ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

香港暮色

2010-10-15 02:27:37 | アジア

 ”TEN TALES OF LOVE”by Liang Yurong

 もう何度もした話ですが、香港が99年間の租借期間を終えて、イギリス政府から北京政府に”返還”される前の何年間か、香港のポップスを夢中になって聴いていました。
 「”借り物の時間”はもうすぐ過ぎ去り、この夜の闇に浮ぶ宝石のような奇蹟の輝きに満ちた香港の街は、我々の都市は、その夢物語は、過酷な現実の前に消え去ってしまうだろう」・・・そんな香港市民の焦燥感が、香港から届けられる、ある種刹那的な響きのかの地独特のポップスの中で悶え踊っているように思え、連日、取り付かれたようにCDを廻したものです。
 まあ、お前の勝手な思い入れだろうと言われればそれまでですが、しかし、その時期の香港ポップスに一種独特の熱が宿っていたのも、確かな話なのです。

 そして返還の日は容赦なくやって来た。その頃になって中国人としての愛国心を強調した曲をリリース、なにをいまさらの人民服を着て歌ってみたり、なにかと北京政府におもねるような姿勢が目立ってきた香港ポップス界に私はなんだかガッカリしたといいますか、急に憑き物が落ちたように関心を失ってしまった。
 返還後も香港の歌手たちは生きて行かねばならない、そのための彼らなりの努力をする権利は彼らに当然あるんで、私が文句を言う筋合いじゃないんですがね、これも。でもそんな訳で私は”返還”後、香港のポップスにはまるで興味を失ったまま今日に至っている次第で。

 さて。これは”返還後”なんて言い方ももはや意味ないくらい時が過ぎてしまった香港で2003年に製作された、広東省曲芸家協会副主席とか国家一級演員なんて物々しい肩書きを持つ女性歌手の梁玉榮女史のアルバムであります。
 どうやら中国人民の魂の安らぎともなるべく作られた、ホームソング集とでもいうんですかね、そんな意図のうかがえる作りのアルバムです。弦楽四重奏やらアコースティック・ギターやらの響きを生かした安らぎに満ちたサウンドにのって、しみじみとした手触りの落ち着いた曲調のメロディばかりが歌われて行きます。
 梁玉榮女史の歌いぶりは、なにやらクラシック調にかしこまった、いかにも昔ながらの共産圏の政府お墨付きの歌手、といった感じで、ヤクザなノリの広東語ポップスに馴染んで来た私には異様に感じられる。いや、一般のポップスは昔ながらの作りでしょうけど、その一方でこんなアルバムも出るようになった、ということでしょう。

 ところで、中国人民の魂の故郷と言ったって、収められている曲の半分くらいは中島みゆきや五輪真弓の手になる日本産の曲なんですが。もう、2曲目がいきなり谷村新二の昴ですもん。その他、”リバー・オブ・バビロン”なんて欧米曲のカバーが出て来たり、この辺は昔ながらの香港のノリといえばそうなんですが、不思議な気はする。日本人が”日本の郷愁”なんてアルバムを作ったとすれば日本産のメロディばかり普通は並べるでしょうから。
 14曲目に日本製のド演歌が出てきたのは意外でした。独自の演歌まで発展させている台湾などと違って、お洒落な香港のシンガーは演歌なんて歌わないものと思っていたんで。

 そういえば香港ポップスを聴きながら不思議に思ってはいたのでした。「街に溢れるのがこんなにお洒落なポップスばかりなら、香港の大人たちは何を聴いているのだろう?」と。
 この”ホームソング”集には、それへの回答らしきものがあちこちに見つかり。なんといいましょうかそれは、かっては最先端のファッションに身を包み街を闊歩していた香港の遊び人諸氏が、洒落たスーツをそっと脱ぎ捨て、中国南部の都市にふさわしいランニング姿になって夕涼みをしているみたいな。
 あるいは、昔はどうしようもない不良で鳴らしていた友人が、いまは子煩悩な父親となって娘の運動会で撮影係を喜々として演じるのを見るような。それでよかったような、でもそれはちょっと淋しいような。そんな奇妙な物悲しさに溢れた一幕でもあるのでした。

 このアルバムの映像はYou-tubeにはありませんでした。まあ、なくてもいいでしょう。というかなんというか。

最近、ツイッターで呟いたこと・10月の王国

2010-10-14 01:26:20 | つぶやき
全員救出!と人数を数えてみたら一人多い。名簿と照らし合わせてみても誰も増えてはいないのだが、という座敷わらし的結末を期待。チリ方面。
posted at 22:22:40

「エコカー減税」とかのCMにゴルフの石川プロが出ている。それを、「石川、関係ないわねえ」とか言われて、こども店長のヤローが「すいません」とか謝ってるけど。おい、こまっしゃくれたガキよ!お前自身も初めから関係ないんだよ。
posted at 22:54:29

「ゆうちょで年金」のコマーシャルに、バイクにまたがった藤岡弘が出ている。 その藤岡が着ている、妙にテラテラ光った薄茶色のどでかい革ジャンが、な~んかうっとうしくて嫌です。仰々しい、というんでしょうか。
posted at 22:53:21

夕方のテレビで。ニュース番組の中に特集のコーナーがあるが、あそこでスーパーの万引きGメンとか高級ブランド物の持ち込まれる質屋とかマグロの解体ショーをやる寿司屋の話とかは、もう何度見た分からないし、とっくに視聴者は飽きている、ということを番組製作者は気が付いていないんだろうか?
posted at 22:55:53

ウチのアパートの入居者に家賃を溜めまくっている奴がいるんだけど、そこの奥さんから今日、「もう少し家賃をまけてくれませんか?いくら払っても溜まった家賃が減ってゆかなくて」と本気で頼まれた。どうすりゃそういう発想が出来るのか、どういう根性でそんな事を平気で言えるのか。分からん。
posted at 01:48:51

バディ・ホリーってさあ、欧米じゃ大物のロッカーとして敬われているけど、日本人で彼のファンって人、いるんだろうか?会った事ないけど。私も昔、試しに聴いてみたけど、何がいいのか分からなかった。 RT @----- 2月の出来事、はバディ・ホリーの事故死。
posted at 21:50:57

記憶の石の上で

2010-10-13 01:40:35 | ヨーロッパ
 ”Dusgadh Awakening”by Joy Dunlop

 スコットランドの若い女性民謡歌手。彼女の今年出たデビュー盤とのこと。歌われているのは古い民謡ばかり。歌詞はすべてが、あのケルト民族が残していった言語、ゲール語である。
 彼女はスコットランド西部の島嶼部の出身のようで、ジャケにいくつかその写真が使われている、ほとんど廃村みたいに見える淋しい集落がその島の風景なのだろうか。そう思ってみると、なるほど、ゲール語の民謡などが普通に残っていそうな辺地だ、などと頷いてしまうのだが、あまり学問的裏付けのある推測でもない。

 Joyは非常に可憐で端正な歌い方をする人で、少しくらい音程狂ったほうが可愛げがあるのに(?)などと思うのだが、そのようなことはない。(そりゃそうだが)伝承音楽の歌い手らしく、凛として正しいメロディを歌いきる。
 収められた歌はそれも、北国の海辺の小村に歌い伝えられてきた民謡らしく厳しい表情のメロディを持っているが、ゲール語のフニャとした独特の響きゆえ、どれも柔らかな手触りとなっている。

 バックを受け持つ連中はかなり控えめなプレイをする連中で(無伴奏の詠唱もいくつか収められているくらいだし・・??)そしてギター、ベース、ピアノ弾き、誰もジャズ好きの個性を隠さない。間奏など、完全にジャズのセッション状態となる瞬間もあるくらい。
 このバックバンドのジャズ嗜好が、このアルバムの表情をなかなか良い感じに持って行っている。朗々とバグパイプが鳴り響いたりせずにジャズのグルーブが流れることで、音楽全体の出来上がりが過度に民族色一辺倒な方向に行かず、クールに保たれている。
 それは北国の海辺の小村の人々の物語を今日に生きる我々が感じ取るにも効果的な気がするし、可憐な歌声を厳格な伝承音楽家の表情で響かせるJoy嬢の硬質な感傷にもよく合っていると思われる。
 この効果、わざと狙ったのかどうか知らないが、バックの音までトラッド一色に染め上げないのも手だよなあ。

 何しろ歌詞はゲール語なので何が歌われているのかもちろん分からないのだが、たとえば冒頭に置かれた曲は、同じスコットランドの小島、スカイ島に住む女性によって第2次世界大戦中に書かれた、出征兵士と恋人の別れを歌った歌であると言う。
 厳しい海風に晒され凍りついた家々に差す暖かな昼下がりの日差しみたいに、過ぎ去った記憶の堆積の上をJoyの歌声が流れて行く。ゲール語の響きで丸っこくなった表情のメロディが渡り、凍りついた記憶の結晶がバターのようにゆっくりと溶け始める・・・

 残念ながらこのアルバムの音でYou-tubeにはあるのは、下のアップテンポのものだけでした。彼女、きれいなメロディをゆったり歌うのがいいんだけどねえ。まあでもこの歌がサウンド的には一番面白いんだから仕方ないか。



アンドロメダからのソウルな孤独

2010-10-11 04:22:55 | アジア

 ”정인 From Andromeda”by Jungin

 韓国のCDリリース事情というのもよく分からなくて、まずシングル盤がない。まあ、そういう行き方の国もあるだろ、それはいいとして。ではそのかわりフル・アルバムのリリースが頻繁に行なわれているかといえばそうでもないようで、何だか5曲入りとか6曲入りとか言う中途半端なミニアルバムという奴が幅を利かせているようだ。
 けど、このミニアルバムというのも良し悪しでね。安価に手に入るのはいいけれど、たとえ素晴らしい歌手に出会えても、その盤をあっという間に聴き終えてしまうので、その才能を堪能する暇がない。試食だけして皿を下げられちゃう物足りなさがある。その後、ちゃんとした楽曲収録時間のフルアルバムが出ればいいけど、そうでもなかったりするんで、なかなかもどかしい思いをさせられるのだ。

 このアルバムの主人公、ジョンイン嬢なんかは苦節10年なんて苦労人なのだから、初めからドーンとフルアルバムを出させてやればいいじゃないか、などと思わないでもない。
 私がジョンインの歌に興味を持ったのは深夜、You-tubeを彷徨いながら、韓国の新人歌手たちの歌を聴き漁ってた時だった。ひときわパワフルな歌唱力で他を圧しながら、でも歌声の裏側に、ふと淋しい影というか、変なたとえだが知らない街角で迷子になり途方に暮れて佇んでいる子供の孤独、みたいなものがうかがわれたからだった。そりゃ、私の深読みかも知れないですよ、それは。でも、そんな影を感じたんだ、彼女の歌に。

 ジョンインはもう10年近く前から韓国R&B界では実力派として知られた歌い手で、これまでもいくつかの重要なセッションに参加し、その喉を聞かせてきた。けど、なぜかソロ・デビューの機会に恵まれず、今年になってから遅いデビューを飾ることとなった。
 先にも言ったように物がミニアルバムなんで、本の味見程度で終わってしまうのだが、それでもファンクありバラードあり、彼女の多彩な実力を垣間見ることは可能である。一部で評判を呼んでいるらしい3曲目の”憎みます”なんて曲など、さりげなく始まって後半、壮絶に盛り上がるあたり、これは聴き応えがあります。

 ジャケが素朴な茶色の紙で、そいつにおそらくは彼女自身による文字やぶっ飛んだ感覚のイラストが描かれている駄菓子屋感覚も、お洒落なようでいてどこか下町風にぶっちゃけているジョンインの気の置けなさを表しているようで、良い感じだ。
 そしてどこからやって来るのかしらない彼女の引きずる影はここにもあって、表ジャケでステージ衣装で佇むジョンインは、なんだかやっぱり途方に暮れた迷子に見える。なんたってアルバムタイトルが”アンドロメダ星雲からやって来たジョンイン”だからねえ。そういや、そんな星々を越えた天文学的孤独について、谷川俊太郎が詩にしてなかったっけ?




懐かしき寝汗の記憶

2010-10-10 02:51:42 | フリーフォーク女子部
 ”萬花鏡”by 佐井好子

 なぜかプログレ・ファンの一部からひそかに注目を集めていたりする女性シンガーソングライターの70年代作品。何となく興味を惹かれて聴いてみたんだけど、いやともかく1975年なんて時点で、こんな濃厚な異世界フォーク(?)がひっそりと作り歌われていたなんて、非常に不思議な気がする。
 エキゾティック&エロティック&ファンタジックな少女漫画調の、歌手本人の手になるイラストが飾られたジャケに包まれた歌世界は、夜の精がうろつき、地下道の壁にクレヨンで描かれた空に風が渡り、逢魔ヶ時に紅の花が血を流し、サーカス団の酔いどれ芝居に降って来るのは血まみれの緑色なのである。

 そんな懐かしい悪夢とでも呼びたい時の止まったような幻想世界が、オールドジャズっぽいブルーズィでレイジーな、そして時おり、幼い日の記憶の中から聴こえてくるような子供の遊び歌調にもなる物憂いメロディによって歌い上げられて行く。
 展開されているのはかなり奇矯な世界であるのだが、歌手の歌に向う姿勢はじっくりと腰を落とした冷静なもので、エキセントリックな叫びになることない。子供の頃に病床で熱に浮かされて見た幻を静かに振り返る、そんな語り口である。

 資料によれば歌手は大学に入ったばかりの頃、重い病で療養生活を余儀なくされ、その際に心の慰めとなった夢野久作、小栗虫太郎、久米十蘭などの小説の影響下に書き下ろしたのが、このアルバムで聴かれる諸作品なのだそうな。
 療養生活という自分の生体反応とじかに向き合うような日々において、癒しとして幻想小説の世界に心を預ける事。そのような特殊な環境が、このような不思議な地に足の付き方をした虚構の世界の成立を可能としたのか。などと想像してみるのだが。

 唯一無二な懐かしき悪夢の余韻と、その記述。目覚めてホッと溜息をつき寝汗を拭えば、遠くの山際に忍び寄る、仄かな朝焼けの気配。




風立ちぬ、タイにて

2010-10-08 04:02:58 | アジア

 ”WORM EYE’S VIEW”by PLOY

 昨日の”Fair Ladies ”の流れで、さらにタイの女の子のポップスを聴きたい気分なのだった。これはジャンル的になんと呼ぶのか知らない。タイのナチュラル志向のフォーク系ポップスとでも?
 先日、某有名レコード店の閉店の際、何かの雑誌で読んだ「すでに”渋谷系”音楽の本場は実質タイになっているわけだが」なんて言葉が今、頭の隅に浮んだのだが・・・おい待て、”渋谷系”の意味がよく分かっていないのに何となくそういう言葉を使わないほうがいいぞと内なる声がする。そりゃそうだな。この文章はなかったことにする。なんか使えそうな気がしたんだが。

 アルバムの主人公のPloy嬢は、上の方の音域になるとすぐに裏声になってしまうような、か細い可憐な歌声の女の子である。そんな彼女が非常に繊細なメロディのフォーク歌謡を素朴な独り言を聴かせるみたいな、なにげないタッチで歌っている。なかなかに切ないです。過ぎ去った青春の日々など思い出せば胸の一つも痛もうと言うものであります。
 内ジャケの写真を見るとヨーロッパからやって来たトラッド系ミュージシャンが参加してバグパイプやアコーディオンを演奏もしているようだ。ティン・ホイッスルの響きが心地良い。あるいはジャジーにギターが響き、時にマリンバがトロピカル調な潮風の香りを運んでくる。多彩な隠し味が憎い。そんなマニアの仕事が裏で進行している状態の、洗練されたバッキングが爽やかに流れて行く。

 ジャケ写真。Ploy嬢は秋の柔らかな陽の中で、高原の風に吹かれながら振り返り笑顔を見せている。彼女の足元に広がる、すでに冬の影が忍び寄っている下草の色合いが妙に切ないのです。時の流れはすべてを飲み込み、何もかもを変えて行く。
 やがてこの高原にも木枯しが吹きつけ、すべてを覆う雪景色が・・・。いや、ちょっと待て。そんな白樺揺れる高原の感傷なんかが存在しうる気象条件にあるのか、タイという国は?めちゃくちゃ暑いんじゃなかったのか、おい?

 などと言っても、もうこういう音楽が存在しちゃっているんだからしょうがない。そして私は、これから深まる秋に向けてPloy嬢の他のアルバムも欲しくなったなあ、などと呟いてみるのでした。



パタヤビーチに沈む21世紀を見送りながら

2010-10-07 01:23:09 | アジア

 ”Fair Ladies ”

 ところでタイのアイドルグループ、”ネコジャンプ”はどうしちゃったんですかね?彼女らの出現には、ほんと「一本取られた!」って気分でした。この混迷の世界に、突然空から舞い降りて、あっけらかんとポップスの王道を歌い踊ってしまった。そのあまりの鮮やかさに、我々は言葉もなかった。
 我々はただ唖然とし次には大笑いし、そして彼女らにどこまでもついて行こうと決めたものでしたが。その後、日本のアニメの主題歌を歌うは日本盤も発売になるはで、このまま世の中はネコジャンプの支配下に落ちるんではないかと思ったものでした。

 でも、なんかその後が続いていませんね?タイ本国では新曲が発表されたとも聴きましたが、新録アルバムの発売の話は聴かないし。彼女らの活躍に何の障害が発生しているのやら知らないけど、必ずやまた、元気な姿を見せて欲しいものだと思います。
 そんな私ですから、タイ発のアイドルグループにはどうも過反応してしまう。先日も、こんな新人デュオのデビューアルバムを買って来たんですがね。フェアレディズというのがグループ名なんでしょう。KayoとNanの二人組です。

 収められているのは、夏の終わりの海辺の感傷ソングとでもいうんですかね。元気いっぱい飛び跳ねていたネコジャンプとは、かなり個性は違っています。
 どれもスロー~ミディアム・テンポの、ややフォークがかった透明感のあるメロディ。頼りなげな声で歌い流しながら二人は、もう人影も見えなくなったシーズンオフの砂浜を散歩している。失われた夏の恋の思い出でも歌っているんでしょうか。
 隙間の多い爽やかなバックの音もお洒落なものです。ジャジーなギターが聴こえたりボサノバのリズムが流れたりします。

 でもこのCDを、「これは違う」と一蹴する気にもならなかったのは、この「海辺の感傷ソング」が時代の気分としてはこれで正解だろうという妙な確信が私の心に生まれていたから。
 うん、今、こんな時代だろうと思うんですよ。ここに流れ続ける仄かな哀感は、いろいろ未解決の問題を抱えながら、時の流れに流されるままに第4コーナーを曲がってしまった現代のタイ国の、いや今日の全世界の人々の戸惑いや喪失感の根本に連なるものである。

 それはどういう意味だ?とか問い返されても答えることは出来ないが。そんな気がする、というだけの話なんで、軽く聞き流していただきたい。うん、まあ、それだけの話なんですがね。





イマジンなんかじゃなくて

2010-10-06 03:39:36 | 書評、映画等の批評
 ”書評・「ジョン・レノンを聴け!」中山康樹著 集英社新書”

 音楽ライター中山康樹による、残されたレコーディングに対するローラー作戦的徹底検証によるジョン・レノンの内面炙り出し、とでも副題を付けたいような一冊。
 ともかくジョンによるソロ名義のレコーディング曲すべてを、それはもう全米ナンバー1となった大人気曲から、ベストアルバム製作の際のボーナストラックとして、やっと陽の目を見たような片々たる没録音までをまさに細大漏らさず、公平にすべて”1曲1ページ”の扱いで評論しまくっている。

 そのある意味厳格、ある意味みもフタもない切り刻みように、なにやら残酷なユーモアなど感じつつ、その狭間に浮かび上がってくる”ジョン・レノン”という見慣れたつもりでいた一人の男の意外な素顔に、なにやら粛然な気持ちにもさせられる一冊である。
 ”愛と平和の使者”みたいな能天気なジョン像などは、真っ先に冷徹なる哄笑をもって虚飾を剥ぎ取られる。過酷な現実に翻弄され、慌てふためき、ブザマなご都合主義でそれに対処しようとして時に成功、時に惨めな敗北を味わう一人の男の滑稽で悲惨な肖像が、そこにはあるだけである。

 とはいっても、著者にジョンに対する悪意はない。むしろ、生きるのにぶきっちょだった一人の男の間違いだらけの人生への著者の哀惜の念が、その歯に衣着せぬ文章の狭間から吹き零れる。
 非常にシンプルに、ジョンは一人のロックンローラーだった。彼の輝きはそこにあった。要はそれだけの話なのである。が、”シンプルにそれだけ”では済ませては貰えぬのが人生と言うものであり、ために人はそいつを切り抜けようとさまざまな、たとえば”愛と平和の使者”とかなんとかの悪あがきをする。その悪あがきのほとんどは考え違いなのであり徒労に終わる。

 だが、それは後に冷静になってきた道を振り返ってはじめて自覚できること。人は基本的に、何も分からぬまま生きて行く。その途上で突然命をを絶たれたりしたなら、それは分からぬままでも仕方のないことであった。では、ロックンロールをもう一曲。
 (それにしても全曲評論てのは凄まじいな。それも、こう論理的にやられたら、もう逃げ場はない)



金星の雨の夜

2010-10-04 04:55:59 | アンビエント、その他
 ”Moondawn”by Klaus Schulze

 夕食を終え、テレビを横目で見ながら寝そべっているうちに寝込んでしまい、目が覚めたら夜中だった。まあ、私にはよくあるパターンなのだが。Tシャツだけで寝そべっていたので肌寒く、慌ててジャージなど着込んでみたのだが、鼻がグシュグシュしていて、風邪を引いたのかもしれない。悪化せぬ事を祈るのみ。
 とりあえず起き出してみたのだが特にやることもなし。気が付けば雨が降っていた。明けて明日も降り続くのだろうか。明日の午後、ブックオフへ売り払う本の山を引き取りに宅急便がやってくる手はずになっているので、なんとか止んで欲しいのだが。降り続いていた場合は宅急便の担当者のプロ根性に期待するよりない。

 などとぼんやり考える間も雨は降り続いている。こんな風にただ雨音を数えるばかりで時が過ぎて行く状態を、私は「ああ、金星の夜が来たなあ」とか思ったりする。こんな話を分かってくれるのは私と同年代のSFファンくらいなのだが。
 私がSF読み盛りのチューボーの頃、金星を”水で覆われた星”と想定したSF小説に何冊も出会っている。そのすべてが子供向けに訳された外国のSF作品だったのだが、執筆年代はいつ頃だったのだろう。ともかくその頃の天文知識ではそのように考えられていたようだ。厚い雲に覆われた星ゆえ、その下は常に雨が降っているのだろう、なんて安易な空想から、それらの小説は舞台設定がなされていた。

 惑星まるごとが大海に覆われた星。その海の上にも終わりのない雨が降り注ぐ。それが金星。地球からやって来た人々は、その海に浮べた巨大な居住ステーションで生活をしている。そんな想定で、どんな事件が起こるのかはもう忘れてしまったが、水に覆われた惑星に休みなく降り続く雨の描写だけが記憶に残っている。
 こんな夜は感覚鋭敏というか過剰気味のミュージシャンが一人でスタジオに篭り、延々と時間をかけて多重録音で編み上げたシンセサイザー音楽の浮世離れた世界に耳を傾けるのも一興だろう。

 と言うわけで取り出した、ドイツのロック寄り電子音楽の開拓者、クラウス・シュルツェの、名盤と名高い1976年度作品である。
 シンシンと降り注ぐシークエンサーの雨、硬質な電子音の幻想。執拗に繰り返されるリズム・パターンやメロディの断片反復の狭間を縫って駆け抜けて行く信号音。不吉な暗雲のように湧き上がり、天を覆う効果音の響き。
 陰湿な思いに塞がれた夜は、思い切り陰湿な音楽にずぶ濡れとなり、水の星・金星で過ごした日々の思い出に浸るに限る。
 電子音楽の作者数あれど、このシェルツェの70年代作品が私には一番肌に合う気がする。その音に含まれる刺激度、リズム感覚など、もたらされる酩酊度の深さは他と比べものにならない。

 ところで、私の買ってしまったシュルツェの70年代作品のCD化盤のほとんどは、”ノイズ、音飛び、音割れ、音のバランス異常”が多発していると悪名高いドイツSPVから出た”リマスター盤”のシリーズがほとんどなのであって。これはなかなか苦しい。
 そんな悪評はすでに買ってしまってから知ったのだが、もちろん気持ちは良くない。この時代、そんなものは即回収され正常盤と差し替えられそうなものだが、そうなってもいないとは、何かね?
 くそ、ほんとにひどい状態だったら交換を要求しようか、などと消費者運動の炎を掻き立てつつ聴いたのだが、とぼけたことに私の耳には、このCDに特に問題と思える箇所は今のところ聴き取れないのだった。

 まあ、オーディオ趣味まったく無しの私が安物のCDラジカセで聴いているのだから、しかも異様な音の連発であるシュルツェ作品なのだから、異常があっても気が付かなくても不思議はない、という話もあるのだが。
 これは実に中途半端な気分で、これぞ金星の夜の醍醐味である。




秋の揺籃66’

2010-10-03 03:03:03 | 60~70年代音楽
 ”AUTUMN '66”by THE SPENCER DAVIS GROUP

 何しろタイトルに秋とあるので、いかにも秋、と言った季節に聴こうなんて考えていたら、毎度お馴染み、「せっかく買ったのにいつまで放置しておくつもりだ」の状態になってしまい、何年か前に買ったこのアルバムを、本日やっと聴取に成功した次第。

 音楽ファンとしての第一歩を当方は、60年代イギリスのビートグループの崇拝者として踏み出したのだった。はじめはストーンズやアニマルズに夢中だったのだが、あれこれ聴き進みそれなりに生意気になりだした頃には、このスペンサー・デイビスグループが大のゴヒイキとなっていた。グループというより、ご多分に漏れずこのバンドの擁する天才少年、スティービー・ウィンウッドの大ファンだった。
 こいつは何者だ。まだこの当時、高校生そこそこの年齢のくせに、まるで黒人みたいなむちゃくちゃ濃厚な喉を聴かせる。そのうえギターやオルガンの腕も達者だ。手がつけられないじゃないか。

 このアルバムは、そんな天才少年スティービーがいよいよその才能を縦横に発揮し、グループをさらにディープな境地に連れて行った記録だ。この後、スティービーは、自分の戦場としては、このバンドは狭過ぎるとでも言うようにバンドを脱退して行くことになる。
 いやその前に、「ギミ・サム・ラビン」というとんでもないかっこ良いナンバーを炸裂させて行くのだが、とりあえずスペンサー・デイビスグループのアルバムとしては、これがスティービーの最後の参加作品となる。
 などと言っているが、かって現役ファンだった頃の私は小遣いをかき集めてやっとシングル盤を買っていたチューボーだったのであって、アルバム作品としての”秋66”を聴くのはこれが初めてなのだけれど。

 ずいぶん堅牢な出来上がりだな、というのが最初の感想。何だかこげ茶色に煮しめられた古い家具みたいな鈍い光沢を放って、音が存在している。スティービーがガキのくせしてドンと重心を落として歌う渋いスローバラードなどが要所を締めているせいもあるだろう。
 一方、ブルースロックやらアメリカのフォークソングのカバーなど、もう無効となってしまったジャンルも、スティービーの歌唱のリアルさにより、それなりに聴けてしまうのだった。
 そして、このアルバムからはみ出した前出、「ギミ・サム・ラビン」などの、ボーナストラックとして収められている作品群に漲る、新しいロックのページを開こうとするスティービーの気迫は、それから何が起こるのか知っている、21世紀に生きるこの身にも、なにやら身を切るような切迫感を伝えて来る。

 この1966年秋の英国ロック最前線からの便りは、間近かにやって来ているロックの革命の予感を孕み、今だ生々しい光を放っているのだった。