稿に、これまで知られていなかった、瀬長亀治郎の、沖縄戦体験が記されていた。


一家は、激しい艦砲射撃が島を襲う中を、逃げ惑っていた。


その道中で、亀治郎が目にした光景だ。

『朝日が上がり、道端に転がっている死人を照らし出した。


死臭で息が詰まるようだ。
鉄帽を射抜かれて、倒れている兵隊。
両足を吹っ飛ばされて、頭と胴体だけで、仰向けに天をにらんでいるおじさん。


頭のない赤ん坊を背負って、あざみの葉を握りしめて、うつ伏せている婦人の死体。


母は気を失って倒れてしまった。


そんな過酷な沖縄戦を、生き延びた人々が、次に直面したのは、捨て石の先に待っていた、占領の時代を生き抜く事だった


沖縄戦の残骸が、今も自宅周辺で見つかる、島袋善祐さんの記憶に残るのは、夜な夜な家にやってきた、アメリカ兵の姿だ。


島袋さん:
「コレカーラハ、ミンシュシュギデース。モウセンソウハアリマーセン、ってさ、こういうのはまあ、偉い人は言うでしょ。
しかし、夜になると、どんどん女を襲いに来るさね。
ヘイ、オクサーン、ネイサーンって来るさ。
だから、私は、母さんと姉さんは床下に、女はいませーんって。
だから玄関には、男の大きな靴を置いて、女はいないっていう」


(田井等)収容所では、極度の栄養失調で、倒れる人が相次いだ。


配給する食料を、増やすよう訴えた亀次郎たちに、アメリカ兵は言い放った。


「いったい戦争に負けたのは誰なのだ。生きておればそれで良いではないか」



うるま市の一部となった旧石川市は、戦後沖縄の、政治経済の中心地として発展した。


市内のこの民家にできたのが、戦後初の行政組織、沖縄諮詢会。

その会議録に、アメリカ軍幹部(ワトキンス少佐)の発言が残っている。


『軍政府は猫で、沖縄はネズミである。猫の許す範囲しか、ネズミは遊べない』


戦争直後こそ、沖縄戦で住民を虐殺するなどした、日本軍からの解放者と言われたアメリカ軍だったが、次第に、占領者の顔を見せていった
植民地支配そのものの実態に、亀次郎はこう言った。

「戦争は終わったが、地獄は続いていた。この連中は、県民の味方では無い」


戦後初めて発刊された、うるま新報。


その社長に、亀次郎が就任した。


それをきっかけに、亀次郎は、沖縄中を駆け周り、軍事占領に疑問を持つ人々との関係を強めていった。
そして、ついに立ち上がる。

1947年7月、沖縄人民党を設立


日本が、無条件降伏の際に受け入れた、ポツダム宣言の主旨に則った綱領を掲げた


民主主義を確立。
基本的人権を尊重し、自主沖縄の再建を起す

というものだ。


亀次郎は、ポツダム宣言に出会った感動を、記していた。
『その時の感激は、一生忘れないだろう。


それは、沖縄人民党結成の動機の一つとなり、アメリカ占領軍からの、県民解放の理論的武器になった』


その一方で亀次郎には、市民が、敗戦の負い目から、理不尽な占領軍への抵抗心を、奪われているように見えていた。
そんな心の奥底にあるものを呼び覚まし、一筋の光となったのが、亀治郎の演説だった。


島袋善祐さん:
手を握って、一握りの砂も、一滴の水も、とさや、ぜーんぶ私たちのものだよと。
地球の裏側から来たアメリカは泥棒だよと。
みんなで団結して、負けないようにしようという、こういう話。
それにもう、したいひゃー(あっぱれ)亀治郎!とさや。


さらに、有名なフレーズとなって、今に語り継がれている演説がある。

(演説が行われた那覇私立首里中学校・1950年7月)

この瀬長一人が叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。


ここに集まった人々が、声をそろえて叫んだならば、全那覇市民にまで聞こえます。


沖縄70万人民が、声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を超えて、ワシントン政府を動かすことができます。


その演説会の司会をしていたのが、その後、亀治郎を支えた、仲松庸全さんだ。


仲松さん:
指笛を鳴らして、拍手喝采が鳴り止まないといったようなですね、司会者の私も、その長い拍手をどう止めるかに、苦労した記憶があるんですよ。
その時、誰も口にし得なかった「基地撤去」とかね、「米軍は土地代を支払う」とかね、そういう要求を高く掲げて、演説でやったんですよ。
すごい迫力でしたね。

当時高校生だった、元知事の稲嶺恵一さんも、亀治郎の演説を追いかけていた一人だった。


稲嶺恵一さん:
もう早くから、むしろを持ってね、その一番前に、仲間とみんなでね、聴きに行ったことがありますよ。
強烈にアメリカを叩くわけですよ。やっつけてくれるっていう。
我々はその、若い青年ですから、子どもにとってはね、まあまあ、憧れの人のひとりでしたね。
民衆や大衆の心をつかんでいたという、みんな帰りはすっきりして、ニコニコして、帰ってきましたからね、話を聞いた後。


同じ頃、世界情勢は、急を告げていた。


朝鮮戦争が勃発し(1950年6月)、ソ連との冷戦抗構造が、より深刻化したことで、アメリカは、反共の防波堤として、沖縄を恒久的な基地にする、と宣言した。


翌1951年(9月)、サンフランシスコ講和条約で決まったのは、日本の独立と、沖縄の占領支配


本土が、経済復興に向かおうとする中で、沖縄は取り残されたのだ

沖縄を切り離すための環境は、徐々に整えられていた。
GHQ(連合国軍総司令部)マッカーサー最高司令官は、


「琉球は、われわれの自然の国境である。
沖縄人は日本人ではない以上、アメリカの沖縄占領に対して、反対しているようなことは無いようだ」
、と明言。

(沖縄新民報紙面にて・1947年7月15日付)

この2ヶ月後、昭和天皇の側近が、GHQに届けたのが、いわゆる天皇メッセージだ。
「琉球諸島の将来に関する天皇の見解」


昭和天皇は、アメリカによる、沖縄の軍事占領が続くことを希望していて、それがアメリカに役立ち、日本に保護を与える、としている


その形式は、日本に主権を残し、25年ないし50年、あるいは、それ以上の長期租借、と記されている


そして、日本の独立と共に結ばれたのが、沖縄を基地にした元での、日米安保条約
沖縄の軍事占領と、日本の非武装化、表裏一体のものだった


そんな中で、事件は起きた。

世界遺産、首里城。


その正殿の場所には、戦後、アメリカ軍が建設した、琉球大学の校舎があった。


ここで行われたのが、琉球政府創立式典(1952年4月1日)だ。


現在の県議会議員にあたる、立法院議員が、アメリカ軍への忠誠を誓う宣誓が行われた。
全員が脱帽し、直立不動の中、ただ一人、立ち上がらなかった人物がいた


瀬長亀次郎だった


仲松さん:
瀬長さんが、鳥打帽子をかぶったまま座っているわけですよ。
おおーっというですね、地鳴りのような声が、会場全体から上がりよったですよ。
驚きの声だったと思う。
それから感動。
アメリカに対する抵抗をね、具体的な形で表したわけですからね。

この行動は、“占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない”という、ハーグ陸戦条約を根拠にしたものだった


この出来事から32年後(1984年)に、当時を振り返る、亀治郎の肉声が残されている。

「我々はね、占拠されたんだから、アメリカじゃなしに、沖縄県民にね、それはそのー誓いますと、いうことは当然ですから。
米国民政府に忠誠を誓うために、選挙されたんじゃないんだと。


アメリカの星条旗の下で宣誓するとは何事だと。
この事件がね、アメリカにとってはね、いわゆる、瀬長の奴は好ましからざる人物、というふうに、極めて印象付けたんじゃないかと」

そして、民衆と一体化していく亀治郎と、アメリカ軍の戦いが始まった。

アメリカは、地主との賃貸契約が不調に終わっても、土地を強制的に取り上げることを可能にし、その土地代の、一括払いの方針を決めた。(『土地収用例』・1953年4月発布)


つまり、基地として、永久に使用することを目論んでいた

“侵略者の本性むき出しの進軍”


そう強く非難した亀治郎が先頭に立ち、立法院は、土地を守る4原則を打ち出した。

『土地を守る4原則』
⚫️土地代の一括払い反対
⚫️適正、完全な補償
⚫️米軍による損害の賠償
⚫️新規土地接収反対



1954年4月のことだった。

それから半年が経った10月6日、亀治郎が突然、逮捕された。


容疑は、アメリカ軍の退去命令に従わなかった男をかくまった、とするものだった。


弁護士をつけることも妨害された亀治郎は、裁判でこう述べた。

「被告人瀬長の口を、封ずることはできるかもしれないが、虐げられた幾万大衆の口を、封ずることはできない」


「祖国復帰と土地防衛を通じて、日本の独立と平和を勝ち取るために捧げた、瀬長の生命は、大衆の中に生きている」


判決は、懲役2年。
当時のニュースには、アメリカの意向を汲んだ、メディアの姿勢も見える。

琉球ニュース
共産党政治家が、いかに卑劣で欺瞞に満ちているかが、明らかにされたのであります。


そこには、共産主義をレッテルを貼り、亀治郎を徹底的に排除しようとする、占領軍の狙いが、色濃く見えた。

仲松さん:
土地強奪をするのに、一番邪魔になる党を潰しておかんといかんと。
瀬長さんというのは、この県民闘争のですね、県民の要求の、県民の戦いのシンボルですからね。

沖縄刑務所に収監された亀治郎は、克明な日記を綴っていた。




11月2日獄中日記を書き始める。


囚われの身になっても、祖国復帰への想いが、衰える事はなかった。


祖国復帰と土地防衛の戦いが、より熾烈化する年である。

しかし、亀治郎のいない間に、基地は、さらに広がっていった。


普天間基地を抱える、宜野湾市伊佐浜に広がっていた、美しい田園風景。


田畑や家屋を、アメリカ軍の銃剣とブルドーザーは、一気に押しつぶして行った。


質問:
力ずくで追い出すんですか?

前原穂積さん:
もうそうですよ、家を壊していくんだから。
貧弱な木材建ての家ですからね、どんどん壊していく、簡単に。


前原穂積さんは、土地闘争の最前線に立っていた。


前原さん:
住民はやっぱり、座り込みをするとか、そういうことで戦うわけですよね。
それに対して、(米軍は)排除するために銃器を突きつけると。
威嚇するわけよね。


戦いはあっという間に終わりをつげていた。


住民たちが一旦引き上げた、翌朝のこと。

前原さん:
朝起きたら、全部、(金網が)張り巡らされていたね。
こっちが寝ている間にやられた。


一夜にして、伊佐浜の風景は、一変した。
ブルドーザーを運転していたのは、アメリカ軍に雇われた、沖縄の人々だった。



何をやるかはギリギリまで知らされず、逆らうことはできなかった。

前原さん:
たーぶか(田んぼがよく実る所)っつってね、伊佐のたーぶかっつったら、有名だったんですよ。
米がよくできると。
生命の糧ですよ。


土地を離れては生活できないと。

生命の糧は、その面影すらなくなり、基地へと姿を変えた。




この場所にあった、沖縄戦から立ち直ろうとする住民たちの暮らしは、また、軍隊によって奪われていった。


亀治郎の獄中日記より:
伊佐浜の土地の収奪は、身を切られる思いがする。


伊佐浜民の地獄の苦しみを思い、ほとんど一睡もしなかった。


残虐な事件も、後を絶たなかった。




同じ年の9月、わずか6歳の女の子が、アメリカ兵に誘拐、乱暴され、惨殺された。


事件は、仲松さんの脳裏を離れない。

仲松さん:
6つになる女の子がね、ああいう形で、ハート軍曹に、強姦されて殺されて、唇を噛んで、草を握り締めて死んでいる、幼い女の子をね思うと、
今でも、あのー、怒りの涙が、こぼれそうな感じがするんですよ。
この(犯人の)ハート軍曹は、死刑判決が出て、米国に帰されたけれども、米国でどうなったかはね、全然情報が無い。
今まで誰も知らない。

それが、アメリカ兵犯罪の実態だった。


獄中日記(1955年9月21日)
腹の底からの怒りである。
鬼畜に劣る米兵の行動…
団結を固めよう。
三度叫ぶ。
一切の利己心を捨てよ。



その呼びかけは、現代でいう、オール沖縄の結集だった
この獄中日記には、家族からの手紙が閉じられていた。


「お父さんは体が悪いそうですね」
次女ちひろさんが、父の体調を気遣う手紙だった。
「わたしもやがて5年生です」


千尋さんにとっての、一番の思い出の場所、それは、かつての自宅があった場所だ。


瀬長亀治郎の次女・内村千尋さん:
パークサイドビルって書いてありますけど、あれのちょっと前で、当時はもっと、1メートルぐらいしか離れてませんでした。

すぐ隣にあるのが刑務所の壁で、監視塔が目の前にあった。

 
千尋さん:
囚人を監視するためだったら、中に作るはずだけど、なんで外に作ったのかなって不思議だったんですけど、
今考えたら、この亀治郎の自宅や、隣にあった、人民党本部を監視するために作ったのかなーって、いう気さえしますね。
だから、この独房から、大きな屋根が見えるって。
それで、屋根が見えてとても心強いって、この独房は大好きだって書いてあるんですよ(笑)。


しかし、そばにいながら、触れることさえできない。
千尋さんにとって、父亀治郎は、近くて遠い存在だった。
小さな心を痛めていた様子が、亀治郎の日記からも伺える。

亀治郎の獄中日記(1955年11月18日)
11月18日、3時ごろ、文とチビがやって来た。
チビは、相変わらずだまっている。
オヤジの変わり果てた姿を見て、小さい瞳に、つゆの玉がやどっていた。

千尋さん:
やっぱりあのー、なんか、刑務所に入っているっていうことは、とても、あのー、わたしにとってはショックだったと思うんですよ。
でも、周りは、あなたのお父さんは、みんなのことを救うっていってね、逮捕されてるんだから、とっても偉い人なんだよーって、言う人たちがたくさんいたんですよ。

その声の現れか、逮捕から1年半後にやってきた、出獄の時(1956年4月9日)。


亀治郎の前には、その帰りを待つ人々が、通りを埋め尽くしていた。


千尋さん:
後から写真とかを全部見るとね、看守の人、刑務官の人とか、所長さんらしき人とかね、みんな笑顔で送り出してるんですよ。


現在の裁判所の土地にあったのが、かつての沖縄刑務所
亀治郎が人々の大歓迎を受けたのは、国と県が、法廷闘争を行っている場所だった。

千尋さん:
ここを、自宅に向かって、歩いているわけです。
当時ですね、みんなが、えーっと、20名以上だったかな、まず行進するのには、届け出が必要な布令があったんですよ。
だからみんなが、亀治郎の後を付いて歩いたら行進になるから、動かないでください、僕が動きます。
っていうことを言ったって、なんかのメモに書いてあるんですよ。


今も残されている、出獄の際に着ていた白いスーツ。


その時の決意を、こう語った。

亀治郎:
これ以上、祖国復帰を叫ぶならば、再び監獄に入れられるかもしれないが、投獄もいとわない気持ちである


その夜、歓迎大会に集まった、1万を超える人々。


そこにあったのは、亀治郎を前に、祖国復帰への想いをさらに大きくした、民衆の姿だった
沖縄タイムス(1956年4月10日付)

しかし、アメリカ軍との、新たな攻防が始まろうとしていた。

ーその2につづく

夏日記

2016年08月22日 | ひとりごと
ずっと30℃超えが続いていた。
湿気も80%をゆうに超えていた。
エアコン嫌いの夫とわたしだが、さすがに耐えられず、二階の窓に取り付けた小さなエアコン2台と、一階の居間の、前の家の持ち主が使っていたらしい、いったい何年前のものかもわからない古いエアコンの合計3台に、活躍してもらうことにした。
すると、空調面積に対するエアコンの力量が不足しているからか、そこはかとなく涼しくて心地良い。
床を歩くたびに、足の裏が床からはがれにくくなるほどの湿気が、少しずつ減っていくのがわかる。

そんな日が数日続き、満月の夜が来て、


外では、夏だ〜と張り切る野菜の花が、元気に咲いていた。


そしてわたしは、汗まみれになって鶴を折る。




折るという字は、祈るという字に似ている。
折るという英語の語源がplyで、祈るはpray。こちらは音が似ている。
ルーの治癒力が高まりますように。
そして、散らばった腫瘍とうまく折り合いをつけて、共に生き永らえますように。
そう祈って、一羽一羽折っていく。


あまりにも暑くて、外に出て行く気がしないけど、せっかくの夏のゆるゆるスケジュールがもったいなさ過ぎて、
とうとうパンドラの箱を開けてしまった。
パンドラの箱の中身は…地下室の掃除。
たった7年だというのに、すっからかんだった地下室が、いらんもんだらけの、とんでもなく乱雑でホコリだらけの、到底他人さまには見せられない悲惨な状態になっていた。
いつかちゃんとしないと、と思いながら、全然ちゃんとできないままに、月日が過ぎてしまった。
だから、よっしゃ、やるぞ!と決心するには、相当の覚悟と勇気が要った。
そして時間の余裕も。
というわけで、覚悟と勇気はともかく、時間だけは充分に余裕があったので、やることにした。
外はカンカン照りだというのに、さすが、110年の歴史を誇る、そこらへんの壁から突然、フランケンシュタインが登場しそうな地下室は、薄暗くて涼しい。
けれども、砂埃、カビ菌で充満することが必至だったので、厳重にマスクをし、ゴーグルを付けた。
いやもう、ほんとは、Before & After の写真を撮りたかったのだけど、Beforeがすご過ぎたので、いくらわたしでも恥ずかしくて撮れなかった…いやはや…。
とりあえず、気がつくと6時間が経過していて、大型ゴミの巨大な黒いビニール袋が4つ、満杯になっていた。
一番心配だった、小さな動物(例えばネズミとかリスとか)の干からびた死骸とかは無くて、ホッとした。
だけど、充分に気味が悪いブツは其処此処にあって、それを摘み上げるのは大変だった。
掃除がひとまず終わり、それを夫に見せると、珍しくたまげていた。
それだけでもかなり達成感がある。
これで、今週末のお味噌作りの後に、保管のために預かる4件分のお味噌さんたちにも、気持ち良く発酵していただけるだろう。
掃除した日の夜は、用も無いのに嬉しくて、何回も降りて行っては眺めていた。
今度こそ、この状態を保ってみせるぞ!と、こっそり心に誓いながら。


そして先週の土曜日は、久しぶりに、自分の娘でもおかしくないほどに年の離れたジェーンと一緒に、初見連弾ごっこをした。
彼女は毎週土曜日の朝、ここから車で10分強のところにある女性専用のジムに行って、日頃の運動不足を補っている。
ある日ふと、わたしの家が近くにあるのではないかと調べてみたらあったので、ジムの帰りに寄って、連弾ごっこしたいんだけど、どう?とメールが送られてきた。
もちろんオッケーだったので、早速計画を立てた。
彼女とはよく連弾をして、カーネギーで弾いたこともある。
年も、環境も、学んだ方法や経験も、みんな全く違うのに、何のストレスもなく一緒に弾ける。
こんなパートナーが見つかるのはほんとに幸運。
あっという間に3時間が過ぎて、それでもまだまだ弾きたくて、椅子からなかなか立ち上がれなかった。
これからもこんなふうに弾いていって、レパートリーが増えたら、コンサートをしようかという話になった。
彼女は、メンデルスゾーンのピアノトリオの練習を、エミリーとサラの3人でずっとやっているから、プログラムの賑やかしに参加させてもらうつもり。
秋は忙しくなりそうだ。


さて、相変わらず、夏の野菜を楽しませてもらっている。
最近来てくれるようになった新しい生徒のお母さんは日本人で、家庭菜園でできた野菜を、せっせと持ってきてくれる。


白いなすびや、


レモンきゅうり、


うちの畑と比べること自体が間違っているのだけど、種類がすごく豊富で、出来具合が素晴らしい。
多分彼女は、シュタイナーのバイオダイナミック農法とやらを実行しているのかも。
一度、見学に行かせてもらおうと思っている。
まあ、だからといって、自分で実行できるとは思えないんだけども…。

うちはやっぱり、ワンパターンの葉っぱばかり。


しかも、細かく切らずに、手でガシガシいただく。


ビーツはまだ成功したことが無い。来年挑戦しよっかな。
このソースは夫のお得意。ヨーグルトとディルとニンニクをマゼマゼしたもので、ビーツにめっちゃ合う。


今年の大ヒット、ミントティー。
庭で絶賛増殖中のミントを、根っこごと引き抜いて(そうしないと他のハーブが育たない)、葉っぱをプチプチ千切っては熱湯の中に入れ、そこに蜂蜜をちょいと垂らして出来上がり。



これまで続いていたジトジト夏が嘘のように、今日はカラッカラに乾燥した涼しい風が吹く、気持ちが良過ぎる日になった。
今はもう、窓をちょっと開けていると肌寒いくらい。
薄い生地の長袖と靴下、長い丈のスカートをはいて、外に出しっ放しだったサボテンを中に入れた。
まとわりつかれると鬱陶しい、けれどもどこかに行ってしまうと恋しい、なんとも複雑な気持ちにさせてくれる夏なのである。




おまけにちょっとグロテスクな写真を。


果物アレルギー(というか、多分農薬)になって、スイカ以外は怖くて食べられなくなってしまったのだけど、
いつも隣町の健康食品スーパーで買う、無農薬小玉スイカが品切れていて、けれどもどうしても食べたかったので、コストコの、2個セットで、いつもの無農薬小玉スイカより安いのを買った。
二つ目のスイカを、ひとまず台所のカゴに入れて、一つ目を食べていたのだけれど、その二つ目の様子がどうもおかしい。
おずおずと手を伸ばし、持ち上げようとしたら、ぐしゃっと写真のように潰れた。
こんなのは初めてだった。
これって食べ物?

戦争や原発から、正義と命を守る運動はつながっていると、身を張って教えてくれる人々

2016年08月20日 | 日本とわたし
先日、伊方原発のお粗末で実現性の乏しい避難計画に比べ、遥かにマシなものを打ち出したにも関わらず、
住民の方々の強固な反対を受け、当時、国を挙げて推進されていた原発の中のひとつが、稼働することなく廃炉となった、アメリカの原発について書きました。
↓↓↓
「こんな避難計画では命を守れない」からと、廃炉になったアメリカの原発と、真逆の日本の原発事情
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/19713f99fb363c2d9574c5dd37a2ba2a

その原発は、うちからもそう遠くないロングアイランドという長細い島に建てられました。
そのロングアイランドに、反対運動が起こっていた頃からずっと住んでいる友人志津子さんが、当時のことを、違う視点から書いてくれた文章を紹介します。
ちなみに志津子さんは今、アメリカの大勢の議員に、高江の現状を写真と文章にしてまとめ、それをファックスで送り続けるという、大変な作業を続けてくれています。
彼女の、戦争や軍という存在に抗う気持ちの強さには、いつも頭が下がる思いがします。

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今日は、私が住むロングアイランドの中程にある、ちょっといい農場をご紹介。
ここは、瀟洒な家が並ぶ住宅地のど真ん中にある、10エーカーの土地ですが、ヨーロッパから移民してきた家族が、この地で、代々観葉植物栽培を家業としてきました。




オーナー夫婦は、旦那さんが土壌の研究者でもあり、パートナーは子供向けに、語りかけならぬ「歌いかけ」をする歌手・絵本作家でもあります。

沖縄の2倍ほどの面積がある、このロングアイランド島の沿岸の町ショーハムに、原発建設が進行していた時、
二人は、市民による反対運動の中で出会いました。

当時、国を挙げて推進されていた原発は、ここロングアイランドでも、数箇所に設置が計画されていたそうですが、
最初の予定地は、資産家が疎らに住む森の中のような町であったり、商業空港の側であったり、住民が多い海岸の町であったりしたため、反対に合い、計画の段階で頓挫。
ロングアイランド島の北部沿岸地区には、有名なセレブや、ウォール街で財を成したビジネスマン等の超富裕層が、
それこそ信じ難い豪華な家を建てて、海岸に住む権利を独占しているようなところがあり、
そんな場所での見苦しい原発建設は、ハナから無理なことだったのではないか、と思っています。

ショーハムは、鬱蒼とした森林地区で、周囲に住居もなかったため、大きな反対運動もなく、
また、郡にある高名な科学研究所が、お墨付きを与えたこともあって、電力会社が着々と建設を進めていたものの、
その後、スリーマイル島やチェルノブイリでの原発事故を見た島の内外の住民が、猛烈な反対運動を起こします。




そして、私が今住むサフォーク郡の各町の議会も、事故の際に避難誘導が出来ないからと、サインすることを拒むことになります。
当時15,000人を超す住民の反対集会があり、600人の参加者が、施設のフェンスを乗り越えて逮捕された、と聞いています。
私は当時、隣の郡に、日本から幼い子供3人を連れて移り住んでいましたが、凄いことになっていると、驚いて見ていただけでした。
今の話だったら、一緒にフェンスを越えたかったと思います。
ちなみにこの島は、私が越して来て30年余、一度だけ小さい地震があって大騒ぎになったという、「不動の地」です。
また、当時の名物民主党知事(パパ)クオモ氏が、
「ロングアイランド島住民の、避難計画が十分ではない」と、積極的に介入して、稼働を認めませんでした。
一旦、連邦政府が、テスト運転の許可を出したものの、電力会社は周りからの支持を得られず、遂にギブアップ。
NY州は、この原発を、電力会社ごと買い取り、巨額の資金を投資した原発は、一度も使われることなく廃炉に。




その後、州はこれを、負債ごと次の電力会社に売却しています。
そのため、私たちロングアイランドの住民は、今でもその負債を上乗せした電気料金を、払わされているのだそうです。
ついでに、その後、ロングアイランドの電力は、原発に無縁であるかというとそうではなく、
州北部の原発から電気を買い付けているので、原発と縁を切ったとは言えないのが残念なところです。
私が後に、イラク戦争反対で出逢ったアメリカ人の友人たちの殆どが、この原発反対運動に参加しており、この夫婦のことを知っていました。
(この夫婦の紹介のはずが、前置きが長くなりました。)

このように、原発反対運動で意気投合した夫婦は、この土地で家族向けの野菜栽培もしていましたが、
4年前に、CSA (Community Supported Agriculture=地域支援型農業、常に有機です) を始め、有機野菜を、コミュニティの人たちのために栽培し始めました。
CSAでは、その地域の人たちが、有機農家を支援するためにメンバーになり、1年分の会費を事前に払います。
農家は、この資金を元手に、種を買ったり、道具や農機具を買ったりします。
メンバーは、虫食いでも、形が悪くても、文句は言いません。
災害に見舞われて不作になっても、返金を求めません。
そうやって、地元の有機農家の生活を守ることに、快く同意する他、CSAによっては、会員に、ボランティアを義務付けるところもあります。
このCSAには、何かしらの活動に関わっている人たちが、折々手伝いに来ていて、嬉しい出会いも沢山ありました。






150人程のメンバーが野菜を受取りに来る、週2回の収穫仕分け作業と、
余剰野菜を生活困窮者に渡せるよう、フードバンクに配達するボランティアを、3年間してきましたが、
土地の所有者であるお婆ちゃんが、願いも虚しく、90を過ぎたところでポックリと亡くなりました。
そこで、お決まりの遺産問題が発生し、夫婦はこの農場を、売却せねばならないことになりました。
お金持ちが住む宅地地区です。
不動産屋に売れば、何十億というお金が入ったことでしょう。
でも夫婦は、この農場を、丸ごと生かすために買ってくれる、NPOや団体に掛け合います。
心に問題を持つ帰還兵の団体もその一つで、私は個人的にそれを願っていましたが、
最終的に、自閉症を抱える人達の支援団体が、買うことになりました。
ここで、その人たちは、野菜栽培を通して自然に触れ、働くことを経験し、夫婦は栽培指導を行っていきます。

今日は、その団体から、自閉症の人たちが来て、一緒にケールを10本ずつ数えて束ね、その後で、友人が食糧支援団体に届けました。






CSA時代には、普段地元の大学で環境学を教えながら、今も反原発運動にも関わっている先生が、
実に沢山の学生達を、この農場に、ボランティアとして送り込んでいましたが、今日も来ていました。
こういう学生とは、話が弾みます。
日本の政治は、今、とても恐ろしいことになっており、そこに、アメリカがガッチリと絡んでいる話をします。
彼は、卒業後、青年の船に乗り、ネパールで農業指導したいと考えています。
「インディアンポイント原発反対運動をしている日本人の友達も、ハンター先生のFBFなのよ」と、話をしている時に、
ピンポーン、その友人から、高江支援についてのテキストメッセージが、入って来ました。

汚染されない空気と、水と、土地、化学肥料を使わない野菜、置いていかれそうな人を置いていかない決意、
正義と命を守る運動は、どっこい繋がっていると、教えてくれる農園です。


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志津子さんもわたしも、マンハッタンの彼方此方で行っている、レイチェルと歩美ちゃんの呼びかけで始まった『Blue Vigil』のメンバーです。
沖縄につながろう、沖縄を支えよう、沖縄の現状を伝えようと、毎月一回、写真やメッセージを掲げ、街行く人たちに呼びかけています。

辺野古や高江の、暮らしの中に大きな権力との闘いを食い込まされ、長い長い月日をかけることを余儀なくされた住民のみなさん。
戦争のむごたらしさを身を以って経験し、その痛みや悲しみが癒える間もなく、戦勝国アメリカの支配を残酷な形で押し付けられている沖縄の叫びを、
わたしはこれまで、どれだけの長さの時間を、どれだけの数の言葉を、どれだけの量の痛みを、知らないふりをしてきてしまったのか。
そのことを考えるたび、申し訳がないという気持ちがどどっと押し寄せてきます。

せめてこれからでも、伝えていなかければならない、その役を引き受けよう。
そんな気持ちで沖縄の記事を書いています。

「沖縄高江はまるで戦争です。メディアはこの戦争を黙殺しています。この異常事態を伝えて!」三上智恵監督
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ce828b3e154d379bc84e0334472a6e63?fm=entry_awp

やんばるの森が、4000種以上の野生動物が、1000種類の魚と400種類のサンゴが泣いている
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/33b8ba50d1ba21d1112b5fc5c0adc017

その高江で頑張っておられる、「ヘリパッドいらない住民の会」の伊佐育子さんから、こんなメッセージが届きました。
どうして届いたかというと、これまた友人の歩美ちゃんの呼びかけで、高江の住民の会宛に、カンパとメッセージを届けたからなのでした。

ありがとうございます。
住民の会の伊佐育子です。
先日は、メッセージとカンパを頂き、ありがとうございました。
今やっと、工事作業員もお盆休みで、私たちも家でお盆をすることができました。
お礼の返信が遅くなりすみません。

人が人を殺すことはできない。
この基地が、それを可能にしてしまう。 
人が人でなくなるのが戦争だ。

と、沖縄のおじーやおばーが、戦場を見たからこそ、言い続けています。

昨年2月に2か所、完成したヘリパッドで、米軍へ提供もされていないのに、県道から堂々と、米軍車両が入り、24時間体制で4日間、ここで野戦演習がありました。
私たちも、仲間とテントを張り 昼間の動きと抗議のため、昼間だけゲートに居ました。

ゲート前の兵隊は、交代で、24時間昼夜を厭わず、私たちを監視していました。
堂々と道の傍で立ち見張る兵隊、ゲート前の車の中で休む兵隊、この子は、ブロンドの髪の女性でした。
車の中で、楽しそうにスマホをしていました。
その姿は、私の娘と同じですが、彼女は軍服を着ています。
それより赤いワンピースがとても似合う、幼さが残るかわいい女性です。
2~3日もすると、メンバーの顔もわかるようになります。
朝、テントに、パンとコーヒーを持っていきましたが、この日、人が少なく余ってしまい、 
そうだお隣さんに持って行こうと、たまたま居た留学生に通訳を頼み、持って行きました。

「朝ごはんのパンとコーヒーです。朝はもう食べましたか?よかったらどうぞ」

そこには、キャプテンらしい方もいて、「NO」と言って従ってましたが、
米兵にとって、私が持って行くものが安全なはずはない、と疑われてもしかたありません。
毒饅頭かもしれないのですよね。
私は、
「あなたたちは、私たちを敵だと思って、24時間銃を持ち監視しているが、
私たちはあなた方が、ここから戦場に行かないためにここにいるのです。
私たちは敵じゃない」
と通訳してもらい、パンとコーヒーをそこに置いて、テントに帰りました。

しばらくして、ゲートをあける動きがあったので、他の隊長に見つかったらこの子たちが怒られると思い、皿を下げに行きました。
すると、パンは、一切れも残っていませんでした。
次の日も、今度は、おもちをテントのストーブで焼き、醤油と海苔を巻き またまた通訳付きでお隣ヘ。 
餅の説明をすると、一人はすぐに食べてくれましたが、あとは恥ずかしそうだったので、また皿を置いてテントにもどりました。
しばらくして皿を戻しに行くと 餅もきれいに食べてありました。
そして反対に、そこに居た男性兵士が、「これ」と言って、彼が食べている携帯用の食料をくれました。
テントにいる人も、「これももらったよ」と、私のいない間に、食べ物の交換が行われていました。
次の日は、朝から慌ただしそうで、いつもの監視もなく、ゲートが開けられ、30台もの米軍車両が出て行きました。
彼女は、車両から、かわいい笑みでカメラに応えながら、ゲートを出て行きました。
無事に家に戻れますように、と願います。

同時に、いくらここで気持ちが通じたところで、隊長が、「あいつらを殺せ」と命令すれば、私を殺すでしょう。
殺すか殺されるかの選択です。
いくらここで私たちが頑張っても、何も変えられない、と思う瞬間です。
アメリカで感じた、壁の高さと無力さを、思うのです。
今、自国が、憲法も法もない暴挙で、高江の工事を進めています。
ここは、日本でも沖縄でもない、一体どこなのか?!と叫んでいます。
沖縄で起こることは、最初で最後にしてほしい。
あってはならないと。
非暴力で訴え、社会を変える。人を変える。 
ここに暮らすから、みなさんとともに、だからあきらめずにできます。

「ベテランズ・フォー・ピース」の総会で、「高江のヘリパッド新設の中止を求める緊急決議」もされ、とても勇気付けられています。
ありがとうございました。
長くなりすみません。
これからも どうぞよろしくお願いいたします。

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そして最後に、参議院選挙の投開票が終わって間もない、翌日の早朝5時頃から始まった、高江の弾圧と排斥の様子を、間近に見ておられた鴨下上人が、
その一連の出来事と、それについての感想を書いてくださったので、紹介させていただきます。

南無妙法蓮華経

皆様、報道等で、既に大半の事はご存知の事と思いますが、現地に居た者として、一連の出来事と、それについての感想を、お伝えしたいと思います。

今からちょうど2週間前の夜、参院選の結果が発表されていくなか、
沖縄は、十万六千四百票の大差で、オール沖縄が自民党の島尻あいこ現職大臣を降し、辺野古も高江も今後の見通しは良いだろう、と安堵していました。
(これで、沖縄県選出の全国会議員に、自民党は居なくなりました)

翌日、11日早朝5時頃に、資材を積んだ車両の隊列が、高江のジャングル訓練トレーニングセンター(以下、北部訓練場)に入って行くのを、たまたま村民が目撃しました。
後から分かったことですが、日本政府は用意周到に、この日の為に準備していたようです。
それからはまさに急展開で、様々な事が、この二週間に起こりました。

日本政府はもちろんの事、沖縄防衛局、外務省、米国海兵隊、沖縄県警等が、
翁長県政と県民の見えない所で、様々な画策をし、法律、条例等を無視し、説明もしないままに、着々と工事着工に向かっていきました。
例えば、 違法な鉄柵を設置する、抗議行動を排斥する、などなど。

囲っているフェンスでさえ、本来の米軍機地の境界線を越えて、県道の中まで設置している事が発覚しました。
県の許可を得ず、県警が、独断で県道を封鎖、検問。
検問では、トランクを調べようとする等の、明らかな越権行為が見られました。
住民の人達が車を駐車していた県道に、いきなり駐車禁止の標識を、これまた県の公安委員会の許可を得ず、名護署の署長の指示で設置。
テントも、車も、法律上、警察や、ましては防衛局が、撤去できる法的理由はありませんでした。

挙げ句の果てには、警察車両の前に座り込んでいた市民を、沖縄県警が撥ねた後、怪我を負った男性を、道の脇に無理矢理移動させ、車はそのまま逃走する。
などと、ちょっとにわかには信じられない事が、連続して起こりました。

少し変わった事例をあげれば、下っ端の防衛局員、各県機動隊員達も、明らかに動揺していました。
何も知らされないまま沖縄に送られ、市民弾圧の命令を受けてそこに立つものの、
「何故、私たちが体を張ってでも、工事を阻止するか」と、沖縄のおじいおばあが、沖縄の歴史を必死になって、涙を流して伝える、
かと思えば、歌を唄い踊りだす。
また、新聞でも報道されましたが、うるま市の女性暴行殺人事件を受け、他府県から集められた防衛局職員60名が、警備の理由で沖縄に派遣されていたのに、
高江の警備、即ち、米兵事件の防犯から一転、基地建設の要員に変わり、酷い管理下のもとで仕事をさせられていることも分かり、
炎天下の中、24時間体制で直立不動の姿勢を続けるのは、想像以上にきついですし、不満の声があがっていました。

警察官と会話してみて、彼らの行動原理は、まさに全体主義の上意下達だ、と感じました。

私が、座り込みのリーダーの決定した事を行っていないからと、なんと県警の男性が、
「リーダーが言っていることに従いなさい」と言い、
私が、
「私たちは、個人の意思で動いているから」と返答すると、
彼は、
「あなたは自分勝手な人だ」と言って、立ち去っていきました。

何を言いたいかといえば、国家権力は、殊に今の安倍政権は、中央集権を強め、
「我々に出来ない事などない」という姿勢のもとに、沖縄への圧政を強めているという事です。

最高権力を持つ政府が、法的なプロセスを踏まずに、物事をどんどん進めていけば、これに抗うのは実に困難であります。
政府が暴走する時に止められないのは、それを黙認する多くの国民が居るから、ではないでしょうか?

私は、この一連の出来事を、『沖縄処分』と呼びたいです。

500名以上ともいわれる機動隊を、全国各地(千葉、東京、神奈川、愛知、大阪)から集め、わずか160名の高江区を、制圧・圧殺しました。
このまま日本政府の暴挙を放って置けば、いつか必ず、いや、近いうちに、本土でも、法律を無視し、国権を行使してくる日が来るに違いない、と感じてます。
それほどまでの危機感を、この二週間の、日本政府のやり方を体験し、感じています。

7月22日はある意味、沖縄が殺された日です。
制圧された日です。

何故かと言うと、沖縄県政には何一つ通達せず、沖縄防衛局等には根回しし、周到に準備し、高江のオスプレイパッド工事の着工を強行したからです。

最後に、 先月辺りから、既に完成してしまったN4のオスプレイパッドには、オスプレイの離発着訓練の頻度が激増し、夜中まで行っています。
発着場から一番近い民家の安次嶺家は、夜、子供たちが、騒音によって眠ることができなくなったため、
今現在、隣の村に避難することを、余儀なくされています。
この事を、お母さんが、泣きながら訴えていました。

"北部訓練場の過半の返還は、基地負担の軽減"というのが、日米政府の一貫した主張ですが、
実は、新しく造る予定のオスプレイパッドは、その場所が、海兵隊の指示によって、決まっていたのでした。
元来の北部訓練場は、海無しの、森林部分だけでしたが、新たに造るG地区は、宇嘉川の河口付近に建設され、また、そこから海の領域も、米軍に追加提供されました。
しかも、高江区を囲うようにして。

SACO合意の基地負担軽減の仮面を裏返せば、基地機能の強化。
これはまさに、辺野古と同じです。

SACO合意の本質は、実は、移設、機能強化、ということでした。

ここまで欺かれ、弾圧される県民の中には、遂に心が折れてしまっている人たちもいるのです。

私自身も、多少なりとも仏教を学ばせていただいたことが、心が折れない柱となっていると思いますが、
沖縄の人達の心境を思うと、本当に悔しいですし、やりきれない想いも致します。

"妙とは蘇生の義なり"

御師匠様、御祖師様、御釈迦様の金言を心の支えにして、撃鼓唱題し、沖縄県民の心の支えに少しでもなれるよう、又、仏法の御縁が少しでも結縁できるよう、微力ながら勤めて参ります。

沖縄に来たことが無い方は、是非一度、お越しください。
またお越しください。
大したことは出来ませんが、少しはご案内出来ることと思います。

合掌 鴨下祐一拝


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沖縄県民の心の支えに、わたしも少しでもなれるよう、できることをし続けていこうと思います。

わたしたちは地震は止められないけれど、原発は止められる!地震国に原発はあってはならないのだから!

2016年08月16日 | 日本とわたし
この記事は、今から4年前のもので、書かれている事故は、今から28年前に起こったものです。

つい先日、実に5年4ヶ月もの長い間、停止していた伊方原発が、再稼働されてしまいました。
いつも日本が抱える問題を、深く掘り下げて提起してくださる守田敏也が、この件について、詳しく書いてくださいました。
その記事によると、
世界の中で、4年以上のブランクを経て、再稼働した原発は、14例しかなく、そのすべてで、大小の事故が起こっているのだそうです。
なぜかというと、
あらゆる機械は、恒常的に動かしていてこそ正常に動くのであり、長く停めていると、可動部がくっついて動かなくなる「固着」などの現象が起こり、動きが悪くなってしまうからです。

そして伊方原発は、川内原発と同じく、免震機能がありません。
さらに、通常より何倍も危険と云われている、プルサーマル発電なのです。

前回の記事では、避難計画のいい加減さと、こんな危なっかしい原発を動かそうとしている人々の無責任さについて、記事を書きました。
今回はそのつづきとして、過去に起こった事故や、津波が来ないなどと想定できない事実を、守田さんの記事とともに紹介します。


伊方原発上空飛ぶ危険
オスプレイ 普天間~岩国間で訓練
1988年 間近に米ヘリ墜落

【しんぶん赤旗】2012年7月22日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-07-22/2012072201_01_1.html


原子力発電と、墜落事故が相次ぐ米海兵隊の垂直離着陸機オスプレイ。
悪夢のような組み合わせが、現実になる危険があります。
24年前には、伊方原発上空を飛行していた米海兵隊ヘリが、同原発から800メートル先に墜落する、という事故も起こっていました。(竹下岳)


(写真)伊方原発(愛媛県伊方町)
❌が、CH53Dヘリの第1衝突点。その後、山頂を越えて、反対側に飛び越えた。

1988年6月25日午前10時10分。
視界20メートルの濃霧に包まれた、佐田岬半島の北側斜面に、普天間基地(沖縄県宜野湾市)所属のCH53Dヘリが、激突しました。
そこは、伊方原発(愛媛県伊方町)の、ほぼ真上でした。
現場を歩くと、その「近さ」に、慄然(りつぜん)としました。

機体は強い衝撃で跳ね返り、山頂を越えて、南側斜面を200メートルほどずり落ちて大破。
乗組員7人は、全員死亡しました。

「機体が跳ね返らなかったら、原発敷地内に落ちて、大惨事になっていた」

現場に急行した日本共産党の中川悦良県議(当時)は、こう証言します。

海兵隊は非常線を張り、中川さんたちも中に入ることはできませんでした。
「これが日米安保の壁か、と感じました」


この事故は、過去の問題ではありません。
佐田岬半島上空は、沖縄と岩国基地(山口県岩国市)を結ぶ「ルート」になっており、
88年の事故後も、普天間基地に所属する海兵隊ヘリの不時着や、目撃情報が相次いでいます。
(表、愛媛民報社まとめ)

米海兵隊は、オスプレイを普天間に配備した後、岩国基地に、2~3機からなる分遣隊を置き、10月以降にも、毎月訓練を行う計画です。
そうなれば、沖縄~岩国間の往復や訓練などで、伊方原発近辺を飛行するのは確実です。

また、FA18戦闘攻撃機も、九州方面から佐田岬半島を越えて、岩国へ飛行する姿が、何度か目撃されています。
19日午前、曇天のため、機影は確認できませんでしたが、記者も、岩国方面へ抜ける、ジェット機の音を聞きました。

原発の増設も続きました。
88年当時、伊方原発の原子炉は1、2号機だけでしたが、現在は3号機が立地。
しかも、同機は、ウランとプルトニウムを混ぜたMOX燃料を使用する、プルサーマル運転を行ってきました。
岩国基地に近い上関原発(山口県)の建設計画も、依然、続いています。

「伊方等の原発をなくす愛媛県民連絡会」の和田宰代表幹事は、
「原発は、上空から目立つので、訓練の標的にされやすい。
低高度でトラブルが発生したとき、安全に着陸できない欠陥機・オスプレイの配備は、絶対に許されない」
と訴えます。

▪️伊方原発周辺の米軍機事故

79年12月 保内町(現・伊方町) 保内中学校庭にAH1Jヘリ(普天間)2機不時着。

81年03月 保内町  保内中学校庭にAH1J(同)不時着。3日間駐機。

84年04月 三崎町(現・伊方町) AH1J(同)が建設会社敷地に不時着。

88年06月 CH53Dヘリ(同)が伊方原発至近に墜落。7人死亡。

89年06月 野村町(現・西予市) FA18戦闘攻撃機(岩国)が、野村ダムに墜落

00年04月 三崎町ムーンビーチ AH1Wヘリ(普天間)が不時着。僚機2機も着陸。

08年07月 MC130特殊作戦機(嘉手納)が八幡浜市などで超低空飛行。

12年03月 松山空港にCH53Eヘリ(普天間)4機が緊急着陸。


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8月12日、報ステが、伊方原発再稼働を鋭く検証。
避難ポイント51ヵ所のうち、22ヵ所までもが、津波被害が想定される場所
中村時広愛媛県知事は、
「とりあえず高台に上がれ。その時点で考える」
と、さすがの無責任ぶりを全開。


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伊方原発を動かしてはならない幾つもの理由−上
【明日に向けて】2016年8月15日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/ac6e04f05f8f856793573e9be441cddc
守田です。

すでにご存知のように、8月12日に、伊方原発3号機の再稼働が、強行されました。
13日には、核分裂反応が「安定的」に持続する、「臨界」状態に達し、本日15日午後2時過ぎに、発電と送電が開始されました。
今後、22日までかけて、出力をあげていき、フル稼働したのちに国の検査を受け、来月7日には、営業運転に入るとの見通しが、語られています。

伊方原発の、まったくもって無謀で無責任な再稼働強行に、怒りを込めて抗議します。

伊方原発を動かしてはならない理由、すぐに停めるべき理由は、実にたくさんありますが、
注目すべきことは、その多くが、川内・高浜原発と被ってもいることです。
なぜなら、これらの原発はともに、同じ矛盾に満ちた新規制基準のもとで、再稼働が認められているからです。
同時に重要なのは、同じ構造的欠陥を抱えた、三菱重工製の加圧水型原発であるからでもあります。

では、伊方原発に、固有の危険性、動かしてはならない理由とはなんでしょうか。

第一に、地震の大きな断層帯である、中央構造線のほぼ真上に存在していることです。

第二に、細長い半島の付け根にあり、その先に5000人もの人々が住んでいて、重大事故のときに、とてもではないけれど、安全な避難などできないことです。

この二つの理由だけでも、伊方原発は即刻、再稼働を中止すべきです。

この点を踏まえた上で、川内・高浜両原発にも共通する、動かしてはならない理由を、「明日に向けて」の過去記事を参照しながら、おさえておきたいと思います。

第三に、原発再稼働の認可を与えている新規制基準が、大きな事故の発生を前提にしており、それへの対策を求めたことになっていることです。

そもそも、チェルノブイリ原発事故が起こった時に、この国の電力会社と政府は、
「日本では、あのような事故は絶対に起こらない」と、うそぶきました。
言い換えれば、「だから原発の運転を認めて欲しい」というのが、私たち市民との約束だったのです。

この点から言えば、福島原発事故でこの約束は敗れたのですから、その時点で、日本の原子力産業を、終焉させるべきでした。
ところが、新規制基準では、言うに事欠いて、
「あのような事故は、絶対に起こらないと言ってきたことが間違いだ」と言い出したのです。
完全な開き直りです。
この点は、最も重要なポイントなので、ぜひ以下の記事を参照して、つかんでおいてください。

原発再稼働に向けた新規制基準は、大事故を前提にしている! 
【明日に向けて(1062)】2015年3月28日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/3d3e4b0cb07ae7a68734a3b52c9c693f

第四に、その新規制基準が、「福島原発事故の教訓を踏まえる」となっていることの矛盾です。
なぜかと言えば、そもそも福島原発は、1号機から3号機までメルトダウンし、核燃料が溶融して落ちてしまっていて、どこにあるのかもはっきりしない状態です。
この間、宇宙線のミュー粒子線を使って、ようやく、2号機の燃料の位置が確認されつつありますが、それすらも概略が分かっただけです。
肝心の、格納容器のどこが、どうして、どのように壊れてしまったのかも、分かっていません。
それどころか、猛烈な放射性物質である、溶け落ちた核燃料を、無事に取り出せるかどうかすら分かっていません。
要するに、事故の概要すらつかめてないのです。
これで、「事故の教訓」に学ぶことなど、できるはずがありません。


福島の教訓に基づく重大事故対策など、まだできるわけがない! 
【明日に向けて(1063)】2015年3月29日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/8718f402298f072498d32eb7f59478f8

第五に、柏崎刈羽原発の近くで起こった、中越沖地震の際、地震動の想定のあやまりが突き出されており、この点がまったくクリアできていないことです。
伊方原発が、中央構造線の上にあることを考えると、より深刻な問題です。
現在の原発は、直下で襲ってくる可能性のある、地震の揺れの大きさを、あまりに小さく見積もっているのです。

さらに、本年4月の熊本・九州地震では、熊本県益城町において、
M6.5震度7の地震が、14日に起こったのちに、M7.3震度7の地震が16日に起こると言う、これまでの観測史上にない事態を記録しました。
16日の地震のエネルギーは、14日のそれのなんと16倍。
さらに、その後1カ月の間に、震度1以上の揺れが約1400回、昨年1年間の、日本中の地震の8割近くが起こってしまったのですが、これまた観測史上初めてのことでした。
これらが突き出しているのは、現代科学が、まだまだ地震について多くのことを把握できていない、という事態です。
そもそもこの点からも、地震動設定は、かなり厳しく見直されるべきです。


原子力規制庁・新規制基準の断層と地震動想定のあやまり(後藤政志さん談)
【明日に向けて(1064)】2015年3月30日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/a3f0e8c33a857d8a36a56280845eedc1 

第六に、あらたに施された、加圧水型原発の過酷事故対策が、むしろ危険性が大きいことです。
ポイントは、水素ガス対策にあります。
燃料が高熱化した場合、それを覆っているジルコニウムが、水と反応することで水素が発生し、爆発の危険性が生じるので、これに対応した対策です。
福島原発では、水素爆発を避けるために、格納容器の中に窒素が封入してありました。
このため、容器内での爆発は避けられましたが、格納容器の蓋の締め付け部から、建屋内に漏えいしたと思われる水素のために、大きな爆発が起こってしまいました。

これに対して、容量が圧倒的に大きい、加圧水型原発の格納容器は、窒素の封入ができないために、より高い危険性があるのですが、
これに対して、水素が発生したら、イグナイタ—(着火装置)ですぐに燃やしてしまう対策をとる、としています。
しかし、過酷事故の中で、この装置がうまく働くのでしょうか。
なかなか着火がしなければ、どんどん水素が溜まっていき、やっと着火できたときに、格納容器内での破局的な爆発を、誘発しかねません。
安全対策どころか、自爆装置になってしまいかねないのです。


新規制基準の「重大事故」対策は、あまりに非現実的でむしろ危険だ! 
【明日に向けて(1065)】2015年4月6日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/d4c8272d4c01e698efd2e68600b4b4af

川内原発再稼働も禁止すべきだ!
〜加圧水型原発過酷事故対策の誤りを後藤政志さんに学ぶ〜
 
【明日に向けて(1075)】2015年4月22日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/9605e1dc395c1d33815861dad65ac36a

第七に、懸念すべきことは、伊方原発が、実に5年4カ月ぶりの、再稼働を迎えていることです。
昨年夏に、川内原発が再稼働するまで、世界で4年以上停まっていて再稼働した原発は、14例しかありませんでしたが、そのすべてで、大小の事故が起こりました。
なぜかというと、あらゆる機械は、恒常的に動かしていてこそ正常に動くのであり、
長く停めていると、可動部がくっついて動かなくなる、「固着」などの現象が起こり、動きが悪くなってしまうからです。

しかも、原発は、大量の水が循環しており、一部は海水がまわっているため、腐食やさびなどが生じやすいのです。
しかし、設備があまりに巨大なために、あらかじめ、すべての箇所を点検することができません。
そのため、こうした事故が起こりやすいのです。
この間の再稼働でも、川内原発1号機で、復水器のトラブルが起こりました。
高浜原発4号機は、送電開始とともにアラームが鳴り、原子炉が緊急停止してしまいました。

なお、以下の記事では触れていませんが、こうした長く停まっていた原発のトラブルは、機械的要因だけはでなく、
運転手や保守点検員などの、技術者の能力の低下にも直結します。
このため、事前の点検にミスが出やすかったり、さまざまな数値の入力の誤りなども生じやすい。
4号機も、それで停まったのだと思われますが、原発の場合、こうしたミスが大事故に直結することもあるだけに、深刻です。


再稼働した川内原発で、さっそくトラブル発生!
ただちに運転を中止すべきだ!
 
【明日に向けて(1127)】2015年8月22日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/649eafab984d8f08dcb08954f246de2f

第八に、加圧水型原発である伊方原発は、致命的な欠陥を抱えた蒸気発生器という、大きな部品を持っていることです。
蒸気発生器は、炉内を約150気圧300度の高温で周っている一次冷却水と、細管で接して、二次系に熱を送り、タービンを回す蒸気を発生させる機器です。
この細管が、高圧高温のために損傷しやすく、すぐにピンホールが空いてしまい、
美浜原発では、配管がギロチン破断して冷却水が飛び出すという、深刻な事故が引き起こされました。
冷却材喪失で、メルトダウンに発展する直前まで、事故が進みました。


このため、三菱重工は、蒸気発生器を交換しながら、原発を運転してきましたが、
2007年と翌年に、アメリカのサンオノフレ原発に、蒸気発生器を輸出して交換したものの、すぐに深刻な事故が起きて、原発が停まってしまいました。
その後、アメリカの原子力規制庁が査察に入り、「修理不可能」と判断。
なんと、サンオノフレ原発は、廃炉になってしまったのです。

技術的には、これと同じ時に作られた蒸気発生器を、三菱重工は使っていますが、
なんと、川内原発2号機は、この部品を運び込み、取り替えの認可も得ていたにも関わらず、交換をしないで再稼働してしまいました。

どう考えても、サンオノフレ原発の事故で、同じ時期の技術で作られている最新型が怖くなって、交換をせずに再稼働したとしか考えられないのですが、
しかし、なぜ交換しようと思ったのかと言えば、もともとの部品に自信が持てなくなったからです。
このため、川内原発は、1号機は最新型を付けているから危険で、2号機は旧型を付けれているから危険なのです。
交換しようがしまいが、蒸気発生器の欠陥という問題を背負いこんでいるのが、加圧水型原発なのです。
伊方原発も、これと変わらない部品を使っており、その面でも極めて危険です。


川内原発2号機の再稼働は、あまりに危険!
みんなで食い止めよう!
 
【明日に向けて(1166)】2015年10月8日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/4b723d9972dd00d65f24baa1e200ebab

第九に、7月に起きた、1次冷却水の循環のためのポンプの故障事故もまた、この原発の構造的欠陥が原因である、と思われることです。
なぜなら、同様の故障事故が、2005年に美浜原発1号機で起こっており、実は、2003年に、同じ伊方原発3号機でも起こっていることです。
あるいは、川内原発1号機では、2008年に同じ個所で、一次冷却水を循環させるためのモーターに取り付けられた、プロペラの主軸が折れてしまう事故も起こっています

しかも今回、伊方原発3号機は、直前にこのポンプを新品に交換して、再稼働へとのぞみつつあったのでした。
にもかかわらず、事故がおきて、再稼働スケジュールが一月近くも伸びたことからも、この部分に構造的欠陥があることがうかがわれます。
150気圧300度の、高圧高温の熱湯がまわっているだけに、大変危険です。

伊方原発3号機ポンプ故障事故は大問題!再稼働を断念すべきだ!上 
【明日に向けて(1282)】2016年7月24日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/643579af330808d6be892623cd6ed94b

伊方原発3号機ポンプ故障事故は大問題!再稼働を断念すべきだ!下
【明日に向けて(1283)】2016年7月24日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/9a7954d2d3903adade7e5affa003fb26

細かくは、もっと指摘できることもありますが、ともあれ、これらからだけでも、伊方原発が即刻再稼働を止めるべき理由は明らかです。
今からでもけして遅くありません。
伊方3号機は運転を中止せよ!の声を、各地で高めていきましょう!
 

「こんな避難計画では命を守れない」からと、廃炉になったアメリカの原発と、真逆の日本の原発事情

2016年08月15日 | 日本とわたし
「こんな避難計画では命を守れない」という、住民の方々からの申し立てを受け、群や州政府が稼働を認めなかったことから、一度も稼働せぬままに、廃炉が決定した米国の原発。

日本では、米国のように、「緊急時の避難計画」は、原発の許認可条件になっていません。
だから、いい加減な避難計画をごり押しされて、それを仕方なく受け入れてしまっている。
どうしてこんなにも、米国市民と比べて、日本市民は、命と健康を粗末にしなければならないのでしょう?

伊方原発はすでに、再稼働されてしまいました。
この番組は、再稼働の一ヶ月前に放映されたものですので、ナレーターは何度も、こんな状況で再稼働しても良いのか?と問いかけています。

住民が避難できないからと、米国の原発は廃炉になりました。
一方日本は、避難を阻む狭い半島、何本もの活断層という、ショアハム原発より、はるかに条件の厳しい伊方原発が、つい先日、再稼働されてしまいました。

いったいこの違いはなんなんでしょう?
そもそも、避難計画が無いと動かせない産業なんて、有り得ません。
でも、一番腑に落ちないのは、原発の側に暮らしている住民の方々の、
「事故が起きたらもう死ぬしかない」
「放射性物質が出てこないうちに、逃げられるんだってよ」と言って笑っている、その態度です。
なぜこのような、自分の命や健康に関わることを、他人事のように考えてしまえるのか。

ここに、過酷な原発事故の後、稼働ゼロになっていた原発が、次々と再稼働をし始めてしまう日本社会の、
自分自身さえ真剣に守れないという問題が、くっきりと見えてきたように思えてなりません。




dailymotion版はこちら→http://goo.gl/QvXjdV

↓文字起こしはじめ

ナレーター:あおい洋一郎

ニューヨーク・マンハッタン島から橋を渡ると、その先には、大西洋に浮かぶロングアイランド。


郊外型住宅地帯を抜け、車で1時間ほど走れば、そこに原発がある。


ショアハム原発。


完成はしたが、使われることなく廃炉となった。
なぜ?
その最大の理由が、
原発が過酷事故を起こした時の、避難計画だった。



事故発生は、学校が授業中と想定。


季節ごと、悪天候の場合など、避難時間は21のケースに分け、5分間位まで計算。


緻密に見えるこの計画の、どこが問題だったのか。


東西におよそ190キロ。


細長い島の中程に、ショアハム原発はある。

原発より先に住む人たちの、命が守れない。
これが、廃炉になった、決定的な理由だった。


立地の状況は、まもなく再稼働する、愛媛県の伊方原発と似ている。
伊方原発も、佐田岬半島の付け根から、およそ5キロに建てられている。


原発より先に住む住民は、5千人。
彼らは、原発で過酷事故が起きた時、計画通り、無事避難できるのだろうか。

住民避難のために、県が手配するバス。


だが、 県がバス組合と交わした覚書によれば、運転手が累積1ミリシーベルト以上被爆する場合は、バスを出さない。


肝心な時に、バスは来るのか?

4月の熊本地震。
震度7が、2度連続して起きた。
上下方向の加速度が大きく、長周期の地震動も発生した。



新しい規制基準は、こうした地震に対応できるのか?


原子力規制委員会・田中俊一委員長:
私どもは、科学技術としての判断基準に基づいて、その、停止するか稼働に値するか、決めているわけですね。
別に、安全上の問題が起こるというわけではない。


伊方原発の建設当時、中央構造線は、活断層とみなされなかった。


長さ360キロに及ぶ、巨大な活断層帯を、6キロ沖に抱える伊方原発が、まもなく再稼働しようとしている。


地元住民の女性:
原発に何か起きたらもう、死ぬるしかない。
逃げ道がないからここに、ね。



避難計画で原発やめました
違いは何だ!?伊方とショアハム




愛媛県伊方原発3号機が、来月にも再稼働される。


4月に起きた熊本地震では、地震の常識を揺るがす現象が発生した。
それらは、伊方原発再稼働に影響しないのだろうか?


そのひとつめが、震度7が立て続けに、2度起きたこと。


耐震建築の建物の多くが、一度目の震度7は耐えた。


しかし、二度目の震度7で、倒壊した。


原発は大丈夫なのか。

田中委員長:
一般の家屋がこう、何回か繰り返して、2回目の地震で倒壊したっていうのは、結局もう1回目で、塑性変形元の形に戻らない変形)弾性(?)領域を超えているっていうことなんですよね。


原子力施設については、そういう設計はしてませんので。

原発の耐震基準は、一般の建築基準よりはるかに厳しいが、


配管等が1度目の地震で塑性変形し、二度目で破壊するのでは、と懸念する専門家もいる。



ふたつめが、長周期地震動だ。


熊本地震で観測された211カインは、観測史上最大で、川内原発の想定を超えた。


複雑な振動が、建屋や配管に、どんな影響を与えるのか。


みっつめが、縦方向の揺れだ。


熊本地震では、上下に強い揺れを観測。
コンクリートの建物は、上下方向の揺れに弱い。

熊本地震では、地震に関する新たな知見も得られつつある中、規制委員会は、これらの点をどう見ているのか。


田中委員長:
ーー的に、安全サイドで評価をするということを貫いてますので、今変えなきゃいけないという知見は、何もないと思います。



今回の熊本地震は、別府・熊本破砕帯と呼ばれる、断層に沿って起きている。


その延長線上、長さ360キロに及ぶ中央構造線に沿って、東にたどれば、再稼働を控える、愛媛県の伊方原発がある。


この、中央構造線。
伊方原発が建設された1970年代初めには、活断層とされていなかった。


この巨大活断層は、1995年の阪神大震災が起きるまでは、動かないものとして、審査の対象とさえなっていなかった。


現在は、伊方原発の沖に4本、活断層が存在することが明らかとなっている。


発見したのは、長年、津波堆積物から過去の地震を調べてきた、高知大学の岡村教授だ。




伊予灘を、丹念に音波探査し、活断層を発見したのだと言う。

高知大学(地震地質学)・岡田眞特任教授(津波堆積物から過去の地震を調査):
1番近いとこ、ここにあるんですけど、1本ですね、2本ですね、ここもここも大きい、ここにちょっと小さいのがあって、それで4カ所。




質問:
伊方原発を建てて、1号機、2号機、3号機と建てていく時代というものは、安全審査みたいな中に、中央構造線…

岡田特任教授:
ないです、そういうものは。
それが活断層で、そこが地震を起こすという前提で、1号機も、2号機も、3号機も、設計されてないんですよ。


大きな地震が無い、という前提に立っていたことから、伊方原発は、他の原発と比較して、耐震設計が甘いのではないか。




新しい基準に合わせるには、巨額な費用がかかることから、1号機はすでに、廃炉が決まった。


岡村教授は、活断層から原発までが6キロという、距離の近さも問題だと言う。


岡田特任教授:
伊方の場合は、わずか6キロから8キロにありますので、(地震が)来たってことが分かるのが、地震発生1秒後なんですよ。
検知して、1番揺れが大きくなるまで、わずか1秒しかないですよ。



地震で、原子炉は、直ちに自動停止を始める。
運転員は、即座に対応できるだろうか?

岡田特任教授:
地震学っていうのは、こういったことについては、非常に手に取るようにわかる。
でも、明日起こることが分からないんですよね。
それは、5年前にも経験した通りです。
東北でも経験した。
今後、まあ、10年とか15年ぐらいは気をつけないと、別府から伊予灘にかけてのところが動かないと言う事は、全く言えませんね。
我々の、わずか10万円の予算でやった調査で、こんなに巨大な断層があるということがわかってきた。
なのに、四国電力は、なぜこんな簡単なことがわからないのか。
で、こういう会社が、安全だ安全だということを言われても、われわれはそれに対して、全く信用ができないと。



伊方2号機建設に向けて、四国電力で安全審査に関わった関係者も、中央構造線について、こう指摘する。


松野元氏(四国電力で伊方2号機の申請係・原子力防災の専門家):
技術者として考えると、伊方原発は、やっぱり立地上が問題で、
かつては中央構造線は、活断層と言われてなかったから、あそこに立地したんだけど、


今は活断層と言われてますから、今から立地を考えれば、伊方ではありえないんです。
中央構造線に、規制基準を当てはめていいよって言ってます。
でも、その基準は、日本の他の断層で研究した結果で、それを世界一の中央構造線に当てはめて、いいよって言うので良いのか、私は疑問に思いますね。



で、避難計画が不合格になった例があるんですよね。
アメリカのニューヨーク州の、ショアハムっていう原子力発電所なんですが…。


マンハッタンから車で1時間、ロングアイランド東部・サフォーク群は、ニューヨークの避暑地でもある。


東西に細長い島の真ん中に、ショアハム原発は建設された。
なぜショアハム原発は、1度も使われずに、廃炉となったのか。
その道筋をたどると。



ストーニーブルック大学図書館の係員:
ここがショアハム原発関係のセクションです。


地元図書館に、ショアハム原発が、放射能を出す事故を起こすことを想定した、分厚い避難計画書があった。


この計画書は、地元自治体が、命を守れる計画は作れない、と突っぱねたため、電力会社が作成したものだ。


推定避難時間のページを見てみると、ケース14、16、18、20は、夏で、天気の悪さの度合いで、
ケース13、15、17、19は、冬の場合で、それぞれ2マイル、5マイル、10マイルの距離に住む人が、


50%、90% 100%避難するのに、何時間何分かかるか、事細かく計算されている。





ロングアイランドは、近くに活断層がない。
なのになぜ、避難計画が問題となったのか?

ピーター・マニスキャルコさん:


これが、ショアハム原子力発電所です。
福島福島原発と、同じ形式の原発です。
私たちが幸運な事は、世界で初めて、運転開始直前の原発を、完璧にストップさせたことです。
完成していた原発を、廃炉させることができたのです。



質問:
避難計画の、何がいけなかったのでしょうか?

ピーターさん(サフォーク群住民):
ハハハ、ここは島です。
日本も島でしょう?
どこにも逃げられません。
ウィークデーは人口密度も高く、この島の主だった道路は、渋滞し動きません。
逃げ道はありません。


シド・ベイルさん(サフォーク群住民):


ロングアイランドの南北は、とても狭くて、北海岸から南海岸まで、30キロほどしかありません。
だから、実効性のある避難計画を作る事は難しく、ほとんど不可能でした。


アメリカの原子力規制委員会のヤツコ元委員長にも、ショアハム原発の避難計画について聞いた。

ヤツコ元委員長:


心配していたのは、地理的に、緊急時に逃すことができるか、でした。
長い島の端っこにいたら、逃げ道は少ないです。
西に逃げて、ニューヨークに向かっていくしか、原発の東側の住人を、逃す方法はありません。
地元自治体は、安全に避難するのは無理だ、と言いました。



1983年、サフォーク群の議会は、避難計画を受け入れないことを決議した。


どのような放射能緊急対応計画も、住民の生命、健康、安全を守ることはできないので、


サフォーク群により、採用されることも、実行されることもない。

最終的に、州政府と120万人の住民が、電力会社の損失を、向こう30年負担することで、廃炉という決着を勝ち取ったのだ。



質問:
これはなんですか?

ベイルさん:
これは、電力会社の請求書です。
この下線を引いているのが、サフォーク郡不動産税調整です。


大体、電気代の3%です。
ロングアイランドの半分、120万人が、2026年頃まで支払う予定です。
払い終えたら、みんなでお祝いします。



ここで、押さえておきたいポイントがある。


細長い島とはいえ、広大な大地が広がるアメリカ。
ショアハム原発から避難道路までは、16キロ離れている。


一方、伊方原発。
縮尺を合わせると、佐田岬半島の狭さがわかる。


避難路から伊方原発までは、目と鼻の先。
佐田岬半島の最も狭いところは、800メートル。


こちらが瀬戸内海。


そして、避難道となる国道を挟んで、こちらが宇和海。


両側に海が見えるほど狭い。

主たる避難路である国道沿も含め、半島は、至る所が、土砂災害危険箇所に指定されるほどの、急峻な地形だ。




伊方原発より先に住む5,000人は、原発事故が起きた時、逃げられるのか。


昨年、住民参加の避難訓練が行われた。
避難訓練のシナリオはこうだ。


原発の西で、道路が寸断された。
だが、津波は来ないので、港は使える。


寸断箇所より港側の住民は、フェリーや海上保安部の艦船などで、避難する。


ただ、原発の過酷事故は、複合災害で起こる可能性が高い。
南海トラフ地震での津波予想は、半島の南側で最大21メートル、原発側は2.45メートルだ。


港から、船で避難することになっている地区の住民は、どう見ているのか。



住民の女性:
津波が来て原発きたらもう、死ぬるしかないですよね。
原発向いてあんた、逃げるわけにいかないし。



一方、寸断された箇所より、東に住む住民は、港へ向かえない。


県が手配するバスに乗って、東へ向かう。


県庁所在地の、松山市方面に避難する、というのがシナリオだ。


避難するには、原発のすぐ近くを通らなければならない、地区の住民は?


住民の男性:
放射能がすぐ(?)出るて言われてるから、何も心配してないけど。

別の住民男性:
我々が行くときには、まだ放射能は出てないという仮定、想定。


想定では、放射能の放出前に避難するから大丈夫だ、と言う。


だが、福島第一原発の事故の時、翌朝になっても、事故の発生を知らない住民が多くいた。


思い出してほしいのは、アメリカショアハム原発では、避難道路まで16キロ
ここ伊方では、原子炉までわずか、1キロの距離なのだ。


福島では、水素爆発で、事態が急変した。
そうなれば、バスが高濃度の放射能に巻き込まれる恐れが高い。


福島事故の後は、ほとんどの道が、長時間大渋滞した。
伊方の場合はどうか?

地元警察官:
まぁ道がないですからね、渋滞が起こると思いますんで。



訓練後の会見で、国の説明は?

山本哲也官房審議官(原子力防災担当):
1日以上の長い渋滞になるんではなくて、まぁ、数時間程度の渋滞になるかと、いうふうに考えております。


質問:
原発に1番近いところで、どのぐらいの距離があるか、ご存知でしょうか?

山本官房審議官:
あの、正確な距離は、承知しておりませんが、数キロ、あるいはもう少し短いかもしれません。

質問:
3号機までで、1キロです。
放射性物質が漏れているときに、国道で、渋滞がずっと動かない。
どう思われますか?

山本官房審議官:
炉心が損傷し、格納容器から放射性物質が漏洩するには、まぁ一定の時間的、余裕という言い方はあれですけども、そういう経過を辿るものだと考えております。


もう一つの課題が、交通手段の確保だ。
半島の先に住む住民を救出するため、バスやフェリーなどを、十分に確保できるか。
交通問題の専門家、上岡氏は?


質問:
バスをどのぐらい動員できるか、という県の試算なんですけども。

交通権学会・上岡直見会長:
愛媛県の資料にありますのは、バスの在籍台数ですから、その全てが都合よく待機しているわけではありませんから、


路線バスだったら、そのダイヤに従ってルートを走ってますし、観光バスだったら、どこか遠くに行ってるかもしれないし、
しかもその運転手さんも、どうやってその手配できるのかと、いうような問題がありますから。

運転手は確保できるのか。
県は今年4月、バス組合等と、原子力災害時の救助協力に関する、覚書を交わした。
だが、運転手が、累積1ミリシーベルト以上被曝する場合は、派遣しないことになっている。
福島のような事態が起きれば、

バスは来ない


そうなったら、誰がどうやって助けるのか。


福島では、メルトダウンが始まるまで、およそ2時間。
事故は、さらに短い時間で進展することも…。


しかし、県の避難計画には、最悪のケースで、誰がどう住民を救助するのかが、どこにも書かれていない。


例えば、複合災害が起き、炉心溶融が急速に進む中、津波で港が使えず、土砂災害で半島の付け根が通行止めになれば、住民の大半が、半島に缶詰状態になる。


最悪の事態の想定について、愛媛県知事に聞いた。



中村時広・愛媛県知事:
完全に缶詰っていう事は、そこまでの事は、僕は考えてないんですけどね。
避難計画も大事ですけど、さらに同じく大事なのが、暴走を食い止める。
要は、避難する必要のない状況を作り出すっていうことが、大事だと思ってますんで


倉澤治雄・ジャーナリスト:
県で作られている、避難計画を含んだ地域防災計画っていうのは、機能するというふうにお考えでしょうか?

中村知事:
まあ基本的に、ある程度の事はしっかりできると思ってますけれども、じゃあそれで100%なのかと言われたら、それはわからない、としか言いようがないですね。

100%かはわからないが、稼働する日本。




住民が自腹を切ってでも、廃炉にするアメリカ。


ヤツコNRC元委員長:
緊急避難計画について、最も大事なのは、立地自治体だと思います。
自治体が、避難計画を、自信を持って実行できないと思えば、それは、原発を閉鎖しなければいけないことを意味するからです。



安倍政権の下、粛々と進む再稼働。


安倍首相(第5回原子力防災会議において):
原発についてはなによりも、安全性を最優先させます。
このような政策を、推進する責任は、政府にあります。


しかし、山積する課題は解決されないまま、再稼働への道を、私たちは進んでいる。


アメリカでは、実行可能な避難計画が、認定(いんてん?)の公的条件となっているが、日本では違う。


避難計画が不十分なまま、再稼働していいのか?
福島第一原発事故の原因が、十分に解明されていない中作られた、新しい規制基準。


抜け落ちているところはないのか?


松野元氏:
事故原因がわからないのに、安心政策するんじゃなくって、とにかく、事故原因を特定しない限り、原子力の将来はない、と私は思っています。


原発事故の確率は、百万年に一回以下が目標だ。
しかし、絶対に起きないと言われていた過酷事故が、50年間に、世界で既に、3回起きている事実は重い



ヤツコ氏:
私が言えるのは、原発を安全にするしかないのです。
炉心溶融が起こる事故を、決して起こさないことです。
しかし、アメリカの原子力発電所で、その定義に合う原発はありません。



最後に、もう一度思い出してほしい。


住民が避難できないと、アメリカの原発は廃炉になった。
一方日本は、避難を阻む狭い半島、何本もの活断層。
ショアハム原発より、はるかに条件の厳しい伊方原発が、来月にも再稼働される。


いったい、この違いはなんだ?

福島には、あの日、季節風と逆の風が、吹いていた。


そもそも、避難計画がないと動かせない産業って、おかしくないですか?

とても暑い日の猫のおはなし

2016年08月14日 | ひとりごと


外に出て遊びたい海は、5分でも外にいると頭がクラクラするような暑い日でも、ハーネスを嫌がらずに付けて、意気揚々と、勝手口から裏庭への階段を降りて行く。
近所では多分、変人と変猫がいると、評判になっているにちがいない。

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猫を見たら必ず、「あぁ嫌らしい!」と叫んでいた母に、13歳まで育てられたわたしは、母と生き別れてからもずっと、猫が大の苦手だった。
そのまま大人になり、結婚をし、ふたりの息子を出産し、離婚をし、子連れ再婚をした後もまだ、猫は苦手だったけど、
とりあえず道端でハタと出会っても、回り道をしたり、見ないふりをするほどではなくなったし、
友人が可愛がっている猫ならば、恐々撫でることぐらいはできるようになっていた。

そんなある日のこと、小学二年生だった次男くんが、通学路の途中にあった公園で捨てられていた、小さな小さな子猫を見つけ、それを家に持ち帰ってしまった。
玄関に入るなり、
「あのさ、絶対に見つけるから、うちはあかんって知ってるから、飼うてくれる子見つけるから、絶対今日だけしか頼まへんから」と言いながら、箱の中身をわたしに見せた。

うわっ!猫や!それも一番ヤバい黒猫っ!
母はいつも、猫の中でも黒猫は一番嫌らしい、と言っていたのだ。

頭の中がかなり乱れたが、ダンボールの箱の隅っこで丸くなっているその小さな生き物と、
そのすぐ横で、瞳をお願い星でキラキラさせて、わたしの言葉を待っている次男くんの顔を見たら、
あかんあかん、もう一度公園に戻してきなさいなんて、とてもじゃないが言えなかった。

でも、その時住んでいた借家の、前の住人が飼っていた猫が、畳や柱で盛大に爪研ぎしていたせいで、
わたしたちが入居する前に、柱もふすまも障子戸も畳も、すべて新品に換えなければならなかったので、
大家さんはきっと、猫にはあまり良い印象を持っていないはず…でも一晩だけ、一晩だけだから。

その日のレッスンを済ませ、夕飯の支度をし、慌てて近所のペットショップに走って行った。
「あのー、今夜一晩だけなんですけど、猫を飼うんです」
「はあ…」
「で、初めてなので、いったい何をどう準備したらいいのか全くわからないので、教えてもらえませんか?」
「一晩だけ、といっても、やはりトイレと食べ物は必要だと思いますが…」
「トイレ…?」
「まあ、小さな箱に、猫砂をある程度の深さまで敷いたものですね」
「猫砂…」
その時点でわたしは、かなり後悔し始めていた。
なんだそりゃ?
「その、猫砂ってのは、例えばうちの、極小の砂場があるんですけど、その砂でもいいんですか?」
「そうですねー…なんとも言えないんですが、猫の排泄物は臭いがかなり強いので…」
「じゃあ、とりあえず買いますけど、訓練とかいいんですか?」
「大抵の場合、大丈夫です」
ほんまかいな?
「それで、生後どれぐらいの猫ちゃんですか?」
「う〜ん…それは全くわかりません。息子が今日拾ってきた猫なので」
「大きさは?」
「これぐらいでした」
と、わたしは両手の指で輪っかを作った。
「多分それだと、2週間ぐらいかな…」
そう言って、その店員さんは、食べ物の棚に行き、2食分の缶詰と赤ちゃん用のミルクを選んで見せてくれた。
そして、一番小さなサイズの猫砂を、
「これでも一晩には多過ぎますけど、新しい飼い主さんが見つかったら渡してあげられますし」と、ちょっと申し訳なさそうな顔をして、選んでくれた。

その重たい買い物袋を運びながら、わたしはまだ、このわたしが猫の世話をするなんて…と、独りごちていた。

夜になって、家に帰ってきた夫は、「一晩だけやから」を連呼しながら、あれこれ世話をするわたしを見て、
ああ、こりゃ絶対に一晩では済まないな、と思った、いや、確信したのだそうだ。
そしてそれは、とても正しかった。
初代黒猫キキと1年(彼は突如、わたしにさよならを言って家出した)、二代目三毛猫ゾーイと1年(初めて玄関から脱出して車に轢かれた)、三代目三毛猫ショーティと16年、
そして今、黒猫空(クウ)とシマ猫海(カイ)が、一昨年の冬から一緒に暮らしてくれている。
もう猫がいない毎日なんて考えられないのだから、人間の好き嫌いなんてどうにでもなるもんなんだなと、しみじみ思う。

というわけで、よその人には全くど〜でもいい猫の写真ですが、久しぶりに撮ったので。

暑さにうだる空と海。なぜか寝姿はシンクロしている。




我が家ではゲジチュウと呼ばれているゲジゲジが、暑くてジメジメした日になると、あちこちから姿を現わす。
海のフナムシに似ていて、なにやら刺されるとかなり痛いらしい。

それをじぃ〜っと目で追いかける海。






暑くなった途端に、メキメキという音が聞こえてきそうなぐらいに急にでっかくなった苦瓜。


どれほどデカいかというと…ごはん茶碗がちっちゃく見えるぐらい。


種もきれいに育ってた。


沖縄も顔負けの暑さなので、豚肉と一緒に炒めてたっぷりいただいた。

核の呪縛から解き放たれるその日を、わたしたち地球人は、必ず実現してみせる!

2016年08月13日 | 日本とわたし
1週間ほど前の8月4日のお昼過ぎに、友人の歩美ちゃんから、こんなメールが届きました。

『実は8月6日の朝、私はメガバスに乗って、オルバニーに出発しなければいけないのです。
グラフトン道場の法要で、藤井グルジのお言葉の翻訳と、オバマの広島訪問と、私たちが抱えている核兵器問題について話さねばならないのです。

私が行けないので、同じ日にあるNJ Peace Actionが主催する会の、折り紙指導要員が足りないのです。
そこで、まうみさんにお願いしたいのです』

歩美ちゃんは、1年365日、自分の仕事もこなしつつ、世界の平和の実現のために祈り、声を上げ、手を振り上げる平和活動家です。
わたしより一回りも若いとはいえ、もうギリギリいっぱいのところで活動している人なので、
千羽鶴の折り紙指導ならわたしにもできるだろうと、歩美ちゃんの代わりに行くことにしました。

場所は、うちから車で30分強の町にある教会。
NJ Peace Action主催の『広島デー』の中の、プログラムの最後に、折り鶴指導があったのでした。
そこには、たくさんの学生が参加していました。
慌てて行ったのでカメラを持って行くのをすっかり忘れてしまい、携帯で撮ったのですが、ピンボケばかりでちょっと残念。

パネルディスカッションのバネラーの顔ぶれを見て、ああアメリカらしいなあと思いました。


ムスリムの人たちがたくさんいて、ヒジャブを被った女性たちがとてもきれいでした。


原爆のこと、核兵器のこと、軍の暴力のこと、軍に投入される莫大なお金のことなどに対する質問を受け、パネラーたちが自分の意見を順に述べていきます。



原爆は、戦争犯罪の最たるものである。
戦争のない、核に脅かされない世界を願うことを、笑う人がいる。
そんなこと不可能に決まっている、現実を直視しろと、くってかかってくる人がいる。
でも、現実っていったいなんなんだろう。
わたしたちはどこまで理解できているのだろう。
世界が変わることを強く願い、信じて、平和を希求することをやめない。
そうでないと、人間として生きている意味が無い。
イスラム教徒の人も、キリスト教徒の人も、仏教の人も、ヒンズー教の人も、無宗教の人も、みんな人間なのだ。
人間として、戦争という名のもとに人殺しをしない、核兵器を作らない、環境を汚さない。
地球をこれ以上傷つけないことを誓う人が、世界中にどんどん増えていくように、これからも手を取り合って頑張ろう!
そして、体に負担をかけて申し訳ないけれども、被爆者の方々にぜひまた来ていただいて、あのキノコ雲の下でいったい何が起こっていたのか、そのことを話してもらおう。
わたしたちは知らなければならない。
知ること、想像すること、そして寄り添うこと、それを基に行動すること。
この世から、核と戦争が無くなることを目指して、行動し続けること。

そんな励まし合いを最後に、みんなで記念撮影しました。


会場で多くの人たちが口にした『平和教育』の必要性。
でもわたしは、もう一歩踏み込んで、『戦争教育』を徹底してもらいたいのです。
特に、戦争を起こした国は。
その最たる国がここアメリカ。
建国以来ずっと、戦争をし続けている国です。
どんな大義名分があるにせよ、よその国の町や自然や文化を破壊し、人や動物の命を奪い、その後また、復興のためなどといって、その国のアイデンティティを引っ掻き回すのが戦争です。
自分たちが戦争という名目のもとに、いったいどのように破壊や殺人をしたのか、それをきちんと公の場で伝える。
戦争というものの暴力を振るった者は、そこに生きる人や生き物や自然を、どのように破壊し殺したのかを、自分の声で話させる。
たとえそれが、上からの命令であったとしても、兵士でなければ、それが戦争でなければ、当然罪に問われるべき行動なのですから。
そういう声を、メディアはちゃんと取材し、それに基づいて検証し、戦争の本当の姿を世に伝える。
日本は、原爆こそ使わなかったけれど、さまざまな地で暴力を振るってきました。
だから日本も、戦争教育をきちんとしなければならない国のひとつです。


さて、折り鶴指導は、折りたい人が続出して大変でしたが、なんとか無事に終えることができました。
はっきり言って、折り紙が初めてという人には、折り鶴は難しい…。
でも、ジョークを交えてやってると、みんなすごく楽しそうで、教える方も嬉しくなりました。
まあ、端っこが全然ぴったり合って無い鶴だらけではあったんですが…。

いったいこれをどうやって、千羽もつなげるんだ?と、みんな不思議そうだったので、
じゃあ、ちょっくら百羽ほど折ってつなげて見せちゃろうと、またまたお節介な考えがふつふつと湧き出てきて、
気がついたら、折り紙の束を手に、これ、わたしが折りますからと、持ち帰ってしまいました。

それからというもの、千羽鶴折りに精を出しまくり。
さらには、悪性の脳腫瘍と闘う友人ルーのためにも折りたくなって、さらに折り紙が高々と積まれています。


話が逸れてしまいました。

週が明けて、グラフトン道場の法要から戻ってきた歩美ちゃんが、とても興味深い話をしてくれました。
それを彼女が簡単にまとめてくれたものを、以下に紹介します。

・現在が、第二次世界大戦後、一番危険な時期であると言われている。
・ロシア・中国の封じ込めで、ヨーロッパとアジアに核兵器が配備されていて、危機が即発しかねない状況である。
・沖縄や済州島(韓国)の非暴力サティヤグラハが、その危機を打開する闘いの先駆けである。

そんな中、純さん(平和を祈願し世界中を歩いておられるお坊さま)は、オバマ大統領が自らの手で折り、広島平和祈念ミュージアムに寄贈した折鶴(そのうち二つは学生に渡した)について、
「鶴を折るって、そんなに簡単じゃないんです。折る、行為自体に祈りが込められていると思います」とお話しされた。

8月4日付のワシントンポストは、
「オバマが大学時代から取り組んできた核廃絶に、任期の最後の6か月で本気で取り組んでいる」ことを伝えた。


専門のチーム、アドバイザーを集め、彼の任期期間、ことごとく議会によってつぶされた「CTBC(包括的核実験禁止条約)の締結」を、議会を迂回して実現化すべく、「国連決議に提案する」というのだ。
全く矛盾しているようなオバマの動き。
ただの役者なのだろうか?
人は誰でも、善と悪というような、様々な相反する要素を持ち合わせている。
グルジは、「IBow to the Buddha in you」と話されていた。
信じるとはまた違う、オバマの中の光(仏性)に向かって、ただ祈る

オバマは、30年間で、1兆ドルの核兵器最新鋭化に計上し、Modernizeした核兵器20基を、NATO軍の駐屯するロシア国境に配備すると言っています。
http://www.globalresearch.ca/guess-where-the-us-will-house-its-new-modernized-nuclear-weapons-arsenal/5539984

その反面、ワシントンポスト(政府スポークス紙)は、こう報じています。
『Obama Plans major nuclear policy changes in his final months』
https://www.washingtonpost.com/opinions/global-opinions/obama-plans-major-nuclear-policy-changes-in-his-final-months/2016/07/10/fef3d5ca-4521-11e6-88d0-6adee48be8bc_story.html?utm_term=.d2170609fe55

・CTBT (包括的核実験禁止条約)を、国連決議にする。

・START (戦略的核兵器削減条約)の、ロシアとの交渉期間の延長。

・1兆ドルの核兵器の、最新鋭化予算を削減する。


そして、CTBTの締結が出来ないので、議会を迂回して国連決議にしようとしている、という記事はこちら。
https://www.washingtonpost.com/news/josh-rogin/wp/2016/08/04/obama-will-bypass-congress-seek-u-n-resolution-on-nuclear-testing/

敵の目(ネオコン)を欺こうとしているのか、
それとも、核のない世界を望む私たち市民の眼を欺こうとしているのか、
それとも、自分でもどっちにいったらよいか分からないのか…。

ミステリーですが、
「敵の眼を欺くには、先ず味方から」

私は、彼が、彼自身が折った折鶴に、願いを託してみます。
佐々木雅弘さんが、ハワイ、真珠湾に寄贈した妹、禎子の鶴を、ハワイ出身のオバマ大統領は知っていたのではないか。
だから、禎子の鶴を見に来てくれ、そして。4羽の折鶴を寄贈してくれたのではないか、
http://www.huffingtonpost.jp/yasuhiro-inoue/post_5699_b_3979257.html

例え、オバマのしていることが、ただの『パフォーマンス』だとしても、
そのパフォーマンスに心を動かされた人々が動きだし、オバマの意図とはまた違うムーブメントを起こす可能性もあるのではないか。

そう祈っています。

平和への祈りをあらたに
歩美 拝



【広島平和宣言】

1945年8月6日午前8時15分。
澄みきった青空を切り裂き、かつて人類が経験したことのない、「絶対悪」が広島に放たれ、一瞬のうちに街を焼き尽くしました。
朝鮮半島や、中国、東南アジアの人々、米軍の捕虜などを含め、子どもからお年寄りまで、罪もない人々を殺りくし、その年の暮れまでに、14万もの尊い命を奪いました。

辛うじて生き延びた人々も、放射線の障害に苦しみ、就職や結婚の差別に遭(あ)い、心身に負った深い傷は、今なお消えることがありません。
破壊し尽くされた広島は、美しく平和な街として生まれ変わりましたが、
あの日、「絶対悪」に奪い去られた川辺の景色や暮らし、歴史と共に育まれた伝統文化は、二度と戻ることはないのです。

当時17歳の男性は、
「真っ黒の焼死体が道路を塞(ふさ)ぎ、異臭が鼻を衝(つ)き、見渡す限り火の海の広島は、生き地獄でした」と語ります。
当時18歳の女性は、
「私は血だらけになり、周りには、背中の皮膚が足まで垂れ下がった人や、水を求めて泣き叫ぶ人がいました」と振り返ります。

あれから71年、依然として世界には、あの惨禍をもたらした原子爆弾の威力をはるかに上回り、地球そのものを破壊しかねない、1万5千発を超える核兵器が存在します。
核戦争や核爆発に至りかねない、数多くの事件や事故が明らかになり、テロリストによる使用も懸念されています。

私たちは、この現実を前にしたとき、生き地獄だと語った男性の、
「これからの世界人類は、命を尊び、平和で幸福な人生を送るため、皆で助け合っていきましょう」という呼び掛け、
そして、血だらけになった女性の、
「与えられた命を全うするため、次の世代の人々は、皆で核兵器はいらないと叫んでください」との訴えを受け止め、更なる行動を起こさなければなりません。
そして、多様な価値観を認め合いながら、「共に生きる」世界を目指し、努力を重ねなければなりません。

今年5月、原爆投下国の現職大統領として、初めて広島を訪問したオバマ大統領は、
「私自身の国と同様、核を保有する国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければならない」と訴えました。
それは、被爆者の、「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」という心からの叫びを受け止め、
今なお存在し続ける、核兵器の廃絶に立ち向かう「情熱」を、米国をはじめ、世界の人々に示すものでした。
そして、あの「絶対悪」を許さないというヒロシマの思いが、オバマ大統領に届いたことの証しでした。

今こそ、私たちは、非人道性の極みである「絶対悪」を、この世から消し去る道筋をつけるために、
ヒロシマの思いを基に、「情熱」を持って「連帯」し、行動を起こすべきではないでしょうか。
今年、G7の外相が、初めて広島に集い、核兵器を持つ国、持たない国という立場を超えて、
世界の為政者に、広島・長崎訪問を呼び掛け、包括的核実験禁止条約の早期発効や、核不拡散条約に基づく核軍縮交渉義務を果たすことを求める、宣言を発表しました。
これは、正に、「連帯」に向けた一歩です。

為政者には、こうした「連帯」をより強固なものとし、信頼と対話による安全保障の仕組みづくりに、「情熱」を持って臨んでもらわなければなりません。
そのため、各国の為政者に、改めて、被爆地を訪問するよう要請します。
その訪問は、オバマ大統領が広島で示したように、必ずや、被爆の実相を心に刻み、被爆者の痛みや悲しみを共有した上での決意表明につながるものと確信しています。

被爆者の平均年齢は80歳を超え、自らの体験を生の声で語る時間は、少なくなっています。
未来に向けて、被爆者の思いや言葉を伝え、広めていくには、若い世代の皆さんの力も必要です。
世界の7千を超える都市で構成する平和首長会議は、世界の各地域では、20を超えるリーダー都市が、また、世界規模では、広島・長崎が中心となって、若者の交流を促進します。
そして、若い世代が、核兵器廃絶に立ち向かうための思いを共有し、具体的な行動を開始できるようにしていきます。

この広島の地で、「核兵器のない世界を必ず実現する」との決意を表明した安倍首相には、
オバマ大統領と共に、リーダーシップを発揮することを期待します。
核兵器のない世界は、日本国憲法が掲げる、崇高な平和主義を体現する世界でもあり、
その実現を確実なものとするためには、核兵器禁止の法的枠組みが不可欠となります。
また、日本政府には、平均年齢が80歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により、心身に苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、
その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう、強く求めます。

私たちは、本日、思いを新たに、原爆犠牲者の御霊に、心からの哀悼の誠を捧げ、
被爆地長崎と手を携え、世界の人々と共に、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて、力を尽くすことを誓います。

平成28年(2016年)8月6日
広島市長 松井 一實



【長崎平和宣言】

核兵器は、人間を壊す残酷な兵器です。

1945年8月9日午前11時2分、米軍機が投下した一発の原子爆弾が、上空でさく裂した瞬間、
長崎の街に、猛烈な爆風と熱線が襲いかかりました。
あとには、黒焦げの亡骸(なきがら)、全身が焼けただれた人、内臓が飛び出した人、無数のガラス片が体に刺さり苦しむ人があふれ、長崎は地獄と化しました。

原爆から放たれた放射線は、人々の体を貫き、そのために引き起こされる病気や障害は、辛うじて生き残った人たちを、今も苦しめています。

核兵器は、人間を壊し続ける、残酷な兵器なのです。

今年5月、アメリカの現職大統領として初めて、オバマ大統領が、被爆地・広島を訪問しました。
大統領は、その行動によって、自分の目と、耳と、心で感じることの大切さを、世界に示しました。

核兵器保有国をはじめとする、各国のリーダーの皆さん、そして世界中の皆さん、長崎や広島に来てください。
原子雲の下で、人間に何が起きたのかを、知ってください。
事実を知ること、それこそが、核兵器のない未来を考えるスタートラインです。

今年、ジュネーブの国連欧州本部で、核軍縮交渉を前進させる法的な枠組みについて、話し合う会議が開かれています。
法的な議論を行う場ができたことは、大きな前進です。
しかし、まもなく結果がまとめられるこの会議に、核兵器保有国は出席していません。
そして、会議の中では、核兵器の抑止力に依存する国々と、核兵器禁止の交渉開始を主張する国々との対立が続いています。
このままでは、核兵器廃絶への道筋を示すことができないまま、会議が閉会してしまいます。

核兵器保有国のリーダーの皆さん、今からでも遅くはありません。
この会議に出席し、議論に参加してください。

国連、各国政府及び国会、NGOを含む市民社会に訴えます。
核兵器廃絶に向けて、法的な議論を行う場を、決して絶やしてはなりません。
今年秋の国連総会で、核兵器のない世界の実現に向けた、法的な枠組みに関する協議と、交渉の場を設けてください。
そして、人類社会の一員として、解決策を見出す努力を続けてください。

核兵器保有国では、より高性能の核兵器に置き換える計画が進行中です。
このままでは、核兵器のない世界の実現が、さらに遠のいてしまいます。

今こそ、人類の未来を壊さないために、持てる限りの「英知」を結集してください。

日本政府は、核兵器廃絶を訴えながらも、一方では、核抑止力に依存する立場をとっています。
この矛盾を超える方法として、非核三原則の法制化とともに、核抑止力に頼らない安全保障の枠組みである、「北東アジア非核兵器地帯」の創設を検討してください。
核兵器の非人道性をよく知る、唯一の戦争被爆国として、非核兵器地帯という、人類のひとつの「英知」を、行動に移すリーダーシップを発揮してください。

核兵器の歴史は、不信感の歴史です。

国同士の不信の中で、より威力のある、より遠くに飛ぶ核兵器が、開発されてきました。
世界には未(いま)だに、1万5000発以上もの核兵器が存在し、戦争、事故、テロなどにより、使われる危険が続いています。

この流れを断ち切り、不信のサイクルを、信頼のサイクルに転換するためにできることのひとつは、粘り強く信頼を生み続けることです。

我が国は、日本国憲法の平和の理念に基づき、人道支援など、世界に貢献することで、信頼を広げようと努力してきました。
ふたたび戦争をしないために、平和国家としての道を、これからも歩み続けなければなりません。

市民社会の一員である私たち一人ひとりにも、できることがあります。
国を越えて人と交わることで、言葉や文化、考え方の違いを理解し合い、身近に信頼を生み出すことです。
オバマ大統領を温かく迎えた広島市民の姿も、それを表しています。
市民社会の行動は、一つひとつは小さく見えても、国同士の信頼関係を築くための、強くかけがえのない礎となります。

被爆から71年がたち、被爆者の平均年齢は、80歳を越えました。
世界が、「被爆者のいない時代」を迎える日が、少しずつ近づいています。
戦争、そして戦争が生んだ被爆の体験を、どう受け継いでいくかが、今、問われています。

若い世代の皆さん、あなたたちが当たり前と感じる日常、例えば、お母さんの優しい手、お父さんの温かいまなざし、友だちとの会話、好きな人の笑顔…。
そのすべてを奪い去ってしまうのが、戦争です。

戦争体験、被爆者の体験に、ぜひ一度、耳を傾けてみてください。
つらい経験を語ることは、苦しいことです。
それでも語ってくれるのは、未来の人たちを守りたいからだ、ということを知ってください。

長崎では、被爆者に代わって、子どもや孫の世代が、体験を語り伝える活動が始まっています。
焼け残った城山小学校の校舎などを、国の史跡として、後世に残す活動も進んでいます。

若い世代の皆さん、未来のために、過去に向き合う一歩を、踏み出してみませんか。

福島での原発事故から、5年が経過しました。
長崎は、放射能による苦しみを体験した街として、福島を応援し続けます。

日本政府には、今なお、原爆の後遺症に苦しむ被爆者の、さらなる援護の充実とともに、
被爆地域の拡大をはじめとする、被爆体験者の一日も早い救済を、強く求めます。

原子爆弾で亡くなられた方々に、心から追悼の意を捧(ささ)げ、私たち長崎市民は、世界の人々とともに、
核兵器廃絶と恒久平和の実現に、力を尽くすことを、ここに宣言します。

2016年(平成28年)8月9日
長崎市長 田上 富久



米国内でも昔とは違い、教育現場においては、原爆についての教え方が変わってきています。
まだまだ原爆が戦争を終わらせたという観念が、広く深く刷り込まれている人たちが半数以上いる中で、
原爆というものの狂気と暴力について学ぼうとする人たちが、徐々に増えてきていることも事実です。

その中でも、本に書いたり写真を展示したりして、人々の認識を新たにしようと行動している人たちもいます。
これは去年の記事ですが、この作家の女性もその中のひとりです。

戦後70年
全米で核問う本出版 米国人作家、被爆者にインタビュー /長崎

【毎日新聞】2015年12月2日 地方版
http://mainichi.jp/articles/20151202/ddl/k42/040/292000c

米国人の女性作家が、長崎の被爆者にインタビューを重ねて書いた本が7月、全米で出版された。
11月に長崎市を訪れた、著者のスーザン・サザードさん(59)=アリゾナ州テンピ市=は、
「原爆の与える影響がどれほど大きいか、米国人をはじめ、多くの人に理解を深めてほしい」と語った。
【竹内麻子】

書名は「NAGASAKI〜LIFE AFTER NUCLEAR WAR(ナガサキ〜核戦争後の生活)」。
米大手ペンギン・ランダムハウス社から出版された。

サザードさんは、
長崎原爆被災者協議会会長の谷口稜曄(すみてる)さん(86)
▽永野悦子さん(87)
▽和田耕一さん(88)
▽堂尾みね子さん(2007年に死去)
▽吉田勝二さん(10年に死去)−−の5人にインタビュー。

奇形児が生まれることを恐れ、結婚を避け続けた思いや、今も心身に後遺症が残っていることなどをつづり、
軍需産業を育てた長崎の歴史や地図、被爆直後の写真などの資料も盛り込んだ。

高校時代に日本に留学経験があるサザードさんは、1986年、谷口さんがワシントンで講演した際に、通訳を務め、2日間同行した。
その際、谷口さんと多くの話をし、「自分は被爆者について何も知らないと感じた」と言う。

背中に大きな傷を負いながら、勇気を持って体験を伝える谷口さんの姿に、感銘を受けたサザードさんは、被爆者に関する本の執筆を決意。
03年から11年までに、計5回長崎を訪問し、被爆者や専門家らに取材を重ねた。
被爆体験の証言集も読み込み、戦後70年の今年、完成させた。

米国では、被爆者の暮らしに焦点を当てた本は、ほとんどないという。
サザードさんによると、読者からは、「原爆が戦争を終わらせた」など、本に批判的な意見のメールが寄せられる一方、
新聞各紙の書評には、「我が国の核兵器使用における倫理的な問題を考えさせる力がある」といった、肯定的な批評も載った。

サザードさんは、
「きのこ雲の下で何があったのか、米国人をはじめ、世界の人々がきちんと認識すべきだ。
私は、政府の政策に、直接影響を与える立場ではないが、多くの人に本を読んでもらうことで、社会に変化をもたらしたい」と話している。

全389ページ。
米国、英国の他、デンマークでの出版も予定されている。
電子書籍でも販売中。
〔長崎版〕



原爆をアメリカ人に伝え続けるアリ・ビーザーさん
「被爆者という単語を知ってほしい」

【HUFF POST】2016.08.08
http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/05/story_teller_n_11360884.html?utm_hp_ref=japan

一部引用はじめ:

キノコ雲の下で、何が起きていたのかを教えない
ーー今回の動画は、被爆者の語っている部分以外は、全て英語ですね。日本語にはされなかったんですか。


私のこの動画を制作した目的は、アメリカ人に、日本側の原爆の話を、しっかり聞いて欲しいからです。
ご存知かもしれませんが、アメリカでは、原爆の話を、まったく違った角度で捉えています。
それは、勝利の歴史です。
第二次世界大戦の勝利は、私たちアメリカ人に、国民的アイデンティティーを形成しましたし、
その勝利で、一つの国として、さらに団結をしたのです。

そこに日本人がやってきて、「自分たちが犠牲者だ」と言い出しても、一体何人のアメリカ人が、話に耳を傾けるでしょうか。
恐らく、誰も同情しない上に、話も聞いてくれないでしょう。
私は、そのやり方で伝えたくはありません。
私はまず、日本人がなぜ、自分たちを犠牲者だと考えるかを、アメリカ人に知って欲しいのです。
それを知ることさえできれば、きっと、当時の戦争がなぜ起こってしまったのかを、理解できるはずなのです。


ーー当時の「原爆」を振り返りたくない思いが、アイデンティティーにまで染み付いてしまっているアメリカ人に、被爆者の話をすることは、相当大変ですね。

アメリカ人は、キノコ雲の下で何が起きたのか、という教育は受けていません。
キノコ雲の上で何が起きたのかは、よく知っていたとしてもです。
既に、そのような歴史教育になっているのです。
本当は、そこから変えていかなくてはいけないのです。


以上、引用おわり


ビーザーさんのおじいさんは、広島に原爆を落とした飛行機に乗っていました。
原爆投下を許可したトルーマン大統領の孫のダニエルさんも、核廃絶の実現に向け、行動しています。
長崎の原爆投下後の記録を撮った軍のカメラマン、オダネルさんの息子タイグさんも、同じく核廃絶に向け、行動をしています。
そのことについて書いた記事はこれ↓です。
『あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?』
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/c45f9793732aa7e8116d123f503b3dd9



そして今日、ロシアが、広島原爆投下の関係者の裁判を要請した、というニュースを見つけました。

ロシアが、広島原爆投下の関係者の裁判を要請
http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/56965

ロシアが、広島への原爆投下の関係者の裁判を、要請しました。

イルナー通信によりますと、ロシアのナルイシキン下院議長は、アメリカによる広島と長崎への原爆投下を調査するための、国際裁判の開廷を求めました。

ナルイシキン議長は、広島と長崎の原爆投下70周年に際し、モスクワの国際関係大学で、
「国際的な司法関係者、哲学者、歴史家、軍事問題の専門家は今も、1945年のアメリカの原爆投下と、この行為の合法性について議論を行っている」と述べました。

さらに、
「アメリカが1945年に使用した、原爆投下という方法は、人道的な基盤に基づくものではなく、それを行うための軍事的な必要性は、一切存在しなかった」としました。

また、
「アメリカが、自らの計画について、第2次世界大戦の同盟国であったソ連に、情報を与えようとしなかったことは、
アメリカが、ソ連からの情報なしに、原爆を製造したことを示していた」としました。

ナルイシキン議長はさらに、
「残念ながらアメリカは、現代において、冷戦後のロシアの信用と、9.11同時多発テロにおけるアメリカへの人道的共感を、悪用している」と述べました。

ナルイシキン議長は、少し前にも、ロシアの歴史協会の理事会で、国際レベルでの、日本への原爆投下の法的な評価の必要性を、強調していました。