「 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、
わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」
ヨハネの福音書 17章 8節
教会が神の言葉以外には、何も指示したり定めたりしないことを、私たちは知っています。
( たとえ愛する牧師先生でも、牧師先生の経験や知識を語るならそれは神のみ心とは言えません。
人の悟りというものは間違うと言うこともあるからです。聖書のみ言葉自体に神の恵みと力があるのです。)
もしそうでない教会があるとすれば、キリストが言われるように、それはただの名前だけの教会です。もっと言えば
教会というものが主のおられないただの建物のこととなってしまっています。
み言葉は、教会が語るから、牧師が語るから、神の言葉であるのではなく、神の言葉が説かれている事実が、
教会を構成します。
神とイエスは一つの群れとしての一致を保つことができるようにと祈られた、それは彼らが単に、人間的に
意気投合し、一つの群れとしてまとまることではなく、イエスと天のみ父のうちに持っていたものと同様の、
愛と従順における一致のことです。
み言葉は教会に依って造られたものではなくて、教会は神のみ言葉によって造られています。
そこに教会があると言うことを知ることの出来るハッキリしたしるしは、神の言葉です。私たちが教会の説教や、
御霊の証しを聞かないとすれば、教会がどこにあるかをどうして知ることができるでしょうか。