南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

大雨で土浦は水害 文政12年8月上旬・色川三中「家事志」

2024年08月12日 | 色川三中
大雨で土浦は水害 文政12年8月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月朔(1日)(1829年)
〈行商中〉
根小屋を出立。今日も雨。明け方に激しい風雨。先日からの雨で膝までの水たまりができている。夕方再び空の様子が怪しくなり、雨が降り始め、風が非常に強くなり、夜もずっと降り続いた。心が落ち着く暇もない。麻生の大黒屋に泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商14日目。雨が降り続く悪天候。雨で膝までの水たまりが其方此方にできており、洪水の様相を呈してきています。本日は根小屋(現行方市根小屋)を出立し、麻生(行方市麻生)まで。6キロ弱しか進んでいませんが、強い風雨の為でしょうか。

根小屋 to 麻生

根小屋 to 麻生



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月2日(1829年)
〈行商中〉
大雨と強風、一向に止む様子なし。湖水から出水し、山々、田、溝渠からも水があふれている。麻生から玉造まで歩いたが、途中危険なことも多く、いつもより時間がかかった。五町田(現行方市五町田)の家々は床上まで浸水したという。玉造に昼過ぎようやく到着。頭から足元までびしょ濡れ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商15日目。本日も大雨と強風が続きます。あちこちから水が溢れており、霞ヶ浦沿岸では床上浸水する集落までありました。この中を20 km近く三中たちは歩いており、頭から足元までびしょ濡れです。
麻生から玉造

麻生 to 玉造

麻生 to 玉造




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月3日(1829年)
〈行商終了〉
夕べから今暁まで雨やまず。昼前ようやく晴れる。小川、府中、稲吉、真鍋で出水。水に浸かりながら歩いたり、船に乗るなどしてようやく日没ころに土浦に戻ってきた。
銭亀川が九合に達しており、藩の役人や町役人たちが氾濫を抑えるために奔走していた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商16日目(最終日)。明け方まで雨が降り続いていたため、昼からは晴れても出水は収まりません。現代なら避難指示が出るでしょう。三中たちは水に浸かったりしながら土浦まで戻ってきました。土浦も川が氾濫しそうで町中が大変な状況になっています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月4日(1829年)晴
銭亀川が十合にまで水位が上昇。吟味衆が出役し、各所で混乱。夕方、町役人の栗山八兵衛が来訪され、今夜銭亀川の見張りの出役を交代してほしいと頼まれたが、体調不良を理由に断る。
限りある命をもって、限りなく多くのことに心を動かすことはない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
銭亀川は、土浦の町の近くを流れる川(現在は川の名は残っていませんが、銭亀橋という橋あり)。水位は土手一杯まで上がっており、危機的な状況です。しかし、三中は病を理由に、町役人の仕事はキャンセル。町は災害で混乱してますが、「限りある命をもって、限りなく多くのことに心を動かすことはない」とかなりクールな見解です。

〈詳訳〉
・銭亀川は十合にまで水位が上昇。吟味衆が出役し、あちこちで混乱。我等は昨日まで行商で取り込んでいたので、居留守を使って防水作業には赴かず。
・夕方、町役人の栗山八兵衛が来訪され、今夜銭亀川の見張りの出役を交代してほしいと頼まれたが、体調不良を理由に断った。
限りある命をもって、限りなく多くのことに心を動かすことはない。

〈その他の記事〉
・間原氏の来訪あり。隣り主人の取計らいで夕べ七兵衛殿を内へ戻したとのこと(7月13日条参照)。
・一老人の話し(⇒末尾付1)
・我らが行商で留守中に帰参願いが出ていたので、奥印をした(その書面⇒末尾付2)。この奥印の礼として、今日、山口の利兵衛から鯛一匹を頂戴した。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月5日(1829年)晴 二百十日
・簀子橋の田、七枚を刈り取ってもらい、加賀者に2貫472文を支払った。7人の手間で、1人あたり350文程度と見積もった。
・ここの田を刈れば、1把3文ほどで、1000把以上も出るところなので、よいところであろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
稲は収穫時期を迎えており、刈取りの記事。三中は高持百姓なので、田を所有していますが、田の仕事は自分では行いません。今回「加賀者」にまかせています。5月22日条にあった加賀(現石川県)からの移民のことでしょう。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月6日(1829年)晴
町役人を辞めることを決意。隣り主人と一昨日から話し合いをした。1年間は続けた方が良いのではないかとの意見もでたが、辞めるならば早く辞めた方がよい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
これまで病気を理由に町役人の仕事をサボっていましたが、ついに町役人を辞める決意をしました。まずは、親しい中にある隣り主人に相談です。「1年間は勤めたら…」という意見も出ましたが、三中は早く辞めるとの方針で考えています。
「限りある命をもって、限りなく多くのことに心を動かすことはない」(8月4日条)を実践するのでしょう。
本日の記事の詳細⇒末尾付3。

〈その他の記事〉
・新七(田中口の太兵衛の悴;28歳)から帰参願いが出ていたので奥印。
・熊野屋平兵衛が帯刀を許されたことの礼として年代五状を持参された。
・行商で留守中に片野村の手賀宗仲老のことで、同人の組合の者が来訪された。
「この度、宗仲が亡くなったため、子息はかなりの借財を引き受けざるを得ず難渋し、配当割合(任意での債務整理?)をすることとなりました。貴殿方一同もご承知下さい」とのこと。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月7日(1829年)
寶子橋の田は、5日に刈り取り。山口うらの田は3 貫 600 文で、7日に刈り取り。いずれも
加賀者たちに刈取ってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
8月5日条に引き続き、稲刈りの記事。刈取りは5日と同様「加賀者」に依頼しています。現石川県からの移民で、人別に加えられていない違法状態だったはずですが、このような形で労働力を提供していたのですね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月8日(1829年)
御公儀様の御小人目付が土浦にお出でになられた。八州御廻り方、町方掛の経費について書面提出を命じられ、一晩泊まって直ぐに江戸に戻ったとのこと。先払いは奥井(町年寄)が勤めた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
御小人目付とは江戸幕府の職名の一つで、公務執行状況の監察等を担当。今回土浦に来たのは、八州廻りや土浦藩の町方掛の経費の調査の為のようですが、一泊のみで江戸に引き上げていったさまいました。どのような目的があったのかは窺い知れません。わ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月9日(1829年)
昼過ぎから風が吹く。
水位は一寸ほど上昇。
去年の水位よりも5寸ほど高い。
6年前(申年)よりは4寸ほど低いが。
#色川三中 #家事志
(コメント)
8月4日の記事以降、水位のことは話題になっておりませんでしたが、危機的な状況はまだ続いていたようです。寸単位で水位を把握して記録しており、水害への意識の高さが見て取れます。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
文政12年8月10日(1829年)雨
暴風大雨、所々床の支度。風は当初は北、艮(北東風)からであったが、夕方から富士方風の大風に変わった。水位は一時(2時間)ばかりの間に三寸低くなった。まくるが如き大雨。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日暴風大雨で、出水の危険性が増しています。浸水に備え、色川家でも対策を取っています。風の向きにも敏感です。

〈その他の記事〉
・京都白木屋本店から火事見舞いに対しての礼状が届いた。
・英哲院様の二十七回忌法要が明後日(12日)に神龍寺でが行われるので、出席するよう仰せがあったが、病気を理由として法要には出席できない旨伝えた。
※「英哲院様」とは土浦藩7代藩主土屋英直のこと。 享和3年(1803) 没。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付1 8月4日条記載
一老人の話
昔、江戸で飢饉があった時に、カボチャを煮てきな粉をまぶして売ってた。それを食べてしばらく飢えをしのいだ人もいたそうだ。
翌年、豊作になり世の中が落ち着いている頃、薬研堀でカボチャをくり抜き、その皮を木魚のように叩いて子供向けのおもちゃとして売っていた人がいた。
役人はその者を捕まえて罪に問うた。そんな厳しい時代もあったのだ。

この人はその時はまだ若く、そのときは江戸にいたとのことである。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付2 帰参願い(8月4日条記載)

乍恐以書付奉願上候

乍恐れながらこの手紙をお送りいたします。
皆治(四十五歳)は、私の従弟です。従前甚だしく不行跡で、身持ちが宜しくなく、度々意見しましたが、一向に改める気配がなかったので、親類一同相談して文政十亥年三月に勘当致し、帳外の手続きを致しました。
彼は現在常州川内郡江戸崎村の名主である八郎兵衛方におりますが、前非を悔い行跡を改めたので、村に戻りたいと申してきました。名主八郎兵衛からも同様の話しがありました。我々も調べましたが、そのことに相違ありません。
誠に勝手をいって申し訳ありませんが、私の家の人別に再び加えていただき、しかと心底を見定めた上で、甚左衛門や親戚たち一同と立ち帰りのことをお願いさせてもいただこうと思います。万一、皆治のことにつき問題がありましたら、我々が引受け、いささかもご苦労をおかけしないように致しますので、何卒格段の御慈悲をもって、この願いをお聞き届けて下さいますようお願い致します。以上
中城町
親類 利兵衛
組合 庄七
同 権七
文政十二年丑年七月

このように利兵衛及びその組合の者から願いが出て、事実関係を糺したところ間違いないとのことでしたので、町役人一同奥印致します。この要望を受け入れていただけるよう、私どもからもお願い致します。
名主 入江全兵衛
年寄 栗山八兵衛
同 金之允
同 吉右衛門
同 桂助
町御奉行所様

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
付3 町役人を退くことについての隣り主人との話し(8月6日条記載)

町役人を辞めたいので、一昨日と昨日、隣主人と話し合った。
三中「父が亡くなって以来、内外大小の雑事が多くて大変であったが、昨年あたりから、ようやく仕事が楽になってきたと感じていた。
しかし、去年秋の凶作で今年の米穀は近年稀に見ないほどの高値。これまで以上に仕事に精を出さなければ、大勢の人を雇っている身としては難しい状況となると、日頃から心配であった。
そのようなときに、今年の2 月突然に町年寄役を仰せつかった。不肖の身にとっては、大役であり、大事面目は余りあるものであったが、時期的にも仕事がままならない上、病弱であるため、とても御用に十分に応えられるようには思えない。このことは親類にも何度も相談し、事情を説明してきた。
しかしながら、このような役職は自分が求めたものではなく、 御上からの命であり、これを断ることは先祖に対しても不埒となってしまう。
引き受けて何とか務めようと思い、皆で協議した結果、お請けし勤めてきたところである。
ところが、2月下旬には足痛となり、3 月中旬まで休まざるを得なくなった。
さらに5 月 5 日から持病が起こり、勤めに復帰できたのは6 月 15 日になってからだ。
所用で休まなければならないこともしばしばあった。
7 月 17 日から行商に出たが、帰ってきてみれば大水である。これにも対応できなかったし、うちのことも行き届かなかった。
こんな風に中途半端な状態を長く続けているようでは弊害が多きくなってしまう。役を退くことはやむを得ない。親類にも何度も相談してきたし、理解はいただけるであろう。」

隣り主人「お話しはごもっともだが、まだ町役人となってから1年も経っていない。1年間は勤めるのがよいのではないか。」

三中「そうかといって今と同じように勤めるのも、他の役人からは良くないと思われるであろう。他の役人と同じように勤められないのであれば、居心地も良くない。長く勤められそうにはないというのであれば、早く役から退くというのも仕方ない。不行届があれば、多くの人から色々と批判されることもある。退職後に指差しされるような状況は好ましくないので、何事もなく無事に退職できるよう、一刻も早く手続きを済ませたいと考えている。」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする