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南斗屋のブログ

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茨城県の板橋村

2022年11月07日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
 土浦の薬種商色川三中の日記を読んでいます。
 日記中に「板橋」という地名が時々でてくるので(末尾参照)、茨城県にも板橋があるのか?と疑問だったので、調べてみました。

(板橋村)
 「板橋村(いたばしむら)は、1889年(明治22年)4月1日から1955年(昭和30年)6月10日まで存在した茨城県筑波郡の村。現在の茨城県つくばみらい市北東部に当たる地域。」(ウィキペディア)とありますが、これは明治時代の板橋村のことですから、色川三中の生きていた時代(19世紀前半~)とは地域が異なるのでしょう。
 そこで、明治時代の板橋村がどのような経緯で成立したかについて調べてみますと、
「1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い板橋村、神生村、野堀村、南太田村、勘兵衛新田、武兵衛新田、重右衛門新田、狸穴村、高岡村、大和田村が合併して筑波郡板橋村が成立。」
とあります。このときに成立した板橋村のもとになったのが江戸時代にもあった「板橋村」ということになるはずです。この村のことを以下、「江戸時代の板橋村」といい、「明治時代以降の板橋村」とは区別することとします。
 「明治時代以降の板橋村」は、1955年(昭和30年)6月10日に伊奈村へ編入され消滅してしまいます。その後、伊奈村は1985年(昭和60年)に伊奈町となり、2006(平成18)年に合併によりつくばみらい市となっています。

(つくばみらい市板橋)
 つくばみらい市には「板橋」という地名が残っており、「江戸時代の板橋村」はこの地域に含まれているように思います。
 同市板橋2370番地には、不動院(板橋不動尊)があります。大同年間(806~809年)の創建とされ、本尊不動明王は国の重要文化財。「板橋不動尊」「板橋のお不動さん」として古くから関東一円に親しまれ信仰されていたといいます。
 地名として「板橋」は残っていますが、残念ながら「伊奈」や「つくばみらい」に押されています。
 不動院近くの小学校は「伊奈東小学校」ですし、郵便局も「伊奈郵便局」です。
 「伊奈」の名前がついているのは、「明治時代以降の板橋村」が1955年(昭和30年)6月10日に伊奈村に編入されたことによります。「伊奈」もつくばみらい市の成立(2006年)により消滅してしまいました。
「伊奈」はもともと地名ではないので(江戸時代の代官伊奈忠治に由来)、今後のネーミングとして残るのかどうか気になります。

(終わりに)
 茨城県にあった板橋村について簡単ですが、調べてみました。
 「明治時代以降の板橋村」においては村史は作成されていないようです。合併後の伊奈町では町史編纂事業が行われていたようですので、機会があれば関連文献も調べてみたいと思います。

【色川三中の日記における「板橋」の記載】
文政10年9月12日(1827年)乙卯
結婚以来、妻の実家(谷田部)に顔を出しておらず、吉兵衛同道で夜明け前に出立。大鯛、平目、小鯛各一枚を持参。途中、板橋(つくばみらい市)に寄る。谷田部着は七つ(午後4時)過ぎ。夜に帰るつもりが、引き止められ泊まることになり、酒を酌み交わす。

文政10年9月23日(1827年)晴
所用をこなすため河原代(龍ヶ崎市)へ、谷田部佐助と利八を同道し赴く。日之沢の二十三夜様を参詣(いつもは代参)。八つ過ぎ細井氏宅へ。佐助はいつもどおり藤代、板橋へ遣わす。細井氏から酒肴をだされる。夜までよもやま話をし、歌の道、国学、医談、薬品のことを話し、細井氏宅に泊まる。
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