ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

龍の喪失

2010-10-28 03:11:14 | フリーフォーク女子部
 ”ゲド戦記歌集”by 手嶌葵

 昨日、ウチに不在連絡表を置いていった宅急便の配達員に呆れるほどの怠慢行為あり、さっそく翌朝早く、そいつの携帯にかけて思い切り説教、ついでに宅急便の会社にも電話し、くわ~しく苦情を述べ立て、のち、そいつの代わりに荷物を持ってきた奴の同僚も怒鳴りつけてやる。
 ざまあみやがれ正義は必ず勝つ!と握りこぶしを固めたのだが、そういう自分がうっとうしくてたまらない気分なのだった。
 振り返れば腐秋。見回せば周りは、どいつもこいつも身勝手な欲望からくっだらねえ策略をめぐらし、ゴミみたいな日を送っている。
 こんなくだらないゴタゴタに身をすり減らして。俺はいつか。などと駆られる焦燥。

 こんなとき、ふと思い出すのがカナダのシンガー・ソングライター、ブルース・コバーンの曲、”If I had a Rocket Launcher”なのだった。とはいえかの曲は、コバーンがアメリカ合衆国の暴虐の嵐に晒された南米のゲリラへシンパシーを込めて歌った政治の歌である。
 私の方は、そんな立派な志があるじゃなし、使い古したトカレフでもなんでもいい。この日々をふと振り返り、鋼鉄の塊を打ちまくれるなにものかがあれば良いのだ。そうして、私がこれまでの生活の中で愛したものも憎んだものもひとまとめに。

 凛として己の世界を構築して現実なんか大嫌いな古風な文学少女、そんな少女が歌う歌が聴きたい、なんて想いがある。極初期のジョニ・ミッチェルなんかがそんな感じか。もっといそうな気もするが、今は思いつけない。”時の流れを誰が知る”を作った時のサンディ・デニーなんかもイメージだな。
 そんな子が同級生たちの明るいおしゃべりに背を向けて机にかがみこみ、キリリと尖らせたエンピツで書き上げたなにかの結晶みたいな歌を聴きたいと思っていたりする。どうしても聴きたいから盤を探し回る、なんて感じじゃないが、ふとそんなものを聴きたい渇望を感じる。

 このアルバムは、例のスタジオ・ジブリの。なんていったってアニメそのものに何の関心もない私にとってはなにやら分からず、もちろん作品も見たことはないのだが、ともかくこれは、あのアーシュラ・K・ルグィンの原作になるファンタジィ、「ゲド戦記」のジブリによるアニメ化作品のイメージソング集とでもいうのだろうか。
 収められている10曲のうち、映画で使われたのは2曲だけだそうだ。2曲のうち、”テルーの歌”は、このアルバムの主人公、手嶌葵がテレビで歌っているのを何度か見たことがある。
 その他の曲も”ゲド戦記”の中のエピソードに準拠して書かれたもののようだが、使われる予定が初めからなかったのか、その辺はわからず。が、映画のサントラのようでいて実はこのアルバムの中にしか存在しない歌、という密室感?が、逆にその世界をふさわしい独特の虚構性を高めていると感じた。これはこれでいいのだろう。

 彼女の歌はほとんど呟きであり、他人に聞かせるというよりは自分の心に歌い聴かせる感がある。歌われるのは、龍が跳梁する異世界の日常である。異世界の石畳の道に彼女の長い影が落ちる。歌を呟きながら彼女は歩を進める。他に人影はない。ただ廃墟と化した都市と島々を渡る孤独と生命の木と見上げる空と。
 ギターだけとかピアノだけとか、たまに聴こえるアコーディオンとか、伴奏はきわめてシンプル。いや、いくつかの楽器が重なり合う瞬間はあっても、その響きはアルバム全体を包み込む静けさの内にあり、分厚い印象は残らない。

 ゲド戦記。SFに夢中の少年だった頃、SF雑誌の情報ページでル・グィンの書いたと言うその小説の紹介を読み、熱烈に読んでみたいとおもったものだった。が、いくら待ってもそれは訳出されず。まだあんまりSFにファンもいなかった頃の話である。
 時は流れ、私がオトナとなり現実のあれこれに追い回されてSFを手に取る機会も無くなった頃、”ゲド戦記”はいつの間にかいわゆるカルト的支持を集めつつ刊行されていた。懐かしさから、そのシリーズを一気に買い込み読もうとしたが、哀しいかな、なにが面白いやらさっぱり分からない。私にはもう、この種の異世界ファンタジーを楽しめる心は失われていたのだった。
 私はシリーズを途中まで読み、諦めてすべてを古書店に売り払ったものだ。今回のこの”戦記歌集”を音楽として楽しめる事実に感謝せねばなるまい。