南斗屋のブログ

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外房線、浪花駅設置の経緯

2020年08月19日 | 歴史を振り返る
高校まで茂原市に住んでいたので、外房線は私にとっては思い出の深い路線である。

外房線に、浪花(なみはな)という駅がある。
千葉県いすみ市小沢に所在する。
1913年(大正2年)6月20日に開業し。1972年(昭和47年)7月1日をもって無人駅となった。
国鉄の房総東線時代は有人駅で木造の立派な駅舎があったそうである。

外房線も御多分に漏れず、無人駅が多いが、浪花駅もその一つである。
現在の視点から見ると、なぜこんな駅がここにあるのかという感じがする。
ウィキペディアを見ても、なぜ駅がそこにあるのかについては書かれていないことがほとんどで、浪花駅も同様である。

郷土史家でもインターネットに書いてくれれば良いのであるが、郷土史家はインターネット上で情報を発信することがまだまだ少ないようである

ということで、この間まではなぜ浪花駅が設置され、今、そこにあるのかわからないままであった。

ところが、意外なところから、それがわかったのである。

浪花駅のいわれについての記載は、吉野俊彦「企業崩壊」(清流出版)にあった。
およそ浪花駅のいわれなどとは関係がないような本である。
ここにいう「企業崩壊」は、山一證券のことである。
吉野は、当時山一経済研究所におり、山一證券の崩壊とその後始末に携わった。
そのことが同書のメインである。
ところが、同書にはもう一つの側面があるのだ。
同書の副題は、「私の履歴書〈正・続〉」とある。
日本経済新聞に連載された、吉野の「私の履歴書」部分が同書の後半部分にある。

「私の履歴書」では、自分の両親ひいては先祖にまで言及することが慣例となっており、その流れで浪花駅の設置経緯が書かれているのである。

先程浪花駅は、千葉県いすみ市小沢に所在すると書いた。
この小沢という地名、江戸時代は上総国夷隅郡小沢村といい、大多喜藩の領地であった。
明治6年6月に小沢村は千葉県に属することになるが、明治22年には小沢村は隣村と合併し、浪花村に属することになり、浪花村大字小沢に変わった。

浪花駅の近辺から海岸近くまでの土地は、吉野俊彦の祖父吉野朝吉の所有であった。
当時外房線は、房総東線といわれていたが、この房総東線、明治の末年には大原駅止まりであった。その後大原駅から勝浦駅に延伸されるにあたり、
当初の計画になかった浪花に駅を設置してもらうため、吉野朝吉は駅と付近の土地をすべて国家に寄附した。
この土地寄付関係の書類は長らく吉野家に保存されていたが、戦時中吉野俊彦の父吉野圭三が死亡したとき、浪花駅長に寄贈した。
しかし、その後駅が無人駅となってしまったので、一件書類は所在がしれない。
なお、浪花村は、昭和30年3月に北と南に二分され、北は大原町に、南は御宿町に合併されたので、浪花の名前は地名としては消えてしまっている。
浪花の名は、駅の名前に留められているのみである。


以上が、吉野俊彦「企業崩壊」の「郷里は清らかな房総東南部」の章に記載されていることである。





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