ネルソン・マンデラ元南アフリカ共和国大統領が死去した。95歳。もう二度と元気な姿を見ることはないだろうと世界のだれもが覚悟はしていただろう。僕も7月20日に「ネルソン・マンデラと奥西勝」を書いている。そこでも書いたけど、マンデラが獄中で迎えた70歳の誕生日、つまり1988年に東京(渋谷の山手教会)で開かれたマンデラ釈放要求集会に参加している。そこで買ったTシャツの写真。
ネルソン・マンデラの生涯を細かく語ることはしない。それはいろいろなサイト、あるいは新聞で見られるだろう。ネルソン・マンデラは現代に生きる人のなかで、もっとも尊敬すべき人物だった。現代の奇跡とでも言うべき人物だった。僕は80年代から社会科の教員をしてきた。「南アフリカのアパルトヘイト」という問題は、社会科の各分野で大きく取り上げられていた。僕も授業で取り上げ、何冊もの本を読んだ。南アフリカの白人政府は核兵器まで秘密に作っていたのである。この問題が、「20世紀の間に」「平和的に」解決するという「楽観的な希望」を僕は持ったことがなかった。
ところが、もちろん流血の事態はいろいろあったけれど、基本的には「人種の和解」という方向で平和的なプロセスでアパルトヘイトは「解決」されていった。貧富の差は激しく、暴力犯罪は絶えず、与党となったアフリカ民族会議(ANC)は腐敗したと言われる。だけど、全人種参加の選挙で大統領と国会議員を選ぶという民主主義は定着している。白人を追い出し、経済が破たんし、黒人政権は「部族」ごとに争い内戦状態となり…というようなプロセスは踏まなかった。
社会を分断してしまうリーダーもいる。厳しいことをあえて突きつけ、「どちらに付くか」と問い詰める人々である。世界中でそういう人が多くなっている。通信機器、ネットやケータイの発達で、直接会わずに機会の中だけで「対話」したつもりの人々も多くなっている。しかし、「すでに激しく分断された社会」でリーダーになったマンデラは、自ら反対派と対話し、自分の見方にしていくというタイプのリーダーだった。彼を監視するはずの看守の中に、マンデラの友が生まれていく。「高潔なリーダシップ」の持ち主だった。そういうマンデラを白人政府は「テロリスト」と呼んだ。「テロリスト」という言葉は、アパルトヘイトを行ってきた側にこそふさわしい。人をテロリストと非難する人は、自分の方が「国家テロ」を行っていることが多いという証明である。どこの国とは書かないが、世界的な法則である。
アパルトヘイト体制が崩壊し、マンデラが大統領に当選したあとで、「真実和解委員会」が設けられた。過去のプロセスを追求しつつ、人々の間に和解をめざしていくという試みが行われた。これは広くラテンアメリカやアフリカの国々に広がっていった。「真実を追及する」「しかし、許す」というこの試みは、むしろ「真実を追求するということが、許しをもたらす」と言うべきだろう。このプロセスが南アフリカで出来たのは、マンデラがいたからである。「27年間も獄中に囚われた」マンデラが、率先して「許す」と言ったのである。
マンデラという偉大な個性が、真に全世界の人々の心のよりどころとなったのは、この「真実和解委員会」というものがあるからだ。これは世界中の多くの国でテロや内戦で苦しむ民衆、あるいは虐待やいじめで苦しむ子供たちに「生きる力」を与えるものだったと思う。どんなに苦しい中でも、光が差す日は来るのだし、「許せないことで苦しむ」という段階も乗り越える道があるのだと示したのである。だから、世界中で人権を求めて闘う多くの人々の心から、マンデラの名が消えることはないだろう。
ありがとう、ネルソン・マンデラ。
世界はあなたを忘れない。
僕はあなたを忘れない。
(付記)
1.「インビクタス」と「マンデラの名もなき看守」の映画2本立てをどこかでやって欲しい。あるいは、日本中のTOHOシネマズやワーナーマイカルで緊急上映して欲しい。特別料金で。テレビでもやって欲しい。親子でDVDで「インビクタス」(クリント・イーストウッド監督)を見て欲しい。
2.南アフリカ大使館のサイトで見た限り、追悼記帳は駐日南アフリカ共和国大使館で年12月9、10の午前10時から正午までと、14時から16時。お別れの会は、国連大学(東京都渋谷区神宮前5-53-70)のウ・タント・ホール(U-Thant Hall)にて、12月11日(水)12時30分から14時まで。大使館は東京都千代田区麹町1-4 半蔵門ファーストビル4階
ネルソン・マンデラの生涯を細かく語ることはしない。それはいろいろなサイト、あるいは新聞で見られるだろう。ネルソン・マンデラは現代に生きる人のなかで、もっとも尊敬すべき人物だった。現代の奇跡とでも言うべき人物だった。僕は80年代から社会科の教員をしてきた。「南アフリカのアパルトヘイト」という問題は、社会科の各分野で大きく取り上げられていた。僕も授業で取り上げ、何冊もの本を読んだ。南アフリカの白人政府は核兵器まで秘密に作っていたのである。この問題が、「20世紀の間に」「平和的に」解決するという「楽観的な希望」を僕は持ったことがなかった。
ところが、もちろん流血の事態はいろいろあったけれど、基本的には「人種の和解」という方向で平和的なプロセスでアパルトヘイトは「解決」されていった。貧富の差は激しく、暴力犯罪は絶えず、与党となったアフリカ民族会議(ANC)は腐敗したと言われる。だけど、全人種参加の選挙で大統領と国会議員を選ぶという民主主義は定着している。白人を追い出し、経済が破たんし、黒人政権は「部族」ごとに争い内戦状態となり…というようなプロセスは踏まなかった。
社会を分断してしまうリーダーもいる。厳しいことをあえて突きつけ、「どちらに付くか」と問い詰める人々である。世界中でそういう人が多くなっている。通信機器、ネットやケータイの発達で、直接会わずに機会の中だけで「対話」したつもりの人々も多くなっている。しかし、「すでに激しく分断された社会」でリーダーになったマンデラは、自ら反対派と対話し、自分の見方にしていくというタイプのリーダーだった。彼を監視するはずの看守の中に、マンデラの友が生まれていく。「高潔なリーダシップ」の持ち主だった。そういうマンデラを白人政府は「テロリスト」と呼んだ。「テロリスト」という言葉は、アパルトヘイトを行ってきた側にこそふさわしい。人をテロリストと非難する人は、自分の方が「国家テロ」を行っていることが多いという証明である。どこの国とは書かないが、世界的な法則である。
アパルトヘイト体制が崩壊し、マンデラが大統領に当選したあとで、「真実和解委員会」が設けられた。過去のプロセスを追求しつつ、人々の間に和解をめざしていくという試みが行われた。これは広くラテンアメリカやアフリカの国々に広がっていった。「真実を追及する」「しかし、許す」というこの試みは、むしろ「真実を追求するということが、許しをもたらす」と言うべきだろう。このプロセスが南アフリカで出来たのは、マンデラがいたからである。「27年間も獄中に囚われた」マンデラが、率先して「許す」と言ったのである。
マンデラという偉大な個性が、真に全世界の人々の心のよりどころとなったのは、この「真実和解委員会」というものがあるからだ。これは世界中の多くの国でテロや内戦で苦しむ民衆、あるいは虐待やいじめで苦しむ子供たちに「生きる力」を与えるものだったと思う。どんなに苦しい中でも、光が差す日は来るのだし、「許せないことで苦しむ」という段階も乗り越える道があるのだと示したのである。だから、世界中で人権を求めて闘う多くの人々の心から、マンデラの名が消えることはないだろう。
ありがとう、ネルソン・マンデラ。
世界はあなたを忘れない。
僕はあなたを忘れない。
(付記)
1.「インビクタス」と「マンデラの名もなき看守」の映画2本立てをどこかでやって欲しい。あるいは、日本中のTOHOシネマズやワーナーマイカルで緊急上映して欲しい。特別料金で。テレビでもやって欲しい。親子でDVDで「インビクタス」(クリント・イーストウッド監督)を見て欲しい。
2.南アフリカ大使館のサイトで見た限り、追悼記帳は駐日南アフリカ共和国大使館で年12月9、10の午前10時から正午までと、14時から16時。お別れの会は、国連大学(東京都渋谷区神宮前5-53-70)のウ・タント・ホール(U-Thant Hall)にて、12月11日(水)12時30分から14時まで。大使館は東京都千代田区麹町1-4 半蔵門ファーストビル4階
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