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9月2日の終戦記念日によせて

2010-09-10 | ラジオ
「今日回復した平和のために祈ろう。神様がそれを永遠に守ってくれるように」1945年9月2日、連合軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥は終戦の朝をこんな言葉で迎えた。
東京湾に停泊したミズーリ号の上で、日本が無条件降伏の文書に調印した日のことだ。

ソ連による日本との開戦は様々な要因によって予め確定していた。日米開戦の発端となったパールハーバー攻撃の直後から、アメリカのルーズベルト大統領は日本を叩くため、ソ連領を使用できないかと考えるようになった。このことはモスクワで行われた外交交渉の速記文や、大統領がソ連の指導者スターリンと会談した際の個人メモからも明らかになっている。

しかしながらナチス・ドイツの侵攻に抗戦を続けていたソ連にとって、日本との開戦は不可能なことだった。
国際関係大学の教授で、歴史学博士はこう続ける。
「とはいえ43年のテヘラン会談でスターリンはルーズベルト、チャーチルに対し、欧州戦線が終結すればソ連は連合国の義務として、日本との戦争に踏み切ると口頭で明言していた。
このことは45年のヤルタ会談でも、秘密議定書のなかに盛り込まれていた。
その直後からソ連では、日本との開戦に向けた戦闘準備が始まったのだ」
教授はこのように発言している。

対日の参戦と共に思いださなくていけないのは、ソ連と日本が中立条約を結んだのが、ドイツとの開戦前夜41年だったということだ。
この文書では46年4月、つまり5年間の不戦を定めていたが、わずか2ヶ月後、関東軍特殊演習との名称で、ソ連による侵攻を阻止するための行動が日本で始まっている。
関特演の略称で知られるこの計画は、44年まで修正改善が繰り返されている。

教授は続ける。
「ソ連の方も東方に大型戦力を保持しておく必要が出てきた。結果として対独戦よりも大規模な戦車が投入されるこになる。日本軍からの挑発行為も常に確認されている。潜水艦で極東の港へ、輸送中の船も沈められた。武器貸与法で運ばれた物資も含めてのことだ。
ソ連が極東国境地帯の状況に無関係でいることなどできなかったのは明らかだ。遅かれ早かれ軍事的な方法で、これを阻止せざるを得なかったのだ。
またソ連はアメリカ、イギリスとの連合義務を果たす必要があった」

ソ連は結局45年4月、中立条約を延長しないことを日本側に通告している。
その後8月9日から、ソ連軍による関東軍への攻撃が始まった。当時の昭和天皇は15日の玉音放送を経た、17日の時点で、ソ連が侵攻した今、交戦を続けることは、帝国自体の存続を脅威に晒すと語っている。
関東軍は武装解除し、人類史上最も多くの血が流れた戦争が終結した。

9月2日放送 ロシアの声・ラジオジャーナル