尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

アルベルト・フジモリ、高木剛、園部逸夫、縫田曄子他、2024年9月の訃報③

2024年10月09日 22時33分31秒 | 追悼
 政治関係の物故者を内外まとめて。一応「追悼」というカテゴリーになるが、追悼する気持ちではない人も含まれる。まずは元ペルー大統領のアルベルト・フジモリが9月11日に死去、86歳。現地では「フヒモリ」という発音になる。熊本から移民した両親のもとに首都リマで生まれ、大使館に「藤森謙也」と届け出たため日本の戸籍がある。(2007年の参院選で国民新党から立候補したことがある。そのことは『アルベルト・フジモリはなぜ立候補できたのか』に書いた。)1957年にラ・モリーナ国立農科大学大学院農業工学専攻を首席で卒業。そのまま同大学で教員となり、1984年には総長となった。1990年の大統領選に「変革90」を結成して立候補し、当初は本命視されていなかったが、決選投票で後のノーベル文学賞作家マリオ・バルガス=リョサを破って当選した。(なお実は日本生まれで幼児として移民したという説もある。それが事実だと憲法の規定で大統領になれない。)
(アルベルト・フジモリ)
 大統領時代(1990~2000、3選)の業績は、今なお評価が二分されている。当時のペルーはハイパーインフレと「極左ゲリラ」のテロで治安が悪化していた。フジモリは強権を振るって経済も治安も安定に向かったため、その強権を評価する人も多い。一方で議会と憲法を停止し、軍による治安回復を図ったやり方を「独裁」と批判する人もいる。30年以上経ってもペルー国内で評価は定着していない。日本では保守派を中心に「日系人大統領」というだけで高く評価した人がいて、人権無視の強権的手法が軽視されている。テロ対策や貧困対策に一定の成果があったのは間違いないが、憲法規定を無視して3選したのは問題だ。さらに2000年にブルネイでのAPEC首脳会議のため出国したまま、東京からファックスで大統領を辞任したのは非難されて当然だ。その後ペルーに戻り、2010年に禁錮25年の判決が確定した。(2023年12月に高齢のため釈放。)

 労働組合の中央組織「連合」の第5代会長(2005~2009)、高木剛(たかぎ・つよし)が9月2日死去、80歳。旭化成労組書記長から、1988年に上部組織ゼンセン同盟書記長、1996年に会長。日本の労働運動の中で、旧民社党系(旧「同盟」)のリーダー的存在で、94年には連合副会長となった。2003年の会長選では笹森清に敗れ、2005年は急きょ立候補した鴨桃代に323票対107票で勝った。対立候補が立ったのも「闘わない労働組合」への批判が根強かったことを物語る。民主党の小沢一郎代表(当時)と関係を深め、2007年参院選、09年衆院選で民主党を支援した。外務省に出向しタイ大使館一等書記官を務めたこともある。
(高木剛)
 元参議院議員(4期)、東海大学総長の松前達郎が9月8日死去、97歳。東海大学創立者松前重義の長男として生まれ、東北大学で工学博士となった。1963年に東海大教授、72年に学校法人東海大学副学長、91年から死ぬまで東海大学総長を務めた。その間、1977年に社会党から参議院議員に当選、その後民主党に移り、2001年まで務めた。日本学生野球協会会長など多くのスポーツ関係の役職も務めていた。結構有名人だったと思うが、高齢になりすぎて忘れられたか小さな訃報だった。
(松前達郎)
 元最高裁裁判官の園部逸夫(そのべ・いつお)が9月13日死去、95歳。89年から99年に最高裁裁判官を務めた。直近の前職は成蹊大学教授で、専門は行政法。しかし、それ以前に裁判官経験が長かった。1970年に京都大学助教授から東京地裁裁判官に転じたが、司法試験を経ずに裁判官になった珍しいケースである。退官後の2004年に小泉内閣で「皇室典範に関する有識者会議座長代理」に就任、皇室典範の女系・女帝容認の報告書を作成した。2012年には野田内閣で、『女性宮家』検討担当内閣官房参与に就任した。その内容の評価はともかく、退官後に「女性皇族問題」に関わったことで今後も議論される人だろう。
(園部逸夫)
 NHKで女性初の解説委員となり、その後東京都民生局長になった縫田曄子(ぬいだ・ようこ)が9月9日死去、102歳。1971年に美濃部都知事の要請に応えて東京都初の女性局長となった(75年まで)。77年に国立婦人会館初代館長、86年から93年まで市川房枝記念会理事長を務めた。その間、いちいち書かないが政府や民間の各種審議会などに参加している。このように戦後女性史の重要人物だが、この人も長寿のため知らない人が多くなったんだろう。小さな訃報に驚いた。
(縫田曄子)
 ここでどう書くべきか難しいが、レバノンのシーア派組織ヒズボラの最高指導者ナスララ師(ハサン・ナスララ)が、9月27日にイスラエル軍の爆撃で死亡した。1992年にヒズボラの第3代書記長となり、以後30年以上イスラエルと対峙してきた。イスラエルがレバノンを空爆するのは「主権侵害」だが、ヒズボラも事実上レバノン南部で「国家内国家」として存在していた。レバノン人の抵抗組織ではなく、イランの指示によって動く組織だったのも間違いない。イスラエルはハマスが支配したガザ地区に続き、ヒズボラ支配地区を徹底的に制圧するため地上侵攻を行っている。しかし、よくまあヒズボラ最高幹部の居場所をピンポイントで爆撃できたのか、イスラエルの諜報能力はすさまじいものがある。
(ナスララ)

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