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寛政12年閏4月・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年04月30日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12庚申年閏4月
台命を蒙り蝦夷地に下向しける道中の記

寛政12年4月(19日出立)・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12庚申年閏4月
台命を蒙り蝦夷地に下向しける道中の記
#伊能忠敬
#測量日記

寛政12年閏4月19日(1800年)その1
朝五つ前、深川出立。上下6人。
この日朝から小雨、昼には止む。
深川八幡宮参詣。
両国通り浅艸司天台へ立ち寄り、高橋先生から御神酒を給う。荷物は、深川から千住宿へ積送した。千住宿での送別人は、佐原地頭所より仰せつけられた渡邊殿ほか数名。千住宿にて中食残らずとる。酒肴をもって別れる。
千住、草加、越谷を通り、大澤宿に七つ頃着。中嶋善太郎家に止宿。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
・深川は、当時、伊能忠敬の住居がありました(現在の江東区門前仲町1-18)。
・「深川八幡宮」は、富岡八幡宮のこと。現在、伊能忠敬銅像が境内にあります。
・一日目の宿は大澤宿。現在の埼玉県越谷市大沢。奥州街道の越ヶ谷宿は、もとは荒川右岸の越ヶ谷と左岸の大沢の二つの町を合わせた範囲の宿場町でした。
・現在の門前仲町駅から越谷駅までは直線で約25キロ。大澤宿は越谷駅よりも北ですから、約30キロ弱かもしれません。


寛政12年閏4月20日(1800年)
添触れ写しを大澤宿より出す。朝五つ前に出立。朝より晴れて坤風。春日部、杉戸宿、幸手宿を通る。利根川舟渡しで関所有り。栗橋宿、中田宿を通り、古河城下に七つころ着。宿は柏屋平八。夜に測量。
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#測量日記
(コメント)
越谷から古河宿(茨城県古河市)まで来ました。現在の越谷駅から古河駅までは約40キロ。
出立は朝五つ(午前8時)、到着は七つ(午後4時)が目安とされていたようです。今日の忠敬は朝五つ前出立でした。


寛政12年閏4月21日(1800年)
朝曇天。四ツ頃より少晴れ。九つ半頃よりまた曇る。八つ半小雨。七つ頃より小雨。夜は大雨。
古河宿を朝五つ前に出立。野木宿、間々田宿、小山宿、新田宿、小金井宿、石橋宿、雀宮宿を通り、宇都宮城下に暮六つ前に着。宿、成田屋喜右衛門。
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(コメント)
・宇都宮宿(栃木県宇都宮市)まで来ました。現在の古河駅から宇都宮駅までは約46キロ。
・測量日記には天気に関して細かく記載されています。測量に関係があるためでしょうか。

寛政12年閏4月22日(1800年)
朝雨止み曇天。四ツ頃より少晴れ。終日白雲。
朝六ツ半後出立。白澤宿、氏家宿、喜連川、佐久山を通り、大田原宿に七つ半頃に着。宿、大玉子屋弥市。
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(コメント)
宇都宮を出て、本日は大田原宿(栃木県大田原市)まで来ました。宇都宮駅から大田原市役所は約40キロ。朝の出立がいつもより遅いのは、雨が止むのを待っていたからですかね。

寛政12年閏4月23日(1800年)その1
朝より曇天。朝六つ頃出立。鍋掛、越堀、芦野宿、白坂宿を通り、白河に七つ頃着。宿は因幡屋茂兵衛。白河城下での御用宿は小家で手狭のため、因幡屋に宿を変えた。
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#測量日記

寛政12年閏4月23日(1800年)その2
因幡屋は屋号で、名は丸屋清吉といい、酒造をしている。下総佐原で丸屋伊右衛門というものの酒屋を借りている。生国は近江で、丙午の年(1786年)に大坂で米商をしていたが、損をだして、関東に出てきた。佐原で商売をしているとは、不思議な縁である。酒肴を以て饗応してもらった。
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#測量日記
(コメント)
・大田原を出て、白河宿(福島県白河市)まで来ました。大田原市役所から白河駅までは約40キロ。
・原則として幕府の御用宿に泊まっていたようですが、白河では手狭な為別の宿(因幡屋)に泊。因幡屋は、伊能忠敬が名主をしていた佐原(千葉県香取市)でも店を出しており、不思議な縁をかんじています。

寛政12年閏4月24日(1800年)
朝小雨、昼後より大雨、夜も大雨。
朝六つ後出立。太田川宿、大和久宿、久来石宿、須賀川宿、笹川宿、郡山宿、高倉宿を通り、本宮宿に七つ後着。止宿。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
白河宿(福島県白河市)を出て、本宮宿(福島県本宮市)まできました。白河駅から本宮駅まで約52キロ。本宮宿は奥州街道から会津街道が分岐する場所でした。明治時代、上京のために野口英世が利用したのは本宮駅だったのですが、会津街道が本宮で接続していたからなのです。


寛政12年閏4月25日(1800年)
朝より大雨、昼前小雨になり、八つ後より雨やむ。曇天。朝六つ半頃出立、杉田宿、二本松城下、八丁目宿、若宮宿、福島城下を通り、瀬上に七つ半頃に着。夜は大雨。
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#測量日記
(コメント)
本宮宿(福島県本宮市)を出て、瀬上(せのうえ)宿まできました。本宮駅から瀬上駅までは約37キロ。瀬上は、現在の福島県福島市です。

寛政12年閏4月26日(1800年)
朝小雨、九つ後より雨止む。少晴、暮合より曇天。朝六つ後出立。桑折宿、藤田宿、貝田宿、越河宿、齋川宿、白石町、刈田宮宿、金ケ瀬宿を通り、大河原宿に七つ後に着。止宿。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
瀬上宿(福島市)〜大河原宿(宮城県大河原町)。瀬上駅から大河原駅までは約40キロ。大河原は江戸時代になると奥州街道の宿場町となり、米や紅花の集積地として栄えました。仙台藩の直轄地で代官所や藩主の宿泊施設であった御仮屋が置かれていました。
https://www.town.ogawara.miyagi.jp/1272.htmhttps://www.town.ogawara.miyagi.jp/1272.htm

寛政12年閏4月27日(1800年)
朝より七つ頃まで晴天、後曇天。
朝六つ後出立。舟廻宿、槻木宿、岩沼宿、増田宿、中田宿、長町宿を通り、仙台城下国分町に八つ半後に着。止宿。この夜測量。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
・今日の行程は、大河原宿(宮城県大河原町)〜国分宿(宮城県仙台市)。現代の大河原駅から国分町までは約33キロです。今では歓楽街として有名な仙台の国分町ですが、江戸時代は宿場でした。
・吉田正志「仙台城下の御用宿」(藤田覚編『近世法の再検討』所収)には、国分町に旅籠屋が集中するようになった経緯について次のように述べられています。
〈慶長6年(1601)に仙台城の築城が始まった当時、仙台城下にあたる地域はいまだ荒野の状態だったらしく、仙台城下はまったく新たに建設されたといってよいといわれる。基本計画に沿って建設された城下には人口の集中も進み、また他地域からの来訪客も多くなったであろう。早くも同15年(1610)に仙台奉行が二日町検断に対し旅籠を置くことを命じている。元禄期には二日町に隣接する国分町に旅籠屋が集中するようになったようである。〉


寛政12年閏4月28日(1800年)
朝より昼頃まで晴天、八つ後より曇天。
朝五つ頃出立。北田宿、新町(富谷新町)、吉岡宿、三本木宿を通り古河宿に七つ前に着。止宿。夜測量。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
今日の行程は、国分町(仙台市)〜古河(古川)宿(宮城県大崎市)。国分町から古川駅までをグーグルマップで測ると約40キロ。

古川宿の紹介。
http://matinami.o.oo7.jp/hokkaidou-tohoku/oosaki-furukawa-nanoka.htmlhttp://matinami.o.oo7.jp/hokkaidou-tohoku/oosaki-furukawa-nanoka.html


寛政12年閏4月29日(1800年)
朝五つ半後まで霧深、四ツ前より晴天。
朝五つ頃出立。荒谷宿、高清水宿、宮野宿、金成宿を通り、有壁宿に七つ頃に着。止宿。この夜測量。
#伊能忠敬
#測量日記
(コメント)
今日の行程は、古河宿(宮城県大崎市)〜有壁宿(宮城県栗原市)。宮城県北部まで来ましたので、岩手県は目の前です。古川駅から有壁駅までをグーグルマップで測ると約40キロ。相変わらず朝五つ(午前8時)出立、一日40キロペースで北上しています。旅程にまで伊能忠敬の生真面目さが反映しているように感じます。

有壁宿本陣は、元和五年(1619年)に奥州道中の宿駅として創設。参勤交代制度が確立後は、松前・八戸・盛岡・一関の藩主や各藩重臣が通行の際に宿泊しました。
https://www.kuriharacity.jp/map/170/20180802172500.htmlhttps://www.kuriharacity.jp/map/170/20180802172500.html

閏4月は29日までで、4月30日はありません。
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