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子どもたちからの援助に胸アツになる大原幽学 嘉永6年12月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年12月18日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年12月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年12月朔日(1日)(1853年)
#五郎兵衛の日記
村にいる子どもたちが、江戸の裁判費用に使ってくださいと金子を送ってきている。幽学先生は感謝の手紙を書いて送っている。「子どもたちのことを思うと胸一杯になって、書きつくし難いものだな」とお話しになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
この時代に訴訟費用がかかるのは、滞在費用がかかるからです。大原幽学の刑罪裁判は幽学だけでなく、村の有力者が呼び出されているので、村にとっても財政的に深刻。それを憂いて村の子どもたちがバイトをして送金してくれているのです。幽学先生も胸アツ。


嘉永6年12月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
深川の近江屋にひしほ(醤油)を買いに行く(源兵衛殿と同道)。俊斎は本銀町の岸部屋へ薬を買いに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「岸部屋」は薬屋で、同じ村の元俊医師が江戸にいたときは、五郎兵衛はよく薬を取りに行ってました(本年5月1日条)。奉行所には元俊は病気で江戸に在府できないということになっており、帰村したままになっています。


嘉永6年12月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日から使った金銭の決算をする。帳面を書くのに夜までかかった。平右衛門殿が帳面を確認してくれたが、間違いがかなり見つかり、やり直しに。今日は遅いので、明日に直しをすることとなった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今回10月に来てから経費削減策が取られており、末締めの帳面作成もその一環。10月7日条で、所持金は一旦幽学先生に預け、定められた金銭を貰って各自の出費を帳面を付け、晦日に決算することを決めています。しかし、慣れない帳面の作成に悪戦苦闘。ミスのため明日に持ち越しです。

嘉永6年12月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝食後に帳面の直し。昨日、平右衛門殿から間違いを指摘されていた点を直し、確認してもらった。平右衛門殿は蓮屋に戻っていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日帳面にミスがあったので、今日はその続き。ようやく平右衛門のOKが出たようです。平右衛門は宿(蓮屋という公事宿)に帰って行きました。

嘉永6年12月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿と共に書物の写しを行う。昼過ぎ薪を買いに行く(小生ほか3名と共に)。晩に力蔵様からお出でになり、借家にお泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は書物の写しのバイト。経費削減と共に収入を増やさないといけません。村にいる子どもたちですら働いているのですから、大人が遊んでばかりいるわけにはいきません。

嘉永6年12月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門と平右衛門殿は霊岸橋に買い物にいった。宝田村の甚左衛門殿、諸徳寺村の善兵衛殿、蓮屋の安之助殿が来られる。良祐殿、碁を打つ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「霊岸橋」は霊岸島に掛かっていた橋。霊岸島自体埋め立てにより作られた島ですが、今は更に埋め立てられて中央区新川1、2丁目となっています。幕末にはことあたりで炭が売られていたということも聞きましたが、炭を買いにいったのでしょうか。

嘉永6年12月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿と一緒に山口屋で炭を買ってきた。借家に戻ると、大家さんが碁を打っていた。
#大原幽学刑事裁
(コメント)
一時期やたらと五郎兵衛の近くで流行っていた碁の人気がまた復活。大家さんが碁が好きというのも何ともほのぼのとします。

嘉永6年12月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝から幽学先生は高輪に(夕方お帰り)。太郎様(高松家長男)が来られてお泊りになった(幸左衛門殿と源兵衛殿が小石川まで迎え)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学は早朝から高輪へ。高輪はお台場建設の基地となっており、高松家当主(幕府の下級役人)の現在の勤務先でもあるので、高松氏に会いに行ったのでしょう。

嘉永6年12月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は太郎様(高松家長男)と共に両国の方に遊びに(幸左衛門殿同道)。力蔵様(高松家次男)も後からお出でになられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学はこの裁判では現高松家当主の弟ということになっています(身分を偽っています)。高松家は小石川に住居があり、神田松枝町までは約5キロありますが、双方の行来は頻繁です。今日も高松家長男が幽学のところに遊びに来て、二人して両国に行っています。

嘉永6年12月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿が御役所(田安家)に寒見舞に。磯部様と会ったと。磯部様「裁判も来春には終わりにしたいものだな。落着(判決)がまだであれば帰村させてもらわないとな。志しのある者をかような不便な境遇にするとはいかがなものか。」
家を借り、内職をしていることを御役所のご重役もお聞きになり、「不便なことだな。だがそう心配するな。安心して暮らすことだ」とのお話しあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
荒海村(成田市荒海)は田安家の所領。田安家の家臣は幽学一派に裁判になる前から一貫して同情的であり、何くれとなく心配してくれています(10月26日条参照)(特に、磯部様)。今回の記事からもわかるように、打算的なものではなく、本気で心配しているようです。
田安家の家臣は、農民のために善政を行おうという考え方を持っています。このような考え方はそれほど珍しいことではなかったようです。代官についてですが、以下のように述べているものもあります(西沢淳男『代官の日常生活』)。
「幕藩制 社会の構造的危機が到来する 江戸時代後期になると、年貢徴収を維持していくため、飢饉からの農民救済、 農村復興に農政の重点が置かれていくようになる。 そうした中、農民に心を砕き 、手腕を発揮した代官も多数 輩出した」





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