#仮刑律的例 #21 徒刑
(要約)
【堺県からの伺い】明治元年十一月八日
従前の追放刑を徒刑(懲役刑)にするようにとのご布令は承知致しました。今後、人別に加わっていた者については徒刑に致します。ところで、無宿人についてはどのようにしたらよろしいでしょうか。追放刑でよいでしょうか。他所で出生して無宿となった者には焼印を押すことでよろしいでしょうか。
【返答】無宿人であっても徒刑にすべきである。なお、焼印はすべきではない。
(詳しい訳)
【堺県からの伺い】明治元年十一月八日(辰年)
御仕置の件につきまして、追放・所払いを徒刑(懲役刑)に換えるという御布令については承知致しました。
旧幕府法で人別に加わっていた者については、今後追放・所払いではなく、徒刑を申し付けますが、なお不明な点がありますので、お問合せさせていただきます。
無宿人が盗みをいたした場合、どのように処置したらよろしいでしょうか。これまでのように敲(たたき)の上で追放してもよろしいでしょうか。
管轄地で出生の者である場合は、徒罪を申し付けた上で、満期となった後、元在所に引渡して人別に加えさせるのがよいでしょうか。
他所出生で無宿となった者は、これまでどおり敲の上で追放してよいでしょうか。追放する際は、内股に「サ」の字の焼印を押しておりますが、それでよろしいでしょうか。
以上、ご相談致します。
【返答】管轄所で出生して無宿となった者、他所で出生し無宿となった者のいずれも徒罪とすべきであって、追放・所払いとすべきではない。この点については、そのうちに規定も整えるので、処置の仕方も分かるようになるであろう。
なお、焼印については見合わせるべきである。
【コメント】
・堺県からの伺いです。堺県は、慶応4年(=明治元年;1868年)〜明治14年(1881年)まで存続した県です。
・今回の伺いは、追放・所払いの刑はやめて、それを徒刑(懲役刑)にしなさいという明治政府の布令に関する伺いです。
・追放刑は、犯罪者を一定地域への立入を禁止するものです。立入禁止地域を「御構場所」といい、公事方御定書では、重追放、中追放、軽追放、江戸十里四方追放、江戸払、所払に区分されていました。
・明治政府の布令(明治元年十月晦日)は、追放について、概略次のように規定しています。
①刑律制定は重要であるが、新律制定の暇がないので、新律の布令までは幕府に委任していた刑律(公事方御定書)によるべきである
②もっとも追放・所払は徒刑に換えよ。
③徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。
・それでは、明治政府の布令を無宿人にどのように適用したらよいのでしょうか。無宿人が盗みをした場合、これまでは敲(たたき)+追放という処置をしていました。追放刑⇒徒刑と単純に置き換えると、敲+徒刑となってしまいますが、これでは刑が却って重くならないだろうかというのが堺県の問題意識にあるようです。
・この点についての明治政府の返答は、「管轄所で出生して無宿となった者、他所で出生し無宿となった者のいずれも徒罪とすべきであって、追放・所払いとすべきではない。」
というものでした。どのような場合であっても追放刑を行わないということはこれで明らかになりました。
・堺県からの伺いには、身体刑も問題にされています。伺いでは、「追放する際は、内股に「サ」の字の焼印を押しております」とあり、これまでは焼印を押していたことが分かります。明治政府は「焼印については見合わせるべきである」とし、焼印の廃止を明らかにしました。