ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「『復興だ』『絆だ』と煽るメディアが、福島の真実を伝えないで風化させているのです」by中通り住人

2012年09月08日 | 日本とわたし
『子ども達を放射能から守るネットワーク@ちば』というブログに掲載された記事を紹介させていただきます。


↓以下、転載はじめ

福島では「移住」という文字が入った行事には助成金が下りない



6月9日に、『原発なくせちばアクション』さんが、
「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の佐藤幸子さんをお招きしての、ティーチイン企画を実施されました。

その際に、佐藤幸子さんが、福島の現状を語ってます。
報告集から一部、講演内容を転載いたします。
ちなみに、佐藤さんは、福島県伊達郡川俣町という、福島県の真ん中に位置する中通りにお住まいの方です。
つまり、もっと東へ行けば、汚染が厳しいということです。


●結論ありきの行政測定

福島市の『市政だより』に、毎月毎月、放射線に関することが出ています。
連載で、「放射能を知ろう」という記事があります。
内部被ばくについて、WBC(ホールボディーカウンター)で、飯舘村とか、県内で高線量地帯にいた方を、優先して測ってるんです。
約3万人を測っているんですども、検査した結果、「全員が、健康に影響を及ぶ数値ではありませんでした」という結論にしているんです。
要するに、全員が、預託実効線量1ミリシーベルト以下だ、という結論を出しているんです。

うちの娘も中学生ですが、全員カウンターが受けれたので、学校へ連れていって、受けたんですけども、
やっぱり「1ミリシーベルト以下だから、生涯にわたってなんら影響がありません」と言われました。
内部被ばくは、これからどうなるかわからないのに、「問題ない」と結論づけること自体がおかしいのです。
行政は、当てにしない、信用しないというのが、今の福島の状況です。



●除染キャンペーンのウソ

行政は、除染を随時やっていく方針を決めて、
福島市の方では、「2年間で4~5割にする」「避難はさせないけれど、除染でがんばらせてくれ」というのが説明会での話だったのです。
でも、よく考えてみれば、セシウム134が、2年で4割になるんです。
それが減ってくるから、人力で減らせる量ってのは、1割しかないということです。
その1割のための除染費用に、何億もかけるというのです。

ようやく、一般住宅の除染がはじまったのは、今年の4~5月ごろです。
一番高いといわれていた、福島市の渡利地区で、説明会をやりました。
「一軒一軒屋根は、高圧洗浄機で洗い流して、家の周りの敷地の草とかは、すべてとります。土も入れ替えます」と言いました。
でも、実際、除染作業をやってるのを目撃して、これじゃ無理だろうなって思いました。

高圧洗浄機でやっても、その水はそのまま流れっぱなし、
草木を全部とって、土を入れ替えたりするんですけど、その土は、よそに持っていけないんですよ。
そうすると、広い敷地のある家は、庭に穴を掘って埋めたかもしれないけど、大体の家が家の前に、ブルーシートかけて置いていくだけです。
「集めて、ホットスポットを作っておいておく」
それだけのことなので、おそらく線量は下がっていない、と思うのです。

私の知り合いの家で、「最初に測らないと、下がったかどうかわからない」というので測ったのです。
でも、除染が終わった後に、「どのくらい下がったんですか?」と聞いても、行政は数値を言わないんです。
でも、「下がりました」、とだけ言うんです。
結局、自分で測ったらしいんですが、「前の数値と変わってない」と。
だから、おそらく、そんな期待はできないと思います。


それでも、当初のころの数値を、福島県民は知っています。
福島市でも、2~3マイクロシーベルトがあったわけです。
高いところに行くと、3とか5とか、ホットスポットにいくと、10とか20とか、高いところは30です。
そうすると、「0.9とかになった」って言われると、「あー下がったあ」ってみんな喜ぶわけですよ。
0.とつくだけで、下がったと思ってしまう。
その感覚ってのは、そこに行かないとわからないんです。
そこに何十年も住んでいる福島の人が、やっぱりそこにいなきゃいけないと思ったら、少しでも下がれば、「下がった」と思いたい。
普通の日常生活に戻したいと思えば、そう思わざるをえないところがあるんです。



●事故収束アピールのために復興イベント

福島県は、「福島はもう大丈夫だ、除染費用も国が出してくれる」というようなことを、どんどん外に向かって発信したいわけなんです。
それで去年は、いろいろな行事を自粛したわけです。
お祭りとか学校行事にしても、とりあえずは、外のものはやらないようにしていたんです。
その反動があったのかもしれませんが、今年は、行事の数や規模が凄いんです。
「復興」、という文字入ってるものは、バンバン復興助成金が下りる。
その一方、「保養」とか「避難」とか「移住」なんていう文字が、一言でも入っていたら、それはもう却下です。

つい最近も、郡山で、「キッズパレード」といって、何万人も、子どもを集めたイベントが開催されました。
後は、伊達市の柳川というところで、全国花火大会です。
初めてですよ。
今まで、福島でやったことがないような、行事やイベントなんです。

この前、郡山市では、「ビール祭り」と言って、あの開成山球場でやるわけですよ。
子どもの屋台も、出てやったそうです。
全て、福島大丈夫だよっていうアピールです。
私たちのように、それはちょっとなって思ってるような人達を、本当に激怒させることが、今続いてるというところです。


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福島の現状について、多くを語っていただいてまして、上記はほんの一部だけになります。
また改めて、続きを書きたいと思います。

メディアからはほとんど、福島の情報が伝わってきません。
知ること、伝えることが、何よりも必要なのは、今の福島の状況ではないのでしょうか。
復興だと、絆と煽るメディアが、福島の真実を伝えないで風化させているのです。

以上、転載終わり



これはもう、想像通りの、いや、想像をすっかり超えてしまっている、とんでもない現状です。
赤文字で書かれている中でも、特に、どうしても許せない、現地に暮らしている、気がついている人達にとっては、
きっと腸が煮えくり返るほどのことを、もう一度、書き出してみました。

・やっぱり「1ミリシーベルト以下だから、生涯にわたってなんら影響がありません」と言われました。

・福島市の方では、「2年間で4~5割にする」「避難はさせないけれど、除染でがんばらせてくれ」というのが説明会での話だった。

・よく考えてみれば、セシウム134が、2年で4割になるんです。
それが減ってくるから、人力で減らせる量ってのは、1割しかないということです。
その1割のための除染費用に、何億もかけるという

・除染が終わった後に、「どのくらい下がったんですか?」と聞いても、行政は数値を言わないんです。
でも、「下がりました」、とだけ言うんです。
結局、自分で測ったらしいんですが、「前の数値と変わってない」と。

・そこに何十年も住んでいる福島の人が、やっぱりそこにいなきゃいけないと思ったら、少しでも下がれば、「下がった」と思いたい。

・「復興」、という文字入ってるものは、バンバン復興助成金が下りる。
その一方、「保養」とか「避難」とか「移住」なんていう文字が、一言でも入っていたら、それはもう却下です。

・福島県は、「福島はもう大丈夫だ、除染費用も国が出してくれる」というようなことを、どんどん外に向かって発信したい

・だから、今まで、福島でやったことがないような、行事やイベントが目白押し。


いったい、どういう狂気が、こんなことをさせているのか。
そしてその現状を、どの新聞も、きちんと伝えようとしない。
狂人にすっかり取り囲まれた福島の人達を、誰もそこから救い出そうとしない。
もう本当に恐ろしくて、腹立たしくて、我慢がなりません。

どうか、どこの地区の方でもいいので、福島を伝えろ!と、地元の、あるいは大手の新聞社やテレビ局に、圧力をかけてください。
お願いします。
小さな体は、こんな状態が続くことを受け入れられるはずがありません。
助けてあげましょう!

父の詫び時計

2012年09月08日 | 家族とわたし
父が亡くなって12年と半年が過ぎた。



今日は父の誕生日。生きていれば81歳。
わたしは、彼が26歳の時に、初めての娘として生まれた。



三年後に長男の弟が生まれ、母の回想によると、ぐうたらで朝寝坊の父は、勤勉に働かず、なのに家業はどんどん繁盛していたので、
朝一番、なんとかして父をベッドから引きずり出し、働かせることが相当難儀だったらしい。

父は、6人兄弟姉妹のうちの、下から二番目にできた三男坊として生まれ、紳士服の仕立て屋を営んでいた両親に、甘やかされて育った。
父はなかなかのハンサムで、愛嬌があり、お人好しで、ええかっこしいで、ついウソをついてしまう癖がある男だった。
新しいもん好きで、お金を使うのが好きで、美味いもんを食べるのが大好きだった。

父は、わたしの生みの母と結婚する前に、台湾人の女性と恋仲になり、ひとりの娘を授かっていた。
だからわたしは、厳密にいうと、彼の初めての娘ではなかった。
そのことは、彼が亡くなる二週間ぐらい前に発覚したのだけれど、誰も彼に、そのことの真意を問わなかった。

父は、わたしの母と、結婚生活13年目に別れ、そのあと、彼の元に残った弟とわたしを、自分の手で育てようとしたけれど、
如何せん、根が怠け者なので、すぐにその決意は砕け散り、ぐずぐずと弱音を吐いた。
それを聞いた伯父が、二人の子を持つある女性を紹介し、あっという間に縁談が成立した。

それからが、父と、その親族が巻き込まれる、波瀾万丈の教科書のような人生が、実に延々と、10年以上も続いた。

今日の空は、その人生のよう。雷に大風に竜巻に大雨、なんでもござれの予報が出ている。



結局父は、彼の周りの人間を振り回すだけ振り回して、いきなり癌の末期だと宣告され、すたこらさっさと逝ってしまった。
享年68才。今の時代でいうと、短い人生だった。

けれども、彼の最期には、大勢の人が集まり、誰もが彼を惜しんで泣いた。
「ほんま言うたら腹立つこともあったけど、どうしても憎みきれんええお人やった」
わたしも、本音を言うと、何回か罵声を浴びせたかったぐらいのことに巻き込まれたけれど、
「あんたの娘でほんまによかった。楽しかった。大好きやで!愛してるで!」と、最期の息が上がる直前に、彼にしがみついて叫んだ。


これは、父が、あと2ヵ月の命だと、余命宣告を受けた直後に、ずっと付き添っていられないわたしの代わりにベッドに置いてと、渡したカエルの縫いぐるみ。
そして、父が晩年、愛用していた帽子。


なぜか、すごく喜んだ父は、このカエルをいつも、肩の上に乗っけてた。

この帽子は、どこかの和尚さんみたいな形の、普通の人はあまり選ばないと思われる物。裏もけっこう凝っている。



父は、なんとなく、自分の身体の中で、深刻なことが起こっていると察していたのかもしれない。
晩年の10年間は、再婚6回目の、18歳年下の女性と一緒に暮らした。
その女性は、小さな会社を経営している社長さんで、父は全く頭が上がらないばかりか、財布の紐もしっかり握られていた。
けれどもそれは、極めて妥当な成り行きで、父の思うように暮らしていたとしたら、あっという間に、二人で路頭に迷わなければならなかったはずだ。
そんな状況だったので、父が自由に使えるお金は無くなっていた。
そんな父が、「これはな、めちゃ上等の皮でできた財布や。やるわ」と、使い古しの財布や小銭入れをわたしにくれたのだった。
「そんな上等なもん、使うの鬱陶しいからいらんわ」
「そんなこと言わんと、まあとっとけ」

そんなやりとりをして、わたしの手元に、財布がふたつ、小銭入れがひとつ、それからこの時計が残った。



父は、わたしと弟に、200万ばかりの借金を残して逝った。
亡くなる直前に、父と一番仲の良かった叔母が、
「兄ちゃんがな、◯子さん(6番目の奥さん)に内緒で、◯◯銀行に口座持ってるねんて。そこにちょっと残してあるから、あんたら二人で分けって」と耳打ちしてきた。
病室で、こっそりと、叔母から受け取った通帳から全額引き出して、わたしと弟は、20万ずつ分け合った。
わたしはそのお金で、パールのネックレスと、小さなダイヤのペンダントを買った。
お金のことで、父に散々苦労をかけられ、挙げ句の果てに、二十歳を過ぎてまだ間もない頃に、社会から抹消されてしまった弟は、そのお金を全部、飲み食いに使った。


数日前、友人が、スウォッチの会社からハガキが来て、電池をタダで交換してくれるらしいから、一緒に行かへん?と誘ってくれた。
わたしは、安物ばかりだけど、スウォッチの時計を三つ持っていて、そのうちのひとつが電池切れのままだったので、一緒について行くことにした。
ふとその時、どうせモールに行くのだから、あの、父からもらった時計の電池も替えようかと思いつき、それもカバンの中に放り込んだ。

時計の電池など、どこで替えてもいいのだけれど、もしも、万が一、父が言ったように、この時計が高級だったらと、とりあえず、しっかりした店構えをしている時計屋に入った。

「この時計の電池を交換してほしいのですが、いくらぐらいでしていただけるでしょうか?」
「ああ、これだと60ドルですね」
「えぇ~っ?!ろ、ろ、60ドルっ?!」
「はい」
「どうしてそんなに高いんですか?」
「はい、この時計はオメガの製品ですから」
「オ、オメガッ?!」
「で、この時計の電池交換につきましては、専門の技術師でないとできないのです」

オ~メ~ガッ?!オ~マイ~ガッ?!などと洒落てる場合ではない。
顔色が変わったわたしを見てか、「別に今でなくてもいいのでは?」と、店員が慰めてくれた。
いや、あの時ふと、この時計のことを思い出したのは多分、父の誕生日が近づいていたからだ。
だから、今でないとあかんのである!
丁度、この夏、仕事があまり減らなかったので、ヘソくっていた100ドルがあるではないか。
それを使おう。

かくして、古い電池が溶けてえらいことになっていた父の遺品は、きちんと整備され、新しい電池を入れてもらい、カチコチと時を刻み始めた。

電池の入れ替えだけでえらいお金がかかる遺品だけれど、この時計をこっそりくれた父の、その時の気持ちを想いながら、

誕生日、おめでとうさん。