映画「幕が上がる」を見た(TOHOシネマズ錦糸町)。平田オリザ原作、本広克行監督で、「ももクロ」(ももいろクローバーZ)のメンバーが主演しているということで話題ともなった。僕はももクロに特に関心はないけど、「演劇部の映画」だから是非見たいと思った。というか、原作が面白かったのである。平田オリザが初めて小説を書いてちょっと話題となり、2012年の晩秋に本屋にサイン本が置いてあったので買った。でも、面白いのかなあとずっと放っておいて、最近になってようやく映画化されたということで読んでみたら、これが面白かった。というか、感動的な「ポスト3・11」小説だった。
で、映画を見たいと思いつつ時間が合わないできたのだが、ようやく「映画サービスデー」を機に見に行った。そろそろ終わってしまいそうである。あまりきちんと論じようという気はしないので、雑駁に感想を書いておきたい。カテゴリーを「映画の中の学校」としたように、僕の主たる関心は「部活映画」という点にある。「部活映画」は成功することが多い。この映画も舞台の本番に臨むときのあのドキドキ感、青春の一瞬の輝くような日々を感じ取ることができる。むしろ演劇に関心がないような人に見て欲しい。「青春の一回性」に基づく、定番的な展開の物語だけど、十分に心に響くと思う。特に、賢治ファン、銀鉄ファンには絶対逃してはならない映画、小説である。まだ知らない人がいたら、是非触れて欲しい。逆に「銀河鉄道の夜」を読んだことがなくて、この映画を見た人(どのくらいいるのか判らないが)は、今からでも読んで欲しいと思う。
この映画が成功しているかどうかはよく判らないけど、原作が好きな人には残念な部分もある。それは「わび助」がいないのである。「わび助」っていうのは、けっこういい味出してる2年生の男子である。物語の中心は3年生の4人の女子だけど、下級生には男子もいるのである。だけど、映画では女子のみの部活になっている。その分、「明美ちゃん」の役割が拡大されている。これは「ももクロ」主演であることによる脚本(「桐島、部活やめるってよ」の喜安浩平)の工夫なんだろうけど、原作は先輩にも男子がいて、そこが大きく違う。この「わび助」をやれる俳優を見つけるのは大変だろうけど、「わび助」登場ヴァージョンも誰か作って欲しいと願うほど魅力的な脇役なのである。
映画が原作と違うのはやむを得ないけど、僕の場合、原作で残して欲しいとこほど映画にはなくて、映画の素晴らしい部分は原作でも出てくる感じもした。最初の方の「新入生オリエンテーション」が違う。大体、1年生全員に見せる生徒会行事だと思い込んでいたら(そういう学校は多いと思うけど)、映画では自由参加の行事だった。原作は「わび助」と「ガルル」(3年の演劇部員)を中心に行うけど、まあ「わび助」がいない以上仕方ないんだろうけど、そこでやる「ロミジュリ」の抜粋が、観客の反応も含めていかにもリアルで、いやあ何だか懐かしいなあと思ってしまった。「普通の演劇部」っぽいですよ。
その後で、「吉岡先生」登場になるが、吉岡先生登場の設定も微妙に違う。この吉岡っていうのは新任の美術教師だが、実は「学生演劇の女王」だったという設定である。誰がやるか難しいキャスティングだけど、黒木華(はる)がやっている。やはりうまいとは思うんだけど、一番最初の場面で「神が舞い降りた」というほどの劇的な印象は僕は受けなかった。というか、原作にはそういう部分はなくて、そっちの方がリアルだろう。まあ、そういう点を細かく挙げていっても仕方ないんだけど、実は一番大事なところだと思う「県大会に向けて台本を書き直す場面」が映画にない。国語の先生の「二十億光年の孤独」(谷川俊太郎)の授業で相対性理論を取り上げるところはある。だけど、そこから書き直しのアイディアを得て、感動的なラストに向かうシーンがない。まあ仕方ない。原作を読みましょう。
もっとも、あれだけのことから高校生が作り出すという原作の設定は無理があると思う。本職の劇作家である平田オリザが書くからできるのである。だけど、僕はここで「いま、『銀河鉄道の夜』を読むこと」の重大性を改めて感じ取ることができた。日本で、世界で、多くの災害、テロ、戦争などで大切な人を失った人が無数に生まれていく。一度死んだら不可逆で、元に戻せない。そのことは判っているけど、この大きな喪失感をどうすればいいのか。2012年に出版された原作は、つまり2011年の演劇部の活動を描いているということで、「3・11」を高校生としてどう受け止めるかという問題意識があるのだと受け止めた。大切な友人を失い、銀河の果てまで共に行っても元の世界には共に戻れない。そんな中で、ジョバンニは、つまり僕たちはどう生きていけるのか。これが感動的なセリフで示されるが、それが映画では判りにくい。これも是非原作で。
「映画の中の学校」という観点からは、原作以上に学校のシステム的な部分の抜けが大きい。思い付き的に「東京合宿」なんかできないと思うし、顧問、副顧問の仕事もあいまい。地区大会も一日では終わらないし、自分たちが出ない日は仕事の割り振りがある。受付とか、(審査員の先生への)お茶出しとか。この映画を見てると、大会で演技するだけに見えてしまうけど、当然運営の仕事もある。一方、映画ならではだと思ったのは、演劇というのは「全部を見ることが不可能」で、演技してれば自分では見られないし、舞台監督してれば照明や音響を見てられない。そういう役割分担があって演劇が成り立つわけだが、映画なら各部門をパッパッと見せることができるわけである。そうだそうだ、と見ていて思ったところである。また映画には出てこないが、進路と部活との関係が特に演劇部には大きい。大学の推薦入試と大会(あるいは学校の文化祭)の日程がかぶりやすいのである。では、この演劇部の彼女たちはどうしたかも是非原作で。
と原作のことばかり書いてる感じだけど、映画は映画でもちろん面白い。大体原作はどこかと思うと、大分読んで群馬県だと判るが、映画は静岡県を最初から明示している。富士山もよく出てくる。東京に近いことが条件になっているが、でも東京にちょっと臆するところもあるという微妙なムードが必要。北関東と東海とどっちがいいのかは判らないが。監督の本広克行は「踊る大捜査線」シリーズをテレビでも映画でも手がけた人で、それ以外の映画もけっこう撮っている(「サトラレ」「UDON」など)けど、この映画が一番いいだろう。学校が出てきて、発声練習やってるだけで、なんだか心に訴えてくる。「櫻の園」(吉田秋生原作、中原俊監督)や「桐島、部活やめるってよ」「楽隊のうさぎ」なんかのような「部活動を舞台にした人間ドラマ」ではなく、演劇部の大会に向けた活動そのものを描いた、ある意味「純粋な部活映画」。
で、映画を見たいと思いつつ時間が合わないできたのだが、ようやく「映画サービスデー」を機に見に行った。そろそろ終わってしまいそうである。あまりきちんと論じようという気はしないので、雑駁に感想を書いておきたい。カテゴリーを「映画の中の学校」としたように、僕の主たる関心は「部活映画」という点にある。「部活映画」は成功することが多い。この映画も舞台の本番に臨むときのあのドキドキ感、青春の一瞬の輝くような日々を感じ取ることができる。むしろ演劇に関心がないような人に見て欲しい。「青春の一回性」に基づく、定番的な展開の物語だけど、十分に心に響くと思う。特に、賢治ファン、銀鉄ファンには絶対逃してはならない映画、小説である。まだ知らない人がいたら、是非触れて欲しい。逆に「銀河鉄道の夜」を読んだことがなくて、この映画を見た人(どのくらいいるのか判らないが)は、今からでも読んで欲しいと思う。
この映画が成功しているかどうかはよく判らないけど、原作が好きな人には残念な部分もある。それは「わび助」がいないのである。「わび助」っていうのは、けっこういい味出してる2年生の男子である。物語の中心は3年生の4人の女子だけど、下級生には男子もいるのである。だけど、映画では女子のみの部活になっている。その分、「明美ちゃん」の役割が拡大されている。これは「ももクロ」主演であることによる脚本(「桐島、部活やめるってよ」の喜安浩平)の工夫なんだろうけど、原作は先輩にも男子がいて、そこが大きく違う。この「わび助」をやれる俳優を見つけるのは大変だろうけど、「わび助」登場ヴァージョンも誰か作って欲しいと願うほど魅力的な脇役なのである。
映画が原作と違うのはやむを得ないけど、僕の場合、原作で残して欲しいとこほど映画にはなくて、映画の素晴らしい部分は原作でも出てくる感じもした。最初の方の「新入生オリエンテーション」が違う。大体、1年生全員に見せる生徒会行事だと思い込んでいたら(そういう学校は多いと思うけど)、映画では自由参加の行事だった。原作は「わび助」と「ガルル」(3年の演劇部員)を中心に行うけど、まあ「わび助」がいない以上仕方ないんだろうけど、そこでやる「ロミジュリ」の抜粋が、観客の反応も含めていかにもリアルで、いやあ何だか懐かしいなあと思ってしまった。「普通の演劇部」っぽいですよ。
その後で、「吉岡先生」登場になるが、吉岡先生登場の設定も微妙に違う。この吉岡っていうのは新任の美術教師だが、実は「学生演劇の女王」だったという設定である。誰がやるか難しいキャスティングだけど、黒木華(はる)がやっている。やはりうまいとは思うんだけど、一番最初の場面で「神が舞い降りた」というほどの劇的な印象は僕は受けなかった。というか、原作にはそういう部分はなくて、そっちの方がリアルだろう。まあ、そういう点を細かく挙げていっても仕方ないんだけど、実は一番大事なところだと思う「県大会に向けて台本を書き直す場面」が映画にない。国語の先生の「二十億光年の孤独」(谷川俊太郎)の授業で相対性理論を取り上げるところはある。だけど、そこから書き直しのアイディアを得て、感動的なラストに向かうシーンがない。まあ仕方ない。原作を読みましょう。
もっとも、あれだけのことから高校生が作り出すという原作の設定は無理があると思う。本職の劇作家である平田オリザが書くからできるのである。だけど、僕はここで「いま、『銀河鉄道の夜』を読むこと」の重大性を改めて感じ取ることができた。日本で、世界で、多くの災害、テロ、戦争などで大切な人を失った人が無数に生まれていく。一度死んだら不可逆で、元に戻せない。そのことは判っているけど、この大きな喪失感をどうすればいいのか。2012年に出版された原作は、つまり2011年の演劇部の活動を描いているということで、「3・11」を高校生としてどう受け止めるかという問題意識があるのだと受け止めた。大切な友人を失い、銀河の果てまで共に行っても元の世界には共に戻れない。そんな中で、ジョバンニは、つまり僕たちはどう生きていけるのか。これが感動的なセリフで示されるが、それが映画では判りにくい。これも是非原作で。
「映画の中の学校」という観点からは、原作以上に学校のシステム的な部分の抜けが大きい。思い付き的に「東京合宿」なんかできないと思うし、顧問、副顧問の仕事もあいまい。地区大会も一日では終わらないし、自分たちが出ない日は仕事の割り振りがある。受付とか、(審査員の先生への)お茶出しとか。この映画を見てると、大会で演技するだけに見えてしまうけど、当然運営の仕事もある。一方、映画ならではだと思ったのは、演劇というのは「全部を見ることが不可能」で、演技してれば自分では見られないし、舞台監督してれば照明や音響を見てられない。そういう役割分担があって演劇が成り立つわけだが、映画なら各部門をパッパッと見せることができるわけである。そうだそうだ、と見ていて思ったところである。また映画には出てこないが、進路と部活との関係が特に演劇部には大きい。大学の推薦入試と大会(あるいは学校の文化祭)の日程がかぶりやすいのである。では、この演劇部の彼女たちはどうしたかも是非原作で。
と原作のことばかり書いてる感じだけど、映画は映画でもちろん面白い。大体原作はどこかと思うと、大分読んで群馬県だと判るが、映画は静岡県を最初から明示している。富士山もよく出てくる。東京に近いことが条件になっているが、でも東京にちょっと臆するところもあるという微妙なムードが必要。北関東と東海とどっちがいいのかは判らないが。監督の本広克行は「踊る大捜査線」シリーズをテレビでも映画でも手がけた人で、それ以外の映画もけっこう撮っている(「サトラレ」「UDON」など)けど、この映画が一番いいだろう。学校が出てきて、発声練習やってるだけで、なんだか心に訴えてくる。「櫻の園」(吉田秋生原作、中原俊監督)や「桐島、部活やめるってよ」「楽隊のうさぎ」なんかのような「部活動を舞台にした人間ドラマ」ではなく、演劇部の大会に向けた活動そのものを描いた、ある意味「純粋な部活映画」。
ここでは是枝監督作品の空気人形を見るとファンタジックなペ・ドウナ主演で見終わってから短い漫画を読んだがこれが、また面白い!最新作の猫街diaryは触りを原作コミックで読んでから見たので映像処理のツボというか省略・簡略化と飛躍の業が垣間見ることができた。ロベルト・ロッセリーニ監督作品ではないが、映画編集では如何に観客に想像させるかー、そこに映画のダイナミズムがあるように思う。TVの連続 ドラマでの描き方との違いもあるだろう。今回はコミカルだが小津安二郎監督へのオマージュも感じられて日常の中の死生感などを4人の娘たちを通じて淡々と切り取っていた。ウッデイ・アレン監督のインテリアを思わせる海辺の家のシーンもあったー。