尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

サルトル「アルトナの幽閉者」を観る

2014年03月01日 01時23分33秒 | 演劇
 新国立劇場で上演中のジャン・ポール・サルトル作「アルトナの幽閉者」を観た。(3月9日まで上演。)この劇にまつわる思い出は後で書くとして、非常に力強い舞台で、何となく今は読まれなくなってしまったサルトルという作家の重要性を考えさせられた。僕が見たいと思ったのは、この劇が「戦争責任」をテーマとしているということだけではなく、自分で部屋に閉じこもった人物を描いているからである。昔はそういう言葉がなかったから「幽閉」などと難しい言葉を使っているが、要するに「引きこもり」ではないか。この劇を「アルトナの引きこもり」と訳し、評判になった長編小説を「ムカつくぜ」と訳してみれば、サルトルの驚くべき現代性が見えてくるのではないか。
 
 サルトルは1960年代から70年代初期にかけて、世界的に文学、思想界の覇権を握っていた。1964年にノーベル文学賞を授与されるが辞退し、「飢えた子の前で文学は有効か」と問いを発した。1966年に伴侶のシモーヌ・ド・ボーヴォワールとともに来日し、この頃にサルトル人気は絶頂を迎えた。「実存主義」とか「アンガージュマン」(作家や思想家が政治に参加すること)という言葉は、知的世界の常識だった。その時期の人気のほどは今は全く想像できないほどで、むしろボリス・ヴィアン「うたかたの日々」でパロディ化されたジャン・ソール・パルトルで伝わっているというべきかもしれない。

 サルトルは哲学、小説、戯曲、評論、時事エッセイなど多彩な分野で活躍した。戯曲もけっこうたくさん書いていて、ドイツ占領下のパリで上演された「蝿」や「出口なし」などで知られた。その後「汚れた手」「悪魔と神」「キーン」などそれなりに有名な劇を書いて、昔はよく上演されていた。「アルトナの幽閉者」は1959年に書かれた最後の創作戯曲で、ドイツの物語となっているけど、同時にフランスが行っていたアルジェリアでの残虐行為を告発する含意があったのは、同時代人なら誰でも判ったことだろう。(アルトナはドイツの地名で、今はハンブルク市内となっている。)

 ある西ドイツ(当時)の富豪の家、ナチス時代を生き抜いた造船王の当主は喉頭ガンで死が近いことを悟り、次男夫婦を呼ぶ。しかし、この家には秘密があり、アルゼンチンで死んだことになっている長男フランツは実は2階の部屋で生きていて、13年間も出てきていない。世話をしてきたのは妹のレニだが、引きこもったわけには戦争時代に関わる複雑な理由があるらしい。次男の妻ヨハンナは、自分たち夫婦が自由になるためには、長男に会うしかない立場に立たされる。そうして、フランツとレニ、そしてヨハンナの葛藤が始まり、最後に父と13年ぶりの対面をしたフランツは…どういう選択をするのか。父は戦時中の「密告者」であるらしく、フランツは「戦争の加害責任」を負っている。そういう構図が見えてくると、このドラマの現代的意味が見えてくる。

 戦争中の残虐行為の責任、自分が犯したことと救えなかったことの意味、自らの人生を選択できるのか、引きこもりの精神状況、親と子は和解できるのか、「近親相姦」的な世界…など、半世紀以上前の戯曲だけど、今の日本でドラマ化されるべきテーマをたっぷりとてんこ盛りした劇なのである。岩切正一郎新訳のセリフはよく通り、ヒトラーの写真を大きく使ったり、鏡を印象的に使う舞台美術も優れている。上村聡史演出、フランツに岡本健一、ヨハンナに美波、父に辻萬長、レニに吉本菜穂子などの配役。6時半開始で、10時近くまでかかる(休憩15分)という長さだが、劇的世界は緊迫していて飽きることはなかった。

 サルトルは昔人文書院で全集が出ていて、そのため他社の文庫にほとんど入っていなかった。だからあまり読んでいないのだが、文学少年としてカミュなどを新潮文庫で読み始めると、サルトル・カミュ論争が文庫に入っているのでサルトルに関心を持たざるを得なくなる。70年頃はサルトルやゴダールが一番政治運動家になっていた時代で、サルトルも極左運動家=マオイストのビラ配りなどをしていた。世界的な反乱の季節が終わると、サルトルの知的覇権は失墜し、レヴィ=ストロースやミシェル・フーコーの時代となった。僕はサルトルの小説は少ししか読まなかった(手ごわかった)が、「汚れた手」が河出の文学全集にあり戯曲の方が読みやすいと思ったので、「アルトナの幽閉者」も買ってきて読んだ記憶がある。まだ中学生の頃。その時は頭の中で、観念的な「戦争責任」の話と思って、結構面白く読んだと思う。

 今回上演を見た感想では、思想を肉体化する装置としての演劇の力がうまく駆使されていて、サルトルは単に政治的、観念的な作家ではなかったことがよく判った。この劇のベースは日本でもたくさん作られた「家族どうしの解体ドラマ」であり、「父と子」「二人の女と男」の究極的な対立というドラマである。そうすれば日本の劇にもいっぱいあるが、でも日本軍の加害責任を問うとか、人生の自己選択というテーマに帰結していく構造が日本ではなかったように思う。そこにサルトルの作家的特徴と力量がうかがえる。今も生き生きと迫ってくる力作戯曲の創造的上演。たまたま今埼玉で同じ岩切新訳のカミュ「カリギュラ」を上演中。いまどきサルトルとカミュを同時に上演している国が他にあるのだろうか。
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