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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

安倍首相の2人の祖父

2014年02月23日 23時47分23秒 |  〃  (安倍政権論)
 安倍晋三という政治家は、自民党内の保守派として女系天皇には絶対反対を表明してきた。ところが不思議なことに、支持者の多くは安倍晋三氏が岸信介元首相の孫であることを重視して「宰相のDNA」が引き継がれているなどと言う。天皇家で父から子の遺伝子が重要なのだとしたら、他の人にとっても父系の方が重要なのではないか。女系で総理の孫であっても意味があるのだろうか。(誤解のないように言っておくが、今は人間の平等を論じているのではなく、「論理の一貫性」の問題を指摘しているだけである。)何故か知らないが、多くの人は安倍晋三氏の父方の祖父を知らない。人間には二人の祖父がいるはずだが、「安倍晋三の消された父方の祖父」という問題を書いておきたい。

 まず最初に書くが、安倍晋三首相の父方の祖父は安倍寛(あべ・かん 1894~1946)といって、戦時中に2回ほど衆議院議員に当選した人物である。ただ、戦後第一回総選挙を前に急逝したため、戦後政治史には全く登場しない。中央ではほぼ無名の政治家で、現代史を専攻した僕も全く聞いたことがない。以上の情報もウィキペディアに基づくものである。出身は山口県の日本海側、現在は長門市の市域にある地区である。そこで江戸時代から続く大庄屋を務め、酒・醤油の醸造で知られた名門の出身だという話である。安倍寛は1928年の第1回普通選挙に政友会から立候補したが落選、その後は村長や山口県議を経て、1937年に衆議院議員に当選したという。

 ところで、問題は1942年のいわゆる「翼賛選挙」である。1937年の当選議員は日中戦争下に特別に任期が一年延ばされたが、それ以上は延ばせなかった。米英との戦争が始まっていた1942年4月30日に、5年ぶりに衆議院議員選挙が行われたのである。その時は既成政党はすべて解散し、1940年に結成された大政翼賛会に合流していた。42年の選挙は、その大政翼賛会系の推薦候補が大量に立候補し、戦争体制を支える親軍的政治体制を形成した。憲法上、非推薦候補の立候補を禁止することは出来なかったが、全466議席中、381議席が「翼賛政治体制協議会」推薦者が当選した。しかし、85議席にとどまるが、非推薦候補も当選したのである。

 そして、安倍寛はその85人の非推薦議員の一人だったのである。その時の非推薦当選者には、日本政治史に名を留める有名人物がたくさんいる。鳩山一郎芦田均三木武夫の総理大臣経験者、「憲政の神様」尾崎行雄、「反軍演説」の斉藤隆夫山口喜久一郎星島二郎の衆議院議長経験者、戦後保守政治史上に名を残す三木武吉河野一郎川島正次郎犬養健…。あるいは社会党(民社党)系では、西尾末広三宅正一河野密水谷長三郎…。そうそうたる顔ぶれである。これらの中に安倍寛がいるのである。

 一方、その時点(1942年)では、母方の祖父岸信介は東条英機内閣の商工相だった。日米開戦時の閣僚として、宣戦の詔書に副署した人物である。もともと商工省内の親軍的「革新官僚」として知られ、「満州国」総務庁次官(「満州国」では、「満洲人」が長となるが、実権は次官の日本人が握るものとされていた)として、重工業開発を進めた。「満州国の弐キ参スケ」と呼ばれて(他は東条英機、星野直樹、鮎川義介、松岡洋右)、国内でも知られるようになった。東条内閣発足と同時に商工相に就任、朝鮮人や中国人の強制動員を立案することになる。その後、東条とは対立し倒閣運動をしたが、戦後になって占領軍に戦争犯罪人容疑で囚われ、1948年末まで釈放されなかった。(結局起訴はされなかった。)

 占領終了後に復権し、鳩山一郎政権下で自民党の初代幹事長を務め、後継首相の有力候補となった。鳩山後の総裁選に出馬して1位となるも、2・3位連合を結成した石橋湛山が決選投票で当選。だが石橋首相は病気のため2カ月で降板し、外相兼副首相の岸が昇格した。こうして1957年2月に岸内閣が発足し、岸首相は日米安保条約の改定を進めた。1960年に安保条約の国会批准に反対する大国民運動が起き、岸首相は国会で強行採決を行った。国民の反発は大きくなり、連日国会を多数のデモ隊が取り囲んだ。結局国会は通ったものの岸首相は退陣を表明する。今、60年安保闘争を細かく振り返る余裕はないが、当時は岸首相の「戦前志向的体質」に反発が強く、「戦犯首相」と呼ばれていた。安倍晋三氏はまだ幼かったものの、取り巻くデモ隊に違和感を持った記憶を語っている。

 安保闘争が最高潮に達した時点で、岸首相は自衛隊の治安出動を検討したが、防衛庁長官の赤城宗徳(あかぎ・むねのり)が拒否したことはよく知られている。現在でもエジプトやウクライナで起こったような悲劇が日本でも起こった可能性があったのである。ところで、ウィキペディアで安倍寛を見てみると、安倍寛という政治家は、当選が同期の赤城宗徳とは公私にわたり親交が深かったという。全体に反軍部のハト派で、三木武夫とも親友だったという。つまり、父方の祖父は「反軍的ハト派」であり、母方の祖父は「親軍的タカ派」だったのである。

 しかし、安倍氏やその周辺では母方の祖父しか話題にしない。それは安倍寛が早くなくなり戦後政治に影響を与えなかったのに対し、岸信介が1987年まで生き、政界の「巨魁」などと言われ首相引退後も長く影響力を持ち続けたことが大きいだろう。父の安倍晋太郎も、安倍寛の議席を直接継承したわけではなく、父の死後11年後に立候補したわけで、事実上は「岸の女婿」として知られていた。安倍晋三という人は、祖父の岸が安保で退陣したことに「悲運」を感じていただろうし、父の安倍晋太郎が首相目前で死去したことにも「悲運」を感じたことだろう。その「一族の悲運」を、「おとしめられている日本という国家の悲運」と重ねて考えているのではないかと思う。

 最近角川から「叛骨の宰相 岸信介」なる書が刊行されたそうだが、今はそういう風にいう人も出てきたが、60年代、70年代には岸首相の評価は低かった。というか、いろいろな疑惑にも取りざたされるし、保守政界の黒幕視されていた。実の孫として、そういう状況は認めがたかったかもしれないが、しかし姓を受け継ぐ安倍寛という祖父を評価することはどうしてしなかったのだろうか。翼賛選挙非推薦当選というのは、戦後になったら反対に勲章である。名前を見れば判る通り、戦後保守政治に綺羅星のように輝く名前が並んでいる。それらの中に実の祖父の名を見つけるというのは、保守という立場の中でも誇らしいことではないのか。自分は「戦犯首相」の孫なのではなく、「翼賛選挙非推薦当選」議員の孫なのだと言う風にアイデンティティを形成することもできたはずである

 本人の価値観は自分で築くものだろうが、結局母親を通して母方の祖父に自己同一視して自我を確立したということなのだろう。母親に対する「反抗期」が存在しない「優等生」だったのかもしれない。でも、安倍晋三氏は本当は「ハト派の反軍政治家の孫」でもあったのである。今からでも、父方の祖父の志を継いで行ったらいいのではないかと思うけど、まあ、今さら価値観は変えられないか。
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1 コメント

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血縁ではありませんが (さすらい日乗)
2014-02-24 09:42:42
安倍晋三の遠縁には、松岡洋右もいます。満州事件の後、国際連盟脱退演説で有名な外相です。
一般に昭和史では、この国際連盟脱退、満州国建国が太平洋戦争の起点の一つになっています。安倍晋三は、そうした「岸信介、松岡洋右」一族の負の歴史を清算したいと思っているのでは。

岸・佐藤兄弟と言いますが、佐藤栄作は、意外にも庶民的、中道的な人だったようです。
彼の秘書の日記を読んで知り、驚きましたが、佐藤は、秀才だった兄と違って戦前は国鉄でもエリートではなく、その頃の体験が多様な人への想像力を養ったように思います。1945年は大坂鉄道管理局で戦災で苦労していたようです。
首相になってからも、解放同盟系の社会党の議員の叙勲のお世話などということもしていて、この人はこんなことまでして「人事の佐藤」と言われたのかと思いましたが、人はわからないものです。
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