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ペリー来航と大原幽学

2024年08月11日 | 大原幽学の刑事裁判
ペリー来航と大原幽学
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(ペリー来航、嘉永6年6月3日)
ペリー来航は日本史上の一大事件です。
嘉永6年(1853年)6月3日当日の動きは次のとおり。
・正午。彦根藩の三崎陣屋に「4隻の異国船が城ヶ島沖を航行している」との情報が届く。三崎町の漁師からの情報。
・ペリー艦隊、浦賀に到着。午後5時過ぎ、浦賀沖に錨を下ろし、町に搭載砲を向ける。
・与力中島三郎助が通詞堀達之助と共に小船でサスケハナ号に赴き、副官コンティ大尉と交渉。コンティは国書を渡すことが目的と来航の目的を明らかにする。中島は艦隊を長崎に開航することを求めるが、コンティは拒否。
・午後10時、浦賀からの早船による報告が浦賀奉行井戸弘道の江戸屋敷に着く。井戸は直ちに老中阿部正弘の屋敷に届けを持参。阿部は老中、若年寄を招集し、江戸城内で協議。協議は夜を徹して行われた。
浦賀への黒船の進行を許してしまっており、これまでの防衛策は何だったのかと言わざるを得ませんが、その後は素早い対応で当日のうちに江戸で緊急対策会議を行っています。

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(大原幽学刑事裁判と五郎兵衛日記)
ペリーが来航したときは、大原幽学の刑事裁判は審理中で、幽学や道友(弟子)たちが江戸に滞在していました。
大原幽学の道友である五郎兵衛は、江戸滞在中で日記をつけており、ペリー来航の騒動も記録していますが、最初にその騒動が伺えるのはペリー来航後、1週間近く経った6月8日以降の記事です。8日及び9日の記事でペリー来航に関係ありそうな箇所を抜き書きしてみます。
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6月8日
○小生と元俊医師が二人して公事宿から湊川の借家に行ったところ、高松様がお出でになっていた。その後、高松様は御帰宅になられ、小生らは七ツ半時に宿へ帰った。夜五ツ時、公事宿に高松様が御出になり、九ツ時迄色々とお話しをされ、そのまま宿に御泊りになった。
6月9日
○早朝に高松様は宿からご帰宅になった。元俊医師と五ツ半時に湊川の借家に行った。
平右衛門殿が四ツ時に田安家の御役所から帰ってきた。「代官の磯部様はお会いになって、たいそうお喜びでした。今般の異国船騒動については、大変なことなので、この事は決して人に言うでないし、聞いてもならぬと、厳しく仰せられました。何が起きても決して驚いてはならぬぞとも仰っていました」

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(田安家代官の磯部様の話し)
6月9日の記事にある田安家代官の磯部様の言葉が当時の緊張感を良く伝えています。
日記原文にも「異国船騒動」という言葉が使われており、このように来航間近なときは話されていたことかが分かります。
磯部様は平右衛門に「今般の異国船騒動については、大変なことなので、この事は決して人に言うでないし、聞いてもならぬと」と話しておりますが、これは平右衛門から磯部様に「今般の異国船騒動はどうなりますでしょうか」などと質問した際の答えなのではないかと思います。
平右衛門は磯部様からは何も教えてもらえなかったのですが、磯部様は「何が起きても決して驚いてはならぬ」とも述べられておりますので、武士はかなりの危機感を持っていたようです。
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平右衛門は大原幽学の道友の一人で、荒海村(現成田市荒海)の農民です。荒海村は田安家が領有しているため、江戸に滞在するときや、江戸から村に帰るときは、田安家の御役所に届を出さなければなりません。磯部様は田安家の代官で荒海村の担当だったようです。この裁判で多くの農民が江戸に出府を強制され、審理の為に待機させられている現状を何とかしたいと非常に好意的であり、色々な話しもしてくれています。異国船騒動についてこれだけのことを話してくれたのも、このような背景からです。
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(幕府の小人目付である高松様の行動)
6月8日の記事には「高松様」の名前が見えます。「高松様」は高松彦七郎という小人目付、つまり幕府の下級役人です。
高橋 敏『大原幽学と飯岡助五郎』には以下のように紹介されています。
▼高松彦七郎茂雅 1787~1865。小人目付、俸禄15俵 一人扶持、屋敷は江戸小石川同心町。
1856(安政3)年、御小人頭に昇任して80俵。
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御小人頭に昇任していますから、かなり優秀であり、評価された人物であることがわかります。
幕府の下級役人ですから、異国船騒動においては現場に出ていかなければならない役回り、またこの非常事態ですから、かなり多忙だったはずです。そんな中を大原幽学のいる湊川の借家を訪れて話しをし、その日は元俊医師らが逗留している宿に泊まるとは、何か重要なことを話しに来たのではないかという推測が成り立ちますが、日記をつけている五郎兵衛が聞いていなかったのか、重要ではないと思ったから書かなかったのか、よく分かりませんが、日記にはその手の話しは一切書いておりません。
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(6月9日、国書受領)
ペリーは米国の国書受領を要求しており、幕府は6月6日に江戸城での評議で国書受領方針を決定、翌7日午後には与力の香山栄左衛門がサスケハナ号に向かい、ブキャナン中佐は「明後日(9日)に国書を久里浜で受領する」ことを伝えています。一方、幕府は万一に備えて東京湾の警備を増強。また、船を繰り出して艦隊に接近して見物することを禁止します。
このことからすると、6月7日時点では、ペリー艦隊との軍事衝突の危険は低くなったことが分かりますが、米国からの国書受領という前代未聞の事態でトラブルが生じる場合に備えて、幕府は緊張感を高めていた状況でした。
6月9日午前9時ころには、ペリーは久里浜に上陸。幕府は、急造の応接所でフィルモア大統領からの国書を受領しています。「単なる受領であって、交渉ではない」という立場を幕府がとったため、会話らしい会話もなく、国書受領の式典は無事終了しました。
後世からみれば、この時点で軍事衝突の危険はほぼゼロと見えるのですが、ペリー艦隊は依然として東京湾におり、退去するまでは幕府は気が抜けなかったことでしょう。ペリーが東京湾を離れ、琉球へ向かったのは6月12日のことです。
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(6月10日の五郎兵衛日記)
以上がペリーからの国書受領、ペリー艦隊の退去の経緯ですが、幕府からの発表もなく、マスコミもない江戸時代では情報のタイムラグが生じます。五郎兵衛日記では、6月10日以降の記事で異国船騒動がクローズアップされてきます。
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6月10日
○公事宿から湊川の借家へ行くと、異国船の話しでもちきり。諸大名・御旗本が各所に陣取り、今日明日中にも戦となるかもしれぬとのこと。
江戸の様子。
・御府内は町方まで合図の鐘が鳴り響いている。
・十人火消しは配置につき、火事があってもよいようにとのお触れ。
・諸大名・御旗本は、今や今やと合図の鐘を待っている。
・出立の際は、水酒盃の覚悟を致すほどとのこと。
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湊川の借家へ行くと、既に異国船の話しでもちきりです。「今日明日中にも戦となるかもしれぬ」との噂ですが、五郎兵衛日記にはさしたる緊張感はなく、これは五郎兵衛の性格だけでなく、周囲の雰囲気がお祭り騒ぎ的なものであったからのような気がします。実際には危機的な状況は、6月3日のペリー来航から6月6日の国書受領方針の決定、翌7日の受領方針の伝達までであり、それ以降は軍事衝突の危険性は低くなっているので、現代からみると一層滑稽な気がします。

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(6月11日の五郎兵衛日記)
6月11日には、高松彦七郎が大原幽学を訪れています。
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6月11日
○公事宿から湊川の借家へ行く。夕方、高松様が来られる。「この度の異国船騒動で内海(東京湾)にある陣所の見分を命じられました。夕方に深川に集合し、船で行きます。御小人目付200人の中からこのお役目に選ばれたのは4名。名誉なことです。」
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ペリー来航の6年前から四藩(川越、彦根、会津、忍)が東京湾警備にあたっており、各藩の陣屋がありました。また、この度の騒動で各所に陣所が設けられたことでしょう。高松彦七郎は御小人目付として、見分(監察)するように命じられています。
どのような職務を行うのかを明らかにしており、今なら守秘義務違反?に問われかねませんが、明12日にはペリー艦隊が退去予定という情報を得ており、緊張がいくぶんほぐれてきた故の発言かもしれません。
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(6月12日の五郎兵衛日記)
6月12日には、大原幽学と五郎兵衛は高松彦七郎の両親にお祝いの挨拶に行っています。
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6月12日
○幽学先生は、小石川(高松氏の自宅)にお祝いに行かれ、小生も同道。高松様のご両親は異国船来航に意気盛ん。
親父様「年はとりましたが、合図の鐘があればお城へ駆けつけ、命を差し出し一働きする存念です。後世に恥をさらすようなら御恩に報いたい。」
奥様「合戦になれば、私も長刀で参戦致します」
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高松氏の両親の発言はかなり勇ましいものですが、高松父は隠居しても武士(軍人、戦闘員)であることを念頭に置く必要があるでしょう。五郎兵衛は農民であり、非戦闘員ですから、戦おうとはこれっぽっちも思っておりません。

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(6月13日、異国船騒動の終わり)
ペリーは6月12日に東京湾を退去していき、江戸の危機は回避されました。この情報を大原幽学らは、翌13日には得ています。
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6月13日
○八ツ時、高松様が湊川の借家に来られる。
四日四晩徹夜で、御城からのお帰りとのこと。高松様「こ度の御役目、首尾よく終わりました。異国船は十三日九つに出帆し、立ち去りました」
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幕府の役人高松彦七郎がここでも登場します。
高松氏は四日四晩徹夜と激務で、ペリーが出航し、仕事を終えてから、家に帰る前に幽学らのいる借家に来てくれています。危機は去り、高松氏の激務も終わりました。

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(終わりに)
このように武士と五郎兵衛を始めとする幽学の道友とではまるで緊張感が違います。戦争になれば、まっさきに被害にあうのは住民のはずですが、その緊張感がないのも不思議ではあります。
もっとも、6月9日の日記には次のような神田明神の祇園祭りの様子が記録されており、町は基本的にはいつもどおりの平穏を保っていたようです。ただ、神輿渡御がお触れにより中止となったことがいつもと異なっております。住民にはその程度のことと受け止められていたのかもしれません。

〈6月9日の夜の記事〉
一旦宿に戻った後、夜に小舟町(現中央区日本橋小舟町)へ行った。祇園牛頭天王など、さまざまな飾り物があった。第一の門には大きな提灯が掲げられ、天王の由来が書かれていて、神職が一人供を連れて、幣を持って参拝していた。第二の門には、天の岩戸の大神宮様の図が、第三の門には、素盞嗚尊と稲田姫、それに大蛇の絵が描かれていた。その次の門は、神々の御門のようであり、その次の門には大きな注連縄が、その次には御段家があった。
小舟町は五十何町にもわたる祇園の中心地である。祇園町内では二本ずつ幟が立てられ、天王様の御輿が置かれる場所には四方に竹が立てられ、締縄が張られ、花が飾られ、灯が灯され、また掛け提灯が無数にあった。
晩の九ツには神田明神まで、附木店の町内から迎えが出て、御輿が出されるそうなのだが今回の騒動のために、御触れがでて神輿は遠慮ということになった。

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