尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

安倍首相の「非言語的コミュニケーション」について

2017年06月02日 23時19分12秒 |  〃  (安倍政権論)
 加計学園問題について自分の思うことを簡単に書こうと思ったんだけど、関連して他に書きたいことがある。ネット接続不良で時間も遅くなってしまったのだが、大事なことだと思うので書いておきたい。安倍首相は、6月1日にニッポン放送のラジオ番組に出演して、以下のように前川前文部科学次官を非難したという。それは直接は聞いてなかったけど、ネット上で放送時の声を聞くこともできる。

 「(前川)前次官が私の意向かどうかということは確かめようと思えば確かめられるんですよね。次官であればですね、『どうなんですか』と大臣と一緒に私のところに来ればいいじゃないですか。霞が関にしろ永田町にしろ『総理の意向ではないか』という言葉はね、飛び交うんですよ。議論をして最終的に3省の大臣が認めたんですね。そこには(前川)事務次官もいるんですよ。一体じゃあなんでそこで反対しなかったのか、不思議でしょうがないですね」

 これは政権中枢から続いている前川氏に対する個人攻撃の一環だけど、非常に大事なことだと思うからあえて指摘しておきたい。学校の教師や企業の上司などで、こういうことを言う人に会ったことがある人は多いだろう。つまり、「何かあれば、自分のところに相談に来て欲しい」と口では言ってる人である。「いじめにあったら、まず先生のところに相談に来なさい。」

 しかし、そういうことを言っていても、それは必ずしも「自分はあなたと苦しみを分かち合い、解決の道をともに探るだろう」などと言っているわけじゃないだろう。むしろ、「自らの苦しみを自分から訴えなかった場合は、本人自身の責任であって自分は責任を負えないからな」と告げているという場合の方が多いのではないだろうか。

 以前に広島県で進路指導に絡んで中学生が自殺したという事件があった。その問題に関して僕は何回か記事を書いたのだけど、その最後に「非言語的コミュニケーションのリテラシー」(2016.3.17)を書いた。「非言語コミュニケーション」(non-verbal communication)は、実は言語表現以上に重要なコミュニケーション手段であって、言語表現であっても、その時の口調、表情、服装や人間関係などを聞く側は総合的に受け取っていて、「〇と言ってるけど、真意は✖だな」とか理解する。

 安倍首相の先の発言を聞いても、「確かめられるんですよね」とか「来ればいいじゃないですか」の「よね」とか「ですか」のトーンを聞けば、日本社会で「下の側」でコミュニケーション能力を身に付けてきたものなら、「来てもどうせちゃんと説明しないけどね」とか「あんたには来る勇気はないだろうけどね」というニュアンスが「真意」だろうということはすぐに判る。

 確かに事務次官と言えば官僚のトップであり、総理に対してもちゃんと発言することが仕事なのであり、そのために税金から給料をもらっているんだとは言えるだろう。でも、事の重要性や自分の生活などをはかりにかけ、「今言っても仕方ないな」と思う時は言わなくても仕方ないと思う。国民の側からは批判できても、上に立つ総理の立場から、「確かめに来ないお前の方が悪い」というのは、「パワハラ」というもんだ。言いに来れないようにさせていた自分を反省することはないのだろうか

 安倍首相は集団的自衛権をめぐって、憲法解釈を変更するために法制局長官にフランス大使を突然抜てきしたことがある。ごく最近では、一時帰国中のプサン総領事が私的な場で政権批判をしたことから更迭されたという。かつて安保法制審議に時に「我々の法律の説明は全く正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」と歴史的珍答弁もしている。

 要するに、最高権力者である自分が決めたことは説明する必要がないという態度が露骨である。野党議員は仕事だから聞くけど、ほとんどマトモに答えない。それを思えば、官僚に対してまともに答えるはずがない。説明を求めに来いと言っても、実は今まで「説明なんかしないぞ」と言ってきた人のところに誰が聞きに行くか。そもそも「大臣と一緒に」来ればいいというけど、一緒に行ってくれる大臣はいないだろう。この政策はおかしいと言いに行く官僚を押さえられなきゃ、大臣の評価が下がる。

 この問題はとても大事だと最初に書いたけど、要するに他人を批判すればブーメランのように自分に返ってくる。そのことを教師なり、他の人間と接する仕事をする人は肝に銘じておかないといけない。いじめられたら相談に来いと言ってるのが、タテマエの自己保身なのかどうか生徒は見ているだろう。それだけでなく、すべての物事は言語で伝えているときに、同時に非言語でも伝えている。むしろそっちで伝わることが多い。

 (ついでに言えば、非言語的コミュニケーションを理解する能力を高めるために、演劇、映画、小説などに意識して接することが大事だ。またペットと接するのも意味がある。犬や猫は人語を解さない分、非言語的表現しか読み取らない。)
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