尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

小熊英二『日本社会のしくみ』を読むー新知見満載の日本社会像

2024年05月12日 20時10分37秒 | 〃 (さまざまな本)
 『生きて帰ってきた男』に続いて、小熊英二日本社会のしくみ』(講談社現代新書、2019)を読んだ。これがまた参考文献まで入れると600頁を越えるという、新書とは思えぬ分厚さである。しかも内容も重厚で、なかなか進まず一週間以上かかってしまった。新書というジャンルは「一般向け」概説書が多いが、この本は注や参考文献の多さから見ても「研究書」というべきだろう。非常に大切なことが書かれているけど、万人向けではない。自分もよく理解出来たという実感がないが、大切だと思うところを中心に簡単に書いておきたい。驚きに満ちた日本社会の姿を通して、いろんなことを考えさせられた。

 21世紀の日本では「大企業が正社員を減らし、非正規として働かざるを得ない人が増えている」。こんな風に思っている人は多いのではないか。ところがデータを検証すると、これがどうも違っているというのである。つまり「大企業正社員型」で働く人は、ほとんど減っていない。全体の26%ほどだという。日本の大企業は(中には没落してしまった会社もあるが)、大きく見れば減っていない。大企業を運営する人員は同様に必要なのである。これは実感として、東京中心部のビル群、毎朝の通勤風景などが変わっていないのを見ても推測できるという。じゃあ、何が減ったのだろうか。それは「地元型」だという。

 地方へ行けば、中心部の商店街は「シャッター街」となる一方、ちょっと離れた国道沿いにショッピングモールが作られている。その結果、地元商店街で働いていた人々は全国的なチェーン店の非正規店員となったわけである。とは言っても、商店・飲食店や農家がなくなったわけではないし、地元自治体に勤める地方公務員を含めて、ほぼ「地元」を中心に活動する人は一定程度存在する。「地元型」は36%だという。そしてその他の非正規、自由業などを合わせた「残余型」が38%を占めるという。
(就業別の推移)
 「地元型」が減って、残余型が増えている。大企業型は現状維持。意外かもしれないが、上記グラフを見れば確かにそうなっている。よく「(国民)年金だけでは食べていけない」という声が聞かれる。国民年金はもともと(厚生年金、共済年金がある)大企業や公務員と違って、老後の資金が少ない自営業や農家を想定して作られたという。つまり、自宅兼職場で定年もなく一家総出で働く人々に合わせた制度だった。「地元型」が減って「残余型」が増えて、自宅を持たずに住居費(アパートの家賃)を払わなければならないとなると、年金で生活を支えることは不可能なのである。
(裏表紙)
 日本の会社、あるいは会社員の働き方は欧米先進国と大きく違っているとよく言われる。日本は(かなり変わったとはいえ)「終身雇用」であり、大卒一括採用が多い。労働組合も会社ごとにまとまっている。日本で職業を聞くと「三菱○○」「三井○○」など会社名を答える。外国では会計とか販売とか職業そのものを答える。職業ごとに組合があり、採用も欠員が出たときに資格を条件にして募集する。などとよく言われる。これは大体言われている通りらしいが、では何故そのような違いが生まれたのだろうか。著者はそれを近代史全般を振り返ることで究明しようとする。外国分析はラフスケッチだというが、とても興味深い。
 
 全部詳しく書くほど理解出来たとは言えないが、特に重大なことは日本の近代化のあり方が大きい。明治になって欧米で確立した技術(鉄道など)をそっくり導入した。民間資本はまだ遅れていたので、政府が中心になって「上からの近代化」を進めたわけである。従って「国家公務員」のあり方から生まれた制度が多いというのである。一括採用、定期人事異動、定年制など、大体そう。特に近代官僚組織としての軍隊の意味が大きかった。軍ではイザとなれば戦場で部下を率いるわけだから、体力の衰えた下士官は役に立たない。年齢による退官制度は軍から生まれたのである。

 日本では「外部評価」による資格制度が少ない。ドイツなどでは昔からある同業者組合などの資格認定が有効だという。日本でも大企業内部では熟練工を表彰するような仕組みがあり、「○○マイスター」などと呼ばれたりする。しかし、その資格は会社内でしか通じないことが多く、従って安易に辞めるわけにはいかない。同業他社に転じたら、(ある程度は経験者優遇を受けられても)大分下がった地点からスタートしなければならない。これが「長期雇用」が多くなる理由だという。そう言えば、看護師や保育士など資格で勝負できる職業は流動性が高い感じがする。

 いま日本で問題なのは「低学歴化」だという。日本で高学歴というと、有名大学を卒業しているという意味で使うことが多い。しかし、それは本来の高学歴ではない。大学を出て得られる資格は、どんな大学でも「学士」である。それに対して大学院を修了することで「修士」「博士」の資格になる。これが本来の「高学歴」である。欧米では、例えば会計に欠員が出たら、「経営学修士の資格を持つか、同等以上の経験を有する」などと求人するという。一方日本では将来経営者を目指すなら、大学院へ行ってる時間が不利になる。大卒一括採用時に、出世競争がスタートしてしまうからである。
(大学院進学率)
 この本でもう一つ理解できることは、どの国の制度もその国の歴史的な成り行きがあって成立しているということだ。だから立場はどうあれ、どこかの外国の制度は良さそうだと思って、継ぎ接ぎ式に持ってきてもうまく行かないという。だが、この「一括採用」による「低学歴化」は今後変えてゆくべきだろう。日本の将来にとって、きちんと勉強していない(学問的トレーニングを受けていない)人が政府や大企業を運営することは不安材料である。大学院へ行くことそのものよりも、「勉強して自分をヴァージョンアップする」ことが企業の中で評価されるような仕組みがあるかどうかということである。

 今書いたことは、この本に書かれていることの10分の1にも及ばない。あまりにも多くも問題が出ていて、それは「日本社会のしくみ」を究明しようという熱意のもとに、雇用だけでなく教育や社会保障、政治や歴史全般にも追求が広がっていくからだ。頑張って読んでみれば、いろんな問題を知ることが可能だ。しかし、それと同時に「文献研究の限界」にも触れている。その社会の中で生きている人には、あまりにも当たり前で書くまでもないことは、文献として残りにくいのである。そこで慣習や慣行などを洗い出してゆくことも必要となる。研究のやり方のトレーニングとしても役立つ本だ。
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小熊英二『生きて帰ってきた男』を読むー類書がない面白さ

2024年05月11日 22時45分12秒 | 〃 (さまざまな本)
 4月は読まないままだった新書本に取り組み続け、最後に小熊英二の新書を二冊読んだ。やはり興味深かったが、とにかく分厚い。さすがに新書には飽きてしまって、今は違う本を読んでいる。先に読んだ『生きて帰って来た男』(岩波新書、2015)は、ポリープを取った時に読んでた本だった。「あとがき」までいれて389頁。著者にしては薄い方になる本だけど、岩波新書だから結構ズッシリ感がある。刊行当時評判になったが、何となく読まないうちに9年も経ってしまった。ずっと近くに積まれていたのだが、奥の方に入ってしまい探すまで苦労した。しかし、この本は読みやすくて、とても充実した本だった。

 小熊英二氏(1962~)は、とにかく分厚い本が多い印象がある。主著が文庫化されてないから、思想史に関心がない人は読んでないだろう。『単一民族神話の起源――<日本人>の自画像の系譜』(1995)で颯爽と論壇デビューした時は、30代前半の新進研究者だった。その後、『<日本人>の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮:植民地支配から復帰運動まで』(1998)、『<民主>と<愛国>――戦後日本のナショナリズムと公共性』(2002)とさらに長大な本を出したが、僕はずっと読んできた。毀誉褒貶もあったが、非常にスリリングな本だった。しかし『1968』上下(2009)になると、持ち歩けないぐらい重い本が2冊で、買ったまま読んでない。『社会を変えるには』(2012、講談社現代新書)も興味深かったが、それ以後読んでなかった。
(小熊英二氏)
 『生きて帰ってきた男』は著者の父親である小熊謙二氏の生涯をインタビューした本である。小熊謙二(1925~)は一介の市井の人物だが、晩年に戦後補償裁判に関わった。そのためかWikipediaに項目が立っていて、それによればまだ存命である。(更新されていないだけかもしれないが。)刊行当時の書評でも、実の父親の戦争体験、特にシベリア抑留を聞き書きしたことが大きく取り上げられていた。戦争体験、中でもシベリア抑留は非常に重い体験に違いない。しかし、ソ連軍に連行された人は60万人以上と言われ、体験を書き残した本は相当ある。僕もずいぶん読んでいて、そういう目で見ると特に珍しい本ではない。

 そもそも題名が『生きて帰ってきた男』である。最初の目次を見ると、徴兵され、シベリアに連行され、帰国後に結核になって療養所に入った。どんな人の人生も語るべきことがあるが、この本の主人公、小熊謙二は結局生還するわけである。生きて帰って来ない限り、著者の小熊英二氏が誕生しない。よって、結末の判っているミステリーみたいな気がして、つい読み遅れたのである。だがその予測は読んでみて間違いだったと判った。実は戦争体験以外のところが抜群に面白く、類書がないのである。

 小熊謙二は1925年生まれ。この前読んだ映画監督岡本喜八は1924年(早生まれ)、僕の父は1923年(早生まれ)、僕の母は1927年だから、小熊謙二はちょうど僕の両親の真ん中だ。この世代は戦争と結核で大きな被害を受けていて、僕の父母もそうだった。小熊謙二の兄や姉、そして僕の母の生母や兄は結核で亡くなった。僕の父の兄はシベリアで死んでいて、その場所は小熊謙二と同じチタだった。彼はソ連の実態を知って共産主義に幻想は持たなかったが、戦争責任を認めない保守勢力の「足を引っ張る」ため選挙では社会党や共産党に入れてきたという。これは僕の「左翼というより反右翼」に近い。読んでるうちに何だか親近感が湧いてきた。アムネスティ日本支部に80年代から加入して毎月外国へハガキを送っているのも僕と同じ。
(チタの場所)
 小熊謙二は北海道で生まれたが、元々小熊家は新潟県中蒲原郡の農家だった。そこの次男小熊雄次が著者の祖父になる。先物取引に失敗して北海道に渡り、札幌で結婚して子どもも生まれたが妻を亡くし網走に移った。そこで代書屋をやり、宿泊していた旅館の娘片山芳江と再婚した。片山家は元々岡山出身だったが、こうして新興の北海道で新しい家族が生まれたのである。しかし、先走って書くと、父方も母方も没落してしまう。芳江は結核で亡くなり、祖父は火事で旅館を失い東京へ出て小さなお菓子屋を開いた。謙二は祖父に預けられ、東京で育ったのである。そして兄の勧めもあって、早稲田実業に進むことが出来た。

 子どもを上級学校に進ませる発想は祖父にはなかった。しかし、そこまでである。大学に進むお金があるわけない。何とか小商人としてやって来た祖父は、戦時下に没落し(お菓子屋は休業させられた)、空襲で家も失う。北海道に残った父も欺されて没落し新潟に帰った。両者ともそこそこの老後資金を貯めていたが、戦後のインフレで紙くず同然になった。年金制度もなく戦争で全く生きる術を失ったのである。今まで戦争体験を語るのは、文字を書ける大学出身の知識層が多かった。「農民兵士の手紙」の研究はあるが、地域的に調査がしやすい。没落すれば全国に散らばる小商店主(旧中間層)の戦争体験は極めて珍しいと思う。

 親は没落、シベリア帰り、結核回復者の小熊謙二は、いかにして息子(英二)を大学へ入れることが可能な生活を手に入れたか。この本で一番興味深いのは「高度成長をいかに乗り切ったか」である。謙二の妹が東京学芸大の事務をしていて、そのツテで立川ストアという店のスポーツ部門要員に雇われる。社長の拡大方針が失敗した時に、謙二が中心になって整理し自ら立川スポーツという会社を立ち上げ社長となった。自分はスポーツをしないのに、スキー、登山、テニスなどのブームに乗ったのである。さらにベビーブーム世代のための学校増設時代で、新設校に食い込んで体操着や体育館履き、運動用具などを売りまくったのである。
(不戦兵士の会機関誌「不戦」)
 そんな小熊謙二の心に、年齢とともに戦争体験、というか戦争責任を置き去りにした戦後日本への憤りが深まっていく。「不戦兵士の会」に参加したのである。さらにシベリア抑留の「慰労金」を「朝鮮人兵士」が貰えないことを知り、補償を求める訴訟の共同原告人にまでなった。ただし一緒に日本国を訴えた韓国人原告には「日本の裁判では負ける」と事前に告げていた。日本国家への幻想もないのである。この小熊謙二という人間の中で、人生の最後に正義を求める心がどんどん高まっていった様は心打たれた。

 最後に特に興味深かったこと。学校回りの際には、4月1日に訪ねてはいけない。新設校立ち上げで多忙な教員は、そういう業者を鬱陶しいと思って排除する。学校ごとに体育教員と事務職員と、どちらが主導権を持っているか確かめる必要がある。なるほど。また著者の兄は(一人は祖父の片山家の養子にする約束)輝一、政一だった。これは(片山家の出身の)岡山の殿様池田輝政に由来するという。一方自身の謙二は、(小熊家の出身の)新潟の武将上杉謙信に由来するという。だからもう一人男子が生まれたら、信三だったろうという。当時の命名法はそんなものだと語るのは印象的だ。
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映画『正義の行方』、飯塚事件の真実を探る迫真作

2024年05月09日 22時02分40秒 | 映画 (新作日本映画)
 『死刑台のメロディ』を見たから、次に見るべきは『正義の行方』だ。渋谷のユーロスペースで上映している記録映画。もともとはNHKのBS1スペシャルで2022年に放映された「正義の行方~飯塚事件30年後の迷宮~」である。(文化庁芸術祭大賞ギャラクシー賞選奨受賞。)監督の木寺一孝(1965~)は、劇場公開された『“樹木希林”を生きる』(2019)の監督だった人。2023年にNHKを退職し、満を持して放つ超問題作。158分もある長い映画だが、全く時間を感じさせない。

 この映画は1992年に福岡県飯塚市で女児2人が殺害された事件飯塚事件)を扱っている。2年後に久間三千年(くま・みちとし)が逮捕され、一切の供述を拒んだが「状況証拠」の積み重ねで起訴された。被告・弁護側は無実を主張したが、1995年に福岡地裁で死刑判決が出され、福岡高裁でも維持、2006年9月に最高裁で確定した。そして2008年10月28日に死刑を執行された。その後、DNA鑑定や目撃証言の証拠価値を否定する新証拠をもとに再審請求を行った。再審請求は2014年3月に棄却され、2021年に最高裁で確定した。この棄却決定はDNA鑑定の価値を否定しながら、それ以外の証拠で有罪が維持出来るとしたものだった。
(木寺一孝監督)
 この映画は「冤罪」を扱う記録映画として、かつてなく深い取材を積み重ねている。ちょっと信じられないぐらい、捜査に加わった元警察官が取材に応じている。再審請求中の事件をテーマにした取材に捜査側が応じることは珍しい。それはNHKの力もあるかもしれないが、恐らく「死刑執行後の再審請求」は絶対に認められないとする当局の意向があるのではないか。いつもなら公務員の守秘義務をタテに沈黙する元捜査官たちが、皆一生懸命になって捜査の正しさ、有罪判決の正しさを力説している。これは本気でそう思い込んでいるんだろう。死刑判決を聞いて日本の司法に正義が生きていたと感動しているぐらいだ。
(取材に応じる元捜査官)
 事件捜査が時系列に沿って描かれているため、前半は捜査官や新聞記者の証言が多い。そのため有罪寄りの心証になるかもしれないが、後半は再審弁護団に密着することが多く疑問だらけの捜査だった印象になる。実は警官の中には直接証拠や自白は得られなかったが、「4つの状況証拠」(DNA型鑑定、目撃証言、血痕鑑定、繊維鑑定)が合わさって有罪の証拠価値は十分だと力説した人がいた。しかし、再審棄却決定ではDNA型鑑定の価値が否定された。だから、本来有罪の証拠は瓦解するはずだが、今度はDNA抜きでも有罪は揺るがないとなる。車の目撃証言も誘導の疑いが濃い。

 また地元紙の西日本新聞の記者が語っていることも非常に興味深い。同紙の記者は早くから久間氏が容疑者として目を付けられていることをつかみ、地元紙として他紙に抜かれたくないと積極的に有罪方向の記事を書いた。そのため取材の中心にいた記者は、死刑判決や再審棄却決定に対して「正直ホッとした」という感想を抱くまでになった。それは正直とも言えるけど、マスコミの対応として間違いだろう。DNA型鑑定を「有力証拠」と書いた記事を他紙に先んじて書いたが、その記事を取り消したのだろうか。後になって西日本新聞は飯塚事件の再検証を行い、それに携わった記者が最後に語ることが僕には納得出来るものだった。
(遺体発見現場近くの山道) 
 実は同じ地域で2年前にも女児行方不明事件が起こり、久間氏は「最後に見た人物」(自分の子どもの遊び友だちの妹だった)として疑われた過去があった。それだけで疑うのもどうかと思うが、捜査官によれば「(久間は)ジキルとハイド」だという。そう決めつければ、どんな人でも恐るべき少女殺害犯になり得る。その時は逮捕出来なかったが、2年後の事件で当初から警察は「見込み捜査」を行ったと考えられる。警察は久間氏の車を知ってから、車の目撃証言を調書にした。逮捕後には庭を掘り返したが、それは2年前の少女の遺体が見つかると踏んだのである。しかし出なかったので、ポリグラフの結果として捜索を行い「2年前の女児の服を見つけた」。(しかし、それは数年間雨風にさらされたとは思えないものだったという。)

 この映画の中で何人かの人々が「真実を知りたい」という。僕もまあ知れるなら知りたいとは思うけど、実は裁判は真実を知るための制度ではない。もう時間も経って新しいDNA鑑定も(足利事件や東電OL事件などのように)実施出来ない。そのことを誰もが知っていて、「真実が知りたい」というのはおかしい。刑事裁判の原則(再審でも同様)は「疑わしきは被告人の利益に」である。「状況証拠」が怪しげな物だと判明した現時点で、有罪の原判決を維持するのは正義に反する。そう僕は思うけれど、元警察官は「その後事件が起きてないのは久間が真犯人の証明」と語る。こういう発想は冤罪を作るものだ。

 もう一点、この事件は死刑制度の恐ろしさをまざまざと示している。「有罪か無罪か判断出来ない」では困る。100%の確率で検察側が有罪を立証出来なかったら、その事件は無罪にならなくてはならない。「51対49」ではマズいのだ。しかも死刑判決である。執行されてしまって、取り返しが付かない。布川事件、足利事件、東電OL事件、東大阪事件などの冤罪も恐ろしいが、無期懲役だったから再審で無罪になって自由の身となれた。世界にはイギリスのように「死刑執行の冤罪」発覚が死刑廃止のきっかけになった国もある。(逆に考えれば、死刑制度廃止の声が高まらないために、どんな新証拠があっても日本の裁判所は再審請求を棄却する可能性がある。)この映画は非常に多くの人に取材しているが、もう一人死刑執行を命じた森英介元法相の考えも聞きたいと思った。
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思い出の『死刑台のメロディ』、冤罪「サッコ&ヴァンゼッティ事件」を描く

2024年05月08日 22時05分28秒 |  〃  (旧作外国映画)
 是非とも紹介しておきたい旧作映画、『死刑台のメロディ』(1971)をやっと見た。もっと前に見る心づもりが、体調不良などでなかなか見られなかった。上映は東京では新宿武蔵野館で23日まで。1972年に日本公開だから、すでに半世紀以上前のことになるとは驚き。個人的にも思い出深い映画だが、まさかまた映画館で見られるとは思ってもいなかった。今回はなんと「エンニオ・モリコーネ特選上映」と銘打って、映画音楽に注目しての上映である。これもモリコーネだったのか。『ラ・カリファ』(1970、初上映)というロミー・シュナイダーが印象的な映画と2本が上映されている。

 最近はデジタル修復版がDVDまたは配信される前にちょっと劇場上映される機会が増えている。ほとんど宣伝しないから、気が付かないうちに終わってしまうこともある。しかし、注意していれば相当珍しい映画を見るチャンスが増えた。この『死刑台のメロディ』は甘美で抒情的なモリコーネ節を味わう映画ではない。実に厳しいリアリズムで「サッコ・ヴァンゼッティ事件」を描いていて、冤罪映画の最高峰である。1919年にアメリカで起きた強盗殺人事件で、イタリア人アナーキスト、ニコラ・サッコバルトロメオ・ヴァンゼッティが捕えられた。当時から冤罪と言われ、アメリカ内外で激しい抗議活動が繰り広げられた事件である。
(DVD、左=サッコ、右=ヴァンゼッティ)
 当時はパーマー司法長官による「赤狩り」がアメリカ国内を荒れ狂っていた。一体大統領は誰なのかと思うが、急には思い浮かばない。調べるとウッドロウ・ウィルソンの2期目だった。第一次大戦後の「14ヶ条の平和原則」で知られるウィルソンだが、ノーベル平和賞を受けた裏でこんな人物を司法長官にしていたのか。そんな時代にマサチューセッツ州ボストン近郊で事件が起き、二人のイタリア人が銃の不法所持で逮捕された。彼らは靴職人(サッコ)、魚行商人(ヴァンゼッティ)だったが、同時にアナーキストでありアメリカ社会の不平等に苦しんでいた。捜査では全く言い分を聞かず強引に起訴された。
(映画のサッコとヴァンゼッティ)
 裁判になると、強引な訴訟指揮、偏見に満ちた証言で、弁護士が異議を申立てても(かなり証人を「威圧」してもいるが)全く聞かれない。今ならばこの裁判官の指揮だけでも上級審で破棄されるだろう。恐るべきことに、証人が証言をひるがえしても、また獄中で真犯人が名乗りを上げても、全く何の影響も及ぼさない。それどころか真犯人の可能性がある人物の捜査ファイルは消え去っていた。つまり、当局も途中で真犯人は別にいると気付いたのである。この裁判シーンが長いけど、全く退屈しない。音楽がないシーンも多く、そのことが緊迫感を高めている。とにかく恐るべき政治裁判だったのである。
(実際のサッコ=右、ヴァンゼッティ=左)
 サッコやヴァンゼッティが法廷で自らの無実を訴える陳述をするシーンがある。これが見事で、日本の冤罪事件でもよくあるように(布川事件の桜井昌司さんや狭山事件の石川一雄さんのように)、「庶民が獄中で鍛えられ真実を訴える」姿が感動的だ。今見ると『独裁者』のチャップリンよりずっと心打たれた。そして、ヴァンゼッティは最後まで諦めず訴え続けるが、サッコは途中から心を閉ざしてしまった。これも袴田巌さんを思い出して心が苦しくなる。ヴァンゼッティが皆に訴えた言葉、我々の名前は自由と正義を求める人々の心に永遠に残るが、あなた方(裁判官や検察官)の名は忘れられるというのは全くその通りだと思った。

 この映画を非常に有名にしたのが、途中で3回流れるジョーン・バエズの歌だろう。当時「フォークソングの女王」と言われ、ベトナム反戦運動にも大きな影響を与えていた。その「Here’s To You」(あなたがここにいるといった意味)は「勝利への讃歌」などとおかしな邦題を付けられたが、日本でも大ヒットした。作曲はエンニオ・モリコーネである。この映画で一番思い起こすのはこの曲だという人が多いだろう。ただ歌詞ではイタリア名を「ニック&バート」と歌っていた。デモ隊の掛け声も英語名である。バエズの透明で力強い歌声が心に残リ続ける。
(バエズ『勝利への讃歌』)
 ヴェンゼッティ役はジャン=マリア・ヴォロンテで、実に見事な存在感を発揮している。国際的知名度があるただ一人の配役で、『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』では悪役だった。ちょっと前に見たジャン=ピエール・メルヴィル監督の『仁義』でも、アラン・ドロンと共演していた。サッコはリカルド・クッチョーラという人で、この映画でカンヌ映画祭男優賞を受けた。監督・脚本はジュリアーノ・モンタルド(1930~2023)で、何本か映画祭受賞映画もあるようだ。日本ではあまり公開されておらず、全貌はつかめない。2007年にダヴィッド・ディ・ドナテッロ生涯功労賞を受けているというからイタリアでは高い評価を受けている。

 日本では非常に高く評価され、キネ旬ベストテンで3位に選出されている。僕のベストワンはアメリカの青春映画『ラスト・ショー』で、これはキネ旬と同じ。日本映画は『旅の重さ』で、どっちも同世代で見た高校生の映画なのである。『時計台のオレンジ』や『ゴッドファーザー』の年だが、僕はむしろベルトルッチ『暗殺の森』、スコリモフスキー『早春』などに心惹かれていた。社会派系映画を高く評価する批評家が選出委員に多かった時代だからこその上位だろう。ところで僕は大学時代以後に政治犯救援や冤罪救援に参加するようになったが、もしかしたらこの映画の影響もあったのかと今回見て感じた。
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曙、笠谷幸生、O・J・シンプソン、ヒッグス他ー2024年4月の訃報②

2024年05月07日 19時26分54秒 | 追悼
 スポーツ関係や1回目に書かなかった人を内外まとめて。まずは第64代横綱曙太郎(旧名チャド・ローエン)が4月上旬に亡くなり、11日に公表された。54歳。(死亡日は未公表。)ハワイのマウイ島出身で、ハワイ初の関取高見山の東関部屋に入門して、1988年3月に初土俵を踏んだ。昭和63年入門の貴ノ花、若乃花、魁皇など「花の六三組」と競い合って昇進、1990年3月に新十両、9月に新入幕した。92年5月場所で初優勝して大関に昇進、92年11月、93年1月に連続優勝して横綱に昇進した。外国人力士として初の横綱である。当時は92年3月で北勝海が引退して横綱不在で、95年1月に貴乃花が昇進するまで一人横綱だった。
(曙)
 として相撲界を支えた。204㎝の身長、223㎏の体重を生かした豪快な相撲で人気があり、貴乃花との白熱した優勝争いが記憶に残る。(曙貴時代と呼ばれた。貴乃花とは21勝21敗だった。)後半は膝のケガに悩まされながら、長期休場が多かったが、2000年に2度優勝した。優勝11回で、2001年1月に引退。引退後は東関部屋に残ったが、2003年11月に相撲協会を退職。格闘技K-1参戦を発表した。しかし大みそかに行われたボブ・サップ戦では1回ノックアウトされた。格闘技は1勝9敗、総合格闘技は4敗で、その後はプロレスラーとして活動した。まだ亡くなる年齢ではないが、心不全だったという。忘れられない相撲取りの一人である。
(貴乃花を圧倒した曙)
 1972年札幌冬季五輪で、スキージャンプ70メートル級金メダルを獲得した笠谷幸生(かさや・ゆきお)が23日死去、80歳。この人の名前は、当時を生きていた人には忘れられない。70メートル級(現在のノーマルヒル)は、笠谷が金、金野昭次(こんの・しょうじ、2019年没)が銀、青地清二(2008年没)が銅と日本勢が独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。90メートル級は7位とメダルを逃した。五輪には4回出場したが、その中で10位位内に入ったのは札幌だけ。まさに札幌五輪のために輝いたのである。北海道の余市高から明治大を経て、ニッカウヰスキーに入社。ニッカでは東京本社広報部長や北海道支社副支社長を務めて1999年に退社。その間に国際審判員の資格を取り、IOC理事、2010年のバンクーバー五輪選手団副団長を務めた。2018年に文化功労者。
 (笠谷幸生)
 アメリカンフットボールの元スター選手O・J・シンプソンが10日死去、76歳。南カリフォルニア大学で活躍し、1969年にドラフト1位でバッファロー・ビルズに入団してプロ選手となった。プロとしても素晴らしい成績を挙げたが、僕はルールもよく知らず何も言うことはない。この人に関しては、もちろん94年に起こった元妻とその知人を殺害した容疑で起訴されたことで知ったのである。刑事事件としては翌95年に陪審員が無罪の評決を出した。(民事では責任が認定され多額の賠償金を命じられた。)その後、2007年にラスベガスのホテルの部屋に銃を持って押し入り、記念品などを奪ったとして逮捕された。有罪となり不定期刑で収監されたが、2017年10月に仮釈放されていた。あれ、そんな事件があったっけ。
(O・J・シンプソン)
 物理学者のピーター・ヒッグスが8日死去、94歳。2013年にノーベル物理学賞を受賞した。エディンバラ大学名誉教授。1964年に南部陽一郎の理論を発展させ「ヒッグス粒子」の存在を予言した。様々な素粒子が発見されたが、長くヒッグス粒子だけ未発見だったが、2012年にスイスのCERN(欧州合同原子核研究所)の巨大加速器を使った実験で発見された。ではヒッグス粒子とは何か、どのような理論から導かれたものかは、手に余るので自分で調べてください。
(ヒッグス)
 元カネボウ会長、日本航空会長の伊藤淳二が2021年12月19日に死去していたことが明らかになった。99歳。20年前なら一面に載った訃報だろうが、長命すぎて忘れられただろう。1968年に45歳でカネボウ(当時は鐘淵紡績)社長に就任し、経営多角化、労使協調の経営路線で注目された。1985年に中曽根首相の要請で日航副会長、翌86年に会長となった。しかし、労使対立が深刻化して87年に道半ばで退任した。山崎豊子『沈まぬ太陽』、城山三郎『役員室午後三時』のモデルとされ、ある時期まで日本で最も知られた会社経営者だった。しかし、カネボウは2007年に粉飾決算が発覚して破綻した。(現在も残る化粧品会社はは花王の子会社として残ったのである。)日航も後に破綻し、結果的に伊藤淳二は失敗した経営者となってしまった感がある。
(伊藤淳二)
 歌手、俳優の佐川満男が12日死去、84歳。当初はロカビリー歌手として成功し紅白歌合戦にも2回出場。その後病気で低迷した後、1968年に「今は幸せかい」が大ヒットして、紅白に返り咲いた。1971年には歌手の伊東ゆかりと結婚し、子どもも生まれたが1975年に離婚。一端芸能界を引退したが、80年代から関西を中心に俳優活動を中心にカムバックした。以後大阪制作の朝ドラや旅番組などに出演した。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。
(佐川満男)
 ルドルフ・シュタイナー研究の第一人者として知られる高橋巖が3月30日に死去した。95歳。慶応大学で学び、西ドイツに留学した。帰国後慶大教授となったが、1973年に退職。「異端」であるシュタイナー研究と普及に全力を捧げるため、アカデミズムを離れたのである。以後、ルドルフ・シュタイナーの著作を翻訳するとともに、神秘学やシュタイナー教育に関する著作を数多く発表した。1985年に日本人智学協会を設立し、一生をシュタイナー紹介に努めた人だった。
(高橋巖)
日本史研究者の訃報が二人。中世史の元木泰雄が9日死去、69歳。京大名誉教授。院政期から鎌倉時代が専門で、『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)や『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011)はとても面白かった。また古代史の笹山晴生が12日死去、91歳。東大名誉教授。律令制下の兵制が専門だが、平安京に関する一般書や教科書も執筆した。小泉政権の「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーだった。僕は単著は読んでないと思う。
外国の映画監督の訃報が二人。エレノア・コッポラが12日死去、87歳。フランシス・フォード・コッポラの妻で、娘のソフィアは映画監督、息子のロマン、ジャン=カルロも俳優や製作者など映画一家で知られている。『地獄の黙示録』のメイキング『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』と劇映画『ボンジュール・アン』を監督している。フランスのローラン・カンテが26日死去、63歳。『パリ20区、僕たちのクラス』が2008年にカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。日本でも公開され評判になったが、他の作品は正式公開がなく全然知らない。
・ヴェトナムの現代美術家、ディン・Q・レが6日死去、55歳。ボートピープルとして子ども時代に渡米したが、後に帰国。戦争の記憶を扱う作品で世界的に評価された。3月に訪日して作品を製作したという。イタリアのファッションデザイナー、ロベルト・カバリが12日死去、83歳。ヒョウ柄など動物柄で人気を得て、服だけでなく時計、アクセサリーなどのブランドを展開した。
・海岸工学の創始者、堀川清司が18日死去、96歳。津波や海岸浸食などを研究した。文化功労者。東大名誉教授。東大退官後の埼玉大学で学長を務め、誘拐未遂事件にあったことがある。政治評論家屋山太郎が9日死去、91歳。
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フジコ・ヘミング、星野富弘、桂由美、P・オースター他ー2024年4月の訃報①

2024年05月06日 19時25分30秒 | 追悼
 2024年4月の訃報特集。1回で終わるかと思ったら、最後になって重要な訃報が相次いだ。タイトルに挙げた4人はいずれも5月になって報道された人である。1回目は文化関係者をまとめて。まずピアニストのフジコ・ヘミングが4月21日に亡くなった。92歳。そのドラマティックな人生は大きく報道された。父親はスウェーデン人、母親が日本人で、1931年にベルリンで生まれた。5歳で日本に移り、戦時中は岡山に疎開、その後青山学院高校、東京芸大を卒業した。若き優秀なピアニストだったわけだが、その後留学しようとしたら無国籍だったことが判明した。難民として西ドイツに留学し才能を認められたが、風邪をこじらせて左耳の聴力を失った。それ以前に右耳の聴力も失っていたのである。その後はスウェーデンでピアノ教師をしていた。
(フジコ・ヘミング)
 母親の死後、1995年に帰国。1999年2月にNHKで「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映され、多くの人がこの人の存在を知ったのである。デビューCD『奇蹟のカンパネラ』(パガニーニのヴァイオリン協奏曲のロンドをリストが編曲したピアノ曲)は200万枚の大ヒットとなった。若い人ならともかく、聴力を失いながら(その後左耳は40%回復)高齢になって大ブレイクしたのは印象的である。最近はあまりクラシックのコンサートに行かない僕も上野の文化会館に聞きに行ったものである。まあ何を聞いたか忘れてしまったが。2023年11月に転倒するまで、世界各地でコンサートをしていた。晩年に円熟した人だった。
(CD『奇蹟のカンパネラ』) 
 口にくわえた筆で絵や詩を創作した星野富弘が28日に死去、78歳。もともとは群馬県の中学で体育教員をしていた。しかし、採用初年度の1970年に体操部の指導中に転落事故にあい、脊髄損傷で首から下の身体機能を失った。1972年に口で絵筆を動かして表現活動を始め、74年にはキリスト教に入信した。80年代に「花の詩画展」を全国各地で開催して大きな感動を与えた。評判を呼んで、91年には東村(現みどり市)立富弘美術館が開館した。草木湖畔に立つ美術館には多くの人が訪れている。足尾に通じるわたらせ鉄道沿いの地区で、僕も行ったことがある。人生というものはどこで道が分かれているか、計り知れないということをこの人の人生は教えてくれる。素直に感動した美術館である。
 (星野富弘)
 ファッションデザイナーの桂由美が26日死去、94歳。デザイナーといっても、この人はブライダルデザインに特化していた。洋装のウェディングドレスを日本に定着させた人である。一時は文学座研究生になるなど演劇を目指していたが、後にファッションを仕事に選び、誰もやっていなかったブライダルデザインを選択した。戦時中に育ち、戦後の憧れだったウェディングドレスを「一ヶ月の給料で買える」ようにしたいと思ったのである。ヨハネ・パウロ2世に博多織の祭服を献上したこともあった。政治的には保守派で「日本会議」のメンバーだったという。死去数日前に「徹子の部屋」収録を行っていた。
(桂由美)
 アメリカの重要な作家二人が亡くなった。まずポール・オースターが30日に死去、77歳。日本では柴田元幸訳で新潮文庫に収録されている。『孤独の発明』やニューヨーク3部作(『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)などは、ある種前衛ミステリー風で取っつきにくい印象がある。しかし、そこで終わらせてはもったいない。『ムーン・パレス』(1989)は最高に心打つ青春小説だし、『偶然の音楽』『リヴァイアサン』も面白かった。もっともその後は買ってあるけど読んでない。
(ポール・オースター)
 映画にも深い関心を持ち、自身の短編を基にした『スモーク』(1995)の脚本を担当、また『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998)では監督を務めた。ボール・ベンジャミン名義で発表されたミステリー『スクイズ・プレー』(新潮文庫)は野球小説としても秀逸。都市生活者の孤独や憂愁を描き、日本でも人気が高い作家だった。『スモーク』は近年修復版が公開され、新宿東口映画祭で上映がある。タバコをめぐる綺譚だが、本人は肺がんで亡くなったのである。
(映画『スモーク』)
 アメリカの作家、ジョン・バースが2日死去、93歳。実験的な作風と物語を融合させた『酔いどれ草の仲買人』(1979)や『旅路の果て』『やぎ少年ジャイルズ』『キマイラ』などが代表作とされる。アメリカのポストモダン文学の代表者と言われるが、短編しか読んでないのでよく判らない。同じ日にフランスの女性作家マリーズ・コンデが死去した。90歳。カリブ系黒人だが、パリに学んでソルボンヌ大学を出た。ギニアの俳優と結婚してアフリカで活動したが、70年にフランスに戻り創作活動を本格化させた。世界的に高く評価されていて、『生命の樹 あるカリブの家系の物語』『心は泣いたり笑ったり マリーズ・コンデの少女時代』など邦訳もある。2018年にスウェーデンの市民団体が設立したニューアカデミー文学賞を受賞した。
(ジョン・バース)(マリーズ・コンデ)
 「ぼくら」シリーズで知られる作家、宗田理(そうだ・おさむ)が8日死去、95歳。この人を有名にした『ぼくらの七日間戦争』(1985)は、昔中学校の文化祭で演劇にしたことがある。その思い出が鮮烈なんだけど、今回Wikipediaで知ったそれ以前の「編集者時代」が凄かった。日芸映画学科に進み若い頃から脚本の助手をしたが、仕事が減って高利貸し森脇将光の「森脇文庫」の編集者となった。今じゃ知らない人が多いと思うけど、造船疑獄の端緒となった森脇メモは宗田が書いたというのである。その後PR会社を設立し自動車業界の裏情報を梶山季之、清水一行らに提供した。そして水産業界の裏を知って書いた『未知領域』が直木賞候補となって作家専業となった。「ぼくら」シリーズは中学生に始まり、高校生編、青年編、教師編と延々と何十冊も書かれ、累計発行部数2千万部と言われる。全然知らない前半生があって、それは忘れられている。
(宗田理)
 フランス文学者、文芸評論家、詩人の粟津則雄が19日死去、96歳。特に詩人ランボーの研究や翻訳で知られる。小林秀雄の影響を受け、詩や文学に止まらず美術や音楽などヨーロッパ文化について幅広く評論活動を展開した。正岡子規、萩原朔太郎など日本の詩人に関する本も多い。特に草野心平と交友が深く、草野心平記念文学館長も務めた。翻訳ではゴッホ書簡全集、ランボー全詩集、モーリス・ブランショなどがある。法政大学名誉教授。芸術院会員。
(粟津則雄)
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「TKB48」を知ってますか?ーより良い避難生活を目指して

2024年05月03日 20時50分35秒 | 社会(世の中の出来事)
 2024年は能登半島地震で年が明けたが、その後も台湾地震など大きな地震が起こった。四国(愛媛県南部)でも初めて震度6弱を記録する地震が起きた(4月17日)。死者が出なかったのは幸いだが、その分「激甚災害」の指定はない見込みで、被害があった人は自費で修理しないといけないから大変だという。激甚災害とは「激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律」により、大規模災害には国庫補助率のかさ上げや国による特別の貸し付けなどが行われる制度である。

 能登半島地震から4ヶ月経ったが、未だ避難所生活を送っている人が相当いる。水道の復旧が特に遅れていると言われる。それに当初の避難所生活は、トイレや食事が大変だったという話がよく聞かれた。「半島部」は交通が不便で、日本は地理的に離島、山間部、半島が多く、ある意味災害時は「そんなもの」で皆でガマンするべきものだと思い込んでいるかもしれない。
(TKBとは)
 ところが最近「TKB48」という言葉を聞いてビックリした。どうしても最初はどこかのアイドルグループかなと思ってしまう。あてはまる町の名前が思いつかないが、JKT48(ジャカルタ)なんてのもあるから、海外の町なのかなと思ったり…。だけど、これはトイレキッチンベッドの略なのである。災害地にトイレ、キッチン、ベッドを48時間以内に整備しようという目標である。それは行政頼りでは出来ない。もともと準備されていて、いざというときはヴォランティアが活動するのである。

 英語だからアメリカ発祥かと思うと、どうやらイタリアから始まったらしい。イタリアも地震大国で、大きな地震が何度もあったのを僕も記憶している。最初の避難所立ち上げは、市民がヴォランティア的に行うものとなっていて、行政が大々的な支援を行えるようになる前に一定の市民生活を送れるようにするのである。それは「災害時であっても、市民が普段営んでいる生活を保障する」という市民社会保護の考え方だという。
(災害時の高齢者向け介護施設)
 僕は聞いたことがなかったけど、日本でも多くの施設などでこの理念が広がりつつあるようだ。日本では二次避難、あるいは仮設住宅が出来るまで、雑魚寝したりするのが当然視されていないか。温かくないままの食事が続いても、あるだけありがたいと思ってないか。特にトイレが困ったという話をよく聞くが、それを「人権」の問題として意識しているだろうか。こう考えていくと、日本の避難生活が全く世界基準に達していないことが理解出来る。

 TKB48という言葉をもっともっと広める必要がある。知らない人も多いと思うから、是非広めていきたい。僕も最近聞いたばかりだが、福祉や行政の現場では知られているのかもしれない。だけど、一般的にはまだ知らない人の方が多いと思う。AKB48に似ているから、一度聞いたら忘れないだろう。もちろん言葉を知ることが目的ではなく、いざという時に自分も出来る範囲でヴォランティア的に避難所運営に関わるという気持ちが大切だと思う。仮設住宅を作るのは一市民では無理だが、避難所をすぐに作って運営するのは可能である。もちろん誰でも安心できるベッドやトイレが絶対に必要だ。
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これからどんどん大変になる遺産相続ー相続を考える③

2024年05月02日 22時19分42秒 | 自分の話&日記
 遺産相続を通して考えたシリーズ3回目(最後)。1回目は相続財産確定が大変な話。2回目は不動産があると自分では難しいという話。3回目は最後にまとめとして、相続が難しくなっていく様子を考えておきたい。相続は「相続財産額」と「相続人数」で決まってくる。この相続人数の確定もなかなか大変である。もちろん自分にとっては、相続人数は判りきっている。親と兄弟姉妹の数だから自分は知っている。しかし、本当にそうなのか証明せよと言われると、これが結構大変なのである。

 「自分が自分である証明」も昔よりはるかに大変になった。何でもかんでも「本人確認書類」がいる。昔はそんなものはなかったのである。母親が主に使っていた銀行は「みずほ」で、自分が使っている銀行は「三菱UFJ」だが、初めに預金したときの名前は別だった。親が家を買った東京近郊は僕の幼少期には田畑ばかりだったが、どんどん住宅や団地、商店が建ち並ぶようになった。地区の発展に合わせて、駅周辺に銀行が作られていった。それが「富士銀行」や「東海銀行」だったのである。

 まあ僕の世代なら、金融危機などがあって銀行がどんどん合併していった様子はよく覚えている。そして、僕は東海銀行に口座を作ったのだが、開いたのは母親である。中学だか高校だかの時に、勝手に作ったのである。親なら子ども名義ですぐに口座が開けたのである。僕の「本人確認」などもちろんなかった。まだ銀行カードもなかった時代である。今じゃ考えられない。

 ちょっと脱線したが、「相続人数を確定させる」とは、つまり父母に他の子どもがいないかどうかということである。そんな話は聞いたことがないけど、それを証明せよと言われると面倒なのである。結局は生まれた時から死んだ時までのすべての戸籍を集めるということになる。この話は前に書いたことがあるが、異様に面倒だった。旧憲法時代の生まれで、「家族制度」があったからである。今と違って「母の父親」も「戸主」の戸籍に入っていたのである。

 だけど、そんな人は知らないし、ひょっとすると祖父の名前や出身地も知らない人がいるんじゃないだろうか。自分の場合、祖父の戸主の戸籍に母の出生が記録されていた。その後、祖父が分籍して戸主となり、さらに結婚で(僕の)父親の戸籍に移った。その戸籍は父方の祖父が住んでいた市にある。結局全部集めると、何十枚にもなってしまうのだった。もちろん戸籍謄本を申請するときには、僕の本人確認書類が必要になる。

 銀行や証券会社で相続手続きを行う場合、原則的にはその「すべての戸籍」の提出が必要になる。じゃあ、何通取ればいいんだと思うが、それを解決する方法があった。「相続情報一覧図」を作って法務局に登録するのである。これは2017年に始まった「法定相続情報証明制度」で、まあ公式認定された家系図みたいなものである。自分でも出来るらしいが、相続手続きを頼む時に一緒に頼めば簡単だ。(もちろん5万円ぐらい別に必要になる。)ただ、これがあれば紙一枚ですべての相続情報を証明出来るのである。
(相続情報一覧図=見本)
 銀行の場合は、振込手数料が取られるが自分の(他金融機関の)口座に入金可能である。(もちろん同じ銀行に自分の口座があれば、手数料なしで振り込める。)しかし、証券会社の場合、自分も同じ会社に口座を開かない限り相続が出来ない。わが家は父親由来の不動産と株式があったので、手続きが増えていったのである。株や投資信託は毎日値が変動するから、売るかどうかの判断は相続人がするしかない。そして証券会社に新規口座を開くときにも、本人確認書類がいるわけである。(他に「反社じゃない」とか、「北朝鮮に住んでる相続人がいないか」などにチェックする。)
(証券類の相続)
 こうしてやってみると、相続手続きは今後どんどん複雑になっていくと思う。母親の世代だと「暗号資産」など持ってない。FXとかネットの株取引もやってない。ネット上で完結する財産があって、パソコンやスマホにもパスワードが掛かっていたら、財産があるかどうかも判らない。それが判っても、財産額をどう見積もれば良いのか。一応死んだ日の値段で決まるんだけど、株や円相場の変動が激しくて困ってしまう。それにしても、どんどん世の中が面倒になっていくものだ。

 僕の身近な知り合いでも、配偶者がいないとか、子どもがいない、あるいは一人っ子であるという人がかなりいる。そういう人の場合、相続人の確定が難しい。そして昔買ったままの株などが残っていると、処理が大変である。昔は「株券」という実物があった。今は株券もなくなって、デジタル化されている。(2009年に株券電子化が行われた。)高齢者の場合、逆に紙の株式が見つかることもあるかもしれない。「デジタル化」に遺産相続が対応仕切れないのである。

 今は死後10ヶ月以内に相続税を払わないといけない。これはなかなか難しくなるのではないか。自分の場合、不動産の納税負担者の基準が1月1日なので、まず不動産の相続を先に行った。続いて、所有株がたまたま3月決算だったので、3月末までに株の書き換えを行った。相続税は少し掛かるレベルだったが、2月末には払った。遺産分割協議書は不動産とそれ以外の2冊になった。そういうことも可能なのである。だが難しいケースを考えると、申告期限を死後1年に延ばす必要があると思う。また「無条件でパスワードを開示出来る」国家資格(「相続士」とでもいうか)も必要なんじゃないか。
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不動産があれば自分じゃ難しいー相続を考える②

2024年05月01日 22時15分44秒 | 自分の話&日記
 今回相続をやってみて、一番感じたのは「不動産の有無」が問題だということだ。遺言がない場合、相続人が二人以上いると「遺産分割協議書」を作ることが多い。なくても出来るかもしれないが、銀行などの相続手続きを頼むと提示を求められる。その協議書は司法書士に作って貰える。司法書士事務所は調べるとあちこちにあるから、最初は自宅近くの司法書士に頼みに行ったのである。そうしたら自分では出来ないと断られてしまった。それは不動産があったからである。

 不動産、つまり土地や家屋がある場合、司法書士には出来ないと言われたのである。司法書士が誰か紹介してくれるのかと思うと、相続に詳しい税理士を別に見つけて欲しいという。そこでネットで探して、総合的に展開しているサポートセンターに頼んだ。結果的にそれで良かったと思う。母親が良く行っていた銀座松屋デパートのすぐ裏に事務所があったのも何かの縁だろう。

 やって驚き、よく「権利証」が大事だと言われる。後生大事に取っている人が多いだろう。母親もわざわざ銀行の貸金庫なんか借りて保管していた。この貸金庫を開けるまでも大苦労だったが、今はそれは省略。そんな大事な権利証が今はないのである。僕も相続の時には権利証が必要になると思っていたが、全く不要だった。売却するには必要なんだろうが、相続には不要。

 そして今は「登記識別情報通知」というものに変わっていた。それは12桁の符号(パスワード)で、不動産及び登記名義人となった申請人ごとに決められるという。それの通知書が従来の権利証に変わったのである。このパスワードは封印されていて僕は知らない。売却することでもなければ開けない方が良いと書いてある。次の所有権移転時の本人確認用に必要という話。
(登記識別情報通知書=見本)
 これは知らない人多いんじゃないかと思う。この新しい登記方法も、その気になれば誰でも出来るというけど、シロウトだと何度も通うことになると大体書いてある。よほど頑張れる条件があればともかく、相続財産がある程度あるならどこかに頼む方が良い。信託銀行はなかなか手数料が高いから、ネットでいろいろ探した方がベターだと思う。
(相続登記が義務化)
 4月から相続登記が義務化されたのは聞いている人が多いと思う。当然のことだが、自分が住んでる不動産なら登記はするだろう。と思うと能登半島地震のニュースでは何代も登記せずにいたという話が出ていた。都市居住者の場合、売買がひんぱんだから登記はしていることが多いはずだ。登記すれば、その人に固定資産税の納税通知書が送られてくる。大事なのは権利証よりこっちで、きちんと取って置く必要がある。親と別居している人は気を付けていないと後で困る。

 ところで僕の世代だと親が不動産を取得した人が多く、その住居で成人したケースが多い。女性の場合、80代を越えて90代、さらに100歳まで生きる人も多い。2023年は関東大震災(大正12年)から100年だった。つまり、大正末から昭和ヒトケタ生まれということになる。この世代だと、戦争と結核で大きな犠牲を被った。自分の両親もそうだが、そこを乗り越えられた人は壮年期に高度成長時代を迎えたのである。(戦争で男が戦死したので、結婚出来なかった女性も多かったが。)

 自分の場合、小中学校のクラスメートは大体自宅に住んでいた。都市近郊に育ったが、農業地帯がどんどん開発され、住宅地に変わっていった。同級生に農家もいたが、それより開発された住宅を買って移り住んだ人が多い。1970年頃にはほぼ高校に進学するようになっていて、同級生も二人を除き高校に進んだ。自分の場合、進学高校から大学へ進んだので、多分そこで出会った同級生も似たような境遇だと思う。典型的な都市中産階級である。

 その世代が買い求めた住宅が、いま相続時期を迎えているのである。僕の周りでも、多少遅い早いがあるのは当然だが、この10年ぐらいで親が亡くなった人が多い。自分は都市近郊で、そこに同居して住むことが可能だった。教員という地方公務員は、(交通機関が多い東京では)異動しても自宅から通勤可能だからである。これが地方出身者の場合、実家をどうするというのは大問題だろう。取りあえず自分の場合は、親が買った不動産の処理をしたわけである。
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